髪を切ってトサカに磨きをかける。ハゲ ももはやチャームポイントに位置づける。男塾四天王の一人、卍丸は「伊達や酔狂でこんな頭してるんじゃねえんだ」といってそのモヒカンから刃のついたブーメランを、ウルトラセブンばりに投げる。手が不自由な時は足を使ってカニ挟みで放る。名前は忘れたが還暦を悠に超えた外見の彼の師匠も同じ頭をしている。クールだ。僕もいつかは何かを仕込みたい。そして民明書房の書籍から引用してうんちくを垂れたい。

宮下 あきら
魁男塾である 魁男塾奥義の書

動きを狭めること。打面は手前の半分で足りる。中音と低音でポジションをかえる必要はないといい、たしかにダビの動きを見ると寸分違わぬポジションを叩きながら音にメリハリがある。しかし実践できない。真似しようとしても中、低の判別が難しい音になる。そのドラミングが身につけばスピードにも対応でき、様にもなる。

リズムを2つ覚えた。テンポを速めると途端に音がばらつく。迷いばかり生じる。スタートラインにすら立てていない気がした。準備をしただけ。

枝垂桜2007 缶ビール1本買って駒場の東大へ。昨年 と同様に枝垂桜を堪能する。まだ春休みで学生は少ない。近隣の住民と思しき年長者のほうが目立つ。グラウンドでは野球部が連中試合の後らしく、片づけや着替えをしていた。観戦しながらの花見も乙なだけに残念だ。肌寒い天気に加えてビールで体が冷え、体が縮こまって体育座りの体勢になっている。早々に切り上げた。来年はシートと上着ともう数本のビールを持って長居しよう。一人で。
薄い紙切れ2枚を仮にA、Bとしてそれらをテーブルに置いた。空調の風が強く、タバコを吸おうとした隙にAが飛ばされて地面に落ちた。テーブルの下に潜ってAを拾い、顔を上げると今度はBが風に吹かれて落ちた。Aを置いて、潜り、Bを拾い、体勢を戻すとAがまた落ちた。ここまでの間、何か適当なものを重石代わりにすれば済むということが思いつかない。ライターをBの上に置き、潜り、Aを拾い、体を起こそうとした時に後頭部をテーブルにぶつけた。録画してほしいくらいに無様だ。
ジャンベ仲間と飲み。日中のセッションは参加できなかったが宴には間に合った。時間や場所などの連絡をメールしていて携帯の送信履歴が500件を超え、古いものから削除されていることが分かった。

1行だけの他愛もないメール、縁が切れた人へのメールを帰宅してからしこしこと削除する。80近く抹消した。ずぼらなくせにこういうところではこだわる。受信履歴もキャパシティを超えた時、同じようにしこしこやるだろう。その辺りが大容量の携帯電話を次は狙う。

ジャンベ関連のCDかDVDが欲しくてボゴランマーケット へ。店員に薦められたものは超絶ジャンベに、おそらくバラフォンと思われるメロディを支える楽器と、力強くも華やかな女性のコーラスが赤い大地と黄色い太陽と緑の木々を想起させる。ただ裏ジャケットが思わず「ださっ」と口走るほどにイカしていない。先にアルバムを見ていなかったら買わなかったかも知らん。

ヒロシは僕にとって養子 にあたり、民族楽器店で多数のジャンベが並ぶのを見るのは初めてだった。見た目や重さ、紐、皮、木、音も当然違い、目移りするがしかし浮気は良くない。その後、よるのひるね で飲む。なかなか有意義な一日だった。

割と若い Fode Seydou Babgoura

FAKOLY 1

動物の言葉が分かるようになった。流暢に日本語を話す。彼らは命乞いをし、菜食主義者が増えた。これで植物までもが話すようになったら大変なことになる。野菜をも食べることができず、餓死する者も増えてしまう。

起きてから思い返してみると、例えばモンゴルの遊牧民族などは家畜に敬意を払い、一滴の血すら無駄にせず、そういった姿勢さえ持っていれば薄っぺらい道徳心を振りかざす必要もない。飽和状態で生ぬるい日々を送っている僕が見る夢など大体が浅い。朝食のソーセージがおいしかった。

ものすごく、ブログが書けていない。とても、困っている。しかも多忙を極めているとか、気持ちに余裕がないとか、大きな事件があったとか、特別な理由がないにもかかわらず滞ってしまった。

まず映画の記事の筆が進まない。そこで詰まっていたずらに日にちだけが過ぎる。すると次の映画を見る気になれない。年間100本の目標が遠ざかる。やる気を失う。悪循環に陥った。とりあえず映画を飛ばしてブログを進めようと決めた。実際の日付に追いつくことが先決だ。

講師のダビが口を酸っぱくして言うのはきれいな音を出すこと。リズムを覚えるのは二の次だということ。反復練習さえすればリズムは誰にでもできる。地響きのような低音、自然体で打つ中音、澄んだ高音のメリハリは模索し、自ら切り拓かなければならない。鳴らない。積み重ね、怖し、再構築の繰り返し作業が続く。奥が深い。ジャンベに限らず打楽器、に限らず楽器全般、に限らず何ごとにおいてもそれは当てはまるのだと思った。旅の途中。しかも序章。

青銅の基督 山道も集落の通り道もつづら折りで、、折り返しの地点にカメラを据えると人がフレームに長くおさまる。その道を隠れキリシタンが逃げ、役人が追う。江戸時代、信仰を否定した幕府はキリシタン排斥の手を緩めることがなかった。

宣教師のフェレラは拷問に耐えかねて転ぶ。信念を捨てただけでなく幕府にスパイを命じられ、同士を密告する犬に成り下がった。豪邸を与えられて不自由なく暮らし、環境は人を変える。フェレラは始めこそ苦悩するが徐々に顔つきも変わり、精神まで売った。鋳物師の裕佐はモニカと恋仲にあったが自らはキリシタンではなかった。頼まれ仕事で踏み絵にする青銅のキリスト像を作り、その出来栄えがあまりに素晴らしかったため処刑されることになった。キリシタンの火あぶりを冷ややかな目で見るフェレラや、その前に殺されることになって往生際の悪さを露呈する裕佐とは対照的に、踏み絵を踏まなかったキリシタンたちは気高かった。敬虔なモニカはそれを踏めるはずはなく、キリシタンではないにもかかわらず遊女の君香は裕佐に片思いをしているがために彼の作ったものを足蹴にできず、地獄絵図の一端を担う。香川京子も山田五十鈴も高貴な様子が美しい。プライドの低い僕だが、ほんのわずかな譲れない部分は死ぬまで尊厳を保ちたいものだ。どう生きるかよりどう死ぬか。やんごとない理由で息を引きとるのであれば何を残すか。一つとしてやり遂げてはいない身なので死に様だけは誇りを固持する願望がある。