「鞆幕府」とゆめしまキャンプ | 新労社 おりおりの記

「鞆幕府」とゆめしまキャンプ

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東海道サイクリングの続きです。

 

今日はサイクリング2日目。たたんだ自転車を牽いて朝7時、豊橋発。先ず新幹線で目指すは広島県東端、福山市です。こだまを名古屋で降りるつもりがお盆の大混雑で諦め、新大阪でのぞみに折り換え、岡山でさくらに乗り換えてようやく10時に福山着。折から大雨です。ただすぐ止むと踏んで、10:30小雨になって福山駅から南下します。

 

(昼食を摂って11時発!)


鞆までは河岸ついで海岸を行きます。福山は芦田川が運んできた沖積平野にできた肥沃な街です。川の三角州と、遠浅な海を埋め立てて、産業の立地に不可欠な広大な平地ができたのです。古い寺は少なく、しかし立て込んでもおらずゆったりした土地の余裕があるイメージです。

 

(大河のような芦田川)

 

やや碁盤目な市街を抜けて補給し、河口に行く手前から山が迫る方向に行きます。少しすると海水浴場の浜が見えてきます。住宅もありますが、狭い浜に添って結構工場地帯になっているんですね。造船や製造業が多く、社名を見ながら西下していきます。その内工場よりも住居が増えて鞆の市街地に入ります。

 

船 鞆の街

 

鞆は海上交通の長年の主要海港。今は広島県を代表する観光地の1つです。日本史は西日本に移った政権と、京都畿内、また東の幕府と北の政権など、政権奪取の歴史ですが、東と異なり、瀬戸内海という外海より穏やかな水路が西の場合ありました。その交通拠点だったんです。

 

 

奈良時代の大伴旅人等の文化人、清盛、尊氏など権力者も来て、15代将軍、足利義昭が12年滞在したときは、曲がりなりにもここで政治を行い、室町幕府ならぬ「鞆幕府」とも言われる状況になりました。織田信長に対立する毛利氏の庇護を受けながら、元亀天正の戦国の世でしたが、ここから群臣とともに文書を発して政治を続けたのです。

 

義昭は信長に追放された敗者として語られがちですが、石田三成や伊達政宗などと同様、スケールの大きい政治のできる人物だったのです。一説ではここ鞆がこの期間、日本の政治の首都だったとも言えなくもない状況があったのです。

 

港を中心に市場や宿屋食べ物屋はもちろん、貴人を迎える屋敷から要人の隠れ家、朝鮮通信使の大使館に至るまで、施設があって栄えたのです。九州・朝鮮から、当時の最高速運輸機関、帆船、手漕ぎ船で行っても京都まで何日もかかりますからね。確かに隠れ家も含めて当時は家屋が他の地域より比較的多く、海路からの情報も早くて確かで、政庁が設けやすかったことでしょう。

 

 

ただ明治になって蒸気船や鉄道の時代になると、工業の立地がしにくい平野の小さい鞆は、海運造船は尾道、工業は干拓で土地を広げた福山に圧倒されたのです。周囲は坂が多く、切り立った崖でカンタンに広げられない立地です。しかしそれ故に港町の遺構が最もよく残る、観光の街として生き残ったのです。江戸以前の海港の小道具が全部そろっている唯一の港です。

 

(龍馬のかくれ家)

 

幹線道路と外れてみると、典型的な漁師町で、やや間口が狭く奥行きの広い2階建ての家が建て込み、時々お寺さんが現れる感じ。民家もあれば、ちょっと入りたいと思うような工夫した商店や宿屋もあり。坂本龍馬が隠れた家などを過ぎて海岸に出ると、鞆の中心部の港です。

 

 

先ずはここに来なければ鞆に来たことにならないという対潮楼。アプローチは普通のお寺ですが、入場料を払って入ってみると小高い丘から鞆の海峡が見渡せます。寺内には海の神様が黄金色で祀ってあり、一番良いところに置いた信仰の拠点にもなっているようでした。

 

(対潮楼)

 

鞆のお城や他のお寺など、行っても良いのですが、狭い間口の漁師町は空き家が少なく、各戸毎に工夫が凝らされていて、ぐるぐる回っているだけでも飽きません。しっとりとした木造家屋に、町家の雰囲気。写真の題材に、飲食に人々は思い思いに歩き、道も狭く車が譲り合って走っています。

 

 

運輸のため大正時代に作られた福山からの鞆鉄道も戦後廃止になりましたが、富士山のように車を制限して復活してはとの妄念が浮かびます。通りを行くと、自転車の同業と自転車談議に花が咲きました。鞆の郊外に車を停め、自転車で回っているそうです。

 

