水着の非公認によって、世界新記録が取り消されるらしいです。
これまでの記録を「1秒」以上というとてつもないタイムで更新した時点で、奇妙な話だとは思ってたんですが、やはり水着のおかげだったんでしょうか?
がんばって出した結果が、小さな布切れ一枚に対する疑義のせいで水の泡と消えるなんて、ちょっと切ないですね。
「裸で泳げば、世界新など誰でも記録できる(水着は泳者にとってジャマなものでしかない)」と、遠い昔にのたまったアスリートがいたらしいですが、さすがの彼も、着れば着るほど速く泳げるスーツ、なるものが発明されようとは思ってなかったみたいです。
まるでドラえもんの世界だものね。
確かに現実に、水に浮く水着、なんてものがあるんだとしたら、それは著しくフェアさを欠きます。
陸上競技のスパイクの反発力なんかでもそうだけど、肉体以外のものが効果を発揮して「超人になれる」という現象は、人間がコンピューターによって、つまり机上の数値によってあやつられてる、という気味の悪さを感じさせます。
新素材によって1秒も速くゴールを駆け抜けることができる、という科学的な裏打ちがあるのだとしたら、それはドーピングでさまざまな犠牲を払いつつ肉体を改造するよりもタチの悪い話なんじゃないか、と考えざるを得ません。
ドーピングしてるアスリートは、少なくとも肉体だけで勝負してるものね。(絶対に支持はしないけど)
実際、「レイザーレーサー」という水着を着ると、なんの犠牲を払うこともなしに、誰も彼ものタイムが劇的に伸びます。
こんなことやってちゃ、人間の可能性なるもの自体に疑問符がつきかねません。
過去に存在したすべての人類を「1秒」という圧倒的なタイム差でぶっちぎってしまった渦中のアスリート。
彼にはまったく罪がないのだけれど、その圧差は異様すぎて、やはりここは世界新記録のタイトルはもらうべきではないと思います。
そして願わくば、「公認」の名の下に誰の目にもフェアな環境で、もう一度やすやすと世界新記録を出してほしい。
逆説的ではあるけれど、「やすやすと」が重要。
それだけが彼の実力を認めうる方法です。
「公認」と「非公認」とに間に、いったいどれだけ指摘しうるほどの極端なアンフェアさがあるというの?とは思いますが。
そしてまた、ここは原点に戻って、はだかんぼで競ってもいいのでは?とも幻想したくなります。
「そもそも、裸なら人類は何秒で泳げるのか?」
それを知っとかないと、水着がタイムにどれだけ貢献してるのかが見えてきませんもんね。
牧歌的世界がなつかしくもあり。

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カールおじさん、40才。
バカボンのパパ、41才。
オレ、42才。
どうしたらいいんだ・・・
関係ないけど、綾小路きみまろの講談の一節を思い出した。
「女は51までが勝負です。
そのあとは、どうぞごじゆうに(52)」
なかなか練れてるが・・・

