腰痛が再発しつつある。そんな状態でコンビニに行って雑誌を漁る。ゆっくりと中腰の体勢になって最下段のものを取り、読み終えても元の場所には置かず、目線の高さのラックに立てかけた。

書店のマナーには少しばかりうるさい僕である。立ち読みしている本を、平積みの本を台にして読む輩がいれば、読む気など全くないのにその敷かれた本を無造作に引っ張って舌打ちしながら、すみませんと謝らせることを日課にしているにもかかわらず、自分はといえばこの有り様。欲が満たされるまでは頑張るくせに用が済めば和を乱すなんて、いかに手前のことしか考えていないか理解した。

立てかけた雑誌を所定の位置に返そうとして、腰は下げないでその動作を試みたので尻が突き出た格好になり、屁をこきそうになった。とっさに尻を引っ込めたら腰に負担がかかって激痛が走る。

サン・ジャックへの道 ガイドに導かれ、老若男女8人がサンティアゴ巡礼の道を歩む。その道程を通して彼らは人間的に成長する。口論は絶えず、時には取っ組み合いながら、苦楽を共にして友情も芽生えた。とりわけ仲の悪かった兄と妹も雪解けが来た。いびきのうるさい3人組が宿の隣の部屋をとったと知った兄はジュクコウの末に妹の部屋をノックしようとし、妹はノックを聞く前に扉を開けて兄を迎え入れる。そほれほどまでにいびきが嫌なものなのかと、女流監督コリーヌ・セローの心中を察した。きっかけを与えるにふさわしい事柄にされたことが「いびきがうるさい」と言われる身にとって辛い。こっちだって好きでいびきをかいているわけではないのだ。

細かく刻むシーンととたびたび挿入される彼らの見る夢の映像が、スローライフ的な映画という想像を覆す。根本が解決するわけではない。心を無にする、または新たな価値観を知ることで彼らは非日常の過酷な巡礼で、それぞれ持つ日常生活での苦悩が角度を変えれば些細なことに見えてくる。


cococo 」あかん隊さん、「レザボアCATs 」とらねこさん、「瓶詰めの映画地獄 」栗本東樹さんと鑑賞。4人で見る機会なんて何年ぶりか記憶を探っても思い出せないくらい昔の話で貴重な体験だった。民族、年齢、環境の異なる9人の旅路と僕ら4人の境遇もどこかリンクしているようで楽しい。手近なところで四国遍路も興味がある。

浴槽を洗い、湯を張り、溜まるまで浴室から出て待っている時、鏡を見ると必ずといっていいほど右の乳首の辺りが濡れている。しかもグッショリと。なぜ常にそこなのかという疑問が解けない。左手にシャワー、右手にタワシを持っておそらく浴槽の底をしごいている際にシャワーが僕の右乳首を攻めるのだと思われるが、敏感なはずの僕のニプルスはそれに反応しない。静かに狙い打つ。これが左だったら我が家のシャワーはまさに殺し屋と表現できたのに。

ワイルド・アニマル パリに、南北それぞれのコリアから来た男二人の物語。南から来たチョンヘは芸術家くずれで同胞の作品を盗んでは路上で売って生計を立てている。北から来たホンサンは脱走兵で、特殊部隊に入ろうとしている。ホンサンがパリに着いた当日、チョンヘに騙されそうになったが、当面の生活費を稼ぐため彼と渋々組むことにした。フランス語ができて口八丁のチョンヘが指示を出し、鍛え抜かれた肉体を持つホンサンが実行する。マフィアの末端構成員として暴力を振るう毎日が続いた。コリアンに手を上げた時、ホンサンはチョンヘを「同胞を殴ることに抵抗はないのか」と罵ったのが印象的だった。国同士がいがみ合っていても人は民族としてシンパシーを感じている。「コーストガード」でも南北分断の悲哀、滑稽さを描いたキム・ギドクはそこに強い思いがあるように受けとった。

作品に自らを反映させることが特に初期作品に多いのかも知らん。ギドクがフランスに留学していた頃に何を思っていたのか。実体験に近いことも含まれているような気がする。腹に刺さる冷凍の魚、船の上での生活、マジックミラー越しに見るピープショーにはらしさがあった。一貫しているともいえる。荒削りで、安っぽく、ダサい音楽に包まれ、極めて小さい漏斗の先から僕は出た。

