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「染と織の万葉慕情」余話3 苧環(おだまき)

 

 父の「染と織の万葉慕情」を読み解く中で出てくる様々な言葉を「余話」として時々記していきます。

  経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交差させて布にする装置が機(はた)で、織機で布を織るためには糸が大量に必要になりますが、このとき大量の糸がお互いに絡まないよう四角い枠上の糸巻きで糸を巻いて玉状や環状にして貯めたものを苧環(おだまき)といいます。苧環は、麻績(麻続(おみ)ともいいます。

布を織るためには、まず植物の繊維を糸状にする必要があり、古代では材料に麻(あさ)、楮(こうぞ)、苧(お/からむし)、苧麻(からむし)など様々な植物が使われますが、 苧環(おだまき)は、「おだ - まき」ではなく、苧(お)を輪にする「お - たまき」「苧(お)環(たまき)」からきています。

 

 

 日本の古代では官吏が使う大量の布を賄うために大量の麻績を作る専門の部民、麻績部が設けられていました。倭名類聚鈔などには全国各地に「麻績」の郷名が記されており、これで麻績を作るための民戸が全国に置かれていたことがわかります。

 苧環(おだまき)とは、紡いだ糸を「糸繰り」して巻きつけた糸巻きのことで、糸巻きは、糸を巻きつける道具として、古来から世界各地で用いられてきました。

 日本でも、糸巻きの歴史はとても古く、釣り糸や凧揚げの糸、楽器の糸などと使用する糸の用途により、さまざまな種類の糸巻きが作られてきたのですが、その中でも、布を織る際に用いる「苧環(おだまき)」は、とくに古来より人々の間でたいへん身近な物でした。

 苧環は糸巻きの道具ですから、糸の巻き方が乱れると機織りの際に絡まったりするので、巻き戻して糸の乱れを造作も無く直せたのです。

 古代の日本では、糸巻き全般を千切(ちきり)とも呼んでました。千切とは2つのものを結ぶという役目から、人と人との仲を結んだり、愛を交わす「契り」にも通じるというので、縁起が良いとされてきました。

そのため、糸巻きの文様は平安時代の頃より、吉祥の文様として用いられ、長い糸に長寿や子孫繁栄の願いを込めて、嫁入りの際には、糸巻き文様の着物や帯をもたせたといいます。当時の女性にとって織物は重要な仕事で、糸巻きは大切な道具でしたから、糸巻き文様には、手仕事が上手にできるようにとの願いも込められていたのでしょう。

 家紋にも用いられ、その文様の種類も多く、苧環の他にも、柄が付いていて凧揚げなどに用いられる枠糸巻き、重ね糸巻き、陰重ね糸巻き、また丸の中に糸巻を描いた丸に三つ重ね糸巻きなどがあります。

 苧環の糸を巻いた形状から、食品でもこの形状のものを「小田巻き」と呼ばれています。紐状のうどんを巻いて茶碗蒸しのなかに入れた「小田巻蒸し」、半練りの食材をところてんの天突きに似た器具で押し出して糸状にする調理器具も一部で「小田巻」と呼ばれます。

 

 

植物のオダマキは、別名を「糸繰草(イトクリソウ)」と言いますが花弁の形状が似ているためこの名があります。

 おだまきは万葉の昔から歌にも詠まれ、和歌などでもその名をみることができます。平安時代のはじめには、在原業平の書いた「伊勢物語」のなかに

 

 古の

  しづのおだまき

    繰りかへし

      昔を今に

       なすよしもがな

 

現代訳は、「昔の倭文織(しずおり)の糸を巻くおだまきを

繰(く)るように再び繰り返して、昔の二人の仲を今に繰り返す方法はないものだろうか」

注・・しづ=倭文。倭文織(しずおり)。日本最古の織物の一種。

おだまき=苧環。しづを織る糸を中空にして丸く巻く機物。

よし=方法、手段。

この歌は皆さんどこかで聞かれたことのある様な歌でしょう、

そう、静御前が、この歌を模して、鶴岡八幡宮の舞台で源頼朝の前で、源義経を想い、

 しずやしず

  しずのおだまき

    繰りかへし

      昔を今に

       なすよしもがな

と歌いながら踊った今様ですね。

現代訳は「静よ静よと繰り返し私の名を呼んでくださったあの昔のように懐かしい判官様の時めく世にしたいものよ」

  そして、この時静御前の後ろでこれを演奏していた一人が、私の父(旧姓 伊藤祐いとうたすく)の遠い先祖 工藤祐経(くどうすけつね)でした。 工藤氏と伊藤氏の名には代々、中心的に「祐」が使われていました。

 父が織物をはじめたのもこの今様の苧環から解けた糸が時空を超えて織物のちぎりとなったのでだったのでしょうか。

 父の「染と織の万葉慕情」を投稿していますが、読み解く中で様々な思い’を「余話」として記していきます。

 染と織の万葉慕情の10話目から「麻」が登場しましたが、「麻」について少し学んでみたいと思います。

 

 麻の種類は、「大麻 (ヘンプ/おおあさ/おおぬさ) 」、「苧麻 (ラミー/ちょま/からむし) 」、「亜麻(リネン/あま)」、「黄麻(ジュート/おうま)」、「マニラ麻(アバカ)」サイザル麻(ヘネケン)など20種類近くあり、植物としての分類も、大麻はクワ科、苧麻はイラクサ科、亜麻はアマ科など、異なります。

 

 中国から渡来した帰化植物といわれ、縄文前期(10000年前)以前にはまだ存在しなかった可能性が高く、鳥浜貝塚で6000年前に「大麻 (ヘンプ) 」布が発見されていることから、10000年前〜6000年前のこの間に最初に「大麻 (ヘンプ) 」が渡来したものと思われます。

 

 

