■「内定への一言」バックナンバー編


『二度読まなかった本は、一度読むにも値しなかった本だ』

(フリードリヒ・リュッケルト)



FUN Business Cafeと言えば、FUNの発足以来続いている、土曜朝の勉強会です。開始時は補習めいた位置付けでしたが、すぐに学生さんが増え、ロイヤル、ドトール、ベローチェ、ミスドを追い出されて、今は早朝読書会になりました。



その中で読んできた本は、絶版の名著を中心とする35冊で、毎週①ビジネス書、②歴史書、③名作評論、④古典、⑤評伝が1ヶ月でバランス良く回転するように本を選んでいます。



土曜の朝8:00に、北は北九州、南は大善寺から学生さんが集まるこの時間は、とても貴重な「自己省察」の時間であるため、特に大切にしています。



その中で、2回取り上げた本は「人生を変える80対20の法則」と、「読書と人生」しかありません。


特に、「80対20」はまだ書店で手に入るからいいものの、「読書と人生」(河合栄治郎編・教養文庫)は、どの古本屋を探してもまず見つからないといっていい名著です。



なぜかと言えば、この本は河合博士の門下生と友人たちが健筆を揮って、若者のために「読書の素晴らしさ」を懇切丁寧に説いていて、大正~昭和初期に第一級の評価を得ていた学者の精神が詰め込まれているからです。



つまり、「一度買ったら、死ぬまで売らない」という、名作中の名作。この本が今泉のブックオフに\100で売っていたのを見つけた時は、「オレも遂に目が悪くなったか」と思いました。



Business Cafeでは、本書から二人の読書論を紹介しましたが、まだ紹介していない方に、ドイツ文学者として功績を残した高橋健二博士の文章があります。僕の家には高橋博士の「ゲーテ詩集」と「ゲーテ格言集」があり、ともに父が好きだったため、昔からよく読んだ本でした。高校時代に読んだ「ファウスト」も、確か高橋博士の訳だったような…。



博士の教育への情熱を物語るエピソードとして有名なのが、学生紛争で大学が騒がしかった時期に、教鞭を執っていた母校の東京大学で教える傍ら、「先生の講義をわが校でもぜひ!」という九州大学の要望に応えて、なんと、毎週飛行機で九大に講義しに行った、という伝説があります。



「移動が大変じゃないですか」、「よく田舎の大学にまで出講するものだ」という周囲の評判を聞いた博士は、一言…「馬鹿者!伝えたい教師と感動したい若者がいる!これが教育でなくて何なのか!」と一喝し、10年近くも出前授業を続けました。



今じゃ、「10分遅刻(授業料に換算して\380)」なんていうのは当たり前のぼったくり教授も多いのに、さすが、明治生まれの教育者は人物の品格も考えのレベルも違いますね。



この高橋教授の先輩が、FUNでも何人を感動させたか分からない「いきいきと生きよ~ゲーテに学ぶ~」(講談社現代新書※絶版)などを書かれた手塚富雄教授で、そのような偉大な教育者たちの師が河合博士ですから、当時の若者はその「読書論」を競って買い求めたわけです。



高橋博士は、「読書と人生」の後半部分に『読書の回顧』という短い文章を寄稿しており、その冒頭に紹介されている言葉が、博士が愛読した詩人、フリードリヒ・リュッケルトの「二度読まなかった本は、一度読むにも値しなかった本だ」という一言です。



Business Cafeで紹介した文章ではなかったものの、この言葉は僕もとても好きなので、終了後に学生さんに紹介すると、九産大のヤマえもん君が「確かにそうやん!」と会心の笑みを浮かべていたのが印象的でした。



ヤマえもん君のブログの言わんとするところは、30歳を迎えた僕には時々分からないこともありますが、いつも友達を思いやる心と、感性が豊かな学生さんだなあと毎晩ブログを愛読しています。



最近の本は、書店に行っても分かりますが、とにかく「手に取らせよう!」と消費者をバカにしたような単純・過激なタイトルが多くて、よく考えもせずに「最強」、「無敵」、「超速」、「伝説」とかいう言葉を安売りしています。



読者も「忙しい」という理由で書店に来ているのでしょうし、手っ取り早く読めて、すぐに役立つような本を求めているから自業自得なんでしょうが、早く読める本ほど早く使えなくなるものです。手に取ってみると、内容の薄いこと…。明治時代の文章に比べると、カルピスを10回薄めたような浅はかで稚拙な文章で、これが大卒の文章かと呆れてしまいます。



そんな将来を見透かしたように、博士は60年前に「万巻の書を読んでも、二度読み返す本を持たなければ、それは一冊も読んでいないに等しい。ちょうど、万人と付き合っても一人の知己をも得ないのと同じである」と書いています。



「1万人と出会っても、1人の友達もできない」とは、言いえて妙です。そして、「だから私は、二度読むような本を持つことを、今でも人生の喜びとするのである」と続けています。



「また読みたい」と思うことは、「これからの人生に役立てたい」と思ったことにほかなりません。つまり、読書の中に理想の自分を発見し、導かれたのです。



しかし、「また読もう」と思わなかった本は、読んだ時点で思い返すことも、あるいは描くこともなかったという本です。つまり、「一回読んでも価値を見出せなかった」という本で、人に例えれば「宴会で一緒に飲んだが、その後は一度も会ってない」という人みたいなものでしょう。



博士のこのような見識は、人生の核心を突いた洞察だと思います。皆さんの大学生活に当てはめてみたら、これはどういうことになるでしょうか。



もし、専攻の学術書や指定図書を読んだとしても、それを自分の意思で二度読むことがなければ、「何も勉強しなかった」に等しいということです。だって、最初に読んだ時に「これは役立つ!」と将来を描くことがなかったため、何も得られなかったからです。教授の質も本の質もあるかもしれませんが、やはり大きいのは読者の責任です。



もし学生が、「とにかくレポートが出せればいいや」、「これでも選んでおくか」という程度の思いで本を選んでいるなら、それは日々、無知になるために必死で頑張っているようなものです。



