FlyingVのブログ 『 so far so good 』

FlyingVのブログ 『 so far so good 』

男女、家族、そして友人達との様々な人間模様を書き記した記事が中心です。
みんカラから移転したものや創作したものを掲載しています。

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次の日、僕と東京のいとこは、虫捕りに連れて行ってもらえることになった。
僕と2つ違いの東京のいとこは、来年、中学2年生と、おそらく一緒に虫捕りをしてくれる最後の夏になると思い、僕がリクエストしたことだ。
お兄ちゃんとお姉ちゃん達はそれぞれ塾で朝から出ていた。
昼間、妹含めた僕達3人はおばちゃんの農園を手伝い、夕方になって、おじちゃんが運転する軽トラに乗り込んで、近くにあるクヌギとコナラの群生林へと向かった。
薄暗く、樹液の甘酸っぱい香りが立ち込める木々の間を、虫よけスプレーを塗りたくった手に、網を握りしめて進んでいくと、樹液が噴き出した幹がそこかしこにあり、すでにカブトムシやクワガタが何匹も留まっていたのだった。
東京のいとこと僕は、狂喜乱舞しながら網を振り回し、手が届くところにとまっている甲虫は、手づかみで次々と籠の中へと押し込んでいった。
大量だった。僕の住んでいるところでも、カブトムシのオス1匹で500円はする。
沢山捕れたことも嬉しかったが、僕は、憧れのミヤマクワガタの立派なオスを捕まえたことに何よりも興奮した。

おばちゃんちに戻り、胸を張って成果を報告すると、
「そんなに捕れたか。」とまん丸な顔を一層丸くし、分厚い瞼に埋もれそうな目を細めて、スイカを切ってくれた。
この日もピーターコーンを齧り、夕ご飯としてさらに豪勢に振る舞われたご馳走で満腹になった僕らは、大きなお風呂に皆で入り、ゲームをしたりして、寝床に付いたのだった。
昨日のおばちゃんの話は怖かったが、夜、外に出なければいいだけのことだし、星が見られないのは残念だったけど、僕の頭の中では、明日、市民球場で開催される花火大会が楽しみで仕方が無かった。

その夜、肩をゆすられ、誰かが耳元で僕の名前を呼ぶ声に、目を覚ました
「な、なに?」
「おい、起きろよ。」僕を起こしたのは東京のいとこだった。
「あのよ、俺ら、明日、おばあちゃんとこ戻るじゃん。」
「うん、、、そうだけどさ、もう寝ようよ。」とシーツを被ろうとする僕を、
「あのさ、近くにすげえクワガタが集まっている木があるんだよ。去年見つけたんだ。」
そうはさせまいと、シーツを手で押さえる東京のいとこ。
「ふ~ん。もう沢山捕れたじゃん。」無理やりシーツを奪い取り、寝転がる僕に、
「だから、今から行けば、すげぇんだって。ほら起きろ、行くぞ。」
「やだやだ。」と抵抗はしてみたものの、腕力でも強引さでも敵わないいとこに引っ張られ、着替えさせられてしまった。

何時なのか見当もつかなかったが、皆が寝ている時間だってことは分かった。
いとこが持つ懐中電灯の明かりを頼りに、糠床の匂いがかすかに漂う台所を抜け、裏口まで来た時、
「だって、おばちゃん、あの古いバス停、見ちゃダメだって。」
夕食の時の話を思い出し、僕の足はすくんでしまっている。
「大丈夫だよ。オレが見てきてやるからよ。」
そう言って、いとこは、裏口から出て行き、玄関へと向かった足音が再び戻ってくると、
「ほら、なにも居ねえじゃん。来いよ。」
僕は手を引っ張られ、裏口から納屋と離れをぐるっと迂回して、母屋の脇にある生垣の隙間から外に出た。
最初は真っ暗で、いとこの早足に何度もつまずきそうになったが、段々目が慣れてきた僕は、夜空を見上げてみると、零れ落ちそうなぐらいの色とりどりの星が、空一面を埋め尽くしていた。まさに、天然のプラネタリウム、いいや、どんなプラネタリウムでもかなわない。
足が宙に浮き、夜空に吸い込まれていってしまうような感覚に捉われながら道端で立ち尽くす僕を、いとこは、「早く行こうぜ。」と急かし、雑木林の中へと入っていった。

暗いとは言っても、木々の隙間から星空の光が入りこみ、足元の小川にキラキラと映っているので、そこに沿って歩いていけば、懐中電灯である程度注意しているだけで十分だった。
昼間とは違う、深呼吸を始めた森の湿った匂いが立ち込め、足元や頭の上からは、虫の羽音や葉っぱを鳴らすカサカサした音が時々聞こえてきた。たまに、ガサっという大きな物音がして、心臓が止まりそうになったが、いとこがどんどん先に進んでいってしまうので、びっくりしている余裕もなかった。
「もう着くぞ。そうそう、これ掛けとけ。」と言って、いとこは、僕の手足に虫除けスプレーを吹きかけてくれた。
小径が開け、巨木が立ち並ぶ一角に出ると、樹液の酸味を含んだ甘ったるい匂いが、猛烈に漂ってきた。懐中電灯で照らしだされた幹は、そこかしこから、琥珀色をした樹液が滴り落ち、黒い筋を幾本もの根元に垂らしている。
そこに集まる蛾やカナブンに混じり、黒光りする大きく丸いフォルム。カブトムシだ。
赤いのはノコギリクワガタだった。
樹に留まっているなんてレベルじゃなかった。群がっているのだ。
僕といとこは夢中になって、捕まえては、籠の中に放り込んだ。
コクワガタとノコギリクワガタは獲れ過ぎて、サイズの大きいやつ狙いにした。
ミヤマクワガタもヒラタクワガタも、つがいでゲットでき、オオクワガタはさすがに見つけられなかったものの、籠の中が真っ黒になるほどの大収穫に、いとこはまだ名残惜しそうだったが、帰りたがる僕に根負けして引き返すことにした。

森の中は相変わらず真っ暗で、樹の隙間から木漏れでる星の光が、かすかに僕達の帰り道を示していた。今来た道を小川に沿って戻るだけなのに、進めど進めど、森から出るどころか、どんどん奥へと入っていくような感覚がしている。
さっきまでは気にならなかった、不気味な鳴き声や枝を揺する音が、耳に張り付いて離れない。
怖くなった僕は、いとこにしがみついて、目を瞑ってひたすら歩いた。
いとこも多分怖かったんだと思ったけど、僕の前で、みっともないところを見せまいと頑張ったんだと思う。
「おい、出たぞ。」
いとこの、ほっとしたような声がして、顔を上げてみると、目の前に森の出口が開けているのが見えた。
「良かった。」と僕がつぶやくと、
「もう手ぇ離せよ。」いとこはシャツの裾を握る僕の手を振り払った。
足元が、土のやわらかいものから舗装されたアルファルトの固い感覚へと変わり、森を抜けた僕は、見慣れた風景が目の前に広がったのを確認し、ふうと、一息ついた。
少し下れば、おばちゃんの家がある。どうやら、雑木林から森の中を半周して、反対側に出たみたいだった。

気が楽になった僕は、おばちゃんちに向かおうとした時、隣のいとこの様子がおかしいことに気が付いた。
棒立ちになったまま、体を強張らせ、微動だにしない。
「ねえ、どうした、、、の、、、」と、いとこに向かって話しかけた僕も、忽ち、その事情を飲み込んだ。
僕らが出たところは、古いバス停の真横だったのだ。
そして、そのバス停には、居たのだ
庇の大きな帽子を被り、古いソファに腰掛けた女の人が。
凍りついたように動かなくなる体。
恐怖より先に、この場に居てはダメだという信号が体の中を駆け巡り、とにかく視線を合わせまいと立ち去ろうとした。
いとこもそれは同じだったようだ。
僕らは、顔を伏せ、駆け出そうとした、その時だった。

いとこが「あっ。」と言って、虫かごを道路に落としてしまったのだ。
慌てて手で拾い上げたいとこが、顔を上げた瞬間、その女の人が、いとこの真後ろに立っていた。
いとこより頭一つ背が高く、長い髪をたなびかせ、うつむき加減のまま、ゆらゆら揺れているように見える。
『振り向いちゃだめ。』と、僕は声にならない声を振り絞りながら、いとこの後ろを指差した。
だが、いとこは、振り向いてしまった。
庇の大きな帽子の下から白い顔がのぞき、黒い涙が滴り落ちる穴のような目が、いとこを見つめたかと思うと、
「キ、、ミ、、、、」と一拍置いた後、「シッテ、ル、、ノ?」とゆっくりと低く怖ろしい声で、いとこに話しかけたのだ。
僕は、ただひたすら走った。
途中、何度もすっころびそうになりながら、おばちゃんちについた僕は、裏口から入って、布団にもぐりこみ、震えながら眠気が差すのを待った。安心したのと疲れから、呼吸が整うとすぐに僕の瞼は重くなり、やがて、ぐっすりと寝入ってしまったのだった。
いとこが部屋に戻ったかどうかは分からなかったけど、怖くて振り返れなかった僕は、いとこの足音が聞こえていたので、多分、帰ってきたのだろうと思っていたのだ。