白鷺 緑道に がいることは知っていたが、きれいな白い鳥までいた。2メートルの距離で観察でき、まだ悠長に水を飲んでいる。同じように眺めていた男性に「これは白鷺ですかね」と尋ねると、何だそんなことも知らないのかさては余所者だな、然とした顔で彼は「鷺ですよ」と答えた。僕のほうが彼、定年を迎えたぐらいの年齢だろうか、その土地の人より背が高いのにわざわざ見下すような目の角度まで首を傾けられて蔑まれた。地元民への道は険しい。
受講者は過去最小の4人。盛り上がりに欠ける反面メタボリックな授業が受けられる。リズムやそのキープに関しては上達しているように自分で感じる。ただ、ジャンベから美しい音を出すことがいまだできていない。一朝一夕でできるものではないものの、これまではコツさえ掴めておらず五里霧中だった。ダビがヒロシを叩くと素晴らしい音が出るので問題は僕にある。それが、おそらく偶然、僕のぎこちない指のしなりから美しい一打を放つことができた。常にそれがきできるよう模索しているところ。
先日、暇だったのでmixiにてマイミクの人たちの紹介文を読んでいた。兄弟姉妹とマイミク登録している人もいて、一人っ子としては羨ましく、かつ興味深い。

ブンレツさんが友人からmixiに招待されたらしい。どうしたものだろう。彼女のページを覗きたいが反面、足跡をつけると僕のも見られることになる。それは絶対に回避しなければならない。仮に兄弟か姉妹がいたとしたら、おそらく僕はそれらにも見せたくないだろう。ブログと直結しているだけに。

自由学校 自由を求めて辞職した南村は家でゴロゴロしていた。内職をする妻の駒子に出社を促されるが、事情を話すと家を追い出されてしまう。彼はいよいよ自由になる。住所不定無職になった南村は、同じく嫁に捨てられた浮浪者と意気投合して寝食を共にするようになった。縛られない生活に居心地の良さを感じたのも束の間、しがらみはどこで何をしていてもついてまわることを知った。

夫はすぐに帰ってくるだろうと高を括っていた駒子だったがしばらくしてもその気配すらなく、半ば諦めた駒子もまた夫にとらわれず自由に恋愛を謳歌する。一線を超えることはなかったが、言い寄ってくる男は揃って似たようなものであることを知った。これは男女の機微、業、性を描いた傑作だった。結局、元鞘と思いきやひねりを効かせてから丸く収める。

脇を固めるのが杉村春子、淡島千景、佐田啓二、東野英治郎、笠智衆と豪華でしかもそれぞれがアクの強い役どころでそれだけでも見どころがある。佐田啓二が二枚目形なしのなよなよしたしたキャンディーボーイなんて面食らったが、彼の息子には演じきれない芸当で恐れ入る。笠智衆がまさか屈強な兵隊上がりとは、彼と認めるまでかなりの時間を要した。

気違い部落 デリケートな単語が並ぶタイトルにまず惹かれた。ゴダールの作品は邦題を変えたというのに、渋谷実のこれはそのままというのはネームバリューがそうさせているのか、フィルムの状態はすこぶる悪く細切れ状態だった。興をそがれたがシネマヴェーラが悪いわけではない。何度も中断して声を荒げる観客もいた。筋違いや、無闇やたらに怒ることは滑稽だ。

気違い部落の村民たちも滑稽だった。古くから伝わる風習を守り、それは時代錯誤で国の法律よりも重きを置かれていて彼らをがんじがらめにする。部落十四世帯を束ねる親方に背いた者は村八分にされた。狭く、痩せた土地にしがみつき、伝統の全てが悪というわけではないためそれに従い、現状維持に努める。

森繁久彌が務めるナレーションは登場人物と会話もしてそこに存在し、しかし姿を見せることはなく第三者の視点として透明人間であるかのようだった。俯瞰して見れば大概のことはおかしい。欲をかいて醜い彼らとその集落を笑うが、最後のナレーションと村八分にされた男のセリフは辛らつだった。日本のどこかというこの部落は日本のどこでもあるというような、もっといえば世界のどこでも、時代も問わず、当てはまる。

ジャンベ体験教室の受講者に相次いでドタキャンされたということで呼び出された。外で練習したいと思っていたが午前中はあいにくの雨で、降って沸いた機会に喜ぶと同時に、開始2時間前にも関わらず行けてしまう暇人ぶりの自分に複雑な胸中。広いスタジオを少人数で貸し切って贅沢な空間だった。久しぶりにジョレをやる。単純な2ビートはとっつきやすかったが、それだけに難しいということが分かってきた。技術向上においては最近どうも頭打ち。週に2回は周りに捕らわれず叩きたい。