だって、頭を怠けさせているから。こんなことを書くと、また読者が減るかもしれませんが、断じて書き進めます(ちなみに、最近生意気な文句を付けて解除する学生がいますが、ちゃんと名前が出てますよ。僕は記憶力がいいので注意して下さいね)。



人生において、最初の取り組みで試みがうまくいく、ということはまずないでしょう。初めからうまくいったら、よっぽどレベルの低いことをやっているだけだ、と考えた方が賢明です。



失敗しているのは、挑戦しているからです。そして、失敗してもそこに描いた理想を投げ捨てず、初心を忘れずに再度取り組むところに、初めて本当の「成長」が期待できるのではないでしょうか。



つまり、同じことを二度やろうと、自分が同じでなければその行動は常に新しく、取り組む人も同様に新しくなっているわけです。サッカーの試合と一緒です。



しかし、多くの人は一度経験したら「大体は分かった」みたいな顔をして、したり顔で語ります。「若い頃は色々やったよ」と経験の数を誇る大人がいますが、その実、モノになっていることは何一つないでしょう。



僕も学生時代、そういう大人に「何をしたらいいか」と聞いたりしたことはありますが、肝っ玉が小さいというか軽薄というか、何かを継続していない大人からは、何ら価値ある答えは得られませんでした。



そもそも、本質や面白さが分かれば、「続けて当然」ではないかと思いますが、なぜ中断したものを「面白い」と言う人がいるのでしょう。



「やってはみたけど、やめた」というような行動に、何か価値があるのでしょうか。そういう行動や経験を「面白い」と若者に語る大人を見ると、頭脳の構造を疑ってしまいます。



僕はそういう無責任なことはしたくないので、学生さんと接する時は、①今も勉強を続けている、②実際にその知識で収入を作れる、③それと関係ある仕事をしている、という基準に満たない内容は、教えないことにしています。



つまり、自分の中で「二度、三度と勉強を重ねるに値すること」だけを、FUNでは取り扱っているわけです。



また、僕がよく知らないことを学生さんが時間をかけて勉強しているなら、そういう時は相手が10歳年下であれ、「それは何?どういう仕組みなんですか?」と教えを受けるようにしています。



僕は学者でも教師でもありませんが、昔かじっただけの内容で人の時間を占有するのは良心が耐え切れないので、せめてそういう、人間として最低限必要な礼儀は、相手が誰であれ守っていきたいです。



僕は挑発的、ナルシスト、自信過剰という短所もたくさんあるため、昔の学者や経営者がよりどころとした本で精神を鍛え、それを実地で試したいと、仕事やサークルのお手伝いを修行として取り組んでいます。



要するに、「やってみて、うまくいかなかったこと」こそ長く腰を落ち着けてやってみよう、という非効率な人生態度なのですが、相対的に見て、この性格で助かっていると感じています。



「色々やったこと」が皆さんの学生時代の価値ではありません。「再挑戦したこと」や「継続したこと」が価値です。



皆さんの部屋には、再読、三読に耐える本が、何冊くらいあるでしょうか。あるいは今までの大学生活で、そういう本を何冊くらい読んだでしょうか。



または、毎日会っても話題が成長し、お互いに新しい自分で遭遇できる友人が、何人いるでしょうか。良い本と良い友達とは、いつも自分を自分たらしめてくれるものです。そんな財産に囲まれた学生生活は、再挑戦と継続から生まれますよ。


今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門41位、就職・アルバイト部門22位です。

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■「内定への一言」バックナンバー編


『読書のスピードはこうして身に付いた』(十八・七・六)




■十ヶ月で千八十三冊


来年あたりに、赤坂近辺に設置を考えている「FUN図書館」の構想を練ったのは、去年の夏あたりだった。



設置といっても、ただ引っ越してリビングを開放するだけのことだが、図書室と講義スペースが確保できる物件はあまりなく、春からは不動産情報誌を見ては、間取りや立地を検討している。



ただ、家と違って本だけは今からでも準備できるので、せっせと買い集めてきた。初めてFUNのお手伝いで学生と接した時、あまりに本を読んでいないことに驚いたのがきっかけだ。



書いた文章を読んでも、使う言葉を観察してみても、教養の薄さを感じずにはいられない完成度。学校の試験は解けたかもしれないが、この知識で社会人になるのを考えると、ぞっとした。



「日頃、何を読んでる?」と尋ねてみると、「え?漫画くらいかな…」という答え。漫画にも質が高い作品があるし、それなりの感動をもたらすものもあるので、漫画を否定するつもりはないが、漫画は「読む」ものではなく「見る」もので、「何を読んでる?」と聞いて「漫画」と返ってきたのには驚いた。



これは大変だ。これじゃ、話したいことも話せない。何とか「本好きの学生」を育てないと…。危機感を持った私は、それ以来約二年、とにかく学生に本を薦め、「自分で買う」ことの大切さを説いてきた。



いくら大学が図書館を充実させようと、あるいは行政が城のような総合図書館を作ろうと、自分で本を買わないような人間に、図書館のありがたみが分かる訳もない。



そもそも「価値がある本」とは、何度読んでも発見がある本で、借りる本ではそういう価値は得られない。一回読んで「面白い」と思った程度では、何も身に付いていないものだ。



大学のテキストを読んだ程度で、何の差が付くというのか。そんなことは、学生なら誰でもやっていることだ。



純粋に自分の問いから生まれた動機をもとに、求めに求めて探り当て、読むために空けた時間を贅沢に占有して読んでこそ、本はその姿を表すものだ。



「レポートのため」とか「義務だから」といった動機で読むのは、ただの時間と金のムダに過ぎない。私は、そういう読み方しか知らずに「本嫌い」になる学生が、本当にかわいそうだと感じる。



そんな二年間のコツコツとした努力が実ってか、今では「ブックオフツアー」なる企画も二ヶ月に一回行われ、読書会や書評の執筆も少しずつ定着してきた。



まだ選び方や読み方といったレベルではないが、とにかく自身の課題を設定し、その解決の材料を本から得て、お互いに紹介しあうといったことは、四年生の間で少しずつ行われている。



