日本と韓国の資本をメジャーリーグが吸い上げるシステムが確立した感のあるWBCですが、少なくともアジアでは盛り上がっております。
それに比べて、アメリカ世論のなんと熱のこもらないことよ。
もっと一生懸命やらんかい。
ジーター(このひとは貧乏くじを引いて、WBCのスポークスマンになってしまった感があり)ひとりが哀れナリ。
アメリカ国内の冷え方と等質に、悪いけどアジア方面でもアメリカチームはザコ扱いされております。
否、アメリカが考えるレベルよりも、さらにはるか「たやすい相手」扱いされてるのが、あちらのチームあるいは国民自身にわかってるのかな?
準決勝の試合を観てても、日本には「アメリカごときに負けるわけなし」感が漂っている。
しかしその通り、あちらのガムを噛むプレイヤーたちの振る舞いは粗末なものであり、強さも軽やかさも美しさもなし。
本当にベースボールの未来は大丈夫なのか?アメリカ。
ええ、日本にとっても、韓国にとっても、今やアメリカなぞ眼中にない。
倒すべき敵はただひとり。
最大に盛り上がる意中の相手と言えば、もはやキミのほかない。
恋慕にも似た想いを胸に、いよいよ決戦です。
いやー、それにしてもほんとーに興奮するもんですね、野球ってのも。
今までプロ野球ってやつを軽んじてたけど、なかなかこんなのも悪くない。
やっぱ世界って舞台はたのしいね。
ところで、日韓で決勝戦するのはもはや決まってたことなんだから、放送枠もアジアのゴールデンタイムに設定していただきたい。
それでこそ、アジアの見かじめ料を見込む者(支配者・アメリカさま)にとっても、最低限の礼儀というものでしょう。
しかしそれはそれで仕方がない。
朝っぱらから応援するぞー!

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しばらく野球から離れてたけど、歳とらねーうちに、と思って現場に復帰しました。
春だしね。
約5年ぶりのグラウンド。
うららかな日和で、ほんとにたのしい一日でした。
昔の仲間たちとの関係もいい感じ。
残念ながらわがチーム(大江戸らいんず)は解体されて、他のチーム(バッカス)に合併吸収されちゃったけど、レベルもおおむね「以前と同じ」。
なんとかやっていけそうです。
前のチームでは、ポジションはキャッチャーでした。
へぼだけど、声だけやたらと出してるんで、そんなかなめの場所が居心地よかったなあ。
でもこの日は、自分がどれだけ動けるかわかんないんで、9番ライトに入れてもらいました。
だけど怖いね、練習も無しで、いきなりの開幕戦。
緊張しっぱなしでした。
相手は、ちばてつやさん率いるホワイターズ。
いやー、ちばさんは本気です(たぶんマンガよりも)。
タッチアップでホームに頭からスライディングする御大の態度を見せられると、自然に燃えてきます。
こんなふうに人生を遊びたいなあ、なんて。
WBCも盛り上がってきてるし、オレもここらで暴れさせてもらおうっと。

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彼女ははたちの美しい少女(まことに少女然としたたたずまい)なのだけれど、すぐに手首を切ってしまう。
死にたい、と言っては家の窓から飛び降りたり、メンタリティが最悪なときだと、家に火をつけたり。
そして、「食事をするように」と彼女が表現するようなスパンで、手首を切る。
切っては、ばんそうこうを貼り付けて工房にくる。
ぼくは彼女を教えてるわけではないけれど、彼女は安定を求めてやってくるわけ。
お茶を飲むだけ。
それでも、頼ってきてくれるのはとてもうれしい。
ぼくは、どんよりとした彼女を、たちまち安定させることができる。
やすやすと、その方法論をみつけることができた。
簡単な作業だ。
つまり、彼女に対して笑顔で話しかけさえすればいいのだ。
彼女は、明るい人物と落ち着いて話をしたいだけなのだから。
こちらの笑顔で、彼女は安定し、心をおだやかに保つことができる。
これと同じことを、家族が彼女に対してしてくれさえすれば、パニック障害なんてすぐに治るはずなのだが、彼女の家族はそれをしてくれないらしい。
ギスギスした家族関係が、刃物を手首にあてさせる。
今日も手首に増えた傷を見て、ぼくは「すげえな。皮一枚にしとけよ」と笑ってみせる。
すると彼女も、「大丈夫、なれてるから」と笑い、お茶を入れてくれる。
彼女がお茶を入れてくれるというのは、すごいことなのだ。
それほどに、彼女は回復しているのだ。
少し話をして気がすむと、足を軽くして出ていく。
彼女の心ににごった部分をつくるのが周囲の仕業なら、それをきれいにすこやかに浄化することができるのも周囲の働きかけひとつなのだった。

