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foo-d 風土

自然や芸術 食など美を 遊び心で真剣に




〈花材〉

クルクマ
竜胆リンドウ
ハラン
ブルーベリー

秋を代表する花の一つ 「竜胆」は長く伸びた一つの茎にたくさんの花をつけていますから後ろで演出して頂き
クルクマは花言葉が「あなたの姿に酔いしれる」だそうでメインに飾りました。
 ただ 酔いしれるにはまだ若い感じの花ですね。
ブルーベリーは写真では分かりにくいですが実もついていました。






 …………………………
  花器は2015年製作の拙作 銘 「双龍」 
 大地に眠る二頭の竜が目覚めて頭をもたげようとしているイメージで造りました。
  化粧土を刷毛目 透明釉 天目釉を刷毛目 透明釉

染めと織の万葉慕情31
 栗の歌 (2)
   1982/11/05 吉田たすく

 

 

 

 

 先週の栗染の話のつづきですが栗をあつかった歌に「布を曝す井戸」の
詞をつかった歌で染織に関係した歌があります。

 三つ栗の
  那賀に向へる
   曝井(さらしい)の
  絶えず通はむ
   そこに妻がも  (注1)

 武蔵の国の那賀という所に向きあっている曝井の水が絶えないように通いたいその那賀へ、そこに妻が居て欲しいものだというのでしょう。 この地名の那賀(なか)の詞を 「なか」と見てその詞を飾るため、三つ栗と上
につけたのです。
 いが栗の中には三個の栗の実が入っていますので、そのなかが那賀にか
かるのです。 万葉の歌は詞ばあそびをしているみたいです。
 万葉集には多摩川で布を曝す歌がありますが、那賀も同じく麻織物の盛
んな所であったのかもしれません。
織り手の乙女が爆井で織り上げた布を曝している。その乙女の白いかいながちらちら見えて、あんな乙女が妻であったら毎夜通いたいものだなどと思っての歌でしょうか。
 栗の歌に染織に関係ありませんがもう一つあります。この歌は、「妻に与ふる歌」と「妻のこたふる歌」の二首からなっています。(注2)

 雪こそは
  春日(はるひ)消ゆらめ
   心さへ
  消えうせたれや
    言(こと)も通はぬ

 松反(まつかへり)
  しひてあれやは
   三栗の
  中上り来ぬ
   麿といふ奴  

 雪は春日に消えるでしょうが、心までも消えたのだろうか(そんなはずはないと思うけれど)言葉すら行来しないことだ、と主がぼやけば、妻はこたえて歌うのです。
 松反は枕詞で「しひてあれやは」 できものが出て感覚を喪失する意だそうですから、しびれてばかになってしまった(わけでもなかろうに)中上(なかのぼり)して私の所に来もしない、麿という奴はほんとうに。

 中上りというのは当時国守が任期中に一度、京都へ中間報告に上る事で
す。その中を飾る詞として三つ栗がつかわれているのです。

 ここで栗の歌をおわりますが、栗染の歌はありませんでした。栗で染め
ればあんなに美しい茶色、くり色が染まりますのに、万葉人は栗を使った染色はしていなかったのでしょうか。
 ところが栗に似たものに「どんぐり」がありますが、このどんぐり染の
歌がかなりあるのです。
 次回は、どんぐり染の歌とりあげてみます。なかなかおもしろい歌がそ
ろっています。

      (新匠工芸会会員、織物作家)

 …………………………

(注1)

三つ栗の 那賀に向へる 曝井(さらしい)の 絶えず通はむ そこに妻がも

作者 高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)
那賀(なか)に向って、流れてゆく泉のように絶えることの無い様に通っていこう。そこに愛しい妻がいてくれたらもっといいのになぁ。
栗(くり)は、中に実が三つ入っています。そこで、「三栗(みつぐり)の」で「なか」を導いています。

  那珂へと注ぐ曝井の
    湧き水のように絶え間なく
    通(かよ)って行こうと思うから
    そこに妻がいてほしい

那珂郡(なかのこおり)の曝井(さらしい)
 「那珂郡」茨城県水戸市の一部と那珂市・ひたちなか市・常陸大宮市のほぼ全域。
 「曝井」茨城県水戸市愛宕町の湧き水。

(注2)
両歌共 作者 柿本人麻呂

妻に与えた歌
雪ならば春日に消えもしようが、そなたは心まで消え失せたのか何の便りも寄越さないね。

妻が応えた歌
都から離れて長くなるせいか、都をお忘れになったのかしらね。三栗でもちゃんと中があるのに中上りもしないままですものね、麻呂って人は。

染めと織の万葉慕情31

 栗の歌 (2)

