時折、ご訪問戴き有難うございます。
さて、貴新聞社も速報で伝えてます敗訴記事ですが、多分、社説を出されると思いますので、楽しみにしている購読者の一人として社説の紙面掲載希望を表明します。
共同通信社の「模範社説」ではない、独自の社説掲載を希望します。
■君が代伴奏拒否、原告敗訴確定
東京都日野市立小で教諭が君が代伴奏を拒否、処分された訴訟で最高裁は原告の上告棄却。敗訴確定。
河北新報の速報から
■伴奏拒否教諭の敗訴確定=戒告処分取り消し認めず-入学式君が代訴訟・最高裁
2月27日16時31分配信 時事通信
東京都日野市立小学校の入学式で君が代のピアノ伴奏を命じられた女性音楽教諭(53)が都教育委員会を相手に、校長の職務命令は思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反するとして、拒否を理由にした戒告処分の取り消しを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)は27日、教諭側の上告を棄却した。「校長の命令は合憲で、処分は適法」とした教諭敗訴の1、2審判決が確定した。
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070227-00000089-jij-soci
■御参考記事
「ネット君臨問題」が明らかにしたもの(後編)・嫌悪感の源泉はどこに
前編では
、毎日新聞の新年連載企画「ネット君臨」の第一部が引き起こした出来事やネット上での議論について紹介した。新聞という既存マスコミ側による「ネット批判」に対して、さらにネット側から批判が巻き起こったことで、「やはりネットは…」と眉をひそめている方もいるかもしれない。一方、ネットユーザー側は「またマスゴミ(マスコミを皮肉る言葉。マスコミとゴミを掛け合わせている)が」と嘲笑し続ける…。このすれ違いにあるいくつかの要因を考えたい。
■「本当のこと」は読者が判断
まず、ブログやSNSで個人が自由に発信できる時代が来たことを既存マスコミ側が理解していない(もしくは、頭では分かっていても肌感覚で理解できていない)ことがある。
ネット君臨の取材班の一人は、連載前に「ネット取材考」と題した新聞のコラムに「(中略)相手が取材された内容を、直後にブログの日記やネットの掲示板に書き込む。新聞記者のかつての取材は1対1の関係だった。それが大きく変わり、記者個人の名前や取材の仕方が不特定多数の人々にさらされる。メディアもそういう時代を迎えたことを思い知らされた。記者は名刺を出すことさえ、ためらうこともある。それでも生身の人に会って話を聞くのが私たちの仕事だ。そうしなければ、本当のことを伝えられないと思う」と書いていた。分かっていたはず…にもかかわらず、取材相手にネット上で取材手法を批判され、記者の実名や名刺のコピー画像、電話でのやり取りまで公開されてしまった。
前編でも述べたが、事実関係は当事者しか知りえぬことだ。しかし、取材される側がインターネット上のメディアという武器を持った時点で(その影響力は別にして)関係はイーブンになる。取材される側も自分の考えや意見、もう少し踏み込むなら「本当のこと」を伝えられるようになる。
リテラシーの高い読者は、新聞の連載を読み、取材された側の反論を読み、さらに、この問題について言及しているブログや記事を読み、総合的に判断して結論を導き出す。「本当のこと」が何なのかはプロの記者ではなく、読者が判断することなのだ。
情報源が新聞やテレビなどマスメディアのみだった時代であれば、記者が「本当のこと」を提示すれば、人々の多くが信じたかもしれない。しかし、今やそのような手法は、一歩間違えばフレームの押し付けとみなされる。記事の切り口、タイトル、取材源、座談会の人選…。記者や新聞社が提示するあらゆるフレームやアジェンダ設定が疑いの対象になる。
ネットユーザーにとっては、記者の言う「本当のこと」や「正しいこと」は、一つのものの見方に過ぎない。繰り返すが、既存マスコミはメディアの変化を理解したつもりでも、その本質には気付いていないのではないだろうか。