 大麻 も苧麻も亜麻も現代では「麻」と十把一絡げに表現されていますが、明治時代までは「麻」とは大麻 (ヘンプ/おおあさ/おおぬさ)のことを指しており、苧麻 (ラミー/ちょま/からむし)や黄麻(ジュート/おうま)とは区別されて呼ばれていました。

大麻(おおあさ/おおぬさ)は古代から現代まで神事にも深く関わり、庶民の衣類や道具として、米に次ぐ農産物として日本中で大々的に生産され、衣服、油、漁網、鼻緒、食料など多様に利用されており、この様に重要な大麻は「麻の葉柄」として着物などでも日本の伝統柄として使われています。

麻は天然繊維の中では最も強い繊維で水に濡れても強いことが特徴で、通気性もよくシャリ感があるので 、湿度の高い日本に適した素材といえます。

 

素材特性として

 

● 亜麻(リネン)は人類最古の繊維と言われ、古代エジプトではミイラを包む布に使われていましたが、日本には近世まで存在せず、初めてもたらされたのは明治7年(1874年)露駐大使であった榎本武楊が北海道開拓使長官の黒田清隆へフラックス(亜麻(リネン)の原草)の種子を送り、札幌で栽培させたところから始まります。

 

 一般に麻は表面がザラザラ、チクチクとした肌への刺激を想像されますが、リネンはソフトでしなやかな風合いで、ラミーに比べると毛羽立ちが少ないのが特徴です。

そのため、キッチン、バス、ベッドまわりの衛生用品に多く用いられ、ヨーロッパでは下着に使われたことから、ランジェリー(Lingerie)の語源はリネン(Linen)だとも言われています。

 

● 苧麻(ラミー)はハリ・コシがあり、白く絹のような光沢

原草となる苧麻ちょま/カラムシ)は、多年生の植物で高温多湿を好み、

天然繊維では最も強く、ハリ、コシがあるのが特徴で、色が白く絹のような光沢があります。

しかし、ラミー糸は毛羽立ちが多く絡まりやすくて切れやすい性質がありそのままでは織りにくいため、特に経糸(たていと)に使用する場合は糊付け加工が欠かせません。

 

●大麻 (ヘンプ/おおあさ) は10000年前〜6000年前に麻の仲間では最初に渡来したと思われます。

ヘンプ・大麻(たいま)は、喫煙・飲食で摂取され麻薬に使われる悪いイメージがありますが、日本で古来から栽培されてきた大麻草は外国製とは違い麻薬成分をほとんど含まず、歴史を紐解いてみても、部屋の中で大麻草を整理しているときに酔っ払って寝てしまったとか、多少ユーモラスな逸話が残っているぐらいで、江戸時代以前に問題になるような大きな問題は起きていません。

 

それどころか、大麻は日本の歴史的に深い関わりがあります。 6000年以上前に最初に渡来した大麻は、素晴らしい布としてもそうでしょうが、その不思議な陶酔成分があることから薬効によって祷りや呪法、神との対話などで使われて、それが 神を祀るときの布として用いられるようになったと思います。

大麻は、『古事記』では天の岩戸の前で賢木の枝に下げた「白丹寸手(しらpmにきて)=楮でつくった布」「青丹寸手(あをにきて)=麻でつくった布」で紙垂(しで)が作られている。

 白さと不思議な薬効で「清々しさを表し、清浄で潔白で穢れを祓うもの」とされてきました。このことにより、日本にとって神聖な場所である神社で使用する素材としてしめ縄でも扱われていますし、天皇即位の大嘗祭では「あらたえ」が平安以降は麻で作られ、古墳からも出土されており、穢れを祓う紙垂(しで)は現在は和紙ですが、古くは麻の枝葉や麻布であったとされますし、神職がお祓いに使う大幣(おおぬさ)は大麻と書き、大麻(おおぬさ)を使用しています。ほかにお盆の迎え火の風習もあります。

 

 大麻(ヘンプ)は古の時代から神仏事に欠かせないものであり、普段の衣類から、縄、網、漁網や釣り糸、あらゆるものに使われていて米に次ぐ莫大な生産量であり、布といえば麻であった時代、大麻は生活とともにあったと考えられます。

 また、日本の伝統柄「麻の葉柄」は大麻の葉がモチーフになっており、背丈が大きく成長が早い大麻の性質から、子供の成長を願う縁起物として古くから人々に愛されてきました。

このように古代から日本人の精神的支柱であった神道や、日常の生活と深く係りとても重要な大麻でしたが、戦後1946年に薬効の弱い日本大麻もGHQにより禁止されてしまいます。一説ではアメリカの占領軍が日本人の精神的支柱であった神道の影響力を分断し弱めるためだったと言われています。これにより日本人の精神にも生活にも深く結びついていた麻文化は大打撃を受けます。

 

 現在は大麻取締法による規制のため日本国内での取り扱いはほとんどなく、麻織物の多くはリネンまたはラミーが主流になっています。

近年、人々の健康志向の高まりや地球の環境保護の観点から有効な植物として、海外では大麻が見直されつつあります。 大麻は、極端な温度変化を伴う土地(南極、北極、湿地帯など)以外は栽培が可能で少量の水で育つため痩せた土地でも栽培でき、成長が早く丈夫で、除草剤、農薬や化学肥料も必要もありません。

 

サステナブル素材として、大麻(ヘンプ)が下記のように注目されています。

◉農薬・化学肥料が不要 であり、ヘンプは害虫に強く、栽培時に農薬・化学肥料を使用する一切必要がありません。

◉成長が早く、雑草よりも早く成長するため除草剤を使う必要がありません。

◉土壌が改良される

◉不良土でも育つ

年間降水量100~200ミリの土地でも栽培でき、ヘンプは少しの水で育ちます。

そのため、用途がなく放棄されてきた土地の有効活用にもなると、世界的に、ヘンプ栽培がおこなわれています。

◉あらゆる土地で栽培可能

冷帯から温帯、熱帯まで、痩せた土地から肥沃な土地まで幅広い土地で栽培ができます。

 

