サムライになりたくて、お茶の稽古にかよってます。
笑いの絶えないゆる~い雰囲気で、着物美人の先生に教えていただいてまして、どうもサムライにはなりきれてませんが。
「お茶の稽古のどこが楽しいんだ?」というひともいようかと思いますが、なかなか考えさせられることも多いし、所作の美しさにもひかれるし、日本古来の価値観「わびさび」の趣も興味深い。
性に合ってるみたいです。
季節感あふれる和菓子(ほんとに芸術です!)をいただいて、みずみずしい芳香漂うお抹茶を服すると、うつつ世を忘れて思索にふけりたくなります。
さて、お茶を点てるとですね、そのあとに主人と客とでとんちゲームみたいなやり取りをするのですよ、知ってました?
「お茶入れのお窯元は?」「瀬戸でございます」「お茶杓(ちゃしゃく)のお作は?」「ゲンゲンサイでございます」なんていうアレです。
ま、最初は「バカバカしいことをするもんだな」と思ってたのですよ。
だけどこれがやってみると、なかなかに深い。
その日のお茶席のテーマや季節感に合わせて、茶道具に名前(銘)のつけっこをするのですが、ここで機智と感性が問われます。
簡単に例を言えば、床にアジサイがかざってあり、お菓子に虹色のアラレが出てたら、道具の銘を問われたときに「カタツムリと申します(こんなバカな答えはありえないけど)」と返す。
するとみんなは、ああ梅雨空な雰囲気でトータルコーディネートしたのね、とか、ほほーこの茶席のテーマを詩的に消化しておるな(こんなマヌケな感想もありえないけど)、とか、なんとなくキリリと場が締まるわけです。
これが結構むつかしいの。
なにしろ知性が問われてますから、
ぼくが稽古にかよってるとこは、まあ砕けた雰囲気なんで、お茶を点ててるときに5時半の「夕焼け小焼け」が広報スピーカーから流れてきたら、「この茶杓は『山のお寺の鐘が鳴る』と申します」なぞとテキトーな回答で笑いをとったりできます。
あるとき、こんな問答の最中に、空がにわかにかき曇り風雲急を告げる、という事態になってきまして。
雨ツブが窓を叩きはじめ、遠くに雷鳴が聞こえる。
こんなとき、とっさに目の前の茶杓に「いかづち」とか「へきれき」などという銘をつけたくなるわけだけれど、それでは少々表現が直接的すぎて面白みがない。
そこで、ちょっと文学的に「はやぐもです」などと言えば、ほう、とか、およ、などと感心させることができ、ポイントが上がります。
中秋の名月がぽっかりと地平に浮かんでたとしても、うっかり「まんげつ」とか「げっこう」などという知恵のない名前をつけるのは御法度。
「あぽろ」とか「しょうじょうじ」とか「だんしんぐらびっと」などと、ちょっとひねりを加えれば、ウケます。
もちろん道具の形なんかとリンクさせることも重要で、図1のような先っぽ形をした茶杓(虫食い穴がある)を用いたお茶席では、初春ならば、「さわらび(早い時期のワラビ)です」なんて言うと、かしこそうに見えて、モテる。
ぼくがいちばん自信を持って銘をつけたのは、図2のような形の茶杓です。
その日は母の日で、こんな形の茶杓が出されてぼくは一目見てぴーんときて、即座に「たらちねです」と名付けました。
「たらちね」は「母」にマクラする言葉で、「垂乳根」と漢字で表します。
そう考えると、見れば見るほどこれは「タレたチチの根っこ」のようではありませんか。
こんな当意即妙のやりとりも、お茶の稽古の魅力のひとつなのです。
たのしいな、お茶の稽古。
みんなもやってみませんか?

