鎮座地:大阪府和泉市福瀬町191

 

 

 

    

 

昭和五十五年十月に奉納された狛犬。

他には見ない個性的なデザインです。

 

    

 

    

 

向かって左の狛犬の後方に御神木が聳えています。

 

 

割り拝殿。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

福瀬戎神社の由来

 

当戎神社は、その祭神大国主の御子事代主命併せ八王子神にして、

八王子神社と称せられ、慶応四年辰六月八王子神社帳によれば、その社殿

縦三十六間、横十六間三尺、平地境内五百九十四坪にして神社御供田と

して字東作に下田八畝歩御高一石四斗とあり、この社殿境内御供田に

ついては、度々の検地の際、何れも徐地として特別の扱いがなされている事

からみて、神社創建は今から凡そ一千二百数十年前、霊亀年間祭祀料

として和泉を献じたと云うから、その当時この神を祀ったのだとも伝えられて

いる。

 

現存の古記録によれば、今の社殿後陽成天皇の慶長十六年豊臣秀吉公

の命により、片桐氏正且元が検地総奉行として検地をなしたる時、御朱印地

となし、神社を崇拝なさしめ、神事として毎年宮の月の行事として神子湯浴び

の行事を行い、村中の祭典として参拝せしめたとの事である。

 

その後、延宝七年三月八日、徳川幕府の銘により、岡部内膳正の検地

総奉行として宮崎清兵衛佐々木甚佐衛門兵衛以下四名がこれに当たり、

この折にも前回同様徐地として一反九畝二十四歩等が記録に残されている。

 

この様に徐地並に御供田としての特別の扱いをうけ来ったのであるが、前記

の如く慶応四年六月御地頭様よりの御改めによって以来、神主を相定め、

その祭典を福瀬村中に於いてするとの定書が座講中及小堂寺住持実盛庄屋

との間に取り交わされている。

 

その後更に明治八年御一新の際の宮改めにより戎神社となり、毎年一月

十日を祭典日と定め、一年中の幸福と一家繁栄の祈願を行い来ったので

あるが、創建当時より福の神としてあまねく崇拝せられ、年中の福を

授からんものと遠近の人々数多く押し寄せて瀬をなしたるため、福瀬と

名付けたのが現在の町名となったともいわれている。

 

ついで明治四十一年一月西園寺内閣当時の神社合併の際、下之宮八坂神社

境内に遷宮せられたのであるが、戎社の祭典は福瀬部落担当して取り行い、

福の餅行列もなし来ったのであった。

 

昭和二十一年旧横山村東西の氏神八坂・男乃宇刀の二社合併、

八坂神社廃社となるに際し、境内に合祀されいたる戎神社の祭神は、当時の

部落永山抱清一郎副部落長藤原良平等に捧持せられて現在の地に復帰した

のである。

 

かくの如く幾星霜の年月の間多武重なる変遷をみたのであるが、今や最も

由緒のある当福瀬の地にあって、年々盛大なる祭典を続け執り行いつつ

ある事は、まことに意義深きものである。

 

茲に後代のためにその由来を記しおくものである。

尚、この文は山抱清一郎・小路山丒松両氏の調査で作成したものである。

 

昭和四十一年一月十日 福瀬戎神社 当時町開帳 中林恒明

 

                                      (境内説明文)

 

大国主命の御子神である事代主命と、素戔嗚尊の御子息である八王子神

を祀る神社としてスタート

明治の一村一社の合祀令によって八坂神社の境内社として遷宮され、

八坂神社が男乃宇刀神社の合祀となって廃社となった際に、福瀬戎神社は

現在地に遷座された、という内容です。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

和泉市のマンホールには、鮎とカワセミが描かれています。

 

 

坪井八幡神社は、岸和田ICから南東へ4㎞の住宅街に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:大阪府和泉市坪井町276

 

住宅地の中でひときわ目立つ御神木。

 

 

駐車場からの眺め。

 

 

