アナログオーディオと音楽★NetThePopブログ

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アナログオーディオと音楽の雑文~自作オーディオと隠れた名盤etc
ヤフブロ移民組

 旧知の音楽仲間3バカトリオで映画を見に行こうということになる。で、一人用事のため脱落。2バカコンビになる。とここまで書いて3バカトリオの語源が何なのかウィキペディアて調べたりする。どうでも良いことなので解説省略。

 10代、20代の頃に比べると映画館に足を運ぶことはほとんどなくなっている。1年に1回行くかどうか。苦手なのはCGとSEをふんだんに使ってスピード勝負でくる映画。作品の良い悪いではなく辟易という状態になってしまう。

 そんなに頻繁に行くことのない映画館は大抵、貸し切り状態であるが、昨日行った席数40ほど地方のミニシアター、20人くらいの人がいて、ちょっと驚いた。

 閑話休題。見た映画は加藤和彦の生涯の一部を描いたもの。ネタばれになってしまうので詳しく書かないが、この手のミュージシャンのバイオグラフィー的な映画の作りの基本は、当時を知る関係者の証言で進み、途中で演奏する場面を織り込むというものが多い。本作もその作りだった。個人的には、この手の作りは途中で飽きてしまう。要らない証言よりも未発表の演奏映像を一曲でも多くフルで流せよと言いたくなる訳である。加藤和彦が、フォークルからスタートし、ミカバンド、ソロに至る過程を描いていた。しかしながら、ソロはほぼヨーローパ3部作で終わっている。ここがちょっと残念というか、深掘りすると切りがなくなるから仕方がないのかも知れないが…。

 終盤、高野寛が「あの素晴らしい愛をもう一度」をトリビュート録音をプロデュースするシーンを見ていて、20年以上前に無茶ぶりで彼のライブを2回主催した時から、こんなに時が流れたのかと、ごく個人的な実感があったりした。

 そして、プラスアルファ。何故?ミカバンドがなくなったのか疑問が解けた。その理由を知って、私個人の中で、名プローデューサーのクリス・トーマスの格付けがちょっと下がった。当時の音楽雑誌には、その手のスキャンダルは報じられてはいなかったから…。ここは敢えて詳しく書かない。ある意味、どうでも良いと思う方もいるだろうから。

 加藤和彦がプロデュースした沢山の作品がある。泉谷しげる、吉田拓郎、竹内まりや、岡林信康、etc。楽曲提供も沢山ある。

 しかしながら何故か私が思い浮かべたのは1980年にデビューしたEXというギターとドラムだけのロックバンド。全然売れなかったが、その不思議な雰囲気が好きだった。Youtubeにあがっている動画は一曲のみで、その魅力は充分伝わらないかも知れないが下記にリンクしておくので、お聞きあれ。

 

ウィキペディア

映画.com 

 

 

 

 

 

 

 

Written by 鹿毛不二彦

 

 

 

 ここ一週間、請負仕事で慌ただしく過ごしている。と言っても別にお金になる仕事ではない。そんなこんなで新聞もまともに目を通さずにいた。昨日の地方夕刊紙に先ほど目を通したらフラソワーズ・アルディの訃報。時事通信社の配信記事を地方紙が載せたものだろう。「あー」と頭の中で呟き、「ふー」とため息。

 

 1970年代、私が少年だった頃、ラジオの洋楽ヒットチャート番組では英米のポップスやロックに混じって、フレンチポップスもチャートインしていた。そんな時代の一曲にフランソワーズ・アルディの「さよならを教えてComment te dire adieu」がある。

1968年にリリースされた曲だが、日本でシングルカットされてヒットしたのは、調べてみると1973年だった。この曲の原曲はアメリカの作詞・作曲家チームのもので、フランソワーズ・アルディが歌うことになってセルジュ・ゲンズブールがフランス語の歌詞を書いた。

 彼女のもう一曲の日本でのヒットは「もう森へなんか行かないMa jeunesse fout le camp」。1967年リリースの曲だが、日本では1979年、山田太一脚本のテレビドラマ「沿線地図」の主題歌になりシングルリリースされた。

 

 1990年代、渋谷系の時代になった頃、ゲンズブールを深堀りすると同時にフランソワーズ・アルディと一方的な再会することになる。仕事で上京すると渋谷のHMVなどで彼女のアルバムを探して買い集めた。当時、ゲンズブールの出演したテレビ番組がビデオソフトとして発売されて見ることがあった。そこに若き日のフランソワーズ・アルディーが歌う姿があり、妙に感動した。また、偶然その時期にブリットポップの全盛期バンドであるブラーが彼女と共演し、それなりにフランスのカリスマ的シンガー・ソングライターの復活という雰囲気となった。

 