 日本古代から連綿と続く大切で重要な文化が台無しにされています。悪用を防止しながら一刻も早く古来からの日本文化の復活のために日本大麻の解禁が望まれます。

皆さんも日本古来の重要な産物であり、未来へ向けても重要な素材のヘンプの一刻も早い解禁へ賛同よろしくお願いします。

染めと織の万葉慕情14

  麻の歌 1982/7/9

     吉田たすく

 

 万葉集の東歌(あづまうた)の中で、麻の歌をみましょう。

 万葉のころは大和を中心に、関西に都がありました。その関西地方に対して、関東地方の事を東(あづま)と言いました。

 関東地方は、当時はまだ大変な僻地(へきち)で田舎だったのです。その地で歌われた民謡が万葉集におさめられています。これが東歌なのです。

 

 

 恋の歌、労働の歌など野や畑で歌われ、また酒宴の席などで歌われたものでしょう。健康的で庶民的で、生命のいきぶきを感じさせる歌がたくさんあります。

 

 夏麻(なつそ)引く

  宇奈比をさして

    飛ぶ鳥の

   至らむとそよ

我が下廷(したは)へし

 

これは武蔵の国の歌です。

夏麻を引きぬくように、長く(遠く)宇奈比という所に鳥が飛んで行くように、私はお前の所にとんで行こうと思いを寄せていたのだよ。

 

  またの歌

 

 庭にたつ 

  麻手小衾(あさてこぶすま

   今夜(こよい)だに 

 夫寄(つまよし)とせね 

   麻布小衾(あさなこぶすま)

 

 庭にたつは麻にかかる枕詞で、麻でつくった小(愛称)(ふすま) (寝具のこと。当時は現代のように綿の入った蒲団はありませんでしたから、麻の布を寝具にしていたのです)。こぶすまよ、今夜だけでも夫をよび寄せておくれよねえ、私のこの小衾さんよ。

 おとづれない夫を想い、寝具をだきしめて寝る切なる気持ちです。

 

 麻苧(あさを)らを

  麻笥(をけ)に多(ふすさ)

   績()まずとも

  明日着せざめや

   いざせ小床に

 

夜なべ仕事に、麻笥(をけ)をすえて麻の糸を結んでいるのでしょう。

 たくさん糸を績んで糸を作っても、明日着物に織って着るのですが、いや着れはしませんもの。早く寝ましょうよ。床に入りましょう。早く早くと、せきたてています。

当時の東人の農民の生活がそのまま何かくすことなく、赤裸々に歌われています。

 

 上野安蘇(かみつけのあそ)

  真麻郡(まそむら)

 かき抱き寝れど飽かぬを 何どか吾がせむ

 

せの高い麻のたばを引きぬくには、両手で胸にかかえて体をそらして抜くとききます。その様がちょうど男女の抱擁に似ているので、比喩として歌っているのです。

 大きな麻たばを、しっかり抱いているように、寝ているけれども、まだまだ飽かない。ああ私はこの上、どうしたらいいのでしょうか ここまでくれば、まさに東歌ならではの思いです。

こんな歌をうたいながら、男女が手をとりあって、笑いながら酒宴をはっている様子が見える様です。

 

(新匠工芸会会員、織物作家)

 

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(新聞の番号は一つ進んでいますが、ミスか9だから避けたのかどうかわかりませんが、 ⑧から⑩に飛んで付蹴られていて、後日気がついたのか962ツあり、トータル100ページとなっております。)

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982(昭和57)416日から 1984(昭和59)330日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 尚このシリーズのバックナンバーは私のAmebaブログ「food  風土」の中のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

http://foo-d.cocolog-nifty.com/blog/cat24334548/index.html

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吉田 たすく(大正11年(1922年)49 - 昭和62年(1987年)73日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

染めと織の万葉慕情13

  麻笥の歌 1982/7/2

         吉田たすく

 

 

 處女等(をとめら) 麻笥(をけ)に垂れたる 

   績麻 (うみ)をなす

  長門(ながと)の浦に  朝なぎに

  満ち来る潮の  夕なぎに 

  よせくる波の  その朝の

  いやますますに その波の

  いやしくしくに 吾妹子に

   恋ひつつ来れば 阿胡の海の

   荒磯の上に 浜菜つむ

  海人少女(あまおとめ)ともうながせ

  領巾(ひれ)も照るがに 手に巻ける

   玉もゆららに 白栲(しろたえ)の

  袖振る見えつ 相思ふらしも

 

 麻笥(をけ)に麻糸をつないで績(うん)で入れて行くように、長く長門にかかる序の詞として麻笥が出ています。その長門の浦に満ち、朝なぎに夕なぎに寄せる波のように、ますます吾が妹子を恋しつつ来てみれば

 

 あこの海の荒礎のあたりで、海草を摘んでいる海人の少女らが、領巾(ひれ)首にまくショールをあでやかにうでの玉 (ブレスレット)をゆらゆら鳴らして、白い袖を振っているのが見える。この少女等も思う彼氏があるらしいなあ。

 この歌の中の飾りの詞に「麻」の歌をつかい、「領巾(ひれ」や「白栲(しらたえ)の袖」などの染織に関係する詞が使われております。

 

またある長歌。

心を寄せていた乙女がそこの里人にめとらた事を聞き、居ても立ってもどうしているのかも分からず、吾家に居ても旅寝の感じで、思う心も安らかでなく過ごしているが、

 