 

奉納年月は読めませんでした。江戸時代末期と思われます。

 

    

 

社殿に置かれていた狛犬。

 

    

 

神社の説明文は有りませんでした。

本殿に向かって左前に御神木が聳えています。

 

 

 

本殿からの眺め。

 

 

本殿の玉垣に向かって左前に境内社が鎮座されます。

 

 

左から、秋葉社、九頭神社、久々乃●●神。

 

 

 

 

以上。

春日神社は、南海電鉄:泉中央駅から南へ3.5㎞のところに鎮座されます。

 

 

 

 

鎮座地 和泉市春木町615番地

 

 

 

右に明治四年十一月に奉納された狛犬。

 

    

 

右に手水舎。

 

 

たくさんの盃状穴が彫られています。

φ5~6cmほどの盃状穴が沢山彫られています。

正面に彫られた盃状穴。

 

 

後方に彫られた盃状穴。正面とは反対方向から撮影しています。

 

 

左に社殿が並びます。中央が春日神社。

 

 

春日神社に対面する位置に2つ目の手水舎。

 

 

 

春日神社。

 

 

 

弘文五年(1848)に奉納された狛犬。

 

    

 

 

嘉永二(1848、弘文と年は一緒)年二月に奉納された狛犬。

 

    

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

御祭神 武甕槌命

      経津主命

      天児屋根命

      比売大神

      恵美須大神

 

御由緒

 

当社は称徳天皇神護慶雲二年に、鹿島明神を常陸国より大和国三笠山に

遷座の途次、当春木庄に暫らく駐輿されたのを機会に、当庄の住人で

あった藤原氏が、当所に社殿を設けて春日大神を鎮座したのが始めである。 

 

尚古来には神宮寺も在り、空海上人も籠居したことがある冬堂もあり、

当地方最も神威顕著で、建武の朝後醍醐天皇より、正一位四所明神の

御勅額を同松尾春日神社に下賜された。

 

古来より南北松尾庄の総社として、明治四十一年十月各神社合祀され、

同四十二年八月神饌幣帛料供進社に指定された。 

昭和四十四年十一月御鎮座一二〇〇年祭を執行した。 

摂社に若宮八幡神社(品陀別尊=元物部布留神社)、国神社(大国主神)、

八雲神社(須佐男神)がある

 

                                 (大阪府神社銘鑑)

 

 

拝殿に向かって左に戎神社が鎮座されます。

 

 

拝殿に向かって右に九頭神神社が鎮座されます。御祭神は不明。

九頭神神社は九頭龍神社のなのかもしれません。

 

 

    

 

その右に、行為棒大師冬籠遺跡の碑があります。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

弘法大師空海は、平安時代初期の僧であり、真言宗の開祖です。

唐の都、長安に留学され青龍寺の恵果(えいか)に学び、期朝して高野山

金剛峰寺を開かれた。

後に大僧都に任命されるこの高僧は、日本各地に様々な伝説を残している。

 

古来、当社には役の小角(えんのおづぬ)が開基といわれる医王山宗福寺と

いう神宮寺(寺に付属して建てられた寺院)がありました。

 

唐から帰朝した空海上人は、大同二年(807年)和泉国槙尾山施福寺に

移られる。

その後大同三年(808年)冬、この宗福寺に移られて一冬を過ごされた後は

この縁に因んだ後はこの縁に因んで「冬堂」と称されるようになった。

 

この伝説は現在まで伝えられ、旧参道に架かる冬堂橋に今も名を遺す。

伝説の真偽は不明だが、文永二年(1265年)の銘のある冬堂の梵鐘が

現在もかつらぎまあ地にある北辰妙見神社に現存している。

 

                                     (境内説明文)

 

 

以上。

西葛城神社(赤マーク)は、水間鉄道水間(最終駅)から南東へ1.2㎞

のところに在ります。水間観音(青マーク)からだと東へ1㎞です。

 

 

 