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そもそも「ありがとう」や「ごめんなさい」なんて言葉はね、反射神経から飛び出す言葉ですよ。
ひとになにか施しを受けたら「ありがとう」と、失態を演じたら「ごめんなさい」と、ついつい口走っちゃうってのが正解でしょう。
頭脳で咀嚼してからくり出す「言語」ですらなく、延髄あたりで感知して思わず飛び出す「感嘆符」みたいなもののはず。
驚いたときに「うわっ」とか言うでしょ。
それと同等に使用すべきです。
それをですね、「ありがとう」と口にするのは損失、「ごめんなさい」と頭を下げるのは屈辱、と考えるひとがいます。
このふたつの言葉は、人間間の円滑な交わりをうながす役割と、それ以前に、原初的な敬意の美しさを持ってるのですよ。
もっともっと気軽に使えんかね、このふたつのすてきな日本語。
などと。

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「命かけてラーメンつくってます」みたいなこと言ってるラーメン屋さんがテレビ画面の中によくいますが、うるさいよ。
「感動の味を」とか「魂のスープ」とか、どうでもいいの。
おいしいもんつくってくれたらそれでいいよ。
なんでテレビカメラの前でそれを言わねばならんのか?
それは、商業的においしいから、なんだけど、あざとすぎます。
佐野、という、テレビ的に伝説になってるラーメン屋さんがいますが、あの男がいちばんうるさい。
「うちのカウンターでは、おしゃべり禁止!」とか言っていばってるらしいけど、ペラペラとしゃべりすぎのおまえに言われたくない。
だいたいカウンターテーブルっつーのは、対面でしゃべり合うことを意図してつくられてんの。
矛盾に満ちてます。
このひとのつくるラーメンがうまくないってことは、食べなくてもわかります。
そんな状況下で食べさせられるラーメンが、うまいわけないもの。
家畜がエサを摂取するようなシチュエーションではないですか。
ラーメンなんてざっかけな食べ物は、ワイワイおしゃべりしながら食べるのが、いちばんおいしいのです。
話し戻るけど、前述の「ラーメンに一期一会」的なものを求める態度って、一時ブームになったカリスマ美容師の「私たちは魂を形づくっているのです」的発言に酷似していて、少々気持ちが悪い。
そう思っててもかまわぬけれど、口にしなさるな。
さぶいから。
おまえは命かけてラーメンつくってるかもしれんけどね、そんなことは日本料理人も、イタリア料理人も、街の定食屋さんも、どんな料理人もやってるよ。
つか、料理人でなくても、仕事してるニンゲンなら誰でもそう思ってるのでは?
能書きはいいから、ちゃんとしたものつくりなさい。