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
知識のあるひとと知性のあるひととは別物でして。
知識ばっかり持ってても、なかなか敬意をもちづらい人物というのは存在します。
アタマのいいひとと聡明なひともまったく違ってます。
知恵をどう使うか、によって人間の価値は変わってくるみたいです。
おどろくほど学識のない人物が、おどろくほどの叡智に満ちた発言をすることがありますし、とてつもなく博学な人物が、実に人としてどうなのか?的発言をすることもあります。
「知的なひと」とは、脳みその容量の問題じゃなくて、人間性をも包括した表現です。
いっこ知識をインプットしたら、アウトプットの仕方にこそ知性が問われます。
そこんところをこそ心がけましょ。
と、自分に言い聞かせる今日この頃。
「無知の知」と言ったひとがいますが、自分は何も知らないのだという事実を知ったときから、知という行為がスタートします。
知というのは、自分自身を認識する、と同義なんですね。
などと。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
六本木の美術館でやってる「ルーシー・リー展」を観にいってきたんだけど、あかんかった~。
なんやろなー、この街の軽薄さを象徴するようなこのこざかしい陳列は・・・
あのね、来場者はルーシーの器を観にきたんだから、当然、器を見せるように並べるのが美術館の責任ってものだよね?
だけどここにあったのは、巨大な水盤のあちこちにルーシーの作品を配置した「学芸員によるインスタレーション」とでも呼ぶべきアホ細工。
なに勘違いしとんねん~!
器自体が遠くて見えへんわ~。
「ルーシーの器展」を謳うこの展示場に連れてこられて、「まあ、部屋全体がキラキラしててとってもきれいでその中にルーシーが散りばめられててとっても浪漫ちっくね~」などと大ヨロコビする客がいるとでも思ってんだろうか?
独りよがりの主催者側が、作品を弄んでるとしか思えなかったなー。
考えるに、安藤忠雄大先生が図面を引いたこのすばらしい建物と、ルーシーの器をコラボさせよう、という意図だと思うんだ。
だとすれば、それは安藤忠雄の作品でもルーシー・リーの作品でもなく、レイアウト者の作品、ということになろう。
了見違いもはなはだしい。
フンイキだけやん~・・
やはり六本木とは、そういう街なんだろうか?

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
論理的に説明できないものは、実在しない。
・・・とまでは考えてませんが。
書き物をしてるせいもあるんだろうけど、世の中の森羅万象を構造的に突き詰めたい、という欲求がありまして。
これはまあ、欲求というよりは知的好奇心、野望というよりはクセのようなものかも。
身の周りで起きた現象や、相手の反応、自分の内的な揺れ動き・・・ぜんぶをきちんと考え詰めてみることで、自分の心がなんとか平穏に保たれてます。
ところで、ニュース画面を見るたび、こんにちの不景気について考えてしまうんですけど。
日本のこれは、海外からの「失態ひっかぶり」的不景気と見られてるんですが、それはもうその通りなんですが、だけどそれは引き金に過ぎなくて、もちょっと構造的なものなのではないか、と。
街頭インタビューで、マイクを向けられたワカモノたちは、「不満というより不安」「先が見えない」「夢を持ってもしょうがない」と、口々に絶望の言葉を口にしてます。
これは、アメリカ経済破綻以来ヘコんだ浮き世の空気が言わせる一過性のもの・・・なんかじゃない。
過去に連綿とくり返された我が国の失政による、未来まで延々と続く質のもの。
頭のすみに膨大な借金返済額の憂いをはびこらせる者が、目の前に置かれた甘い商品に手を出すか?と、端的に言えばそういうこと。
お金は持ってるんですから、ひとも企業も。
だけど将来返さなきゃいけない国の借金、もらえないかもしれない年金、細る一方の医療・福祉関連予算・・・そんなものが、じわじわと社会の意欲を蝕んでるわけです。
企業は内部留保(貯金)ってやつに手をつけることなく人を切り、個人は貯蓄をふくらます一方でサイフのヒモは引き締める。
将来「必ずやってくる」災厄に備えてるわけです。
政府の今年度予算における、税収に匹敵するほどの借金は、とりあえず死なないためのもので、未来を豊かにするものではない。
ぼくら庶民は、景気刺激の散財に喜ぶどころか、借金残高を見て恐怖を覚えるばかりです。
芥川龍之介さんという文豪は「ぼんやりした不安」に負けて自死しました。
もの書きの彼は、このぼんやりしたものをどうしても論理化できず、自分の中に取り込めず、病んで、さいなまれて、蝕まれて、進退極まったわけ。
昨今の世の中を取り巻くこのぼんやり感も、ひとのマインドを死に至らしめるものと思えて仕方がありません。
これが解消されないかぎり、人々の中には不景気感は居座りつづけるし、サイフのヒモなどゆるめようもない。
防衛本能、つか、生存本能ですよ、このお金の使わなさは。
スッキリと、明確に、未来の道すじを知りたい。
きびしくていいから、ちゃんと借金を返したい。
借金が減りはじめさえすればね、そしたらね、誰もがお金を使いたくなりますよ。
この不景気は、ただそれだけのものだと思うのですが。

