政治家のスキャンダル | kyottides的 喜怒哀楽

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一年余りにわたって 開店休業状態 でしたが、そろそろ、また、あれやこれやと綴ってみようかなと思い始めています。よろしくお願いします。

 ・ 原発担当の大臣になった細野が山本モナとの路上キスの相手だった。
 ・ カリフォルニア州知事だった頃、シュワルツェネッガーは家政婦に手を出して隠し子がいた。
 ・ 74歳のジジイでイタリアの首相をやってるベルルスコーニは18歳の売春婦を買った。
 ・ 女優の水野真紀が「後藤田くん」と呼ぶ元同級生夫婦で、親の七光りで当選した世襲の国会議員(自民党)のダンナは議員宿舎にホステスを連れ込んでいた。
 ・ 福島原発をめぐる記者会見で有名になってしまった審議官(=企業で言えばヒラの取締役)、西山は、経済産業省内でも目に余るほど20代後半のキャリア女性との不倫にいそしんでいたことがバレて左遷された。(実は既にフラレていたらしいけれど。)
 ・ 群馬県知事の大沢正明は、知事公舎に知人女性を何度も泊らせていたことを週刊誌にすっぱ抜かれて陳謝し、公舎から退去することにした。大沢は今年春の統一地方選で再選されたばかりだから、何が何でも辞任しない腹づもりだ。(週刊誌の記事では「48回」とまで具体的に書くほど張り込み取材をしていたらしい。)

 みなさん、お盛んなようで・・・。

 というか、「てめえら、ふざけんな」と、言いたい。
 議員宿舎だの知事公舎だのをエッチ部屋に使うなんて、セコイことこの上ない。シュワルツェネッガーが知事公舎の家政婦に手を出したのも、いかにも、お手軽な態度だ。それに、シュワルツェネッガーの例では、セレブリティ出身でずば抜けて美形のカミサンがいるのに、よりによってあんな・・・と、よほど飢えてたのか、変わった趣味を持っていたのか。

 オトコっていうのは、いつでもどこでも、オンナに目移りがして「いい女」と見ると手を出したがるのは、どうしようもない性(さが)のようで、自分でも「いい女」みんなが彼女になってくれたらいいとか妄想することもある。けれど、それならそれで、人を傷つけないようなノウハウだって必要だろう。妄想なら妄想で、そのまま鎮めるくらいの自制心だって必要だろう。バレるようなことをするのは、言ってみれば安直でセコい、つまり、手抜きに他ならない。自らの立場についての緊張感もないし、相手への配慮も愛情もない身勝手な態度の証しでもある。政治家の場合、何よりも、有権者、支持者を舐めきった安直さだということになる。
 一方、オンナは、オトコとは違って愛した相手に一途になる、とも、思ってはいない。元気な子ができず何人もの側室を抱えた豊臣秀吉だったが、その秀吉とお茶々(淀殿)との間に生まれたとされ、みごとな大男に成長した秀頼は、実は別人の子だったという説ある。唱えているのはマンガ家・黒鉄ヒロシ等の人々だが、彼女は「あなたの子よ」とだまし続けるほどシタタカだったというのだ。秀吉のタネで生まれた子はことごとく小柄で病弱で早世したのだから、巨漢に育った秀頼だけは別人の子であり、淀殿による(父親も母親も秀吉に殺されたことへの)復讐だったとまで言われている。
 人間の話ではないけれど、最近分かってきたらしいことは、生涯を添い遂げると思われていた多くの種類の鳥のツガイが、実は、ダンナが餌を探しに出かけている間にカミサンは他の野性的でアブナイ雰囲気のイケメン相手と交尾して卵を産み、そうとは知らぬダンナは自分の子だと信じ込んで餌を運び続けている、ということだ。鶴やオシドリなどの生涯一途という愛情は幻想だったことが知られつつある。メスにとっては、子孫を残すためには強くたくましいオスのタネをもらうのは当たり前、くらいの感覚らしい。

