■「内定への一言」バックナンバー編


『読書のスピードはこうして身に付いた』(十八・七・六)




■十ヶ月で千八十三冊


来年あたりに、赤坂近辺に設置を考えている「FUN図書館」の構想を練ったのは、去年の夏あたりだった。



設置といっても、ただ引っ越してリビングを開放するだけのことだが、図書室と講義スペースが確保できる物件はあまりなく、春からは不動産情報誌を見ては、間取りや立地を検討している。



ただ、家と違って本だけは今からでも準備できるので、せっせと買い集めてきた。初めてFUNのお手伝いで学生と接した時、あまりに本を読んでいないことに驚いたのがきっかけだ。



書いた文章を読んでも、使う言葉を観察してみても、教養の薄さを感じずにはいられない完成度。学校の試験は解けたかもしれないが、この知識で社会人になるのを考えると、ぞっとした。



「日頃、何を読んでる?」と尋ねてみると、「え?漫画くらいかな…」という答え。漫画にも質が高い作品があるし、それなりの感動をもたらすものもあるので、漫画を否定するつもりはないが、漫画は「読む」ものではなく「見る」もので、「何を読んでる?」と聞いて「漫画」と返ってきたのには驚いた。



これは大変だ。これじゃ、話したいことも話せない。何とか「本好きの学生」を育てないと…。危機感を持った私は、それ以来約二年、とにかく学生に本を薦め、「自分で買う」ことの大切さを説いてきた。



いくら大学が図書館を充実させようと、あるいは行政が城のような総合図書館を作ろうと、自分で本を買わないような人間に、図書館のありがたみが分かる訳もない。



そもそも「価値がある本」とは、何度読んでも発見がある本で、借りる本ではそういう価値は得られない。一回読んで「面白い」と思った程度では、何も身に付いていないものだ。



大学のテキストを読んだ程度で、何の差が付くというのか。そんなことは、学生なら誰でもやっていることだ。



純粋に自分の問いから生まれた動機をもとに、求めに求めて探り当て、読むために空けた時間を贅沢に占有して読んでこそ、本はその姿を表すものだ。



「レポートのため」とか「義務だから」といった動機で読むのは、ただの時間と金のムダに過ぎない。私は、そういう読み方しか知らずに「本嫌い」になる学生が、本当にかわいそうだと感じる。



そんな二年間のコツコツとした努力が実ってか、今では「ブックオフツアー」なる企画も二ヶ月に一回行われ、読書会や書評の執筆も少しずつ定着してきた。



まだ選び方や読み方といったレベルではないが、とにかく自身の課題を設定し、その解決の材料を本から得て、お互いに紹介しあうといったことは、四年生の間で少しずつ行われている。



そして、こういう良い文化をさらに発展させ、サークルの伝統として確実に定着させたいものだと思いついたのが、「FUN図書館」の開設だった。



去年の夏以来、ブックオフを始めとする古本屋に行っては、学生が興味を持ちそうなテーマの本を手に取り、内容を吟味し、必要なものは値段を気にせず買い集めてきた。ジャンル別に分けると、


①精神鍛錬のため…古典、軍事、戦記、伝記、評伝
②実務知識獲得のため…ビジネス書、専門書、学術書
③視野の拡大のため…歴史書、文明評論、社会評論、比較文化論
④豊かな情操を鍛えるため…名作文学、詩集、歌集、エッセイ、小説
⑤転職・独立準備のため…業界別の名著、経営論、分野別の専門書


といった感じで、その数は一○八三冊に及ぶ。



百円コーナーや半額コーナーから買い集めてきたので、総投資額は四十~五十万円くらいだろうか。夜九時以降や、休日の夜、あるいは平日の午前中などは、三十分でも時間があれば古本屋に足を運び、毎日欠かさず、数冊ずつ買い集めた。既に保有していた蔵書と合わせ、わが家には二千五百冊ほどの本が揃った。



■記憶が得意になった子育て


さて、こうやって買い集めた本のことを話すと必ず、「そんなに読めるの?」という質問を受ける。


しかし、私の答えは決まっている。「読むのより探す方が時間がかかる」だ。聞いた人は驚くが、事実だからしょうがない。



私はどんなに忙しくても、一日四冊の本は読める。余裕がある日なら、十冊読む時もある。毎週土曜の読書会でも、一番読むのが速い学生が読み終わる間に、私は五回読むことができる。しかも、内容を忘れることはまずない。所有している二千五百冊のうち、二千冊はタイトル、著者、出版社も覚えている。



