本牧読書日記。三島由紀夫「金閣寺」。(新潮文庫)。

久しぶりの「文学らしい文学」で、圧倒された。先ず文章が素晴らしい。

当てずっぽうにページを開いてみよう。p80・敗戦の日の金閣寺である。

「敗戦の衝撃、民族的悲哀などというものから、金閣は超絶していた。もしくは超絶を装っていた。きのうまでの金閣はこうではなかった。とうとう空襲に焼かれなかったこと、今日からのちはもうその惧れがないこと、このことが金閣をして、再び、「昔から自分はここに居り、未來永劫ここに居るだろう」という表情を、取り戻させたのにちがいない。もっと異様なことには、金閣が折々に示した美のうちでも、この日ほど美しく見えたことはなかったのである。」。

話の本筋自体は1955年7月に焼け落ちた「金閣寺」の放火僧が主人公ということだからモデルがあり、事実関係は出来上がっている。ただそこにどのように心象風景や文学的意味合いを加味させて一個の文学作品に仕上げていくか、彫刻家が像を彫り上げていくように素材を彫琢し磨き上げていくか、が作家の腕の見せ所であり評価されるポイントなのだろう。


舞鶴近郊の貧しい寺の息子・溝口(名は出てこない)少年は幼い頃から住職の父親から「金閣寺」の素晴らしさを教え込まれており、単なる寺院建築を超えての「讚美の心象」が刻み込まれていた。

やがて、父親が若い頃一緒に修行した金閣寺(鹿苑寺)住職(老師)の元に少年修行僧として預けられ、後には大谷大学進学まで叶うこととなった。

しかしこの間の主人公はといえば、少々の希望すら持つことができず、心の中は常に鬱屈した精神と惨めな生活感のみが続いていたのである。それには極度の吃音であったことが大きい。

p6「吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐(もち)から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、彼がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。彼が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬時に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。」。

父親は亡くなり母親も寺を他人に売って引退生活。彼にはもう帰るべき故郷はない。

極度のコミュニケーション閉塞と孤独の内に沈み込む主人公の内面は非常に暗い。

そんな彼にも同年輩の友人が二人できた。しかも主人公とは対照的な二人である。

一人は主人公を陰画とすれば陽画の如く明晰な少年鶴川。東京の寺の息子で鹿苑寺に修行のために預けられたのだ。ただし彼は後に帰郷時に女性問題に悩み自殺する。

他のひとりは鶴川以上に主人公に大きな影響を及ぼす柏木。大学同級生で片足が「内翻足」のため足裏が反転したような、歩行不自由な青年である。会話をしなければ外面からはわからない吃音に比して、明らかに障害の度合いが強い。ところが柏木はそれを利用するが如くに強く生き抜いている。女性に臆するところは全くないのみならず、同情心を買うべく目の前で作為的に転倒してみせるしたたかな男である。

柏木は主人公に言う。「重要なのは「認識」である」と。自分をいかに「認識」するかで状況は反転すると…。これは後に懊悩の末に放火という「行為」に及ぶ主人公とは極めて対照的である。

ここに「認識」と「行為」という対立が本書の大きなテーマになっている事がわかる。

この二項対立はもう一つの主題「金閣寺」の姿にも顕れている。主人公の「心象」においてである。ひとつは「完全美」としての「金閣寺」であり、他はトラウマの象徴として本人の目の前に立ちはだかる「金閣寺」である。これがなんと言っても本書に一貫した主題である。

主人公の女性経験(柏木とその女友達2人との計4人のピクニックでの惨めな結果や老師から貰った学校納入学費を無断流用しての登楼など)や、老師が芸妓と遊び歩くのと出くわしてしまってからの老師との関係など、次々と主人公の混迷と窮地への陥入のプロレスが鮮やかに描かれている。

暗い話ばかりの展開の中で、老師や父親と同じ修行僧だった心の広いある老僧との一夕の、即ち一瞬の邂逅(かいこう)という、たったひとつの例外があるのだが、このエピソードの中で言及されている「臨済録示衆」の仏教思想は僕には皆目わからない。


