「自分が欲しくてたまらないもの」を持っている人が、恋の対象になり、

「自分の持っているものを全て与えたい」と思える人が愛の対象になる。

従って、欲しいものをそれなりに手に入れたり、全ては手に入らないと、悟った人ほど恋をしなくなり、内側に蓄えが多い人ほど愛が増える

 

★★★

ずいぶん長い間「恋」などしていないので、忘れていたが恋とはこんな感じだった感じがする。

恋に比べて「愛」は深い。内面的な蓄えや感情的なつながりはとても大切だ。

 

私の不注意で、身内に大怪我をさせてしまい、食べられず、寝れず、心身ともにボロボロになってきている。ネットで「事故の加害者の気持ちの持ち方」などを検索したが、情報が少ない。

 

一般的に、被害者の気持ちに焦点を当てたものが多いが、不慮の事故の場合は、加害者もダメージがある。

 

仏教の修行に、「常に喜びだけを育む」という教えがある。

喜びには理由がある喜びと理由のない喜びがある。大抵喜びには理由がある。

しかし理由のない喜びは、自分がどんな状況であっても、いつも笑顔でいる、人を先に笑わせる。無理矢理に笑うだけで変化が起きる。心に喜びを持つことで、怒りや心配が薄れ、心の状態が良くなる。心を修練し、煩悩を除去し、いかなる苦難も乗り越える。

さまざまな、苦しみに陥っても、落ち込まず、喜んで立ち向かう。逆境は祝福であり、心が鍛えられ、自分を鍛え、魂を成長させるチャンスである。苦しみを喜びに変えられる。

 

私が落ち込んでいて、「私が悪い、私のせいだ。私は本当に馬鹿だ」と泣き叫んで言い続けたところで、周りの状況が変わらない。それどころか、周りの人を心配させて、場が暗くなる。

こんな状況で笑っていいものかと思うが、仏教の修行にも、記されているのだから、「私は常に喜びを育む」。そしてこの苦悩が、なぜ私に起きたのか、考えていきたいと思う。

そして、今後は、仏教の最大の教え「菩提心(自分だけでなく、他人の為に生きる)」で生活していく事を心がける。

一昨日のブログで書いたが、私が原因で家族に大怪我をさせてしまった。

それを周りに話せば、皆、私に温かい言葉をかけてくれる。

それは私を癒やしてくれるが、怪我をした本人の癒やしにはなっていない。

 

私は、断食に興味があり、日曜日に森美智代さんの「霊性を高める少食法」という本を購入していた。

中身を数ページ読んだだけだったが、ヒーリングが方法が書いていたのを思い出し、それを実行した。

 

それは40分合掌業というものだ。やり方は。

  1. 足は、素足になり、正座または椅子に座って両足を重ねるようにする。
  2. 手は合掌して、指も手のひらもぴったりとくっつくようにする。
  3. 手は、頭の高さより上にして、重くなっててが落ちてきても、肘が肩の高さより落ちてはいけない。手が重くなったら、頭の上においても大丈夫。
  4. 40分間の合掌の間は、般若心経や祝詞、主への祈り、世界平和の祈りなどを唱えると良い。とにかく悪いことを思わないようにする。

ただ、これだけだ。これをやると手を使ったヒーリング効果が表れる。

早速、始めた。40分の合掌は思ったより辛い。腕がすぐに痛くなる。

でもこの痛みなど、大怪我をした者の痛みに比べたら、些細な事だろう。

40分合掌業中は、小林正観さんや斉藤一人さんのおすすめの言葉「ありがとう」を唱えていた。終わった時は、身体中が熱くなり、少しだけ涙が出た。

 

お見舞いができたら、すぐにヒーリングをする予定だ。

 

 

昨日、私の不注意で親族に大怪我を負わせてしまった。

結果は、命に別状はないとはいえ、後悔の念に駆られている。

生まれてこれ以上の後悔をしたことがない。

 

なぜ、こんな事が起きたのだろう。

私は、思考、言葉、行動が日常に起こるものだと思っている。

この出来事を通じて、自分の行動や考え方について考えている。

 

先週から、なんとなく嫌な事を頼まれて、どうにか逃れようとしていた。

今、自分の心が狭いと感じるほど嫌な気持ちになった。

 

私は飽きやすく、なんでも中途半端、浅はかで、奥深さがない。

 

昨日、家に帰り一人になった時に、今月の予定のキャンセルの連絡を入れた。

友人達と電話で話し、みんな本当に心が優しく、この言葉は普段使う事がないが、愛に溢れている。

こんな私でも、友人は皆、素晴らしく、今回のことで支えてもらい、感謝の言葉以外ない。

友人がこんなに大切で、無くてはならない者だと知った。

 

今回のことで、自分を更に見直すきっかけとなった。

起きた事は、なくならない。自分が責任を取らないといけない。

 

 

 

 

 

聖書を読んでいると神の言いたい事はわかるが、「意義あり!」と思うものが沢山ある。

このマタイ20章の「ブドウ園の労働者達」もそのひとつだ。

 

この例え話は、ブドウ園の雇主が、一日中働いた労働者と数時間しか働いていない労働者に同じ報酬を与えるという話が描かれている。一日中働いた労働者たちは不満を抱くが、雇主は、事前に個々に約束をした通りの報酬を与えたと反論する。

 

この話の要点は、神は、長年の信仰者でも、最近、神を信じた者にも同じ恵みを与えるという、寛大さを表している。

人は大抵、報酬は、働いた時間や労力に基づいて与えられるべきだと思っている。

私達は、他人との比較、不満や嫉妬するのを避け、寛容になり、与えられた報酬に感謝しよう。

 

寛容になることは、自分の心を開くことであり、自分が抱える価値観や偏見を超える事。言うのは易し行うのは難し。