 現代社会では、人間のオトコにとってもオンナにとっても、生涯愛し続ける相手は結婚相手だけ、ということは、ありえないとまでは言わないが、難しくなっているのではないか。なぜなら、男女ともに社会参加の機会が増えれば増えるほど、それまで味わったことのない魅力を感じる相手に出会う機会もまた増え続けるからだ。モノや情報の流通が複雑に絡み合いながら広がったり深まったりすることはあっても、どんな人にとってもそういう流通の仕組みから抜け出すことはできない。貞淑な良妻賢母とか世間を憚る(はばかる)お妾さんのような、男尊女卑の時代に存在した「旦那様の所有物としての女」の引き篭もり生活はありえなくなっているのだ。現代の子ども生活(成人していても生活内容が子どもであれば「子ども生活」だと言える)の一部に見られる引き篭もりでさえも、居心地のいい何かを手に入れることによって、世の中のモノや情報の流通を利用しながら毎日を過ごし、無意識のうちにも人々との関わりの中にある。
 だから、オトコにしてもオンナにしても、貞淑であること自体、もう、無理な時代なのではないのかと思う。例え家族がいても心が揺らぐことがあるのは抑えきれないだろう。そんな中から、不倫だとかダブル不倫だのを「やっちゃった」人々がどこにでもいるような世の中になったと思う。

 だがしかし、実は昔からあったことが表面化してきただけなのかもしれない。実際には、曽根崎心中のような武家支配の封建時代にも、阿部定事件のような帝国主義の近代にも、不倫等々の事例は無数にあったことは物語・演劇・実際の事件などを通じて知られているのだから。
 1960年代頃までの日本の田舎でよく見られた光景は近親相姦で生まれた子が、知的障害とか様々な精神的身体的障害を抱えている姿だった。血が濃すぎて(=遺伝子が似過ぎていて)さまざまな障害や短命につながりやすいのだが、不義の子としてバチが当たったとまで言われた可愛そうな子たちだった。そういう子がどこの村にも何人かはいたほど近親相姦が多い国でもあった。(高度経済成長時代に田舎にとどまる若い男女が減るのにつれて、そういう子もまた、いなくなった。)
 また、『スカートの下の劇場 ― ひとはどうしてパンティにこだわるのか』とか『おひとりさまの老後』などの著者で東大教授をやっていた上野千鶴子が暴露している資料では、戦前の東大生のアンケートで初めてセックスした相手が「第一位・女中、第二位・遊女(=風俗嬢)、第三位・人妻」だったというように、わが子の家庭教師をお願いした人妻たちが、若く将来性のある坊ちゃんたちの童貞を卒業させてあげていたのだ。(彼女もまた共産党が大好きな人ではあるけれど、ただ、彼女の立論はいつも、「人の目」を意識した存在を前提にし過ぎている点でナルシズムか被害妄想に近い感覚のように思っている。)

 不倫だのダブル不倫だのは古今東西、どこにでもある話だ。ギリシャ・ローマ神話やインド神話、あるいは日本神話などの物語は、とても簡単な理由で神様たちが男女の関係になってしまうほど無節操の極みだし、自由恋愛とも呼ぶべき事態が野放しだったのは宗教改革直前の中世ヨーロッパでも例外ではない。だからこそ、プロテスタントが支配する時代になって以降、どの階級においても貞淑であることを法律(=国家が管理する暴力)によって強制せざるを得なくなった。それが一夫一婦制の原則であり、財産権等にも反映される現代の法律につながったのである。

 男女間の付き合い方にはいちいち文句をつけようとは思わない。古今東西、貞淑などという強制自体が人間を含めた動物の本性にとって無理なことだったと思っているのだから。一方で、一夫一婦制という財産権に関わる法律によって、とかく社会的に不利な立場に立たされがちだった女性たちを保護しようとしてきた歴史も理解しているつもりである。そしてまた、そんな保護があろうとなかろうと巧妙にしたたかに生きるすべを使いこなした女性もいれば、女性の社会的地位が大きく前進した今であれば、なおのこと、生涯を添い遂げる夫婦という観念もまた薄れ始めているだろうと思う。「子どもは欲しいけれどダンナはいらない」という女性が増えているのも、そういう世の中の変化とか歴史的な変化を表わしている感覚だと思う。
 それに、アメリカでもヨーロッパでも、日本よりもさらに進んで家族という形態がぐちゃぐちゃになっている。カトリックでは離婚は認められていなかったから、イギリス国王は自分が離婚したいばかりに勝手にイギリス国教会をつくってしまったし、その後の宗教改革を担ったプロテスタントはもっと過激にカトリックに反抗した。今でもカトリックが主流のイタリアやフランスなどのラテン人たちは、結婚に踏み切るよりもいつでも恋愛を楽しみたい男女が少なくない。だからなのか、彼らは世界に名だたるナンパ名人になり、既婚者であろうとナンパを仕掛けるほどの気ままな人生を謳歌したがっている。それに何と言ってもギリシャ・ローマ神話の末裔(まつえい)なのだから、あのルネッサンス時代に盛りあがったように、人間主義の標榜者でもある。
 一方、神様との直接の厳粛な関係を結びたがるプロテスタントの国々では、その厳粛さを突き詰めたあまり、「家族ってなんだ?」という根本的な疑問から、同性婚も近親婚もOKという国や州まで生まれているほどである。欧米人になりたがっている一部の日本人の中にも、いずれ、彼らと同じような現象が生まれるかもしれない。ただ、「美しいニッポン」を掲げるアナクロニズム(=時代錯誤)の根強い保守的な社会でもあるから、そう簡単には欧米化しないかもしれないが。

