ずいぶん前に、メモっていた文です。

誰が書いたか探したのですが見つかりませんでした。

 

★★★
なんて私は幸せなんだろう。 
きれいなものをきれいと言う人は、きれい。 


心が汚い人に対して、汚いと思う自分は汚い。
心が汚い人は、愛されず褒められすぎた。それが自分だと気がつく。


人の悪口を言う人は自分が言われ続けた言葉を言っているだけ。
じゃあ、その人を私が褒めてあげればいい。


その人の中にあるきれいな言葉を私が増やせば、

自然ときれいな言葉を使う事が増えて、
その人は幸せになるし、私がその人に対しても憎悪を抱く事がなくなるから
私も幸せになる。  

あなた自身が幸せでなければ、他の誰かを幸せにすることはできない。 
しかし誰かを幸せにするのは、あなたの仕事ではない。 
他人に善意を持ちながら、自分の為に生きよう。 

理由のある幸せは伝統的なスピリチュアルでは、惨めさが形を変えたものであると言われる。理由は、一時的なもので、いつか無くなるのだから。


本当の幸せとは、いわゆる満ち足りた感覚であり、喜び、静寂、平和だ。

足るを知るものは富む 老子 

 (足を知っている人は、たとえ貧しかったとしても精神的には豊かで幸福である) 

 

全文。 

人を知るものは智なり、自らを知るものは明なり、人に勝つものは力あり、自ら勝つものは強し。足るを知るものは富み、強めて行うものは志有り、其の所を失わざる者は久し、死して而も滅びざる者は寿し(命ながし)。 

 

意味:

他人を理解することは普通の知恵の働きだが、自分を理解することは、優れた知恵の働きが必要である。

力がある者は他人に勝てるが、本当の強さがある者は自分自身に勝つ。

満足することを知っている者は心が豊かであり、更に努力を続ける者は、すでに志がある。

自分の本来の在り方を見失なわない者は長生きする。死んでも尚、本来の自分を忘れない者が本当の長寿である。 

 

まとめ:

今の自分に満足をし、その上努力もすることも大事。それには本当の自分を知り、自分は何をしたいのか、何があれば幸せなのかをきちんと整理しておくことが必要となる。 

『感謝』という字を見ていて、感じて謝るのが、なぜ『ありがとう』という意味になるのかと思い、ネットとで調べてみました。

続いて、『ありがとう』って言葉もどういう意味?と思って調べてみました。

 

★★★

感謝 

「感」という漢字の意味は深く心が動くこと。物事に接して生ずる心の動きを表している。 

「謝」という漢字の意味は「言う」と「射る」に分けられ、射るは矢を放つという意味で、その結果、弓の緊張を取る事。つまり「謝」には、言葉に出すことによって、心の緊張が解けるという意味が隠されている。

感謝の二つを組み合わせると、相手に対して心が深く動いたときに、言葉を出すことによってお互いの緊張が解けるという意味になる。

だから感謝を伝えるのは、『ありがとう』と言う言葉だけでなく、『お疲れ様』などねぎらう言葉、『よくやってくれた』などの褒める言葉でも相手に感謝を伝えていることになる。 

 

有難う (ありがとう)

元々神を称賛する言葉として使われていた。普通に有る事でなく、神が何かをしてくれたと感じた時に、有ることが難しいという言葉の組み合わせで、有難うになった。

仏教の有難し(ありがたし) 「貴重であって手に入れるのが難しい」からきていて、仏教では人間に生まれる難しさや命の大切さに、感謝を表すときに使われるようになった。  

ありがとうの反対の意味の言葉は、当たり前(当然の事、そうあるべき事)。

 

 ちなみに以下は、Chat GPTの答えの中で気にいった部分。
「感謝」は、人間関係の中で非常に重要な言葉であり、相手に対する感謝の気持ちは、お互いの信頼関係や絆を深めることにつながります。また、感謝の気持ちを忘れずに持つことは、自分自身の心の健康にも良い影響を与えます。

 

