ずいぶん前に、メモっていた文です。

誰が書いたか探したのですが見つかりませんでした。

 

★★★
なんて私は幸せなんだろう。 
きれいなものをきれいと言う人は、きれい。 


心が汚い人に対して、汚いと思う自分は汚い。
心が汚い人は、愛されず褒められすぎた。それが自分だと気がつく。


人の悪口を言う人は自分が言われ続けた言葉を言っているだけ。
じゃあ、その人を私が褒めてあげればいい。


その人の中にあるきれいな言葉を私が増やせば、

自然ときれいな言葉を使う事が増えて、
その人は幸せになるし、私がその人に対しても憎悪を抱く事がなくなるから
私も幸せになる。  

般若心経は、正式には、般若波羅蜜多心経という。

西遊記の蔵法師(玄奘)がインドから持ち帰たとされている。サンスクリット語で書かれた大般若心経600巻を漢語に訳し、それをわずか300字弱にしたのが、般若心経だ。
般若心経は、観音様が、“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をし、次の様に見極めたことが書いてある。


人は私や私の魂というものが存在すると思っているが、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)である。


そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもない。


だから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだ。

そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができた。

 

と言う所から始まる。(続きはそのうち書こうと思う)

★★★

お経というのは、いったい何だろう?と思って調べてみた。

今まで、何で興味がなかったんだろう?大変興味をそそる。

 

真言宗の開祖である弘法大師空海は承和2年3月21日(835年4月22日)に入定されたことから毎月21日は、私の先祖の墓があるお寺では写経の集いをしている。

 

私も軽い気持ちで、初めて参加してみた。

書き終わった後に、この写経は高野山の総本山に奉納されると言われた。

もっと上手になってから奉納してもらいたいが、一応提出しみた。

 

不幸とは感情だ。人間は不幸を考えるようにできている。
冬が来ると、大変だとか、食料がなくなったら大変だとか。

幸せとは意思。幸せとは、どうしても幸せに持っていくという意思。
ご飯が食べれて幸せだとか、朝起きれて幸せだとか。

感情的に生きるのが人間らしいと言うが、サルでも感情的に生きている。
人間だけに意志がある。

人は上機嫌で生きるとよい。不機嫌でいると周りに迷惑がかかる。
機嫌よくし続けるのは修行だ。この修行はすごく楽しい。
この世の最高のボランティアは機嫌を良くしている事。

機嫌は自分でとること。人に取らしてはいけない。
自分の機嫌ぐらい自分で取ること。
不機嫌なヤツには不機嫌な事がよく起きる。
普通のヤツには普通の事しか起きない。

自分の機嫌をいつも上機嫌に持っていくこと。
上機嫌のタネをまいていると上機嫌の奇跡が起きる。

幸せは黙っていてはだめ。幸せなら「幸せだね」と言葉にだす。
言霊。言葉に幸せが付いてくる。微笑む。
楽しいから笑うのでなく、笑うから幸せになる。
笑いながら、愛ある言葉を使う。

上機嫌も不機嫌も周りに伝わる。
上機嫌の修行をしてみよう、毎日が楽しくなる。
上機嫌で生活していると不機嫌になる時間がもったいなくなる。

 

★★★

私のモットーは、上機嫌でいる事。

忘れがちになるが、一人さんの言葉を聞いて、思い出すことにしている。

『リンゴの心』木村 秋則, 荒 了寛 より

 

人に対しても、自然に対して心は必ず伝わる。だからどんな知識を学ぶよりも、どんなに素晴らしい技術を習得するよりも、まず自分の心を育てることが第一だ。 

私は「無い物ねだり」をするより「あるもの探し」をする人生の方がはるかに幸せだと思う。 

自分を取り巻く環境は何も変わっていないのに、大事なものを見失ってたことに気づいたり、当たり前に思っていたことに感謝の気持ちが湧いてきたりするからです。 

人生は苦難に満ち溢れているように見えるけど、反対に「本来はだれもが恵まれすぎる程、めぐまれた世界に生きているんだという前提に立って物事を考えて行けば私たちは必ず幸せになれる」ということだ。 

何か問題が生じても「仏様の眼でみたらどうなんだろう」と常に自分の心を見つめなおせばいいのですから。 

 

★★★

木村秋則さんは、ずいぶん前にりんごを初めて無農薬で育てた人だというのを聞いたことがあったが、書籍を読むと興味深い人で、何冊か読んでみた。
木村さんの考えの素晴らしさを忘れないように、メモを取りながら読んでいるが、彼の言葉全てがすばらしく、全ての言葉が心にしみる。

 

瞑想とは「する」ものでなく、それはひとつの「性質」であり、あるプロセスの結果として生じるだ。プロセスを始めたり行うことができても、「性質」を行う事はできない。性質はただの結果なのだ。

例えば、庭に花が欲しかったら、庭にすわって「花瞑想」を始めない。庭に花が欲しければ、花ではなく、土壌、肥料、水、日光の事を考えなければいけない。これらの要素を適切に安配すれば花の実は結果として現れる。

しかし現代社会は、非常に目標社会になってしまった。皆ゴールばかり見て、土壌の事には興味をもたず、ことさら肥料にも興味がないのに、花と実は欲しがるのだ。
<中略>

今日、多くの人は、物質主義、精神主義、感情主義であり、物質的な身体しか尊重しない。人生はこの様に成り下がった。誰かが「私の人生(ライフ)」と言うと自分の仕事の事を話し始めたり、国や世界の経済状況や、車や犬について、または妻や夫の事を話すかもしれない。

しかし、唯一本物の人生とは、あなたの中で躍動している生命(ライフ)に他ならない。それ以外の物は私達の人生をよりよく見せたいと言う飾りに過ぎない。教育、キャリア、人間関係、結婚、子供、財産など人々は様々な物を求め、それによって人生がよくなると思っている。しかしほとんどの人が良くなるどころか、これらの人生の飾りに縛られる羽目になっている。
<中略>

瞑想は一つの性質であり、「やる」ものでなく「なる」ものだ。身体、マインド、感情とエネルギーを育て一定のレベルまで成熟させれば、自然と一日中瞑想的でいられるだろう。瞑想とは「停止」ではない。目を閉じて、じっとしていなくても瞑想的であることができる。瞑想とはこの世界で必要とされることを何でもこなせる驚異的な能力だ。

瞑想をとても簡単に説明するとあなたがここに座り、身体がここにあり、マインドがそこにあり、本当の自分はこの物理的身体と精神的蓄積の二つの次元から少し離れた場所にいる。物理的身体と精神的蓄積から少し離れる事、それが苦しみの終わりであり、瞑想的であることなのだ。

 

 

 

★★★

瞑想は、「する」ものでなく、「なる」もの。

瞑想は、肉体と精神・思考から自分が少し離れている状態。

それが苦しの終わりで、瞑想でいられる。