ヘッドホンをフルボリュームにして、サングラスをかけた自転車のワカモノが、携帯メールを見つつ、交差点で信号待ちをしてました。
その前輪がですね、かなり車道に飛び出してて、その鼻先すれすれを車が行き交ってるのです。
ドライバーたちにとってもハラハラものだろうし、危なっかしくてしょうがないんだけど、ワカモノは手元の小さな画面に夢中。
(このワカモノがこっぴどく痛い目に遭う場面を目撃したいものだ)と、悪い考えがチラと頭をかすめてしまうのも致し方ないところ。
自殺志願者と呼んでさしつかえないんじゃないかな、この手の人種って。
・・・と思ってたら、歩行者信号が青に変わり、チャリが走りだす。
それにしても、このワカモノのチャリがですね、狂ったような猛スピード。
気がつくと、その前カゴに長大な雨傘が差し込んである。
その先が左のほうに半分ほども飛び出してて、これもまた危ないことこの上ない。
案の定、前を往く歩行者たちの尻やひざをなで切りにしつつ、疾走する格好になる。
傍若無人・・・というより、これはもはや「通り魔」か「辻斬り」のたぐいです。
テロリストと言いきってもいい。
事件のにおいをかぎつけた正義の師範は、マイチャリ・碧天号で追跡を開始。
すると直後、ガチャガチャガチャン、と大音響を立てて、道端の置きチャリが将棋倒しになる。
辻斬り氏の傘の先がチャリ置き場の端の一台に当たり、カタストロフィが発生したわけです。
あ~あ。
ヤツもようやくすごすごとチャリを降り、倒れたチャリの隊列を直しはじめる。
えへらえへらと薄ら笑みを浮かべつつ、ヘッドホンはいまだフルボリューム。
反省してんのかなあ?
いつかひどい目に遭うよ、きみ。

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ご存知のとおり、ぼくは週刊誌でマンガを描いてました。
その頃は精神を病んでて、とてもひとのマンガなんて読めなかったんだけど、最近はたのしく読めるようになりました。
「プルートゥ」が完結しました。
「鉄腕アトム」の中の一話を原案に、浦沢直樹さんが長大なミステリーに仕立て直したものです。
おもしろかったなー。
手塚さんの原案も読んだけど、どちらにも打たれました。
浦沢さんのマンガは、いつもその場限りの思いつきでディテールを煮詰めすぎて、後々つじつま合わせに苦労するきらいがあって、好きじゃありませんでした。
宮部みゆきさんの小説のように、局所局所はすごくおもしろいんだけど、最後には茫洋としてなにも残らないというか。
それがこの作品は、細部を描き込みつつつくり切った、というか、きちんと輪が閉じて得心できる内容になってます。
手塚さんの威光もあろうけれど(おかしなもの描くわけにいかないものね)、浦沢さんのイマジネーションと画力によって、オリジナルな仕事に昇華されてます。
それにしても思い知らされたのは、画力=説得力ってことですね。
大傑作だと思います。
みんなも読んでみてね。
全8巻、工房でお貸ししますよ。

