Live with Max. -27ページ目

Live with Max.

世の中のあらゆることは、人間関係に行きつく。
そんな視点でいろんなことを考えながら書いています。

 前回はアドラー心理学について、少しだけ書いた。実はだいぶ前にもアドラー心理学について書かかせていただいたことがあったが、『7つの習慣』もその影響があらわれていると言われているし、僕が好きな『Life Strategies』なんかもアドラー心理学が源流のように感じる。アドラー心理学は本当に素晴らしいと思うので、今日はちょっとそのことについて書いてみたい。

 人生も世界も、多くの矛盾や混沌に溢れている。あなたもこんな言葉を口にしたことはないだろうか。『人の気持ちって難しいよね』『世の中って複雑だよね』
 僕もそんなことを言ってたし、今でもそんなことが頭を無意識に過ることはある。だからこそ、アドラー心理学を知った時、もの凄い衝撃を受けた。人の気持ちや世の中が難しく、複雑だというのは客観的であるように感じる。しかしアドラー心理学ではそうではなく

『人は自らが意味づけした主観の中に住んでいる』

 としている。つまり人生や世界が難しいのではなく、自分自身がそれらを難しく困難なものにしているということ。

 アドラー心理学の特徴の1つに『原因論』と『目的論』の違い、があげられる。例えば、今の自分自身の状況について、そうなってしまうような出来事が過去にあったとする。
 現在の自分がそのように過去によって規定されるというのが『原因論』。確かに、過去の経験がその後の人生に何らかの影響を与えることはある。でも、『自分はそのような経験をしたことが原因で、今もこうなっている』と考えるのだとすれば、それはそう考えたい目的がその人の中にあるからだ。これが『目的論』。仮に現状が不満で幸せでないとしても、その目的に沿った行動を続けていることは間違いないという。

 『いや、そんなことない、私は◯◯というふうに変わりたいんだ』と思っていながら、変われないままでいるのは何故か?それは変わらないでいることで目的が達成されているから。たとえ自分はもっとこうなりたい!という思いがあり、現状に不満があろうと、決して好き好んで現状を維持しているわけではなくても、『今のままのわたし』でいる方が楽だし、安心だから。
 
 つまり自分を変えることは怖いことなのかもしれない。変えようとすることは『勇気』がいること。いろんな不安や恐怖が待ち構えている。

 今の仕事をやめて起業したいけど、失敗はしたくない、将来の先行きは見えない、生活はどうなるのか?今のままの自分では、まだダメだ。ということかもしれない。
 引きこもりを脱却して社会にでてハツラツと生きたいけど、何年も仕事をしていなかったのだから面接を受けても採用してくれるところなんかないのではないか?今までは家の中で家族が心配して色々面倒をみてくれたが、大勢の人の中に入れば自分は見劣りする、でも今までのように自分を大切に扱ってくれる人なんかいない。ということかもしれない。
 
 そうやって意識的だろうが無意識だろうが、『変わらないという選択』を繰り返している。人生や性格を変えようとする時に突き当たる不安よりも、変わらないことでつきまとう不満を選択している。自分の過去の体験や世の中にその理由があるおかげで、自分への不満や、思い通りになっていない人生を納得させることができている。だけどそんな理由ばかり考えていることは苦しいことでもある。これが先に述べた、人生や世の中が困難なのではなく、自分が難しいものにしているということの1つといえるかも知れない。

 自分が思う通りに生きたいと思い、勇気を持って不安な道を選んだ結果、その願いは砕け散るかもしれないが、それによって成長できるかもしれないし、ダメだと分かって別な道を見つけるきっかけになるかもしれない。いずれにせよ、前に進むことはできている。
 逆に、やるべきとを目の前にしながら、やれない理由をひねり出し続ける自分が人生や世の中を難しいものにしてしまっている。
 

 『人は自分の過去の経験によって規定されるのではなく、その経験にどのような意味を与えるかによって自らを決定する』とアドラーは言う。だから『過去は関係ない。今、何を選択するか?』そして『それは全て自分で選べる』ということ。