   1982/11/05 吉田たすく

 先週の栗染の話のつづきですが栗をあつかった歌に「布を曝す井戸」の

詞をつかった歌で染織に関係した歌があります。

 

 三つ栗の

  那賀に向へる

   曝井(さらしい)

  絶えず通はむ

   そこに妻がも  (注1)

 

 武蔵の国の那賀という所に向きあっている曝井の水が絶えないように通いたいその那賀へ、そこに妻が居て欲しいものだというのでしょう。 この地名の那賀(なか)の詞を 「なか」と見てその詞を飾るため、三つ栗と上

につけたのです。

 いが栗の中には三個の栗の実が入っていますので、そのなかが那賀にか

かるのです。 万葉の歌は詞ばあそびをしているみたいです。

 万葉集には多摩川で布を曝す歌がありますが、那賀も同じく麻織物の盛

んな所であったのかもしれません。

織り手の乙女が爆井で織り上げた布を曝している。その乙女の白いかいながちらちら見えて、あんな乙女が妻であったら毎夜通いたいものだなどと思っての歌でしょうか。

 栗の歌に染織に関係ありませんがもう一つあります。この歌は、「妻に与ふる歌」と「妻のこたふる歌」の二首からなっています。(注2)

 

 雪こそは 

  春日(はるひ)消ゆらめ

   心さへ

  消えうせたれや

    言(こと)も通はぬ

 

 松反(まつかへり)

  しひてあれやは

   三栗の

  中上り来ぬ

   麿といふ奴  

 

 雪は春日に消えるでしょうが、心までも消えたのだろうか(そんなはずはないと思うけれど)言葉すら行来しないことだ、と主がぼやけば、妻はこたえて歌うのです。

 松反は枕詞で「しひてあれやは」 できものが出て感覚を喪失する意だそうですから、しびれてばかになってしまった(わけでもなかろうに)中上(なかのぼり)して私の所に来もしない、麿という奴はほんとうに。

 

 中上りというのは当時国守が任期中に一度、京都へ中間報告に上る事で

す。その中を飾る詞として三つ栗がつかわれているのです。

 

 ここで栗の歌をおわりますが、栗染の歌はありませんでした。栗で染め

ればあんなに美しい茶色、くり色が染まりますのに、万葉人は栗を使った染色はしていなかったのでしょうか。

 ところが栗に似たものに「どんぐり」がありますが、このどんぐり染の

歌がかなりあるのです。

 次回は、どんぐり染の歌とりあげてみます。なかなかおもしろい歌がそ

ろっています。

 

      (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 …………………………

 

(注1)

 

三つ栗の 那賀に向へる 曝井(さらしい)の 絶えず通はむ そこに妻がも

 

作者 高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)

那賀(なか)に向って、流れてゆく泉のように絶えることの無い様に通っていこう。そこに愛しい妻がいてくれたらもっといいのになぁ。

栗(くり)は、中に実が三つ入っています。そこで、「三栗(みつぐり)の」で「なか」を導いています。

 

  那珂へと注ぐ曝井の

    湧き水のように絶え間なく

    通(かよ)って行こうと思うから

    そこに妻がいてほしい

 

那珂郡(なかのこおり)の曝井(さらしい)

 「那珂郡」茨城県水戸市の一部と那珂市・ひたちなか市・常陸大宮市のほぼ全域。

 「曝井」茨城県水戸市愛宕町の湧き水。

 

(注2)

両歌共 作者 柿本人麻呂

 

妻に与えた歌

雪ならば春日に消えもしようが、そなたは心まで消え失せたのか何の便りも寄越さないね。

 

妻が応えた歌

都から離れて長くなるせいか、都をお忘れになったのかしらね。三栗でもちゃんと中があるのに中上りもしないままですものね、麻呂って人は。

 

染めと織の万葉慕情30
  栗の歌 (1)
   1982/10/22 吉田たすく


 秋も深まり、秋祭りもあちこちで終わったようです。 倉吉地方では、祭りのごちそうには栗おこわを作るならわしになっています。 栗おこわがなければ祭りにならないのです。この栗おこわを作る前に、栗のあま皮をむくのですが、このあま皮がいい染料になるのです。