だが、次の日、いとこの姿はなかった。
よく、一人気ままに出かけていたので、皆、その内戻って来るだろうと、気にもしていなかった。
だけど、僕はどうしてもそうは思えなかった。
昼になっても東京のいとこの姿はなかった。そして、夕方前に、母の在家に戻るとなった時、いとこが全く姿を見せないことに、ようやく騒ぎになりだした。
僕は、昨日の夜のことを言い出すのが怖かった。叱られるというのもあるけど、あのことを思い出すのが怖かったのだ。
当然、おばちゃんは、僕に尋ねてきた。
おばちゃんの優しそうな顔を見た途端、僕は泣き出してしまったのだ。
泣きじゃくりながら僕は話した。
昨日の夜、いとこに誘われて虫捕りに行ったこと、その帰りに、森の中で迷い、そして、バス停の真横に出たこと、白い女の人が居て、いとこが話しかけられたことを。
おばちゃんは、すぐに円宗寺の住職を呼び、交番からもお巡りさんが応援に駆けつけた。
まだ日が高かったので、女の人が居ないことは分かっていたもの、僕はそのバス停に近寄るのも嫌だったのだが、お巡りさんにしがみついてなんとかそこまで案内した。
近所の人達から、『神隠し』という言葉が、聞こえてきて、僕は、すごく悲しくなって、また泣いてしまった。

そろそろ日が暮れようとした時、円宗寺の住職に付き添われ、森の中から、いとこが出てきたのだ。
住職の話だと、墓地の前で、いとこが座りこんでいて、まるで、誰かの質問に対して、頷いたり、首を横に振っていたのだという。
放心状態で別人のように生気がなくなったいとこは、住職が念のためお祓いをするということで、おばちゃんちの仏間で、2時間ほど読経がなされたのだ。
僕もついでに見てもらったが、なんにもないとのことだった。

いとこは次の日、親戚に連れられ、東京へと帰って行った。
僕は、残った夏休みを、母の在家で過ごした。
おばちゃんや高校生のお兄ちゃん、お姉ちゃん達は、時々来ては、ピーターコーンやスイカを振舞ってくれたり普段どおりに接してくれた。
時々、あの時のことを思い出して、夜怖くなることはあったが、優しいおばあちゃんに盆踊りに連れて行ってもらったりしている内に、次第に希釈化され、夏休みを楽しく過ごすことが出来たのだった。
東京のいとこも段々と元気になっていったそうだ。

やがて、母と僕、そして妹が名古屋に戻り、2学期が始まったある日の夕食時に、おばちゃんから一本の電話が掛かってきた。
いつも世間話が中心で、母が信州弁丸出しで応対していたのだが、しばらく話しこんだ後、母が受話器を渡してきた。なんでも、おばちゃんから伝えたいことがあるとのこと。
「もしもし。」と何気なく出た僕に、おばちゃんは、
「あのな、ほれ、あん時のバス停、壊すことになったよ。もう安心してええぞ。あの怖いのも出んくなったしな。また来年、遊びにおいで。今度は、皆で星見ような。」
といつもの優しい口調で話してくれたのだった。

だが、再び受話器を母に渡した僕は、やがて真実を知ることになる。
次の年の夏、再び僕と妹は母に連れられ、信州を訪れた。
そして、一年ぶりに母の在家で出会った高校生のお兄ちゃんの口から、信じられないことを聞かされたのだ。
「あのね、バス停のほら、丁度下の辺りに、用水路が通ってるでしょ。あそこで、若い男の人が死んじゃってたんよ。発見されたのは朝で、原因も不明。変死ということで、ニュースにはちょっとなったね。でもね、それっきり、あの女の人は出なくなってな。ここら辺の話だと、あの女の人は、ずっと、その男をバス停で待ったんじゃねえかって。」

1年前、東京のいとこが、「キミ、知っているの?」と聞かれたのは、恐らく、この男の人のことだったに違いなく、曖昧な返事しかしなかったいとこは、お墓の前まで連れて行かれて詰問されていたのだろう。
とにかく、亡くなった方は気の毒だったが、解決したということで、僕は一先ず安堵した。

その年の夏も、僕と妹は、おばちゃんの家に、軽トラに揺られて、泊まりに行った。
山道を登り、いくつかの森を抜け、中腹にあるおばちゃんちに着く頃、僕の目に、新しいバス停が映った。深緑がまぶしく、小川から立ち上る瑞々しさを包含した澄んだ空気が、肺の中に流れ込み、体中に染み付いた都会の滓を洗い流していくようだった、
僕が何度も深呼吸をしているうちに、おばちゃんちに到着した。
虫捕りや花火、星空観察といった楽しみに胸を膨らませながら、軽トラを降り、何気なく坂の上を見上げた僕は、我が目を疑った。
新しいバス停の奥に、撤去されたはずの、古いバス停がまだ残されているのだ。
妹も気が付いていた。
だが、不思議と、僕を含めて誰も、それについて何一つ触れようとしなかったのだ。

そして、この年が、僕と妹が、おばちゃんのところに泊まりに行くことが出来た最後の夏となってしまったのだった。

(完)

おばちゃんの家は、盆地の中腹辺りに位置する緩やかな斜面に建っている。
立派な母屋と離れが3つ、小屋と納屋がそれぞれつにガレージと、とにかく広大な敷地は森に囲まれ、木々の隙間から吹き込む涼風と一日中木陰がさすため、めっぽう涼しく、昼間でもところどころ薄暗かったりした。
だが、一旦、ぶどう園のある坂の上までのぼってしまえば、そこかしこに同じようにぶどうやりんごを栽培する大農園が広がり、存外に見晴らしがいい。
家の前は、農場に続く、車同士がどうにかすれ違えるぐらいの坂道が一本あるだけで、50mほど上がった対面には寂れたバス停が道路脇にポツンと立っていた。

料亭がわざわざ汲みに来るほどの夏でもヒンヤリと澄んだ水が流れる小川と、それを辿った森の奥は、古い墓石や卒塔婆がいくつかあるだけのこじんまりとした墓地に突き当たる。
おばちゃんちと森と小川、小さなバス停が立つ坂道を背景に、オニヤンマが産卵をし、夜は蛍が舞う、そんな光景は僕が小学校に上がる前から変わることはなかった。

だが、僕が5年生になったこの夏、寂れたバス停から、おばちゃんちの方へ20mほど下ったところに、真新しいバス停が出来ていたのだ。とはいっても、電光掲示板どころか照明すらない鉄製の丸い標識のような簡素なものだったが。
僕と妹、そして二つ年上の東京のいとこは、おばちゃんが運転する軽トラの荷台に揺られながら、変化のない集落の中で際立って目立つバス停に、
「わあ、バス停、ピカピカ。」
「バスも新車かな。」
「おばちゃん、バス乗ったの?」と競い合うようにして、おばちゃんに話しかけては、関心を引こうとしていたのだった。

この日の夕食時、おばちゃんちには、僕と妹、東京のいとこの、計3人の子供が加わり、食卓は大賑わいとなった。
僕達は、手際よく料理をするおばちゃんの横で、お皿を出すなどのお手伝いをしながら、だだっぴろい和室にある、ヒノキの一枚板でこしらえた馬鹿でかい座卓に、乗り切れないほどのご馳走を運んだ。僕らが来ると、おばちゃんは張り切りすぎて、つい余計に作ってしまうらしい。
床の間を背にした一番立派ん座椅子で胡坐を組むおじちゃんは、湯気が上がる枝豆を肴に、地酒を豪快に呷り、顔を真っ赤にしている。
そこに、夏期講習から帰って来た高校生のお兄ちゃんと中学生のお姉ちゃんが加わり、馬刺しやおばちゃんちで取れたピーターコーン、いなり寿司、信州味噌の田楽に皆が舌鼓を打っていた。
話題は、地元神社で7年に一度、開催される大祭が今年巡って来たことが中心だった。
なんでも、16本の大木を切り出し、神社の柱を交換するという壮大なものらしい。
地元のTV局でもそのニュースがひっきりなしに取り上げれら、僕も、何本もの大木が、急斜面を人とともに滑り落ちていく映像を、母の在家に来てから何度か目にしていた。
なにか役回りを割り当てられるのは、大変名誉なことらしい。
「今年はお役もらえそうだ。」と茹で上がったトマトのような赤い顔をほころばせ、さも誇らしげなおじちゃんだった。

