山形釣行
今日の夕方から山形県は庄内地方の鶴岡に釣行。
毎年、5月の最終週末に行っている。
黒鯛と磯からの真鯛を狙う予定。
一週間前までは黒鯛は好調だった様だが今はどうなんだろう?
大型の真鯛も釣れているとの事。
昨年の同時期にも78cmの真鯛を頭に4尾釣れた。
今年も楽しみだ!↑
東北への営業は結局、6月に入ってからになってしまったので
今回は釣りだけになってしまった。
と、言ってもお客さん、弊社の現地フィールドスタッフも一緒。
写真は昨年11月1日鴨猟解禁の早朝の鳥海山。
この商売をする様になって山形には年10回ほど訪れるようになった。
春夏秋冬、鳥海山と月山を見るが夏の鳥海山は好きだ。
遊佐~象潟にかけて鳥海山の眺めは抜群!
仕事と釣りが目的なのでゆっくり観光をしたことが無いが今度、
ゆっくりと観光をしたいと思う。
お気に入りの焼酎
麦、芋、米など焼酎に色々あるが米ならこれ
山形 高木酒造の十四代。
写真右の「秘蔵十四代」の方が好みだ。
ロックで飲むのが美味い。
知人の焼鳥屋で薦められ、ボトルキープを欠かさず入れていたが
最近は入手困難になりキープ出来ない。
美味いから高くてもしょうがないが供給と需要のバランスが
程良いのがいいのだが供給側の量が決まっている所に人気が
出れば自ずと価格は上がる。
もう一つ変わったところで美味いのはこれ
十四代のオーク樽貯蔵の物。
琥珀色で味にまるみがあって良い感じだ。
写真左の方が好みだ。
値段は「秘蔵十四代」の約2.5倍。
だが、それだけの値打ちはあると思う。
実は土日と山形は庄内で釣りをする予定。
時間があったら酒屋に寄って購入しようと思う。
性善説と性悪説
最近、世間では悲しい事件、猟奇的事件、憤りを感じる事件など
様々起きている。
明日は我が身と思いたくない。
日本の治安の悪化を危惧する人は多いはずだ。
生まれたばかりの赤ん坊を見ると悪い事などするはずも無く
天使に見える。
親や周囲から躾を受け、学校に通って学問を学び、何が良いか悪いか
分別も分かるはずなのに犯罪に手を染めてしまう人もいる。
人間は生来、性善なのか性悪なのか?
ふと、人間の根幹的な部分に疑問を抱いた。
以下、Wikipedia を参考。
「性善説」
人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学説、特に儒教
主流派の中心概念。
人の本性に関する考察は古今東西行われてきたが、「性善説」という
言葉は儒家のひとり孟子に由来する。
今日「性善説」という言葉は「人は本質として善であるため、放っておいても
悪を行わないとする楽天主義」という意味で用いられることが少なくないが、
本来は正しくない。
四端の心
孟子の「性善説」とは、あらゆる人に善の兆しが先天的に備わっていると
する説である。善の兆しとは、以下に挙げる四端の心を指す。
なお「端」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。
- 惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
- 羞悪…不正を羞恥する心
- 辞譲…謙譲の心
- 是非…善悪を分別する心
修養することによってこれらを拡充し、「仁・義・礼・智」という4つの徳を
顕現させ、聖人・君子へと至ることができるとする。
端的に言えば、善の兆しとは善となるための可能性である。
人には善の兆しが先天的に具備していると孟子が断定し得たのは、
人の運命や事の成否、天下の治乱などをあるべくしてあらしめる
理法としての性格を有する天にこそ、人の道徳性が由来すると
考えたためである。
しかし、この考えは実際と照らし合わせた時、大きな矛盾を突きつける。
現実においては、社会に悪が横行している状態を説明できないからである。
こうした疑問に対し、孟子は以下のように説明する。
悪は人の外に存在するものであるが、天が人に与えたもの、
すなわち「性」には「耳目の官」(官とは働き・機能を意味する)と「心の官」が
有り、外からの影響を「耳目の官」が受けることにより、「心の官」に宿る善の
兆しが曇らされるのだ、と。
すなわち善は人に内在する天の理法であり、悪は外在する環境にあると
説いた。
性善説の意義
つまり各人のもつ道徳的欲求が覚醒する契機となった。
比べ、人の内面を信じその覚醒を引き出そうとする「性善説」は、支持を
広げて儒家の主流派となっていった。
平等主義的なものを内包することになった。
「性悪説」
荀子が孟子の性善説に反対して唱えた人間の本性に対する主張。
「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」(『荀子』性悪篇より)から
来ている。
人間の本性として捉える「悪」とは、人間が美しいものを見ようとしたり
空腹感を覚えたり安楽を望もうとしたりするという自然な欲望のことで
あって、現代日本語のいう「悪」とは異なる。荀子は、人間の本性は
このように欲望的存在にすぎないが、後天的努力(すなわち学問を
修めること)により公共善を知り、礼儀を正すことができると説いた。
要するに、「人の性は悪」は結論(論旨)ではなく前提(論拠)である。
荀子が重視したことは「後天的努力」であり、「孔子ですら生まれた時から
聖人だったわけではなく、学問によって聖人になることが出来た」とする
考え方である。
また、法家は、学問で矯正するよりも、法による統治で悪を未然に排除する
ことに重きを置いた。
なお、人間の本性が欲望的存在に過ぎないという醒めた人間観は法家の
思想の根本となり、後に荀子の弟子である韓非、李斯などの法家の思想の
底流をなす事になった。
正直、どちらも正しく思える。
まぁ、凡人には「どちらが正しいのか?」なんて判断しかねるし、
その質問自体、愚問なんだろう。
性善説は願望。
今、必要とされるのは性悪説の教え、法家の思想か。
思想家でも哲学者でもないので探求する事はないが
知識として知っておきたかった。
堅いネタで申し訳ない。(汗)