そして、こういう良い文化をさらに発展させ、サークルの伝統として確実に定着させたいものだと思いついたのが、「FUN図書館」の開設だった。



去年の夏以来、ブックオフを始めとする古本屋に行っては、学生が興味を持ちそうなテーマの本を手に取り、内容を吟味し、必要なものは値段を気にせず買い集めてきた。ジャンル別に分けると、


①精神鍛錬のため…古典、軍事、戦記、伝記、評伝
②実務知識獲得のため…ビジネス書、専門書、学術書
③視野の拡大のため…歴史書、文明評論、社会評論、比較文化論
④豊かな情操を鍛えるため…名作文学、詩集、歌集、エッセイ、小説
⑤転職・独立準備のため…業界別の名著、経営論、分野別の専門書


といった感じで、その数は一○八三冊に及ぶ。



百円コーナーや半額コーナーから買い集めてきたので、総投資額は四十~五十万円くらいだろうか。夜九時以降や、休日の夜、あるいは平日の午前中などは、三十分でも時間があれば古本屋に足を運び、毎日欠かさず、数冊ずつ買い集めた。既に保有していた蔵書と合わせ、わが家には二千五百冊ほどの本が揃った。



■記憶が得意になった子育て


さて、こうやって買い集めた本のことを話すと必ず、「そんなに読めるの?」という質問を受ける。


しかし、私の答えは決まっている。「読むのより探す方が時間がかかる」だ。聞いた人は驚くが、事実だからしょうがない。



私はどんなに忙しくても、一日四冊の本は読める。余裕がある日なら、十冊読む時もある。毎週土曜の読書会でも、一番読むのが速い学生が読み終わる間に、私は五回読むことができる。しかも、内容を忘れることはまずない。所有している二千五百冊のうち、二千冊はタイトル、著者、出版社も覚えている。



記憶の遍歴をたどってみると、昔から、友達の家の電話番号、車のナンバー、ゲームのパスワードなど、全てをすぐに暗記していた。



今でも、誰がどの業界を志望していて、去年、あるいは一昨年のエントリーシートに何を書いていたか、または模擬面接でどういうことを言っていたかも、ほとんど覚えている。



また、学生がある本が欲しいと言えば、それはどこのブックオフのどのコーナーに、いくらで売っていたかも教えられる。あるいは、「江戸時代の庶民経済が知りたい」、「戦後日本の通貨政策が知りたい」、「日本の会計の成り立ちが知りたい」と具体的な質問があれば、それは誰のどの本の、どんな章に、どういう問題提起とともに書かれていたか、などといった情報も思い出せる。



高校時代は、三年の夏まで大学に行く気がなかったので、受験と聞いても縁のないものだと思っていたが、大学に行くことになって、周囲が「大変、大変」と言ってばかりの受験勉強なるものをやってみたら、一ヶ月で偏差値が四十も上がった。



英語や世界史は、県内でも一ケタの順位で、なぜこんなものが大変なのか、理解に苦しんだほどだった。英語の辞書や世界史の用語集はほとんど全部を丸暗記していたので、百点じゃない方が珍しかった。



別に自慢しているわけではないが、私はこと、記憶に関しては、他人に劣ると感じた経験はない。むしろ、周囲の人たちがなぜ、受験や仕事であれほどの労力と時間をかけて、乏しい結果しか出せないのかが不思議だった。



大学でさらに十以上の外国語を学び、海外勤務を経て四ヶ国語をマスターしてからは、記憶のメカニズムや学習方法にも興味を持つようになり、能率が良い人とそうでない人の差も、考えるようになった。



そこで気付いたのが、能率が悪い人は、「記憶力=覚える力」と思っている、という事実だった。だから、バカの一つ覚えのように線を引き、色を変え、「紙」に覚えさせ続けている、というわけだ。



頭に残るのは数%だろう。全く、全国規模でこんな勉強をさせるのは、国家的損失というほかない。わが家では、そういうふうには習わず、「記憶力=思い出す力」と習った。



例を挙げれば、父が「昆虫」についてある知識を教えてくれたとする。それが大事な知識なら、父は「これは他の虫でも同じだから、しっかり思い出して観察しみなさい」という処理方法を暗示的に教えてくれた。



母も「リーダーシップは、関わる人の力を最大限に引き出す力だからね。社会に出たら思い出しなさいよ」という言い方だった。「大事だから、覚えておきなさい」と、学校の先生がよく言うような諭し方を受けた覚えは、まずない。



子供の私にとって関心があったのは、「どう役立つから大事なのか」、「どう使うようになる知識なのか」であって、両親ともに、子供のこういう好奇心を放置せず、色々と想像力を働かせるような例え話をしてくれたものだった。



その時が来たら、すぐに「思い出せる」ように。つまり、応用方法や自分のパターンを「連想する」という動作とセットにして、一つの知識を分け与えてくれたわけだ。



■「答え」ではなく「問い」を考える


「大事だから、覚えておけ」。こういう言い方に、何か役立つ真理でも含まれているのだろうか。あったとしても、それは暗黙的に「試験に出るから」という前提しかなく、その程度の役立て方、言ってしまえば「終われば捨てる」ような位置付け方で、子供が覚えるわけがない。



そもそも、試験に出るから大事だとは、知識を冒涜した考え方だ。大事なのは「覚えるかどうか」ではなく、「覚えたがるかどうか」であって、覚えたがるかどうかは、「豊かな使い方」を教えられるかどうかによる。つまり、「その知識に感情移入できるかどうか」だ。



FUNでは三年前からよく紹介している話がある。「クイズ問題」と「パズル問題」の話だ。例えば、「3+5」の答えは「8」だ。つまり、「3+5=□」という問い方(考え方)が「クイズ問題」で、これは「答えを考える方法」である。答えは、一つしかない。



一方、「□+□=8」ではどうか。答えは「2+6」でもいいし、「4+4」でもいい。+が-なら、「9-1」でもいいし、「14-6」でもいい。つまり、無限に存在する「答えが8になる組み合わせ」の中から、可能性のあるものを導く、つまり「問いを考える方法」が「パズル問題」というわけだ。