記憶の遍歴をたどってみると、昔から、友達の家の電話番号、車のナンバー、ゲームのパスワードなど、全てをすぐに暗記していた。



今でも、誰がどの業界を志望していて、去年、あるいは一昨年のエントリーシートに何を書いていたか、または模擬面接でどういうことを言っていたかも、ほとんど覚えている。



また、学生がある本が欲しいと言えば、それはどこのブックオフのどのコーナーに、いくらで売っていたかも教えられる。あるいは、「江戸時代の庶民経済が知りたい」、「戦後日本の通貨政策が知りたい」、「日本の会計の成り立ちが知りたい」と具体的な質問があれば、それは誰のどの本の、どんな章に、どういう問題提起とともに書かれていたか、などといった情報も思い出せる。



高校時代は、三年の夏まで大学に行く気がなかったので、受験と聞いても縁のないものだと思っていたが、大学に行くことになって、周囲が「大変、大変」と言ってばかりの受験勉強なるものをやってみたら、一ヶ月で偏差値が四十も上がった。



英語や世界史は、県内でも一ケタの順位で、なぜこんなものが大変なのか、理解に苦しんだほどだった。英語の辞書や世界史の用語集はほとんど全部を丸暗記していたので、百点じゃない方が珍しかった。



別に自慢しているわけではないが、私はこと、記憶に関しては、他人に劣ると感じた経験はない。むしろ、周囲の人たちがなぜ、受験や仕事であれほどの労力と時間をかけて、乏しい結果しか出せないのかが不思議だった。



大学でさらに十以上の外国語を学び、海外勤務を経て四ヶ国語をマスターしてからは、記憶のメカニズムや学習方法にも興味を持つようになり、能率が良い人とそうでない人の差も、考えるようになった。



そこで気付いたのが、能率が悪い人は、「記憶力=覚える力」と思っている、という事実だった。だから、バカの一つ覚えのように線を引き、色を変え、「紙」に覚えさせ続けている、というわけだ。



頭に残るのは数%だろう。全く、全国規模でこんな勉強をさせるのは、国家的損失というほかない。わが家では、そういうふうには習わず、「記憶力=思い出す力」と習った。



例を挙げれば、父が「昆虫」についてある知識を教えてくれたとする。それが大事な知識なら、父は「これは他の虫でも同じだから、しっかり思い出して観察しみなさい」という処理方法を暗示的に教えてくれた。



母も「リーダーシップは、関わる人の力を最大限に引き出す力だからね。社会に出たら思い出しなさいよ」という言い方だった。「大事だから、覚えておきなさい」と、学校の先生がよく言うような諭し方を受けた覚えは、まずない。



子供の私にとって関心があったのは、「どう役立つから大事なのか」、「どう使うようになる知識なのか」であって、両親ともに、子供のこういう好奇心を放置せず、色々と想像力を働かせるような例え話をしてくれたものだった。



その時が来たら、すぐに「思い出せる」ように。つまり、応用方法や自分のパターンを「連想する」という動作とセットにして、一つの知識を分け与えてくれたわけだ。



■「答え」ではなく「問い」を考える


「大事だから、覚えておけ」。こういう言い方に、何か役立つ真理でも含まれているのだろうか。あったとしても、それは暗黙的に「試験に出るから」という前提しかなく、その程度の役立て方、言ってしまえば「終われば捨てる」ような位置付け方で、子供が覚えるわけがない。



そもそも、試験に出るから大事だとは、知識を冒涜した考え方だ。大事なのは「覚えるかどうか」ではなく、「覚えたがるかどうか」であって、覚えたがるかどうかは、「豊かな使い方」を教えられるかどうかによる。つまり、「その知識に感情移入できるかどうか」だ。



FUNでは三年前からよく紹介している話がある。「クイズ問題」と「パズル問題」の話だ。例えば、「3+5」の答えは「8」だ。つまり、「3+5=□」という問い方(考え方)が「クイズ問題」で、これは「答えを考える方法」である。答えは、一つしかない。



一方、「□+□=8」ではどうか。答えは「2+6」でもいいし、「4+4」でもいい。+が-なら、「9-1」でもいいし、「14-6」でもいい。つまり、無限に存在する「答えが8になる組み合わせ」の中から、可能性のあるものを導く、つまり「問いを考える方法」が「パズル問題」というわけだ。



これを歴史に当てはめるなら、「1192年に鎌倉幕府を作った人は?」という問いは「クイズ問題」であり、答えは一つしかない。



しかし、「頼朝はなぜ、劣勢だった短期間に兵を集め、1192年に鎌倉幕府を創設できたのか?」という問いは「パズル問題」であり、答えは様々な形になる。動員する知識も「クイズ」とは比較にならないほど多く、その知識を何度も違った形で当てはめ、検討し、整理して、ようやく一つの仮説が完成するだろう。