 雨雲の

 ゆくらゆくらに

 蘆垣(あしがき)の

 思い乱れて

 乱れ麻の

 麻笥(おけ)を無みと

 わが恋ふる

 千重の一重も

 人知れず

 もとな恋ひむ

 息の緒にして

 

心は天の雲のように動揺し、

思は蘆垣のように乱れ、麻笥(おけ)がないために乱れる麻のように乱れに乱れて、恋いしさの千分のも人には知らせず。一人なやんで、無性に恋いつづけることでしょう。

 ここでは麻笥がないので、麻糸がもつれにもつれてときほぐすことも出来ないくらい恋い乱れる、と悲痛な思いをうたっています。

 恋の痛みの表現に糸の乱れが使われているところをみると、麻糸作りはふだんの仕事であり、作業中にいったんもつれた糸はほどくのに大変な事を、身を持って体験していたからでしょう。麻と人とのかかわりの深さがしのばれます。

 

(新匠工芸会会員、織物作家)

 

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麻笥(おけ) 

皆様は上記の文章を読まれたからもうお分かりでしょうが、麻(お)を笥(け)に入れるということから桶(おけ)という言葉の始まりです。

 

 

領巾(ひれ)

 

 上代害虫毒蛇などを追い払う呪力を持つと信じられた細長い薄布。

 古代服飾具の一。女性が首から肩にかけ、左右に垂らし飾りとした布帛(ふはく)。

 

しらたえ(白栲/白妙)

 

 カジノキコウゾの皮の繊維で織った白い布しらたえ

淡紅の

  散りゆく舞は

    儚くも

       さらにこころを

     惑わす美なり

 

 

 この地方の桜も散り始めましたね、私はこの桜の散り初めの頃が一番好きです。

 

桜も過ぎ去ろうとしていますが、例年最初に桜の話題になるのは伊豆の河津桜ですね。

全国にある早咲きの河津桜の発祥の地で河津川沿いに菜の花を下に 4キロにわたる桜並木はとてもきれいで数年に一度観に行っていますが、この河津郷は、NHK大河ドラマの『鎌倉殿の13人』で頼朝の子を産んだ八重の育った場所であり、はるか昔 私の父方 伊藤家の先祖の領地でもあり、そして曽我物語の舞台でした。

 

 曽我物語は曽我十郎・五郎兄弟が、工藤祐経に殺害された父・河津祐泰の仇を討つ物語で、辛苦の末達成した敵討ちとして称賛されたのですが、実はこの原因を作ったのが曽我兄弟の祖父 伊東祐親だったのです。

NHK大河ドラマの『鎌倉殿の13人』で娘の八重が産んだ頼朝の子、千鶴丸を殺させたこの人です。

 

伊東祐親は次男として養子に入り、兄となった工藤 祐継の子工藤祐経に自分の長女、万劫御前(八重の姉)を嫁がせました。

 その後、工藤祐経は上洛し宮務めをしますが、歌舞音曲に通じており、名人と言われたそうです。

 祐経が京で宮勤めをしている間に伊東祐親は義理の甥の祐経の領地伊東荘を押領してしまい、工藤祐経に嫁がせていた自分の娘の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまいます。

 所領と妻をも奪われた祐経は叔父祐親を深く怨みますが血はつながっていなくても叔父ですし、京の宮勤めの最中なので、郎党に命じ祐親、父子を襲撃させます。しかし祐親の嫡男・河津祐泰は怪力の持ち主で、相撲と柔道の荒技である「河津掛け(危険な技で、片手を相手の首に巻き、巻いた手と同じ側の片足を相手の片足の内側からからめ掛け、後ろへ反り返って倒す荒技で昭和30年に柔道では危険すぎると禁止され、現在は相撲の決まり手としてだけ残っています)」の創始者であり祐親を討つはずが、祐親の嫡男・河津祐泰を1176年に殺めてしまいました。

 残った祐親は祐経が京にいるので手は出せませんでした。

 

尚、祐経による祐親・祐泰父子襲撃そのものは頼朝による教唆もあったようで、頼朝が遺恨を抱く伊東父子を襲撃したことが、後に祐経が頼朝に重用された事にも関係したようです。

 

 丁度、頼朝と政子が結ばれる頃の事で、その後、頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、、工藤祐経は源頼朝の信任厚く、鎌倉幕府の数多の大名の筆頭の地位となっています。

 今度は川津祐泰の子である曽我兄弟がその仇打ちをするのですが、元々は彼らの祖父が原因であり、これには鎌倉殿が怒り曽我兄弟は二人共死罪となります。

 

 歌舞伎等では悪人としてこの曽我兄弟に殺される損な役回りの工藤祐経の子孫が私の先祖でした。 工藤氏の系統で伊藤姓を名乗ったものの子孫です。

 工藤祐経は歌舞伎などでは酷い役回りで、私も先祖の名前を聞いた時はビックリ ちょっと悲しかったですが、親戚の強欲なお爺さんにとられたものを取り返したのがわかった時はちょっと塞いだ気も晴れました。

 

工藤祐経は頼朝の重臣となっていましたが、歌舞音曲の名手で、鎌倉、鶴岡八幡宮の境内で頼朝と北条政子の前で静御前が踊る今様のお囃子も務めています。

 

頼山陽の漢詩「静御前」

工藤の銅拍 秩父の鼓

幕中酒を擧げて 汝の舞を觀る

 しずやしず しずの苧環 繰返し

 むかしをいまに なすよしもがな

  一尺の布 猶縫う可し

況や是 繰車 百尺の縷………………

 

このように工藤祐経は銅拍という小さなシンバルのような鐘を担当します。

 

ところで、静御前が唄った今様『しずやしず しずの苧環 繰返し

 むかしをいまに なすよしもがな  …………………」は

 