これを歴史に当てはめるなら、「1192年に鎌倉幕府を作った人は?」という問いは「クイズ問題」であり、答えは一つしかない。



しかし、「頼朝はなぜ、劣勢だった短期間に兵を集め、1192年に鎌倉幕府を創設できたのか?」という問いは「パズル問題」であり、答えは様々な形になる。動員する知識も「クイズ」とは比較にならないほど多く、その知識を何度も違った形で当てはめ、検討し、整理して、ようやく一つの仮説が完成するだろう。



あるいは、「木曽義仲は、なぜ志半ばで仲間から疎んじられ、あのような最後を遂げたのか?」と問えば、頼朝や義経を、さらに違った視点から考えることもできる。



さて、記憶のポイントはここだ。こういう問いを繰り返すうちに、自分に知識が不足していることが、ありありと自覚できてくる。源氏と平氏はなぜ、あれほど力の差が開いていたのか、という理由に納得したくなる。



そして、「先に問いがある状態」で、色々と調べ物をすると…。そこには「大輪田泊」という港の存在があったことが分かる。清盛はここで貿易を行い、一時は福原京という都まで設置し、栄華の限りを尽くしていたことも分かる。それは現在の神戸港の原形で、平家の経済基盤を成していた事実を知り、一気に現代と平安末期がつながる。



ここでようやく、頼朝や義仲がなぜあれほど部下を集めるのに苦労したか、あるいは早く戦を進めたかも、合点がいくのだ。それは「資金力がないから」である。



こういう想像をめぐらせて、そこに登場する年号や地名、人名、事件名がテストに出たら、覚えていない方がおかしいくらいだ。なにせ、それらは全て「思考の道具」として駆使した経験があるからだ。


このような「問い方の魔術」は、既にFUNでは「スピーチ塾」で全学生に教えたことだが、これは記憶の強化にも役立つ。



学校の先生は「試験に出ないところは覚えなくていい」と意味不明のことを言うが、試験に出る出ないに関わらず、一つの体系的な意見を構築する過程こそ、記憶を鍛えるのだ。



「太線だけ覚えろ」というような学科教育は、「タイヤ一個で車を運転しろ」と言うのに等しい。記憶の量を制限するのは、子供の想像力や記憶力を腐らせるのに等しい愚行だ。子供も学生も、興味を持てば「いい加減にしろ」というくらい勉強する。詰め込み教育は正しいのだ。詰め込みたくなる動機さえ提示できれば。



このように、ある知識や情報が「記憶」として定着するかどうかは、事前にどのような「問い」を持っているかによる。「試験に出るよ」が、記憶にとって何の役にも立たない動機なのは、入試が終わってからの忘却速度を見ればよい。



だから、記憶力を強化したかったら、テーマを設定して知識を動員し、一つの意見を書いてみることをお奨めする。作文やスピーチほど、記憶が鍛えられる作業はない。



自分の知識を使って、人に説明してみることだ。それで不足が分かっても、心配するには及ばない。そこで新たに得た知識は、どんなに工夫しても、忘れられないだろう。



■外国語が記憶力を活性化する理由


つまりは、読書のスピードを上げるのも、まずは「基礎知識と問い」をしっかりと固めることが肝心、ということだ。



なぜ自分はこの本を読むのか、そう考えて買う。目次や前書きを見て、「自分なら何をどう書くか」をじっくり考える。そして、一気に読む。自分の関心に合致する内容や、新たな発見をもたらす内容が、それこそ「活字の方から」、目に飛び込んでくるようになる。



関係ない部分、あるいは自分も既に考えたことがある部分は、どんどん飛ばす。知らない言葉があっても、戻らない。読み進めれば、文脈で推測できるようになる。このように、問いがしっかりしていれば、関係ある情報から自分の目に飛び込んでくるようになる。



最初のうちは、遅い。こちらに反応できる要素が少ないからである。予備知識も少なく、問いも漠然としている状態での読書は苦痛かもしれないが、それでも一冊を最低三度は読むことだ。回を重ねるごとに自分の意見が構築され、反応が格段に速くなっていく。



慣れてくれば、見開きでページを眺めるだけで、まるで「コピー機」のように情報を一括処理できるようになる。あたかも、昔はやった「ウォーリーを探せ」のように、違和感(関心や疑問)を喚起する部分だけが、モノクロの絵の中の赤い絵の具のように見えてくるだろう。



つまり、速く読むには、多く読み、多く書いて、多くの文字列を素早く読み取る目の訓練が必要だ。慣れてくると、携帯の予測変換機能のように、次に出てきそうな言い回しや言葉を予測できるようになる。



もちろん、それが予測と違っていても構わない。大事なのは、今読んでいる段落を頭の中で要約しながら、次の段落も同時に読んでしまうスピードや連想力だ。



ここに書いてきたことがよく分からないなら、まずは一冊の本を選び、三度熟読してみることをお奨めしたい。既に考えたことがある内容、見覚えのある文字列、親しんだ用語が増えるほど、理解度が上がる一方、スピードも加速されるのが分かるはずだ。



また、同時に「目を慣らす訓練」がしたいなら、外国語、とりわけアルファベットや漢字を使わない、韓国語やタイ語の勉強がよい。



こういう言語は、その文字列がどういう意味をなしているかを読み取れない限り、発音しかできない。最初のうちは、見間違いばかりでイライラする。しかし、それでもグッと耐えて、一つの構文の変化の様子をしっかりと押さえるのだ。途中で投げ出してはいけない。投げ出す人間の理解力は、永遠に止まったままだ。



韓国語であれば、文中に基本形の形で単語が現れることはまずない。しかし、連体修飾や過去形、助詞、語尾表現などをしっかり覚えていけば、徐々に目が慣れて、長文を見ても、自分が知っている箇所から「情報」となって飛び込んでくる。



一瞬で多くを吸収する理解力を身に付けたければ、不慣れな外国語の読解ほど役立つ訓練はない、と私は考えている。地道に活用形態や接続方法、語形変化などを見極める訓練を重ねて、いざ日本語の文章を読むと…。



