JR予讃線:鬼無 ( きなし ) 駅のホームには、桃太郎電鉄の石像。

 

 

    

 

鬼無駅に近くに熊野神社が鎮座されており、「熊野権現の鬼退治

という伝承があります。

鬼無 ( きなし ) という地名は、熊野権現の鬼退治によって、鬼が

居なくなったことから付けられています。

 

高松市の周辺にある、岡山県の犬島、綾南町の陶(すえ)の猿王( さるおう )、

高松市の雉ヶ谷、という土地に住んでいた人達が桃太郎に従った犬・猿・雉の

モデルとされ、

熊野権現の鬼退治が桃太郎の話の元になった 

とういう主張を、昭和初期に某氏が新聞で発表しています。

 

熊野権現の境内には、江戸時代と思われる石塔が建てられ

桃太郎の墓 などと看板が建てられていますけど...

 

讃岐国一之宮の田村神社は

讃岐の鬼退治は、大吉備津彦命の子供の吉備津彦命が行った。」

と説明しておられます。

つまり、「桃太郎の元の話」として全国的に有名な

「岡山の大吉備津彦命が温羅を退治した話」 の写しが、

讃岐の 「吉備津彦の鬼退治」 である、ということです。

 

桃太郎神社とも呼ばれる熊野神社の参道には「 熊野権現の鬼退治

と書かれています。

 

犬・猿・雉は、昔から人に近い動物であり、これらの名が土地に付けられる

ということは、珍しいことではありませんから、近く ( といってもかなり遠いが )

に犬・猿・雉の地名があることが、桃太郎の舞台の根拠にはなりません。

 

しかし今では、桃太郎の鬼退治は高松が舞台、という説はすっかり高松に

根づいています。

 

そんな説、私は聞きたくない。

なぜなら、新入社員だった頃、高松出身の先輩から、

桃太郎は高松が舞台

と、嫌ほど聞かされたから。

 

今、その先輩と飲むことは滅多に無いですが、今でも酒を飲むと

桃太郎は高松が舞台

と言ってます。

 

まあ、その鬱憤をBlogで晴らしても、仕方がないのですけどね。

因みに、陶の猿王という地名は、讃岐の英雄:讃留霊王 ( さるれお ) の

後裔が住んだ場所であり、「さるれお」が「猿王」に転訛したものです。

 

岩田神社は、鬼無駅から南東へ500mです。

 

赤マーク 岩田神社

青マーク 桃太郎神社と呼ばれている熊野神社

 

 

 

鎮座地:高松市飯田町511番地

 

 

安政五年に奉納された狛犬。

 

    

 

 

 

    

 

神門をくぐった左に藤棚。

 

 

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この藤は通称「 孔雀藤 と呼ばれており、春五月には最大2mにもなる

紫色の花房を多数付ける、香川県有数の名木である。

 

                              ( 境内説明文 )

 

藤棚の奥に境内社が鎮座されます。

左から天満神社、金刀比羅神社。

 

 

右に手水舎、久斯 ( くし ) 神社。

 

 

 

手水舎の隣に境内社。 厳玉神社。

 

 

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厳玉神社は、昭和八年十月、現在の弦打小学校校庭の一隅に忠魂社

として建立されていましたが、昭和二十年この地に移転修築されたもので

あります。

 

御祭神は郷土弦打を今日の姿にまで発展させるに力を尽くされた日露戦争

から太平洋戦争に至る戦役で一身を祖国に奉げられた百五十九柱の英霊が

合祀されております。

 

建立当時、神さびて荘厳であったお社も、風雪五十年その尊厳を維持する

ことが難しいまでに老朽化しましたので、この度、地区住民各位の誠心を

結集して改築したものであります。

 

ここに経緯を記して後世に伝え、多くの人々が厳玉神社の尊霊に対して

永く敬虔の誠を奉げられんことを願うものであります。

 

平成七年十二月吉日

 

                                        ( 碑文 )

 

 

 

旧社格は郷社。

 

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御祭神 應神天皇

      仲哀天皇

      長帯比売命 神功皇后

 

由緒

 

治承二年 ( 紀元1838年 ) 8月の創祀。

古くは飯田郷( 鶴市、郷東、飯田、檀紙 ) 四ヶ村の産土神にして

現今の檀紙村大字御厩も亦氏子たりしこと明なり。

社領二石二斗ありて国守松平氏の寄進する所とす。

 

崇徳天皇当国綾松山に遷らせ給ひし時、唐渡左門雅基従ひて当国に

来る。雅基の先は後漢霊帝四世の孫高貴王なり。

高貴王丹波国に移り、其の裔康頼丹波宿禰の姓を賜ひ医博士となり、

子孫世々典薬頭たり。故を以て雅基崇徳天皇に従ひて讃岐に来る。

 

天皇崩御の後、雅基の子助左衛門尉信宗飯田郷に移住し当社を創立す。

勧請導師は長尾郷寶蔵院朝算なり。 信宗が宅址今猶飯田にあり。

 

建仁元年、二年 ( 1201年 1202年 )、承応元年 ( 1652年 )、

正安二年 (1300年 )、貞和五年 ( 1349年 ) 社殿の修造あり。

貞治二年 ( 1363年 ) 三月五日細川頼之参拝して親しく奉幣せり。

応永十年 ( 1403年 ) 八月修造ありしが、応仁元年 ( 1467年 ) 兵火に罹り、

同二年再建す。

 

天文十九年十一月二十日火災ありて本殿、拝殿等焼失せしが、祠前の大藤は

その災を免る。 この藤樹飯田の藤とて名あり。

天文二十一年二月飯田領主飯田主水願主となりて再建し、同年九月西坊を

建立して社僧となす。(西坊は寛永元年蓮香寺と改称す)

 

明治五年一月郷社に列せられ、大正二年九月二十日神饌幣帛料供進神社に

指定さる。昭和六年三月三日御鎮座七百五十年祭を執行せり。

 

                               ( 香川県神社誌 )

 

拝殿に向かって右前に神馬。

 

 

拝殿に向かって左前に七福神社。

 

 

拝殿に向かって右に讃岐宮 ( 護国神社 )。

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

岩田神社から北東へ800mのところに、境外末社の大暮神社が

鎮座されます。

 

赤マーク 岩田神社

青マーク 大暮神社

 

 

 

 

この墓の上に鎮座されているのが大暮神社。

 

 

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祭神 神櫛別命、大国主命、少彦名命

 

明治五年の創祀なり。

古老の口碑によれば、当地は往古より王墓または王暮と称し、丘陵の地形を為し

神櫛王の後裔の古墳の由を伝ふ。

 

字名大暮は王暮の転訛にして、丘陵は王墓と称せられ、方水を廻らし車塚と

なりえたるも、跡地を埋めて耕地となせり。

明治五年村民相譲り王墓の地に祠を建てて、この散柱を祀るとなり。

 

                                      ( 香川県神社誌 )

以上。