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辰吉の最新の試合を観ましたが、無惨なものでした。
想像以上に凄惨な画づらだった・・・
世間は、辰吉丈一郎に幻想を抱きすぎてます。
彼が強かったことなど、実は一度もないのです。
「古今無双の豪腕ボクサー」は、マスメディアがつくりあげた偶像でした。
彼は、タイミングが合えば強いパンチを打ち込むことができるボクサーですが、それ以外の技術が稚拙すぎるのです。
ただ、生涯でその「幸運なタイミング」が重なりすぎたために、不幸なことに、英雄に仕立て上げられてしまいました。
そして調子にのっちゃった。
ひどく打たれ弱いくせに、ノーガードで相手をからかったりしては、パンチをもらって沈んだりする。
戦績を見ればわかりますが、あまりに負けすぎです。
強く打ち込む、という以外の技術を磨かなすぎた。
最新の試合では、その強いパンチも鳴りをひそめ、とても見られたものじゃありません。
試合開始から10秒観ただけで、彼が勝つ可能性が皆無であることは、誰の目にも明らかでした。
相手のタイ人ボクサーは若く、精気がみなぎり、勢いだけで戦ってるように見えます。
しかしそのスタイルは、辰吉にとって、若かりし日の自分に生き写しと見えてたに違いありません。
かつて絶頂期に、相手のチャンピオンをノーガードで挑発してた38歳のロートルボクサー(辰吉)は、今、若さあふれる相手にノーガードで挑発され、それでも手も足も出せない。
陰惨な光景です。
ボコボコにされ、記憶が飛んでふらふらになり、自陣コーナーもわからず、セコンドからタオルを投げ込まれた辰吉。
夜、家に帰り着いて、奥さんと顔を合わせます。
その場所に、カメラが入っている。
この夫婦の会話が、辰吉の生き様を如実に表してて、胸に迫ります。

奥さん「無口やん」
辰吉「しゃべりたーない」
奥さん「なんで?」
辰吉「だって、やめさそーとするやろ」

婉曲に、まだつづける、ということを伝えてるわけです。
まだやるんや・・・?
彼の頭の中に、引退するなどという考えはこれっぽっちもない。
網膜剥離、国内ライセンスの失効、コミッションからの引退勧告、衰える肉体・・・
それでも、彼はボクシングをやめないのです。
こんなだから、辰吉はいつまでも愛されつづけるのでした。

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抜けるような青空を見てると、「空気は、本当は透明ではなく、青いのでは?」と考えざるを得なくなりますね。
かぎりなく透明に近いブルー。
その層が厚くなることによって青く見えるのだ、と解釈したくなります。
遠くから富士山を見ると、緑じゃなく、青に見えます。
高いところからビル群を見下ろしても、青みがかって見える。
スペースシャトルから見た地球の青は、実はそれを取り巻く空気の色だったりして。
科学者はいろんな理屈を付けて「空が青く見える理由」を説明してくれますが、ここはシンプルに考えるべきです。
ついでに言えば、水だって本当は青いのでは?
コップの水は透明に見えるけど、それは量が少ないだけの話で、もっとたくさんの水がたまれば、徐々に青が濃くなっていきます。
沖縄の海なんて、浅瀬はほのかな水色、深くなるとあざやかなエメラルドブルー、沖のほうにいくと藍から濃紺・・・と実にわかりやすく、しかし複雑に色分けされてます。
群青、って色がありますが、まさしく言葉どおりに、薄い薄いブルーが積み重なって、海の群青色は形成されてるわけです(仮説)。
高密度に濃縮された氷河なんて、実際に青いものね、錯覚でもなんでもなく。
分厚い南極の氷も、うっすらとプルーがかってる。
みっしりと水を圧縮すると、それは青くなるのですよ、きっと。
水素ふたつと酸素ひとつを結合させてできたその最小単位から、青い色素を抽出することができたら、それはたのしいことだろうなあ、と思います。
それとも「青色元素」なるものが交じってるのかもね。
それは、空が青く見える理由として、空気中にも存在するわけだものね。
ヨシ、こいつでノーベル賞を狙ってみます。