 祭りが近づくと、知り合いにたのんでおいてあま皮を集めることにしています。かなり集まったら染色にかかります。 まず、栗の皮を染色鍋に入れ煮出します。 栗色の染液が出て来ます。この栗色の液をそうきでこして皮を取り去り、染液だけ取り出します。それからいよいよ染色にかかります。この染液に糸をつけて煮ること三十分。 あげてしぼり、灰のあくにつけます。
 薄い茶色に染まった糸は、みるみる栗色に発色してくるのです。 この糸をしぼり、さきの染液にもう一度入れて煮ていると、ますます濃い栗色に変わって行くのです。 この仕事を二回、三回繰り返しますと、栗のあま皮色の赤味をおびた茶色に染まるのです。 これが毎年の祭りの時季の私の染色なのです。 栗色なのです。
 ところで、万葉時代の染色に栗染のはないかと歌をさがしましたところ、栗の歌がありました。

 瓜食(は)めば
  子ども思ほゆ
     栗食めば
  まして偲(しぬ) ばゆ
   何處(いづく)より
  来りしものそ
    眼交(まなかひ)に
  もとなかかりて
   安眠 (やすい)し 寝さぬ  (注1)

これは山上憶良の有名な歌、子等を思う歌の一首です。 (注2)
栗を食うことによって子供をいとおしく思う歌ですが、この歌に反歌がついています。

 銀(しろがね)も
  金(くがね)も玉も
   何せむに
  勝(まさ) れる宝
   子にしかめやも  (注2)

というのです。ここまで書きますと、倉吉の小公園のこの歌碑を紹介しなければなりません。
石文の裏に、次のようもに刻まれていました。


 「子らを思う歌 作者 山上憶良
霊亀二年(716年)伯耆守に任せられ倉吉の地に来た
国守として数年の月日をおくる
  昭和五十四年 国際児童年を記念して建てる

 倉吉市 市民憲章の会
   書 山本嘉将 文 山下清三」とあります。

 憶良が倉吉に来ていたことを記念して作られた、子供を思う歌の碑です。 万葉の歌碑は全国に何百首もありますが、倉吉にはこれ一つです。知らない人がほとんどです。
厚生病院の裏の公園ですから、一度ご覧になってはいかがですか。

 栗の歌が横道にはずれました。 栗の歌はこの憶良の歌の他に二首ありましたが、栗染の歌はありませんでした。 栗で染めることをしていなかったのかもしれません。
他の二首は次に書きます。
  (新匠工芸会会員、織物作家)


 …………………………
毎回点線の下は周之介の思いつきの記入文です

(注1)
瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ) ばゆ 何處(いづく)より 来りしものそ 眼交に もとなかかりて 安眠 (やすい)し 寝さぬ
  山上憶良

訳 
瓜を食べれば(残してきた)子どものことが自然に思われる。 粟を食べれば、いっそうしのばれる。 いったい子どもたちはどこから来たものなのだろうか(どのような縁で、私の子どもとしてやってきたのだろうか)。 目の前にやたらと(子どもたちの姿が)ちらついて、安眠させてくれないことよ。

山上憶良は、奈良時代初期の下級貴族出身の官人であり、歌人として名高く万葉集に約80首の歌が収められています。憶良は、「子等を思ふ歌」「貧窮問答歌」など、庶民の生活や子どもを思う親心、家族愛を詠んだ歌を多く残し
ています。
 660年頃の生まれと推定され、出自は諸説あり、よくわかっていません。42歳で遣唐使書記に抜擢され、唐に渡り最先端の文化に触れて帰国し、54歳の時に上級官人、霊亀二年(716年)に57歳で国守となり、伯耆守に任命され5年間伯耆国府(倉吉市)に居ました。
 後に因幡国(鳥取県東部)の国守として万葉集の編纂と万葉集の最後の歌を詠った大伴家持は、この山上憶良の影響を強く受けています。

(注2)
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝(まさ) れる宝 子にしかめやも 
万葉集の歌を知らなくても、この歌はあまりにも有名で誰でもご存知ですね。
まさかこれが上記の長歌の後の返歌の短歌だったとは。どちらもあまりにも深い親の愛情を表していますね。

 (余話)
大伴家持は、天平宝字2年(758年) 42歳で因幡国国守に赴任して今の鳥取市へ赴任しますが、翌年の新年 天平宝字3年(759)1月1日に、国郡司等の宴で新年にあたり、気分も新たになって、その日降り積もる雪のように、めでたい事が重なるようにと年賀の挨拶のような歌を詠んでいます。