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「カウンター」という構造について、場末の酒場で飲んでたりするとよく考えますね。
カウンター、ってのは、カウンター・パンチなんて使い方でわかるように、「差し向かえ」みたいな意味です。
要するに、面と向かって交わる、ってことでしょう。
言うまでもなく、カウンターテーブルは、供給側と消費側が気軽にコミュニケーションをとるための建築構造です。
寿司屋なんてのはその典型例で、「おっちゃん、トロね」「あいよ」なんて気安さで、第三者の手をわずらわすことなく、直接の受け答えができます。
だけど現代に生きる人類は、直接交渉を拒みたがる。
そこで必然的に、例の「回転寿司」ってスタイルが出現します。
回転寿司のカウンターでは、皿の縦方向の行き来はなく、常に横に動きます。
しかも「カウンター」とはいわず、「レーン」と呼ぶ。
レーンってのは、陸上短距離でもおなじみの通り、横切る者をさえぎるための構造です。
こうして現代人類は、厨房と食卓との完全な断裂に成功したわけ。
一言の会話もなく寿司を食することができるという、夢のような世界の実現です。
以前、奇妙なラーメン屋さんが人気を博してたんですが、このラーメン店の店主は、「カウンターで会話をするな!」というガンコ親父(というおそらく自分プロデュース)でした。
「黙ってラーメンを食え」「きちんと味わって食え」というのがこのひとのスタンスだったんですが、こんなラーメンがうまいわけがない。
カウンターというのは、会話を気安くたのしむための装置なのだから。
さらに言えば、食事などというものは、コミュニケーションのためのツールでしかない。
うまい・まずいは、気分で変わる。
すてきなひとと食べれば冷えきった牛丼も珠玉の美味となりうるし、嫌悪すべきひとと食卓をともにすれば高級フレンチも味気ない。
こんな奇妙なガンコ親父に叱られながら黙々とすするラーメンが、果たしてうまいわけがないのです。
「黙って食え」というのなら、店内構造をカウンタースタイルにする必要はありませんでしたな。
そのあたりに考えも及ばず、旧態依然としたスタイルで、しかも「俺のつくった作法に従え」というのは、完全なる矛盾。
それをしたいのなら、ちゃんとキッチンと卓を隔て、しかもパーテーションで客席を区切るところまでやらんかい!
・・・と思ってたら、本当にそんな店が街のあちこちにできてしまった。
最近流行りのラーメン屋は、キッチンとはカーテンによって隔離され、横の席とは間仕切りで遮断され、注文も紙に書いて提出→完全にひとりぼっちでラーメンを摂取することができる。
店に入ってから出るまで、誰の顔を見ることもなく、一言の会話を交わすこともなく、ただただ一杯のラーメンと向き合うことができる。
なんとも気が利いた演出ではないですか。
「味に自信があります」という過剰自意識のなせるワザか?
しかしこりゃ、オートメーションに組み込まれた気分になりますな。
いや、むしろ人間的に、座禅を組んでるような内観的心持ちに。
ラーメンと向き合うというよりも、こんな告解室のような小部屋では自分の心と向き合ってる心持ちにさせられ、懺悔のひとつもしたくなり、涙がちょちょ切れる。
おい、店主よ。
カウンター構造にするのなら、少し「なぜそうしたか」を考えろ。
ひとを、あなたという人物をこそ味わわせてくれよ!

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花粉症は、超能力です。
ぼくらはついに、未だかつて人類が感知し得なかったコロンまでもをその鼻で嗅ぎ分けることができるようになったのです。
誇るべき異能の才というべきではありませんか。
偉大なる進化。
さあみんな、この季節、外に出て、その能力を遺憾なく発揮しようではありませんか。
はっくし!

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それでも10人に1人は応援してくれてんのかー、というのが率直なところです。
10%といえば、かなり大きな数字ですよ。
東京ドームの巨人ー広島戦における、赤帽かぶったひとくらいの割合か。
あるいは、「おーい、AB型のひとよー」と呼びかけて、「はーい」と返事を返してくれるひとの割合。
日本の人口が1億3千万人とすると、1千3百万人。
つまり、東京都の人口とほぼ同じ人数は、少なくともあのひとの味方。
毎日のニュースを見てて、あれだけのことを目の当たりにしても、なおそれだけのひとが応援するかね?
まさかとは思うけど、新聞をとってなくて、かつテレビのない家庭の比率がこれくらいある、ということなのだろうか?(んなわけないな)
彼は、まったく無知蒙昧・・・失礼、純朴無菌の秋葉原の人びとに支えられてその地位に就いたわけなんだけど、やはり今も、無明の凡夫の人びとに支えられてるのだろうか?
ま、「おもしろがる」を「=支持」と言いかえることも可能なら、ぼくもそのひとりに数えられるわけなのだが。
つか当初、熱烈的に彼の登場に喝采を送った人びとよ、今は何処に?
ちゃんと責任とってほしいんですが。
とにかく、雰囲気で押し寄せ、雰囲気で退くのが、この日本の人びとなのだった。

