本牧徒然雑記。山本周五郎記念事業団制作「山本周五郎の記憶」・横浜の光と影を愛した文豪。

本書は作家山本周五郎が終戦直後からその死(67年・63歳)までの20年以上を住み続けたゆかりの地・本牧、特に「本牧元町」の有志諸氏がプロ・ライターの助力を得て制作した地元誌である。

終戦の年1945年、周五郎の妻・きよえは2男2女を残して36歳で死去。その2年前に「日本婦道記」直木賞受賞(本人辞退)位しか実績のない42歳の周五郎は困窮の身となった。翌年吉村きんと再婚、住んでいた大田区馬込から付き合いのあった装丁家・秋朱之助の勧めに従い秋の住む横浜市中区本牧元町に転居した。秋は自宅の隣の空き家に周五郎一家を住まわせ自宅の離れを仕事場に提供した。

彼は物のない時代お互いに助け合い、周五郎の執筆活動の強い支援者となったのである。

周五郎はその後近くの旅館「間門園」に仕事場を移し、ほとんどをそちらに常住する形で「柳橋物語」「樅ノ木は残った」「赤ひげ診療譚」「五瓣の椿」「青べか物語」「虚空遍歴」「季節のない街」「さぶ」等、そして多くの短編を残し、深酒による肝炎と心臓衰弱で仕事場で倒れ他界した。


本書制作チームの中心者は秋の娘・大久保文香氏(82歳)である。

子供の頃の彼女は周五郎に親しく可愛がられ教えられて育った。又、仕事場が移ってからも毎日そこへ食事類を運び込む姿が近隣では有名だったきん夫人とも親しかった。

だからこの由縁の地に何の周五郎記念がないのは実に寂しいことだと発起人になって、昨年バス停「本牧」前に記念碑「本牧道しるべ」を建てた(因みに「本牧バス停」は三溪園下車バス停であり我が家の最寄りバス停でもある)。その賛同者寄金で発行したのがこの地元誌である。だからプロの手を借りたとはいえ、周五郎思慕の情が溢れかえった素人上梓そのものの本書ではある。読んでみて「読書日記」とするよりは「徒然雑記」とする方がふさわしいと思い自分の感想雑記を書くこととした。


「本牧」を冠した町は本牧1丁目から本牧間門まで本牧通りに沿って11町名ある。

その内一番海側の「本牧元町」はその名の通り江戸時代からの町。東海道・神奈川宿からはずれた海沿いの村々は横浜村、本牧村(本牧元町)、根岸村……と、半農半漁の同じような小村が続いていた。だから明治・大正以降、三之谷、間門のような文人や別荘族の町、あるいは大里町のような昭和初期の分譲地とは成り立ちが違う。まして40年前頃から返還され始めた広大な米軍占領の跡地に周到に計画設計された住宅地やショッピングセンターがある宮原、原、和田とは大違いである。

周五郎が愛した「本牧元町」は唯一古い小漁村の面影を残す。今も主要な交差点は「本牧漁業組合前」という名称の海辺の町だったのである。僕は50年位前に労組役員の親の通夜で本牧元町に弔問したことがある。集まった人々の雰囲気や葬式の様子から「本牧にこのように古い町があったのか」と驚いた。

その頃の海岸線は既に埋め立てられていたが、昭和30年代までは漁港やノリ養殖、あるいは潮干狩り・海水浴の行楽の地だったのである。さらに遡ってペリー来航の時は防備のため砲術に長けた鳥取藩が2000名程駐在し、それは村民とほぼ同数だったので水不足で各所に掘った井戸跡や、この地で亡くなった藩士の墓が残されているのも全部「本牧元町」である。


周五郎の作品の魅力は、思いやりを至上のテーマに据え、他者とのふれあいにささやかな幸せを感じて生きていく人々を温かく見守る、人の心に秘められている言うに言われない繊細な感性を共感をもって読者に押し付けではなく訴える、そうした優れた筆力であろう。周五郎がこの地に長く住んだのはきっと古い町特有の人情・情緒がそこはかとなく感じられて、それを愛したからに相違ない。

彼が横浜に住んだのは最初ではない。1903年生まれで明治36年なので本名・清水三十六(さとむ)。山梨県・初狩村が生地。4歳の時に山津波で家を失ない一家は故郷を去る。東京・王子を経て7歳で横浜市西区久保町、13歳で西前小学校卒業まで小学校時代は横浜で育った。