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「げへへへ」と笑う吉田茂の孫と、「ふ、ふ、ふ」と得体の知れない笑みを浮かべる鳩山一郎の孫が戦ってる昨今ですが。
いま「小説吉田学校」を読み返してまして、昭和半ばの吉田対鳩山の壮絶な政争を、今の政局に照らしては、面白いもんだなあ、と、くり返すねえ、と、思わずにはいられません。
安倍さんのおじいちゃん(岸)やその兄弟(池田)、福田さんのお父ちゃん、真紀子さんのお父ちゃんなんかの大ゲンカも面白かったけど、やっぱし吉田VS鳩山のケンカはスケールが違ってて、読み応えがあります。
一応説明しときますと、麻生太郎さん(自民党総裁)のお母ちゃんのお父ちゃんが吉田茂元首相、鳩山由紀夫さん(民主党代表)のお父ちゃんのお父ちゃんが鳩山一郎元首相です。
そもそも、戦後初めての総選挙で第一党を獲った「自由党」の総裁は、鳩山さんでした。
ところが、鳩山政権が組閣に入った、っつータイミングで、昔の著書にまずいネタを書いてたことが占領軍にバレて、「政界追放」の命令を受ける。
そこで吉田茂に白羽の矢が立つわけですが、このときに「追放令が解除されたら、わたくし吉田は、鳩山くんに政権を返します」と言質を取る。
ところが鳩山は、やっと追放令が解けたと思ったら脳溢血で倒れ、半身不随になっちゃう。
引きつづき政権を担当することになった吉田は、活躍するうちに総裁のイスに執着を持つようになる。
イラ立たしいのは鳩山。
そこで仲間と図り、吉田を例の「バカヤロー解散」に追い込むわけです。
その後に鳩山は自由党を割り、新たに「民主党(今のとは別の)」という党を立ち上げて、雌雄を決する選挙に臨みます。
で、見事に政権を奪還する。
その後に、自由党と民主党はひとつになり、自由民主党になるわけですが、そこに至るまでにはこんな因縁があったんですね。
そんなふたりをじいちゃんに持つ孫と孫が、今、非常にしょぼい格闘を繰りひろげてるわけです。
吉田の孫・麻生さんの支持率があまりに伸びないので、石原慎太郎の息子や、野田卯一の孫娘に首をすげ替えようなんて話があったり、鳩山の孫でも「邦夫」の方が党を割ろうとしてたり、別の方の孫「由紀夫」も隠し球に田中角栄の娘を使おうとしてたり、と話題に事欠かない政局ですが、結局世襲ってのは、戦国時代の勢力争いとおんなじだなあ、と思わずにはいられません。
祖先の因縁でソシオグラムが形成されてる。
歴史(昭和史)好きのぼくには、「世襲がなくなったら、天下獲り合戦がつまんなくなるのでは・・・」と心配で仕方がないのですが、どうでしょうか?

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開高健でいちばん面白いのは、評論です。
彼の本質はルポルタージュで、創作はあまりうまくない気がする。
ストーリーテリング(話の筋立て)で読まそうって作家ではなく、レトリック(文章表現)で引き込むひとだから、ノンフィクションが生きるわけです。
彼の表現は、俳句のように濃密で簡潔です。
いっこの言葉で物事をデッサンする達人。
「都が焼け落ちるような夕陽」とか、「青空にシンバルを一撃したようなひまわり」とか、「おかゆのように暑い夏」とか、風景がまざまざと見えてくるようではないですか。
戦争を描くためにベトナムで従軍したり、世界を描写するために釣り竿一本かついで冒険の旅に出たり、と素材を求めつづけたひとですが、やっぱり煮詰められるのは文章表現の方で、創作にはならなかった。
結局ルポルタージュが面白すぎて、それを取りまとめようとする創作の方は、逆に散らかっちゃう印象です。
彼の創作で最も面白いのは、芥川賞を獲るデビュー前に書かれた「パニック」「裸の王様」「流亡記」きり(ぼくの個人的意見)で、あとはもう達者な作品になっちゃう。
そのかわりに描写力が磨かれ、ルポルタージュがとてつもなく面白くなってくわけです。
それを煎じ詰めたのが、評論。
評論が面白い作家、なんてのは聞いたことがないけれど、このひとがそうです。
ひとの作品を介して自分の表現をする、というのが評論だけど、このひとは、評論する相手の作品世界の裏側にある膨大な広さを使って、別の世界を描き出してみせます。
それは説明でなく、評論する相手を主人公としたモノガタリ、という新たな創作になってくわけです。
沢木耕太郎の映画評論は、ただのネタばらしとなるあらすじ説明と粗悪な感想とに終わってるので、新聞を読むぼくらを心からがっかりさせてくれるわけだけど、評論の本当の意味は、対象作品の持つ世界の新たな切り口での描き出しなわけで、作品の再プリントではないのです。
もちろん評論は、ある意味でのルポルタージュですが、そのルポは、本人が描き出す創作世界よりも入念に練れた創作なわけ。
評論にも「おもしろい作品」ってのがあるわけですね。
ハラハラドキドキな評論ってのも奇妙なものだけど、開高さんのそれは、確かな審美眼と咀嚼力と明晰な表現で貫かれてるので、耽溺・・・じゃなく、耽読させられます。
池波正太郎の軽いやつと、開高健の重いやつを、交互にバスタブに持ち込んでは長湯してる最近です。