■記者も舞台に上げられる時代に
さらに言えば、これまでの取材が「1対1」という考え方にも違和感がある。私自身10年間記者として取材をしていたが、取材相手から愚痴や文句を聞くことが少なからずあった。強引なコメント取り、一方的なフレーム当て込みによる記事…。取材相手は記者の向こう側に多くの人々(つまり1対N)がいることを知っているし、怖いと感じていたはずだ。それでも、社会に広く情報を発信するには、マスコミに頼るしかなかった。
コラムを書いた記者が感じたという恐怖は、取材相手がマスコミと接触する際にいつも感じていた恐怖と同じ。そこにも思いが至っていないのではないか。
ネットでのマスコミ批判は理由なきものではない。静かに積み重なっていたマスコミへの不信感が、個人がメディアを持ったことによって顕在化しているに過ぎない。
しかし、時代の変化に気付かないのは一部の記者や新聞社に限ったことではない。自身のみが「発信する側」であり続けていると思い込んでいるマスコミは多い。
例えば、そのまんま東こと東国原宮崎県知事の記者会見は、県のホームページから動画共有サイトに転載され、多くのネットユーザーに閲覧された。
映像に視聴者がテロップを入れることが出来るサービス「ニコニコ動画」では、「粘着して副知事の質問をするマスコミ」とのタイトルでアップされ、「この記者態度悪いな」「誘導尋問してんじゃねーよマスゴミが」「ブチ切れたらその瞬間だけ映すんだろうな、マジ腐ってる」と辛らつな批判の書き込み(テロップ)が並ぶ。
いまや、記者も劇場の舞台に引きずり出されてしまっている。記者は劇を伝える観察者のままではいられない。言動だけでなく表情や服装も見られ、ユーザーによって判断される。しかし残念なことに、多くの記者たちは、このような変化に気付かぬままで、その姿はマスコミを批判するネットユーザーの格好の材料となっている。
■マスコミへの嫌悪感は「予想通り」
世代間のメディア認識のギャップもある。
最近出版された「情報メディア白書2007」(電通総研)は、各世代のメディア感について下記のように分析している。(抜粋)
「(団塊世代は)リテラシーの高い人のみがメディアのある生活を享受できた。団塊世代のメディアリテラシーは情報を享受すること自体が知的・経済的優位を持っていることを意味した。新人類ジュニアは、旧来メディアという権威に対して静かな反乱をネット上で展開している。彼らの戦いは、旧来メディアの情報閉鎖性(知る権利の独占)に対する嫌悪感に起因するものであるとともに、団塊世代そのものに対する嫌悪感――勝ち逃げ世代であり『マス』である世代に対する、負け確定であり『マイノリティ』である世代の怨恨――が投影されたものである」
メディアが貴重だった団塊世代はマスコミの主張をほぼ額面どおり受け取るが、1980年代に新人類と呼ばれた世代の子供たちである「新人類ジュニア」はそもそもマスコミの情報を疑ってかかっている。
「ネット君臨」は新聞での切り口、論調をそのままネットに当てはめた。新聞の読者は中高年が多いが、ネットは30代から20代が中心だ。電通総研の分析が正しいとするなら、ネット上の反応は「予想通り」とも言える。
しかし、既存マスコミが情報発信はマスコミによってのみ行われると考えてしまえば、「新聞で書けばオーソライズされるはずだ」という思い込みが生じる。そして、マスコミが設定した「マス」ではない考えやギャップを否定するために「摩擦」が起きてしまう。
ネットによって個人が自由に情報発信できるようになり、多様な言論、考え方が顕在化した。それによって、マスコミのアジェンダ設定力は従来に比べて相対的に低下しつつある。マスコミのネットへの嫌悪感、感情的な批判は、その焦りの裏返しと言えなくもない。ネット君臨をめぐる議論のすれ違いは、日本における従順な「マス」という大きな幻想が消えかかっていることを示しているのかもしれない。
[2007年2月23日]
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