kyottides的 喜怒哀楽 -20ページ目

kyottides的 喜怒哀楽

一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 暑い時には熱いお茶を、というように、今日も暑苦しい選曲です。
 トム・ジョーンズは、60年代にものすごく人気がありました。アンディ・ウィリアムスのような上品な雰囲気ではなくて野性的なセックス・シンボル的な歌手でした。初来日の時の羽田(まだ成田はありませんでした)のニュースシーンが衝撃的でした。出迎えのファンの女の子たちを抱き寄せてはみんな唇キス!! 女の子を抱き寄せるたびに「あっ、このやろっ」「あ、ばかやろっ」「あぁぁぁ、ちくしょー」みたいな気分でした。男子中学生にとっては、あんなにもいとも簡単に女の子たちと唇キスをしちゃうエロオヤジは許せませんでした。

フニクリ・フニクラ Funiculì funiculà


TOM JONES LOVE ME TONIGHT


Ricky Martin Livin La Vida Loca


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 こんなに暑い日が続くと、いい加減、うんざりします。
 なので、暑さを吹き飛ばすために、暑苦しいロックンロールという趣向もいいかもしれません。今回は、ロックンロールの中でも古典的な三曲で、明るく愉快にはち切れよう、という曲です。
 ルシール(1957年)のリトル・リチャードもジョニー・B・グッド(1958年)のチャック・ベリーも今でも健在のようです。ギターを弾きながら踊り出すチャック・ベリーの姿はキャロルだった頃の矢沢永吉にも重なりませんか?

Bill Haley - Rock Around The Clock (1956)


Lucille♪


Johnny B. Goode - Chuck Berry


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 熱心に読んでいただいていると思う一人で、よく、コメントを下さる方の中にnekaさんという方がいます。彼女がくれたコメントに対して返信コメントを書くつもりで綴っているうちに、書きたいことが膨らんでしまいました。
 なので、記事にしました。以下、その内容です。
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 いつも、コメントをありがとうございます。

 今の時期のパリは、観光客だらけでしょうね。自分でも仕事以外で行ったのは8月の夏休みでした。
 エッフェル塔とか凱旋門とかルーブルの「モナリザの微笑み」の人だかりは、欧米各国はもとより、アジア、中東など(自分たち自身も含めて)おのぼりさんの外国人であふれ、どこもかしこも、みんな憧れのパリに興奮して嬉しそうで大の大人たちが大騒ぎでした。

 さて、資本主義という経済は、究極の物神崇拝社会と言われるように、「貨幣」が自ら増殖したがる意志を持った「資本」に化けて神として君臨するとともに、人間そのものを含めて人間に関係するあらゆるものを「商品」にしてしまう(大自然も宇宙もひとたび人間の手に触れればたちまち商品になってしまう)社会です。
 「資本」によって成り立っている企業である限り何が何でも「増益」でなければ敗北と没落に見舞われる社会ですから、その株主も経営陣も、自らの意志よりも、「神としての資本」に突き動かされて、立ち止まることなど許されない事態に追い込まれています。
 あらゆる人間もまた商品として価値を値踏みしたりされたり、また、その価値を高めるために突き動かされる社会です。

 同時にそれは、膨大な数の敗北者を生む社会でもあり、持てる者と持たざる者との対立が不可避な社会でもあり、やがてそれは、対決へと発展せざるをえない社会でもあります。その持たざる者の中から未来の社会の担い手が育つのだとして、労働者階級こそが「資本主義の墓掘り人」になると予見した人々がいました。
 そうした中から労働者階級の地位向上と権力を勝ち取ることをめざした運動が広がり、ヨーロッパ各地から集まった人々による国際労働者協会(第一インターナショナル)が生まれました。その創立宣言の起草を委託されたのが二人のドイツ人、哲学博士マルクスと工場経営者エンゲンルスであり、発表されたのが共著『共産党宣言』です。
 この19世紀当時の労働者階級と言えば、いまのホームレスさながらの生活水準で、紡績工場の跡取りだったエンゲルスが20代のはじめ頃にイギリスを訪問した際、衝撃を受けて書いた『イギリスにおける労働者階級の状態』では、家具も何もなく、また、トイレもなく、まるで馬小屋のようなところでベッドの代わりにわらを敷き詰めただけで寝泊まりしている労働者家族など悲惨な光景をレポートしています。
 国際労働者協会が生まれたのは、まさか、こんな牛馬のような生活を強いられたボロボロの人たちが革命勢力になるなどと、誰も想像していなかった時代のことでした。
 八時間労働制、週に一日の休日、年次有給休暇、など、労働者たちが人間らしさを取り戻す闘いは急速に世界に広まるとともに、資本にとっても労働者の質を高め生産の戦力とするという許容範囲で譲歩することとなり、政治的には選挙権も認めるようになるなど「市民社会」を標榜する建前上、労働者たちの要求を呑まざるを得ない事態も進みました。

 今の社会はどうかと言えば、こうした19世紀後半から20世紀初めにかけて巻き起こった資本主義大国での労働運動やロシアのような農奴制という奴隷制度同然の社会で起こった革命を彷彿させるように、現代は現代で新たな革命が広がり始めているように思います。これまではそれぞれの国内での権力闘争だったかもしれませんが、今は、「持てる者と持たざる者との闘い」が、国境を越えたスケールで起こり始めているように思うわけです。
 ただ違うのは、かつての労働者の闘いは、それぞれの国では未熟だったこともあって第一インターナショナルのような国際センターによる運動の支援や指導が求められましたが、いまは、そういう国際センターが存在しないことです。

