◆「内定への一言」バックナンバー編

「己の善をなさんが為に、人を損なうことなかれ」





おはようございます。水曜の「合格エントリーシート講座」で、「良い志望動機」を説明した際に「うまい棒」を例え話に使ったせいか、昨日は一日中、何度かうまい棒を食べたくなった小島です。

「うまい棒」の卓抜なマーケティングについては、業界ゼミでも引用しました。

流通競争激化で「昔ながらの駄菓子屋さん」が続々と廃業し、うまい棒の販売店が減った結果、味を懐かしむ人からの注文が増えて、結局は全国のスーパー、コンビニに並ぶようになり、知名度と販売量が激増…。

すごいぞ、「やおきん」。
http://www.yaokin.com/top/top.html
(なんだ、このHPは?ちなみに、新卒採用もやってます)



こういう「単品で全国制覇」の商品を持っている会社は、経済誌記者をやってきた僕もすごく好きです。

ちなみに、うまい棒の袋に印刷されているキャラクターは、「うまえもん」という名前だそうですよ。どこかで、似たような名前を聞いた気が…。

というか、FUNにも1字違いのハンドルネームを持った学生さんがいたような…。


さて、福岡都市圏に在住の読者の皆様は、月刊誌『forFUN』の最新号はもうご覧になりましたか?今月は、阿蘇山の風景を撮影する西南4年・D君の姿がかっこいい雄大な表紙です。

今月号の特集は、表紙にも書いてある通り「偉人たちの言葉」で、FUNの学生さんたちが指針にしている言葉がたくさん紹介されています。まだ持っていない方は、就職課でどうぞ。

中には、本メルマガでご紹介した言葉もチラホラ見つかり、間接的ながらちょっと幸せを感じてしまいました。

その中で、7ページに福岡女子大3年・T地さんが紹介している「己の善をなさんが為に、人を損なうことなかれ」という言葉があります。

これは、去年の「FUN Business Cafe(毎週土曜朝の読書会)」で読んだ『青年の思索のために』(下村湖人/新潮文庫※絶版)の中で登場する言葉です。

その当時も今も、参加者からは非常に共感を集め、皆さん色々と思い返すことがあったようで、特にT地さんは強く思うところがあったようでした。



「己の善をなさんが為に、人を損なうことなかれ」。

「自分が良いと思うことをなそうとして、人を損なう悪を犯してはいけない」というほどの意味です。

あるいは、「自分がやりたいことを優先して、人を蹴落としてはいけない」とも取れます。



著者の下村湖人さんは、東京大学の英文科の学生だった頃から東洋哲学や古典に親しみ、同人誌では「内田夕闇」というペンネームで、既に高い評価を得ていた方です。

戦前は古典や教育の研究に打ち込み、戦後は教育現場があまりにひどい荒廃を見せるようになったので、友人と一緒に私塾を作り、若者の教育に人生を捧げた教育者でもあります。

もっとも、今の学生さんには「次郎物語」の著者だと言ったほうが幾分分かりやすいかもしれません。FUNでは『論語物語』の著者として誰もが知っている教育者ですが…。

その下村さんは、戦後になって人々が「自分のやりたいこと」、「自分の成功」、「自分の幸せ」ばかりを最上の価値と見なすようになり、他者への思いやりがなくなったことを深く憂えていました。

「自分がいいと思うことをやる」。

確かに一理ありそうです。場合によっては、もちろん社会へ及ぼす影響も良いものだろうし、さして問題がありそうには思えません。


しかし、皆が「自分が善いと思うこと」ばかりにこだわり、そのために周囲を蹴落とすような生き方をすれば、却って全体を後退させることになる点に注意せよ、というのが『青年の思索のために』のメッセージです。


「自分が自分が、と出しゃばり、人の活躍の機会を奪い、人に先んじて自分の手柄ばかりを立てようと躍起になる人」は、その人の視野においては「前進」をしていると思えたとしても、全体から見れば悪の元凶でしかありません。