「新(あらた)しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)」

これもあまりにも有名な歌ですね。

この歌は万葉集最後の歌として万葉集第20巻第4516首に載せられています。
万葉集は759年から130年間の4500の歌が収め、完成は鎌倉時代後期とされていますが、家持は時代を超えて読み継がれていく万葉集だからこそ、愛着のある鳥取で詠んだ目出度いこの歌を終焉の歌として終えたのでしょう。


鳥取県は伯耆国と因幡国でできていますが、
 伯耆国
鳥取県の中部西部 今の倉吉市、米子市、境港市、東伯郡、西伯郡、日野郡にあたります。
国庁跡は鳥取県倉吉市国府、国分寺、不入岡(ふにゅうおか)

 因幡国
鳥取県の東部 鳥取市、岩美郡、八頭郡にあたる。 
国庁跡は鳥取県鳥取市国府町中郷

たすくが生まれ生涯暮らしたのは平安時代で言うと伯耆国 久米郡 倉吉です。

 

ゆらゆらと
 ゆらぎの先に
    緋の夕べ

   〈恵那峡〉

 

 

今日もまた、蕎麦懐石のネタ探しに山に行きましたが、新しい木の実を見つけました👍

 岐阜県では少ない珍しい椎の実。ようやく見つけたという感じです。

  

 

 椎の木は主に滋賀県以西に生え、東は福島、新潟位まで生えていますが、海岸近くのやや温暖な場所で少し生えている位です。

岐阜県は標高が少し高くやや寒いので少ないです。

 この為滋賀県以東では椎の実もドングリと呼ばれ、違いがわからない人が大部分です。

 私の故郷は鳥取県倉吉市ですが、子供の頃 秋になるとおやつがわりにと椎の実を拾いに 良く山へ行きました。

 椎の実も栗もドングリの仲間ですが、ドングリは苦くて食べられませんし、栗はイガが痛すぎるしとても皮が渋く渋皮を剥くのも大変ですが、椎の実は渋い皮がなく、苦味が全く無くて採ったそのまますぐ割って生でも食べられるからです。でも、とても小さいのが難点ですね。

これを自分で食べる時は歯で割るのですが、お客様用にはプライヤーで割っていきます。

 僕は子どもの頃からの味で、生で食べるのが好きですが、お客様はまだ食べた事がないでしょうから、少し甘味が増す様に、湯がいたものをお出ししますね。

染めと織の万葉慕情29

 萩の花摺

   1982/10/22 吉田たすく

 

 萩の花の摺り染の歌がたくさんあります。先日、平凡社発行の「茶碗」という写真と解説の豪華本を見ていましたら、真熊川 (まともがい) 銘、花摺の名茶碗がのっていました。真熊川は熊川の本流ともいうべきものです。 熊川とは、室町時代に朝鮮の熊川港から船に積まれたので、この手を「こもがへ」と呼ぶのです。

 この熊川の 「花摺」 茶碗は濃いびわ色の釉肌に、雨漏りの紫じみがあるのにちなんで小堀備中守宗慶が、万葉集ではないけれども、「新千載和歌集」の権大納言実俊卿の

 

 露わくる

  袖にそうつる

   むらさきの

  色とき野辺の

   萩か花すり

 

という一首によってつけたもので、熊川において景とされる雨漏りの ことにすぐれた本碗として、まことに適切な雅銘と称すべく、熊川といえば花摺というほどに、その名は茶人の間に絵炙(かいしゃ)されています。

外箱、蓋裏にその歌が書きのこされています。

 

 

 もともと、この歌の源流は万葉の歌から来ていると思います。 万葉には萩の花摺の歌がありますから、

 

 わが衣

  摺れるにはあらず

   高松の

  野辺行きしかば

   萩の摺れるぞ

 

 私の衣はわざわざ摺り染したのではありません。奈良、春日の南の高まどの野辺を歩いて行ったところが、萩が私の衣に摺りつけて摺り染にしてしまったのです。

 私は想わなかったんですが、あの児からそまって来てしまったのです。というのをいいまわし良く萩になぞらへて歌っています。

 

 ことさらに

  衣は摺らじ

   女郎花

  咲く野の萩に

   にほひて居らむ

 

 ことさらに衣摺り染にはしまい、オミナエシの咲いている野にある萩の中で美しい色に照らされていよう。 美しい萩のような乙女のそばに居て、彼女のムードの空間にひたっていたい。

 なんともうるわしい情緒ですね。 我が家のまずしい小庭にも、 キキョウのそばに小さな一群(ひとむら)の萩が咲いてくれて、秋の風情を楽しませてくれました。

 

 わがやどの

  萩花咲けり

   見に来ませ

  今二日だに

   あらば散りなむ

 