 社会民主勢力のような資本との妥協勢力による「中道左派」的な社会主義インターナショナルという組織は今も存在し、日本の社民党もそのメンバーとして党首の福島瑞穂などは誇らしげにしていますが、彼らは、第一次世界大戦に際して「各国の労働者は自らの家族を愛するように愛国的であるべきだ」などと言って世界大戦を容認してしまい、組織を解体してしまったカウツキーの第二インターナショナルのような日和見主義者の後継にすぎません。(そんな日和見のカウツキーがリーダーになる前、日露戦争の際にはこの第二インターナショナルではロシアの革命家プレハーノフと日本の革命家・片山潜とが、演壇上で「お互い、労働者の党として、ともに戦争に反対しよう」と固い握手を結んだことで国際連帯の大きな感動を呼んだというのに、です。)
 ロシア革命のとき赤軍という革命勢力の軍隊を創設したトロツキーは亡命先のメキシコでスターリンの手の者に暗殺されましたが、そのトロツキーの「永世革命」「世界同時革命」を掲げる第四インターナショナルという組織も存在します。この「トロツキスト」は、オーストラリアなどのほかは、だいたいどこの国でも過激派として社会的には孤立しています。日本トロツキスト連盟も1950年代に生まれたものの、内部分裂を繰り返し、東大全共闘として名前を売った以後は、丸の内の三菱村(丸の内一帯が独占資本・三菱関係のビルが立ち並んでいることから「三菱村」と呼ばれます。)の爆破事件を起こした「反日武装戦線狼」やあの連合赤軍事件、よど号ハイジャック事件などを起こすに至り、完全にテロリスト化しました。(民主党の管直人は、この「よど号事件」関係者による組織と親密な関係だとして自民党内の右翼から攻撃されています。)
 第二、第四の間には第三インターナショナルがありました。これは、ロシア革命に勝利したレーニンの指導のもとで創設されたもので、コミンテルンと呼ばれました。アジア各国や中南米など多くの国々での共産党創設を支援した組織で、日本共産党も最初は「コミンテルン日本支部」でした。この第三インターナショナルは、第二次大戦後、スターリン亡き後、日本などの「自主独立」の主張に沿って、各国が対等な立場に立つべき時代になったとして解散しました。つまり、ソ連や中国が親分として振る舞うとしたら、それぞれの国の共産主義運動が中ソの手先のようになってしまうなどの弊害から抜け出すためでした。ソ連派にも中国派にもならずにアメリカとの戦争に勝ちぬいたベトナムでは日本共産党の「自主独立路線」が理論上の大きな励みになったし、日本のベトナム戦争反対闘争にも感謝しているとして、特に親日的な空気が強いことで有名です。

 労働者による革命を励まし合う国際センターが存在しない今、世界各国で起こっている労働者や失業者の闘いとか、市民の権利が押さえつけられてきた中東や北アフリカでの闘いとか、あるいはまた中国の民族闘争や外資系企業などの労働運動など、それぞれがバラバラのように見えますが、いずれは「持たざる者」たちの連帯と団結が広がることは、間違いないと思っています。たぶん10年20年30年というスパンでないとそういう兆しとか変化は見えてこないとは思いますが、それでも、資本に対する勤労者の闘いは、間違いなく前進するでしょう。

 どうなるのかと言えば、あくまでも一例にすぎませんが、まず例えるならば生活協同組合的な姿だろうと思っています。これまでの株主とは異なって、ユーザーがオーナーであり、そこに働く人々もまたオーナーであるような企業体によって支えられる社会ではないでしょうか。オーナー会の年次総会は、今までの株主総会のようなシャンシャン大会というわけにはいかなくなり、議論百出、言いたいこと言いたい人が次々登場して、もめにもめるような組織になるでしょう。それでも、民主化は後ずさりすることはなく、諸問題の解決はあくまでも民主的に、という気風が根付いていくことになると思うのです。
 町内会とか自治会とか、そういう運営をイメージすることも当たっているかもしれません。町のボスのような人が幅を利かせていたとしても、そのうち、誰もが対等な立場だと気づくことで、ボス支配がついえ去るほどの民主化。そういう民主社会のイメージです。
 ロシア革命に勝利した頃、レーニンの妻で教育学者としても有名だったクルプスカヤは、おばちゃんたちの井戸端会議を聞いて微笑んでいました。「これからはダンナの下働きみたいに言われる家事なんてやらない」と主婦たちが決議を挙げ、それぞれの家庭内でストライキを起こしたのでした。闘うカアチャンにひれ伏していくダンナたちとか漫才のような夫婦げんかになる姿に可笑しさをこらえきれなかったクルプスカヤですが、「これ(=こういう行きすぎ)もまた、民主主義の学校ですよね。みんな、そうやって民主主義を学んで行くのだと思っています」と喜んでいました。

 「誰もが笑って暮らせる世の中を」とは、NHKの大河ドラマでよく出てくる言葉です。『龍馬伝』の坂本竜馬や芸者のお元、いまの『江』での千利休など、重要な登場人物に語らせているセリフの一つです。
 マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』は、万人の自由な発展が社会の自由な発展にとっての条件となる社会、そういう社会をめざすと締めくくっています。
 「持てる者と持たざる者との闘い」を終結に導くような、格差社会を克服するような、そういう闘いこそが、人類にとっての最後の階級闘争になるでしょう。

 30年くらいかかる大変なことなのかもしれませんが、夜明けは近い、そう思うのです。

友よ / 岡林信康 / 高石友也


Joan Baez - We shall overcome


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 米・欧・日の三極の資本主義大国が揃って財政危機と金融不安に見舞われ、イギリスでは大学生や失業中の若者たちが暴徒化しているニュースが大きな関心と不安を広げています。きっかけとされているのがアメリカ経済の弱体化で、そのもとになったのが一昨年のリーマン・ショックによるバブル経済の崩壊とその後処理だったと言われています。
 1990年代の日本でのバブル経済崩壊の時も、アメリカのリーマン・ショックも不動産投資に持ち込まれた無理な仕組みが破綻したために巨大企業の倒産をはじめとした混乱が起こりました。ヨーロッパの経済危機はギリシャから表面化し始めた国債の乱発による無理がたたったものと言われますが、それが、経済格差のあるEU内での産業誘致や労働市場のコントロールの失敗が原因とされています。
 いずれにしても、資本主義経済の頂点に立つ国々での経済政策の失敗であり、それが様々な混乱という事態となって表に現れたわけです。米・欧・日のいずれもが、国債という国の借金を増やし続けてきたことでクビが回らなくなって財政政策が息詰まるという結果につながっています。

 しかし、その一方で、経済ニュースなどでは「チラっ」としか触れられることがないのが、これら大国の大企業や金融機関の「カネ余り現象」です。使い道に困ると言われるほど内部留保のカネをため込み、機関投資家として、そのカネを使って国債や株式などの金融商品の売買を行なうマネーゲーム=財テクに興じてきました。
 国債は、倒産という事態はあり得ないはずですから、投資すれば必ず回収でき、収益を上げられると見込まれていたのですが、ギリシャからスペイン、イタリアなどへと波紋を広げたように支払い不能の債権=紙切れになってしまうかもしれなくなり、遂には、日本の国債もアメリカの国債も、投資の安全性が疑われることになって、格付けが引き下げられてしまいました。このために、投機マネーが右往左往することとなり、株や通貨の乱高下が始まっているわけです。

 各国政府は、経済安定のためという名目で国債という借金を増やし続け、そのカネを使って再建、体力回復させてもらった大企業や金融機関はカネ余りと言われるほど潤沢なカネをため込むような利益をあげ、そのカネを使ってマネーゲームをしてきたけれど、その投機マネーが行き場を失ってしまった。
 これが、いまの資本主義大国の三極の現実です。通貨や株式の価格変動の大きさは、それだけ、マネーゲームの規模の大きさを表わしています。動くカネが大きいからこそ円高の変動ぶりも大きいわけです。日銀などが円安誘導のための相場介入を行なっても効果が出ないほどの大金が動いているわけです。