「そう言えばさ、お兄ちゃんは、学校行く時、バスなんだよね。」と僕は、さっき見た真新しいバス停を思い出して聞いてみた。
子供が思いついたことを口にしただけで、特に深い意味はない。
「うん、そう。7月から朝と夕方の本数が少し増えて、ちょっとだけ便利になったかな。それでも1時間に2本、昼間なんて2時間に1本だからね。家がバス停に一番近いから贅沢は言っちゃいけないか。」と言って、ニコリと笑い掛けてくれた。
「ふ~ん、そうなんだ。」
「その上に、古いバス停あるでしょ、たまに間違えて、あそこで待っている人とかいるんだよ。この前なんか、お母さんかと思っちゃった。もうバスがないのに。」
天ぷらをほお張りながら、お姉ちゃんがフフフと笑うと、皆がそれにつられて、
「確かに。」「オレ、それ見たかも。」「この前なんて、お母さん、湯飲みもってトイレに行ってたんだよ。」「本当にそそっかしいもんな。」と言い合い、笑がこぼれた。
こういう時、決まって「違う違う、湯飲み持っていったのは、お風呂場ずら。」とおばちゃんのオゲラ笑いが一番高らかに響くのだが、今日に限って、当のおばちゃんだけが笑っていないのだ。

「あれ、お母さん、もしかして何か気に障ること言った?」とおばちゃんの顔をを覗き込む中学生のお姉ちゃん。
「お前、それいつの話だ?」おばちゃんの表情が、心なしか、少し固くなったように見えた。
「なに?いつって、、、1週間ぐらい前かな。」
「バスがない時間っていうのは、確かか?」
いつになくシリアスなおばちゃんに静まり返る食卓。
「う~んと、そうだった気がする。遅かったし。って、お母さん、一体どうしたの?」
と、顔色を伺うお姉ちゃんに、
「その人、ちゃんと見たのか。」と、さらに強い口調になるおばちゃん。
「ううん、横目でちらって感じ。だって、夜さ、この辺、真っ暗じゃん。ぼんやりだけど、女の人が俯いていたみたいだった。」
それを聞いて、おばちゃんはお茶を喉に流し込んだ後、ふうっと大きく息を吐き
「仕方ねえ。皆に言っておかねばならんことある。」と言って頭を一度ブルッと振り、顔を上げた。
「母さん、その話は、ここではやめとけって。ほら、この子ら来とるし。」
と、おじちゃんがたしなめるも、
「いや、見えたんなら、伝えておかな、取り返すの付かんことになるわ。お前らも良く聞いとけ。」
お兄ちゃん達に声を掛けたおばちゃんは、顔を一層強張らせて、口を開いた。

「あのな、あそこの古いバス停な。あれ、撤去できんのは訳があるずら。新しいバス停が出来て、すぐのことさ。この辺、街灯も一本しかないし、月が出てないとほとんど真っ暗闇になる。でな、最終のバスがなくなる時間に、ほれ、あの、酒井さんととこの大学生の娘さんが、そこを自転車で通りかかったんよ。
そうしたら、前のバス停のベンチに、誰かがおるのが見えて、酒井さんとこの娘さんは、そのまま通り過ぎて、家に帰った時、なんかのついでにその話をしたさ。バス停に人がおった程度のことなど、ふ~んてな感じで、酒井さんとこは誰も気にしなかった
そうしたら、今度、内山さんとこのおばあちゃんが、夜、犬の散歩をしていたら、古いバス停に女の人が座っているのを見たそうだ。おばあちゃんは、「こんばんは。」って声を掛けたんだけど、返事はなかったって言うとった。白いワンピースを着て、麦わら帽子みたいなのを被ってうつむいたまま座っていたんだと。誰か待っとんのやろと思って、そのおばあちゃんも気にせず、家に帰った。」
「私が見た人も、帽子かぶってて、少し白い感じの服だったかも知れない。」
お姉ちゃんは、そう言うなり、スカートの裾をギュッと握りしめていた手を離して、口を覆うようにした。

「そうか。じっと見てないのなら、気にせんでええ。ほんで、この前、農協の集まりがあって、私が行ったやつな。内山さんと酒井さんもそこに顔を出して、ぺちゃくちゃおしゃべりしてたんだけど、そういえばって内山さんが、『深夜、古いバス停に、女の人が座っとった。』みたいな話をしたんよ。それを聞いて、酒井さんも、『うちの娘も見たって言うとった。』ってなって。
そうしたら、隣で車座になっていた別の組合員さんも、『オレも人見た。』とか、『そうずら、そうずら』ってわらわら言い出して、なんと、7人も目撃したことになったんさ。バス停が新しくなってから、たった10日で。
共通していることは、最終バスが出た時間帯だと言うことと、庇の大きな麦わら帽子を被り、白いワンピースを着た女の人が、古いバス停の椅子に座っているということよ。」
「で、なんなん、その女の人は。」
と、高校生のお兄ちゃんが話しの先を急かしたが、おばちゃんはそれを全く意に介す様子もなく、
「その夜、何かその人にも事情があるといけねえから、酒井さんと内山さん、そして交番の若いお巡りさん、唐沢さんに付いて来てもらって、3人で見に行くことにしたんだ。」
おばちゃんはここで話を切ると、お茶を口に含んだ。
8月だと言うのに、網戸から入りこむ宵の風が、室内の暑気をすっかり洗い流し、秋が来たのかと思うぐらい、ヒンヤリとした空気が充満していた。

「でな、そうそう、内木さんとこに酒井さんが来て、カブに乗った唐沢さんも合流した音が聞こえたので、私も見に行くことにした。家から30mほど上がったはす向かいだし、家から顔を出しだけでも誰かいたら分かってしまうんだけど。
私も出掛けようと、サンダル履いて玄関開けてみたら、前のバス亭にぼんやり人が居るのが、もう見えるんよ。その内、内木さん達がやってきて、『あれ、おりますよね。』って声を掛けられた。
人と言うよりも、ぼんやりとした靄が薄く光っているって言ったらいいかな、そんな風に見えたさ。
でもよく見ると、帽子を被って、ワンピースを着てる。
『こりゃ、私の出番ですな。』と唐沢さんが懐中電灯持って、一人でバス停に向かったんよ。
さすが、お巡りさん頼りになるなあって私らも見守ってて。
『あのぉ、どうされたんですか?もう夜遅いですよ。』と唐沢さんの声と同時に、懐中電灯をその女の人に向けた時、なにがあったと思う?」
「お母さん、私、怖い。」と言って、お姉ちゃんは耳をふさいでしまった
僕と妹、そして東京のいとこも、怖くて怖くてどうしようもなかった。だが、席を立とうにも全然足に力が入らない。
「母さん、いいから、もうよしなさいって。」
幾分、酔いが醒めたのか、赤味がかなり抜けた顔をしかめながら、おじちゃんが、今度は幾分しっかりとした調子でたしなめた。

それでも、おばちゃんの口は動くのを止めなかった。
懐中電灯を持ち上げる身ぶりをしながら、
「その光がな、女の人の体を、こう透けて行ってな、向こうがわの森を照らしているんよ。
それを見た内木さんは震えていたさ。酒井さんは、手を合わせて、お経を唱え出してる。
当の唐沢さんは、一体何が起きたのか、全く分からないまま、『大丈夫ですか?』『どなたかお待ちになっているんですか』とか声をかけ続けていた。
どのくらい経ったのか全然覚えてないけど、唐沢さんが戻って来て、そうしたら、真っ青な顔色してて、額や肩口が汗びっちょりでな、ほんで、おばちゃん達に、
『あの人、生きている人じゃありません。』ってだけ言い残して、ふらふらとカブに乗って行ってしまったわ。それ聞いて、皆、逃げるように家に帰ったさ。仕方ないベ、だって、まだ座っていたんだからさ。唐沢さんが転勤になったの、知ってるずら?これが原因。」
「やめてよ、本当に。」
今にも泣きだしそうなお姉ちゃん。東京のいとこは瞬きを忘れたように、机の一点を見つめている。僕もめちゃくちゃ怖かったが、救いは、隣の妹が眠ってしまっていたことだった。
「今もいるの?何者?」とお兄ちゃん
「多分、居るさ。でも、居たり居なかったりするけど、そこは見てないから分からん。何でそこに居るのか、一体なんのかは誰も知らん。分かっているのは人じゃないことだけ。」
「なんで古いバス停壊しちゃだめなの?」
僕なりに疑問に思ったことを聞いてみた。
「あれを壊すと、新しいバス停に移るかもしれないし、動かないんだったら、そこに留めておいた方が無難だって、円宗寺の坊さんが教えてくれただ。」
「それやべぇじゃん。今日も居るのかな。」と、興味津々の東京のいとこに、
「いいか、見えたからといって、絶対に近づいたり、話しかけたらダメだぁよ。」
と、叱りつけるような厳しい口調のおばちゃんは、今まで見たことがないぐらいおっかない顔をしていた。