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村上春樹さんが、イスラエルの文学賞「エルサレム賞」をもらったときのスピーチが、各方面から賞賛の声をもって迎えられてます。
パレスチナ・ガザ地区の人々(弱者)を「卵」、イスラエルの圧倒的な軍事力を「壁」に例えて、武力による抑圧を非難したものです。
この勇気と行動力は、ぼくも買いたいです。
「賞という栄誉をいただくことにより、イスラエルの側につく人間だと思われたくなかった」「賞を拒絶して沈黙するよりも、むしろ乗り込んで、積極的に発言していこうと思った」という態度もリッパ。
しかしスピーチ自体が、どうもぼくには納得いきません。
まず、両国(国と組織、か?)を卵と壁に例えたレトリックが、あまり効果的でない。
というよりも、例えが的確でない。
かゆいところに手が届いてない。
つまり、何言ってんだかよくわかんない。
ノーベル賞にノミネートされるひとの表現としては、少々浅い。
もう少ししっくりとくる、ひねりとスパイスの利いた、知性的で、聴く者の感性に訴える言葉は見つからなかったものか?
さらにぼくがヘンだと思うのは、その後に続く「私はなにがあろうと卵の側につく。たとえどれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても」という部分です。
そんなわけはないと思うなー・・・
正しい方につくべきでしょう。
メッセージの前半部分を百歩ゆずって理解したとしても、この部分がどうにも納得いかなくて、困惑は深まるばかりです。
もっと素直なレトリックを使ってくれたらいいのに。
彼はすばらしい意見を世界に向けて発信しようとしたのですが、どうもそのメッセージがいまいちメディアに乗り切れてないのは、このへんの「煮詰めすぎ的消化不良」に原因があるんじゃないかと思いますね。
惜しい・・・
いいこと言おうとしたのに、返す返すも惜しい・・・

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プーチンさんを久しぶりに見たけど、だいぶ薄くなってきましたね。
天頂部が。
「ロシア指導者・ハゲフサ理論」を知ってますか?
ロシアの指導者は、ハゲの人物とフサの人物が交互にその座に就く、という有名な法則です。
ロシア革命でレーニンが最高指導者の席に就いて以来、その順序は厳格に守られてます。
レーニンは、ご存知の通り、つるっぱげでした。
その後に就任したスターリンは、ふさふさ。
そしてゆで卵のようにつるつるのフルシチョフがその後を継ぎ、次いで剛毛のブレジネフの長期政権→彼が死んだ後、アンドロポフというつるつるが短期間まかされ、その後にふさふさ白髪のチェルネンコ、その後に世界地図をつるつるおでこにかかげるゴルバチョフ、白髪の赤鬼エリツィン・・・そしてその後に現れたのがプーチンさんです。
ところがこのひと、薄いけれど、髪はある。
フサが二代続いちゃって、ここだけ理論が破綻してるわけです。
その金髪は、細く、危うく、はかなげに見えるんだけど、なかなかハゲてくれない。
そうこうしてるうちに、ふさふさのメドベージェフなんてのが、大統領の座に就いちゃった。
しかし彼の政権は傀儡で、プーチンさんの院政は相変わらず続いてます。
その筋のひとに言わせれば、「プーチンは、頭がハゲ上がるまで、政権を掌握しつづけるだろう」ということらしいですが、なるほど、長期に渡ってこのひとがロシアを征服しつづけるのは間違いない。
というわけで、プーチン・ロシアの命脈は、彼の天頂に残るわずかな髪の毛が担っている、というわけなのでした。
殺し屋上がりとも噂されるプーチンさんの恐怖政治・・・
いつまでつづくのか?
はよ抜けろ~。
北方四島返せ~。

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