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とにかく水が好きです。
うちは水道水(とてもおいしい東京水)を麦茶にしてるんだけど、一度の食事で1リットルは飲みます。
一日にすると、4リットル以上も飲んでる計算。
それプラス、ビールが1リットル近く入ります。
これって、全部トイレに流れていくのかな?
そうは思えないんで、やっぱし汗になってにじみ出たり、各種体液になって減少分をまかなったり、あるいは体表から蒸発したりしてるんでしょうね。
あと、ひとりぼっちの夜中に真珠のような涙になったりね。
「天才は、たくさん水を飲む」と言ったのはアインシュタイン博士だと思ったけど、記憶違いかも。
だけどその新陳代謝能力が細胞に活力を与えてることは間違いないでしょう。
わたくしのみずみずしい着想は、水から与えられてるのです。
そう考え、今日もたくさん水を飲むのです。
そう考えなくても、ぼくはたくさんの水なしには生きていけません。
かつてラクダを引いてゴビ砂漠を数時間も歩いたとき、自分の必要水分量が仲間たちのそれをはるかに上回ってて、ほんとに「自分だけが死ぬかも」と思ったもんね。
がまんできないの。
そのとき思ったよ、「砂漠の民と結婚するのはよそう」と。
ぼくは家ではおもにはだかんぼで過ごしてるのですが、暑い日には、からだ中からしょわしょわと水分が揮発していくさまが見えるようです。
水けが抜けていって、ひからびてく感覚ね。
この水分量の調整機能ってのは、まったくすごいものです。
雨後の天にひらいた虹を見てて、地球も同じだな、と思いました。
地球だって、水を欲しがってるし、余分な水分を放射したがってるんだよ。
なのに、こんなに体表面をコンクリートでコーティングしちゃって、大丈夫なのかな?
つい三日ほど前に突然出現した虹は、何かを訴えかけてるみたいでした。
昭和時代には、もっとひんぱんに虹ってのは現れたものです。
がんばれ地球、がんばれ水、と祈りたくなりますね。
いつまでもおいしい水を飲みたいけど、そんなのんきな幻想もそろそろ畳まなきゃいけないかも、とも思ったり。
さて、もうすぐ太陽が食に入る時間です。
こんな自然の奇跡に立ち会うたびに、逆に「未来永劫」という観念がいかにはかないものであるかを身にしみ、恐怖を覚えてしまうのはぼくだけなのかなあ・・・?
こわがりすぎか?

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やっと解散→総選挙かなあ。
待ちに待たされたね。
つか、その「焦らされ感」のマグマが、この都議選を機会に破裂したんだと思う。
投票率も劇的に上がったし、ヒトビトは選挙をしたがってるんだよ。
いこうね、投票。
ぼくはいつも、当落線上ギリギリの候補に投票して、自分の運を占ってます。
なんたって、開票速報を最後まで楽しみたいもんね。
こんな遊び方でもいいから、とにかく投票しなきゃだめさ。
何度も言うけど、政権が「お金持ちのために政治をする」のは当然のことなんだ。
だって、お金持ちはちゃんと投票所に足を運ぶからね。
彼らは必ず投票権を行使する。
政治家は、彼らの票を信じてるんだ。
だから、政治家がお金持ちを重宝し、優遇するのはあたりまえなんだ。
逆にぼくらビンボー人は、そして若い世代は、文句だけは言うけどあまり投票には出向かない。
どの選挙の統計を見ても、20代・30代の投票率は全世代で最低レベル。
こんな「票のアテにならないヒトビト」を、政治家がかえりみるわけがない。
軽んじられて当然の世代です。
逆に言えば、この「政治にうとい人種」が投票所に足を運ぶようになってはじめて、政治家は、一部の選挙熱心人種だけにおもねる政治をしなくなるのです。
ビンボー人やネクスト世代のための社会をつくらなければ、自分の当選がおぼつかなくなるわけ。
そんなリアルな構造があるんですよ、投票には。
選挙なんて関係ないと思ってる諸君。
ぜんぜん関係ありますけど。
そして、投票の大切さを理解しなければ、自分たちにとってのいい社会は決してやってこないことを自覚しなきゃいけませんよ。
とか言ってみたりね、へへ。