 ということで、男女の付き合いでも同性愛でも、恋愛には何でもありなんだから、それほど怒ることもないと思う人もいるかもしれない。政治家だって人間なんだから、と。

 だが冗談ではない。議員宿舎だの知事公舎だのを舞台にするようなスキャンダルというのは、あまりに迂闊で安直にすぎるだろう。そういうことになるのは、世の中を舐めきっているから、ということに他ならない。(婚外の恋愛とか遊びを楽しみたいのなら、誰にも尻尾をつかまれないようにするくらいの、それなりのカネと手間・暇をかけるのでなければ、墓穴を掘るだけのことだ。あの皇室のように、ヤンチャな子がいようと一家は揃って純粋無垢であることを演出しきるほどの努力が必要なのだ。)

 簡単に言えば、自分の払った税金の一部が、あんな奴らの遊びに使われたのだと知ったら、どう思うだろうか。人のカネでふざけたことをしていたんだと分かってみれば、そういうことをしていた知事だの国会議員が国民を侮った(あなどった)バカどもだと理解できるのではないか。そういう問題なのである。

 選挙によって選ばれた公人たる者は、家庭内の限られた事柄を除いては、カネの収支から公私の様々な政治団体・経済団体・企業の役職とその人間関係に至るまで徹底的に公人であることが問われる立場にある。そういう特殊な立場であることが特別公務員であることの理由でもある。
 (わが日本がいまだに「天皇陛下」の国だと思い込んでいるバカの山谷えり子=自民=が国会質問で管直人の個人攻撃に励んでいるように、いつも追い落とし材料になるのが諸団体との公私のつながりである。山谷らは管直人がテロリストや極左集団とつながりが深いローカル政党にカネを出し、民主党の何人かも同調していることで鬼の首を取ったような気になって執拗に攻撃しているのだが、ところで、山谷のようなナショナリストとか国粋主義者どもは、先日のノルウェーの極右の白色テロと同じような立場に立たざるを得なくなることは、バカだから気づいていない。あの事件は、世界のどこでも極端な右翼がまた恐るべきテロリストである一つの証左なのである。)
 さて、飲む・打つ・買うの3大スキャンダルなどもってのほかだし、公共財の私物化などの公私混同もクビの理由になる立場である。知事公舎や議員宿舎の目的外使用(=エッチ部屋に使ったこと)だってれっきとした公私混同でありクビに相当する行為である。 (飲む=飲食のスキャンダル=飲食代をたかるなどの収賄行為。 打つ=ばくちを打つスキャンダル=今や廃人同然となった浜田幸一が現役時代にやらかしたラスベガスで何十億円という大損をして人にカネをたかったような行為。 買う=おんなを買うスキャンダル=セックス・スキャンダルの中でも恋愛とか遊びの付き合いよりもたちが悪い「女をモノ扱いする」行為。)

 政治的スキャンダルがボロボロと出てくるような世の中というのは、実は、それだけ、弛緩した世の中だと思っている。緊張感のかけらもない状態である。二大政党制だなどという体制になればなるほど、それは蔓延することだろう。つまり、同じ穴のムジナ同士で馴れ合う政治になるからだ。
 一般公務員の西山は、さっさと左遷させられた。特別公務員の知事やら議員やらは、いくら赤っ恥をかこうともその椅子は保障されたままである。クビにしたり左遷させるのはその選出母体である所属政党による処分以外にはない。つまり、その政党の自浄能力とか規律の問題なのである。

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