 この静が歌った今様は、日本最古の織物で平安初期には織られなくなってしまった幻の織物、倭文織(しずおり)に関係する資料としては一番最後のもので、それ以降昭和時代中期以降に至るまで、触れたものはでてきていません。

  静の歌は織物に関係し、それを演奏したのが我がご先祖の工藤祐経。

その約900年の時空を超えて、何十代後

昭和時代に、伊藤祐(たすく ・私の父、吉田たすく)が、また新しい織物をはじめました。

 

父は大正7年伊藤家に5男として生まれます。兄弟7人でしたが、工藤家代々継承される通字(とおりじ)の「祐」を偶然かどうか付けられました。これが遥か鎌倉時代の静御前の今様の倭文織が糸を引いて織物の道へと触発されたのでしょうか。

 

 歴史とは壮大なロマンですね

 

ですから、この静御前の歌は私の血のどこかにも思い出のかけらとして残っているような気がしています。

 この倭文織に関しては、後日また父の「染と織の万葉慕情」を紐解くときに触れることにいたしましょう。

 

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伊藤氏というと伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現・静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原鎌足の数代後、藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。

藤原南家の藤原為憲の官職が「木工助(もくのすけ)」主に造営、および材木採集を掌り各職工を支配する役所の副署長(官位は正六位下)であったため工藤氏を名乗り、その後、東伊豆に移動した工藤氏の一派が「伊豆工藤」と称し、この「伊豆工藤」は後に「伊東氏、伊藤氏、狩野氏、河津氏などを派生しました。

その後、一部九州に行った飫肥藩(おびはん)の伊東氏も同じ系列です。

 父の「染と織の万葉慕情」は連載された新聞のコピーしか手元になくて、一部判読できないものを読み解きながら、現代の方にもわかる様に補足説明を加えながら掲載していますが、読み解く中で関連する様々な事を思いますのでそれらを「余話」として記していこうと思います。

 

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「染と織の万葉慕情」余話1

    日本の布の歴史 古代

 

 

 縄文時代はおおよそ15000年前から2400年前の長期にわたって続きますが、名前の通り縄の文のある文化であり植物を編むと縄になり布になります。

 その早期15000〜10000年前の埴輪や土偶、土器の底部等に衣の痕跡がみられ何らかの衣服 を纏っていたものとおもわれます。 

しかし、その衣類の特性として、虫や微生物により分解されてしまったのでしょうが、布は残っていません。

 

 その当時の布はイラクサ、シナノキ、オオバボダイジュ、アカソ、藤、楮、科、オヒョウ、葛、芭蕉、棕梠(しゅろ)などの草や木の皮の繊維を糸として編んだか織られたものです。

 

 

 ただし、大麻 (ヘンプ) 、苧麻(ちょま、カラムシ、ラミー)などの麻に関しては中国から渡来した帰化植物といわれ、縄文前期(10000年前)以前にはまだ存在しなかった可能性が高い。

その後、福井県三方郡にある鳥浜貝塚の集落遺跡で6000年前に最古の布として大麻の縄とアンギン編みの布が発見されているので、6000年前以前に日本へ入ってきたものと思われます。

 麻以外の樹皮繊維は、原料の採収や編・織への加工が難しかったことから、麻(大麻と苧麻)が渡来すると、その加工の便利さから利用が増えていったものと思われ、実際の出土品に麻を使ったものが大半を占めていることからも証明されています。

 苧麻も帰化植物といわれますが、野生種(アカソ等)もあって、縄文晩期前半の中山遺跡からアンギン調(編み衣に由来するといわれ、編まれた袖無や前掛け等の総称)の編物が出土しています。

 

 

 アンギン編みは、ムシロを作るように多くのオモリを使って編んでいく方法で、編む台の溝にカラムシなどの経糸(たていと)を等間隔にかけ、おもりで垂らしておき、その上に緯糸(よこいと)を置きながら一本づつおもりを交互に動かしながら編んでいくので非常に手間がかかりますが、長さや太さや強度が不揃いの糸でも布を作ることができるので、当時としてはとても利点がありました。

 

しかし、太さや強さが均一な糸があれば、編むよりも織って布を作るほうが早くできます。このため、織る技術が伝えられた後には、布は編むより織って作るのが主流になっていきます。

 織物で最も早く使われ始めたのが機台をもたない原始機で、経糸の一方を支柱に束ねて足で固定して、もう一方を手元の布巻具に巻きつけて腰の所で固定して張りをもたせて織っていきますが、縄文晩期から弥生にかけて道具が発見されています。これから徐々に改良されて2500年前(B.C.500年頃)の弥生中期には簡単な地機(じばた)が開発されたと思います。

 

 山口県下関市の綾羅木遺跡からは弥生前期(B.C.300年頃)の平織布(緯糸20本、経糸18本/cm2)が出土し、我国で最も古い織布といわれています。

その後、古墳時代前期AD 300頃には卑弥呼が魏に織物を献上しており、

三国志の中の『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の中の記述に、

『其の風俗淫(いん)ならず。男子は皆露紒(ろかい)し、木緜(もくめん)を以て頭に招(か)け、其の衣は横幅(おうふく)、但々(ただ)結束して相連ね、略々(ほぼ)縫ふこと無し。婦人は被髪屈紒(ひはつくっかい)し、衣を作ること単被(たんぴ)の如く、其の中央を穿(うが)ち、頭を貫きて之を衣(き)る。禾稲(かとう)・紵麻(ちょま)を種(う)え、蚕桑緝績(さんそうしゅうせき)し、細紵(さいちょ)・縑緜(けんめん)を出(い)だす。』

男子はみな(帽子などの)冠り物をかぶらず、木緜を頭にほっかむりします。衣服は幅広の布を結び束ねているだけでほぼ縫うことをしない。女性は髪を束ねて髷を結い、衣服をつくるときは、反物の中央に穴をあけ、そこから頭を出して着ている。稲や紵麻(ちょま)を栽培し、養蚕し紡いで目の細かい紵麻(ちょま)の布や絹布を生産している。」と出ています。