鎮座地 大阪府貝塚市木積2273

 

 

拝殿に前には、枯れた御神木。

 

 

左の御神木には、仏像が納められています。

 

 

文久三年に奉納された狛犬。

 

    

 

割拝殿。

 

 

ちょっと変わったお賽銭箱です。

 

 

 

左から、楠神社、西葛城神社。

 

 

 

楠木神社は千鳥破風と軒唐破風、西葛城神社は千鳥破風が3つ

作られています。

 

 

奉納年月不明の狛犬、江戸末期とおもわれます。

 

    

 

---

 

御祭神 素戔嗚命  ( すさのおのみこと )

    大己貴命  ( おおなむちのみこと )

    山比咩命  ( はくさんひめのみこと )

    菅原道真公 ( すがわらのみちざねこう )

    楠木正成公 ( くすのきまさしげこう )

 

由緒

 

和泉葛城山山頂を仰ぐ木積の里、村北の高台に当社は鎮座しています。

この一帯を 西葛城 と呼んでおります。

この地区は古くから杣人 ( そまびと、植林等の山仕事をする人 ) の村で、

四天王寺建立の木材はこの地区から出したと言われております。

 

当社には 「 西葛城神社 楠神社 という二つの名称があります。

西葛城神社は、1910年に旧西葛城村の各大字の神社を、木積村にありました

深谷神社に合祀され、名称も 西葛城神社 と改めました。

 

深谷神社は、西暦726年に創建された 「 木積観音寺 」 の鎮守として

祀られており、西暦1010年に再建の記録があります。

 

現在の鎮座地は、元々楠神社の地でありまして、明治の合祀の際、

楠大明神は別格社の為そのままになっておりましたが、本社が1917年に

台風で損壊したため、当時の鎮座地、孝恩寺境内=国宝 釘無堂の隣接地

より、旧白山権現社の御社を流用して移築。

 

本殿、相殿として祀られています。

楠神社は、1364年に木積の地にあった蛇谷城の城主松浦氏によって創建

されました。

松浦氏は、野田城 ( 旧岸和田城 ) 和田新兵衛高家の家老格にあって

和田氏 ( にぎたし ) は楠木正成の甥にあたります。

 

貞治三年の 楠正成三十年忌 に木積村の片山地区に楠正成を悼み

楠大明神を創建したと記録されています。

 

神社の鳥居前の道は、左記の蛇谷城、野田城を結ぶ連絡道になっていて、

急で狭い道から 城の坂、じょのさか と呼ばれております。

当時、松浦氏には跡継ぎが無く、この楠大明神に祈願したところ男の子が

産まれたとの伝承から、子授けの神として知られており、江戸時代には

遠く兵庫や新宮あたりからも参詣者があったようです。

 

                                 ( 大阪府神社銘鑑 )

 

西葛城神社本殿は江戸末期の再建で、今建てようとすると1億5千万円

かかると宮司がおっしゃってました。

3つの千鳥破風が作られているのは、素戔嗚命大己貴命、白山比咩命

の三柱が祀られているからなのではないか、と宮司はおっしゃってました。

ということは、菅原道真公は楠神社に合ということなのでしょう。

 

本殿の蟇股と脇障子。

 

 

 

    

 

楠神社は楠木神社です。

前に楠木の御神木が聳えていますので、楠の御霊を祀ったものと勘違い

しました。

 

 

 

楠木神社は20年ほど前に再建され、3500万円かかったとのことでした。

蟇股は再建以前の社殿の物を引き続いて使っています。

現在では作ることが出来ないレベルだそうです。

 

 

 

 

社殿には小さな狛犬が置かれています。

 

    

 

西葛城神社に向かって左から、八幡神社、御社名不明。

 

 

社殿からの眺め。

 

 

以上。

西条市のマンホールには、カワセミ、桜、松が描かれています。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