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きのうのブログを書いてから、日本語についてもう少し考えてたんです。
ところで、別の話をします。
むかし日本の家屋は、内と外とを「紙」で隔ててましたよね。
ふらち者が悪いことを企てれば、いくらでも突き破って入れる構造です。
これは、相手を信用するというか、突き破る・破らないの判断をゆだねるというか、「無法を働くかどうかは矜持の問題」という、そんな性善説に立ってます。
「結界を侵さない」という暗黙の約束ごとを誇りにかけて守る、そんな信頼関係が思想の根っこにあるわけです。
茶道をやってるとよく理解できるんだけど、お茶の席にもさまざまなところに結界が張られてます。
畳のへりからあっちは相手の世界なので、遠慮する。
へりがなければ、自分のひざ前に扇子を一文字に置き、彼岸と此岸を分かつ。
せま苦しい茶室に一本の線を引くことによって、せめぎあう空気が安定し、心地が据わるわけです
竹でつくられた茶道具(ひしゃく、茶せん、茶しゃく、フタ置き・・・)には、根のほうと先っぽとの中間にフシが通ってて、それもまた結界になってます。
道具を扱うときは根っこ側を持ち、水や茶に触れる先っぽ側(つまりフシから先)はお客様のものとして尊び、決して素手で触れることはありません。
この相手との距離を保つ不可侵の結界は、「わたくしの領土に踏み入ってくださるな」という警告ではなく、「あなたの世界を侵しません」という、へりくだった意味をもってます。
なんとわびた文化ではないですか。
日本語にも同様にそんな美意識があるのでは?と、ふと感じたわけです。
ずけずけと本音で語ることによって相手からの信頼を得る外国語の「効率的」「合理的」レトリックもいいけれど、日本語には日本語の作法があって、それは「相手の心に踏み込まない奥ゆかしさ」のレトリックなのです。
謙譲とか尊敬とか建前とか読み合いとかめんどくさい技術も必要だけど、そこには「相手へのおもんぱかり」という底通した心根が流れてるのでした。
これを感じたというのもですね、例のマイケルの追悼ライブをテレビで観てたのですよ。
そこにマイケルの幼い娘が出てきて、父親に最期の言葉をたむけるわけです。
「どうしても言っておきたいの。パパ、愛してる!」
日本人ならここは、「安らかに眠ってください」とか「今までありがとう」あたりをあてがう場面です。
つまり両者の違いは、自分の立場から言いたいことを言う「自分主体」か、相手の立場に立って言葉に気を配る「相手主体」か、ってことなのです。
文化の違いだなあ、と感じるとともに、日本語の文章表現の奥深さに気付かされた事件なのでした。

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「向こうから、全身火だるまの女性がね、歩いてきたの」
という目撃者のインタビューが、ニュース映像でくり返し流されてます。
ハローワークの職員が、相談にきてた人物にガソリンをかけられ、火をつけられた事件ね。
で、「『どうしたの?』って訊いたら、『火をつけられた』って言うの」
そんな会話ってありえます?
火だるまですよ、相手。
どんだけのんきなひと?
その前に、まず火を消しますよね。
そして相手の容体の確認をして、それからですよね、情報交換の会話。
あるいは、実際にそんな会話が交わされたのかもしれないけど、その物言いではほんの少しも切迫感が伝わらない。
少なくとも、取材側が欲しい証言じゃない。
「どーん、って音がして、家から出たんだよ。はだしのまんまさ。びっくりしたなーもー」
飛行機が近くに落ちたりしても、こんな稚拙な説明が多い。
そうじゃなく、音の質とか、揺れとか、その直前や直後に何を感じたかとか、そういった現象や心象を描写しなさいよ。
家から出たとか、はだしとか、あんた自身の描写は必要なくないですか?
アンタッチャブル(漫才コンビ)のネタに、こんなのがあります。
「あなたが第一発見者ですね?」
「はい、殺人現場を目撃しました」
「そのときの模様を、再現してもらえませんか?」
「わかりました。やってみます」
「お願いします」
「(木に隠れる芝居)えっ?ああ、まさか・・・そんな・・・え?ええーっ(うろたえる)」
「おまえの様子を再現してんじゃねーよ!」
・・・つまり、殺害現場の再現でなく、自分がびっくりした様子を捜査官に再現してみせる目撃者、というボケですが、実際のインタビュー映像でも、このネタと大してかわりはない。
目撃した光景を実況するとか、自分が遭遇した事件の模様を言葉で伝えるという作業が、日本人はあまり得意ではありません。
日本人の説明能力・・・というか、国語力の稚拙さってのは、こういったインタビューで露骨に浮き彫りになります。
それは、イマジネーションの不足と、レトリックの貧困からきてます。(あと、デッサン力のなさね)
こんなことで、いざ世界を相手に交渉、ってとき、大丈夫なのか?
アメリカのドキュメンタリー番組とか観てると、市井の人々のその冗舌と、言語表現の豊かさ、奥深さ、言葉の理解度、さらに語る相手への配慮、そしてウイットや、感情に訴える技術ってものに、ドギモ抜かれます。
俳優さんたちの語り口を聞いてても、ハリウッドと日本のそれとでは知性に雲泥の差があります。
書物などでつづられるわが日本語の、細やかに心配りのゆきとどいた文章表現に比して、当意即妙を求められる口頭表現はなぜだか著しくチープです。
粗末かつ投げやり。
これは場数の足りなさが第一の原因でしょう。
せめて、自分の言わんとするところのものを正確に伝達する術くらい知っといてほしいなー、そして会話の場で積極的にヤスリにかけてほしいなー、と思わずにはいられません。
「奥ゆかしさ」という高尚な文化にかまけて、言葉の技術を磨くことを怠けたら、すぐに阿呆になってしまいますよ、日本。
そもそも日本人は、コミュニケーションの場で、言葉数を費やすということに心を砕かなすぎます。
もっとがんばってしゃべる。
それが、コミュニケーション能力、ひいては知性を高める唯一の方法だと思うのですが。

