昨年、人生初の大病をしたmgrですが、それ以降仕事をかなりセーブしています。

子宮体がんの手術後の経過は別に問題ないのですが、まだ重い荷物を持てない(本業がそう)ので、リモートで凌げるものは凌いで、代役を立てられるものは昨年の11月にまだ診断が下る前に手配しました。

なんとなく、手術しなくちゃ行けないような気がしたので、副業も年明けの手術後2週間で時短で復帰しています。

 

社会人になって、

会社員時代→月に1度の休み&秋に1週間ほど休み

フリーランスになってから→年に2~3日くらい休み

結婚してから→月に1~2度休み

こんな風に仕事をしてきて(労働基準法?何それおいしいの状態(笑)

仕事が好きなので、スケジュールに空白があると落ち着かないんですね。

 

父や母の病気のこともあり「気付けば50代になっていた」

と気付かされた今回の病気。

 

そういえば、手術した日の痛みに耐えている時に、黒の柴犬が夢に出てきたんですよ。

実家にいる時には金魚を飼っていましたが、夜店で掬った金魚さんなのにたくましく成長して、なんと産卵で増えすぎて、近くの小学校で引き取って貰いました。ちなみにその子ども達も産卵したそうで、理科の先生にたいそう感謝されました(笑)

犬や猫が禁止の分譲なので飼えず。

 

友人が保護猫を飼い始めたのが2~3年前で、もう一人の親友も長年犬を飼っていて、今は居ないのですが旦那さんが退職したらラブレトリバーを飼う予定だそう。

 

・・・50代でしょ。

20年見積もっても、ダンナが年下なので責任持てるギリギリでしょ(笑)

とはいえ、今のマンションもペットは禁止。

さて。

さすがに放りっぱなしの実家をどうするか真剣に考えないといけないし、子どものいない私達はあと20年したら家を貸してくれなくなりそうだし、どうしようかなぁ~

 

なんて、考えている今日はお休みです。

昨年12月の2週目から、お休みを取ったのは入院期間も含めると(リモートは含めない(笑)14日くらい。

すごっ!

なんなら今までのペースで行くと2年間分のお休みを既に取っています。

落ち着かないかなぁ、なんて思っていたのですが、これはこれで今まで出来なかったことが出来るんではないか?

 

ああ、犬が飼いたい。

ちなみにダンナも犬派ですが、飼うことには積極的ではないのと、実際飼ってもお世話をするのは私になりそうな悪寒。

しかし、共働きの身の上では、やはり猫の方が良いのか?

 

実際に生き物を飼うと言うことは大変な労力とお金がかかります。

金魚ですら、2匹→100匹近くになった時には、それはそれはお金がかかりました。実家で飼っていたので、水道代を請求されました(笑)

まぁ、それでも私が餌をやるとわらわらと寄ってくる姿はかわいいもんです。

 

ずーっと買いたいと思っている熱帯魚なんですが、飼おうかと本気で考えていた時、311の大地震が起きる。計画停電に見舞われる、熱帯魚無理じゃん、と諦める。

こればかりは縁だから、飼う段階になったらそういう縁が舞い込んでくるのでしょう。

 

しかし・・・夢の中に出てきた黒の柴犬はたいそうかわいい子でした。

あんな柴犬と出会いたい(笑)

私が高校生になっても当時の父は40歳にもなっていない(若い!)

働き盛りの頃で、そもそも年に休みなんてお正月とお盆の2~3日くらいだったと記憶しています。

高校生になって父と同じスポーツでの部活を選んだのですが、女子のスポーツとしては黎明期に当たっていて、母は難色を示していました。スポーツをすることはいいが、女の子らしく育って欲しかったんでしょうね。

父は口出しはしませんでしたが、初めての練習試合の時に母と供にグラウンドに現れたのはビックリしました。

足が高校生では速かったにしても、それほど器用ではない私は、フィジカルのみで突っ走るだけ(笑)埃だらけの顔を見て母も「ああ、こんなに一生懸命なら仕方ないわ」と思ったそうです。その練習試合を見に行こうと言ったのは父だったとか。

ええ、それからはポジションがバックスになった私にレクチャーの嵐(笑)

それもあってか早くからレギュラーになれた気もします。

 

その頃、スパイクの前のあたりが剥がれて、テーピングで補強しながら使っていたんですね(もったいないし、スパイクは高いし)それに気付いた父がすぐに新しいスパイクを買ってきてくれました。