本デザインは、1993年に「水の都西条」を象徴するものとして公募し、

最優秀作品として西条市のマンホール蓋デザインに採用されました。

羽色が鮮やかで、翡翠(ひすい)のような体色から飛ぶ宝石ともいわれる

カワセミが、加茂川の流れの中で羽を休め、黒松や桜並木を眺めている

ところを表現しています。

正岡子規の句にも「川せみの ねらい誤る (にごり)かな」とあるように、

自然環境が破壊されるとカワセミは生きていけません。

そんなカワセミが生息できる清流を、下水道事業が守っています。

本デザイン蓋は、JR伊予西条駅駅前広場の東西にそれぞれに1枚ずつ

設置してあります。

 

                             (マンホーカードの説明文)

 

西条市には3000を越える「打ち抜き」(伏流水が出てくる泉)があり、

水道水にも伏流水が使われている水の豊かな土地です。

打ち抜きの清水はおいしく、美しく、必見です。

 

福岡八幡宮は、JR予讃線:伊予小松駅から西へ6㎞のところに鎮座

されます。

別格二十箇所霊場第十一番 生木(いきき)地蔵のすぐ隣りです。

 

 

 

鎮座地:愛媛県西条市丹原町今井5

 

 

 

左に手水鉢。

 

 

 

 

奉納年月不明の狛犬。

 

    

 

狛犬に向かって左に境内社が鎮座されます。御社名不明。

 

 

 

    

 

石段に向かって左に、忠魂碑が建立されています。

 

 

 

石段の途中、左に、石段とは反対方向に向いて鎮坐される弁天社。

 

 

石段を登り切ったところに広場があり、境内社が鎮座されます。

御社名は書かれていましたが、読めませんでした。

 

 

 

境内社から眺めた拝殿。

 

 

 

愛媛県神社庁HPの記事を転載します。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

神社名 福岡八幡神社 ふくおかはちまんじんじゃ

主祭神 玉依姫命  (たまよりひめのみこと)

      誉田別命  (ほむだわけのみこと)

      氣長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)

 

神社由緒

 

上代に添神として鎮祭し、周敷一円の神であった。

後に岩清水八幡宮の別宮を併祀して武門武将の崇敬を受ける。

源頼朝は神領を認め、豊臣秀吉は守護不入の聖地と定めた。

その後、松山藩主は代々に亘り周敷一の宮として祭祀の費用を代官所で

賄った。

明治4年郷社に列格する。

 

鎮座地西条市丹原町今井1

 

 

 

社殿に向かって左に境内社が鎮座されます。

手前の境内社あ御社名不明、奥は稲荷神社。

 

 

 

稲荷神社は、享保年中(1725年頃)、松山藩の松平定英の命により、

福岡八幡宮宮司越智備後守が伏見大社より勧請されています。

 

社殿に向かって右に境内社が鎮座されます。

左から、和霊神社、河野神社、荒神社、疱瘡神社、三穂神社。

 

 

隣に、八坂神社、神ノ木神社が鎮座されます。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

以上。

別宮大山祇神社は、JR予讃線:今治駅から北へ600mのところに鎮座

されます。

四国八十八箇所五十五番 南光坊のすぐ隣です。

 

 

鎮座地:愛媛県今治市別宮町3丁目6-1

 

 

    

 

文政十三年四月に奉納された狛犬。

 

    

 

鳥居をくぐった右に、奈良原神社が鎮座されます。

 

 

明治二十九年九月に奉納された狛犬。

 

    

 

手水鉢。

 

 

 

境内に説明文は無いのですが、今治と松山の市境にある楢原山に鎮座

される奈良原神社から勧請されたお社と思われます。

楢原山に鎮座される奈良原神社の記事を愛媛県神社庁HPから転載

します。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

奈良原(ならばら)神社

 

主祭神

伊佐奈伎命(いざなぎのみこと)

宇気母知命(うけもちのみこと)

 

神社由緒

 