母国語で文章を読み、書くのは、なんと簡単なことだろう。外国語を学ぶと、恐るべきスピードで日本語が読めるようになっている自分に気付くのは、人生でなかなか得られない快感だ。



さらには、大卒の人が一日一冊でもひいひい言っているのに、私はゆったりとリラックスしながら、その十倍も読めてしまうのは、不公平としか言いようがないと感じる。逆じゃなくて本当に良かった。一日に一冊しか読めなかったら、あまりの効率の悪さに発狂しているかもしれない。



本を速く読むということは、情報収集の質が低下することではない。むしろその逆で、早く理解し、連想できるから、どんどん進むのだ。



時々じっくりと物思いに耽ることもあるが、それでも三十分あれば、ハードカバー一冊が十分に読める。人の十倍読めるということは、十倍の時間を節約し、十倍の知識を身に付け、十倍の労力と、時にはコストをも節約するということだ。



そのために一年くらい努力して、速読を練習してみるのは、安すぎる努力だ。その一年が長いと感じる人は、一生ムダを垂れ流して苦労するしかないだろうが、「我こそは」と思う人は、以下の方法で練習してみてはどうだろうか。



①あまり読み慣れないテーマの本を一冊選び、三回熟読する。
②自分の感じたことを中心に、その本を要約してみる(ワード二枚程度)。
③分からなかった言葉を調べ、正確に理解する。
④その著者や、似通ったテーマの本を同様の読み方で読む。
⑤再度、最初に選んだ本を読んでみる。



二冊の本を、都合七回読むわけだ。


⑤の段階で読むと、①の段階の五倍くらいのスピードで読めるのが分かるはずだ。そして同時に、よく言われるところの「斜め読み」のような読み方ができているのに気付き、しかも内容を理解している自分に気付いて、嬉しくなるだろう。



しかし、このようなテクニックにもまして大切なのは、最低百日程度、継続することだ。百日くらい同じ行動が繰り返せなくて、新しい知識や能力が欲しいというのは、ムリな相談である。



何かをやろうとして「頑張ります」という若者はいるが、大抵、すぐに投げ出してしまう。投げ出す速さも知能に比例しているようで、口だけの人間ほどすぐやめる。私にも、他に教えたいことはいくらもあるが、百日程度継続できない知性、精神力では、「1+1」くらいしか理解できないだろうと思うので、余計な試練は課さないことにしている。



一生使える力を付けたいと思ったら、すぐに成果が出るようなレベルの低い行動に頼ってはいけない。誰もがやれるが、面倒くさがってやらないことを地道に続けるしか、実力を付ける方法はない。



学生はよく、「今遊ばなかったら損」とか言うが、どう考えても「一生遊べないこと」の方が損ではないのか。学生時代にサボったばかりに、社会に出ても生活費で苦しみ、毎日やせ我慢で過ごしている社会人も大勢いる。



そういう人間の共通点は、「本を読んでいないこと」だ。もっと言えば、「読もうとしない人」であり、良書を薦めても「忙しいから読めない」という人間のことだ。



しかし、事実はいつも「読まないから忙しい」である。自分を客観視する機会を持たない人間は、思うがままに生き、働くしかないだろう。「自分なり」という最低の能率に頼りながら。



成長が実感できない忙しさなど、何時間繰り返してもムダだ。忙しいことが忙しくなくなるのが、改善や成長ではないのか。賢明な学生の皆さんには、今のうちにぜひ「効率的な猛勉強」の習慣を形成し、社会に出て楽をしてほしいものである。



今日もお読みいただき、ありがとうございます。

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■「内定への一言」バックナンバー編


「若いうちは活字のメシを食え」(土光敏夫)




「FUNに入って、読む本が変わった」、「FUNに入って、本を読むようになった」という声をよく聞きます。


以前、どのような本を読まれていたかは知りませんが、FUNでは経営や経済関係の実務書のほか、特に歴史や古典をよく読むように薦めています。


FUNは「酒なし、金なし、コンパなし」のサークルなので、空いた時間を読書に充てて苦痛ではない学生が、多く集まっています。



また、最近は「BOOK OFFツアー」なる小旅行も、誰が始めたのかは分かりませんが、実施3回目にして、ようやく定着してきました。


イナゴかピラニアのように古本屋に押しかけ、意中の本を買い付けようというこの半日旅行で、「一生の財産」となるような本を見つけた方も、多くいます。


また、最近では西南のM君、N君、I君たちが「藤田田」にはまり、経営や会計を熱心に勉強している姿は、思わず「明日提出のレポートを書いているのか?」と勘違いしそうなくらい、真剣です。


「今の自分」を「未来の自分」に引き上げてくれる一冊に出会うと、寝る時間も惜しく思えてくるのは不思議です。



昔、東芝の会長を務め、後は経団連会長までも務めて、財界活動で大きな業績を残した土光敏夫さんも、若者を見たら、「学生諸君、君たちは育ち盛りだから、一日四食の食事が必要だ。四度目の食事ってのは、本のことだ。若いうちは、とにかく活字のメシを食え」とアドバイスを行ったそうです。



本を読まないことの理由として一番多いのは、「忙しい」です。しかし、これはFUNでも何度も言っている通り、真っ赤な嘘で、正確には「本を読まないから忙しい」のです。


読まないから自分を客観視できず、新しい知識も得られず、同じような行動と失敗を繰り返しているだけです。



では、名著とはどうやって探せばいいのでしょうか?「本の選び方」については、学生さんからよく聞かれるので、出版社出身の経験を生かして、今日はノウハウを公開してみます。



時々、学生さんとブックオフに行くと、学生さんが「小島さん、探したけどありませんでした…」と言う本を、僕が10秒くらいで見つけることがあります。その様子を見て、「やっぱり、毎週来てると覚えるんですね」と言う学生さんもいます。



いえいえ。僕は確かに、時間があれば古本屋に足を運ぶようにはしていますが、同じ店に毎週行くことはありませんよ。では、どうして早く見つけることができるのかと言うと、それにはいくつかの条件があります。皆さんは「重版」という言葉を知っていますか?あるいは「版権」という言葉を知っていますか?