また逆に、広く長く全体の利益や幸福を見通し、自分が引くべきところは潔く引き、仲間や後進に優しく道を譲ってあげられる人であれば、自分は「後退」していても、全体は「前進」を遂げることができます。

そうして社会全体を見渡してみれば…

「人を退けても自分が進みたい」、「人を不幸にしても自分は幸せになりたい」とあさましい執念で頑張る人がよしとされ、全体を前進させる余裕が不足しているのではないか…

というのが、本書における下村さんの洞察です。


野球では巨人が、サッカーではレアル・マドリードが、他チームには到底捻出できないほどの巨額の補強費や年俸を投じても、その戦力に見合った圧倒的な勝利を収められないばかりか、失望されるほどの結果に終わったのはどうしてでしょうか。

補強が発表された時は、誰もが「優勝間違いなし」と騒いだのにもかかわらず。

それは、「スター選手」ばかりを集めて、全体の調和を考えていなかったためかもしれません。

スター選手は、他チームにいる時こそ、「よく走る人」や「よく守る人」、「チャンスを譲ってくれる人」、「自分のために犠牲になってくれる人」に支えられ、スターたる実績を出せてきたわけです。

つまり、「自分一人でスターになった」というわけではないのです。

してみれば、全チームから高額でスター選手を引き抜き、人も羨むばかりの強力打線、強力フォワード陣を揃えたチームは、意に反して弱体化するのは、当然というほかありません。

だって、そこには「俺が主役だ」、「目立つのはオレだ」と考える人ばかりが集まる傾向が強くなり、スターのために道を譲る人はいなくなって、逆にチャンスを奪い合う人ばかりがひしめくことになるからです。

みんながホームランを狙おうとすれば、確実にランナーは減るでしょう。つまり、「打点も減る」ということです。打点が減れば、前のチームでスターだった選手も、そのチームではお寒い成績しか残せないのは自明の理です。

「強い個人」を集めた組織が予想外に弱くなり、素直で謙譲の美徳を備えた個人を集めた組織が強くなるのは、こう考えれば実に道理に適っています。

FUNもまた、無名の学生たちが地道に企業取材やビジネス勉強会を続けているだけの一サークルに過ぎませんが、多くのサークルがマンネリ化して自浄作用をなくす中、年々質と規模を同時並行で増強させているのは、ひとえに「譲り合い、認め合う」という組織の習慣があるからでしょう。


チームはこのように、「チャンスを作る人」と「チャンスを生かす人」の相乗効果があってこそ始めて勝てるわけで、いくらチャンスを作るのがうまくても、生かす人がいなければ意味がなく、生かすのがうまくても、作れなければ同様に無意味です。

「己の善をなさんが為に、人を損なうことなかれ」は、何も巨大な社会や国家で考えるまでもなく、学生のサークルやバイト先の居酒屋などで考えても十分適用できる、深くてシンプルな真理ですね。


さて3年生の皆さんは、これから就活で自己PRなどを行うでしょうが、「己の善」をアピールしたりはしていないでしょうか。

もちろん、常識的な範囲での自己成長をもたらした「独善」であれば、堂々と表明すべきです。一人で強い意志を持ち、何事かをやり遂げるのは、それはそれで非常に価値があることです。

しかしそれ以上に価値があるのは、目立たなくてもいいから、自分が属するゼミやサークル、バイト先などの発展と幸福のため、進んで目立たない役割を引き受けて頑張った、という経験ではないでしょうか。

もちろん、謙虚に心にとどめておけばいい経験を自慢の種にするのがいつも良いわけではありませんが、しかし、そういう「脇役」的な役割の方が、目立ちたがりの主役タイプよりも、実はずっと高く評価されるものです。

企業経営は言うまでもなく団体戦なので、当然ながら、採用の際は個人プレー以上に「組織の中での振舞い」を注意して観察します。

ですから、「全体の中で目立った経験がない」とか、「人に自慢するような華々しい経歴がない」などということを不安視する必要は全くありません。


目立たなくても、「全体の前進」を重視でき、そのためには必要とあらば「自分の後退」も笑顔で引き受けられるような学生であれば、「TOEIC900点の自己中心主義者」よりよっぽど採用したいものです。