持統天皇4年4月、国司小千宿禰玉興が優婆塞役小角を大和の葛城山より

迎えて当地を開いたとき、高山に伊佐奈伎、宇気母知、大山積、

予母都事解男の各神を奉斎したのに始まるという。

 

文武天皇大宝元年に神護別当蓮華寺清浄院を勅願で此の山に建立の後、

南北朝の末に長慶天皇が当山に御潜匿あったのにより同天皇の御霊を

合祀した。

 

明治4年10月に末社となり、同42年に臍緒神社、門脇神社、大己貴、

今宮天王、駒越一ノ郷、二ノ郷を合祀した。

昭和2年12月本殿改築、独立峰の為、風雪の被害甚だしく平成13年10月

再び本殿改築。

昭和9年8月境内山頂にて雨乞い祭の際、多宝塔型経筒以下42点の発掘。

発掘品の品々は、玉川近代美術館にて拝観可

 

銅宝塔一基、銅経筒一口、銅鏡五面、檜扇二柄、青白磁盒子二合、

金銅笄一本刀子一括 (以上国宝指定)

銅鈴五口、鉄鈴一口、鰐口一口、銅銭一括、甕三口 (以上重要文化財指定)

 

神社鎮座地 今治市玉川町木地字上之成己709番地

 

青マーク 奈良原神社 (別宮大山祇神社 境内社)

赤マーク 奈良原神社 (楢山)

 

 

 

大山祇神社へ。

 

左に手水舎。

 

 

 

 

愛媛県神社庁HPの記事を転載します。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

別宮大山祇神社

 

神社主祭神 大山積大神(おほやまつみおおかみ)

 

神社由緒

 

和銅年(712)大領の越智玉澄公により、伊予一ノ宮、大山祇神社の

地御前として勧請創建され、その別宮として、神殿はじめ各建造物等、

本社に異ならず壮観だった。(豫陽盛衰記)

 

遠くは、元亨年(1322)の兵乱に、近くは昭和20年の空襲に災火に

罹ったが、創建以来「別宮さん」として人々の崇敬篤く現在に至っている。

因みに、拝殿は、天正年(1575)来島城主の村上三郎九郎越智通総

が再建し奉った(棟札)もので、当地方唯一の純和様神社建築で、

県指定有形文化財である。

 

隣接の南光坊(55番札所)は、当社の供僧八坊の内の一坊。

古くは弘法大師、正応年(1289)には、一遍上人が、当社を参詣された

こと、当社が番外札所とされていること等に相まって両所参りが習わしで

ある。

境内の大楠は、樹齢350年以上と推定されている。

 

 

 

説明文にあったクスノキです。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

市指定天然記念物 クスノキ 

 

目通り370㎝、樹高17m、樹齢300年以上、県指定天然記念物玉澄の

大楠に次ぐ大木である。

 

昭和二十年八月の空襲で、市街はほとんど焼失。

焔は境内を包み、本殿・拝殿をはじめ社叢も多く焼けた中で、幸いにこの

大クスは焼失をまぬがれた。

 

幹を見上げると無惨な空襲による焼け跡があり、空襲のすさまじさを記録

している。

再起した大クスは信仰の木となり、市民に親しまれている。

今治市には名木や街路樹にクスが多いところから、市の木は大クスと

なっている。

 

昭和四十九年七月六日指定 今治市教育委員会

                                      (境内説明文)

 

社殿に向かって右に境内社が鎮座されます。

右から、三宝荒神社。

 

 

稲荷神社。

 

 

 

昭和十一年三月に奉納された神狐。

 

    

 

楠が祀られています。御社名不明。

 

 

その後方に阿奈婆(あなば)神社が鎮座されます。

 

 

社殿の前に置かれた陰石と陽石。

 

    

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

阿奈婆神社由緒

 

御祭神 磐長姫大神 (いわながひめのおおかみ)

 

このお宮は、昔から「阿奈婆さん」といって親しまれているお宮で、大三島

の阿奈婆神社から勧請申し上げたお社です。

 