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朝日新聞を読んでるんですが。
たまに朝刊の中ほどに、ちょっとパルプ多めっぽい白無垢紙を使った「GLOBE」なる8P分の紙面が織り込まれてるのですよ。
最初は、広告かな?とも思ったんだけど、違うらしい。
硬派系週刊誌テイストの、あるいは文化面で扱うような、そんな記事が多い。
ところがこれが、少し目を通すときちんと取材がなされててけっこう面白いのに、なにしろ読みにくい。
なぜって、原稿がヨコ書きで構成されてるために、ここだけ左から右へと読まなきゃいけない。
一面から右開きに(つまり作法通りに)新聞を読み進めてくオレにとっては、このページにくるといきなり、対向車が逆走してくるような違和感があります。
新聞ってのは、というよりも「日本語」というものは、いにしえよりタテ書きの文章を右から左へと改行していくものであるので、こういうイレギュラーな書き方をされると、実に読みづらいわけです。
情報が脳にダイレクトに入ってこないの。
これは「書」の書き順や、文字から文字への連なりとも関係があるのかもしれません。
だからしんどくてつい読み飛ばしてしまうんだけど、なんとももったいない話です。
たぶん朝日新聞としては、パソコンのヨコ書きで文章を読む世代の台頭に備えて、こんな紙面構成を試行してるんでしょう。
しかしですよ、上から下へとスクロールする事情で、ヨコ書き・左アタマにせざるをえないパソコンと違って、新聞は左右に開く読み物なのです。
ヨコ書きにしたければ、タテ開きのカレンダー方式にしてくれ、と言いたい。
朝日新聞は、日曜版掲載の安野モヨコさん著「オチビサン」でも左アタママンガを試みてます。
この作品は実に風情と含蓄のあるもので、オレも大好きです。
ただ、紙面の構成から流れが完全に浮いてしまってて、周囲との関連性にちぐはぐさが否めません。
このマンガ作法を用いたいのなら、それこそ「GLOBE」面に掲載したらしっくりくるのに。
オレもマンガ家のハシクレですから、ヨコ書きの文章の中に四コママンガを挿入しなきゃならない状況に追い込まれることがあります。
だけど、どうしても据わりが悪い。
フィットしようにない。
だって作法が違うんだから。
セリフをヨコ書きにすれば多少は落ち着くものの、やはり日本人にとって、マンガの展開というものは右から左へ流れていくほうが自然に見えるのです。
キャラクターの顔は、読者から見ると左側に鼻先の向いてるものが圧倒的に多いのも、そのためです。(エイゼンシュタインのモンタージュ理論)
こんなことをくどくどと並べ立てたところで、近い将来にはきっと左開きの本が多くなり、新聞を読む作法もそっち重視に変わっていくのかもしれません。
だけど、なんかタブロイド紙のような安っぽさがやなの。
global=世界標準を目指してるんだろうけど、もっと和文化を大切にして~。

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この歌が大好き、というひとには悪いのだけれど、ぼくは「千の風になって」をはじめて聴いたとき、噴飯しそうになって、「おいおい、本気か?」と実際に声に出してしまった者です。
あの旋律に乗り切ってないキテレツな歌詞といい、大げさな歌いっぷりといい、感動的なまでにツッコミどころ満載です。
葬式の厳粛な雰囲気の中で、意味もなくおかしくてゲラゲラ笑いだしたくなることがある、あれに似てるかも。
最近の歌って、こっぱずかしい内容のものを臆面なく、しかもなんの工夫もなしに直球表現してるものが多くて、ぼくには聴くに耐えません。
小室さんあたりから、この類いのものが現れはじめたみたい。
彼は、ドとレとミだけ、あるいはドとミとソだけで音をつくる、まるでモーツァルトのような名人だったんだけど、その大安売りな音に簡易な歌詞をのっけて、脳みそを使ったことのない人々に熱烈的に受け入れられたのでした。
どこまでも 限りなく 降り積もる雪と あなたへの想い
という歌を聴いて、
欲深き ひとの心と 降る雪は 積もるにつれて 道を忘るる
と、志ん朝さんが落語の中で用いてた詩を思い出し、なんという知性の差だろう、と寒くなった記憶があります。
壁ぎわに寝返り打って 背中で聞いている やっぱりおまえは出ていくんだな
これを作詞したひとなんかは、ちゃんとものの本を読んでハードボイルドを理解し、歌い手さんのキャラクターと曲調を自分の中に取り込んだ上で、音にのせてます。
それが文化というものでした。
この後の歌詞も全部書き記したいんだけど、ちゃんと完結した文学として読ませるものになってるわけ。
その点、最近の歌の詞は、現象をそのまんま描写しただけのものが多くて、まあ、言えば・・・なんというか「アタマわるそうに」に聴こえます。
鳥肌が、逆の意味で立つ。
「きみとやっと手をつなぐことができた、ああ幸せだ」と表現するよりも、「いえー、占い師。ぼくらを占うなよ」としたほうが、イメージの跳躍があるし、生き生きとふたりの関係を説明できると思うんだけど、どうでしょうか?
こうした観念的な表現は、携帯小説しか読まない世代には、もう流行らないのかも。
いや、流行る流行らないというよりも、その深いところがまったく理解できなくなってるのだとしたら、それは恐ろしい退化なんじゃないすかね。
流行り歌を街角で耳にするたびに、「大丈夫なのか?」と考え込まざるを得ない今日この頃です。