 

「布」は、古代日本では植物繊維で作られた物のみを指し、絹織物や毛織物は「布」とは呼ばれていませんでした。

飛鳥時代の『大宝律令』において租庸調が定められ、調として布を納めましたが、当時の日本では絹は別格のものとされていたため、布の概念には含まれておらず、絹と布は分けて書かれています。

 また、この時代日本には「木綿(もめん):cotton」や毛織物は当時の日本ではまだ生産されておらず、当時の「布」は麻・苧・葛・藤・楮・三又などで作られたものだけを指しています。

 

 楮の糸で織った布は「木綿」(ゆう・ゆふ)といわれ、現在でも徳島県木頭では、「木綿」(木頭では太布「たふ」という)を織っている。

また、温泉で有名な湯布院は「木綿(ゆふ)の院」で古代の木綿の生産地と考えられています。

 

 衣服として、麻や絹が使われましたが、その出土品等からみても、絹は献上品や貴族用であり庶民用としては太布(タフ)(綿花以外のコウゾやカジノキの樹皮繊維あるいは麻など植物繊維で織られた布全般)あるいは麻を多様して、使われたとおもわれます。

庶民の衣服としての麻は、古代から中世 江戸時代まで続いて主役的な役割を演じたものと言えます。

 

今回は日本人の古代の布について触れましたが、次回はその中心の存在「麻」について少しふれていき、

その次は、

今NHKの大河ドラマ鎌倉殿の13人で後々出てくる、

 鶴岡八幡宮の社頭で頼朝と政子を前に、義経を思い

「しずやしず しずのおだまき 繰り返し」と歌いながら舞った静御前の 「しず」「おだまき」という言葉から、

 

  倭の国 日本が創出した唯一の幻の織物『倭文(しとり)』『倭文織(しおり・しずおり)』についてふれていこうと思います。

     2022/2/15 周之介

染と織の万葉慕情 12

  麻の枕詞

   1982/6/25 吉田たすく

 

麻の話の続きですが、麻の名をお持ちの王(おおぎみ)がありました。またこの王は、因幡の国(いなばのくに)に流されていますので、私たちにはちょっと興味があります。(注1)

 

「麻続王」(をみのおほぎみ)というお方です。(注2)

 日本書紀に「天武天皇四年四月十八日に、三位麻続王は罪有って因幡の国に流された」とあります。万葉集には、後世の人が歌のことばから誤解して、麻続王、伊勢国の伊良ごの島となっていますが、その島に流された時、人々が気の毒に思って作った歌があります

 

 

打珠 (うちぞ) を

  麻続王 (をみのおほぎみ)

    海人 (あま)なれや

   伊良ごの島の

    玉藻刈ります

 

打ってやわらかくした麻の事で、麻続王にかかる枕詞です。

麻続王は海人 (あま)ですか?

もちろん王ですから海人ではないのですが、 伊良ごの島の海草を刈っていらっしゃるといって嘆くのです。麻続王はこれを聞き、悲しんでこたえて歌われた歌。

 

 うつせみの

  命を惜しみ

    波に濡れ

   伊良ごの島の

     玉藻刈り食む

 

 はかないこの世の命をおしんで、波に濡れて、伊良ごの島の玉藻を刈って食べていることだ。

 

 麻は当時の衣類で生活の一部でもあったので、物のたとえに麻を使い、枕詞にも用いられています。

 麻の茎を水にひたし、蒸して、荒皮を取り、白い繊維を指でさき、結びつないで長い長い糸に作りました。 それで「長い」意味とか、麻をつなぎ経(う)む作業の「ウ」の字から「海」の枕詞に、また糸を作るので「イ」の字から「命」の詞にかけました。

 

 夏麻(なつぞ)ひく

  海上潟(うながみがた)の

    沖つ洲に

   烏はすだけど

    君は音(おと)もせず

 

夏畑のあぜから麻を引き取る、海にかかる枕詞です。あがたの洲に鳥は集まって騒いでいるのに、あなたは少しも訪れてくれないなあ。

 

 夏麻引く

  海上潟の

   沖つすに

  船はとどめむ

   さ夜更けにけり

 

沖の洲に船を泊めよう、夜は更けてしまった。

 

また長歌の一部

 …緑 (よし)の無ければ

   夏麻引く

  命かたまけ

    刈ごもの

   心もしのに

    人知れず…

 

命の枕詞に使われています。

 

まだまだ、麻の歌は続きます。

 

          (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

 …………………………

(注1)鳥取県は因幡国(いなばのくに)と伯耆国(ほうきのくに)の二国で出来ており、吉田たすくは鳥取県倉吉市在住。

(注2)麻続王 麻績王(おみのおう、生没年不詳)は、7世紀末の皇族。麻積王とも称される。

 

出自をめぐって大友皇子(天智天皇の太子)、美努王(橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。

『日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、鳥取県鳥取市国府町岡益にある梶山古墳は麻績王の古墳であるともいわれてる。また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島に流罪されたとある。

壬申の乱で、大友皇子側についた事が原因で流罪に処されたとする説もある。

 

 麻続・麻績・麻績(おみ)とは機織りに使う苧環(おだまき)のことで、糸を巻いて玉状または環状にしたものです。

「麻続王」(をみのおほぎみ)と言う名を持たれているという事は、母君が織物を扱う倭文部(しとりべ)や、織物に関する氏族出身だったのかもしれません。

 因みに、伯耆国(鳥取県西半分の倉吉市・米子市・境港市)の一宮は、織物の神様を祀る 倭文神社(しとりじんじゃ)であり、国府の置かれた倉吉近郊は古代より特に織物が盛んだったようです。この織物のDNAは江戸時代には倉吉絣として絵絣で大きく花開き、また、この倉吉絣の研究から父の「吉田たすく手織工房」へと続いております。