御祭神磐長姫大神は本社の御祭神大山祇大神のご長女にあたられ、

大変ご長命にあらせられた上、福徳円満の神様で、「長生きの神」

「福徳円満の神」としてご神徳の高い神様であります。

 

また特に「下の病」の治癒にすぐれた力をお持ちの神様として、崇敬者

の祈願報賽のため遠近より参拝する人が四時絶えません。

 

                                  (境内説明文)

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

 

紀の川市のマンホールには、粉河寺の僧兵が描かれています。

 

 

気比(けひ)神社は、JR和歌山線:粉河駅から北へ2㎞、

粉河寺から北西へ700mの処に鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:和歌山県紀の川市猪垣191番地

 

粉河寺の周辺には、粉河寺と関係の深い「粉河七社」と呼ばれる神社が

鎮座されており、気比神社はその1つです。

粉河七社:熊野神社、気比神社、産土神社、大神社、須佐神社、

       岸本神社、丹生明神社

 

 

 

 

右に手水鉢。

 

 

奉納時期不明の狛犬。

 

    

 

本殿の後方に御神木の楠木が聳えています。

4本の巨木の根が1つになっています。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

市指定文化財 建造物 気比神社 本殿一棟 

                       指定年月 平成八年二月二十二日

 

この神社は、旧猪垣村・藤井村の産土で、毎年珠王月八日に行われた

射初の式が有名であったが、現在は行われていない。

 

祭神は気鎮(けちん)神と八幡神で、そのためか本殿を二間にしている。

なお、本殿は二間社流造で、江戸時代の初頃に建てられたと思われる。

正面に見られる千鳥破風や唐破風など、各所に当時としては斬新さが

見られる。

 

                                  (境内説明文)

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

気比神社本殿

 

二間社流造(庇三間)、正面千鳥破風付、軒唐破風付、銅板葺の本殿は、

気鎮神と八幡神の二神を祀るためか、身舎を二間に分かち二座とする。

身舎蟇股などの彫刻は多彩で極彩色とし賑々しい。

17世紀後半の建立とみられる。旧藤井・猪垣村の産土社である。

 

                     (紀の川市文化財マップ パンフレット)

 

本殿に向かって左に境内社が鎮座されます。御社名不明。

 

 

本殿に向かって右に、英霊鎮魂碑があります。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

岩出市のマンホールには、市の木:ウバメガシ、市の鳥:ウグイス、

周囲に市の花:サクラが描かれています。

 

 

山崎神社は、岩出市役所から北西へ2㎞の処に鎮座されます。

 

 

 

住所:和歌山県岩出市赤垣内108

 

駐車場のすぐ近くに鳥居。

広い御神域に対して、とても小さな鳥居です。

 

 

明治四年九月に奉納された狛犬。

 

    

 

境内の横に着きました・・・やはり。

 

 

表参道へ。

 

 

 

明治期に奉納された狛犬、年が読めませんでした。

 

    

 

 

 

 

奉納時期不明の狛犬。

 

    

 

割拝殿。

 

 

    

 

祭神 大市比売命・大山津見命・須佐之男命

合祀 奥津彦命・奥津姫命・火加具土命・大年神・水波能売命・八衢彦之命

八衢姫之命・久那斗之命・誉田別命・八王子神・伊弉冊命

天児屋根命・上筒男之神・市杵嶋姫命・天照皇大神・三筒男之神

猿田彦之命・大倭姫之命・日本武命・稲背脛彦命・興玉命・

瀬織津姫命・速秋津姫命・速佐須良姫命・気吹戸主命・大雀命

栲幡千千姫命・蛭子神

本地 十一面観音・薬師如来・釈迦如来

 

『紀伊続風土記』を転載します。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

『紀伊続風土記』巻之二十八(那賀郡第二)

 

山埼荘 赤垣内村

○大市姫神社 境内周三町二十間

 本社 拝殿 庁 神楽堂

  護摩堂

 末社十社

  大神宮 住吉社 春日社

  総社明神社 諸神社 三部社

  八王子社 舟渡明神社 牛神社

蔵王権現社

 