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「誰でもよかった」らしいです、パチンコ店放火殺人犯。
どんだけ甘えてるんでしょうか?
ぼくは「死ね」という言葉は使わない人間だけど、この手のケースにはさすがに、そう叫びたくなります。
火あぶりの刑にしろ、という意見もありますが、同感だなー。
こういう無差別虐殺をみてると、同じ日に起こった「同級生刺殺」の犯人のほうに、まだ人間味を感じてしまいます。(こちらのケースも絶対許せんけど)
後者のほうは、自分の手で直接に事をやってのけたわけだからね。
つまり、相手の死をその手に感触する、という、まあ言えば、「殺人」における最低限の作法を守ってます。
だけど、見も知らぬ赤の他人にガソリンをまき、火をつけて逃走、なんつーやり口には、直接ひとの死に責任を負ってないっつーか、どうしようもなくテクニック頼みなところがあって、心底から軽蔑したくなります。
「殺した」のでなく「死なせた」感覚が茫洋と霧散してしまう、その効果をねらった、ずる賢い方法です。
むかしむかし、人類がこん棒で殴り合って決着をつけてた時代がありました。
その手から矢が放たれた時点で、無責任殺害、というものがはじまりましたんだとさ。(開高健論)
さらに矢が銃弾に代わり、ミサイルに代わり、ひとの指がスイッチに触れるとあっち側の人間が大量死する、という便利な世の中をぼくらは生きてます。
リアルに相手の痛みを理解する、ってことがなくなったわけ。
だけどこんなじゃね、人間性は失われていく一方ですよ。
正々堂々とこん棒で殴り合え、と言いたい。
こういう事件に触れると、ほんとに、人間って大丈夫かなあ・・・?と考え込まざるをえません。
絶望してもいいけど、心だけは失わないで、人間たち。

