JR予讃線:讃岐国府駅。

かつての讃岐国の中心地でありましたが、無人駅です。

 

 

昨年の報道によれば、JR四国の無人駅は222駅、全駅の85%を

占めるそうです。

利用者が減るばかりなので、無人駅化が進むのは仕方がないことですが

交通系カードが使えるのは香川県の瀬戸内海沿岸のみ。

 

 

カード対応化のうえで無人駅化するというのが本来の順番だと思うが、

無人でも正直に切符を買って乗車する日本人は素晴らしいと思う。

しかし、それに頼る経営というのはまずいのではないだろうか?。

利用者の良心に頼らなければならないくらい、経営状況が悪いという

ことなのでしょうけど。

 

ちなみに、2024年3月期の連結決算は、最終損益が35億円の黒字

(前の期は5000万円の赤字)だったそうなので、ぜひともカード化対応

を進めていただきたいです。

 

城山 ( きやま ) 神社へ向かう途中に鼓岡神社は鎮座されます。

 

 

 

鎮座地:香川県坂出市府中町乙5116

 

鼓岡神社が鎮座される岡です。

 

 

 

内裏泉 ( だいりせん )

 

 

 

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内裏泉

 

崇徳上皇 ( 1119~1164 ) は、保元元 ( 1156 ) 年に起きた

保元の乱に敗れ、讃岐へ配流されました。

 

上皇は松山の津という港に着船し、まず林田町にある仮の御所

(雲井御所) で二年間を過ごした後、讃岐国府 (今でいう香川県庁)

に近い府中の鼓岡の御所へ移されました。

この御所はとても質素な造りであったためか、「木ノ丸殿」

呼ばれています。

 

鼓岡へ移ってからは、国府による監視が厳しいせいもあってか、

人と会うことも、外を出歩くこともほとんどなく、寂しい日々を

過ごしていたと言われています。

そうして今日の都へ帰ることも叶わないまま此の地で崩御し、白峯

に葬られました。

 

ここにある小さな井戸の跡は、その頃上皇が飲み水を得ていたと

伝えられるもので、内裏泉 ( 内裏とは天皇の住むところで、天皇自身

のことをも指します。) と呼ばれています。

 

この水はどんな旱魃の際にも枯れなかったと言われていますが、

上皇の高貴さをはばかってか、飲むと目が見えなくなるといって

里の人々は使わなかったそうです。

 

平成二十五年二月 坂出市教育委員会

                                 ( 説明文 )

 

民家の前に、上皇の御子息の塚があります。

 

 

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菊塚

 

崇徳上皇が雲井御所でお住まいになっていた際、身の回りの

世話をされていた綾高遠の息女、綾の局との間に一人の

男の子が誕生しました。

上皇は自らの名前の一字を与えて顕末と命名しました。

 

この顕末の墓が菊塚であると伝えられていて、現在は方形の

基壇の上に石が積まれた塚として残されています。

 

令和三年四月 坂出市教育委員会

                               ( 説明文 )

 

日本武尊と吉備穴戸姫の間にお生まれになったのが武卵王

( たけかいこおう、建貝児王 ) で、一部の神社では讃留霊王と

されています。

その後裔の讃岐綾の君は阿野 (あや) 郡 (坂出市や丸亀市あたり)

を治めておりました。

 

上皇の世話をされた綾氏は、武卵王の後裔です。

坂出市HPに掲載されていた、雲井御所の記事を転載します。

 

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保元の乱に敗れ,讃岐の松山の津へ着船された当時,上皇の御所が

まだ出来ていなかったため,国府に勤める当地の庁官であった綾高遠

の邸宅を仮の御所としたと伝えられています。

 

この最初の御所について,『保元物語』は,松山の御堂に入られたと伝え,

『白峯寺縁起』には,上皇は高遠の御堂にて三年を過ごされたと記されて

います。

 

この仮の御所で毎日を過ごされた上皇が詠まれた歌に,

 ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて

というものがあります。

この歌にちなんで雲井御所と呼ばれるようになったといわれています。

 

その後,天保六年(1835年)に,高松藩主松平頼恕(よりひろ)公に

よって,この雲井御所の跡地が推定され,現在の林田の地に

雲井御所之碑が建立されました。

https://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/bunkashinkou/sutokujyoukou.html

 

鼓岡神社。

 

 

 

参道の右に、「木ノ丸殿」の雰囲気を復元したとする擬古堂。

「木ノ丸殿」の復元ではありません。

 

 

拝殿へ。

 

 

 

平成九年十二月に奉納された狛犬。

 

    

 

杜鵑 ( ほととぎす ) 塚。

 

 

ホトトギスの鳴く声を聴けば、崇徳天皇が都を思い出すので、里人が

ほととぎすを殺したり追い払ったりしました。

のちにホトトギス塚をたてて供養したそうです。

 

 

 

御祭神 崇徳上皇

 

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当社地は、保元平治の昔、崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、

長寛二年( 1164年 ) 八月二十六日崩御されるまでの6年余り仙居

あそばされた聖蹟である。

 

建久二年 ( 1191年 ) 後白河上皇近侍阿闍梨章実、木の丸殿を

白峯御陵に移し跡地に之に代るべき祠を建立し、上皇の御神霊を

奉斎し奉ったのが鼓丘神社の草創と云われている。

 

伝うるに、上皇御座遊のみぎり、時鳥の声をお聴きになり、深く都を

偲ばせ給い

 

 鳴けば聞き 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす

 

と御製された。 

時鳥 上皇の意を察してか、爾来この里では不鳴になったと言われて

いる。

 

境内には、木の丸殿、懐古堂、観音堂、杜鵑 ( ほととぎす ) 塚、

鼓岡行宮址碑、鼓岡文庫などがあり、付近には内裏、泉、菊塚、

盌塚などの遺跡がある。

 

鼓岡神社

                                ( 境内説明文 )

 

坂出市には、八十場 ( 八十蘇場、やそば )、天王寺、白峯宮等、崇徳上皇

ゆかりの地がたくさんあります。

讃岐に流され8年後、刺客がやって来ると知らされた崇徳上皇は、

鼓岡を逃げ出しますが、柳田というところで捉まり崩御されます。

 

崇徳上皇の崩御は都に伝えられ、対応の指示を待ちます。

崩御されたのは8月26日。

指示が来るまで、御遺体は八十場の清水に浸されました。

その後崇徳上皇は怨霊になられました。

 

御遺体が八十場(八十甦場)の清水に浸されたのは、都の指示を待つため

ではなく、蘇生を願ったのではないだろうか?

讃留霊王に従った兵士八十名は、悪魚の邪気によって倒れましたが、

八十場 (八十蘇場) の清水を飲んで甦っています。

 

拝殿からの眺め。

 

 

以上。