村中南の方に在り 古は大市姫一座の神を祀る

後世素盞嗚ノ命大山祇命を合せ祀り三坐の神となせり

赤垣戸曽屋馬場中野黒木金池相谷湯窪波分尼辻金屋新在家十一箇村の

産土神なり

此の十一箇村の内波分尼辻は弘田ノ荘に属す 其の余は皆山埼ノ荘なり

然れば波分と尼辻は古は山埼ノ荘に属せしならん

 

社家相伝へて降雲大市姫ノ神社といふ

中世以来両部に祭り本地を十一面観音とす

雷除の神符を出す

荘中に雷の落ちる事なしといふ

古ヘ社領二町五段あり殿舎備りしに天正の兵火に悉ク焼亡し社領も亦

没収せらる

 

寛文記にいふ 当社に弘法大師川越の額といふあり

大師湯窪村に百日居住し当社に日参せらるゝ時大師の母刀自尋来けれは

大師これを避て川を渡て南せられしに俄に水漲りて渡りかたし

兼て額字を書すへきの約ありし故に川を隔てこれを請ふに額を立てさせて

川を隔てゝ筆を投げて市姫大明神と書されたりといひ伝う

 

この額根来乱の時焼亡す

 

その余宝物旧記此の時皆亡ふといふ

当社の事詳に考定部に出たり 神主宮本氏あり

 

別当 円福寺

                                  『紀伊続風土記』

 

 

 

 

 

 

本殿の左右に境内社が鎮座されます。

 

寿福神社。                        五十鈴神社。

 

    

 

社殿は玉垣で囲まれています。

向かって左に境内社が鎮座されます。

 

 

手前から、牛神社。

 

 

 

左から、琴平神社、八坂神社。

 

 

稲荷神社。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。

西田中神社は、JR和歌山線:下井阪駅から南東へ800mのところに鎮座

されます。

 

 

 

鎮座地:和歌山県紀の川市中井阪353

 

 

    

 

鳥居をくぐった右に手水舎。

 

 

割拝殿。

 

 

平成六年十月に奉納された狛犬。

 

    

 

向かって左に羊の宮、右に若宮八幡宮が鎮座されます。

 

    

 

    

 

羊の宮の脇障子。

 

    

 

若宮八幡宮 の脇障子。

 

    

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

県指定文化財(建造物)  昭和四十八年五月十六日指定

西田中神社本殿二棟

 

この神社は、もと羊の宮神社と呼ばれていた昭和21年(1946)に尾崎

(400m)にあった若宮八幡宮本殿が、移築合祀され、西田中神社と改め

られた。

 

旧羊の宮本殿(向かって左側)は、様式上から室町時代末期の建立と推定

され一間社隅木入春日造りで装飾彫刻が多くかつすぐれている

ことに向拝の木鼻が鯱の形をしているのが珍しい

 

旧八幡神社本殿(向かって右側)は、宝珠に寛永12年(1635)の刻名が

り、建立年代がはっきりしていることや二間社流造りの形式も例が少ない

ことなどから貴重なものである。

 

                                     (境内説明文)

 

絵馬の種類がとても多いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

拝殿には過去の絵馬が掲げられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

拝殿からの眺め。

 

以上。

鞆渕八幡神社は、高野山から西へ12㎞ほどのところに鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:和歌山県紀の川市中鞆渕58

 

 

 

紀州の青石。

 

 

参道の途中に三本杉のうちの「中の木」が聳えています。

 

 

 

他に「下の木」「上の木」があり、後で見ようと思っておりましたが

参拝後に忘れてしまいました。

 

 

鳥居をくぐった右に手水舎。

 

 

 

右に重要文化財の大日堂(室町時代)があります。

 

 

御本尊の大日如来。参拝の栞から転載。

 

 