父は幼い頃に父(私からしたら祖父)を亡くし、高校生の時には母(祖母)を亡くしていて、大学も奨学金で行き、ご飯は友人のところを転々として食べていたそう。スパイクももちろん、ボロボロになるまで使っていたそうで、「怪我に繋がるから、スパイクはすぐに言いなさい」と言われました。

怪我が多かった私は、テーピングの巻き方などを教わりました。

高校生時代は、顔を合わせる時間は短くても、スポーツで盛り上がっていた物です。

 

さて、私は国語の教員になろうかなぁ、とおぼろげに将来を考えていましたが、その頃音楽と出会います。

※のちに母が、私がそちら関係の仕事に就いたのはあの時ギターを買っちゃったからだ、と嘆いていました(笑)

 

そして、大学受験に大失敗。ええ、昭和の頃です。今のような全入時代ではなく、きっぱりと大失敗しまして、行けるのが経済系の学部のみ。

。゚(゚´Д`゚)゚。

いや、無理無理。お金勘定とか、絶対出来ないもん!コメツキバッタのように頭を下げて、地方の大学の文学部に行きましたとも。我が家はそれほど裕福なおうちではないですし(父母が若い頃の子なので、それほどお金が貯まってない)、寮生活を送ることになりました。ここで、かけがえのない親友達に出会うのですが、それはまた別のお話。

一応、あくまで、一応、一人娘なので、父も母も車で寮まで送ってくれました。当時の女子寮は規則が厳しかったのですが、生粋の運動部育ちの私は気にならず。

申し訳なかったのは、ずっと専業主婦だった母がパートに出る羽目になったことです(父の要望で専業だった)

親元を離れて、当時は携帯電話なんてないから、葉書でやりとりしていました。父は筆マメな面があり、母の仕送りの品と供に「風邪をひくなよ」など一筆書いてあると嬉しかったものです。

まぁ、そんな親の気持ちやらなんやら、すっこーんと忘れ。

教育実習に行った時、「あ、私は教員にはなれないな」と思いました。そこで、音楽関係に就職をシフト転換。その頃は自分の作った曲などもあって、誰かいいボーカルいないかなぁ、なんて活動をしていました。

音楽関係の会社にさらっと就職をし(バイトからシフトしたので就職活動はしていない、気付いたら契約書を書かされていた)

大学まで出して、音楽関係とはこれいかに、と思われそうですが、父も母も特に反対はしなかった(と思う)

20代半ばまでは、会社勤め、自分の音楽活動などをしていましたが、たまーにですが、私のライブにも来てくれた父です。私も父が顧問をしている部活が全国大会に行くとなった時に休暇を利用して応援に行ったりしていました。

 

前の記事でも書いた通り、社会人になって実家に戻った際に、家賃と電気代、電話代を支払う取り決めをしています。そういう所はドライな家でした(当然ですが)

会社勤めをしておけばいいものの、舞台全般を学びたかった私は、少し男尊女卑気味なのが気になったので、30になった時にフリーランスになり、音楽関係の裏方の修行&仕事を始めます。最初は収入が安定しなくて、家に支払うお金のために定収入が欲しくて、同時に塾の講師のバイトもしていました。ちなみに塾講師は楽しすぎて、今でも続けています(笑)理系を教えるのが楽しい(ヲイ)

 

その時も、私は流れに任せてなんとなく、では、なくて、理由と目的を説明した上で父と話しています。父は「筋を通すこと」を叩き込んでくれたので、それでもめることはなかったです。

父が50代になってすぐくらいだったでしょうか。一度父が心の風邪にかかり、「仕事を辞めるかもしれない」と相談されました。

私自身がパニック障害に既になっていた頃で、父の様子を見て「ちょっとおかしいな」と思っていた頃です。「今まで頑張って来たんだから、少しお休みしたらどうかな?」とやりとりをしました。1ヶ月ほど入院した後は、要職を外して貰い、以降は元気になってくれたので本当に良かったです。

 

付き合っている男性も数人いましたが、そういうことをまったく突っ込まないのが父。ただ、30代半ば近くに出会った今のダンナとは奇跡的に4年ほどお付き合いしました。いや、彼は始めから「結婚前提で」って言ってたんですけど、年下だしねぇ、まぁ、そのうち諦めるだろ(ヲイヲイ)と思っていたら、

「仕事を辞めて転職する、引っ越しもする(私の居住市)、なので結婚して欲しい」

え?!!!

