わたしの学生時代は、教育学部にも友人がたくさんいましたが、セツルメントのような地域活動とか教育研究会などのサークルの学生たちが軒並み狙い撃ちされて教員採用試験を落とされていた頃でした。
わたしの妻だった人は理学部で学生時代は唯物論研究会の会長などしたものですから、もちろん、そんな経歴は伏せていましたが、教員採用試験は現役の時も東大農学部の助手として過ごした翌年も、東京も千葉も落とされ、私立の女子高校の教員になりました。(夫婦で過ごした15年ほどは、私学の教員と業界新聞記者の二人で、休日出勤も含めて、どちらも勤務時間どおりの生活などあり得ない毎日でした。それはそれで、お互いに自分の仕事や活動に夢中になっている同志的な絆のようなものを感じていたのではありますけどね。)
基本的に左翼系の学生は干されることになっていました。(社会党系列の社青同とか過激派系の学生は、公務員試験も教員採用試験も受かっていました。つまり、そうした彼らは体制にとって大した影響はないと見込まれていたからです。)
それだけが原因だとは思っていませんが、気骨のある学生たちが教員になれない時代が長く続いたおかげで教育現場はもの言えぬ環境になってしまったように思っています。(日教組など、あの民主党・輿石の例を見ても分かるように、すっかり体制内派保守政治家になってしまったほど、御用組合化の一途をたどってしまったと言えるでしょう。旧・社会党系=現・民主党系の人間が牛耳っている限り、あの連合と同じように、日教組は教育労働者の味方ではありえません。)
日本のような保守的な体制のもとでは、国家が国家であるためには体制に対して疑問を持たない従順な人間を育成する思想統制が何よりも重要です。自分でものを考え「どうして?」と疑問を持つような子は排除していくための教育体制を作り上げているわけです。
なので、現場の教員は、従順な人間を育成したい国家の要求と人間の自由な発達を願う教育の理想との狭間で、最も熾烈な思想闘争を強いられながら闘うすべをもぎ取られた状態にあると思うのです。
しかし、国家がいかに国家主義のような閉鎖的な態度を教育の場に押し付けようと、帰国子女の膨大な増加とかスポーツ、芸術、その他さまざまな文化の交流の増加などによって、また、企業間の競争などによって、日本的な教育そのものが根底から問われる事態は確実に広がっています。
人のブログの中には、あの第二次世界大戦について、祖国を守るために戦った英霊に思いをはせるべきだと言う人もいるほどに、国家主義は息を吹き返しています。わたしに言わせれば、とんでもないことです。あの戦争で兵士として駆り出された人々は、「天皇の赤子」として人を人とも思わない国家権力によって殺された人々だと思っているからです。兵士も民間人も、なぜ、あれほどの犠牲者(=日本人だけで310万人、アジア全体では1000万人超の死者)を出さなければならなかったのか、大本営や関東軍などの卑怯卑劣な態度を思い起こしながら、よく考えてみたらいいと思っています。
しかし、そんな彼らにも、愛国心なるものが、どんな結果をもたらすか、あの中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国という素晴らしい国名に対するその実態を見ればよく分かるだろうと言っておきたい。日本国もまた、大日本帝国を美化するような国家主義に染まり愛国心なるものを煽る限り、あんな「もの言えぬ」実態に陥るのは目に見えています。
その最も象徴的な現場が、日本の教育現場であり、露骨な思想統制がまかり通っている現場だと思っています。「日の丸」「君が代」への屈服をはじめ、教育現場の非民主的運営の蔓延など、善意の教員が苦しむ仕組みが出来上がっている組織だと思っています。
教員を志す学生たちの間では、1950年代には無着成恭の『山びこ学級』、70年代の頃は須長茂夫の『どぶ川学級』シリーズが、そして、90年代には水谷修の『夜回り先生』が人気を集めたと思います。それぞれの時代に、子どもの立場に立ちきる先生たちが登場し、多くの教員もそういう理想に燃えて教職に就いたと思います。そうした志に勇気づけられて闘う教員たちの輪が、また、再び、広がり勢いづくのも、実は、そう遠くないことのようにも思っています。思想統制の締め付けがきつくなればなるほど反発もまた強まることは、ありうるのですから。
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うちの会社の前の通りは1kmくらい真っすぐに通っていて、その両側には田んぼが並んでいます。9月は、その稲穂が日ごとにこうべを垂れ、黄金色に色づいていきます。そろそろ稲刈りが始まるのかなと思う頃、彼岸花が道路沿い、あぜ道沿いに一斉に咲きます。そういうわけで、会社の前のこの長い直線道路は、いつの間にか、彼岸花通りという名前が付きました。