 簡単に言えば、アメリカでもヨーロッパでも、そして、日本でも、金融機関を中心とした大企業の経営失敗のツケを救済するために国債を大増発し、金融機関等が手に入れたそうしたカネは経営再建や業績回復の原資に回してきたのに、その恩恵は国家財政に回収されることはほとんどなく、経営基盤強化のためと称して内部留保となり、それぞれの企業が自由に使えることになり、その余ったカネがマネーゲームを演じてきたのです。
 この国債償還のための原資はどうやって集めるかと言えば、税金であることは言うまでもありません。

 資本主義経済の国々ですから、資本の競争は大企業ほど有利な恩恵が得られる仕組みになっています。その規模の大きさのために社会的影響が大きいから、という理由です。
 その資本主義経済は、実体経済を伴わない金融商品が主役を演じる時代、つまり、産業資本主義の時代から金融資本主義の時代に突入した頃から資本主義の成熟化と腐敗化が始まったと指摘されてきました。この経済構造の変質を最初に指摘したのがロシア革命のリーダーだったレーニンの『帝国主義論』でした。特に腐敗化の典型的な現象とされる一つが国家独占資本主義であり、巨大化した独占資本が、その利益のために国家権力をも自らの道具のように使う仕組みなのだと指摘したわけです。そういう国家独占資本主義が軍事力まで行使することになった事態を帝国主義と呼びました。もう、かれこれ100年にもなる昔の著作です。
 マルクスの『資本論』とレーニンの『帝国主義論』とは、資本主義経済の仕組みを看破した名著として双璧をなしているし、現代の経済学者でも、この二つの著作を論破できた者はいないと言われているほどの研究の深さと現代でも参考になる生命力を保ち続けていると思います。(世界で売れた『資本論』は『聖書』よりも販売実績が多いとも言われたほどでした。ソ連・東欧の崩壊以後はどうだか知りませんが。)
 ちなみに、マルクスもレーニンも、共に指摘していたのが「資本のひとり歩き」です。つまり、資本というカネが人間を支配するようになり、人間としての善悪の判断力など踏みつぶしてでも資本の増殖のために人間を駆り立てるようになる、と見抜いていました。これは、経済の問題であるとともに哲学の問題としても「人間疎外論」として、多くのテーマを提起してきました。哲学のテーマ、ということは、当然、教育学、心理学のテーマともなり、人文科学、社会科学全般に問題を提起することとなりました。たとえば、「競争」は人間にとっての宿命なのか、など。

 さて、少々、わき道にそれた感がありますが、
 今の財政危機・金融危機は、資本主義経済の社会にとっては、ある意味、当然の帰結のように思っています。
 ソ連型の「社会主義」「なるもの」が崩壊した頃、資本主義諸国の経済専門家の多くも「だからと言って資本主義が勝利したわけでもない」と言っていました。その予感が、20年近くたった今、現実の問題として行き当たったのだと言えます。

 そこで触れておきたいのは、日本でもそうですが、多くの国々では、共通して、経済危機のたびに国債への依存を高め、野放図なほど借金を膨らませてきたことです。その借金の返済は、国民の税金によって賄われることとなり、どの国でも消費税を膨らませ、社会保障費用や教育費用を様々な理由によって抑え込んできました。

 医療や高齢者福祉など、社会保障のための費用は、突発的に発生するものではありません。人口やその年齢構成、健康状態などから、時間をかけてじっくりと、その推移は把握でき予見も出来るものです。つまり、国家財政としては、何もあわてて対策を打たなければならない費用ではありません。教育費用にしても同じことです。
 日本の年金システムの担当組織の腐敗ぶりは予想外だったとしても、健康保険、年金制度ともに、実は、コツコツと真面目に払ってさえいれば、国民にとって問題はなかった仕組みのはずでした。それを「見直し」「改革」せざるを得なくなったのは、国の財政の借金が増えたからにほかなりません。初診料無料だったはずなのに3割負担が当たり前のような情けない健保になってしまったのも、まるで社会の高齢化が原因であるかのように言われるようになりましたが、実は、国の借金の肩代わりのために払わされることになったことに他なりません。(ついでに言えば、年金も健保も、労使の負担割合はずっと抑え込まれたまま、高い個人負担を強いられてきたのでした。)

 後先を考えず、なりふり構わずカネをかき集めなければならない事態というのは、経済の変動の上での突発事態以外にはありません。金融商品がリスクの大きなものになればなるほど、また、そういう商品が流通すればするほど、慌てる事態に直面することもまた、増えるのは当然でしょう。つまり、金融商品が複雑化すればするほど、事件・事故も増え、突発的にカネ集めが必要になる危険が増すわけです。
 「高齢化」だの「甘えの構造」だのと、国民が悪いような言い方をして国民の租税負担を増やすなど、政府も財界も厚かましい限りだと思います。

 だからこそ、民主党は、子育て、教育、医療にかかる国民負担を軽減することを公約に掲げたのであり、それで支持を集めたはずでした。でも、彼らは案の定、「耳触りのいいことを言って国民をごまかした理念なき野合集団」だったことをさらけ出しました。
 だからこそ、ギリシャの公務員や労働者たちは「財政危機をオレたのちせいにするな」と抗議に立ちあがりました。
 だからこそ、大学生の学費負担がこれまでの何倍にもなることに許せない学生たちの運動が巻き起こっていたし、今回の事件は失業青年たちが学生運動にも触発されつつも結局は暴徒化する事件となりました。
 (イギリスの青年たちが暴徒化したことは、当然だと思っています。ヨーロッパの中でも、最も保守的な国で、アメリカと同じように、まともな労働者政党がない国だからです。フランスやイタリア、スペインなどは、かつて、ユーロ・コミュニズムと呼ばれた共産党がナチスドイツのと戦いで最も英雄的だったと尊敬され、大きな支持を集めていましたが、ソ連の崩壊とともに、実はソ連からカネをもらっていたことがバレて、一挙に支持を失い自滅しました。それでも、共産主義者の運動は様々な形で再建過程にあり、労働者政党が一定の力を得ています。乱暴な事態には至らずに政治勢力としての結束のもとで権力との話し合いができるわけです。この点では、日本の共産党は、分派に走ったり除名されたりした一部の人間を除いて、組織的にはソ連のスパイではなかったし、むしろ、ソ連や中国の共産党とは一歩も引かない論争を繰り返し、彼らの手下になることはありませんでした。「自主独立路線」によって、資本主義大国では唯一、共産党として存続し続け、国会議席や市長・町長などいくつかの地方自治体の首長に当選するなど政治力を維持しているわけです。)