あるいは、「木曽義仲は、なぜ志半ばで仲間から疎んじられ、あのような最後を遂げたのか?」と問えば、頼朝や義経を、さらに違った視点から考えることもできる。



さて、記憶のポイントはここだ。こういう問いを繰り返すうちに、自分に知識が不足していることが、ありありと自覚できてくる。源氏と平氏はなぜ、あれほど力の差が開いていたのか、という理由に納得したくなる。



そして、「先に問いがある状態」で、色々と調べ物をすると…。そこには「大輪田泊」という港の存在があったことが分かる。清盛はここで貿易を行い、一時は福原京という都まで設置し、栄華の限りを尽くしていたことも分かる。それは現在の神戸港の原形で、平家の経済基盤を成していた事実を知り、一気に現代と平安末期がつながる。



ここでようやく、頼朝や義仲がなぜあれほど部下を集めるのに苦労したか、あるいは早く戦を進めたかも、合点がいくのだ。それは「資金力がないから」である。



こういう想像をめぐらせて、そこに登場する年号や地名、人名、事件名がテストに出たら、覚えていない方がおかしいくらいだ。なにせ、それらは全て「思考の道具」として駆使した経験があるからだ。


このような「問い方の魔術」は、既にFUNでは「スピーチ塾」で全学生に教えたことだが、これは記憶の強化にも役立つ。



学校の先生は「試験に出ないところは覚えなくていい」と意味不明のことを言うが、試験に出る出ないに関わらず、一つの体系的な意見を構築する過程こそ、記憶を鍛えるのだ。



「太線だけ覚えろ」というような学科教育は、「タイヤ一個で車を運転しろ」と言うのに等しい。記憶の量を制限するのは、子供の想像力や記憶力を腐らせるのに等しい愚行だ。子供も学生も、興味を持てば「いい加減にしろ」というくらい勉強する。詰め込み教育は正しいのだ。詰め込みたくなる動機さえ提示できれば。



このように、ある知識や情報が「記憶」として定着するかどうかは、事前にどのような「問い」を持っているかによる。「試験に出るよ」が、記憶にとって何の役にも立たない動機なのは、入試が終わってからの忘却速度を見ればよい。



だから、記憶力を強化したかったら、テーマを設定して知識を動員し、一つの意見を書いてみることをお奨めする。作文やスピーチほど、記憶が鍛えられる作業はない。



自分の知識を使って、人に説明してみることだ。それで不足が分かっても、心配するには及ばない。そこで新たに得た知識は、どんなに工夫しても、忘れられないだろう。



■外国語が記憶力を活性化する理由


つまりは、読書のスピードを上げるのも、まずは「基礎知識と問い」をしっかりと固めることが肝心、ということだ。



なぜ自分はこの本を読むのか、そう考えて買う。目次や前書きを見て、「自分なら何をどう書くか」をじっくり考える。そして、一気に読む。自分の関心に合致する内容や、新たな発見をもたらす内容が、それこそ「活字の方から」、目に飛び込んでくるようになる。



関係ない部分、あるいは自分も既に考えたことがある部分は、どんどん飛ばす。知らない言葉があっても、戻らない。読み進めれば、文脈で推測できるようになる。このように、問いがしっかりしていれば、関係ある情報から自分の目に飛び込んでくるようになる。



最初のうちは、遅い。こちらに反応できる要素が少ないからである。予備知識も少なく、問いも漠然としている状態での読書は苦痛かもしれないが、それでも一冊を最低三度は読むことだ。回を重ねるごとに自分の意見が構築され、反応が格段に速くなっていく。



慣れてくれば、見開きでページを眺めるだけで、まるで「コピー機」のように情報を一括処理できるようになる。あたかも、昔はやった「ウォーリーを探せ」のように、違和感(関心や疑問)を喚起する部分だけが、モノクロの絵の中の赤い絵の具のように見えてくるだろう。



つまり、速く読むには、多く読み、多く書いて、多くの文字列を素早く読み取る目の訓練が必要だ。慣れてくると、携帯の予測変換機能のように、次に出てきそうな言い回しや言葉を予測できるようになる。



もちろん、それが予測と違っていても構わない。大事なのは、今読んでいる段落を頭の中で要約しながら、次の段落も同時に読んでしまうスピードや連想力だ。



ここに書いてきたことがよく分からないなら、まずは一冊の本を選び、三度熟読してみることをお奨めしたい。既に考えたことがある内容、見覚えのある文字列、親しんだ用語が増えるほど、理解度が上がる一方、スピードも加速されるのが分かるはずだ。



