アナログオーディオと音楽★NetThePopブログ

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アナログオーディオと音楽の雑文~自作オーディオと隠れた名盤etc
ヤフブロ移民組

 今年の6月はビートルズ来日60周年だった。だからどうした感があるが、関連本らしきものの発売広告や来日当時を話題としたテレビのニュースクリップなどを目にした。どうせなら武道館コンサートを映像やCDで正式リリースしてくれれば言う事はないが権利関係でそう簡単に行くものではない。過去には著作権違反の壁をどうやって潜り抜けたのか不明のままのビデオやレーザーディスクで堂々と売られていた時期があったが…。

 どさくさに紛れてビートルズのアルバム「ラバー・ソウル」の各種特別編集盤が10月にリリースされる。60年という数字にこだわるなら1965年作品なので昨年リリースされているべきなのだろうが…その辺の事情は良くわからない。本来の60周年ならアルバム「リボルバー」となるはずなのだが。この手のリマスター盤というのはマニア向けと言うか大人買いマーケットに向け商品で何だか訳がわからない。もともとの作品をリマスターした音源にアウトテイクを盛り沢山加えて高額商品にして売り出される。アウトテイクはリハーサル録音、演奏ミス録音である。海賊盤で流通していたものを今更正式音源所有者がリリースする…一つの作品として発表されていたアルバムよりオマケ音源が重宝されるみたいな雰囲気が好きではないので私個人は買わないことが多い。どうしても聞きたいなら配信で聞き流すことにしている。

 

  "Elvis"のバッヂをつけたジョン・レノン。風で長髪が乱れてなびいている。ニューヨーク、ダコタアパートの屋上で撮られたモノクロの写真が表紙となっている。「ジョン・レノン-運命をたどる-ヒーローはなぜ撃たれたのか」と題された一冊…昨年の12月に出版された書籍について今頃書く。

 ジョン・レノンが何故殺されなければならなかったのか?著者の青木冨貴子の渾身の、執念のルポルタージュである。彼女はもともと日本の第二次フォークブームからニューミュージックブームの頃に集英社から出版されていた音楽雑誌「guts-ガッツ」の編集者だった。その後にノンフィクション作家になり、アメリカのニューズウィーク本社の日本支局長になる。また、私の敬愛するアメリカの作家(卓越したジャーナリスト、コラムニスト、小説家)である故ピート・ハミルの妻でもあった。

 彼女は殺人犯であるマーク・チャップマンと直接会い、何故犯行におよんだのかを聞きとろうとする。彼女自身も熱心なビートルズファンであること、夫であったピートが過去にジョンのインタビューした時の原稿を目にしたこと、そしてピートの弟で写真家のブライアンが表紙となっているジョンの写真を撮っていたこと等々の要因も重なる。

 彼女は1984年10月から刑務所にいるチャップマンにインタビューをしたいとの手紙を送り始める。当然拒否されるが、紆余曲折を続けながら34年4カ月かけて2019年3月に直接犯人と面談する。そこまで辿り着くまでに彼女はハワイまで出かけ犯人の妻と会って話を聞いたりもする。しかし、それは単にジャーナリスティックに犯人の妻を糾弾するようなものではない。きちんとコミニュケーションをとり犯人像を探っている。

 この著作が秀逸なのはビートルズ時代からソロとなり亡くなるまでの軌跡と照らしながらジョン・レノン像についても適確に書いている点にもある。来日した際の軽井沢でのエピソードも好感である。どうでも良い話だが、私はこの手の本を読むと読書スピードはもの凄く遅くなる。登場する曲を途中、途中で全部聞き直してしまうからである。この本を読んでる時も結局そうなった。

 ジョン・レノンは「god」という曲で「神など信じない」と歌った。しかし、殺人犯は収監後に神への懺悔まがいの意味不明な文章を書き散らし、それがアメリカのとある宗教団体を通じて印刷物になり世に出ていたことを本書で知り私は驚愕した。犯人の人格異常、そうなるプロセス。ノンフィクションとしての書き方、ルポルタージュとしての書き方、その作風が混然一体となりながら絶妙なバランスを保っている。

 本書に答えはないかも知れない。読み終わってから色々な連想をする。誰でも簡単に銃を携行出来る国。宗教をバックボーンに保守を掲げ気の狂ったリーダーを生み出し世界を混乱させている国と今。etc、etc。

