染と織の万葉慕情12   麻の枕詞 | foo-d 風土

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染と織の万葉慕情 12

  麻の枕詞

   1982/6/25 吉田たすく

 

麻の話の続きですが、麻の名をお持ちの王(おおぎみ)がありました。またこの王は、因幡の国(いなばのくに)に流されていますので、私たちにはちょっと興味があります。(注1)

 

「麻続王」(をみのおほぎみ)というお方です。(注2)

 日本書紀に「天武天皇四年四月十八日に、三位麻続王は罪有って因幡の国に流された」とあります。万葉集には、後世の人が歌のことばから誤解して、麻続王、伊勢国の伊良ごの島となっていますが、その島に流された時、人々が気の毒に思って作った歌があります

 

 

打珠 (うちぞ) を

  麻続王 (をみのおほぎみ)

    海人 (あま)なれや

   伊良ごの島の

    玉藻刈ります

 

打ってやわらかくした麻の事で、麻続王にかかる枕詞です。

麻続王は海人 (あま)ですか?

もちろん王ですから海人ではないのですが、 伊良ごの島の海草を刈っていらっしゃるといって嘆くのです。麻続王はこれを聞き、悲しんでこたえて歌われた歌。

 

 うつせみの

  命を惜しみ

    波に濡れ

   伊良ごの島の

     玉藻刈り食む

 

 はかないこの世の命をおしんで、波に濡れて、伊良ごの島の玉藻を刈って食べていることだ。

 

 麻は当時の衣類で生活の一部でもあったので、物のたとえに麻を使い、枕詞にも用いられています。

 麻の茎を水にひたし、蒸して、荒皮を取り、白い繊維を指でさき、結びつないで長い長い糸に作りました。 それで「長い」意味とか、麻をつなぎ経(う)む作業の「ウ」の字から「海」の枕詞に、また糸を作るので「イ」の字から「命」の詞にかけました。

 

 夏麻(なつぞ)ひく

  海上潟(うながみがた)の

    沖つ洲に

   烏はすだけど

    君は音(おと)もせず

 

夏畑のあぜから麻を引き取る、海にかかる枕詞です。あがたの洲に鳥は集まって騒いでいるのに、あなたは少しも訪れてくれないなあ。

 

 夏麻引く

  海上潟の

   沖つすに

  船はとどめむ

   さ夜更けにけり

 

沖の洲に船を泊めよう、夜は更けてしまった。

 

また長歌の一部

 …緑 (よし)の無ければ

   夏麻引く

  命かたまけ

    刈ごもの

   心もしのに

    人知れず…

 

命の枕詞に使われています。

 

まだまだ、麻の歌は続きます。

 

          (新匠工芸会会員、織物作家)

 

 

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(注1)鳥取県は因幡国(いなばのくに)と伯耆国(ほうきのくに)の二国で出来ており、吉田たすくは鳥取県倉吉市在住。

(注2)麻続王 麻績王(おみのおう、生没年不詳)は、7世紀末の皇族。麻積王とも称される。

 

出自をめぐって大友皇子(天智天皇の太子)、美努王(橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。

『日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、鳥取県鳥取市国府町岡益にある梶山古墳は麻績王の古墳であるともいわれてる。また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島に流罪されたとある。

壬申の乱で、大友皇子側についた事が原因で流罪に処されたとする説もある。

 

 麻続・麻績・麻績(おみ)とは機織りに使う苧環(おだまき)のことで、糸を巻いて玉状または環状にしたものです。

「麻続王」(をみのおほぎみ)と言う名を持たれているという事は、母君が織物を扱う倭文部(しとりべ)や、織物に関する氏族出身だったのかもしれません。

 因みに、伯耆国(鳥取県西半分の倉吉市・米子市・境港市)の一宮は、織物の神様を祀る 倭文神社(しとりじんじゃ)であり、国府の置かれた倉吉近郊は古代より特に織物が盛んだったようです。この織物のDNAは江戸時代には倉吉絣として絵絣で大きく花開き、また、この倉吉絣の研究から父の「吉田たすく手織工房」へと続いております。

 

倭文神社の倭文は「しとり」と読み、日本最古の「倭文織(しづおり)」という織物のことを指します。

 倭文織は、梶木(かじのき)、藤、楮、栲などの木の皮の繊維を糸にして、これを織った織物類で、後に麻も加わりました。荒妙(あらたえ)ともいいます。 平安朝で麻や絹織物も含めて織物を扱う集団を倭文部(しとりべ)と言い、全国にありました。

 

倭文織は私も様々資料を探していますが、古墳や正倉院から数点しかそれらしいものが見つかっておらず、古代布の研究項目としてどの様な織り方でどんな布なのかまだ解明されていない部分があり、とても魅力的なロマンがあります。

 

 伯耆一宮 倭文神社社伝によれば大国主命の娘の下照姫命が出雲から海路御着船、従者と共に現社地に住居を定め、当地で死去されるまで、安産の指導に努力され、農業開発、医薬の普及にも尽くされたといわれています。創立当時、当地方の主産業が倭文(しづおり)の織物であったので、倭文部(しとりべ)の祖神 建葉槌命(たけはづちのみこと)に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたものです。

倭文神社へは何度か行ったことがありますが、とても静かな厳かなところです。

古代は入り江であった東郷湖の傍の丘にあり、古墳時代はこの入り江から沢山の倭文織を舟で出雲王朝へ運んだのでしょう。

 尚、全国の倭文神社や倭文部の分布は山陰地方と東海地方に特に多く、海や河川、湖沼に近い高台にあり、そうすると「倭文部」は「海人部」と関係深い部民であったこと、製織技術の面から秦氏との関係も考えられます。 ここにもとても魅力的なロマンがありますね。

 

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苧環(おだまき)については、語源にもなっていたり、様々な続き談がありますから、別途次回にアップしたいと思います。

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(新聞の番号は一つ進んでいます。ミスか9だから避けたのかどうかわかりませんが、 ⑧から⑩に飛んで付蹴られていて、後日気がついたのか96が2ツあり、トータル100ページとなっております。)

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『染と織の万葉慕情』は、私の父で、手織手染めの染織家、吉田たすくが60歳の1982年(昭和57年)4月16日から 1984年(昭和59年)3月30日まで毎週金曜日に100話にわたって地方新聞に連載したものです。

 尚このシリーズのバックナンバーは私のAmebaブログ 「food 風土」の中のカテゴリー『染と織の万葉慕情』にまとめていきますので、そちらをご覧ください。

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吉田 たすく(大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。

風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案。難しい織りを初心者でも分かりやすい入門書として『紬と絣の技法入門』を刊行する。

東京 西武百貨店、銀座の画廊、大阪阪急百貨店などで30数回にわたって個展を開く。

代表的作品は倉吉博物館に展示されているタピストゥリー「春夏秋冬」で、新匠工芸会展受賞作品。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士

 尚 吉田たすく手織工房は三男で鳥取県染織無形文化財・鳥取県伝統工芸士の吉田公之介が後を継いでいる。

 

吉田たすくの詳細や代表作品は下記ウイキペディアへどうぞ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田たすく