 

倭文神社の倭文は「しとり」と読み、日本最古の「倭文織(しづおり)」という織物のことを指します。

 倭文織は、梶木(かじのき)、藤、楮、栲などの木の皮の繊維を糸にして、これを織った織物類で、後に麻も加わりました。荒妙(あらたえ)ともいいます。 平安朝で麻や絹織物も含めて織物を扱う集団を倭文部(しとりべ)と言い、全国にありました。

 

倭文織は私も様々資料を探していますが、古墳や正倉院から数点しかそれらしいものが見つかっておらず、古代布の研究項目としてどの様な織り方でどんな布なのかまだ解明されていない部分があり、とても魅力的なロマンがあります。

 

 伯耆一宮 倭文神社社伝によれば大国主命の娘の下照姫命が出雲から海路御着船、従者と共に現社地に住居を定め、当地で死去されるまで、安産の指導に努力され、農業開発、医薬の普及にも尽くされたといわれています。創立当時、当地方の主産業が倭文(しづおり)の織物であったので、倭文部(しとりべ)の祖神 建葉槌命(たけはづちのみこと)に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたものです。

倭文神社へは何度か行ったことがありますが、とても静かな厳かなところです。

古代は入り江であった東郷湖の傍の丘にあり、古墳時代はこの入り江から沢山の倭文織を舟で出雲王朝へ運んだのでしょう。

 尚、全国の倭文神社や倭文部の分布は山陰地方と東海地方に特に多く、海や河川、湖沼に近い高台にあり、そうすると「倭文部」は「海人部」と関係深い部民であったこと、製織技術の面から秦氏との関係も考えられます。 ここにもとても魅力的なロマンがありますね。

 

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苧環(おだまき)については、語源にもなっていたり、様々な続き談がありますから、別途次回にアップしたいと思います。

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(新聞の番号は一つ進んでいます。ミスか9だから避けたのかどうかわかりませんが、 ⑧から⑩に飛んで付蹴られていて、後日気がついたのか96が2ツあり、トータル100ページとなっております。)

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 尚このシリーズのバックナンバーは私のAmebaブログ 「food 風土」の中のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

生活感漂う麻衣  11

   1982/6/18 吉田たすく

 

 先週は「藤衣」でしたが、きょうは麻衣の歌をとりあげてみます。

以前に麻の宴の女、真間の手児名のお話をしましたが、麻のロングスカートをはいた美しい乙女が入水してしまう挽歌でした。麻の衣は、藤衣や葛布などよりはましな衣料ですが、上等でなく、まあ当時としては普通に庶民に親しまれた衣料でしょう。自家用に栽培して、刈り取り、皮の繊維を爪でさいて、結びつないで績()み、糸を作ります。この糸を倭機 (しづはた)=日本古来の原始機=にかけて、粗末な布に職りあげて、衣類にしたものです。家内の者の衣類はもちろんのこと、背の君の衣も心をこめて織ってさしあげもしました。

 

 

 また、調布として、今の税金のように年に何反かを国に納めるのも、麻衣が多かったのです。

地名で調布という所があちこちにあるのも、この事の名残でしょう。

 

 麻衣(あさごろも)

   着ればなつかし

          紀伊国(きのくに)の

   山に 麻蒔く

    我が妹(いもこ)

 

麻の衣を着ると、吾妹子がなつかしいよ、紀の国の山に麻を蒔いていた吾が妹子が、というのです。

麻を栽培する女の仕事を歌っています。

 

 庭に立つ

  麻手刈り手し

    布さらす

  東女を

   わすれたまふな

 

 麻を刈って干し、布に織って、

出来た布を水にさらしてしあげをする。庭に立っている東国の卑しい女を、どうぞおわすれなく、と京へ上る大夫へ贈る歌です。

 

 小垣内 (おかきつ) 

  麻を引き干し

    妹なねが

   作り着せけむ

    白拷(しらたへ)

     紐()も解かず……

 

挽歌の長歌の一部ですが、ここにも麻の糸を引き干し、着物を作って着せるという女の織(はた)仕事が歌われています。

 

 桜麻(さくらを)

  麻原(おふ)の下草

   早く生ひば 

  妹が下紐

   解かざらましを

 

 さくら麻の麻畑の下草が早く

のびるように (気づかぬうちに)、誰かが私より早くあなたに言いよっていたならば、私はあなたの腰紐を解くような事はしなかったろうに。大変にセクシな歌なのです。

同じような歌で

 

桜麻の

 苧原(をふ)の下草

  露しあれば 

  明して行け 

   母は知るとも

 

さくら麻の畑の下草には露があります。夜が明けてからおかえりなさい。ないしょでおいでのあなたを母が知ってしまうかもしれないけれど、というなかなか実感のこもった歌です。そのような恋の歌を装飾する上の句に麻を使っているところを見ると、麻は当時の人たちにとって生活の一部であったのでしょう。小垣の内や家の近くの畑に麻がつくられていたのです。

 

           (新匠工芸会会員、織物作家)

 

染と織の万葉慕情10

  庶民の「藤衣」

   1982/6/11 吉田たすく

 

 藤の花は、草花の中でも特に華麗で艶やかな花ですから、古くから歌に詠まれて来ております。またその反対に、貧しくお粗末な藤づるの繊維で織った布の藤衣(ふじごろも)の歌もあります。この藤にまつわる二組の歌を取り上げます。

 

 

恋しけば

 形見にせむと

         わがやどに

       植えし藤波

    咲きにけり

 

 

 

形見にしなさいと植えた藤が咲いた。あの人は今ここに居ない。

 藤の花が山裾に波うつごとく咲き乱れるさまを“藤波”というのでしょう。

 