いくらTOEICが高得点であろうと、そんな利己主義をいちいち英語で拡散されては、点数の高さだけ迷惑が広がるだけなので、そういう「愚かなる智者」は採用しないのが普通です。

能力など、性格に比べれば大した意味はありません。人の成長や成功は能力が1割、あとの9割は性格で決まるわけですから、企業は能力よりも当然性格を重視し、その「伸びしろ」を測定したがるわけです。

ということで、大事なのは、①関わる人々の幸せを大きく広く描ける視野、②全体の前進・発展のためには今何が必要かを考える健全な客観性、③必要とあらば他人に成功を譲れる器の大きさ、だということです。

「自分の幸せ」、「自分の成功」、「自分への注目」ばかりを考えている人は器が小さく猜疑心に富み、とても採用できたものではありません。

そういう人は権力や名誉、ブランドに弱く、ポリシーは「自分にとって得かどうか」しかないので、到底責任ある仕事を任せられる人材ではありません。

それよりも、「相手の幸せ」、「仲間の成功」、「他者への承諾」を優先できる人こそ、同じ反応を一身に集め、組織の中で成長していくことができます。

読者の皆さんの中には賢明で謙虚な方が多いでしょうから、小さなことでも、珍しくないことでも、自分が平素大事にしている「人間関係における心構え」を堂々と、素直に伝えましょう。

疑り深い学生にとっては、全ての面接が「圧迫面接」になるでしょうが、それは自分で自分を圧迫しているだけです。平常心で臨めば、どの質問も「自分の可能性を引き出してくれるもの」として感謝できます。


「己の善をなさんが為に、人を損なうことなかれ」。

本当に奥が深く、素晴らしい言葉ですね。


◆「内定への一言」バックナンバー編

「人は気に入った情報しか信用しない」(ヒトラー)




こんばんは。今日の「業界ゼミ」では、僕の出身業界である「出版業界」を扱ったせいか、いつもより熱が入った気がして帰ってきた小島です。

地味そうな業界ですが、社会的インパクトの大きさと深さが分かり、シンプルな業務の中で広告、証券、VC、ライセンスビジネスなど様々な業種の要素が存在していることが分かったことでしょう。

行くも行かぬも、情報の流れ方や広がり方を知らなくては、営業やマーケティングに大きな損失となるので、ぜひ「出版」の視点も就活に加えたいところですね。



さて今日は、その「情報」について、20世紀が生んだスターリン、毛沢東と並ぶ独裁者・ヒトラーの言葉を紹介しました。

といっても、別に政治的な話題というわけではありません。

19~20世紀のドイツといえば、世界に冠たる「学問・芸術大国」で、哲学、化学、物理学、音楽、文学、経済思想、政治学など、合理性と勤勉さを誇るドイツ人が世界に与えた功績は計り知れません。

ドイツのジョーク、というかことわざには、「靴が小さいのなら、足が大きいに決まっている」というものがあるそうです。

なるほど…確かにその通りです。

あまりに当たり前の「原因と結果」を結晶化していて、「これがことわざなのか?」と思ってしまいそうなくらい地味ですが、ドイツ人は他国から「理屈っぽい」、「固い」、「頑固だ」などと言われながらも、健全な懐疑と合理的な思考を貫いたからこそ、あれほどの偉業を残せたのでしょう。

その「理屈と証拠」を何より優先するドイツ人が、名も知れぬ美術学校の落第生で、経歴は伍長上がり、外見はちょびヒゲのオーストリア人が作った政党に、なぜあれほどまで煽動されたのか?