 彼女の面白いところは、デビュー当時のアイドル的イメージを全部払拭するが如く、大手レコード会社を抜け、1968年にインディーズレーベール「ヒポポタン」を作ってしまうところだったり、英米のアーティストの楽曲を積極的にカバーする行動力にあったりする。カバーについては同時代者のニール・ヤング、ランディー・ニューマンなど、それ以前の時代のエルビス・プレスリーやリッキー・ネルソンなど、その選曲のセンスはとても秀逸だった。

 

 個人的に一番好きなアルバムは「私生活Et si je m'en vais avant toi」1972年リリースだったりする。

 

 この文章を書き始めて、時代考証したり色々調べていたりしたら、夜が明け始めている。絶句。再び「あー」と頭の中で呟き、「ふー」とため息。ちなみに彼女のホームページには何故か未だに訃報は記されていない。

 

ウイキペディア

公式ホームページ

 

 

 

Written by 鹿毛不二彦forブレイン・スタッフ

 

 何時だったか忘れてしまったが、(半年くらい前?)amazon musicでポール・ウィリアムズ作のプレイリストを作っていて、モンキーズの「サムディ・マン」という曲を発見した。1969年リリースの「インスタント・リプレイ」の時期に録音された曲らしい。当時のレコードに収録されてはいない。CDのボーナストラックになっている。何となく良い曲と演奏でプレイリストに入れた。

 モンキーズはデイビー・ジョーンズ(vo),ミッキー・ドレンツ(dr),マイク・ネスミス(g),ピーター・トーク(b)からなるアメリカのポップスバンド。セブンイレブンのCMのBGMもしくは忌野清志郎の「デイドリーム・ビリーバー」が彼らのヒット曲のひとつ。

 いきなり何でモンキーズかと言うと、ネット上のポイントでもらったソニー系の配信サイトの有効期限が切れるので、色々悩んだ末にモンキーズの5枚組のオリジナルアルバム・セットをダウンロードした。それで改めて彼らのアルバムを聞き、プロフィールを調べてみると面白かったりしたという呆れるような個人的事情でしかない。今、自分で持っている彼らの作品はシングル盤1枚、ベスト盤CDが一枚のみ。10代の頃、2枚組のベスト盤LPを持っていたような気がするが…。

 もともと嫌いではないバンド。アメリカのショービズ界がでっち上げられたバンドであるが故に評価は低い。ビートルズを模したバンドをオーディションで作り、テレビシリーズで金を稼ごうという仕掛けだったから。反面、ソングライターには恵まれていた。キャロル・キング、バリー・マン、ボイス&ハートなどの楽曲提供を受けていた。

 私はリアルタイムで彼らのテレビ番組を見ていた訳ではない。「ザ・モンキーズ・ショー」は米国では1966年から、日本では1967年から放送されたらしい。私が見たのは再放送。多分1970年代に入ってからだろう。手元にビデオ録画もあるが、これは1980年代の再放送。一話は、たった30分(CMを抜くと30分ない)の番組で他愛のないエピソードと曲の演奏を交えた内容だが、面白い。

 彼らは3枚目のアルバム「ヘッドクォーターズ:灰色の影」から自己主張を始める。「演奏も出来ない似非バンド」という汚名返上。プロデューサーは元タートルズのチップ・ダグラスとなり、1967年にリリース。内容の是非に関係なくヒットしたアルバムだった。この年に録音されたライブ音源もあり、「ちゃんと演奏出来るバンドたぞ!」という証明なのだが、ライブ盤がリリースされたのは1987年だったりする。

 調べていて驚いたのは1967年に彼らは3枚もアルバムをリリースしていたこと。狂気の沙汰である。売れるうちに売っておこうという体制。唖然。

 1968年にテレビ番組は打ち切り。ピーターが脱退。3人での活動は続くが人気は下降線。その後マイク脱退。残ったデイビーとミッキーでモンキーズは続くが1970年に消滅する。

 1975年に彼らの初期の曲を書いていたソングライティングチームのボイス&ハートとデイビー、ミッキーが「ドレンツ,ジョーンズ,ボイス&ハート」を結成し、アルバムをリリース。日本では「ニューモンキーズ」と言うグループ名となっていた。来日公演も行いライブ盤とあったりする。

 今やモンキーズの4人のうち生きているのはミッキーのみ…。

閑話休題。「インスタント・リプレイ」良いアルバムである。

・公式サイト

・ワーナーミュージックジャパンサイト

・日本語版ウィキペディアによるモンキーズ解説

・英語版ウィキペディアによるモンキーズ解説 

 

※「ざんねんないきもの物辞典」という脱力、苦笑するような書籍がある。そこからの連想で、このブログで「残念な一枚」なるテーマフォルダを作った次第…気まぐれにテーマは続く予定。