 ところで、イギリスの暴動について、日本のメディアもそうですが、ことさらに、犯罪者集団が糸を引いているかのような報道ぶりが見られます。こういう報道姿勢こそが、謀略なのだということを指摘しておきたいと思います。
 暴動が起きるような事態の中では、もちろん、火事場泥棒のような犯罪者集団が便乗することは、避けられないでしょう。しかしだからといって、そういう連中が黒幕であることはあり得ません。場合によっては、むしろ、政府のスパイ組織、謀略組織が泳がせたり挑発していることもあります。なぜなら、暴動という事態を、政府に対するまっとうな抗議であるよりも、犯罪者による無法行為であると印象づける効果があるからです。「ああ、あんなワルな連中のやってることか」と国民が納得すれば、弾圧するのも正当化でき、政府の支持が得られるわけです。
 権力に対する抗議というのは、いつの時代もどこの国でも、最初はそのように演出されてきたのでした。そういう演出が効果を失ったとき、エジプトなどのような事態に発展したのです。
 また、労働者政党が存在しない国では、社会への不満、政府に対する抗議は、暴動化しやすいのも歴史の教訓でしょう。これは、今のイギリスだけではなく、実は、革命政党の名を汚している「中国共産党」の国でも起こっていることです。日本には、まっとうな労働者政党が存在すること、これは、わが日本人民にとって、幸いなことだと言えると確信しています。

 さて、健保が弱体化して医療費が値上げされ、年金の存続が怪しくなり、教育費も育児費用も自己負担が増やされる事態となって、その上さらに消費税などの増税を強いられることも、「やむを得ない」と受け入れることができるでしょうか。コツコツと地道に運営されてきた国民の財産が食い物にされて、大衆課税が強化されて、それもこれも雪だるまのように膨らんできた国債を支える国家財政への「貢献」のためです。それに、国債は赤字国債ですから、将来の人々が様々な名目の税負担や社会保障の節約によって払わされる借金です。
 わずか10年の間に100兆円もの内部留保の増額を行ない、現在では250兆円という規模にまで膨らませるほどになった大企業が「繁栄」しているというのに。それも、日本の法人企業100万社のうちわずか1千社、つまり、日本の法人の0.1%もあるかどうかという少数の大企業だけが享受している恩恵のために。また、100万社のうち70%は大企業のような恩恵になど与る(あずかる)ことも出来ず、赤字経営に苦しんでいるというのに。
 3.11震災の前、民主党は経団連の要求に屈服して法人税率の引き下げまで方針に掲げていました。わたし自身は、あのバカどもがっ、という怒りでいっぱいでした。

 民主・自民・公明をはじめとした今の保守政党がいう「財政と社会保障の根本的改革」は、大企業優遇の諸制度を改革しない限り、「できる方策は限られている」(財務大臣をしている民主党の野田の口癖)わけですから、勤労者のみならず赤ん坊から高齢者に至るまで、国民大衆の負担の強化以外にはないことになります。
 そうである限り、さまざまな紆余曲折はあっても、保守的政治勢力に対するブーイングは、否応なしに膨らんでいくこととなります。ギリシャ、イギリスのような事態になるかどうかは知りませんが、中東や北アフリカで見られた連鎖のように、資本主義大国の間でも、国民的抗議の声はさまざまな表現方法で膨らんでいくことでしょう。
 ただし、米・欧・日は、資本主義体制の最強の牙城なのですから、これを乗り越える闘いは最も困難で、また、人間社会の最も大きな転換を伴う遠大なものとなることも予想しなければならないと思います。

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第40回赤旗まつり うたごえ合唱団「青い空は」

うたごえサークル「おけら」による歌詞・楽譜・解説 ⇒ 青い空は

 先日の6日の広島に続いて、今日9日は長崎に原爆が投下された日です。15日の「終戦」記念日(明確に「敗戦記念日」だと呼ぶべきだという人も少なくありません。)も含めて、不戦、反戦の決意を新たにしたいと思います。

【日本国憲法・前文】より
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
【日本国憲法・第2章 戦争の放棄】
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 憲法9条の第2項は、事実上空文化していると思いますが、それでも、この条文の第1項は、国民の努力によって守り続けることはできると思っています。武力に依拠することなく平和のためのイニシアチブを発揮することこそが日本国民の世界的歴史的使命だと思います。

原爆を許すまじ


♪死んだ男の残したものは


にんげんをかえせ


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Home Sweet Home - Grave of the Fireflies


 八月は、やはり、戦争の終結を記憶する月だと思います。広島、長崎への原爆投下と8月15日の天皇による戦争敗北宣言。この日は中国での戦勝記念日でもあり朝鮮民族、台湾民族などにとっての独立記念日ともなっています。欧米各国にとっては降伏文書の調印式まで戦争は終わっていないことになっています。(旧ソ連はその時間差の間隙をぬって千島列島を不当に占拠しました。)
 この八月に日本の多くの人々が思うのは、戦争は絶対にすべきではないという不戦の誓いであり、世界平和への願いでしょう。何と言っても、戦争によって悲惨な犠牲を強いられるのは一般市民であることが圧倒的に多く、それも、大人たちの味わう悲惨である以上に、この世に生れてまだ何年もたたず、まだ何も知らない子どもたちがひどい目に遭うことを目の当たりにしてきたのですから。

 かつて、ベトナム戦争で北爆を始めた時、好戦的大統領だったJ.F.ケネディのもとで、アメリカ政府の高官は、「ベトナム人の経済的価値はアメリカ人の何十分の一にもならない。何十人死のうがアメリカ人一人の価値にも値しない」、だから、北爆は経済的に見て残酷だということにはならない、と言い放ちました。その二十年数年前の東京大空襲をはじめ、原爆投下に際しても、日本人なら何万人死のうが「経済的に大したことはない」ということだったのでしょう。
 戦争というものが、実は経済の利害の対立であって、人の値打もその経済価値で測られるものだということを露骨に白状した言い分だったと思います。そして、そういう理屈は、今現在もまだ続いているのが世界の経済情勢、軍事情勢なのです。資源を奪い合い、市場を奪い合う競争の最も暴力的な方法が現代の戦争です。そういう殺人と破壊が正当化されるのは国家という「権威」による行為だからです。
 「お国のために血を流せ」と煽られた人々にとって、それは何も利益にならないことであり、利益を奪い合おうとした資本や権力者に利用されただけの話でもありました。愛国心とは、実は、資本の利益または、権力者たちの利益のための精神動員に他ならなかったのです。