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エチゼンクラゲがまた大発生するらしいです。
あの画づらは怖いね・・・
環境の末期症状をSF的に可視化してるような、そんな凄まじさがあります。
中国が垂れ流す汚水(化学的汚染物質でないことを願うばかり)による海の富栄養化と、温暖化やらなにやらが複雑がからみ合ってあんな状況になってるらしいけど、よりによって巨大クラゲかあ・・・
沖縄の珊瑚を食い荒らすオニヒトデもそうだけど、地球環境がおかしくなると、なんでこうした迷惑な生物だけが繁殖するんだろう?
「クロマグロ、大発生」とか、「ウニと伊勢エビが海底を埋め尽くす怪現象」なんつー話にはなりません。
逆に、「ゴキブリが深刻な激減」とか、「都会のカラス、絶滅へ」ともならない。
いらん生物(これもまた人間のエゴだが)だけが、環境に順応してきます。
もっと強く生きよっ、おいしい生き物たちよ。
ところでエチゼンクラゲは、アミにかかると、漁師たちにジャマ者扱いされ、よってたかってなぶりものにされ、あげくに打ち捨てられるわけですが、グリーンピースや反捕鯨団体はこの模様をどう見てるんでしょうね?
クジラはかわいくて、クラゲはほっとけ、かな?
同じ生き物なのに、差別でしょ、それ。
「エチゼンクラゲを殺すなー!」「巨大クラゲを守れー!」
なんて声が上がってもおかしくない。
なのに、そうしたムーブメントがちっとも見られないのはどうしたことか?
もの申したくばスジを通せー!と、シーシェパードの船にモーターボートを横付けして叫びたい気分です。
あんたたち、特定の海産資源をペット扱いして溺愛してるだけなんじゃねーの?と言いたい。

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眠れない夜には、無理して布団に立てこもらずに、風呂に入る。
腰までだけ湯を張ったバスタブで、漢字の多い本(面白すぎないものがいい)を読んでるうちに、待ち焦がれたまどろみがはじまる。
うとうとしつつ、睡魔のらせんを落下しないようにあらがうトリップ感もなかなかよろしい。
うつつ世とあちら側をただよう感覚。
こんな天然ラリ状態を味わってると、湯舟から出てからだを洗うのがめんどくさくなる。
くそー、やだなー、このまま入眠したいなー、でも湯につかって汗まみれだしなー、だけどもっとまどろんでたいなー・・・とやってるうちに、はや二時間。
気がつけば、湯がさめ、とろりと味がつき、沼のようによどんでる。(ひー!)
そこでついに決意し、からだを洗いにかかる。
さっぱりと一皮こそげ落とし、しずくをぬぐい去ったからだで布団にもぐり込むこの快感。
ここから、やっと本物の、あのすばらしい睡眠がはじまるのです。
・・・などと言いつつ、風呂上がりにパソコンに向かってるオレなわけだけど。
それにしても、この窓から入ってくるそよ風のかぐわしさ。
これは・・・梅雨と夏の入り交じったはざかい期のにおいですな。
いい季節。

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スーパースター、と言えば、つまりそれはマイケルのことを差してました。
それくらいの存在だったなあ。
不世出のひとです。
もうこんなひとが現れることはあるんでしょうか?
プレスリー、ビートルズ・・・んでマイケル・ジャクソン。
ここまで図抜けたヘビー級は、没個性で軽薄短小、そして「カワイイ」の移ろいの激しいこの現代では、もう打ち止めでしょう。
ローリング・ストーンズは、その最後の候補者だけど、長いキャリアの間に俗に落ち入りすぎ、ミステリアスでなくなりすぎ、つまり生きすぎました。
それを恐れたんじゃないかな、マイケル。
若いうちに死ななきゃ、伝説にはなれないものね。
焦ってたのかも。
50、という彼の享年を顧みても、やはりちょっと「マイケル」という存在をつづけるには違和感が残るものね。
そのへんも、見てる側の勝手な印象にすぎないんですが。
でもやっぱし、永遠に少年でいたいひとには、この事実は恐るべき負担だったに違いありません。
90になったマイケルをほんのちょっと見たかった、とも思いますけどね。
ただ、90や100に至っても、マイケルなら少年のようなたたずまいを貫いてるだろうと、容易に想像できます。
さまざまな変態をくり返しながらね。
そんな幻想を抱かせるところも、スーパースターなのです。
アーメン。

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