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よくいく場末酒場は、二丁目で修行した「おねえ」なマスター(ママ?)が切り盛りしてます。
そこではよく、ちあきなおみの歌がかかってて、これにはまったくもって聞き惚れさせられます。
掛け値なしの天才です、ちあきなおみ。
聖飢魔2の小暮閣下が、「東海林太郎や淡谷のり子は歌がうまいというひとがいるけれど、それは間違いだ。吾輩のように、腹から声を出してこそ、歌がうまいと言えるのだ」と語ってるけれど、大声を張り上げてビブラートを効かせればうまいというものでもない。
ちあきなおみの声は、とても低くてささやくような声なのに、なぜか高音で伸びやかに聴こえます。
遠くを吹き渡る風みたいな声。
「もののけ姫」の米良美一の声質に近い。
米良さんは、カウンターテナーという特殊な音域をあやつるオペラ歌手さんだけど、彼はただ単に、女が歌うソプラノのパートを男の声で歌い上げてるわけじゃありません。
低くて荘重な男の声で、高い音階を、しかも甲高く抜けることなく声を張って歌い上げるのは、天性の資質がなきゃできない離れ業。
それはもう、もののけ姫を聴いてくれたらわかると思うけど、実にナチュラルで、風が絹を振るわすような声ではないですか。
そんな声に近いのです、ちあきなおみ。
DVDでみる本人のたたずまいにも、もののけのようなすごみと、気狂いじみた才気が見てとれます。
歌をうたうという行為は、もちろん「表現」なんだけど、このひとたちをみてると「発露」という言葉を使いたくなります。
そのことをするという目的以外のために生きてる価値などありましょうか?的な、自分が内包する本物の価値をですね、本人たちは理解してるんだかしてないんだか、露骨に表出させて、しかも自己顕示のかけらもこちらに感知させない。
技術もあるけど、第一に、素材だと考えざるを得ない。
だからですね、こんなひとの歌は、どっしょーもなく美しくて、とてつもなく魅惑的で、怖いです。
そして反面、やっぱしこんなぼくも笑いだしそうになるのは、なんでだろ?
本気であればあるほど、失礼だけどおもしろいです、ちあきなおみ。

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午後9時になったんで、NHKにチャンネルを合わせると、辻井さんという盲目のピアニストが海外のすごいピアノコンクールで優勝した、という話題をニュースの冒頭で伝えている。
画面がスタジオに切り変わって、美しいキャスターが「ニュースウォッチ9です」と挨拶したあと、解説委員と声を合わせ、「辻井さん、おめでとうございます」と祝福のコメント。
オバマがサルコジと会談し、北朝鮮が即戦的な核実験を計画し、秋葉原の虐殺からちょうど一年後を迎え、というこの時節に、この話題をヘッドラインに持ってくる。
いいね、このセンス。
そして、キャスターと解説委員との声の合わせ様にほほえましくなる。
本番前に練習したにちがいない。
朝日新聞の夕刊を読むと、「この全盲のピアニストは、聴衆を驚かせるだけじゃなく、感動させる」と書かれている。
通常、盲目のひとは「ピアノが弾けるだけで感心され、ほめられる」のだが、それは差別なんである。
しかし、それはどうしてもほめたたたえられるべき奇跡だと思えるので、ぼくらは処置に窮してしまう。
ただ、件のツジイさんなる人物は、そのレベルをはるかに凌駕して、ひとの心を動かす境地にまで達しているらしき様子。
この事実を知り、ぼくらは実にらくちんに喜ぶことができるのだった。
ぼくの大好きなミシェル・ペトルチアーニというジャズピアノ弾きは「コビト」で、つまりなんというか、オースチン・パワーズに出てくるミニー・ミーみたいというか、チャーリーとチョコレート工場に出てくるウンパ・ルンパみたいというか、そんな容貌なのに、すばらしく知性的で美しい旋律をつむぎ出す大天才です。
ぼくらはそんな、「事件」と言ったらまた差別になるんだけど、そんな事実に出くわしたとき、驚きとは別格の胸の突かれ方をするわけ。
そこには、音楽に向かう姿勢や、思い入れや、凡人が想像だにし得ないような努力といったものに対する尊敬の他に、哀切感や、言えばカワイソ感がふくまれてて、ぼくらはその点を意識するつもりがなくても、知らず知らずにそれらを加味しつつ、「いつもより多めに」揺さぶられてしまう。
ぼくはペトルチアーニの音楽が純粋に好きで、来る日も来る日も聴いてた時期があったんだけど、その底には「こんなにも手足が短いひとなのに」という差別意識がなかったか?あったんじゃねーの?と考えると、なかなかに自信がない。
ツジイさんというヘッドラインの人物も、「盲目の~」とあえて紹介されなければ、こんなにも大ニュースにはならないような気がしたり。
「盲目である」ことを伏せて普通に報じても大ニュースだったのかもしれないが、だったらそういう、つまり「盲目のひとが賞を獲った」という言い方でなく、「賞を獲ったのは盲目のひとだった」という言い方をせねばならない。
そのへんは、本人がどう感じてるんだろうなー?と思わずにはいられない。
むつかしいな。
ところでアメリカには、驚くなかれ「盲目の野球解説者」というのがいるのだ。
彼は、点字で記された過去の膨大なデータを超人的な速さであやつりつつ、滑舌なめらかに紹介し、アナウンサーの実況を助ける。
野球というスポーツを実際にその目でみたこともない人物が、である。
そして彼は、「どんな解説者になりたいですか?」というインタビューに、こう答える。
「ずっと後になって、ああ、あいつはいい解説者だったね、って言われたいね」
と。
そして、
「そういえば、あいつは、目が見えないんだったね、と」
深い・・・
そして、自分の置かれた立場と、本物の精進の目標とを、よく理解している。
そこまでいって、ようやく差別とは無縁となるんである。
やはり、むつかしい。