母には「付き合ってる人いるよ~」とは言っていたのですが、「どうしよう?」と相談したら「あんた、ここで結婚しなかったら詐欺よ、詐欺!!」

実の親に詐欺呼ばわりされました、私(笑)

まず、うちの両親とダンナと私で顔合わせ、ダンナのご両親と私で顔合わせ、で、両家の両親とダンナの弟と私達で食事会。

という段階を踏んで、結婚式場では「いや、ドレス、着るの?」とごねましたが、父はそのエピソードに大笑いしていました。

 

実際は結婚式の2ヶ月前からダンナとは同居していたのですが、結婚式の3日前からは実家に戻って、一応準備。(一応、ってなによ(笑)

前日、

「父さん、私、今までお世話になりました、とか、言わないからね?」

「いや、いい、言わなくていい」

ええ、私と父の性格そっくりなところが出ましたよ。結婚式でバージンロードを歩く際も、感動の「か」の字もなかったです。

歩調を合わせなくてはいけないので、「せーの」で始まり小声で「1,2,1,2」

のちに笑い話になりました。

 

結婚してからは、ダンナが転職したりとありましたが、3ヶ月に1度くらい外食、たいていは焼き肉だったのですが、4人で食事をしました。

父にとっては「のんびりしてるダンナだなぁ」と思ったようですが、父にそっくりな私が父にそっくりの男と出会ったとて、恋愛には発展しないでしょう(笑)

 

父が亡くなって、出来なくなったことがひとつ。

焼き肉屋さんに行けなくなったことです。

4人で焼き肉に行くと、私が焼き奉行で、父がダンナに「いっぱい食べろよ」とか、「ビール追加するか」とか言っているのやりとりを思い出しそうで、寂しくなってしまいそうなんですね。

 

お酒が好きで、お財布を落としてきたり、買ったばかりのジャケットをなくしたり、電車ですられたりとか、いろいろエピソードのある父ですが、やはりずっと尊敬できる人でした。

私が好き勝手な生き方を選んでも、それが「目的があるもの」ならば反対せずに、見守っていてくれました。周りの方々がおっしゃってくださった「風呂敷」のような人でした。亡くなってもう5年経ちますが、思い出はたくさん私の中に残っています。大事にしないといけないですね。

 

先月1/30は父の命日でした。2020年に亡くなったので5年が経ちます。

月命日前後にはお墓参りに行っているのですが、思えばこの5年、お墓参りで

雨が降ったことがない

「今日は雨だねぇ」

なんて、ダンナと言いながらお墓参りをしたこともあるのですが、何故かお参りしている最中は雨がやむのです。確かに父は生粋の晴れ男。

そんな父との思い出はたくさんあります。私は独身時代が長かったので30を半ば過ぎて結婚するまで学生時代を除いて同居していました。

社会人になってからは、実家近くの1ルームの相場の家賃、電話代、電気代を支払って来たので、逆に居心地が良かったのかもしれません(笑)

 

小学校2年生までは、一軒家の借家住まいでした(今、私が住んでいる町と同じ)

大学を卒業して2年で結婚しているので、幼い頃は貧しかったような記憶がありますが、昭和の時代ですから周りもそんなに贅沢な生活をしていたとも思いません。

借家住まいの頃は勤務先が遠かったせいもあり、とにかく顔を合わせない。なんなら父の仕事は警察官?なんて誤解をしていた幼き私です。若かった父はお酒を飲んで帰って来ることも多く、母の話によると、終電を逃してJR(当時は国鉄)の線路を歩いてきたとか恐ろしい逸話もあります(;´Д`)

とはいえ、数ヶ月に1度は焼き肉屋さんに連れて行ってくれたりしてくれました。

 

勤務先の近くの団地に引っ越したの私が小学校3年生の時。

ここからは勤務時間が徒歩20分になったので、朝ご飯は顔を合わせていました。(私は小学生中学年までは、午後8:00になると眠くなっちゃう子だったので)

父は付き合いの多い人でよく家に人が来ていたのを覚えています。母は大変だったろうなぁ、と思いますが、夫婦仲は良くて、晩年、亡くなるまで、父が出勤や出かける際は「いってらっしゃい」のチューをしていました。いや、ラブラブすぎるだろ、と(笑)

私は父に怒られたのは2回くらいだったと記憶しています。1度はピンポンダッシュしてゲンコツ1回。もう一度は記憶が定かではないのですが、なにかで嘘をついた時ですね。「信用は失うのは一瞬だ」と怒られています。手を上げられたのは、ゲンコツ1回の時だけです(ふざけて布団蒸し、とか、うめぼし~とかはされた(笑)