(続く)
長野県の中信地方に位置する城下町に母の在家はあった。
名古屋に嫁いだ母は、慣れない都会生活と子育てに、生まれ育った故郷への思いを拠り所として向かい合い、また、足腰が弱いおばあちゃんの様子を常に気に掛けていた。
母の郷愁の念がそうさせたのだろう。僕が小学生になると、毎年、夏休みには決まって、母は僕と妹を連れ、特急信濃に2時間揺られながらそこに向かい、3週間程度、長いときは丸々1ヶ月間、泊まるのが我が家の恒例行事になっていた。
小さかった僕らも、夏の一大イベントとしてなによりの楽しみにしていたのだ

昔、城下にその名を知られた和菓子屋だった広大な屋敷には、埃を被った大竈や攪拌機などが置いてあり、かつてたくさんの丁稚を抱え、職人や奉公人が働いていた名残りがそこかしこにあるものの、僕のおばあちゃんが一人で住んでいた。
母は5人兄弟の末っ子で、その上の3姉妹は、それぞれ嫁いでいってしまい、唯一の嫡男たる伯父さんは、東京で議員になってしまっているためだ。母を含め、5人の子宝に恵まれたおばあちゃんだったが、戦争が始まり、職人さん達も次々応召され、旦那さん、つまりおじいちゃんも戦争で亡くしたことで、和菓子屋を閉め、家財を切り売りしながら、子育てをしたのだと言う。
おじいちゃんの忘れ形見として、戦後すぐ生まれた母は、一番貧乏な時を過ごしたと僕らに良く話して聞かせてくれた。

夏休みになると、遠方のいとこ達も、この家に集まってくるのが子供心に嬉しかった。
多い時には3家族、11人が集ったが、それでもこの家は広過ぎたのだ。
築80年の木造母屋のわずか1区画だけが、おばあちゃんの生活スペースだ。
地下室はナメクジが、2階は雨戸を締め切ったきり、クモの巣やら、気持ちの悪い虫たちの巣窟になっている。
何度か、いとこ達と2階へと上がったことがあったが、かび臭い、冷たい空気が充満した薄暗い廊下を進んでいるうちに背筋がゾッと寒くなり、大広間の襖を開けたところで、いとこの誰かが、「ギャッ!」と声をあげた途端、全員が一目散に逃げ出して、転げるように階段を下りたことがあった。それ以来、2階には誰も行っていない。
風呂は五右衛門風呂をガスにしたもので、トイレは長い廊下の突き当たりにある汲み取り式。
歴史ある家らしく怪奇談も豊富で、長槍がかけてある欄間の染みは人魂がぶつかった跡だとか聞かせられたりするなど、いとこ連中含め、昼夜問わず、そのトイレに行くのもおっかなくてしょうがなかったのだ。
古い木造ならではのことだが、しょっちゅう、どこかかしこでギシギシと家鳴りがしていて、夜中目が覚めた僕は、おしっこに行きたくても布団から出られなくなり、母を起こすことが度々あった。

今回ご紹介するのは、そこから程近いところに嫁いでいった、母の2つ上の姉である、おばちゃんとのお話。
城下町だけあって割りと賑やかな界隈の母の在家から、更に山奥へと進み、険しい峠を上った中腹辺りにおばちゃんの家はあった。広大なぶどう園とリンゴ園を経営し、おじちゃんは農協に勤める、いわゆる兼業農家だ。
ゆっくりとした信州弁が特徴で、独特のイントネーションと語尾にくっついてくる『ずら』がおかしくて、僕と妹は、いつも笑ってしまうのだった。
高校生になるお兄ちゃんと中学生のお姉ちゃんがいて、どちらもとびきりに優しく、いとこ達の中でも僕の一番のお気に入りだ。
価値観も話題も全然違う、小学生の遊びたい盛りの僕と妹の相手を根気よくしてくれ、虫捕りや花火、盆踊りに川遊びととにかく色々なところに連れて行ったくれたのだ。
夜は夜で、零れ落ちてくるほどの大パノラマが広がる満点の星空を、農道に寝転がって見るのがなにより楽しかった。

さて、そのおばちゃんだが、いつも底抜けに陽気ながら、時々、おそろしいことを口走ることでも親戚の間では有名だった。
この前は、「瘡蓋だらけの半裸のおばあさんが、戸口に味噌をつけて回っていてさ、味噌がついていた家では、必ず不幸が来るんだとよ。」とか、
突然、ガラス戸のところを指差し、「あそこを今、おっかないもんが横切ってるから、お前ら見たらなんねぇぞ。」とか、そんなことを食事中に何の気なしに話し出すもんだから、僕と妹はおろか、いとこのお兄ちゃんたちも
「ちょっと、お母さん、ほら、皆、怖がってるから止めてよ。」と身震いしてしまうのだ。

そして、忘れ得ぬ恐怖の一夜は、僕が小学5年生の時、東京から来ていた別のいとこ達と、母の在家に集合した後、このおばちゃんの家に泊まりに行ったときに起きたのだった。

(続く)


午後のカリキュラムの、特別講師として招かれた、インドから一時帰国している支社長の講話は、現地での失敗談を踏まえた興味深いもので、会議室は、大きな笑い声に包まれていた。

例えば、「よく現地の水に慣れろといいますが、中国、フィリピンなど渡り歩いた私の経験では、大体、6回お腹をこわせば、大抵の水は飲めるようになります。そこで、インドに赴任したての時、都合6度目の下痢が治ったので、ガンジス川の川岸まで降りていったんですよ。で、洗濯とかしている横で、思い切って、手にすくってみたら、隣のおばちゃんが突然、パンツを下ろして、川の中に入って行くんです。その時、僕は思いました。この聖なる川で7度目の下痢になったら、恐らく、あちら川岸で火葬され、本当の意味で、現地の水になれるんだと。」だとか、

「皆さん、現地の言葉を覚えるのは、語学学校に通ったり、現地人の友人を作るのも近道かもしれませんが、なんと言っても唾液が一番です。」など、かなり際どい自身の経験談まで暴露し、その度に喝采を浴びていた。


研修が終わった、その夕方、断る言い訳を用意していた僕を尻目に、「じゃあ。お疲れ。」とあっさり先に帰る彼女を見送り、地下鉄を乗り継いで2つ先にある創作居酒屋へと向かった。

すでに、座敷には、受付のミサちゃんの他、可愛いい3人の女の子が座って待っていた。

一目見て、全員のレベルの高さに驚いたが、肝心なヤロウ連中の姿が一人も居ない。

「あれ?アキヒコ達は?」

靴を脱いで座敷に上がりながら、ミサちゃんに尋ねてみると、

「なんかお客さん所から戻る途中で渋滞だったみたいで、遅れるみたいです。」とのこと。

丁度、その時、アキヒコから、15分遅れるとのメールが入ってきたのと同時に、ミナトとシステム開発の先輩社員が店の扉をくぐってやってくるのが見えた。

ミサちゃんとマキちゃんは僕らと同じ会社でアキヒコ達と同い年、後の二人は、短大時代の友達だという。この中でも、新入社員の僕が一番年上だ。

アキヒコも予定より早く合流することができ、8人が揃ったところで、コンパが始まった。


ミサちゃんは受付ですれ違う程度、マキちゃんは全く連携のない部署だったため、顔と名前は知っている程度と、こんな時でもないと、なかなか話が出来るチャンスはない。

特にミサちゃんは、落ち着いた対応と女子アナのようなお嬢様然としたルックスで、来客からの人気も高い。

アキヒコ情報だと、相当遊んでいるとのことなのだが、ソースはBUBUKAよりも適当だろう。

そのミサちゃんと仕事のことや休日何しているとか、差しさわりのない会話をしている横で、アキヒコとミナト、そしてもう一人は、マキちゃんたちをがっちり囲い込んでいた。

そう言えば、ミサちゃんには彼氏がいて、アキヒコ達はとっくに玉砕したと昼飯の時に聞いていた。


なかなか会話が盛り上がらず、退屈そうなミサちゃんに、申し訳ない気持ちでウーロンハイを傾けていると、突如、ミサちゃんが顔を近づけ、目をキラキラさせながら、
Vさん、昨日、主任の車に乗ってましたよね。」と意味深な笑みを浮かべていたのだった。
「あ、うん、乗せてもらったけど、駅まで送ってくれただけだから。」
完全に油断していた。あれだけの社員が居れば、会社周辺のどこに目があってもおかしくはない。こういう時のテンプレートを用意しておかなかったがために、ぎこちなくなる僕の態度に、ミサちゃんの好奇と嫌疑がない混ぜになった視線が突き刺さってくる。

