私が高校生になっても当時の父は40歳にもなっていない(若い!)
働き盛りの頃で、そもそも年に休みなんてお正月とお盆の2~3日くらいだったと記憶しています。
高校生になって父と同じスポーツでの部活を選んだのですが、女子のスポーツとしては黎明期に当たっていて、母は難色を示していました。スポーツをすることはいいが、女の子らしく育って欲しかったんでしょうね。
父は口出しはしませんでしたが、初めての練習試合の時に母と供にグラウンドに現れたのはビックリしました。
足が高校生では速かったにしても、それほど器用ではない私は、フィジカルのみで突っ走るだけ(笑)埃だらけの顔を見て母も「ああ、こんなに一生懸命なら仕方ないわ」と思ったそうです。その練習試合を見に行こうと言ったのは父だったとか。
ええ、それからはポジションがバックスになった私にレクチャーの嵐(笑)
それもあってか早くからレギュラーになれた気もします。
その頃、スパイクの前のあたりが剥がれて、テーピングで補強しながら使っていたんですね(もったいないし、スパイクは高いし)それに気付いた父がすぐに新しいスパイクを買ってきてくれました。
父は幼い頃に父(私からしたら祖父)を亡くし、高校生の時には母(祖母)を亡くしていて、大学も奨学金で行き、ご飯は友人のところを転々として食べていたそう。スパイクももちろん、ボロボロになるまで使っていたそうで、「怪我に繋がるから、スパイクはすぐに言いなさい」と言われました。
怪我が多かった私は、テーピングの巻き方などを教わりました。
高校生時代は、顔を合わせる時間は短くても、スポーツで盛り上がっていた物です。
さて、私は国語の教員になろうかなぁ、とおぼろげに将来を考えていましたが、その頃音楽と出会います。
※のちに母が、私がそちら関係の仕事に就いたのはあの時ギターを買っちゃったからだ、と嘆いていました(笑)
そして、大学受験に大失敗。ええ、昭和の頃です。今のような全入時代ではなく、きっぱりと大失敗しまして、行けるのが経済系の学部のみ。
。゚(゚´Д`゚)゚。
いや、無理無理。お金勘定とか、絶対出来ないもん!コメツキバッタのように頭を下げて、地方の大学の文学部に行きましたとも。我が家はそれほど裕福なおうちではないですし(父母が若い頃の子なので、それほどお金が貯まってない)、寮生活を送ることになりました。ここで、かけがえのない親友達に出会うのですが、それはまた別のお話。
一応、あくまで、一応、一人娘なので、父も母も車で寮まで送ってくれました。当時の女子寮は規則が厳しかったのですが、生粋の運動部育ちの私は気にならず。
申し訳なかったのは、ずっと専業主婦だった母がパートに出る羽目になったことです(父の要望で専業だった)
親元を離れて、当時は携帯電話なんてないから、葉書でやりとりしていました。父は筆マメな面があり、母の仕送りの品と供に「風邪をひくなよ」など一筆書いてあると嬉しかったものです。
まぁ、そんな親の気持ちやらなんやら、すっこーんと忘れ。
教育実習に行った時、「あ、私は教員にはなれないな」と思いました。そこで、音楽関係に就職をシフト転換。その頃は自分の作った曲などもあって、誰かいいボーカルいないかなぁ、なんて活動をしていました。
音楽関係の会社にさらっと就職をし(バイトからシフトしたので就職活動はしていない、気付いたら契約書を書かされていた)
大学まで出して、音楽関係とはこれいかに、と思われそうですが、父も母も特に反対はしなかった(と思う)
20代半ばまでは、会社勤め、自分の音楽活動などをしていましたが、たまーにですが、私のライブにも来てくれた父です。私も父が顧問をしている部活が全国大会に行くとなった時に休暇を利用して応援に行ったりしていました。