 そんな仕組みのことなど理解できないし、理解しようとも思わない人々にとって、戦争という国の行為は、なおのこと、理不尽極まりないことだと思います。
 戦災孤児になってしまった「火垂るの墓」の二人の兄妹のように、そして、この二人は絶望的な最期を強いられたように、ものを考える力もなくただただ悲しいだけで命を絶たれることになってしまった子どもたちのことを思い起こすだけでも、戦争を仕掛け、戦争を指導した者たちへの怒りがこみ上げてきます。
 こどもって、肌がつやつやできれいだし、瞳もキラキラして生きることに何の疑問も抱いていないし、なおかつ、とても弱々しい命であってみんなで支えてあげたくなるし、「サクマのドロップ」で喜んでくれるほど無邪気だし、大事に大事に可愛がって育ててあげたいと思う命です。そのいたいけな命が無残に奪われていく光景は、絶対に許せるものではありません。

 不戦の誓いが本物であるならば、人の値打を経済価値で測るようなアメリカ帝国主義に追随したり、アメリカの言う「正義」に同調するような、そんな態度は取るべきではないでしょう。だから、言いたい。日米安全保障条約のような戦争をしたくて仕方ない条約など即時廃棄すべきだと。

 ところで、今日は広島への原爆投下から66年であるとともに3・11大震災で福島原発が事故を起こした年でもあることから、原爆のみならず原子力発電についても考え直す日となっています。それはそれとして意義のある問題意識だとは思っていますが、しかしなお、強調しておきたいことは、戦争という国家犯罪について怒りの声を挙げることだと思っています。この八月という日本の人々にとって特別な月は、戦争反対の意思を高め、固める月なのだと思っています。

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 今年は8月8日、あと三日もすれば「立秋」です。挨拶状も「残暑お見舞い」に切り替わります。

 とはいっても、今年は記録づくめの猛暑の梅雨の後は雨続きで、なんだか本格的な夏を迎えたような気がしませんでした。どうやら、これからが暑さの本番らしい。
 夏休みと言えば、海は若いころしか泳いでいません。山は若い頃もオジサンになってからも登っています。旅行は、国内も海外も、夫婦だった頃には毎年のように出かけました。最近は、と言うと、どこへ出かけるにもクルマです。ドライブばっかりで、歩かなくなったなぁ。これでは生活習慣病コースへまっしぐらだと危機感を覚え始めています。

 気づいてみると、群馬県では太ったおじさんがほとんどいません。おねえさま方の中には丸々とした人々もいるのですが、老いも若きも太った男子というのをあまり見かけないのです。
 オフィスワークの多い前橋や高崎のような都市部には肥満体のおじさんもチラホラいますが、あとは基本的に農村主体で所々に工場とか運送会社の倉庫群が散らばっているような光景の多い群馬では、体格的にはバランスのとれた健康体で、逞しく日焼けしている人たちの姿が当たり前、というような印象です。
 それに群馬の南半分の平野部から北や西へ行けば赤城、榛名、妙義の上毛三山から先は高原と山岳地帯で風光明美な景色や温泉もたくさんあります。ハイキングやら山菜取りやら、健康的なレジャーを楽しむ人々が多いのもこの辺りの特徴のように思います。
 生まれも育ちも群馬の人々は気候も良く居心地のいい故郷を愛しているし、親子三代四代で暮らす大家族も多い長寿社会だし、おそらく、日本の中でも暮らしやすい土地の代表的な一つではないでしょうか。

 どこもかしこも舗装されて建物が隙間なく立ち並び、風が吹いても土埃に襲われることもなく、24時間いつでも誰かが動いていて、世界中の食事も衣類もアートやパフォーマンスも味わえて、新しいものに溢れていてとても刺激的な、とにかく人でごった返している眠らない街、東京の喧噪に慣れ親しんできた自分にとっては、退屈にしか思えなかったこの田舎の光景が、実はとても自然に親しんでいて、とても自然な生命を満喫してる人々の世界なのであって、そんな中で過ごしてきた人たちに対してある意味では羨望さえ感じるようになった、と見方が変わってきたように思います。
 たぶん、自分は丈夫なのだと自負してきたカラダの自信を失い始めたから、なのかもしれません。

 東京にいた頃は、よく歩きました。地下鉄もほとんどすべての駅で乗り降りしています。それも、職業柄なのか、書類とカメラを詰め込んだバッグを肩からぶら下げて、早足で人をどんどん追い抜いて歩くような歩き方でした。わざわざジムになど通う必要も感じない日々でした。
 今では、農民ではありませんから見回る田んぼも畑もなく、肉体労働の身でもありませんから体を動かすこともなく、外出時はほぼ運転席か助手席に座ったままです。体はすっかりなまっています。ここでは、だから、意識的に体を動かす何かをしないと、・・・まずい。

夏は来ぬ 童謡  唱歌


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 前回「政治家のスキャンダル」を取り上げたまさにそのタイミングで「筒井農水副大臣に30歳年下の同棲愛人」(週刊新潮)という見出しが電車の中吊り広告で踊りました。ったく、バカどもが!!

 さて、ところで。
 960万だか1千万だか知らないけれど、自民・公明・民主が妥協した「所得制限」って、おかしいと思いませんか?
 乳幼児から中学生くらいまでの子どもがいる家庭といえば、親の年齢はだいたい20代から40代くらいまででしょう。この年齢層で年収1千万前後の人々って、どれくらいいるのでしょうか。
 国民の平均年収はこの10年余りの間に激減し、貧困家庭の比率も高まっているのが現実です。その平均とされる金額は、大雑把に見ても30代半ばで年収500万円に届くかどうかではないでしょうか。90年代前半までのバブル経済の頃でも35歳くらいで年収600万円前後がピークだったように記憶しています。
 つまり、自民・公明が頑強に主張した「子供手当」の「児童手当」への名称変更による逆戻りとか「所得制限」などということ自体が、国民生活の実態からみれば、適用される人たちが多めに見ても子育て中の家庭の1%もいるかどうかさえ怪しい中味のない要求だったことになります。言いかえれば、「子供手当」のうち1%あるかどうかの金額を動かしたにすぎない、ということになります。普通のサラリーマンにとって、営業成績で1%前後の違いなんて成果のうちにも入りません。

 要は、自民・公明の「ためにする抵抗」にすぎなかったことにならざるを得ないと思います。それこそが党利党略の単なる“メンツの闘い”にすぎないのです。
 なぜ、自民・公明は、こんな中味のない闘争に終始したのかと言えば、民主の全面降伏をのみ狙ったからでしょう。そうすることによって、いかにも、国民のために闘う政党であるかのように見せかけることが狙いなわけです。こういう闘いのことを、普通、茶番劇といいます。