これは20世紀、最も多くの人の興味を惹いたテーマの一つでしょう。

「フランス人がワインをやめて、ビールしか飲まなくなった」
「アメリカ人が借金をやめて、貯金に邁進し始めた」
「イギリス人が作った料理が、他国で売れ始めた」

というのと同じくらい、「理屈っぽいドイツ人がアジテーション(煽動)に振り回された」というのは、ありえないことだったのですから。

世界の広告代理店が、キリスト教やイスラム教、仏教などの宗教の開祖や偉人、歴史上の英雄などを研究し、群集心理の把握と誘導のためのテキストとしているのは、よく知られた話です。

その中でも、ヒトラーの演説と考え方は、よく研究されているテーマのようです。

なぜかといえば、「カネをかけずに一国を操った」から。政治的、歴史的評価は最悪の部類に位置する人物ですが、その煽動テクニックと考え方は、恐るべきものがあります。

彼の「大衆煽動」に対する考え方の基本は、彼が重視した「人は気に入った情報しか信用しない」という言葉に集約されています。

「気に入った情報しか信用しない」とは、当たり前ですが、「気に入ったことだけを情報だと認める」ということです。

しかし、本当の情報とは気に入るかどうかを別にして、それ固有の価値を持っているもの。「気に入らん!」と無視したからといって、自分の欠点が消えるわけでも、問題がなくなるわけでもありません。

でも、多くの人は、逃げたり思考をやめたりすれば、「問題そのものも消えた」と勘違いして、何度も愚かな過ちを繰り返し続けるもの。

人間は「自分の願望に合致する情報」を前にしては、途端にふにゃふにゃになってしまう弱さを備えているものです。

この話は、FUNでは発足当初からしているので、部員の皆さんはご存知でしょうが、分かりやすい例え話で置き換えれば、次のような感じです。


例えば、「久しぶりの体重計」に乗ったAさんが、「やせてるかな~」とかすかな期待を持って針を見つめると、以前は「45キロ」だった体重が、「50キロ」になっていたとします。

Aさんはもちろん、驚くでしょう。当然、そこに示された数値が「自分の重さ」だとは、認めたくないでしょう。

そういう葛藤が一瞬のうちに情報処理され、Aさんは一言、言いました。

「この体重計、壊れてる!」

本当に壊れているのは「自分の認識」の方なのですが、事実が「私は太っていない」という願望に合致しない時は、事実のままに受け止められないことがあるもの。

もし、この体重計が「40キロ」と、同様に「5キロ」の誤差を示したとしても、それが「太っていない願望」に合致しているのであれば、「案外頑張り過ぎたかな?」などと考えて喜ぶかもしれません。

しかし、「50キロ」なら、事実は「5キロ増えた」でしかありません。

問題はそれを認めるかどうか。もし認めないなら、どうするか?それは…

「体重計を買い換える」しかありません。

どこぞのホームセンターで、自分の意のままの数値を示す体重計でも探すか、あるいは針に細工を施して、自分の感情を害しない体重計に作り変えるほかないでしょう。

現実を認めないなら、環境や道具を変えるしかなく、そうし続ける限り、「本当の問題」は丁寧にそのまま、保存され続けるのです。または「悪化」することもあり、この場合なら「太り続ける」のです。

ヒトラーはこのように、「この体重計、おかしい!」と叫びたくなる大衆の一瞬のスキをついて、「そうだ!おかしい!これに乗れ!」と言って別の体重計を差し出し、その人が望む数値を示してあげた、というわけです。なんと優しく、恐ろしい指導者でしょうか。

そして、善良なドイツ人を甘い願望とありえない仮想の世界に誘い込み、架空の設定や無理な説明で何年間も誘導した後、自分だけ自殺したわけです。

後になれば、ドイツの人たちがどれだけ苦しい思いをしたか、ヒトラーをどれほど恨んでいるか、その話題をどれだけ他国から「なめくじの塩」のように使われているかは、誰もが知る通りです。

ドイツ人は優秀な民族ですが、別に「神から選ばれ、世界制覇を義務付けられたアーリア民族の子孫」でもなく、「地球上からユダヤ人を消滅させる高貴なる役割を与えられた名誉ある民族」でもありませんでした。