父は運動部の監督をしていたので、私にとってもスポーツは身近でした。小学校の頃は朝ランニングする父と一緒にランニングしたものです。小学生相手にも容赦しない父は、私のペースに合わせることもなく1周ぬきでどや顔をされて悔しかった私は妙に足の速い子に育ちました(笑)

中学生になると、さすがに私も部活の朝練などがあり朝ランニングは時間が合う時だけになりましたが

「勉強しなさい」

とか

「遊んでばかりいるな」

とか、一度も言われたことはなかったです。というか、中学生にもなると思春期ですから「お父さんの洗濯物と一緒にしないで」な時期があってもいいとは思うのですが、かなりボーイッシュに育った私は自身の服だって部活で汗まみれ(笑)

反抗期もあったとは思いますが、せいぜい、ぶつくさと心の中で悪態をつくくらい(父も母も怖かったんで、チキンな私はそのくらいが限界(T^T)

 

高校を受験する中3になった時、内申が足りなくて公立のトップに行けないと判明した中3の秋。私立はお金がかかると分かっていても、公立の2番手以降に行く気がしなくて、パンフレットで見た私立高校が運動部が盛んと分かって、目的を告げた上で塾に行かせて欲しい、と母に相談したらもちろん父にその話が行き、

「やると決めたならやりなさい」

と言ってくれて、私立の勉強などしていない私は中3の10月時点で偏差値50ちょいくらい(ショックだったわ、私立基準だとこんな低いの?って)

目標校の偏差値は65超え。

10月~1月の4ヶ月で、あれほど勉強したことはなかったと思うくらい、数学と英語を勉強しました。ちなみに国語は勉強らしい勉強をしたことがない。なんとなく取れちゃうので、塾でも国語は採らず。行った塾は小さな塾でしたが、水があったのか、1月には目標偏差値近くに到達。

 

そういえばこの頃、母が免許を取りました(当時、母は30代半ば)送り迎えもあったと思います。

それに触発された父がやはり免許を取得。負けず嫌いな父らしいエピソードです。

 

受験生とはいえ、父は特に私に何か言うわけでもなく、母の負担の方が大変だったと思いますが、母から私の様子は聞いているらしく、「風邪ひくなよ」とか、声はかけてくれました。

そして受験発表の日、めでたく第一希望に合格した日は、お寿司で祝ってくれました。

 

生まれてから中学生までの父の思い出は、仕事が忙しい人だったこともあり、あんまりないよなぁ、と思いながら書いていたのですが

※1ヶ月に1度の外食

※朝ランニング

※当時出来たばかりのディズニーランドに連れていってくれた

※夏場は毎朝遊んだ(虫取りとか、川遊びとか、いや、私、娘だけど(笑)

など、忙しい中でよく時間が取れたなぁ、と。

それを前に言ったら、「俺はやる時はやる男なんだよ」とドヤァ(笑)

そうは言っても、OBの方に遊びに連れて行ったことも多かったですけれど、一度懐に入れた人に対しては、縁を大事にする人で、調子のいい人や口先だけの人はあまり好かなかったようです。

 

そういえば、父が亡くなった時、父の勤務先の先輩にあたる方から、父のOBの方にこんなメールが届いたと転送して頂きました。

 

=引用

連絡をくれてありがとう。非常にショックを受けている。(中略)

風呂敷のような人で、大きく包容力があり、人間味の溢れる人でした。これからますます後輩を始動して欲しい人材でした。惜しい人材を失った。非常に残念でならない。

○○先生(父)と貴君(OBのSさん)とのやりとりを拝見して、江戸時代中期の「葉隠」の言葉。「武士道というは、死ぬことと見つけたり」を思い出した。○○先生は何事も本気に、死ぬ気で取り組めと指導したのではないだろうか。

死を迎え肉体は朽ち果てる。人間にとって死は最も恐怖である。生きていく上での恐怖も多々あるだろう。

人は死んだ気になってやれば、どんなことでもできる。敵は己の中にあり、己を超えられるのも己だけ。まさしく侍魂を有した人材でした。

 

 

こんな弔辞を頂いて、ああ、風呂敷って、ってストンと腑に落ちました。

娘ですから、あくまで「父」としての姿しか知りませんが、どんな形のものでも包める、そんな存在だったのだと思います。

 

石原裕次郎さんが好きで、その昔西池袋でブイブイ言わせていた(らしい、本人談)父との思い出は、私の高校時代からは、さらに増えていきます。