ネタバレてても、面白い!

●ネタバレあらすじ
 交通広告代理店の営業マン奥田浩介(25歳)は、クライアントであるメーカーとの打ち合わせの場で、中学時代の同級生、渡来真緒と再会します。
 プレゼンの最中、資料の矛盾が見つかり、浩介があわてていると、真緒が計算違いの部分を指摘。浩介は難を逃れると同時に、真緒の変貌ぶりに驚きます。
 というのも、中学1年生2学期に転校してきた真緒は、バカなうえに団体行動ができず、クラスでいじめにあう程でした。
 クラスでたった一人、真緒をかばった浩介はクラスでも浮いてしまいますが、真緒に勉強を教えるようになります。それから心が通じ合う二人でしたが、浩介は親の都合で引っ越しすることになります。もちろん、真緒は大泣きしでした。

 再開後の真緒は、美人で仕事もできるようになっていました。そして付き合うようになった二人。浩介の両親に真緒を紹介したところ、大歓迎でしたが、渡来家では反対されてしまいます。
 実は真緒は「全生活史健忘」であり、生まれてから12歳までの記憶をなくし、渡会家の養子になっていたのでした。渡会家では、他人に苦労を押し付けるようなことはしたくないと言い、結婚に反対します。浩介と真緒は、渡会家の両親は無視して入籍(駆け落ち)することにします。

 新居に移り、幸せな結婚生活を送る二人。しかし、徐々に真緒の体調が崩れ出し、無理に病院に行かせても原因がわかりません。
 そうこうしていたある日、真緒は朝食の用意をし、朝刊を取りに行くと外へ出ていったきり戻ってきませんでした。
 浩介は真緒を探します。近所の人たちや真緒の会社の人、真緒の両親に聞きますが、彼らは誰も真緒のことを覚えていませんでした

 ある日、浩介は真緒の両親に偶然出会い、猫を飼い始めたことを知ります。そして、帰りの電車でウトウトし、中学生時代に瀕死の猫を助けたことを夢に見ます。

 

 なんと真緒は昔、浩介に助けられた猫だったのです。

 

 ある日「猫は九生を持つ」ということわざから、ふと「真緒のは、いくつめ(の命)だったのかな?」と呟くと「二つ目だよ」と、背後から真緒の声がしました。振り返ると浩介の足元に一匹の仔猫がすり寄ってきました。その仔猫の首には浩介が真緒に贈った指輪が下げられていました。
 
 浩介は、真緒が言っていた言葉、<私は浩介が死ぬまでつきまとうつもりだよ。ほら、私って執念深いから>を思い出します。浩介が猫を抱き上げると、三つ目の命(3回目の再開は猫として、ということですね。)は「にい」と鳴くのでした。

●感想
 「女子が男子に読んでほしい恋愛小説No.1」との書店のパネルが話題をんだ通り、浩介と真緒のエピソードがほほえましいです。
 二人の急接近のきっかけとなったクラスメートのいじめが、十二年後にいじめていた女子(と子供)に再びやり返すくだりや、真緒が合コン荒らし(浩介以外には冷淡)だったこと。そして、真緒がインターネットを駆使して浩介を探していたこと、

 浩介からもらった指輪に感激し、いつまでも「ぐほほほほ。」という奇妙な笑い声をあげ、足をばたつかせているところなど、真緒の一途さが、切ないほどに可愛らしいです。

 本作は2013年、松本潤と上野樹里で映画化されました。二人とも、役にぴったりです。

 映画の方では、ラストが原作とは違い、消えた真緒が、実は昔関わった猫だと悟った浩介が真緒と再会し、ひと時を過ごした後、真緒に関する記憶をなくしてしまいます。

 浩介はある日、公園で寄ってくる猫の頭をなでていると、そこで人間の真緒と再会します。

 映画も良いですが、原作が特に良いです。ネタ知ってても、読むべき一冊!!

 埴谷雄高の『死霊(しれい)』好きは必読です。(そんな人いるかな?)

 

 非常に不思議な小説です。
 著者のデビュー作にして、群像新人文学賞受賞、第165回芥川賞受賞作。

●あらすじ
 新型コロナが蔓延し、街が閑散としている7月初めの、ドイツの都市ゲッティンゲンが舞台。
 主人公の小峰里美は、美術史の研究のため、留学しています。彼女は、ゲッティンゲンの駅前で9年前の大学時代の後輩「野宮」と待ち合わせをしています。彼を駅で出迎え、彼が滞在先に向かうバスに乗るまで、ゲッティンゲンの街を案内し、別れます。
 しかし、野宮は9年前の地震(2011年3月11日の東日本大震災)で津波にのまれ、行方不明になっています。彼女自身も、仙台の実家に帰省中に地震を体験しましたが、野宮は石巻市の実家におり、9年経った今も見つかっていないのです。