でも、何度も何度も宣伝を受け入れるうちに、遂には集団的な暴行も起こってしまった、というわけです。

学歴や仕事でコンプレックスを抱えた人は、「自分は優秀だ」と思わせてくれる人の言葉を歓迎するでしょう。自分が受け入れたくない現実を忘れさせてくれる人を、そばに置きたがるでしょう。

ヒトラーは、「みんなが気に入ること」を繰り返し、「みんなが望んでいる」ように演出し、「みんなが喜んでいる」と宣伝し、その総監督を担当したわけです。

さて、ドイツ人の事例を「他人の問題」と笑えるような賢明な民族は、地球上のどこを探しても見つかりません。それどころか、現在は大規模戦争こそないものの、似通った例はいくらでも見受けられます。

特に若者を相手にしたジャーナリズムでは、若者に気に入ってもらおうと、「ご機嫌取りの有害情報」がいたるところに溢れています。

若者を取り巻く世論の本質を知りたければ、『私の幸福論』(福田恒存/ちくま文庫)を、ぜひお奨めします。無愛想で不親切ながら、人生の本質を説く著者の考え方に、深い愛情と優しさを感じることでしょう。

僕もFUNでは、耳障りのいいことを言ったりはしません。というより、どっちかと言えば、「小島さんは厳しい人だ」と感じている学生さんの方が多いかと思います。

でも、「今」において気に入られるようなことを言ったら、僕は皆さんを冒涜し、自分の快感の道具にしているだけの侮辱行為を働いていることになります。

僕はそういうのは嫌です。将来本気で仕事と向き合った時、「FUNで勉強してきて本当に良かった!」と心の底から実感できるのは確実なので、僕はその、いつか分からないけど確実に訪れる「過去に感謝できる瞬間」のため、若者に必要な知識、考え方を提供し続けるだけです。

「今頑張って将来楽なのと、今楽して将来苦しいのと、どっちがいい?」と聞いて、「今頑張りたい」と言う学生さんと勉強しているだけです。

大事なのは「必要」なことであって、「気に入られる」ことではありません。

僕は機嫌取りなど考えておらず、「若者には素晴らしい可能性がある」なんてことも絶対に言いません。

学生時代という、勉強のためには最も優遇されている時期に努力できない人間に、可能性などあるはずがありません。あるとすれば、「ますますバカが加速する可能性だけ」です。


「君たちは、友達同士で話しているうちは、そういう現実から目を背けて笑ったりしているが、一人の時に同じ気持ちではいられないだろう。本心に問いかけて、自分に可能性があるかどうか、考えてみればいい」

このような、学生なら「何を!」、「うるせえ!」、「いちいち余計なこと言うな!」と思われかねないことも、遠慮せず言います。

信じたくないでしょう。受け入れたくもないでしょう。休日の朝からそういう言葉も聞きたくないでしょう。だって、全部か一部は「事実」であるからには。

ですが、僕は何も、学生さんと「居心地の良い時間」を共有したり、うら若い女子大生とおしゃべりをするために、4年間も毎週「顧問」をしているわけではありません。

はっきり言って、僕は「機嫌取り」などしなくても、実力と行動で皆さんの信頼と期待を勝ち取る自信があります。僕は言動が一致している自信があるので、人気取りなどしなくていいと考えています。

今だけ楽しい、小手先の策を弄して若者に媚びるなど、そんな失礼で申し訳ないことは、僕には絶対にできません。「若者の本当の可能性」を信じているからには。


「てかさぁ、この体重計、おかしくね?」
「おかしい、おかしい!私もそう思う!」
「最近の体重計って、やんなっちゃうよね~!」
「同感。まったく、やってらんないよね」