「重版」とは、「版を重ねること」です。出版社では、どの書籍も新規刊行時に、「この本はこれくらい売れるだろう」という予測を立て、1万部なら1万部を、最初に印刷します。


一度印刷したら、「売れなかったから、紙からインクをはがす」なんてことは、物理的に不可能です。本はリサイクルが利かないため、売れなかったらその末路は「断裁処分(廃棄)」しかありません。


だから、出版社にしてみれば、予測した部数が全部売れるかどうかは、「子供が学業を終え、社会に巣立つ姿を見る」のと似たような、ヒヤヒヤした気持ちになるプロセスです。



そして、いざ発刊…!書籍の販売には、「書籍流通商社」という特殊な商社が介在していて、その代表といえば、トーハン(東販)とニッパン(日販)です。



セブンイレブンの鈴木会長は、若い頃、トーハンで修行したのは有名な話ですよね。セブンイレブンの陳列のうまさは、実は書店の陳列で鍛えられたものかもしれませんよ。



書籍流通商社は、紀伊国屋や丸善、ジュンク堂といった全国規模の大手書店の「売れ筋の場所」を確保し、全国津々浦々に、委託された本を流通させていきます。



出版社から営業や販売担当の社員を派遣して、全国の書店に配布するなんてことは、物理的にも時間的にも、コスト的にも不可能なため、書籍の世界には、このように独特の流通網が存在しています。



また、書籍は空間も重量もかさむため、売れなかったら即回収し、次の書籍と入れ替えます。日の目が当たるのは「数日間」と、厳しい世界なのです。



ちなみに、トーハンなどに任せれば、「こんな所に置いてもらえるのか」と思うほど良い場所(エレベータ前やレジの前)に設置してくれるのですが、その分、手数料もかさみます。



僕は独立前に勤めていた出版社で、最年少だったため、月に1度、マツダレンタカーでファミリアワゴンを借り、「配本担当」をやりましたが、トーハンに任せる経費も惜しんで大手書店に設置をお願いしに行くと…次の週には、「引き出しの中」扱いでした。これは本当に悔しいことでしたが、どの世界でも、お金のない者は弱いということです。



さて、このように出版社、流通商社、書店が一体となった努力を経て、最初の1万部が完売すると、それはそれは「大喜び」です。


だからといって、分譲マンションのように「完売御礼」などという張り紙を貼るわけではありません。売り切れると当然のように、消費者から「○○ないの?」という注文が来ます。そして、当初予定した1万部に次ぐ、「2回目の印刷」が行われるのです。



この、出版社や著者にとって最高に嬉しい瞬間こそ、「重版(増刷)」と呼ばれる顧客からの「アンコール」です。だって、メーカーと顧客の力関係が逆転し、お客さんが「欲しい」と言うから印刷するのです。


もう、需要が存在しているのですから、経済の理屈から言っても、たいへん有り難い状況です。どの業種の人でも、「注文に追いつかない」という状態が自社に到来したら、喜ぶはずですよね。



こうして、2度目の印刷で発刊された本には、「奥付」(おくつき。本の一番最後にある発行年月日、著者、発行人、出版社などを記載した囲み)の部分に…「第2版」とか「第2刷」と記載されます。



この期間が短ければ短いほど、前回の印刷分が早く売り切れた、ということです。最初の方が増刷頻度が早く、「1年後にはからっきし」という本は、「ベストセラー」と騒がれただけで、ブームが終わった本です。


僕はよく、古本屋で本の最後のページを「じ~っ」と見つめていますが、あれは実は、増刷ペースを年度別に計算しているだけです。出版社出身の人間の、悲しく奇妙な習慣だと放っておいて下さい。



本の世界では、大量の部数を売ることが必ずしも良いわけではありません。そういう本であれば、著者に多額の印税を払わなければならないし、契約金や権利金などもかさみます。


また、一般大衆の間に爆発的にヒットした本は、あっという間に飽きられ、売れなくなります。ベストセラーは旬が短く、売りにくいのです。


その点、広告期間が切れても売れるロングセラーは、「口コミ」による販売なので、利益も大きいもの。



「ベストセラー」より「ロングセラー」の方が、出版社にとっては有り難いものです。それは、市場から継続的に注文があり、リスクが少なく、利幅も普通以上で、安全確実な「孝行息子」だからです。


だから、長期間、コンスタントに版を重ねた本ほど、読者の支持と信用で広がり、時代や社会情勢によらず、コツコツと読み継がれた「良書」だと言えるでしょう。まさに、FUNと同じですね。



試みに、いくつかの本の「重版」の数字を挙げてみると…。(僕が持っていなくても、ちょっと書店で調べた本も挙げてみます)


【最近のベストセラー ※最新の数字は書店で調べて下さい】

■「世界の中心で愛を叫ぶ」…7版
■「五体不満足」…12版
■「ハリー・ポッター」…8版
■「金持ち父さん 貧乏父さん」…16版


といった感じです。いやはや、ヒット作だけあって、出版社も嬉しい誤算続きだったことでしょう。



それでは、次はFUNでよく紹介する本の場合です。
【古めのロングセラー ※最新の数字は書店で調べて下さい】


■「知的生活の方法」…57版(28年所要)
■「人を動かす」…147版(77年)
■「甘えの構造」…151版(36年)
■「論文の書き方」…93版(51年)
■「後世への最大遺物」…78版(88年)
■「空気の研究」…30版(22年)
■「ユダヤの商法」…299版(29年)
■「野心家の時間割」…28版(24年)


と、最近のベストセラーとは「ケタ違い」に長く、読者に愛されていることが分かります。「ユダヤの商法」を書いた藤田田さんのシリーズは、どれも50版以上という「バケモノ」的ヒットで、これによっても、日本人の多くが「お金が全てじゃない」と人前で口にするのは、嘘だと分かります。



同書は「300版」で絶版となり、それまでに所要した年数は、約30年。つまり、「1年で10版」ということですから、刊行以来、「ほぼ毎月売り切れた」という計算です。さすが田さん、本までも、ハンバーガーのように売り切ってしまうなんて。