 小峰は、野宮のことを知らせてきた野宮の友人だった澤田と、野宮の印象がどうだったか話し合いますが、お互いに彼の印象については曖昧なままです。

 小峰は、不確かな感情を持て余します。そして、翌々日が木曜日であることに気づき、ウルスラ宅を訪問しようと考えます。ウルスラは、ギムナジウムでドイツ語と文学の教師を勤め、退職後には木曜の午後に自身の時間を開放している人でした。といっても、饒舌に知識を披歴するのではなく、議論にじっと耳を傾けて、話が混迷してくるとそっと意見を差しはさむのですが、彼女の周りには多くの人が集まってくるようになっています。

 ウルスラとの(沈黙の多い)会話の中で、小峰は震災後の混乱や野宮と連絡が取れなくなっていったことを思い出しますが、言葉に整理することはできないままでした。

 その間、小峰と同居しているアガーテの飼っている犬(ヘクトー)が、散歩中に森から奇妙な物(杖、玩具の剣、ダーツの矢、羊のぬいぐるみ等々)を掘り出すようになります。ウルスラは、掘り出されたものを譲ってほしいとアガーテに頼みます。

 その後、小峰はウルスラに食事会を開催するので来て欲しいと招待を受けます。驚くことに、その会には野宮と、彼がゲッティンゲンで知り合ったという友人の寺田氏も招待されていることが付け加えられています。また、今回の夕食会は「貝の晩餐会」なので、貝にちなんだものを持参して欲しいとも。小峰は、マドレーヌ(貝型のお菓子)を作って持参します。

 

 後でわかりますが、寺田氏とは「寺田寅彦(1878年 - 1935年)」(『茶碗の湯』などの随筆が有名)であり、野宮が好んでいた作家でした。

 夕食会でウルスラは、ヘクトーが森で収集した数々の品物を展示している部屋を、皆に見せます。これらの品々を見せると、関心を示し持ち帰る人、引き取りを拒絶する人、引き取っても辛いからと戻しに来る人と、皆多様な反応を示したと言います。
 夕食会が終わり、帰り道すがら、ヘクトーは帆立貝の殻を掘り出します。

 小峰は、ある日目覚めると、背中に歯が生えているのに気が付きます。アガーテに相談すると、彼女は慌てることなく、ピンセットやスプーン等を使って、歯を抜いてくれます。小峰は「これは野宮の歯なのだろうか」と、混乱しながら考えます。その様子を見たアガーテは、ウルスラに相談することを提案します。


 小峰はウルスラに、歯のことを含め、夕食会に来ていた野宮の(幽霊の)こと、時間的に遠ざかる地震の記憶について語ります。
 黙って聴いていたウルスラは、深い沈黙ののち、「躓(つまず)きの石」と呼ばれるモニュメントへ案内します。それは、かつてそこにいたユダヤ人の記憶を持った「地面に食い込んだ金属の歯」でした。

 ウルスラは、静かに祈るように「野宮が帰るべき場所に還ることができるように。」と呟きます。

 

 「つまずきの石」は、96x96x100㎜のコンクリート製ブロックで、上面の真鍮プレートにナチスによる迫害で犠牲になった人の名前と記録が刻まれ、それぞれの最後に住んでいた住居前の道に埋め込まれています。ドイツの芸術家、グンター・デムニヒが1993年から始めた文化プロジェクトで、ドイツ国内だけで既に7万5千個が設置されました。byあさひてらすのHP:作中では説明がないので、念のため。


 何日か経って、小峰にバルバラ(ウルスラの元に、お菓子目当てで訪問するアグネス(12歳)の母)から、ピクニックの誘いが来ます。参加者は、バルバラ母子、ウルスラ、野宮、寺田氏等々。
 ピクニックの途中、寺田氏はいつの間にか姿を消しており、小峰は野宮もいなくなるのだろうかと考えます。そして、その時初めて、野宮の死に悲しみと苦しみを感じます。
 「午後二時四十六分」と野宮は呟きます。(東日本大震災の発生時間ですね。)野宮が消えてしまったかどうか、小峰が確かめることができないでいると、握っていた自分の歯(背中に生えていたもの)がちりちりと小さくぶつかり合います。

●感想
 久しぶりに、(埴谷雄高以来?)観念的な小説を読みました。

 いなくなってしまった人に対する喪失感を、その人の生前持っていた「もの」に残された「記憶」として見い出すのですが、その記憶が想起する感情がうまく制御できない(悲しみなのか寂しさなのか、災害に対する怒りなのか)でいる登場人物たちの心情を表現している作品だと思います。

 

 著者の受賞インタビュー(「母との『カラマーゾフ事件』」『文藝春秋』2021年9月号)も面白いですよ。

 