 とはいえ、自分で選んだのではないものたくさんある。そしてそれらは確かに人生に影響を及ぼしていることもある。不満もあるだろうだろうし、自分と他人の境遇を比べて羨まし思ってしまうこともあるかも知れない。だけどそこで終わってはいけない。これまでの人生に何があったとしても、これからの人生をどう生きるかには何の影響もない。今の自分が決めることだ。
 
 さて、ここまでいうと、アドラー心理学って、なんて厳しい考え方をするんだろう?と思われるかもしれない。僕も最初は、言ってることは分かるけど、自分がしたいことを選択したくてもできなことだってたくさんあるじゃないかと考えていた。そこがどうしても受け入れられなかった。
 でも、何度もそのことを考えているうちに、どうしても避けられない自分への言い訳が繰り返されていることに気づいた。『もし自分が◯◯だったら』とか『環境さえ整っていれば』とか。そっか、そうやってただ可能性の中に生きているうちは決して何も変わらないじゃないか。その意味がやっと分かった。

 だから、結果がどうなろうと、前に踏み出す『勇気』が必要だ。自分を変えようとすれば不安があるのは当然。不安だから勇気がでないのではなくて、そもそも不安を選択する勇気を持とうとしていなかったんだ。

 アドラー心理学は『人は変われるというのが前提』であり、そのためには『勇気が必要』というもの。アドラー心理学は勇気の心理学なのです。

 では、その勇気とは?その考え方や方法論が示されなくては意味がない。でも、ここで僕が書籍から引用してお伝えしても、それは所詮、他人から与えられた対処方法でしかありませんし、とても薄っぺらいものに感じるでしょう。
 『じゃぁ、アドラー心理学を理解すれば私は変われんですか?』などと言わずに、答えは自分で見つけだそうとすることが、理解する上で、自分を変える上で、最も大切なことなのではないでしょうか。
 
 今回の内容は以下の2冊から引用したり、僕が感じたことをお伝えしています。

『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』
 著者:小倉広

『嫌われる勇気』
 著者:岸見一郎 古賀史健

ともにダイヤモンド社の出版。
ご興味を感じていただけたかたへは、是非お勧めしたいと思いご紹介させていただきました。

べつに、本を読んでアドラーを知ろうとなどしなかったとしても、これだけは言いたい。

あなたも変われる、どうか勇気を持ってほしい。
  
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 先月の半沢直樹についてのブログに対して、Mさんからこんなメッセージをいただいた。ちょうど今の僕が考えていることとの関わりが大きかったので、ご紹介させて下さい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「一見、不快と思える言動をする人がいても、それは何か理由があってのことなのかもしれない」
 という部分を読んで、何となく4歳になる子供のことをすぐに思い浮かべてしまいました。不快というのとはちょっと違いますが、次から次へと私を怒らせるようなことばかりして、それがすごいストレスで悩んでいました。
 子供がそういう怒られるようなことばかりするというのも、やっぱり子供なりの理由があるものなのでしょうか、きっと。「全てを受け止め、自分のやるべきこと、できることにただ全力を注ぎ続ける」というのを読んで、何とか私も改めて頑張ってみたい!という気持ちになりました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Mさん、ありがとうございます。

 半沢直樹から子育てのストレスに結びつくとは、意外でしたが、確かに子供も怒られるのを分かっててやっている時もありますよね。僕自身にも身に覚えが色々あるが、こんなことを思い出した。
 理由はなんだったか記憶にないが、何かを母親に受け入れてもらえなくて、庭に飛び出し、そこに落ちていた木の棒を家の窓ガラスに向かって投げつけて割ったり、叱られると二階に行って部屋で床を思いっきり踏み鳴らして、ドンドンドンドン一階に騒音攻撃をしたり。

 そんな時の自分を思い返してみると、親に自分のことをもっと認めてほしいという気持ちがあったんじゃないかなぁという気がする。癇癪をおこしている僕を見て『ごめんね、お母さんが悪かったね』と言ってもらたかったとか、もっと自分に優しくしてほしかったとか。そんなことで親の気を引こうとしていたのかなと、今ならそう思える。