「一回だけじゃないですよね。」

「たまたま、仕事の相談をしていたとか、そんな感じ。」

と言いながら、オシボリでテーブルを無意識に拭いてしまうという明らかなストレス行動を取ってしまった。

ミサちゃんは黙ってビールを傾けると、

「今日の研修に来ていたインドの支社長、奥さん、インドの方なんですよ。」と僕の動揺を黙認しつつ、それが意味することを黙殺してくれた。


僕とミサちゃんを除く6人は2次会のカラオケに向かった。

地下鉄までの道すがら、ミサちゃんと僕は、帰り際に携帯番号とアドレスを交換した。

そして、今度、会社以外の人とコンパをして欲しいと、ミサちゃんに頼まれたのだった。

「彼氏いるんじゃないの?」と聞くと、

「だってさ、ハムスターみたいに、同じ籠の中でしかツガイになれないって寂しくない?」

とミサちゃんはさばさばと答え、反対側のホームへへと降りていったのだった。


(続く)


昨日、ナオちゃんが無茶振りした営業研修は、本当に参加するとこになってしまった。

部長が許可したのであれば、上司である彼女の許可は必要ないながらも、朝一で報告してみた。

「ふ~ん。そんなとこ参加する必要あるの?」と昨日のベッドの上とは打って変わって皮肉たっぷりな彼女。

「勿論。現場を知らずして、管理部門は務まりませんから。」

「じゃあさ、転属願いでも出したら。」

そんなことが通れば、そもそも営業を希望していた僕にとって、まさに渡りに船だ。

「え?いいの、本当に??」上ずる声を抑えながら確認してみると、

「ま、私が許さないけどね。」

いつも理路整然としているはずなのに、言っている事が無茶苦茶だ。

「それはないんじゃないの。」

「転属したければ、どうぞご勝手に。但し、この会社じゃない部署にね。」

これは、いわゆるパワハラというやつなのだろうか。

だが、うちの会社のパワハラ&セクハラ対策委員長は、バーコード部長で、事務局長は彼女なのだ。もっとも不適任な人物を置くとは、会社はこの委員会を機能させる気は全くないというメッセージに違いない。
バーコード部長は一日外交で、次長は出向元の銀行に直行している。
おばちゃんが達の出勤時間まで、まだ1時間ほどあった。
平たく言えば、総務の部屋で、さっきから僕と彼女は二人きりだ。

それに、彼女が座っている位置が明らかにおかしい。

彼女が脚を揃えて腰掛けているのは、僕の膝の上なのだ。

「すいません、もうすぐ会議室に行かなくてはならないので、どいてもらえますか。」

こんなところ、誰かに見られでもしたら、堪ったもんじゃない。

「やーだ。」と彼女。

「降りて。」と言いつつも、やわらかいヒップの感触を楽しみ、太ももの上に置いた手がなかなか離せないでいる僕を、彼女は完全に見透かしていた。

「そんなにナオちゃんのところ行きたいんだ。昨日も仲良くしてたしね。」

と言って、ようやく彼女は自分の椅子へと体を移した。

「だから、ナオちゃんとかじゃなくて、後学のためだってば。」

「ふ~ん、で、また鼻の下伸ばすんだよね~どうぞ、いってらっしゃい。」

と、どこまでも人を喰った態度の彼女に、後にしようと思っていたことをぶつけることにした。

「あのね、昨日さ、『今の誰?』って電話に声が入って、大変だったんだから。」

「やだ、あれ聞こえちゃったんだ、ほんと、ごめんね。」

一応、申し訳なさそうな顔を作ってはいるが、目がかすかに笑っている。

やっぱりだ。わざとやったと伝えてきたのも同然だった。


「時間だから行くね。」

僕は席を立ち、研修会場へと向かった。

以前の彼女ならこんなことするはずもなかった。

会社では敬語を要求し、徹底して、上司と部下の壁を作っては、僕との親和性を遮断していたのだ。あの夜以来、どうも彼女の箍が外れかかっているような気がしてならなかった。


研修のカリキュラムは、総合商社らしく、海外取引の基礎知識と取り扱い部材、そして武器輸出に関するキャッチオール規制やワッセナー条約、知っているようで実は良く分かっていないワシントン条約などの留意すべき国際取引やカントリーリスクなどなど基礎的かつ実務的な内容のもので、僕は夢中になってメモを取っていた。


昼休みの間に、総務に戻ると、珍しく銀行OBの次長とおばちゃんの一人が弁当を広げているところだった。彼女は食堂に行っているとのこと。

V君、研修どう?」とおばちゃん。

「ええ、おもしろいですよ。勉強になります。」と言い残し、僕は食堂へと向かった。


人の列が伸びた食券機に並びながら、彼女を探すも、混雑する広い食堂の中では、そうそう簡単に見つけることが出来ない。

待つこと5分、ようやくBランチを受け取り、空席を探しつつ、隅か隅まで見渡しながらテーブルの隙間を縫っていると、5,6人とランチを囲んでいる彼女を見つけた。ナオちゃんも一緒だ。

彼女の目に前にいるアイビーカットの爽やかな人物は、30代半ばで部長同格の企画部主幹に上り詰めた社内の出世頭で、高そうなスーツとALDENの靴は、嫌味を通り越し、カリスマの一部として傅いている。

その隣は、僕の知らないイケメンが座り、彼女達と楽しそうに談笑していた。


「おい、V、いや、Vさん、こっちこっち。」

プレートを持ったままうろうろする僕を、研修で一緒だった、同期のアキヒコとミナトが僕を呼び止めた。アキヒコは営業部、ミナトはシステム開発に配属された、同期の中でも飛びぬけてチャラい二人だ。

「俺達も今から飯なんすよ。」

アキヒコはカツカレー、ミナトは焼きそばに、それぞれライスをつけたプレートを、目の前に並べたばかりだった。

「悪い、助かるわ。」

三人掛けの丸テーブルの丁度一人分だけ空いた席に、僕は腰掛け、Bランチの麻婆豆腐を口に運びながら、久しぶりにゆっくりと向かい合う同期達を観察した。

入社当初は浅黒かった顔は随分と人間の色へと戻り、ピアスの穴も塞がりつつある。二人とも、それなりに社会人としての自覚が出てきている感じがした。

おまけに、どこで聞いたのか、僕が年上と知ってから、いつの間にか敬語を使うようになっている。

「ちょっとVさん、見てくださいよ。こいつ、焼そばで白米食うなんて、大阪文化の解釈違ってますよね。」とアキヒコ。

「お前だって、カツカレーにライスって、どれだけ、でんぷん好きなんだよ。」とすかさず言い返すミナト。

「バカ、カツで飯食うんだよ。お前こそ、でんぷんだらけじゃねえかよ。薬品庫にあるヨウ素、あれ頭からぶっ掛けたら、お前ぜってぇ、アバターとか、X-MENのミスティークみてえになるって。」アキヒコも負けていない。

「うるせえ、死ねバカ。」

「お前こそ、死ねバカ。」

「あのさ、研修まであまり時間がないからさっさと飯食おうぜ。」

子供でもやらない低レベルな言い合いを仲裁すると、二人ともものすごい速さで、食事を終えてしまった。


「そうそう、Vさん、今夜、、、、あるんすけど、暇でしたらどっすか?」

「え、何?ごめん、聞こえなかった。」

つい、窓際で話しこむ彼女達を眺めている内に、ボーとしてしまい、話しかけてきたミナトに気が付かないでいた。

「いや、あの、今夜、受付のミサちゃんたちと合コンやるんですよ。男連中が少し足りないんで、急でなんですけど、出てもらえたらなって。」

「あ、ああ、いいよ。」

すると、アキヒコが僕の目線の先を察し、

「いいっすよね、ナオちゃん。あ~その隣のVさんとこの主任も捨てがたい。で、モテンすよね、あの男前の主幹。いいなぁ、絶対、どっちか食ってますよ。何年か前、主任とすっげえ仲良かったって話、聞きましたし。」

「ふ~ん、そうなんだ。」

所詮は噂話、なにより、その当事者はここにいる。

「時間と場所、今から送りますね。」

僕は、ミナトから合コン会場のWEBページを送ってもらうと、軽い優越感とともに空いた皿とプレートを返却口に戻して、研修会場へと戻ることにした。


(続く)