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わー、咲いた。
・・・などと言って、いそいそと出かけるわけですが。
なのにいざお花見となると、ひとは杯の中ばかり見つめてしまって、あまり頭上の桜を見上げるということはなくなります。
ところが、桜の花はず~っとこちらを向いて、人間の生態を観察してます。
花の中でも、下を向いて(つまりひとに向かって)咲くのは、桜だけらしいです。
なんで太陽の方を見ないで、ひとに向かうんですかね?
やっぱり桜の樹の下には屍体が眠ってるのかな・・・?
じゅくじゅくのそいつに根っこで絡みついて、真珠のような屍液をチュウチュウ吸い上げてるから、あのようにぞっとするほど美しいのだ、という文豪の説もあります。
そういえば、桜の花びらを一枚手にとると、それはまったく「白い」のですよ。
白素地の内側に血液のような細管が通って、朱が柔らかくほの差して見える。
それがシベの周囲に五枚集まり、それが枝に何輪か集まり、そいつが寄り添い雲海のように密集すると、やっと「サクラ色」になるのですねえ。
この世にあんなにも淡い紅ってあります?
ありゃーきっと、樹の下に眠るひとの現世に残した未練のこだまみたいなもんなんじゃないですかね。
・・・とか言って。
きざを言いたくなるのも、この季節の風のいたずらなのでございますよ。

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おめでとう、ニッポン。
工房が休講日だったこともあり(決勝の日程を週末に持ってこないのが理解できないけど)、ずーっと観戦してました。
こんなに野球って面白いんですねえ。
やっぱりイチローです。
このひとの本当の魅力は、じつは積み重ねた記録などではなく、なにより美しさなのですよ。
このひとほど美しい打球を放てるひとは、古今東西いません。
今日の決勝打もそう。
その打球の、息を呑むような美しい軌道。
勝つか負けるか、よりも、どう勝つか、で戦ってるのですね、このひとは。
さすがナルシスト、次元が違うところにいる。
韓国は強いけど振る舞いに洗練がないし、アメリカはいばりすぎてて野卑だし、南米のその他のチームは大ざっぱだし、なんつっても日本の野球は、というよりもそのプレイは、心細いけど、美意識が一貫してて、とにかくかっこいい。
その象徴がイチローなのでした。
いやとにかく最高の勝ち方でした。
これ以上にうれしい勝ち方って、ない。
いやー、なんて幸せな結果なの。
そして、相手を気づかいながらの喜び方も、いい。
どんだけやさしい国民性なんでしょう。
母国をしみじみと誇らしく思いましたよ。
こうなったら、10連覇してください。
野球の母国・アメリカに、姿勢を正してもらわなくては。
昨日の日記でも触れたけど、大会自体をなめてる間に、本当に自分たちが蚊帳の外に置かれてしまってることを、この主催国はそろそろ気付くべきでしょう。
もっともっと、とてつもなく強いアメリカを観たいのになー、ということだけが、今大会の残念な部分なのでした。
本気のアメリカに、日本は勝てるのかなー・・・?
それだけが、今のぼくの興味です。

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