12月21日、上里町にある帯刀古墳群の続きです
↑福昌寺の本堂
↑本堂の裏にあるのが「帯刀先生義賢之墓」(帯刀古墳群025)
↑帯刀先生義賢之墓の解説板
1155年8月16日、大蔵合戦で源義平に敗れた源義賢。上野国を目指して逃れようとしたものの、8月28日、ついに追いつかれ、この地において討ち取られたとのこと。それを憐れと思った村人らが埋葬。村の名前まで「帯刀村」と変えてしまった・・・・と記載されています。
↑墳頂の様子
直径4.8メートルの円墳。
解説板通りであれば、元々あった古墳に、義賢の遺骸が追葬されたのでしょう。
↑帯刀先生義賢之墓の様子
↑帯刀古墳群026
直径7.5メートルの円墳。日本庭園のような状態になっています
↑帯刀古墳群027、直径7メートルの円墳
↑帯刀古墳群028
直径7.5メートルの円墳。福昌寺境内の西端にあります。けっこう目立つ墳丘が残っています。
↑帯刀古墳群028をアップで。
破片が見つかりそうな墳丘の状態ですが、なにも見つけられず
↑帯刀古墳群029、北側より
福昌寺の正門横にあります。かなり目立ちます。直径21メートルの円墳。
↑帯刀古墳群029、南側より
12月21日に訪れた上里町と本庄市の古墳は以上です
浪人している娘が無事に大学合格したら、菅原神社に御礼参りしないといけませんね