彼女の仕返しは、こうだ。

セント・ジョージで軽くお茶をした後、彼女の運転でガソリンスタンドに向かう途中、折悪く、僕の恋人から電話が掛って来た。

出るつもりはなかったのだが、うっかり通話ボタンを押してしまったのだ。

「ごめん。」と彼女に向かって手を合わせると、ツンと取り澄ました顔をしながらも、オーディオのボリュームを下げてくれた。

彼女も婚約者からたまに電話が入ることがあり、そんな時、僕は気配すら消している。要は、お互い様だ。

電話は、今度の土曜、どうするとか、別に大した用件ではなかった。

僕は、とにかく簡潔に電話を終わらせることに努めた。

「うん、今、会社の先輩の車で食事しに行くところ。また帰ったら電話するね。」

と、スマホを耳から話し、電話が切れたか切れないかのタイミングで、

「ねえ、今の誰?」と、彼女が顔を寄せて話し掛けてきたのだ。

唖然とする僕に、

「やだ、聞こえちゃったかな。ごめんね。」

と、取り繕うように両手を合わせて眉を寄せる彼女。

やられた、、、そう思った時には既に後の祭りだった。


ガソリンを入れ終わったセリカは、僕の運転で、彼女のリクエストどおり、再びそこに向かい、地下のスロープに車を止めた後、今度は少し高めの部屋をチョイスしてみた。

昨日の部屋とは打って変わって、アールデコ風な内装が高級感をかもし出している。

ベッドに押し倒すなり、スカートをたくし上げ、ストッキングを脱がせるのももどかしく、彼女の脚の付け根を強めに押してみると、薄布越しにじっとりと濡れた湿り気が伝わってきた。

隙間に指を差し入れ、少し口が開いたそこを撫でる様にまさぐった指先は、粘り気のある糸を引いている。

「早く、ねえ、脱がして。」と腰を浮かす彼女。

すでに硬く充血した芯を、昨日よりもずっと濃厚に攻め、彼女の細部までしっかりと観察し、さまざまなポーズで、あらゆるところに舌を這わせると、それに応えるかのように、彼女も可憐な唇で僕の先からあふれ出る乳白色のメレンゲを受け止めてくれた。

そのお返しとばかりに、僕は指を駆使し、彼女は、ついにシーツをベタベタにするまで激しく飛沫を上げたのだった。

その後、シャワーを浴びて、少し休憩をした後、彼女が僕の下腹部に顔をうずめ、そのお返しにと、彼女自身をたっぷりと喜ばせた。

今回は、さすがに中で出すことはなかったものの、オカモトを使うのを彼女は嫌がったし、僕もそれには賛成だった。

最初は入り口付近をゆっくりと出入りさせ、たちまち彼女の深部から溢れ出す温かいしたたりを感じながら、彼女の粘膜の中を思う存分かき回すと、

「だめ、お腹に響く。」と嬌声を上げる彼女を後ろ向きにし、奥に当たる感触を楽しみながら、飽きるほど腰を打ちつけた後、仰向けになった彼女の太ももの上で果てた。

行為が終わった後、僕はさりげなく彼女の両手首を確認してみた。

右手首は綺麗なまま、左手首には少なくとも3本の切り傷があったことを見て取れたのだった。

一体何のために、何がきっかけで、どうしてそうしようと思ったのか。

そもそも、それは自分でつけたものなのだろうか。

何度も喉まで出かかっては呑み込んできた疑問が、情事を終えた今、衝動となって猛烈に頭をもたげてきた。

僕の腕の中では、甘えるようにして体を丸める彼女がいる。

髪の分け目に、鼻を近づけ、すうっと軽く彼女の甘い匂いを吸い込むと、その衝動は幾分和らぎ、再び自分の中へと押し戻した。


その晩、僕のスマホには、ナオちゃんから1通、そして恋人からのメールが3通入っていた。

連日、彼女の求めに応じ、消耗しきった僕には、それを開けるだけのHPもなく、気だるい体をベッドに横たえた途端、泥のように眠り込んでしまった。


朝目覚めると、恋人からのメールはさらに3通増え、夜中の2時に着信が1件入っていたのだ。

メールの文面は、『お仕事お疲れ様。帰ったら、電話下さい。』から始まり、次のは『残業、お疲れ様。電話遅くなってもいいから待ってます。』で、そして、こう続いていったのだ。

『さっき近くにいた人は誰?』『どうして電話もメールもないの?』『本当に仕事?誰といるのか今すぐ教えて。』『私もそれなりの覚悟があるんだから。』と受信後、着信があった。

普段、割りとおっとりした性格で、メールもそれほど頻繁にしないタイプなのに、昨日、彼女が電話を切る間際にしでかした事を、何の申し開きも説明もなく、ここまで放置したため、疑心暗鬼を通り越してしまったのだ。

このままでは、安珍清姫にでもなりかねない。


取り合えずスーツに着替え、身支度を終えた駅までの僕は恋人に、

『会社の先輩の一人で、悪酔いしてたんだよ。本当にいい迷惑。』とメールを打ち、『そう、分かった。』と短い返事を受けって、なんとか乗り切ったと、この時は思っていたのだった。


ナオちゃんのメールには、

『昨日のちーちゃんのあんなとこ久しぶりに見て、びっくり。色々話したいこともあるから、またカラオケ行こうね。』と書かれてあった。

スマホをポケットに入れ、顔を上げた僕は、ラッシュでごった返す地下鉄の窓に映ったしまりのない顔が自分の顔だと分かるまで、少し時間を要したのだった。


(続く)

次の日も仕事が終わると、そこに向かっていた。

言い出したのはどちらでもなかったが、自然の成り行きでそうなってしまった。


僕自身、昨晩も、彼女の乱れた肢体を思い出し、なかなか寝付けなかったこともあって、姉が寝静まったのを確認してから、つい自分の右手のお世話になった。

それなのに、朝の外周掃除をしていると、セリカで通勤して来た、いつもどおりクールで隙のない彼女と挨拶を交わしただけで、たちまち僕のものは切なくなっていく。

仕事中も、つい、スーツのタイトスカートから浮き出る、細いながらも柔らかな太腿、小ぶりで張りのあるヒップラインに目が行ってしまうのだ。

気が付いたら、バーコード部長と同じ目線をしている自分がそこに居て、ハッとなったついでにメールを誤送信してしまった。


彼女の方はと言うと、まるで昨日のことなど蛍光灯を交換した程度にしか思っていないような、キビキビとした仕事ぶりで、仕事中は、ほとんど事務的なやり取りしかしていない上に、心なしか、僕を避けているようにも見えた。

隣のデスクにいる時も、メールや電話に没頭し、会話らしい会話もなく午前中が過ぎていった。


人事異動、予算編成、株主総会といった主要行事が終わり、まったりとした時間が流れる午後、おばちゃん達の雑談に相槌を入れつつ、銀行OBの次長が、珍しく日本経済について熱い自説を語りだして団塊Jr世代のバーコード部長と毒にも薬にもならないディベーティングが始まるなど、時間をもてあましながら、各自がルーティーン業務を漫然とこなしていると、おばちゃんの一人が、伊勢のお土産と言って持参した赤福を冷蔵庫から取り出し、おやつにしましょうと言い始めたのだ。

取引先から随分前に進呈された壁掛け時計の長針は3時近くを指している。

グループウェアを確認すると、彼女は、打ち合わせで商品企画のフロアに出向いていて、終了時刻は3時に登録されていたのだが、まだ席には戻っていなかった。

「ちーちゃんのは、こっちに除けとかないと。」と、人数分の小皿を並べ、赤福を取り分けるおばちゃん。


そこに、丁度、請求書の控えを持ちこんだナオちゃんが顔を出した。

すぐさま、「やだ、ナオちゃん、いい時に来たわね。」とおばちゃん達に捕まり、問答無用でおやつを振舞われることになってしまった。

「え~、太っちゃうじゃないですか。」

一応、断ってはいるみたいだったが、勧められるがままに赤福を受け取り、入れたてのお茶を持って、ウキウキしながら空いている彼女の席に腰掛けると、

V君、今仕事、絶対暇でしょ?」と、いたずらっぽく話し掛けてきた。

「いやいや、忙しいよ~印鑑漏れに付箋貼ったり、稟議のステータスを更新したり、給与計算の準備があったりさ、ま、ナオちゃんほどじゃないけど。」

「何それ、全然急いでないじゃん。」

涼しげに微笑み、アイラインで薄く縁取られた大きな瞳を細めるナオちゃんに、僕が好意を持たれているという事実と整形や不倫の秘密を知ってしまった罪悪感がない交ぜになり、

「そうだね。」と適当に相槌を打ち、目を逸らしてしまった。


だが、こうして、ナオちゃんと差し向かいで話が出来るのは、実にあの日以来だ。
切れ長の瞳と長い黒髪、そして長身とあって、近寄りがたい印象が強いナオちゃんだが、実のところ、かなりの癒し系キャラであることは、あまり知られてない。
僕自身、表裏のないナオちゃんとは、一緒にいるととても気が楽だということに、今更ながら気が付いてしまった。