実に「心地良さそう」な会話です。そして、なんとバカバカしい現実逃避でしょ
うか。

「この愚か者。おまえが太ったんだろ。痩せ方教えるから、一緒に痩せよう」と言い、引き受けたからには結果を出すのが僕の役割です。

気に入った情報を信じているうちに、人は不幸を加速させていくもの。誰だって、それくらいは分かっているんです。

しかし、「分かっている」からといって、それが何だと言うんでしょうか。

「分かっている」と「やれている」は全く別のことで、問題は「やれているか」であることは、言うまでもありません。

だからこそ、気に入らなくても、必要だと思うことに取り組み、やるべきことを見つめ、現実と理想の落差を積極的に埋め、そうして到達した自分を「気に入る」。

こっちの方がどれだけいいか、そうできたらどれだけスッキリして自信が付くか、そんなことは、学生なら誰もが「頭の中」では分かっていることでしょう。

しかし、「頭の中で分かっている」など、大人の評価基準からすれば、「何も分かっていない」も同然なので、僕は「分かってるんだけどさぁ」などと自分にウソをついて、時間を浪費する学生さんが惜しくてたまらず、毎週何がしかお役に立てないだろうかと思って、あえて憎まれ役も引き受けるわけです。

結果が出た時は、必ず喜んでもらえると確信しているからです。


ちなみに、最近「発掘!捏造大事典」なる番組の疑惑が続々掘り出されているようですが、うちに7年間もテレビがない僕は、この番組自体見たことがないので、詳しい背景はよく分かりません。

しかし、マスコミが煽る「騒動」なるものをネットなどで見るたび、山本七平さんの『常識の落とし穴』(文春文庫)にあった言葉を思い出します。

「人は詐欺師には騙されない。人は自分の欲望に騙されるのだ」

今、「あるある」を批判している人は、よく検証されていない素材で安易に「やせる」と思って騙された自分を受け入れることができず、自分の愚かさを呪う代わりに、番組を責めて快哉を叫んでいるだけではないでしょうか。

テレビ局だって、「視聴者はバカだ」、「これも売れるはずだ」という自分の願望に騙されて信用が失墜した点では、詐欺の当事者として大きな責任があります。

でも、「マスコミが言うなら」と安易に信じ、何でも盲目的、従順に従う大衆だって、似たり寄ったりではありませんか。

それは、詐欺師に騙される以前に、自分の欲望、つまり自分に騙されているだけです。詐欺師は欲望があるところ、どこにだって顔を出します。だって、それは「自分」だから。

「気に入った情報」を待ち望み、それが「苦労せずやせられる」という願望に合致したならすぐ買いに行き、「脂肪着脱作業」を延々と繰り返しているくせに、何の文句を言う資格があるのか。

「耳障りがいいこと」だけを情報だと思い込んでいる人は、ほんと、救いようもない哀れな人たちだと思います。

山本さんは、帝国陸軍の性質を分析することで、日本人が自分にだまされていく悲劇的な過程を描写していますが、これも読んでみるといいでしょう。『常識の非常識』(文春文庫)と並び、「情報」のすごさと恐ろしさが分かる本です。

わが国のマスコミは、「豆一粒」という日本の伝統の前に完膚なきまでに叩きのめされてしまうほど、弱かったのでしょう。

これで視聴者が今まで以上に「自分の頭」で考えるようになれば、納豆さまさまではないでしょうか。

我々もまた、納豆のように粘り強く考えていきたいものです。


さて、本メルマガも、「励ます号」、「感動する号」、「グサッと来る号」、「むかつくけど分かる号」などを循環させているのは、長年の読者の方であればお気付きのことでしょう。

それは、「気に入られること」など、僕にとってはどうでもいいことだからです。

ありのままの学生を見つめ、ありのままの自分で付き合う。そうして課題と向き合い、目標に挑戦し、毎日に小さな達成感を積み上げていけば、誰だって「自分のすごさ」にビックリして、自分が今、自分であることがたまらなく嬉しくなってくるのです。