売店には海産物が多いですね。干し魚を購入しました。ソフトクリームや海鮮丼の店は、昼過ぎなのに押すな押すなの賑わい。漁船も商船も外航船も、時には軍艦も入港した鞆は、現在は付近の島への航路が生き残るだけです。坂本龍馬の“いろは丸”やカヌーも“入港”しています。そんな中で1日2便、陸続きですが尾道行きの航路が14:00に出るので、自転車を積んでそれに乗りました。

 

(現在のいろは丸)

 

鞆から尾道は急勾配が多く、名所も少ないので、時間に追われるよりは海や島を眺めていこうと考えたのです。周辺の離島へは福山市営の事務所、この尾道への民間航路は広島県の管轄と、なかなかややこしい。民間・福山市・広島県と、意識し合いながら独立してフネを出している感じでした。

 

船 海路:鞆⇒尾道航路

 

鞆を出て尾道までの航路は、付近の離島航路で活躍した高速船が、本拠の尾道に帰る営業です。最初は自転車で尾道まで行くつもりだったのが、聞きつけて船で行くことにし、パッと乗って自転車を積み込むよう交渉し、運賃を払います。他に20人ほどが乗りました。

 

 

本州を望む海岸ばかりでなく大小の島々や造船所、ビーチを遠望しながら行くのは楽しいものです。同乗の方々も老若男女を問わずはしゃいでいます。

 

 

操船する方はDJ船長で、ご兄妹でやってるとか。節をつけてテンポよく付近に景色の説明をしてくれるところが面白い。建造中のフネの船腹までアプローチしてくれるサービスもやって頂けました。

 

瀬戸内海沿岸の島は、別荘地にもなっています。プライベート・ビーチでマリンレジャーなど、静かな島は避暑にはうってつけです。島々をかすめて川のような尾道水道に入り、1時間ほどで尾道港着。

 

(尾道の渡船)

 

自転車 尾道⇒因島

 

尾道は何回か来て、泊まったこともあります。すぐに向島航路に乗り換えて、3分で渡り、自転車再開します。行き先は因島南部。因島大橋を渡る前に、以前見て知っていたスーパーで鰻丼弁当、野菜など仕入れ、従来来た北岸を行きます。すぐに因島大橋が見え、アプローチを登って渡ります。例の青い道しるべ、アプローチ・ベンチマークが導いてくれます。

 

(向島)

 

因島は前回は中央部の勾配を行って、水軍城など見たのですが、今回は北岸の重井集落を行きます。小中学生の集団の他に、午後5時も近くなると外国人労働者の姿も多くなります。造船業が盛んなのです。

 

(因島大橋とアプローチ)

 

以前食べた定食屋さんも過ぎて、生口橋は渡らずに因島の市街・中心の港に行きます。しかし生名島、弓削島、岩城島などのゆめしま海道に行くルートが分らない!発券所のような所は窓口はあってもヒトがおらず、暗い廃駅のようでしたし、付近の人に聞いてみても要領を得ません。

 

(因島から佐木島を望む)

 

仕方なくフネに直接入って券を買うと、自販機で買うように諭されました。どこに券売機があったのか探しきれなかったようです。合理化が進んで、県境現象だけに情報サービスが行き届かないと思われました。130円でこれも5分ほどで広島県から愛媛県に入ります。

 

自転車 愛媛県上島町生名島

 

生名島で午後5時半。先ほど因島重井の浜で弁当は食し、コンビニでゴミは処分したので、あとは寝場所を探すだけです。海の県境は大型船が横付けして整備しています。小島の多い海岸にそって時計回り。生名橋を見て島民と思しき親子連れに、泊まり場所を聞いた所、キャンプ場はコロナ明けブームで満杯のよう。

 

(生名島立石港と生名橋)

 

結局2kmほど生名島を半周して、2022年完成の岩城島へ渡る岩城橋たもとの造成地でテントを張りました。周囲はトイレ付レクレーションセンターと、夜釣りの人が2人。広さがあって水場のある設備が適度でヒトがいない、キャンプには好適です。

 

(岩城橋とテント)

 

気温は酷暑でもないのですが、波打ち際が20mほど先なので、湿気が結構ありました。瀬戸内海なので津波などの心配はなく、小舟でも通れば波打ち際にチャプンとくるような静かな海です。トイレは助かりましたが、水が夜に尽きることになりました。

 

しかしそうそう深刻な事態にはならずに、ウトウトして夜が明けました。夜中目が覚めて100mほど離れたトイレを使いましたが天気も良く風もなく、岩城橋の灯り以外は光芒もなく、危険動物はおろか蚊もおらず、造成地なので重機などに踏み固められ、やや地面が固かった以外は平和なキャンプ地の選択でした。

 

つづく