左に、御輿(国宝)を収めた神輿庫、神楽殿があります。

 

 

参拝の栞から転載。

 

 

 

 

割拝殿。

 

 

本殿は重要文化財 (室町時代)。

 

 

参拝の栞を転載します。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

由緒

 

鞆淵八幡神社の歴史は古く、平安時代の寛弘五年(1008)には、すでに京都

の石清水八幡宮の薗となっており、その別宮として建立されたと思われる。

薗はその後、荘園と名を変える。

 

鎌倉時代の安貞二年(1228)には石清水八幡宮から御輿が送られている。

平安期に造られた華美を極めた当時の最高傑作で、御輿には奉送目録が

つけられていて来歴が明らかであり、現存する最古の御輿として国宝に指定

されている。

 

鞆淵出身の鶴千代姫にまつわる物語と共に、現在も人々に親しまれ大切に

保存されている。

元弘三年(1333)後醍醐天皇の勅裁により、鞆淵荘は高野山領となる。

しかし、農民らは地元の荘官である下司や公文さらに領主高野山に度々

激しい斗争を行った。

 

室町から南北朝時代にかけて鞆淵の荘民らは惣として結束をかため、農民

として成長してゆくのである。

 

八幡神社は、農民らが寄り合い相談をする場となり、荘民全体の鎮守として

精神的な支柱となっていった。

室町時代から宮座が作られ、宮山や田畑の寄進も多くなった。

祭礼等も宮座を中心に行われ、祭の行事として猿楽や能も奉納された。

又、惣の重要な文書も神社に保管された。

 

社殿は、鎌倉時代の弘安二年(1279)に建て替えられ以後修復を経て、

現在の本殿は寛正三年(1462)に建てられたものである。

以後20~30年毎に正遷宮が行われ現在に至っている。

 

このように1000年もの歴史を持つ鞆淵八幡神社は地元の人々の

精神的な結びつきの中心として崇拝され保護されて来たものである。

 

                                     (参拝の栞)

 

説明文中の「鶴千代姫にまつわる物語」とは、

 

 鞆淵に鶴千代姫と言う美人の娘と千楠丸という兄がいた。

 2人は子供の頃から父に厳しく勉強をしつけられていた。

 ある時、勉強ができない鶴千代に対して、父が近くにあった木枕を

 投げつけて怒った。

 二つに割れた木枕の片方を持って鶴千代姫は家出をしてしまう。

 数年後、兄の千楠丸は、都で天皇に寵愛を受けている紀州出身の姫

 のうわさを知り、木枕の残りを持って都に行って宮中で姫と会った。

 木枕はぴったり合った。

 このことを聞いた天皇が鶴姫を故郷に帰し、その際に鶴姫が載った神輿

 が現在鞆渕八幡宮で所蔵する国宝の神輿である。

 

というものです。

読売テレビの情報番組「Ten」に「若一探検隊」という史跡巡りのコーナー

があり、一年ほど前に鞆淵八幡宮の紹介がされていました。

それが今回の参拝に繋がるのですが、その番組で、

 

・鞆淵一帯は石清水八幡宮の荘園だった。

・どんどん高野山金剛峯寺の支配が広がり、石清水八幡宮との争いが勃発。

・其の頃、石清水八幡宮から、高野山の影響を食い止めるために、

 関係の深さを証明する一環として鞆淵八幡宮に御輿が送られた。

 

という説明がされていました。

「参拝の栞」にも書かれていますように、御輿の来歴は明らかです。

 

→ 若一調査隊 現存日本最古!大迫力!日本最古の国宝御輿とは?

  和歌山・鞆淵八幡神社で「平安時代の御輿」と神社の魅力 

 

 

 

 

(若一調査隊は、毎回Youtubeにアップされています。)

 

本殿に向かって左には、境内社が鎮座されます。

左から、戎子神社、剣御前神社、高良神社。

 

 

拝殿からの眺め。

 

 

 

 

以上。