そういえば、私の母は、『ありがとう』と言うかわりに、『ごめんなさい』と使うことが多い。そのたびに母に『ありがとう』って言えば?て言ってしまう。

 

 

 

 

 

自尊心や自負心というものが世間では残念ながらずいぶん売り込まれている。 
自尊心とは常に誰かより少し上でありたいと思うこと。残念な事に私たちの教育制度は、幼稚園からこのように作られている。

自尊心とは常に誰かより、上でありたい、1番になりたいと思う事。そうすると幸せを感じるのは他の皆があなたより劣っている時だけだということになる。いったいどんな人生なんだ。なぜこのような仕組みの中で生きるのか?
皆の不調によって素晴らしい気分になれるなんて。それは不健全だと思う。あなた方は皆が上手くいかなければ、私が一番だから素晴らしい気分になるのだ。これは変えるべきだ。

みな幼い頃から「一番になりなさい」と刷り込まれている。これが他の生き物だったらどうだろうか。植物や虫、動物などだったら。アリが像になりたくてもなれない。
私たちは上等なもの、下等なもの、上下関係を刷り込まれ、人生の様々な側面に注意を払う機会を逃してきた。

バッタなどの小さい虫でもよく見ると人間と同じぐらい細かい配慮が施されているのがわかる。創造の源は、アリにも人間にも平等に気を配って創っている。アリは下等な生物で人間は高等な存在だと思うのは思い上がりだろう。なぜそのように判断するのか?創造の源はそんな事は決めていない。

この地球を我が物顔で闊歩する人間が優れていると思うかもしれないが、それは間違えだ。
現実はこうだ。今この地球からミミズが全くいなくなったら、12か月から18か月で地球上の全ての生命が絶えるだろう。でももし人類が皆死んだら、地球は栄えるだろう。私たちは、いい肥料になるだろうから。

だから人類が最も尊い存在だと言えない。人間が宇宙の中心であるという発想は愚かな考えだ。宇宙では太陽系さえも小さな点に過ぎない。そして地球は更に小さい粒だ。しかしそこには自尊心が強いとても大きな人間が生きている。

人はこの自尊心の問題を抱えたまま生きている。実際ほとんどの人に当てはまることだ。思考過程や感情が上手く扱えない状態に自分自身を置いている。それだけなのだ。
50歳、60歳になっても自分の考えや感情をどう処理したらいいか未だにわからない。これは基本的な能力だ。いったい何歳になったら、思考と感情の使い方を習得するのだ?
20代で、指がうまく使えなければ障害者と言われる。いくつになっても思考や感情が上手く扱えなかったら、それも障害者ではないか?
思考や感情を上手く使えないのは、あなたが物事を不必要に分けて考えるからだ。人間の頭の中にのみ存在する仕切りだ。

子供達には、何事も見上げず、何事も見下げないようにと教育するといい。
ありのままの物を見れば大きな価値が生まれる。何事もありのままにとらえれば全ての物に計り知れない価値があると分かる。誰にでも自分の生きる場所と人生の価値があるだろう。

全ての生き物には、価値がある。私たちはそのことに気づかない為、この世でどれだけのものを破壊してきたのか。単に、これは大切で、これは無価値だと決めるからだ。この世に価値のない物は無い。すべての物に価値がある。

あなたにはそれが見えていないかもしれない。だから自分対自分以外の世界と自分を追い込み悲しい意味での競争に陥らないようにするといい。
もし、あなたが地球上で一番だったら、地球は最悪の場所だろう。皆が下で自分だけ上にいる。居心地がいいか?

人より秀でようとする姿勢は改めるべきだ。人生は競争でもレースでもない。人間として生まれてきた事は人類に与えられた非常に大きな特権だ。それはこの地球上のどの生物よりも大きい規模で人生を経験できることを意味する。それが人間の素晴らしさだ。


アリやバッタや他の生物が経験する生涯よりもっと鮮やかに人生を経験することが可能なのだ。自尊心は必要がない。

 

参照 サドグル