 子供の頃のことをそんなには覚えていないかも知れませんが、そんな経験、誰しも少しはあるのではないだろうか。大人からすれば、そんな子供の行動はワガママだったり、それを認めると『甘やかし』になってしまうと考えたりするだろう。

 親の気を引くためにそんなことをするのは間違ったことだろうけど、それをしたくなった子供の気持ちを考えてあげると、それ自体は悪いと決めつけられないことの方が多いのかもしれない。

 以前にもこのブログでご紹介したアドラー心理学では、こんなふうに考える。

『行動が不適切で悪であったとしても
その背後にある動機や目的は常に善である』

 上の僕の例でいうと、自分の面白くない気持ちを『親にわかってほしい』あるいは『なだめてほしい』という理由でわざと気を引くような行動をとっている。その程度によって、『あ~まった始まった、しょうがないなぁ』というのもあれば、Mさんのようにそれがストレスに感じてしょうがないほどのレベルに達することもあるだろう。
 でも『分かってもらいたい』という目的自体は悪いことではない。アドラー心理学では、まずはそこに着目して『勇気づけ』を行う必要があるとしている。
 つまり、なぜそいういう行動をしてしまうのか?という目的に共感し十分認めた上で、他の行動をとることができる可能性についても話してあげることだ。

 アドラー心理学にもどづいた具体的な例をあげたいところだが、これって別に親子関係に限った話じゃないなぁと思うのです。
 仕事でいえば、上司が部下の行動であったり、提案について何か意見する時。やる気がないわけでも、手を抜こうとしたつもりでもないのに、いきなりダメ出しや指摘をして

『それじゃダメだ、◯◯というふうにしろ』
と言うのではなくて

『それって、◯◯というつもりで判断して考えてくれたんだよね』
とまずは共感を示し、
『確かにそれでもいいとは思うんだよ』
と支持する。

その上で
『◯◯という事情だから、もう少し△△できる方法で考えてもらってもいい?』
と別な選択肢も考えさせる。

というような感じだろうか。

 親子以外の人間関係でも、子供が親の注目を集めようとするように、例えば誰かがあなたの気を引くために何らかの言動をとったとする。それを分かった上で相手が望んでいるような反応を考え、しっかりと受け止めてあげる。
 そしてたとえ相手の言動自体が良くないことであったり、結果的にあなたを困らせるようなことになるとしても、その言動の動機は善であるならば、そこに注目をむけるようにする。

 言葉にすると簡単だけど、

 これは本当に相手のことを思っていなくてはできない。

 もし、そういうふうにして相手の気持ちをコントロールしようなどと思っていたら、逆にそれを見透かされる。相手の意図や感情や状況などを、相手の立場、相手の心で感じてあげること。
 これは決して簡単なことじゃない。それが大事だと分かっていても、そうしているつもりでいながら、結局は自分の視点や感覚に相手をはめ込んでしまいやすいものです。

 だから常日頃から、どんな時でも意識するしかないと僕は思う。

 自分が何かを言ったり、したりする前に、『これは自分の感覚や視点を相手に押し付けていることにならないだろうか』と考えたり、あとから振り返ったり。

 実はそうしているつもりでも間違ってしまうことが僕はまだまだ多いし、途中まではそうやって相手のことを考えることはできても、気づいたら我慢できずに過ちを犯してしまっている時もある。

 でも、やっぱりそれを繰り返すしかないのだと思う。そうやって意識し続けて、なんとか少しでもそんな過ちを減らそうとするしかない。人の心理を、本人以外の型にはめようとするよりも、その逆を考えることができれば、人間関係というのは実に単純なものになるのかも知れない。Mさんの『改めて頑張ってみたい』というメッセージを読んで、なんだか僕の方が励まされたような気持ちになり、そんなことを思った。

 


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 先週、雪が降らない日が続いたので、営業前に屋上駐車場の角に寄せられていた雪の山を崩し、2台分の駐車スペースを確保。