 藤波の

  散らまく惜しみ

     ほととぎす

   今城の岳を

    鳴きて越ゆなり 

 

 藤波は

  咲きて散りにき

   卯の花は

  今ぞ盛りと

   あしびきの

   山にも野にも

    ほととぎす

     鳴きし響(とよ)めば

 

藤波の

 咲きゆく見れば

    ほととぎす

  鳴くべき 時に

   近づきにけり

 

 藤の花が過ぎると、ほととぎすが鳴く初夏になり、卯の花の盛りになるー 季節の移り変わりを詠っております。

 

春の野の

  藤は散りにて

   何をかも

  御狩の人の

   折りて挿(かざ)さむ

 

御狩の人は何の花を手折って、頭にさすでしょうか。 もう藤の花は散ってしまったのに、という惜春の情を詠っています。

 

 ほととぎすの鳴く夏が近くなって来ました。

 

 藤衣(ふじころも)の歌

 

須磨の海人(あま)の

  塩焼衣(しおやきごろも)の

      藤衣(ふじころも)

  間遠にしあれば

     いまだ着なれず

 

海水を焼いて塩をつくるときに海人の着る藤衣の目の粗い布のように、間が遠いので、まだあの人になれそっていない。

 

 大君の

  塩焼く海人の

   藤衣

 なれはすれども

  いやめづらしも

 

海人の藤衣のようによく着なれている。そのように馴れているあなたは、ますます逢いたい人ですよ

 

 当時の庶民の衣類は「藤衣」「葛布(くづふ)」「こうぞの布」など、身近に手に入りやすい天然繊維を使って織ったものでした。麻など栽培して作るものは高級品です。もちろん木綿はまだなかったのです。

 

 藤のかづらをはぎ 指で糸にさき、むすんで積(う)み 藤糸を作り はたにかけて 粗い藤布が出来るのです。暖かさのない、がさがさした粗い布でした。貧しい海人は、この藤衣くらいしか着ることが出来なかったのです。

 

 また、高貴な人が喪に服するときに、藤衣を着たようです。喪にふくすときは、平素の着物より一段ひくい質の着物を着るのが、大陸から伝わったしきたりであったのでしょう。

 今でも韓国の喪服は粗い麻布を着ると聞きましたが、これと同じ意味をもつのでしょう。

 この粗い粗末な藤布にくらべ、藤波の花は女性の美しさにたとえられ、また頭にかざし、舟を飾ったりしましたが、美貌とその身の幸いとは別ものなのでしょうか。

 

  (新匠工芸会会員、織物作家)

 

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(新聞の番号が⑧から⑩に飛んで付蹴られています。どうかわかりませんが、後日96が2ツあり、トータル100ページとなっております。)

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 尚このシリーズのバックナンバーは私のブログ 「foo-d 風土」の中のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく

 

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染と織の万葉慕情 ⑻

  春しのぶツバキ

   1982/6/4 吉田たすく

 

 

 先週は椿市の歌でツバキの灰を染色に使う話でした 。それではあの真っ赤なツパキの花で染める事は出来ないのでしょうか。

小学生のころ、アサガオの花をすりつけて布染した人があると思いますが、どうでしょう。ツバキの花をもんで布に推 (す)りつけると、せっけんのように白い泡を立ててほんの薄いピンク色がつきます。日がたつにしたがって、それは茶色に変わります。落ちツバキが茶色に枯れていくあの色です。赤色には染まってくれません。万葉歌に摺り染の歌十数首ありますが、ツバキの花は擦り染は一首もありません。ツバキの花で染まらない事がわかっていたのでしょう。

 染織に関係はないのですが、ツバキの歌をお目にかけます。

 

 我が門(かど)の

  片山椿

   まこと汝(なれ)

 我が手触れなな

   地に落ちもかも

 

我が家の向かいの傾面の山椿(相手の女)、自分の留守に我が手にも触れないで他人の手にわたり、地に落ちるようにだいなしになってしまいはしないでしょうか。

 ツバキの落花のさまを見てうたっています。

 

 また持統天島が紀伊に行幸されるときの歌

 

巨勢山の

 つらつら椿

  つらつらに

 見つつ偲ばな

  巨勢の春野を

 

河の上

 つらつら椿

  つらつらに

 見れども飽かず

   巨勢の春野は

 

兵部大丞大原の真人の歌

 

 あしびきの

  八峰の春の

   つらつらに

  見とも飽かめや

   植ゑてける君

 

見ても飽かないツバキで春をしのぶ歌でずが、なかなか口調のよい歌です。

 花が点々とつらなって咲くとか、薬っぱがてらてら輝いて美しいなどと、”つらつら”という言楽が使われていますが、それよりも、つくづく見る感じを

より音楽的なリズムにした表現と見たいです。

 意味のない言葉に価値があるのです。つまりむだな言葉ですが、これが大切です。人の生活にもこのむだか必要です。

 

 あしびきの

  山椿咲く

   八つ峰越え

   鹿待つ君が

   斎ひ妻かも

 

あしびきは山の枕詞です。八つ峰(二上山ともいわれまたつらなる山ともいわれます)

 山椿の咲く峰を越え、鹿を待ちうける猟師の無事を祈る妻なのか。

 

大伴の宿禰池主に贈る長歌

 

 … 八つ峰には霞たなびき

   谷辺には椿の花咲き うら悲し

  春し過ぐれば ほとぎす

いや鳴きぬ…

 

峰には霞たなびき、椿の春も過ぎて行く、やがてホトトギスの鳴く初夏でず。今は春と初夏との背中あわせです。

     (新匠工芸会会員、織物作家)

 

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 尚このシリーズのバックナンバーは私のブログ 「foo-d 風土」の中のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

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