 難しい理屈付けをするつもりはないが、一人のビートルズ・ファンが書き上げた一冊は同じビートルズ・ファンとしては脱帽するしかない。

 

「ジョン・レノン-運命をたどる-ヒーローはなぜ撃たれたのか」

青木冨貴子 著 講談社 定価2,200円(税込み)

 講談社サイト試し読みあり→

 

 青木冨喜子profile wikipedia→

メディアとしてロックン・ロール

 音楽評論家というのは今や絶滅危惧種だと言われている。何年くらい前からのことなのか覚えていないが、音楽ライターとかいう呼称が聞かれるようになった。また最近だと〇〇音楽研究家とかいう肩書も見かける。

 偏見で書くと音楽ライターが書くのはレポート的文章が主。坦々とそのアーティストのコンサートの開催状況とかレコーディングデータを書き綴って升目を埋めている場合が多い。情報収集に余念がない事には感心するがあまりにも冷めた視点で書いている書き手が目につき、「あなた本当にこのアーティストとか音楽とか好きなんですか?」とか聞きたくなる。

 〇〇音楽研究家となると研究という名のもとに例えばアルバム何曲目の何とかいう曲はどうのこうので素晴らしいという様な記述で第三者が読むと意味不明な文章で自己満足で終始している事が多い。何か、いにしえのロック喫茶やジャズ喫茶のカウンターで熱弁をふるっている嫌なタイプの常連客の話を耳にしているような気分になる。

 以上は偏見に満ちた私的なイメージ。いずれにしても読み手を意識していない。所詮、紙から音は出ないということを理解していない。

 

 音楽評論家が絶滅危惧種であると同時に音楽雑誌も絶滅危惧種である。音楽雑誌も今の時代、何を誰に向けて発信して良いのかわからない状況の中で喘いでいる気がする。ロック、もっと枠を広げてポピュラー音楽もそれなりの歴史が出来上がっている。しかし、編集者なり書き手なりが今や世代交代している。仕方ないことなのだが、その音楽が生まれた頃の「時代の空気感」を知らないため、考古学の発掘作業の結果発表みたいになってしまう。

 レコードやカセットが再評価されているなどと言われているものの、今の時代、配信で音楽を聴くのが当たり前になって、CDが出ても買わない人口が増えている。すべてネットで済んでしまうから、見方によっては無限大に音楽を聴ける幸福な時代の様に思える。絶滅危惧種の音楽評論家や音楽雑誌に頼らなくてもバズったものを聞いていれば事は済むみたいな風潮になっているから。

 

 渋谷陽一が逝ってから一年経って「メディアとしてのロックン・ロール 渋谷陽一評論集」という書籍が二冊出版された。上巻が1972~1996、下巻が1997~2025年。

 このタイトルは1979年6月に出版された「ロッキング増刊・メディアとしてのロックン・ロール」という書籍から取られている。この強烈なタイトル、私も昨年ブログの記事で使わせてもらった。

 今回出版された二冊は、ロッキング・オン、同社発行の雑誌(ロッキング・オン・ジャパン、カット、サイト、ブリッジ、サイト・アート)、同社のブログ、日本経済新聞の原稿、同社主催のフェスであるロック・イン・ジャパンの会場での主催者メッセージ、巻末には大貫憲章と伊藤政則の対談などがおさめられたいる。

 彼はロッキング・オン、ロッキング・オン・ジャパンという音楽雑誌で収まりきらない部分、映画であり漫画であり色々な表現行為をレビューする雑誌を次々に創刊する。その中のひとつサイトという雑誌は途中から政治批判、原発問題まで取り上げる雑誌になったりする。

 ロッキング・オン初期の頃、その文章には「〇〇はゴミだ!」「〇〇は豚だ!…と書くと豚に失礼」とか今の時代だと炎上しかねない言葉が綴られている。ビートルズから始まって、ロックが好きでたまらなく、演奏する立場ではなく、その表現行為から受けた衝動を伝え、如何に共有するかという熱意は、常に古い価値観とのぶつかり合いの中で語られて来た。

 本書の中に「別にとりたてて強い思想的背景があるわけではない。あえて言うなら、ロックに植え付けられたラブ、ピース、そしてフリーという中学生レベルの思い込みである。」雑誌サイトに書いたそんな一文があった。ロックというある意味でのエンタテイメントの根底にあるものは何だろうと今一度再確認したような気分になった。そんな本なのである。

