淡紅の
散りゆく舞は
儚くも
さらにこころを
惑わす美なり
この地方の桜も散り始めましたね、私はこの桜の散り初めの頃が一番好きです。
桜も過ぎ去ろうとしていますが、例年最初に桜の話題になるのは伊豆の河津桜ですね。
全国にある早咲きの河津桜の発祥の地で河津川沿いに菜の花を下に 4キロにわたる桜並木はとてもきれいで数年に一度観に行っていますが、この河津郷は、NHK大河ドラマの『鎌倉殿の13人』で頼朝の子を産んだ八重の育った場所であり、はるか昔 私の父方 伊藤家の先祖の領地でもあり、そして曽我物語の舞台でした。
曽我物語は曽我十郎・五郎兄弟が、工藤祐経に殺害された父・河津祐泰の仇を討つ物語で、辛苦の末達成した敵討ちとして称賛されたのですが、実はこの原因を作ったのが曽我兄弟の祖父 伊東祐親だったのです。
NHK大河ドラマの『鎌倉殿の13人』で娘の八重が産んだ頼朝の子、千鶴丸を殺させたこの人です。
伊東祐親は次男として養子に入り、兄となった工藤 祐継の子工藤祐経に自分の長女、万劫御前(八重の姉)を嫁がせました。
その後、工藤祐経は上洛し宮務めをしますが、歌舞音曲に通じており、名人と言われたそうです。
祐経が京で宮勤めをしている間に伊東祐親は義理の甥の祐経の領地伊東荘を押領してしまい、工藤祐経に嫁がせていた自分の娘の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまいます。
所領と妻をも奪われた祐経は叔父祐親を深く怨みますが血はつながっていなくても叔父ですし、京の宮勤めの最中なので、郎党に命じ祐親、父子を襲撃させます。しかし祐親の嫡男・河津祐泰は怪力の持ち主で、相撲と柔道の荒技である「河津掛け(危険な技で、片手を相手の首に巻き、巻いた手と同じ側の片足を相手の片足の内側からからめ掛け、後ろへ反り返って倒す荒技で昭和30年に柔道では危険すぎると禁止され、現在は相撲の決まり手としてだけ残っています)」の創始者であり祐親を討つはずが、祐親の嫡男・河津祐泰を1176年に殺めてしまいました。
残った祐親は祐経が京にいるので手は出せませんでした。
尚、祐経による祐親・祐泰父子襲撃そのものは頼朝による教唆もあったようで、頼朝が遺恨を抱く伊東父子を襲撃したことが、後に祐経が頼朝に重用された事にも関係したようです。
丁度、頼朝と政子が結ばれる頃の事で、その後、頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、、工藤祐経は源頼朝の信任厚く、鎌倉幕府の数多の大名の筆頭の地位となっています。
今度は川津祐泰の子である曽我兄弟がその仇打ちをするのですが、元々は彼らの祖父が原因であり、これには鎌倉殿が怒り曽我兄弟は二人共死罪となります。
歌舞伎等では悪人としてこの曽我兄弟に殺される損な役回りの工藤祐経の子孫が私の先祖でした。 工藤氏の系統で伊藤姓を名乗ったものの子孫です。
工藤祐経は歌舞伎などでは酷い役回りで、私も先祖の名前を聞いた時はビックリ ちょっと悲しかったですが、親戚の強欲なお爺さんにとられたものを取り返したのがわかった時はちょっと塞いだ気も晴れました。
工藤祐経は頼朝の重臣となっていましたが、歌舞音曲の名手で、鎌倉、鶴岡八幡宮の境内で頼朝と北条政子の前で静御前が踊る今様のお囃子も務めています。
頼山陽の漢詩「静御前」
工藤の銅拍 秩父の鼓
幕中酒を擧げて 汝の舞を觀る
しずやしず しずの苧環 繰返し
むかしをいまに なすよしもがな
一尺の布 猶縫う可し
況や是 繰車 百尺の縷………………
このように工藤祐経は銅拍という小さなシンバルのような鐘を担当します。
ところで、静御前が唄った今様『しずやしず しずの苧環 繰返し
むかしをいまに なすよしもがな …………………」は
この静が歌った今様は、日本最古の織物で平安初期には織られなくなってしまった幻の織物、倭文織(しずおり)に関係する資料としては一番最後のもので、それ以降昭和時代中期以降に至るまで、触れたものはでてきていません。
静の歌は織物に関係し、それを演奏したのが我がご先祖の工藤祐経。
その約900年の時空を超えて、何十代後
昭和時代に、伊藤祐(たすく ・私の父、吉田たすく)が、また新しい織物をはじめました。
父は大正7年伊藤家に5男として生まれます。兄弟7人でしたが、工藤家代々継承される通字(とおりじ)の「祐」を偶然かどうか付けられました。これが遥か鎌倉時代の静御前の今様の倭文織が糸を引いて織物の道へと触発されたのでしょうか。
歴史とは壮大なロマンですね
ですから、この静御前の歌は私の血のどこかにも思い出のかけらとして残っているような気がしています。
この倭文織に関しては、後日また父の「染と織の万葉慕情」を紐解くときに触れることにいたしましょう。
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伊藤氏というと伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現・静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原鎌足の数代後、藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「祐」(すけ)。
藤原南家の藤原為憲の官職が「木工助(もくのすけ)」主に造営、および材木採集を掌り各職工を支配する役所の副署長(官位は正六位下)であったため工藤氏を名乗り、その後、東伊豆に移動した工藤氏の一派が「伊豆工藤」と称し、この「伊豆工藤」は後に「伊東氏、伊藤氏、狩野氏、河津氏などを派生しました。
その後、一部九州に行った飫肥藩(おびはん)の伊東氏も同じ系列です。