それとは反対に、彼女と居る時には、常に、高揚感と表裏一体になった危うさと不安定さを感じていたのだ。スリルと言ってしまえば聞こえはいい。しかし、その代償として、僕は、底が見えない穴の中を自由落下しているような、自分一人の力では、どうにもならないところへと突き落とされていることを、後で嫌というほど知るのだった。


ナオちゃんとの久々の会話に、気持ちが弾み、二人で盛り上がっていると、

「なんだ、V、お前、暇なのか。よし、明日一日、オレに同行しろ。スケジュール、登録しておけよ、いいな。」

銀行OBの次長と金融緩和についてのネチっこい議論に飽きたバーコード部長のインターセプトが、僕とナオちゃんの間に割って入ってきた。

「ええ?そんな突然言われても。」と抵抗をしてみるも、

「上司の命令は、神の声と思え。」全く取り付く島のない。

と、ここで、

「部長、V君だって、予定があるんですから。」とのナオちゃんの援護射撃。

「何にも予定入ってないぞ。」ディスプレイを眺めながらぼやく部長

「明日、営業部の研修に出てもらおうと思っているんです。」とナオちゃん。

そんな研修予定、僕も初めて聞いた。完全にナオちゃんのアドリブだった。

「そうなのか?」

「すいません、事後報告ですが、宜しいでしょうか。現場を知らないと管理部門は務まりませんし。」と、さも申し訳なさそうな顔をして伝えると、

「むむむ、殊勝な心構えということか。分かった。その代わり、レポート出せよ。」

部長は、僕を同行させるのを諦め、しぶしぶ研修参加を認めたのだった。


と、そこへ、彼女が戻って来た。

お茶をすすりながら、芸能ネタで盛り上がるおばちゃんの一人が気付き、

「ちーちゃん、ほら、赤福食べなさい。」

と小皿を差し出し、それを受け取った彼女は、足早に給湯室へと消えていってしまった。

その時、僕が見た彼女は、セルロイド人形のように無機質で硬質な表情を浮かべていたのだ。

彼女は許しがたい何かを押し殺すために、背を向けたに違いない。

それは、自分の席にナオちゃんが居ること、僕とナオちゃんが仲良く話をしていること、そして、一番まずかったのは、ナオちゃんを見る僕の目が、彼女を見るそれと同じになっていることを、気取られてしまったことだった。


「ちーちゃん、コップでも取りに行ったのかね。」

おばちゃんの間延びした声が、弛緩した総務部の空気と、張り詰めた僕とナオちゃんとの余白を埋めていた。



「じゃあ、私、戻ります。ご馳走様でした。そうそう、V君、明日の研修10時からだから。」
ナオちゃんは立ち上がり、営業部へと戻っていった。
彼女はその5分後には着席し、PCに向かって一心不乱に仕事をこなしていた。
赤福の行方は、たまたま給湯室で出くわした常務の胃の中だそうだ。

『今日、夕方、ちょっといい?』

仕事が終わる間際、そう書かれた小さな紙片を彼女から受け取った。

『別にいいですよ。』とポストイットに書いて返すと、

『じゃあ、バチカンじゃなくて、もう少し南にあるセント・ジョージに18:30ね。』

彼女は、そう裏に書いて、僕のクリアファイルに貼り付けた。

セント・ジョージとは、シフォンケーキが美味しいと評判な洋菓子屋で、一見、こざっぱりしていて、洒落た感じの店内だったが、店の奥に福助と神棚があったりする。バチカンといい聖人の名を語る洋菓子屋といい、祀られた八百万の神様たちは、さぞかし窮屈な思いをしていることだろう。


仕事をしているうちに、僕の劣情はすっかり納まり、昨日のようなことは少しぐらい期待していたかもしれないが、彼女を見ただけで下腹部が切なくなる朝ほどではなかった。


そして、僕はこの日の夕方、セリカの車内で、彼女から仕返しを受けてしまうのだった。


(続く)


すると、トイレから戻った友人は、やけにテンション高く、話を続けた。

「あいつよお、誕生日でさ、前の嫁さんのガラケー使ってたみたいだから、帰りにスマホを買ってやってよ。高校受験の合格前祝いだから、合格しなかったら返しに来いって伝えて、だはははは。スゲー喜んでたわ。」

さっきとは打って変わって大げさに話し始め、

「でさ、あいつ、なんて言ったと思う?」

「大事します、山内さん、ありがとうございますだってよ。」と声を張り上げる友人。

「ふ~ん、礼儀正しいな。」

「あと、俺が再婚して子供が居ることも伝えたら、弟ができてうれしいだって。」

と威勢よくまくしたてる友人の、普段と様子が違うことにようやく気がついた。


「お前、これアルコール入ってんじゃ、、、」

「おい、聞けよ。本当に、なんにも言わねえんだよ、あのボウズ。

前の嫁さんが苦労してたことや、俺が死んだことになっていたことも。そりゃそうだよな、もともと俺は死んだ人間なんだし。

でもよ、全部自分で背負っちゃいましたみたいな一人前の顔してて、、まだ15歳のガキのくせにさ、実の父親に気ぃ遣いやがってよ。よそよそしいのも大概にしろってんだ。」

ここまで一気にしゃべり終えると、友人は唇を噛んで、俯いてしまった。


「おい、どうした?」

「俺は、ダメな男だ、、、、、、」

と、絞り出すように言った後、声を震わせ、

「あいつ、俺のことずっと、、、、山内さんって、名字で呼ぶんだぜ。」

「・・・・・」

「一度だけ、おとうさん、、って言い掛けて、必死に飲み込んじまってやんの。てめえのオヤジなのに。」

「うん。。。」
「どうして、お前の親父なんだし、呼んでもいいんだって言ってやれなかったんだろ、、本当にダメな男だ、俺は、、、ワリィ、ちょっと泣くわ、、、、ふ、、ぐぅううう、、」

メガネの縁に溜まっていた滂沱の涙が、ほほを伝い、顎の先からテーブルに落ちて、ぐっと握った両拳の間に小さな水面を作っていた。

「なんだ、似たもの同士じゃないか。そんなん口に出さなくったって、親子だよ。」とおしぼりを差し出す私に、

「・・・・そう、そうなんだけど・・・」と言った切り、客でごった返す店内の喧騒だけが、私と友人の間に流れていた。


しばらくして落ち着いた友人は、顔を上げ、またいつもの調子に戻っていた。

「あの日の夜、前の嫁から電話が掛ってきて、ま、スマホのお礼というより、文句みたいなもんだったけど。」

「ははは。勝手なことするなって?」

「ご明察。でよ、その日の夜に、あいつのスマホ勝手に見たんだとさ。そしたら、電話帳に登録されているのまだ2件しかなくて、嫁の携帯と、俺の番号な。」

「いくら母親でも、そらマナー違反だ。」

「そうだ。けどよ、電話帳に、なんて書いてあったと思う?」

「うん?」

「あのよ、お母さんとお父さんだってよ。」

「そうか、、、良かったな、、」

「ワリィ、俺、もう一回泣くぞ。」

「許す。許すけど、今すぐ、さっきのおしぼり返せ!」

といい年こいた大の大人が二人、しばしの間、仲良く顔におしぼりを当てた後、真っ赤にした目で会計をすませていたという。


別れ際、ツレから頼まれたのは、「俺とあいつのランクルの画像データ、送ってくれ。」とのこと。

きっと、息子にメールを出す為の口実にする気だ。

今まで頼まれなかったのが不思議なぐらいだったので、喜んで添付してやった。


あの日以来、2歳から止まっていた13年分の時間は、桜の蕾が薄桃色に膨らむ頃、再び、15歳の少年が、この駅のロータリーに胸を張って降り立つ日へと続いていく。

誇らしげな表情は父親へとまっすぐに向けられ、スマホと合格通知をその手にしっかりと握りしめて。


そして、今月に入り、気を揉んでいた矢先、ようやく彼から連絡が入ったので、鳥料理屋にて名古屋コーチンの鍋をつつきながら、その詳細を聞くことができた。


友人は、物語口調でこう語ってくれた。

「会う覚悟はできた。こうなったことを正直に話し、2、3発は殴られることも。

ただ、再婚し、今は、別の家庭を持っていることを伝えるべきか、迷っていた。自分の家族にも、この日のことを打ち明けるべきかどうか、考えれば考えるほど思考のループは終わらないんだよ。


この日を迎えるに当たって、俺がしたのは、

5年前から吸いだしたタバコをやめること。

15歳の少年が興味を持ちそうなことを調べること。

息子の今の姿をプロファイリングすること。

そして前妻とのことは、色々と言い分はあるにしろ、何があっても自分が悪いと言い切ると心に決めたことと、生まれて初めて、床屋ではなく美容院に行ったことだ。

結局、今の家族には言えずじまいだった。


そして迎えた当日。

田園風景がパノラマに広がる無人駅の小さなロータリーに、俺は居た。

刈り取りが終わった田んぼには、『はせ』と呼ばれる稲のやぐらがいくつも建てられ、晩秋の日差しは柔らかく、十数年前と変わらないこの光景を黄金色に染め上げている。

俺の横には息子と乗ったランクルはなく、数台の愛車を経て、今はレガシーが足代わりだ。

ポケットに手を入れ、木造の駅舎を見上げると、吐く息が目の前で白く煙っているのに気がつくのと同時に、やがて出会う息子の間に刻まれた、それぞれの知らない13年の歳月が突然、質量を伴って双肩にのしかかって来るのを感じた。


