大友皇子の妃、耳面刀自媛(みみものとじひめ)に関する伝説についての続きです
ちょっと長いですよ
匝瑳市の内裏塚下古墳をあとにして向かったのは旭市大塚原
↑大塚原古墳、南西側より
↑大塚原古墳、南側より
↑かなり字が薄れてきた解説板
解説板(昭和52年)より一部抜粋
伝承では、大友皇子の妃「耳面刀自媛(みみものとじひめ」は戦乱から逃れて、従者「中臣英勝(なかとみのあかつ)」らを従え海路を父「藤原鎌足」の出身地鹿島に赴く途中、九十九里海岸に漂着され病にかかって薨去されたという。
妃は内裏塚に葬られ、従者たちは椿の海近くで亡き妃を偲びつつ農耕生活を送ったという。後に浪荒い海岸からここ大塚原に改葬し、その霊を鎮めるため近くに内裏神社を創建したという。
このことは長い間、村人たちによって語り伝えられ尊崇され、内裏神社では33年ごとに大祭を行ない、最近では昭和46年に大祭が盛大におこなわれた。
明治24年、風雨で墳丘が崩壊した時に、従者中臣英勝の名を刻んだ石板、及び人骨、数点の土器類が出土したが、その時は学問的調査もされず埋め戻された。
昭和46年11月、墳丘整備を行ない、その際、甕棺からいくつかの人骨を発見した。・・略・・中に高貴な人の埋葬に使用したと思われる朱のついた、か細い骨片が発見された。
↑後ろの黒くなっている石に「連金子英勝」と刻まれていたようです。(現状まったく読めません)
中臣(連)金(なかおみのむらじかね):大友皇子の側近。壬申の乱後に処刑。子孫は流刑と日本書記にあります。
この石板に刻まれた「連金子英勝」をそのまま読めば、中臣金の子ども英勝(あかつ)という意味に。
地元に伝わる書「天慶3(西暦940)年の書(明治初期に書写)」の中で「天武天皇の時、官女が兵乱を避けて従者18人を連れて東国に下った。中臣常盤の孫・英勝が供をして、白鳳元年 (西暦672年)、下総の海辺に上陸したが、脳病により崩じたので、之れを埋葬した」とあるそうです
「官女」なんですよね
↑墳頂にある「弘文帝妃耳面刀自陵墓」の碑
昭和46年に実施された骨片については、少なくても3人分の遺骸があったことが判明しています(頭蓋骨から)。女性の骨は見つかってはいませんが、骨片が小さく劣化が激しいため、正確な人数と性別がすべて判明している訳ではありません。
↑墳頂にある碑の裏側、「大塚原古墳のいわれ」
前回アップした内裏塚下古墳でも触れましたが、伝承がかなり細かいんです
中臣英勝の一行がこの地に逃れてきたのは、もしかしたら間違いないのかもしれません
ただ、耳面刀自媛が一緒だったのかは?正直わかりません
いずれにせよ、古代史って本当にワクワクします
↑大塚原古墳、南東側より
「耳面刀自媛」なのか?「官女」なのか?わかりませんが、近江宮からの逃亡・・本当に大変だったと思います
賽銭箱はありませんでしたが、石碑にお賽銭を置いて、「安らかにお眠り下さい」と、お祈りしてきました