 除雪車が入りはじめてから雪山はずっとそこにあるので、だいぶ固くなっている。雪というよりは、シャーベットのような感じ。

ということで、まずはツルハシで削り落とす。


 ザクッ!ザクッ!ザクッ!とツルハシを軽く振り回してテンポよく削り落とす。たまにすごく硬い氷になっている部分があったりするが、ツルハシの破壊力は素晴らしくどんどん雪は崩れていく。
 足もとの雪が増えていって限界になってきたら、今度は除雪機でそれを周囲へまき散らす。そうすると、その日は少し気温が上がったのと、建物からの熱伝導で、屋上の路面は暖かいので短時間でキレイに溶けてくれる。

 しかしそれにしても雪山はデカイ。30分ほどその作業を続けたが、まだ駐車スペース0.5台分くらいだ。
 これは予想以上に時間がかかるなぁ。そう思い、作業のペースを頑張って上げようと試みる。さっきとはやり方を変えて、大きく振りかぶったツルハシを雪山の高い位置へ力一杯突き刺さし振り降ろす。
 そうすることで、1ストロークで崩れ落ちる雪の量を増やそうとした。これが見事に功を奏する。固くなっている深部にヒットして大きな塊ごと崩れ落ちる。なんとも気分がいいじゃないか。『これなら、もう30分もあれば全部いけるぞ』
 ちょっと楽しくなり、ツルハシを何度も大きく全力で振り降ろす。しかし一発で塊が崩れたのは最初だけで、その後は数回のストロークを繰り返しては、塊が崩れるというペース。

 そしてその作業を進めて5分ほどすると問題が発生。狙った場所によっては、力一杯振り降ろしてもツルハシが『グサッ!』と突き刺さるだけで、ほんの少しも崩れない。さきほどまで塊で崩れてくれた部分は『たまたま』ちょうどいい固さの塊が集中していただけだったのだろう。
 
 しかも突き刺さったツルハシがなかなか抜けない。前後左右にグリグリと動かしながらじゃないと抜けてくれない状況になってくる。僕はツルハシと一緒に身動きできなくなっていた。

 10分くらいだろうか。そんな格闘を繰り返しながら、ついに諦めて最初やっていたように軽く振って浅く削り落としていく方法に戻した。
 ザクッ、ザクッ、ザクッ、ザクッ、ザクッ....先ほどのような大物は狙えないが、小さな範囲をツルハシは確実に雪山を削り、足もとには再び雪がどんどん積もっていく。そしてそれを除雪機でまた飛ばし。『なんだよ、やっぱりこっちの方が早いじゃないか!』

 何事もコツコツやれってことだな。そう頭のなかでつぶやいてたら何だかおかしくなってきた。何でもそうなんだよなぁ。コツコツやりゃいいんだよ。まさかこんな作業まで、それが適用されるなんて。(・∀・)ニヤニヤしながらザクッ、ザクッを繰り返す。

 結局11時過ぎまでかかったが、無事に本来あるはずの駐車スペースは全て確保。先に支配人が途中までやってくれていなければ、一体どれだけ時間がかかったろうか。

 あたり見渡し、ふーっと息をついて休んでいると、哲学者の森信三先生の『鉛を掘りなさい』という話を思い出した。『そうか・・・』ボソッとつぶやき、すぐにiPhoneを取り出し、検索して話の内容を検索してみた。

こんな話だ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

仮に、あなたの目の前に崖があるとしよう。
その崖の土の中には、値段の安い鉛や鉄が埋まっている。
あなたは、鉛のような安い金属を掘るのは、バカらしいと思っている。
だから、せっかく目の前に鉛があるのに、それを掘ろうとせず、血眼になってもっと高級な金や銀を探し回っている。

しかし、そうではなく、目の前の鉛を掘るのです。
確かに鉛は値段も安く地味かもしれない。
しかし、鉛を必要としている企業や国民は必ずいる。
そして、それを掘ることであなたは確実に成果を手にすることができる。
鉛をバカにして、金銀を探し続けても、あなたは一切何も手にすることはない。
だから、欲張って金銀を探す暇があるならば、黙って目の前の鉛を掘るのです。