 そして、これに対する民主の交渉戦術のお粗末なこと、極まりなし、でした。妥協すれば相手が攻撃の手を緩めるなどと期待するお人よしなのですから、営業交渉でも裁判の和解交渉でもあり得ないほどのお人よしぶりを演じてしまいました。
 民主が妥協すれば、自民・公明も妥協すると思ったのが大きな間違いでした。相手は調子に乗って、公債特例法案については話は別だと、かえって敷居を高くしたのですから。鳩山・元代表とか岡田・現幹事長とか、自民党の亜流の諸君がいかにオボッチャマだったかを露呈させただけの話です。普通、交渉の場合には、相手の言質を取りながら妥協を提案するものですが、そういうノウハウが全く身についていないお人よしぶりが露呈してしまいました。
 単なる希望的観測だけで「マニュフェストは見通しが甘かった」だの「子供手当という名称にはこだわらない」など、身内からも批判が出るほどズルズルと無節操なほどに自己批判を公言しながら屈服することで、自民・公明の言い分に譲歩し続けた民主党幹事長の岡田って、まともな交渉の類いはほとんど経験していないだろうと思わざるをえませんでした。
 これを見て「公債特例法案が通らなければ9月になっても退陣しない」とはしゃぐ総理大臣の管直人の神経というものも呆れ果てたものです。「敵(=岡田)の敵(=自民・公明)は味方」と言っているわけですから。しかし、彼は、自民・公明が、管直人が代表のままで解散総選挙に持ち込めば民主惨敗を勝ち取れると踏んでいることには気づいていないのですから、阿呆そのものです。あるいは民主の将来などどうでも良くて、自分が総理大臣でいられる日数さえ延ばせればそれでいいのでしょう。

 この子供手当をめぐる「所得制限」のように、自民も公明も、国民をバカにしていると思います。成果のうちにも入らないものを成果だと喧伝するのですから。
 民主もまた、管、岡田のみならず、国会対策委員長の安住も東北各県の知事のことを「泥をかぶらない」と責任転嫁したように、また、辞任するといいながら国会答弁で泣きだしてしまった海江田がズルズルと大臣に居座り続けるように、ふざけた人間が多すぎます。安住に対しては「おたく、地方自治体の現状が三割自治と言われるほどに地方の財政を国が握っていること、知らないの?」「だから、県知事が国への陳情係になってしまっていること、知らないの?」「そうやって国が中央集権をやっておきながら、知事たちに文句を言うのって、本末転倒だってこと、分からない?」と言っておきましょう。それほどに民主の幹部というのは、一般人が呆れるほどのシロウトぶりをさらけ出していると思います。海江田には「おんなの涙は武器になるかもしれないけれど、オヤジの涙なんて武器になんかならねえよ」「同情心を買えるなどと人をなめんなよ、てめえ」と言っておきましょう。

 結局のところ、民・自・公の三党は、足並みをそろえて国民を手玉に取れると茶番を演じるような国民を侮った政党なのであって、同じ保守政党の仲間同士であることを曝け出していること、これこそがこの数カ月の本質なのです。だからこそ、「(政治は)誰がやっても同じ」という閉そく感を国民の間に植え付けることとなっているわけです。それによって政治への失望感と無関心を広げることこそが、これら保守政党の狙いなのでもあります。
 つい最近の、あの埼玉県知事選などはいい例でしょう。戦後最低の投票率だったそうですが、再選された上田という人物は、国会議員の時は民主党で、知事のときは自民・公明・みんなの党の支持をもらっています。節操がないというよりも、元々、同じ種類の政治勢力だったことがはっきりしただけの話です。
 こんな三党のような政党が幅を利かせる時代であればこそ、投票率も低迷することによって政治への国民の期待が薄れ無関心は広がり、その間隙をぬって、重税を押しつけることも出来れば、言論統制も出来るようになります。あの軍国主義日本の「大本営発表」や「人民共和国」という看板に泥を塗り続けている今の中国の言論封じの強権支配のように。(北朝鮮などはもっと人民主権を強調した「民主主義人民共和国」ですから、その名前の高潔さの分だけ世界の民主的人民、革命的人民に向けてとてつもなく厚い泥を塗っています。)

 とはいえ、今の日本は、「失うものは何もないプロレタリアート(=労働者階級)による恐れを知らぬ革命」には程遠く、大事な戸建ての家もあればマンションを購入している人もいるし、何百万円かのマイカーを持っている人々も多く、全体としての貧困化が進展しているとは言っても「失いたくない財産」をあれこれ抱えている人が少なくないのですから、国民の2割(=5人に1人)にものぼる極貧層を見て見ぬふりをするアメリカ帝国主義のようになるか、その親米政権が牛耳ってきた北アフリカや中東のような人民蜂起の事態になだれ込むか、まだ、先は見えては来ませんけれど。

 いずれにせよ、民・自・公、それに、それらの亜流の みんなの党とか 立ちあがれニッポンなど、こういう保守勢力は、日本の国民にとっては、あの小泉純一郎が絶叫したように「痛みを分かち合え」とひたすら犠牲心を押しつける道にしか進まないことは明白だと言っておきたいと思います。
 競争こそが宿命的であって優勝劣敗とか適者生存こそ自然の理だと思うのか、個々人の自由な発展こそが人類社会の発展の条件となる道だと「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」という共感と団結による共和社会(つまり、真の意味でのコミューン=共同社会、コミュニズム=共産主義)を目指すのか、それは、これから、ますます、身近な問題として問われることとなるでしょう。

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 ・ 原発担当の大臣になった細野が山本モナとの路上キスの相手だった。
 ・ カリフォルニア州知事だった頃、シュワルツェネッガーは家政婦に手を出して隠し子がいた。
 ・ 74歳のジジイでイタリアの首相をやってるベルルスコーニは18歳の売春婦を買った。
 ・ 女優の水野真紀が「後藤田くん」と呼ぶ元同級生夫婦で、親の七光りで当選した世襲の国会議員(自民党)のダンナは議員宿舎にホステスを連れ込んでいた。
 ・ 福島原発をめぐる記者会見で有名になってしまった審議官(=企業で言えばヒラの取締役)、西山は、経済産業省内でも目に余るほど20代後半のキャリア女性との不倫にいそしんでいたことがバレて左遷された。(実は既にフラレていたらしいけれど。)
 ・ 群馬県知事の大沢正明は、知事公舎に知人女性を何度も泊らせていたことを週刊誌にすっぱ抜かれて陳謝し、公舎から退去することにした。大沢は今年春の統一地方選で再選されたばかりだから、何が何でも辞任しない腹づもりだ。(週刊誌の記事では「48回」とまで具体的に書くほど張り込み取材をしていたらしい。)

 みなさん、お盛んなようで・・・。

 というか、「てめえら、ふざけんな」と、言いたい。
 議員宿舎だの知事公舎だのをエッチ部屋に使うなんて、セコイことこの上ない。シュワルツェネッガーが知事公舎の家政婦に手を出したのも、いかにも、お手軽な態度だ。それに、シュワルツェネッガーの例では、セレブリティ出身でずば抜けて美形のカミサンがいるのに、よりによってあんな・・・と、よほど飢えてたのか、変わった趣味を持っていたのか。