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ずるいチームとバカなチームがこの秋にケンカをする、という話題で世間は盛り上がってるわけです。
だけど、ずるいチームはひどくバカな親分を担いでるし、バカなチームは浅知恵をつけてずるさを覚えるし、どっちも変わんねえじゃねっか状態になってます。
じゃいっそ、まったく別の小さなチームを応援してみっか、となるわけだけれど、これがまた前述2チームに輪をかけてずるかったりバカだったりする。
どうにも判断しようにないわけです。
それでもぼく個人としては、見限る寸前でギリギリ仕方なくバカチームを推そうかと考えてるわけですが(このチームは最近、折よくずるいリーダーの座をすげ替えることに成功しましたし)、それも、相手のずるいチームが「前代未聞の見下げ果てたバカ」をカシラに担いでるからというネガティヴな理由によるところが大きいからで、後者のチームが新たに鮮度のいい親分を担ぎ出せば(これもまたずるい手だが)、これまた判断に困ってしまう。
いや実にこの火急のご時世に、こんなにじりじりしつつバカバカしい時間を過ごしてていいんだろうか、と、ケンカの執行猶予期間(会期延長)を見守るしかないあわれぶり。
ああ、どこかのんきな南の国に亡命したい。

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名は体を表す、のつづきだけど。
「坂本龍馬」は次男坊として生まれ落ちた人間で、その兄の名前は「坂本ゴンベエ」といい、日本を大改革する役割が次男坊に回ってきたのには、付けられた名前の必然がある、と以前に書きました。
ゴンベエさんに、日本の改革はできそうにないもんね、なんとなく。
このように、ヒーローにはヒーローとして活躍するに足る名前がちゃんと付けられてます。
「柳生十兵衛」は、「十兵衛」だからこそかっこいい。
風格を表すに申し分なく、権謀術数にすぐれた歴史の裏側の英雄に見合った響きがあります。
「十兵衛」が、いっこ間違って「九兵衛」だったら、寿司職人さんみたいになっちゃうし、ましてや「八兵衛」だったりしたら、すわ修羅場!という緊迫の場面で、うっかり火薬玉の代わりにきびだんごでも取り出してしまいそうです。
「石川五右衛門」も、実に堂々たる名前で、天下の悪役にふさわしいネーミング。
彼を産んだ母ちゃんも、「品のよい子に育っておくれ」と願ってこの名前を付けたなどとは決して思えない。
これが「よえもん」や「さんえもん」じゃ、弱そうすぎて子分たちに示しがつかないし、「どらえもん」や「にじゅういちえもん」だと、戦国ではない時代に活躍しそうになってしまう。
「ゴエモン」、これ以上に、彼の悪辣さを表現できる名前はないわけです。
そう呼ばれつづけてるうちに、言葉の音色のまじないにかかっちゃうのかもね。
五右衛門、五右衛門、とささやきつづけられるうちに、形相までが変化していき、「よ~し、悪く生きるぞ~」と、いつの間にか誓ってたにちがいありません。
それにしても、「ツヨシ」という人物に強そうなのがいないのはどういうわけなんだろう?
みんなも、自分の名前に見合った人生を送ってみようよ。