■メディアとしてのロックン・ロール 渋谷陽一評論集

出版:ロッキング・オン 上下巻とも定価:2,000円+税 

 

 

追伸

 私は今でも毎月ロッキング・オンを買って目を通しているが半分以上は意味不明である。まあ自分の知らないアーティストを聞こうと思えばネット配信で聞くことも出来るのだろうが、そんな時間もない。そう考えるとラジオ、雑誌を上手くメディアミックスしてくれていた渋谷陽一の手法は今となっては凄くありがたかったと思う次第である。

 

 

 

 

 

うじきつよし×安達久美2026  

 

 原稿を三本書こうと思っていていっこうに進まない。6月下旬に両目の白内障の手術をしてある程度調子が戻るまで結局半月かかった。全く眼鏡がいらなくなる焦点調整ではないので、退院してから検眼して新しい眼鏡が出来あがるまでで一週間を要した。

 その間にどうしてもパソコンを使って文書を作らなけばならないボランティア業務的なことがあって何とかこなしたのだが、裸眼ではちょいと厳しかったりもした。だからブログも放置状態だった。

 で、世の中すっかり夏である。前述したような事情なので、今更6月に行ったライヴについて書くことになる。まるで夏休みに入ってからいきなり宿題につまづいた小学生のような気分である。

 

 AU LIVE SHOW IN HOKKAIDO TOUR 2026

    うじきつよし×安達久美

 @ ロックバーJAM 苫小牧 6/12

 

 うじきつよしが自分の住む街に再来するようになって4回目のライヴ。2回目から安達久美とのユニットになっている。

 うじきつよしとは子供ばんどが今はなき地元のライヴハウス"アミダ様"にやって来た時からの付き合いである。何だか知らないが、彼は音楽評論家まがいのことをやっていた私のことが凄く怖かったとか言う。そのネタで去年もライブのMCでいじられた。今年はなかったので安堵。

 

 この日はいつものように今はなき…今はなきが続くが…自分達が主催していた幻のロック・フェスのメンバーが迎えに来てくれる。感謝。店に向かう途中でまた一人、元フェスのメンバーをひろう。店の前に並ぶつもりでいたら何んと一番のり。

 

 一部、アコースティックセット。二部、エレクトリック・セットとお約束の運び。

 写真を撮るのと酒を飲むのに忙しくて何がどういう順番で演奏されたのか今や記憶曖昧。何だかわからないが私並びに私と同行した連中に元職場のM君が無制限にお酒を奢ってくれた。感謝。

 一部、順不同で記すと、パンタ「時代はサーカースの象にのって」、ビートルズ「ドライヴ・マイ・カー」、子供バンド「さよならボーイ」…だったかな?と思う。「たどりついたらいつも雨ふり」では、あるお客さんがお兄さんの遺品のGibsonJ-45を持参し、そのギターを弾いてほしいとのリクエスト。うじきがそれに弾いて歌ったりもした。

 二部、ツアーコンダクターの小西順氏がドラム、店の常連客で謎のHiroshi氏がベースに加わる。リック・デリジャー「ロックン・ロール・フー・チークー」、ジミ・ヘンドリックス「リトル・ウイング」、ジェフ・ベック「レッド・ブーツ」、子供バンド版「サマー・タイム・ブルース」等々。ベックにもクラプトンにもジミヘンにもなれる安達の本領発揮である。

 相変わらず凄いプロレス試合を見たようなライヴだった。でも私の心に残ったのはジョン・メイヤーの「waiting on the world to change」-うじきつよし和訳-だった。平和を願う歌である。ある意味プロテストソング。

 うじきの平和願望に関する言動、行動がネット上で炎上したりしている。でもライヴの場で彼は直接的にそんなことは語らない。

 

 Bakaichiが愚行を繰り返す-BをTと記すと検挙されるかもしれない(笑)-、加えてA国、R国、C国、NK国の頭のおかしいリーダー達…毎日、テレビのニュースや新聞の紙面を賑やかす。

 

 ロックが異議を唱え、反抗をしていた「いにしえ」と「今」…残念ながら未だに数十年前と変わらない。

 

 変な締めでこの原稿終了。