卒業してすぐに東京・京橋区木挽町の質店・山本周五郎商店に丁稚奉公。才能を主人に認められて可愛がられた。主人名を筆名としたのは有名な話。20歳関東大震災で周五郎商店倒産。以後文筆を生業としての貧しい生活を神戸、新橋、浦安、芝、藤沢と転々。30年27歳で結婚、馬込に住んだ。こうした前半生だったから、いかに本牧元町が気に入り充実した作品誕生の土壌となったかがはっきりと判る。


ところで僕が若干奇異に思うのは周五郎の生活実態である。

当時一、二を争う人気の大衆文学作家。その割には何と質素な生活ぶりであったことか。

豪邸でも何でもないごく普通の小住宅、しかも借家のままである。仕事場「間門園」(周五郎死後廃業)はその名から連想されるのとは違って商人宿より少しは「マシかな」の程度であったという。そこで編集者達との酒呑み付き合いの毎日。出版社から前借りをしていたのかも知れないが、あれだけ精力的な執筆活動だったのに「財産形成」には全く無頓着だったのだろうか?家族もいるというのに……。

素朴な人々や弱者に温かい作品の数々、目端のきく人間も秘めた「人情」を持っていたというストーリー展開、小悪人もユーモアで包み込む。悪人の代表みたいに言われてきた原田甲斐にはその裏にある「懊悩」を主題とする。「人間、生まれながらの本当の悪人なんていないのだ」という哲学なのだろう。

それを自らの生活態度にも反映させていたのだろうか?


以下は僕の「邪推」かも知れないとの前提で書くことをお許し戴きたい。

書名は忘れたが、周五郎が小学校卒業後すぐに奉公に出されたことについて「親に棄てられた」との恨みを持っていた、と書いてある本を読んだことがある。

県立一中に合格したのに進学が許されなかったとか、でも調べてみたらその事実はなかったとか、親がクリスチャンだったので周五郎も幼時はクリスチャンだったとか、この辺の真偽は不明であるが、周五郎は何か一抹の偏屈さとかルサンチマンの心根があったかも知れない。

だから自分に温かい眼で接してくれた店主・山本周五郎は生涯の大恩人であったのだろう。

戦前の貧しく転々とした生活を経て本牧元町で「蘇生」以上のチャンスに恵まれても、そうした「心の闇」は完全には払拭されずに残ったのか?やや奇妙な生活態度や直木賞を始め文学書はことごとく辞退したことにも、それらは顕れていたのだろうか?

本書のサブ・タイトルは「横浜の光と影を愛した文豪」だが、「光と影」は実は周五郎の心の中にあったのかとも思えてくる。「金閣寺」という絶望的な「心の闇」を描いた作品に接した直後のためか、僕はそんな思いにとらわれるのである。


自分は周五郎作品を「樅ノ木は残った」と「さぶ」しか読んだことがない。今後も読むことはないだろう。ただ妙な縁がある。周五郎にとって重要な居住地「浦安」と「本牧」が共に僕が最も長く住んだ、あるいは住みつつある場所だという奇縁である。「青べか物語」は読んだことはないけれど……。

更に縁という程ではないが、周五郎の少年時代の「久保町」も区は違うが保土ケ谷の実家のすぐ近くの町である。又横浜の次に長く住んだ馬込も僕が56年(昭31)都立小山台高校受験のため寄留したのが、第二京浜国道の信号のないところを悠々と横断できるほど閑静だった頃の大田区馬込であった。戦前には文士村があったらしい。ややコジツケだがそんなことが思い浮かぶ。

最後に「本牧元町」で付け加えることがある。女優・小山明子の出身の町であること。大島渚と結婚するまでずっとこの町で生まれ育った。原節子(保土ケ谷・月見台)草笛光子(どこか横浜中心地?)岸恵子(神奈川区・白楽?)そして小山明子(中区・本牧元町)と、古い横浜出身の美人女優にはどこか似た雰囲気があることは以前ブログに書いた。原節子は95歳で他界したが他の方々は90歳近く元気で時折TV画面で見掛ける。市民としてはまことに嬉しいことである。


次回は「5月暦絵」。中学生時代の自分史を続けます。