 第143回直木賞受賞作です。

 物語は、昭和初期から終戦間際まで、東京で女中奉公していた布宮タキが、当時のことを「心覚えの記」にしたためているという形で進行していきます。(時々大学生になった健史(タキの妹の子供)に突っ込みを入れられながら…。) 

 山形出身の布宮タキは、小学校を卒業後(昭和5年)、東京に奉公に出ます。1年過ぎたころ、幼い子供がいる浅野家に移りますが、そこで22歳になったばかりの、「本物の都会のお嬢様」、時子奥様と出会います。彼女には、1歳半の息子の恭一と夫がいました。その後、夫が事故死したため、いったん時子は実家に戻りますが、タキも時子の実家(の子どもたちの世話のため)についていきます。そして、時子が平井氏と再婚する際に、一緒についていきます。そして、終戦の前年まで平井家で女中奉公し、実家に戻ります。

 時子の再婚相手は、一回り以上年上で玩具工場に勤務の平井氏です。戦争の好景気を受け、平井家は裕福です。結婚三年目に、赤レンガの洋館(小さいおうち)を建て、家族はそこで生活します。そうした中、夫の部下の板倉(時子の6歳下)が、出入りするようになり、恭一の良い遊び相手となります。
 タキはある日、街で時子と一緒に歩く板倉を目撃します。その一方で、戦争は激しさを増し、板倉にも召集がかかります。板倉が出発する日をまじかに控え、時子はタキに行く先を言わずに、外出しようとします。事情を察し、止めるタキ。時子と押し問答の末、板倉宛てに「明日の午後一時に平井家に来るよう」手紙を書かせ、それをタキが届けると時子に言います。来たら自宅で二人で会い、来なかったら、時子にあきらめるよう説得します。次の日、平井家に向かう坂を上ってくる板倉と、タキはすれ違います。
 最終章。タキの死後、「心覚えの記」の読者であった健史は、「心覚えの記」が中途半端なところで終わっていることや、晩年の伯母が後悔しながら泣いてばかりいたことを思い出します。さらに、伯母の遺品の中から、「平井時子」とだけ書かれた未開封の手紙を見つけ、平井家の人に会いに行きます。
 平井夫婦は、東京大空襲で亡くなっており、遺児である恭一(79歳)と会うことができました。健史は気になっていた未開封の手紙を示します。恭一は健史に読むよう促します。中には板倉宛てに、「会いたいので明日の一時に家に来て下さい。」と書かれた時子の手紙が入っていました。

 なんと、回想録には、「板倉と時子が平井家で会った」と書いてあったのに、実際はタキは板倉に手紙を渡してはいなかったのでした。伯母タキの後悔はこれだったのかどうなのかと、混乱する健史。
 戦時中という、誰もが不本意な選択を強いられなければならなかった時代。時子やタキ、そして板倉達にとって、「小さいおうち」はどう映っていたのか。健史は、明らかになった事実が、さらに新たな謎を連れてきたような、不思議な感情を抱きます。

 本書の魅力はこうしたあらすじではありません。

 若い妻のよろめきを、結果的に未然に防いだけど、死ぬまで後悔し続けた家政婦の物語。と言ってしまえば、それまで。
 
 しかし、タキの活躍や戦後の一家庭の姿など、直木賞を受賞するだけあり、読むだけの価値がある本です。
 
 私の好きなセリフを一つだけ。

 タキは平井家を辞めた後、実家で疎開児童達の世話をしていました。疎開児童とはいえ、春から中学生になる子には入学試験があります。東京への引率者のひとりに立候補したタキは、昭和20年3月に東京に向かい、時子奥様に会いに行きます。
 終戦間もない日本は、日々の物資も配給制になり、それすらも十分ではありませんでした。タキとの再会を喜ぶ時子の前で、防空頭巾や半纏、腹巻を外し、中に仕込んでいた米や干し魚を取り出して一言。

「奥様。タキが参ったんですよ。手ぶらで伺うと思いましたか。」

 きゃー、かっこいい~~~~~~~~!!!!!

 何度読んでも泣けちゃいます。このシーンには、タキと時子の関係性や戦争という時局の様子など、全てが集約されているような気がします。

 本作は2014年映画化されましたが、尺の関係でタキが疎開児童の世話をしたシーンはありません。当然、このセリフもカット(残念!)また、時子の行動を嘆くタキや叱責するシーンなどが加えられ、時子の不貞を強調する形になっています。(ちょっと俗っぽい?)

 「小さいおうち」の中で起こる出来事が、戦前の日本の縮図になっており、読み応え抜群です。


 美しくおっとりしたところのある時子と、平井家の家事全般を担うスーパー家政婦タキ。優しくて頼りになる平井氏。だんだん成長していく恭一。彼らの日々の一つ一つが、時局の変化と並行し、慈しむように描かれています。
 

 読者は、「小さいおうち」で起きる出来事の数々に、ほっこりしたりハラハラしたりしながら楽しめます。