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名は体を表すというけれど、杉山佳隆って名前はどう見えてんだろうなー?
・・・と、よく考える。
四角くて堅いイメージがあるような、小役人じみてるような、そんな字づらに見える。
だけどサムライ風ではあるか。
森田森魚、のほうがいいな、柔らかくて、フリーな印象で。
スギヤマヨシタカだと、外国人相手に自己紹介するのに迷うんだよね。
「please call me sugi」とか「I'm yoshi」とか言ってみるんだけど、自分で吹き出しそうになる。
絶対ありえない呼び名だもんね。
「ロン・ヤスか」と、ひとりツッコミしたくなる。
友だちの子供なんかには、「スギヤ~マさん」と外人さん風にアクセントを付けて呼ばせてるんだけど、それで統一しようかな。
「call me sugiYAhaaaMA-sun」
これでいこう、うん。
目の青いやつらにも発音しやすかろう。
それにしてもオレ、気になるのが、「my name is ~」というあの文法なんだよね。
ほんとにネイティヴはこんな武骨な言い回ししてんのかな?
「私の名前は~です」なんて慇懃無礼な自己紹介、絶対しねーよ。
なんか融通きかない戦後教育の手本みたいで、奇怪に見えるね。(現地でほんとにこんな言い方をしてるのなら、すまん)
タモリが小さい頃に、近くの教会で草むしりをしたとき、外国人牧師さんはこう言ったそうだよ。
「あなたは、こっちの草を、抜いてください。そして、イマヒトリのあなたは、こっちを、抜いてください」
つまり、そういうことだと思うんだ。

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最近じわじわとおなかに肉が積もってきて、苦々しく思ってます。
周囲の美女たちの「あこがれの師範」へのまなざしに対しても、夢壊してるようで心苦しかったり。(←自意識過剰)
そこで「引き締めよう」と、近くの畑地帯を一時間も走り込んだり、腕が上がらなくなるまで腕立て伏せをしたり、と極端なことをやってるわけです。(腹筋はしんどいからやらない)
だけどその疲れが翌々日にきたりして、ほんとブルーになります。
「疲れ」とは成長の代償である、とぼくは信じてます。
疲れないダイエット、というものの存在を信じない。
労力なしのお手軽「体重落とし」は、退化と呼ぶべきであって、肉体内の機能のロスです。
ぼくはもう十数年も前に、「三週間で体重をより多く落とした者が5000円をせしめることができる」という賭けを仲間たちとして、総取りしたことがあります。
そのときは極限ビンボー生活だったので、そうめんとオレンジだけで毎日を過ごし、やすやすと9kg落としました。(71→62)
だけどなんだか骨がスカスカになったような気がして、怖かったなあ。
折れ線グラフが急角度で下降してくのを見るのは楽しみだったけど、そんなマインド自体が恐怖だったり。
5年ほど前の陶芸修行時代にも、一年間で7kgそげたけど、このときは全身のだらしない部位が筋肉に転換されていく過程が目に見えるようで、楽しかった。
やっぱし、単純に数値を落とすよりも、からだの質を変えたいものです。
「食べないダイエット」なんてのは、そうからだにいいもんじゃありません。
なぜやせないのか?と考えるよりも、なぜ太るのか?と考えるのがいい。
それはもちろん、摂取する熱量が代謝分を上回ってるからなわけですが、なんでそのバランスがうまくいかないかといえば、おなかが減らないうちに次のものを食べてしまうからです。
別の言い方をすれば、ハラペコのときにだけ最小限量を食べればいい。
ところがこれがなかなか、この飽食の時代にはしんどい。
でも人為的・強制的に、この状況をつくりだせばいいわけです。
食事の前に体重計に乗り、水準値をオーバーしてたら、外に飛び出してあぜ道を走るか、その場で腕立て伏せをしてカロリーを消費し、数値をクリアしたのち、食卓に着けばいいわけです。
計量でリミットをクリアしないとリングに上がれないのは、ボクシングの世界では常識。
「やせないボクサーはいない」わけですから、この方法は効果的です。
さらに、目標数値を毎日数十gずつ減らしていけば、自然にやせていくはず。
どうですか?このすばらしき机上の空論。
こんなアイデアをですね、毎日夢想しつつ、工房で始終お菓子をつまみ、夜は酒場を飲み歩き、深夜には晩飯を摂ってすぐに眠りに就く師範であります。
ああ、鋼鉄の肉体を取り戻したい・・・

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