もしも、あなたが目の前の鉛を一心に掘ったとしよう。
すると、不思議なことが起こるのだ。
鉛を必死に掘っていると、いつの間にか、金や銀が一緒になって掘り出されるのだ。
望んでもいなかった金銀までもが手に入る。
だから、鉛を掘るのです。目の前の値段の安い地味な鉛を掘るのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 こんなやり方じゃ時間がかかってやってられない、僕は深い場所を狙ってツルハシを突き刺し、大きな塊を落とすことを続けたが、全然成果は得られなかった。それどころか、抜けなくなったツルハシを抜くことにまで力と時間を奪われ、身動きすらできなくなる。それを繰り返すことで、諦めて浅くてもいいから少しずつ削り落とす方が早いんじゃないか、ということにようやく気づいた。

 欲張って深い位置を狙い一気に崩してやろうとする時間と労力があるなら、黙って目の前を浅く削り続けることに集中する。そうすることで、余計な力も時間も使わずに、いつの間にかゴールは見えてくる。

 たとえば、自分に何か大きな目標があったとする。ゴールはイメージできているんだけど、そこまでの道順が分からない。進もうと思えば進めるのかも知れないけど、何かが足りないと感じたり、不安があって進みづらいこともある。
 だったら今自分ができることに力を注いで、それをさらに膨らませようとしてみる。目の前にあることに黙ってもっと必死に取り組んでみる。目の前の鉛を掘るんだ。一番は金銀を掘りあてることかも知れない。でも、例え価値が低かろうと、その鉛を必要としている人だっているんだ。それができれば、きっと望んでいなかった金銀を掘り出すことへと繋がっていくんだ。

 遠くを見るのをいったんやめて、

★今できる事をもっとふくらませようとしてみること。

行き詰まった時はそんな選択肢もあると。森信三先生の言葉はそういう考え方にも通ずるのではないだろうか。

 僕は雪山を浅く削り続けることで、別に金銀を得たわけじゃないけど。でも、そのおかげで、どこかで読んだ記憶のあるこの話をはっきりと思い出すきっかけになった。こんなことでもなければ思い出すこともなかったかも知れないなぁ。

 さぁ、バリバリ鉛を掘り続けよう!鉛をスピーディに掘れば、そしてそれをやめずに続ければ、金銀へ繋がるかもしれないぞ。

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作業途中の僕と、様子を見に来た支配人。ちょうど支配人がたっている位置までザクッザクッした。
撮影:高村

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先々月だったろうか。IRONMANを読んでいた時に、田代選手が以前、パワーリフターが行うサイクルトレーニングを取り入れていたというような記事を読んだ。

パワーリフターの三土手大介選手が提唱した、あの『サイクルトレーンング』のことだろう。

僕も20代の頃はパワーをやっていて、サイクルトレーンングをずっと続け、かなりの成果があったことを記憶している。

当時のパワーの選手が行ってい方法はスクワット、ベンチ、デッドをそれぞれ週1回の頻度で行い、5~8週間のサイクルで重量を変化させるというもの(その後、いくつか進化している点もあります)。

例えばベンチプレスの8RMが100kgだとしたら、

1週目:75kg☓8回☓2セット
2週目:80kg☓8回☓2セット
3週目:85kg☓8回☓2セット
4週目:90kg☓8回☓2セット
5週目:95kg☓8回☓2セット
6週目:100kg☓8回☓2セット
7週目:105kg☓8回☓1セット


こんな感じでじっくり時間をかけて強度を漸増させていくというやり方。
胸のその他の種目についても、だいたい同じように強度をあげていくが、メイン種目がピークに近づくにつれて、ボリュームは抑えるようにするという特徴もあった。ピークコンディションをつくることにフォーカスした考え方。

僕がはじめて三土手選手のサイクルトレーンングを取り入れたのはもう十数年前のこと。

パワーの3種目は8回☓2セットできたら重さを上げるというやり方でずっと行っていたが、ベンチプレスの重量が頭打ちになっていた。

当時のベストは97.5kgが5~6回といったところ。2ヶ月以上毎回その重量でやり続けていたのだが、どうしても8回挙げることができない。

そこで6週間のサイクルを組んで試した。
5週目に97.5kgを行ったが、信じられないほどあっさり8回2セットをクリア。そのまま1週間事に2.5kgアップさせて8週目で105kg☓8回も成功。