 オトコっていうのは、いつでもどこでも、オンナに目移りがして「いい女」と見ると手を出したがるのは、どうしようもない性(さが)のようで、自分でも「いい女」みんなが彼女になってくれたらいいとか妄想することもある。けれど、それならそれで、人を傷つけないようなノウハウだって必要だろう。妄想なら妄想で、そのまま鎮めるくらいの自制心だって必要だろう。バレるようなことをするのは、言ってみれば安直でセコい、つまり、手抜きに他ならない。自らの立場についての緊張感もないし、相手への配慮も愛情もない身勝手な態度の証しでもある。政治家の場合、何よりも、有権者、支持者を舐めきった安直さだということになる。
 一方、オンナは、オトコとは違って愛した相手に一途になる、とも、思ってはいない。元気な子ができず何人もの側室を抱えた豊臣秀吉だったが、その秀吉とお茶々(淀殿)との間に生まれたとされ、みごとな大男に成長した秀頼は、実は別人の子だったという説ある。唱えているのはマンガ家・黒鉄ヒロシ等の人々だが、彼女は「あなたの子よ」とだまし続けるほどシタタカだったというのだ。秀吉のタネで生まれた子はことごとく小柄で病弱で早世したのだから、巨漢に育った秀頼だけは別人の子であり、淀殿による(父親も母親も秀吉に殺されたことへの)復讐だったとまで言われている。
 人間の話ではないけれど、最近分かってきたらしいことは、生涯を添い遂げると思われていた多くの種類の鳥のツガイが、実は、ダンナが餌を探しに出かけている間にカミサンは他の野性的でアブナイ雰囲気のイケメン相手と交尾して卵を産み、そうとは知らぬダンナは自分の子だと信じ込んで餌を運び続けている、ということだ。鶴やオシドリなどの生涯一途という愛情は幻想だったことが知られつつある。メスにとっては、子孫を残すためには強くたくましいオスのタネをもらうのは当たり前、くらいの感覚らしい。

 現代社会では、人間のオトコにとってもオンナにとっても、生涯愛し続ける相手は結婚相手だけ、ということは、ありえないとまでは言わないが、難しくなっているのではないか。なぜなら、男女ともに社会参加の機会が増えれば増えるほど、それまで味わったことのない魅力を感じる相手に出会う機会もまた増え続けるからだ。モノや情報の流通が複雑に絡み合いながら広がったり深まったりすることはあっても、どんな人にとってもそういう流通の仕組みから抜け出すことはできない。貞淑な良妻賢母とか世間を憚る(はばかる)お妾さんのような、男尊女卑の時代に存在した「旦那様の所有物としての女」の引き篭もり生活はありえなくなっているのだ。現代の子ども生活(成人していても生活内容が子どもであれば「子ども生活」だと言える)の一部に見られる引き篭もりでさえも、居心地のいい何かを手に入れることによって、世の中のモノや情報の流通を利用しながら毎日を過ごし、無意識のうちにも人々との関わりの中にある。
 だから、オトコにしてもオンナにしても、貞淑であること自体、もう、無理な時代なのではないのかと思う。例え家族がいても心が揺らぐことがあるのは抑えきれないだろう。そんな中から、不倫だとかダブル不倫だのを「やっちゃった」人々がどこにでもいるような世の中になったと思う。

 だがしかし、実は昔からあったことが表面化してきただけなのかもしれない。実際には、曽根崎心中のような武家支配の封建時代にも、阿部定事件のような帝国主義の近代にも、不倫等々の事例は無数にあったことは物語・演劇・実際の事件などを通じて知られているのだから。
 1960年代頃までの日本の田舎でよく見られた光景は近親相姦で生まれた子が、知的障害とか様々な精神的身体的障害を抱えている姿だった。血が濃すぎて(=遺伝子が似過ぎていて)さまざまな障害や短命につながりやすいのだが、不義の子としてバチが当たったとまで言われた可愛そうな子たちだった。そういう子がどこの村にも何人かはいたほど近親相姦が多い国でもあった。(高度経済成長時代に田舎にとどまる若い男女が減るのにつれて、そういう子もまた、いなくなった。)
 また、『スカートの下の劇場 ― ひとはどうしてパンティにこだわるのか』とか『おひとりさまの老後』などの著者で東大教授をやっていた上野千鶴子が暴露している資料では、戦前の東大生のアンケートで初めてセックスした相手が「第一位・女中、第二位・遊女(=風俗嬢)、第三位・人妻」だったというように、わが子の家庭教師をお願いした人妻たちが、若く将来性のある坊ちゃんたちの童貞を卒業させてあげていたのだ。(彼女もまた共産党が大好きな人ではあるけれど、ただ、彼女の立論はいつも、「人の目」を意識した存在を前提にし過ぎている点でナルシズムか被害妄想に近い感覚のように思っている。)

 不倫だのダブル不倫だのは古今東西、どこにでもある話だ。ギリシャ・ローマ神話やインド神話、あるいは日本神話などの物語は、とても簡単な理由で神様たちが男女の関係になってしまうほど無節操の極みだし、自由恋愛とも呼ぶべき事態が野放しだったのは宗教改革直前の中世ヨーロッパでも例外ではない。だからこそ、プロテスタントが支配する時代になって以降、どの階級においても貞淑であることを法律(=国家が管理する暴力)によって強制せざるを得なくなった。それが一夫一婦制の原則であり、財産権等にも反映される現代の法律につながったのである。

 男女間の付き合い方にはいちいち文句をつけようとは思わない。古今東西、貞淑などという強制自体が人間を含めた動物の本性にとって無理なことだったと思っているのだから。一方で、一夫一婦制という財産権に関わる法律によって、とかく社会的に不利な立場に立たされがちだった女性たちを保護しようとしてきた歴史も理解しているつもりである。そしてまた、そんな保護があろうとなかろうと巧妙にしたたかに生きるすべを使いこなした女性もいれば、女性の社会的地位が大きく前進した今であれば、なおのこと、生涯を添い遂げる夫婦という観念もまた薄れ始めているだろうと思う。「子どもは欲しいけれどダンナはいらない」という女性が増えているのも、そういう世の中の変化とか歴史的な変化を表わしている感覚だと思う。
 それに、アメリカでもヨーロッパでも、日本よりもさらに進んで家族という形態がぐちゃぐちゃになっている。カトリックでは離婚は認められていなかったから、イギリス国王は自分が離婚したいばかりに勝手にイギリス国教会をつくってしまったし、その後の宗教改革を担ったプロテスタントはもっと過激にカトリックに反抗した。今でもカトリックが主流のイタリアやフランスなどのラテン人たちは、結婚に踏み切るよりもいつでも恋愛を楽しみたい男女が少なくない。だからなのか、彼らは世界に名だたるナンパ名人になり、既婚者であろうとナンパを仕掛けるほどの気ままな人生を謳歌したがっている。それに何と言ってもギリシャ・ローマ神話の末裔(まつえい)なのだから、あのルネッサンス時代に盛りあがったように、人間主義の標榜者でもある。
 一方、神様との直接の厳粛な関係を結びたがるプロテスタントの国々では、その厳粛さを突き詰めたあまり、「家族ってなんだ?」という根本的な疑問から、同性婚も近親婚もOKという国や州まで生まれているほどである。欧米人になりたがっている一部の日本人の中にも、いずれ、彼らと同じような現象が生まれるかもしれない。ただ、「美しいニッポン」を掲げるアナクロニズム(=時代錯誤)の根強い保守的な社会でもあるから、そう簡単には欧米化しないかもしれないが。