もし仮に、短期間で重版が相次いでいるのなら、出版社が話題性を作るために、わざと最初の分は少なく印刷し、「続々重版!」と宣伝するために売り惜しんだ可能性もあります。


しかしこれらの本は、とてもそんな計画が通用するような年数ではありません。長く深く、時代を超えて読み継がれているのです。もしかしたら、親が子供に薦めた可能性もあります。同じ本を親子で読めるなんて、こんな幸せも珍しいですよね。



FUNでは、今までメルマガや講義などを通じて200冊以上の本を紹介してきましたが、その大半は、このような「長期的重版」の実績を持つ良書ばかりです。「ベストセラーよりロングセラー」というのは、ロングセラーの方が信じて間違いないからです。新しければいいのではありません。「最適」が一番いいのです。



ちなみになぜ、僕がこういうことを知っているかと言うと、僕の叔父は40年前、ダイヤモンド社の出版部長だった家辺壮之助さんと一緒に「マネジメント社」を設立し、そこの編集長として、大前研一さんや篠田雄二郎さん、渡部昇一さんの本を出してきたからです。



今でもブックオフで、マネジメント社の古い本を見ると、「本書は小島編集長と一緒に書き上げた」などと書いてある本もあって、それが重版だったりすれば、僕も嬉しくなってしまいます。



小さい頃から、叔父が「ジューハン」とか「ゾーサツ」と言っていたので、知らないうちに僕も詳しくなってしまったのでした。そして甥の僕も、経済誌の世界へ…。血は争えないものです。



書籍の売れ方は、音楽CDの売れ方と似ています。浜崎あゆみは100万人が買うかもしれません。しかし、そのようなリスナーは、他のヒット曲もすぐに買うでしょう。いわば「ポリシーのない客」で、そのような「浮動層」に支持されたアーティストや作家は、あまり幸運とは言えません。



客が年をとれば、廃れていくからです。今では浜崎あゆみの曲は、この時間になると走り出す暴走族の車から、大音響で流れています。avexがそういう層を狙っていたのなら、本望でしょうが…。



それよりも、ジャズやヘビメタのように、「絶対に買い続ける10万人」を相手に商売を行った方が、客単価も販売効率も高く、賢明だと言えます。



昔「爆発的ヒット」と騒がれた曲を思い出してみて下さい。それらのアーティストは、今では「そういえば、そんなのがおったね」と回顧されるだけの話題に堕していることさえあります。以上が、良い本を見分けるための「重版」の説明です。



次は「版権」について。「版権」というのは、「この著者のこの本を、出版していい権利」という意味です。この権利は、面白いことに、不動産物件の権利のように売買されているのです。



版権の中で最もよく知られているのは、「翻訳権」でしょう。つまり、「翻訳して、自国で売ってよい」という権利で、これは「版元(最初に手がけた出版社)」との交渉で決めます。外国書では、やはり大手の新潮社や角川書店が強いです。また、TBSブリタニカや創元社などは、発足自体が洋書の翻訳出版を目指して生まれた出版社だと言えます。



さらに、僕は読んだこともなく、そのコーナーを通るだけで逮捕されそうな気分になる「ハーレクイン」などは、カナダで60年前に生まれた「ロマンス専門」の出版社です。ここは、直営の子会社を世界中に設立しています。



ハーレクインは、「女性は恋の話が好きで、聞いた秘密は隠せない」という全世界共通の女性心理をついて、リチャード・B・キャッスルがカナダで創業した会社です。当初は料理関係の本も出していたそうですが、71年にP&Gからローレンス・ヘイジーを新社長として迎えるや、「恋愛一本」路線に切り替えています。



その手法は徹底していて、

■総ページ数は180~250ページにすること
■主人公は、読者が共感できる範囲で理想的な人物にすること
■前半で必ず、主人公を別れさせること
■最初の30ページ以内にラブシーンを入れること
■再会は、劇的で予想が付かない形にすること
■最後は必ずハッピーエンドで終わること


というルールを作り、世界中から恋愛小説を募集して、自社ブランドで販売しています。 あらゆる恋愛小説、ドラマ、映画を徹底的に研究した結果、統計的にこのパターンが、一番売れると判明したそうです。


つまりは、ハリウッド映画と同じ「計画的感動」。日本で言えば「タイムボカンシリーズ」か「水戸黄門」と同じで、まさに、マクドナルドのハンバーガーと同じ「工業品」としての発想です。なかなか売れないのは、「ハッピーエンドが嫌いなフランス人」だけだそうで、日本でもよく売れているようです。



「自分の体験を誰かにしゃべりたい女性」や、「誰かの話を伝えたい女性」は世界中にいるわけですから、材料の仕入れには困らない、実に優れた「美人投票」式の販売手法だと言えます。専属のライターもいるわけですから、文章が下手でもネタが面白ければ、いっぱしの作品に仕上げてもらえる、という仕組みです。ただ今「ミニ事業」を計画している西南のM君、N君、これは参考になりますよ。



このように、各出版社にはジャンルや販売網における強みがあって、それを補完しあおうという形で生まれたのが、「版権」です。


例えば、ハードカバーの新刊を買うと、平均的には1,500~2,500円といった価格帯でしょう。一方、文庫だと新刊でも400~800円くらいで買えてしまいます。つまり、「ハードカバーの方が文庫より利幅が大きい」というわけで、どの出版社も、新刊はハードカバーで出したがります。


文庫になるのは、ハードカバーである程度の人気が確認できた本や、販売網が確立できた本、ハードカバーで経費を回収できた本が多くなるのは、当然のことです。そして、各出版社とも、ハードカバー部門とは別に、大抵「文庫部門」を持っています。


・講談社…講談社文庫、現代新書、+@文庫、学術文庫など
・角川書店…角川文庫、角川oneテーマ新書、ハルキ文庫など
・祥伝社…NONブック、黄金文庫、祥伝社文庫など
・PHP…PHPビジネスライブラリー、PHP文庫など
・日本経済新聞社…日経文庫、日経ビジネス人文庫など