そして遂にp312。「私は口の中で吃ってみた。一つの言葉はいつものように、まるで袋の中へ手を突っこんで探すとき、他のものにひっかかってなかなか出て来ない品物さながら、さんざん私をじらせて唇の上に現れた。私の内界の重さと濃密さは、あたかもこの今の夜のようで、言葉はその深い夜の井戸から重い釣瓶のように軋りながら昇って来る。「もうじきだ。もう少しの辛抱だ」と私は思った。「私の内界と外界との間のこの錆びついた鍵がみごとにあくのだ。内界と外界は吹き抜けになり、風はそこを自在に吹きかようようになるのだ。釣瓶はかるがると羽愽(はばた)かんばかりにあがり、すべてが広大な野の姿で私の前にひらけ、密室は滅びるのだ。……それはもう目の前にある。すれすれのところで、私の手はもう届こうとしている」」。ここからの20ページほどはまさに疾風怒濤。放火、失踪に及ぶ本人にとっての「解放」を描く見事さである。本人は山中で自殺未遂。そして遂に捕縛の身となる。


三島と最高傑作「金閣寺」については幾多の優れた評論があるようだ。

本書巻末には佐伯彰一、中村光夫による小文が付いている。実際の放火の動機は犯人自白に基づく「完全美・金閣への嫉妬」が定説のようであるが、一方三島の執筆動機については「敗戦とそれによる心の衝撃・空白」を多くの評者が指摘している。本書のニ人の評者も同様のことを記している。

三島には敗戦による価値観の転倒と戦後日本に自分を接続させようとの焦燥があった。

1925年生まれの三島は45年20歳で敗戦を迎え、50年が金閣寺炎上の年、56年「金閣寺」執筆、その後多くの作品と自衛隊入隊、ボディービル的体躯強化などの話題を残して、70年11月45歳で自刃自殺した。年号上はまことに覚えやすい。

戦中、徴兵検査で風邪を結核と誤診され兵役を免れたこと、生き残ったことに強い心の負担を感じていたとか、体格的劣等感が体躯向上の動機になったのだろうとか、戦後の一転様変りの世相・風俗に対する反発が非常に強く、右傾化に及んだとか、残された様々な憶測はほぼ当たっているのだろう。

そうした様々が小説「金閣寺」に反映されている部分は多くある。前掲のp80「敗戦と金閣寺」の短い文章にも、それらの繊細な心理の一側面が垣間見られる。

まことに「金閣寺」と戦中・敗戦・戦後の三島とは余人がその心の細かいヒダまでは解明し尽くせない迷路が存在するのである。これが「文学」というものであり「天才的文人」と彼の最高傑作との関係ということになるのだろう。

ところで、56年小説「金閣寺」完成の年、新しく建築「金閣寺」は再建立され観光の名所として再びその不動美を現した。そして同じ頃、恐らく30歳に満たない若さで犯人は獄中・病死した。

これらの時期の一致は皮肉と言えるものだ。「美と劣等感」の対比の形式そのままである。

ここでは図らずも「二項対立」が成立しており、小説「金閣寺」の余録になっている。

そんな感じが僕にはするのである。


最後に「僕と金閣寺」の余録を二つ記す。

①70年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島は「天皇陛下万歳」を叫んで割腹自殺した。

その直前の彼はバルコニーで自衛官に向かって演説をしている。

その当日・同時刻の僕はといえば、すぐ裏の市谷加賀町の本社で何も知らず「今日は妙にヘリコプターが飛び回っているな」と思った位で仕事に集中していた。三島と僕、両者の直線距離は500mを越えないであろう。台地の上のバルコニーと、やや低地の本社ビル7階の会社人事部事務室とは恐らく同じ高さの目線にあったのではないだろうか。それ以前の僕は学生時代に「潮騒」を読んだだけで三島とは無縁であった。そして事件後も同様に無縁・無関心であった。それから53年、小説「金閣寺」に出会った。

しかし今後も無縁で彼の他の作品を読むことはないであろう。

②83~87年勤務した京都の事業部は右京区太秦で「金閣寺」は割合に近い場所にあった。

高卒女性新入社員で金閣寺近隣に住む部員がいたので金閣寺にはよく行くのか?と聞いたところ「小学校授業で一度入っただけです」との回答であった。京都市民にとっての観光寺はそんなものなのだろう。彼女については「家族・会社見学会」で会った母親の印象が強い。病弱の夫を支えて西陣の高級着物仕上り品質最終チェックのプロであった。「特に黒の正式和服の染めムラ・チェックには細心の注意で臨む」と、話す態度には本当の京都人・職業プロの厳しさを感じ、今でも記憶に残る。


次回はずっと気が抜ける本牧ゆかりの「山本周五郎の記憶」といたします。