 ということで、男女の付き合いでも同性愛でも、恋愛には何でもありなんだから、それほど怒ることもないと思う人もいるかもしれない。政治家だって人間なんだから、と。

 だが冗談ではない。議員宿舎だの知事公舎だのを舞台にするようなスキャンダルというのは、あまりに迂闊で安直にすぎるだろう。そういうことになるのは、世の中を舐めきっているから、ということに他ならない。(婚外の恋愛とか遊びを楽しみたいのなら、誰にも尻尾をつかまれないようにするくらいの、それなりのカネと手間・暇をかけるのでなければ、墓穴を掘るだけのことだ。あの皇室のように、ヤンチャな子がいようと一家は揃って純粋無垢であることを演出しきるほどの努力が必要なのだ。)

 簡単に言えば、自分の払った税金の一部が、あんな奴らの遊びに使われたのだと知ったら、どう思うだろうか。人のカネでふざけたことをしていたんだと分かってみれば、そういうことをしていた知事だの国会議員が国民を侮った(あなどった)バカどもだと理解できるのではないか。そういう問題なのである。

 選挙によって選ばれた公人たる者は、家庭内の限られた事柄を除いては、カネの収支から公私の様々な政治団体・経済団体・企業の役職とその人間関係に至るまで徹底的に公人であることが問われる立場にある。そういう特殊な立場であることが特別公務員であることの理由でもある。
 (わが日本がいまだに「天皇陛下」の国だと思い込んでいるバカの山谷えり子=自民=が国会質問で管直人の個人攻撃に励んでいるように、いつも追い落とし材料になるのが諸団体との公私のつながりである。山谷らは管直人がテロリストや極左集団とつながりが深いローカル政党にカネを出し、民主党の何人かも同調していることで鬼の首を取ったような気になって執拗に攻撃しているのだが、ところで、山谷のようなナショナリストとか国粋主義者どもは、先日のノルウェーの極右の白色テロと同じような立場に立たざるを得なくなることは、バカだから気づいていない。あの事件は、世界のどこでも極端な右翼がまた恐るべきテロリストである一つの証左なのである。)
 さて、飲む・打つ・買うの3大スキャンダルなどもってのほかだし、公共財の私物化などの公私混同もクビの理由になる立場である。知事公舎や議員宿舎の目的外使用(=エッチ部屋に使ったこと)だってれっきとした公私混同でありクビに相当する行為である。 (飲む=飲食のスキャンダル=飲食代をたかるなどの収賄行為。 打つ=ばくちを打つスキャンダル=今や廃人同然となった浜田幸一が現役時代にやらかしたラスベガスで何十億円という大損をして人にカネをたかったような行為。 買う=おんなを買うスキャンダル=セックス・スキャンダルの中でも恋愛とか遊びの付き合いよりもたちが悪い「女をモノ扱いする」行為。)

 政治的スキャンダルがボロボロと出てくるような世の中というのは、実は、それだけ、弛緩した世の中だと思っている。緊張感のかけらもない状態である。二大政党制だなどという体制になればなるほど、それは蔓延することだろう。つまり、同じ穴のムジナ同士で馴れ合う政治になるからだ。
 一般公務員の西山は、さっさと左遷させられた。特別公務員の知事やら議員やらは、いくら赤っ恥をかこうともその椅子は保障されたままである。クビにしたり左遷させるのはその選出母体である所属政党による処分以外にはない。つまり、その政党の自浄能力とか規律の問題なのである。

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 群馬テレビは、一日の放送のはじめと終わりに「群馬県の歌」を流しています。ずいぶん古めかしい感じのする歌で、聞きようによっては右翼的にも左翼的にも聞こえます。(左右のどちらにしても団結力とか力強さをアピールする行進曲ふうの歌というのは似てしまうように思います。)
 どこのローカル局でも県民歌を流しているのだろうか、それに、どこも似たような曲調なのだろうかと調べてみたら、テレビでは群馬テレビのほかには、山形放送(山形県の「最上川」という県歌の歌詞は昭和天皇「御製」だそうです。)、とちぎテレビ、テレビ和歌山の3局、ラジオでは栃木放送、信越放送、岐阜放送だけのようです。
 また、県民の歌とか県歌というのは、やはり、都道府県によってずいぶん雰囲気は違っていました。ほとんどが戦後生まれの曲ですが、1950年代までの戦後早い時期の歌の方が生き生きと明るい曲調が多いようで、むしろ1960年代の曲の方が重々しく威圧的な感じさえするような印象があります。
 そんな中からいくつか選んでみました。

 あっ、そうそう、『君が代』を強制したがっているファシスト橋下徹と大阪維新の会一派が君臨する大阪府だけは府民の歌、大阪府歌が未制定でした。

群馬県の歌
 1968年制定。
 映画『ここに泉あり』にもなった草の根の交響楽団、群馬交響楽団の演奏です。

秋田県民歌
 1930年制定の歌で、県歌として制定された第一号だそうです。大曲の花火大会ではエンディングに流れるのが恒例だそうで、この歌に親しんでいる県民も多いようです。
 歌詞から「民俗勝れて質実剛毅 正義と自治との さとしを体し 人材遍く育みなして 燦たる理想に燃え起つ我等」と、格調の高さが印象的だと思いました。

信濃の国合唱 歌詞と解説付き
 師範学校の先生たちが作って1899年(明治32年)から歌われはじめ、1968年に県歌として制定。
 解説によると「1948年・74回県議会で長野県と筑摩県への分割決議案が出された時、傍聴席から『信濃の国』の大合唱が起き議案を否決した話は有名である。」
 長野県民になったことがないのになぜか聞き覚えがある歌い出しなのは、高校野球のおかげなのか。長野の各校では応援の際に盛んに歌われているようです。

栃木県民の歌
 歌詞から「人の和の夢おおらかに盛り上がる自治よ自由よ」。
 1952年制定。
 ダ・カーポが歌っています。

兵庫県の歌「ふるさと兵庫」
 1980年制定。
 紙ふうせんが歌っています。

 県民歌の一覧は ⇒ 都道府県民歌

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