瞑想とは「する」ものでなく、それはひとつの「性質」であり、あるプロセスの結果として生じるだ。プロセスを始めたり行うことができても、「性質」を行う事はできない。性質はただの結果なのだ。
例えば、庭に花が欲しかったら、庭にすわって「花瞑想」を始めない。庭に花が欲しければ、花ではなく、土壌、肥料、水、日光の事を考えなければいけない。これらの要素を適切に安配すれば花の実は結果として現れる。
しかし現代社会は、非常に目標社会になってしまった。皆ゴールばかり見て、土壌の事には興味をもたず、ことさら肥料にも興味がないのに、花と実は欲しがるのだ。
<中略>
今日、多くの人は、物質主義、精神主義、感情主義であり、物質的な身体しか尊重しない。人生はこの様に成り下がった。誰かが「私の人生(ライフ)」と言うと自分の仕事の事を話し始めたり、国や世界の経済状況や、車や犬について、または妻や夫の事を話すかもしれない。
しかし、唯一本物の人生とは、あなたの中で躍動している生命(ライフ)に他ならない。それ以外の物は私達の人生をよりよく見せたいと言う飾りに過ぎない。教育、キャリア、人間関係、結婚、子供、財産など人々は様々な物を求め、それによって人生がよくなると思っている。しかしほとんどの人が良くなるどころか、これらの人生の飾りに縛られる羽目になっている。
<中略>
瞑想は一つの性質であり、「やる」ものでなく「なる」ものだ。身体、マインド、感情とエネルギーを育て一定のレベルまで成熟させれば、自然と一日中瞑想的でいられるだろう。瞑想とは「停止」ではない。目を閉じて、じっとしていなくても瞑想的であることができる。瞑想とはこの世界で必要とされることを何でもこなせる驚異的な能力だ。
瞑想をとても簡単に説明するとあなたがここに座り、身体がここにあり、マインドがそこにあり、本当の自分はこの物理的身体と精神的蓄積の二つの次元から少し離れた場所にいる。物理的身体と精神的蓄積から少し離れる事、それが苦しみの終わりであり、瞑想的であることなのだ。
★★★
瞑想は、「する」ものでなく、「なる」もの。
瞑想は、肉体と精神・思考から自分が少し離れている状態。
それが苦しの終わりで、瞑想でいられる。