です。


これは、何を意味しているのでしょうか?これは、「ハードカバーで見つからなくても、新書や文庫で見つかる可能性がある」ということです。逆も真なりです。例えば、保守系出版社の代表格と言えば、菊池寛が創業した「文藝春秋」ですよね。



文春のハードカバーは、元首相や論壇の大御所が書くことが多く、単価が3,000円近くすることもあります。文春がハードカバーで出した本が、計画通りに1年間で数回、版を重ねたとしましょう。


その次は、自社系列の「文春文庫」で再販します。


しかし、例えば文春が「教育再建」のようなテーマで出した本が、想定していた教育関係者やお年寄りの他に、企業経営者やサラリーマンに支持され、そちらの方面でも人気を博したとします。



そういう場合、保守陣営や政財界に支持層が多い文春よりも、ビジネスマンに強いPHPや日経系列の出版社に任せた方が、より効率的にさばけるのではないでしょうか?それに、PHPや日経ビジネス人文庫にしても、既にハードカバーで知名度と定評を獲得している本であれば、安心して扱えます。



ここで、「版権」が登場します。版元(ここでは文春)と権利取得を希望する出版社(PHPなど)が交渉し、その本を販売する権利を売却してしまうわけです。売却すれば、文春には株式売却のような譲渡益が入るし、購入した出版社は、以後その本から生じる利益を受け取ることができます。


株式と全く同じ仕組みです。このようにして、自社で刊行していない本すら、権利の調整で扱うことができるのです。これが「版権」の売買です。



ということは、これは何を意味するのでしょうか?それは、「仮にその出版社の本がなくても、他社で見つかる場合がある」ということです。


FUNの一部で人気の、祥伝社の「知的サラリーマンシリーズ」は、もう30年近く前の企画モノですが、この企画を担当した編集者は、同社の打田良助編集長です。この打田さんは後に独立し、さらに自分の好きなテーマを扱うため、「クレスト社」という出版社を設立しています。同社の書籍の奥付には、「発行人打田良助」と書いています。



「編集人」とは、その本の編集・発刊に付き添った「コーチ」で、「発行人」とは、その本の刊行を担当した会社の責任者(監督)、と考えればOKです。通常、発行人は出版社の社長が兼任しています。


その出版社がどのタイプの言論が好きで、どういう作者を応援しているかを知っておくと、「この本は、文庫なら○○社が出しそうだな」と勘が働くようになりますが、この勘は、僕のように本に関する例外的な環境で育った人間でないと、なかなか持てないと思います。


ただ、「保守・革新」、「ビジネス系」、「大衆路線」などの区分けを知っておくだけでも、ずいぶん役立ちます。



とまぁ、長々と書いてきましたが、実際は僕が本を選ぶのについて来て、実際に目で確かめ、足で体験するのが一番です。「良い本を選びたい」、「意中の本を探したい」という学生さんのためなら、いつでもお手伝いするので、本の見極め方を学びたい方は、遠慮なく言って下さいね。オーダーメードの「ミニブックオフツアー」を開きますよ。




■今日の一冊 「税法入門」(佐賀潜/光文社)


本書は「法律」シリーズで、法律の勉強をしたことがない僕にも分かりやすく、他にも商法、労働法、不動産法、民法、刑法などの「入門」があります。僕は税法と商法、不動産法がお気に入りです。


弁護士と小説家を兼ねる佐賀さん(PN)が、一般人が疑問を持ちやすい場面を設定し、分かりやすくも本質的な法律解釈をしてくれていて、初心者でも経営者でも読みやすい仕上がりです。ただ、いちいちサブタイトルに「酒と女で失敗しないために」とか「臭い飯を食わないために」、「脱税者の汚名を受けないために」などと書いてあり、一抹の怪しさも漂う装丁です。


ブックオフには100円で置いてあります。別に法律に興味がなくても、読んでおくだけで世の中の仕組みや権利関係が勉強できるので、「カバンに一冊」という目的の本としては、最適のシリーズの一つだと思います。



■今日の質問 「時々大学を中退したくなります」(熊本学園大3年Iさん)


…というメールをいただきました。僕が大学中退なので、勇気を持って書いて下さったのでしょう。ありがとうございます。ただ、どういう理由で中退したいのかは分かりませんが、「中退したい」と思っている時は、冷静に自分を見ることが難しく、「大学が退屈でたまらない」とか、「中退すれば何とかなる」と思ってしまいがちです。



今が嫌に思えるほど、未来はその反動で明るく感じるでしょう。僕は別に中退には反対しません。一つの条件を除いては。それは、「中退して何をやるか」を決めておくことです。ただ辞めるだけで、その後が良くなることはありません。これはバイトも会社も同じです。中退は手段に過ぎず、その後が充実してこそ、輝かしい経歴になるのです。ただ「嫌だ嫌だ」と中退しても、その先もまた、「中退したから、こんなにきついんだ」ということになりかねません。



Iさんはなぜ中退したいのでしょうか?中退してまでやりたいことは、大学にいてできる可能性はありませんか?今やらねば、将来的にも損失が大きくなる種類の目標でしょうか?もしそうなら、迷わずすぐに中退し、次に取り掛かることです。ただ、まだ具体的な目標もなく、漠然と「辞めたい」と思っているだけなら、とどまった方が良いでしょう。世の中には、「中退」を脱落者と見る人の方が多いのは事実です。中退でいっぱしの成果を出すのは、卒業してからやるよりも、難しいと感じます。



僕も最初は学力などを疑われましたが、それはそれは必死に勉強し、筆記試験や一般常識でも、大学生に負けることはなくなりました。現役大学生よりも勤勉で有能になれば、かえって注目され、尊敬されたりもして、僕は今ではよかったと思っていますが、中退して2~3年は、数人から「もったいない」と言われたりもしました。


「もったいない」という周囲の言葉の根拠は、「大学を卒業していれば、もっと良い将来もあったのに」という同情的予測でしょうが、幸い、僕には当てはまりませんでした。


人生には時々、悔しさや怒りも必要です。それを原動力にして頑張るのはお勧めしませんが、どうしても、と思える対象があるなら、迷わずすぐに中退届を出しに行きましょう。



今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門43位、就職・アルバイト部門27位です。

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