 この歌のように秋の深まってまいります。

 先日の台風の荒れで、庭の草花もかたむいたり、こけたりして、その萩はもう散ってしまっていました。

 

 わが屋戸の

  一群萩を

   思ふ児に

  見せずほとほと

   散りしつるかも

 

 大伴家持の歌です。

 

        (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 …………………………

 

写真の茶碗

 真熊川茶碗 銘 花摺

高さ:8.5~9.2cm
口径:13.8~14.2cm
高台外径:5.7cm
同高さ:0.8~1.0cm

 花摺は真熊川でも最も有名な茶碗で、草間和楽も「咸鏡道の手なり」と賞美しており、広く熊川を代表する名碗として、古来茶人の間に推賞されています。真熊川は、いわば熊川の本流ともいうべきもので、端正な熊川形りの姿、温雅な作ふうを特色とし、落ち着いた品格をたたえて、熊川の中でも最も熊川らしい本領の発揮された茶碗です。熊川は、井戸と並んで古くから茶人になじまれ、熊川形りは、和え物でも古唐津に、古萩に、あるいは初期素焼きの高麗写しに、大きな影響を与えています。ことに真熊上川の手は、その深めでふところ広く、口当たりの上でも茶を飲むのによいこともあって、井戸にはまた見られぬ温雅な品格のゆえに、いたく賞玩されています。

 

●我がやどの 萩花咲けり 見に来ませ いま二日だみ あらば散りなむ  作者 巫部麻蘇娘子(かんなぎべのまそのおとめ) 生没年未詳

我が家の庭の萩の花が素晴らしく咲きましたから、見に来てください。あと二日ほどすれば、散ってしまいます

 

わが屋戸(やど)の一群萩(ひとむらはぎ)を思ふ児(こ)に見せずほとほと散らしつるかも  大伴家持

歌の内容は「私の家の一群れの萩を恋しい子に見せもせずあやうく散らせてしまうところだった」と、自分の家に咲く萩の花を恋人に見せたいとの思いが詠われています。

 

 今日は初冬のように寒い雨

 家で「物語のある料理『野の花料理・恵那の野山の 蕎麦懐石』」に来週来られるお客様用に仕込みなどを行なっています。

 昨日は雨少々の曇空でしたが、何か懐石で使えるものないかと山方面へ出かけました。

 山柿はまだ青く使えそうになく、その他 実なども発見できず、花を探しました。

 所で、万葉集は4500首のうたがのっていますが、そのうち約3分の1が何らかの植物を詠んでいるといわれ、150種をこえる植物が出てきます。 その中で一番詠まれている花は137首、次いで119首です。

一番はなんだと思いますか?

 二番目は?

 

 日本の花とも言われる桜は意外に少なく42首で五番目。そして全てが山桜。更に桜の花は出てきますがお花見は出てきません。そういう風習はなかったのでしょうね。

 桜が日の本の花と言われ出したのは、皆さんご存知のように平安時代、都が京に移ってからで、それ以前は梅でした。

 所が、その梅も万葉集では二番目。

 

さて、一番はなんでしょう?

 

咲いているのは、僕も大好きな、枝垂れた枝に小さな花が流れるように咲いている 秋の七草です。

 そう、この時期の野山は萩の花が沢山咲いていました。お客様をお迎えする花としてこれを採ろうと思いましたが、でもこれは手折ってきても水やりが結構難しくすぐ枯れてしまうので、来週迄持ち越し。

ただ、今が盛りなので 来週枯れずにいい花が見つかるかどうかはわかりません。

 万葉集の花ですが、梅の歌の詠み人の名は7割程はわかるのに対し、萩の歌では多くが読み人知らずで4割ほどしかわかりません。

つまり、梅は上流階級、萩は庶民に好まれた花だったのですね。

 

現代日本では品種改良も含めて萩の仲間は20種類程あるそうですが、元々日本に自生していたものは8種類だそうで、万葉集に詠まれているのはヤマハギだそうです。ヤマハギは他の萩とは違い花は小さく地味ですが却ってそれが愛おしくも感じます。

 

 野山で服に引っ付いて困るのも同じ仲間のヌスビトハギ。

気が付かないうちにそっと付けられています。

  少しなら可愛いですが、結構たくさんつくことが多いですよね。

盗人なら付かないでそっといなくなればいいのにっと😡怒りますよね。

 

先日、うちの犬がそのヌスビトハギを上手に付けてきた写真を昨日FBにアップしたところでした。