前の記事でも書いた通り、社会人になって実家に戻った際に、家賃と電気代、電話代を支払う取り決めをしています。そういう所はドライな家でした(当然ですが)
会社勤めをしておけばいいものの、舞台全般を学びたかった私は、少し男尊女卑気味なのが気になったので、30になった時にフリーランスになり、音楽関係の裏方の修行&仕事を始めます。最初は収入が安定しなくて、家に支払うお金のために定収入が欲しくて、同時に塾の講師のバイトもしていました。ちなみに塾講師は楽しすぎて、今でも続けています(笑)理系を教えるのが楽しい(ヲイ)
その時も、私は流れに任せてなんとなく、では、なくて、理由と目的を説明した上で父と話しています。父は「筋を通すこと」を叩き込んでくれたので、それでもめることはなかったです。
父が50代になってすぐくらいだったでしょうか。一度父が心の風邪にかかり、「仕事を辞めるかもしれない」と相談されました。
私自身がパニック障害に既になっていた頃で、父の様子を見て「ちょっとおかしいな」と思っていた頃です。「今まで頑張って来たんだから、少しお休みしたらどうかな?」とやりとりをしました。1ヶ月ほど入院した後は、要職を外して貰い、以降は元気になってくれたので本当に良かったです。
付き合っている男性も数人いましたが、そういうことをまったく突っ込まないのが父。ただ、30代半ば近くに出会った今のダンナとは奇跡的に4年ほどお付き合いしました。いや、彼は始めから「結婚前提で」って言ってたんですけど、年下だしねぇ、まぁ、そのうち諦めるだろ(ヲイヲイ)と思っていたら、
「仕事を辞めて転職する、引っ越しもする(私の居住市)、なので結婚して欲しい」
え?!!!
母には「付き合ってる人いるよ~」とは言っていたのですが、「どうしよう?」と相談したら「あんた、ここで結婚しなかったら詐欺よ、詐欺!!」
実の親に詐欺呼ばわりされました、私(笑)
まず、うちの両親とダンナと私で顔合わせ、ダンナのご両親と私で顔合わせ、で、両家の両親とダンナの弟と私達で食事会。
という段階を踏んで、結婚式場では「いや、ドレス、着るの?」とごねましたが、父はそのエピソードに大笑いしていました。
実際は結婚式の2ヶ月前からダンナとは同居していたのですが、結婚式の3日前からは実家に戻って、一応準備。(一応、ってなによ(笑)
前日、
「父さん、私、今までお世話になりました、とか、言わないからね?」
「いや、いい、言わなくていい」
ええ、私と父の性格そっくりなところが出ましたよ。結婚式でバージンロードを歩く際も、感動の「か」の字もなかったです。
歩調を合わせなくてはいけないので、「せーの」で始まり小声で「1,2,1,2」
のちに笑い話になりました。
結婚してからは、ダンナが転職したりとありましたが、3ヶ月に1度くらい外食、たいていは焼き肉だったのですが、4人で食事をしました。
父にとっては「のんびりしてるダンナだなぁ」と思ったようですが、父にそっくりな私が父にそっくりの男と出会ったとて、恋愛には発展しないでしょう(笑)
父が亡くなって、出来なくなったことがひとつ。
焼き肉屋さんに行けなくなったことです。
4人で焼き肉に行くと、私が焼き奉行で、父がダンナに「いっぱい食べろよ」とか、「ビール追加するか」とか言っているのやりとりを思い出しそうで、寂しくなってしまいそうなんですね。
お酒が好きで、お財布を落としてきたり、買ったばかりのジャケットをなくしたり、電車ですられたりとか、いろいろエピソードのある父ですが、やはりずっと尊敬できる人でした。
私が好き勝手な生き方を選んでも、それが「目的があるもの」ならば反対せずに、見守っていてくれました。周りの方々がおっしゃってくださった「風呂敷」のような人でした。亡くなってもう5年経ちますが、思い出はたくさん私の中に残っています。大事にしないといけないですね。