また、同時に「目を慣らす訓練」がしたいなら、外国語、とりわけアルファベットや漢字を使わない、韓国語やタイ語の勉強がよい。



こういう言語は、その文字列がどういう意味をなしているかを読み取れない限り、発音しかできない。最初のうちは、見間違いばかりでイライラする。しかし、それでもグッと耐えて、一つの構文の変化の様子をしっかりと押さえるのだ。途中で投げ出してはいけない。投げ出す人間の理解力は、永遠に止まったままだ。



韓国語であれば、文中に基本形の形で単語が現れることはまずない。しかし、連体修飾や過去形、助詞、語尾表現などをしっかり覚えていけば、徐々に目が慣れて、長文を見ても、自分が知っている箇所から「情報」となって飛び込んでくる。



一瞬で多くを吸収する理解力を身に付けたければ、不慣れな外国語の読解ほど役立つ訓練はない、と私は考えている。地道に活用形態や接続方法、語形変化などを見極める訓練を重ねて、いざ日本語の文章を読むと…。



母国語で文章を読み、書くのは、なんと簡単なことだろう。外国語を学ぶと、恐るべきスピードで日本語が読めるようになっている自分に気付くのは、人生でなかなか得られない快感だ。



さらには、大卒の人が一日一冊でもひいひい言っているのに、私はゆったりとリラックスしながら、その十倍も読めてしまうのは、不公平としか言いようがないと感じる。逆じゃなくて本当に良かった。一日に一冊しか読めなかったら、あまりの効率の悪さに発狂しているかもしれない。



本を速く読むということは、情報収集の質が低下することではない。むしろその逆で、早く理解し、連想できるから、どんどん進むのだ。



時々じっくりと物思いに耽ることもあるが、それでも三十分あれば、ハードカバー一冊が十分に読める。人の十倍読めるということは、十倍の時間を節約し、十倍の知識を身に付け、十倍の労力と、時にはコストをも節約するということだ。



そのために一年くらい努力して、速読を練習してみるのは、安すぎる努力だ。その一年が長いと感じる人は、一生ムダを垂れ流して苦労するしかないだろうが、「我こそは」と思う人は、以下の方法で練習してみてはどうだろうか。



①あまり読み慣れないテーマの本を一冊選び、三回熟読する。
②自分の感じたことを中心に、その本を要約してみる(ワード二枚程度)。
③分からなかった言葉を調べ、正確に理解する。
④その著者や、似通ったテーマの本を同様の読み方で読む。
⑤再度、最初に選んだ本を読んでみる。



二冊の本を、都合七回読むわけだ。


⑤の段階で読むと、①の段階の五倍くらいのスピードで読めるのが分かるはずだ。そして同時に、よく言われるところの「斜め読み」のような読み方ができているのに気付き、しかも内容を理解している自分に気付いて、嬉しくなるだろう。



しかし、このようなテクニックにもまして大切なのは、最低百日程度、継続することだ。百日くらい同じ行動が繰り返せなくて、新しい知識や能力が欲しいというのは、ムリな相談である。



何かをやろうとして「頑張ります」という若者はいるが、大抵、すぐに投げ出してしまう。投げ出す速さも知能に比例しているようで、口だけの人間ほどすぐやめる。私にも、他に教えたいことはいくらもあるが、百日程度継続できない知性、精神力では、「1+1」くらいしか理解できないだろうと思うので、余計な試練は課さないことにしている。



一生使える力を付けたいと思ったら、すぐに成果が出るようなレベルの低い行動に頼ってはいけない。誰もがやれるが、面倒くさがってやらないことを地道に続けるしか、実力を付ける方法はない。



学生はよく、「今遊ばなかったら損」とか言うが、どう考えても「一生遊べないこと」の方が損ではないのか。学生時代にサボったばかりに、社会に出ても生活費で苦しみ、毎日やせ我慢で過ごしている社会人も大勢いる。



そういう人間の共通点は、「本を読んでいないこと」だ。もっと言えば、「読もうとしない人」であり、良書を薦めても「忙しいから読めない」という人間のことだ。



しかし、事実はいつも「読まないから忙しい」である。自分を客観視する機会を持たない人間は、思うがままに生き、働くしかないだろう。「自分なり」という最低の能率に頼りながら。



成長が実感できない忙しさなど、何時間繰り返してもムダだ。忙しいことが忙しくなくなるのが、改善や成長ではないのか。賢明な学生の皆さんには、今のうちにぜひ「効率的な猛勉強」の習慣を形成し、社会に出て楽をしてほしいものである。



今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門43位、就職・アルバイト部門27位です。

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