だからこそ、「体重計おかしい!」と言う自分がおかしいのだと受け入れ、謙虚に事実を見つめて行動していかねばなりません。

もし自分をごまかして、低いハードルで自分を満足させつつも、煮え切らない気持ちで毎日を過ごしている方がおられるなら、体重計の針をしっかり見つめましょう。

そして、「そうだそうだ」と言う「優しい拷問者」の声をシャットアウトしまし
ょう。時が来れば、どちらが賢明な判断だったかは、誰に聞かなくてもよく分かるでしょう。

「ヒトラー」は、心が弱い人の側には、いつだって寄り添っているわけですから。

情報の判断基準は「気に入るかどうか」ではなく、「必要かどうか」です。

たとえそれが心に逆らうものだとしても、内心では分かるもの。

そういう決意に向き合う勇気と仲間、環境が欲しい方は、FUNに一度来られるといいですよ。ここは「居心地の良さ」で終わるサークルではないのですから。

◆「内定への一言」バックナンバー編

「実力とは、いざという時に発揮される力ではなく、

いざという時を招かない力だ」




こんばんは。今日は久しぶりの「大橋文庫」に行ったら、なんと閉店間際で、おじさんから「まだ見ていっていいよ」と言われ、段ボールや網カゴで「行き場なし」の店内を体験した小島です。

ただでさえ「福岡最狭」を誇るあの古本屋、閉店後はあんなふうになっていたのか…と思った珍しい体験でした。

でも、岡潔さんの伝説の名著『情緒と創造』(講談社)を見つけ、他にも腰を痛めながら、いくつか名著を購入できました。

出色はやはり、もはや通販でも購入困難な『美に生きる』(林武/講談社現代新書)を\100で見つけたことでしょう。これは、FUNの朝の読書会「Business Cafe」をこよなく愛する女子大3年・T地さんに差し上げることにしました。


さて、就活ではそろそろ「エントリーシート」の提出も始まったようで、僕のところにも、添削依頼メールがちょこちょこ来るようになりました。

ということは…「通過の謝礼」の「たけのこの里」が続々届き始める季節がまた到来した、ということです。

皆様にご連絡ですが、今年は「たけのこの里」は遠慮させていただこうと思います。というのは、一昨年と去年、あまりにも多くの「たけのこ」が部屋を占領し、一時は「オレは30代で糖尿病で死ぬのでは?」と思ったからです。

今年は、ES添削は大月さんが担当することになっています。

例年、この時期の大月さんはご飯を食べる時間がないほど忙しくなるので、通過した方は「コンビニおにぎり」などがいいと思いますよ。

僕は「カゴメトマトジュース」で結構です。例年、深夜にわざわざ「ANA通過しました!野菜ジュースでもいいですか?」とか、「電通受かりました!カゴメじゃないとダメですか?」などというメールが来ますが、別に贈らなくてもいいので、夜は寝せて下さいね。

あ、ちなみにメール添削は一切受け付けません。今年は部員と就活コース参加者が倍増したので、毎週土曜日の午後を「ES添削タイム」とし、業界研究と書類・筆記対策をまとめてやろうと思っています。

さて、そのエントリーシートに「書くことがない」と言う学生さんが時々います。

本当にないことはないのですが、「企業」という、今までは一人のお客かバイトとしてしか接したことがない組織に、今度は「社員候補」として対面するわけですから、いくらか緊張もあるのでしょう。

ですから、平素は友達同士だと「あたし、○○には自信あるね」とか言っている能力も、採用試験だと控え目に書いたりする人もいます。

ということで、今日は「コンピテンシー」という、人事評価の分野で重視されて
いる概念から、「能力の評価基準」について考えてみましょう。

「コンピテンシー」が「compete」の派生語であるのは説明不要でしょう。無難に訳せば「競争力」とでも言っておけばよい言葉ですが、人事の世界では若干意味が広がります。

人事の世界では、このコンピテンシーを「安定的、かつ継続的に発揮できる能力」と定義しているからです。


例えば、学生時代に英会話に挑戦し、それをやめてエアロビクスに挑戦し、またやめてアロマセラピーに挑戦し、次は短期留学に挑戦した…という人は「行動力」なる能力がある人と評価すべきか?