ほどなくして、田んぼの向こう側から順に踏切が鳴りだすのが聞こえた。

赤い2両編成の各駅停車が小さなホーム目一杯に停まり、ばらばらと何人かの人影がドアから出てきたのとあわせて、車掌が先頭車両付近に走って行き、切符を回収するのが見えた。

列車が動き出し、無人の改札を抜けた数人がロータリーへと降りて来ている。

俺はもう分かっていた。

ナップサックを背負ったナイロンジャンパー姿の少年がそうだと言うことを。

しかし、双肩に掛る13年の重みに、もし、彼が自分に気がつかなかったら、そのまま立ち去ろうという臆病風に吹かれていたのも事実だ。

だが、息子と俺はこの日、会う定めだった。

自分から声を掛けられないままの俺の前に、あのジャンパー姿の少年が歩み寄り、白い息を吐きながら、戸惑い気味にこう告げたのだ。

『あの、こんにちは。高志です。山内さんですか?』

『お、おう!久しぶりだな。それにしても、大きくなったなぁ、お前。』と言ったはいいものの、顔を直視できない。

『ここじゃなんだから、乗れよ。』とレガシーの助手席に少年を誘うと、予約してあった焼き肉店へと向かった。

車内では、ZIPFMの人気DJが、やけに発音のいい英語で日本人アイドルの曲を紹介していた。

『焼肉でいいか?』

『はい。焼肉好きです。』

店に到着までの間、親子の間に交わされたわずかな言葉の余白を、早口のDJがただ無機質に埋めていた。


炭火を囲んで、マジマジと見る15歳の息子は、それほど声変わりしておらず、髭もまばらな顔は、どちらかといえば前妻似だ。
 食事が進むにつれ、緊張が次第にほぐれて行くと、学校のことや友人のことなど、息子の口から少しずつ語られるようになった。
 極上の肉をたらふく食わせた後、喫茶店に異動して、1時間ぐらい話をし、駅まで送り届けた。」

「ふ~ん、それで?」と私が尋ねると、

「で、終わり。」とシレっとした顔で鳥鍋をつつく友人。

「え、、なに、それだけ?」

あまりにあっけない語り口に、思わずウーロン茶を置いて、聞き返してしまった。

「そう。で、あいつ、背は俺と同じぐらいなのに、白くてひょろひょろしているからさ、肉食えってどんどん皿に乗せてやったら、もくもくと食ってたよ。いや~うまかった、飛騨牛。」

「飛騨牛はいいんだけど、もっと話したいことあったんじゃないの?」

鍋から、くたくたに煮えた白菜をつまむと、たちまち煮崩れする。

「そうそう、中学の部活は俺と同じ軟式テニスで、生意気にも東海大会に出れるか出れないかぐらいのレベルでよ、高校なんてどこ受けるか聞いてびっくり。なんと旭丘高校だぞ、おい!!オツムの出来は俺に似てなくて良かったわ。」

「そりゃすげぇ。よくぞ、お前の遺伝子からって感じだけどさ、お前の息子の出来のいいのはおいといて、13年ぶりなんだろ?なんか、こう、バラ色の珍生みたいな、感動的なさ、、、」と急かす私に、少し考えたような顔をして、ノンアルコールビールを流し込んだ友人は、

「う~ん、、ま、殴られるかと思っていたら、それもなかったなぁ。」とあまりにもさばさばしていたので、

「俺が代わりに殴ってやってもいいんだけど。」

と取ってつけたように言ってはみたものの、私自身が、友人でもある親子の情をまさぐり、お涙頂戴話を期待していた自分の俗っぷりに嫌悪し始めていた。


「そう、思ったほどじゃなかった・・・」

友人は、誰に伝えるともなく、噛み締めるようにつぶやくと、トイレへと席を立った。

取り皿には、鍋から掬っただけの具が山なりに盛られ、白菜の隙間から覗くつくねは既に冷え切っている。

この話題は、これでお終いになるはずだった。

『友を選ばば書を読みて、六分(りくぶ)の侠気(きょうき)四分(しぶ)の熱』

とは、才人 与謝野鉄幹が作詩した『人恋ふる歌』の有名な一節。

旧三高(現京都大学)の寮歌としてしたしまれ、私がバンド活動に傾倒するのと比例して、二次曲線的に単位を落としまくり、仕送りを打ち切られた挙句、友人たちが卒業するのを見送る羽目になった、なんの思い入れもない母校、早稲田大学の応援歌にもアレンジされた明治30年の懐メロ。

 解説するまでもなく、友とするのは、まずは勤勉であることと、次に男気溢れ、そして情熱を以て行動できる人物を選びなさいと言う意味だ。


友人関係だけではなく家庭でも、また、ビジネスパートナーなど共通の利害を有するドライな間柄においてもこういう傑物であるのが望ましく、ことが大きくなればなるほど、その成否を握る重要な要素に違いない。


金木犀の香りに包まれた紅く色づいた街路樹の下を、愛犬と散歩がてら、この前、友人から持ちかけられた相談を思案している内に、この歌の一節を思い出してしまったのだ。


その相談事とは、5年前、しばらく行方不明になり、高山の訳あり温泉宿に住み込みで働いていた中学時代の友人と前妻との間にできた息子のこと。


その息子は、現在、15歳と思春期真っ只中。

本人同士にしか分からない事情があって、彼が2歳の時に離婚し、息子は前妻が引き取ったのだが、その時、子供が離婚したことを負い目に感じないようにと、

「お父さんは死んだ。」ことにしていたそうだ。

しかし、彼が10歳になったある日、友人宛に

「お父さん、生きているんだったら、お願いだから会いたい。」との手紙が届き、大いに悩んだ末に友人が出した結論は、返事はしない、つまり、自分が死んでいることを貫き通したのだった。


その後、毎年、息子の誕生日になると、

「お父さん、今日で11歳になりました。この前、野外学習に行ってきました、、、」との父親への感謝と近況が書かれた手紙が届くようになったとのこと。

既に再婚し、別の家庭を持つ友人の事情を、敏感に感じ取ったのか、『会いたい。』との言葉は10歳の時の手紙に一度書かれたきりという子供ながらの気遣いに泣かされてしまうが、15歳になる今年に限って、手紙が届いたのは、誕生日の1ヶ月前のこと。


 友人は不思議に思いつつ便箋を開くと、そこには、

「お父さん、僕の誕生日に会いに行きます。」と並々ならぬ決意が込められた一文があったのだ。

自宅まで来ることと、来訪時間と自分の携帯番号が添えられていたそうだ。

会えなかったら、そのまま帰るとも。


もはや隠し通せる訳もなく、前妻に連絡を取るも

「そんなこと私にはなんにも相談なかったわ。もう、こうなったらあなたに任せる。」との丸投げ状態。

大きくなった息子に会いたいのは山々ながら、何を話していいのか全く見当がつかず、そうこうしている内に、どんどんその日が近づいてきて、思い余って私に相談を持ちかけてきたというのが事の次第だ。


この友人は、かつてトラブルに巻き込まれた私を精神的かつ物理的に救い出してくれた、

『友を選ばば書を読みて、六分の侠気 四分の熱』の人物。


高山に出奔した時、何の力にもなれなかったのと、弱音はめったに吐かない男だからこそ、この相談事にはなんとかサポートしたいと思いつつも、エールを送ることしかできない無力な私に、

「話を聞いてくれただけでも気が楽になった。ま、1、2発は殴られるわな。」とあっけらかんと笑う友人。


当時、この友人が乗っていたランドクルーザーは、当時、2歳だった彼の息子も大好きだったクルマ。

ちょっとした誕生日の演出になればと、離婚したために渡せずじまいだった友人とその息子、そしてランドクルーザー一緒に写っている画像データを、この週末に渡しに行くべくプリントアウトしておいた。


感動の対面になるかどうかは天に任せるとして、ランクルの横に立ち、満面の笑顔でピースする2歳の彼が、15歳となった今、誕生日プレゼント片手に許しを乞うであろう友を前に、恐らく、この時と変わらないくちゃくちゃな笑顔を向け、何度も手紙に書いた

「お父さん。」という言葉を13年越しに口にする姿を思うと、鼻の奥がツンとなり、フォトシートの中のランクルが滲んで見えてくるのだった。