答えは「NO」です。

なぜなら、行動力とは「物事に着手する力」ではなく、「着手したことに結果を出す力」を表すからです。取り組んだ物事が所定の結果(初心)に満たない状態で中断、あるいは放置するのは、「行動力がない人間だ」と評価するのが人事の常識です。

また、「試験前になると栄養ドリンクを買って徹夜し、必死の努力で乗り越える人」を、「いざという時の集中力はすごい人」と評価すべきでしょうか?

これも「NO」です。

集中力とは、リスクが来ないうちに事を処理する能力のこと。つまりは「いざという時」を招かない事前の対応力の根幹を成す力で、「いざという時」というシチュエーションがどれだけドラマチックでカッコ良くても、自分の能力や時間を計算できない能力は「欠点」でしかありません。

要するに、「行動力」にしても「集中力」にしても、発揮形態よりは発揮状態が問題になる、ということです。

いくら頑張っているとは言え、もっと早めに取り組んでおけば回避できたリスクのため、夜を徹して頑張っているというのでは、全ての能力は「あってなきがごとし」でしかありません。

リスクとは「賞味期限の切れたチャンス」のことですから、切羽詰まって、必要に迫られてからしか動けず、そうなってからしか能力を発揮できない人は「無能」だと見なすのが採用側の視点です。

なぜなら、「いざという時」、「必要に迫られた時」というのは、自覚している期限や程度を無視した時にしか到来しない状況だからです。

そういう時は、誰でもいつも以上に頑張って当然です。特に、卒業に必要な単位がかかっていて絶対に外せない試験などは、他の予定をキャンセルしてでも頑張るでしょう。

そんな努力は、学生の中では「武勇伝」のネタにはいいとしても、所詮「実力ではない」ということです。

仕事も学生生活と同じで、長期的に取り組む作業です。というより、学生時代の10倍くらい長い作業です。

仕事が日本シリーズのように「年に一度」しかやらない作業であれば、「ここぞという時の勝負強さ」は評価すべき能力でしょうが、長期的作業に「非常時の強さ」など不要です。

それより大事なのは「非常時を招かない地味な継続力」であって、そういうのを「コンピテンシー」と呼んでいるのです。

「今動けば回避可能なリスクを招かず、無理せず臆せず、日々安定的にある状態を持続していける、という前提で発揮される資質」という考え方が「コンピテンシー」です。

能力に「華やかな能力」などありません。華やかなのは結果だけで、能力はいつも地味で目立たないものです。

もし能力が目立つなら、取り掛かりが遅いか計画がまずいかのどちらかでしょう。

ということで、「エントリーシートに書くような目立った能力がない」という不安を持っておられる学生さんは、そういう「目立つ能力」など能力ではないのですから、安心して「平素無理せず発揮、継続していること」を書きましょう。

「友達と話すとき、出しゃばらずに謙虚に聞く側に回ることができます」

素晴らしい。そうやって既に習慣化している能力こそ、プラスになりますよ。

「朝は早めに学校に行って、予習や復習の時間を確保しています」

なんと優れた能力でしょうか。そうやって無理せず誇らず継続できている習慣こそ、伸びる人材にふさわしい行動です。

「誰に対しても、ありがとうとごめんなさいをすぐに言うようにしてきました」

それは絶対にプラスです。徹夜や無理はできても、そういう当たり前のことができない社会人も多いのです。これはポイントが高いですよ。


ということで、「人より目立つ」、「非常時に役立つ」、「珍しい」、「カッコいい」などという要素は、能力評価には全く関係ないことです。

「危ない時に発揮される力」など、実力ではありません。そういうのを選考書類に並べても、「こいつ、学生のくせに背伸びしやがって」と不採用にされるだけです。

それよりも、競わず飾らず、毎日地味に継続している能力の方が数倍カッコいいもの。ですから、そういう「安定的かつ持続的」な資質を、自信を持って記入しましょうね。