あれほど必死になってもクリア出来なかった重量より7.5kgもアップ。本当に不思議でしょうがなかった。それ以来、パワー3種目に関してはその方法を取り入れるようになり、大きな成果をあげることができた。

だから周囲からトレーンング方法について聞かれた時にも、サイクルトレーンングを当然勧めていたのだけど、そのことが大きな気付きに繋がった。

僕のトレーニング方法を聞いてはくるけど、それをやる人はいなかった。もともとサイクルトレーンングを行っていたジムのオーナーくらいだったと思う。

ジムに来る度に、自分が扱える目一杯の重量にひたすら挑戦し続け、ず~っとその繰り返し。
まさに97.5kgで停滞していた僕そのもの。
軽い重量でのトレーニングはしたくない。それは、別に周囲の目を気にしているわけではなく、軽い重量でやってたら強くならない、筋肉が落ちるんじゃないか?という気持ちからくるものだったと思う。

100kgでセット組めるのに、あえて80kgとかでやるなんて意味があるように思えない。実際にやってみると、3週目くらいまでは、こんな楽なトレーニングやる意味があるだろうか?と思うほど楽勝。物足りなさ過ぎて、これでいいのか?不安になる。

でも、この計画的に楽をさせることが、重要な戦略だと感じた。刺激の適応を避けることはあらゆるトレーニング方法に取り入れられているけど、どれだけ強く追い込めるかにフォーカスした情報ばかりが今でも多い。

しかし、刺激の適応を避けるには、戦略的に楽をさせる期間を設けることも同じように重要であると、サイクルトレーンングをメインにしていた当時の体験からずっと感じていること。

筋肉が刺激に慣れるだけではなく、筋肉と神経系の疲労蓄積を回避し、うまくピークコンディションを作ることに適した方法だと思う。

現在ではピリオダイゼーションという言葉が十分に浸透していると思うけど、それでもやっぱりジムに行くと、同じ種目、同じ重量、同じボリュームばかりで行い続ける、そんな状況に陥ってしまっているトレーニーも少なくはないような気がする。

ずっと扱う重量が頭打ちの時には一度試してみる価値は大いにある。うまく疲労が抜けて、以前の僕のように『あれ?』と思うほどあっさり壁を超えらえるかも知れない。




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 先日、今更ですがテレビドラマの『半沢直樹』を観た。僕はドラマというか、テレビはまったく見ないのですが、友人に勧められてネットで視聴してみた。面白くて原作も読みたいと思うほどだった(最近は『医龍』も観た)。


 ストーリー全体やキャスティングもなのですが、観ていて『はっ!』と考え込むことがあった。


 鋭い目つきと声で『やられたらやり返す、倍返しだ!』という言葉通り、保身や私欲のために、権力や立場を悪用して不正をしたり、人を切り捨てるような相手を徹底的に丸裸にして、その報いを受けさせる半沢。それは正義、いつも『誰かのために』という姿だ。


 ところが、その助けようとする相手は、半沢に対して最初は敵意をあらわしていたり、寄せ付けない態度をとることが結構あるんですね。それでも相手を助けるために協力を求めるけど、『お前なんかに何が分かる!』という感じで逆に怒りや見下されたような態度をとられてしまう。

 僕はドラマと分かっていても不快に感じてしまうが、半沢は決して不満をこぼしたり、相手を見放したりすることはない。それでもその相手を助けるために必死に行動を続ける。

 そうしているうちに、その相手がはじめからそんな態度をとるような人ではなく、そうならざるをえなかった事情や背景が明らかになっていくんですね。
 半沢の行動と熱意は、やがてそういった人の心を動かして協力関係になり、見事に悪党を懲らしめていく。

 そんな場面が何度かあるんですが、そんな半沢直樹を観ていて感じるのは


一見、不快と思える言動をする人がいても
それは何か理由があってのことなのかもしれない



ということ。
 そして半沢はそれを常に受け入れていた。それが相手の心を動かしていることが読み取れる。助けようとした相手の背景や事情を知らずとも、半沢は全てを受け止め、自分のやるべきこと、できることにただ全力を注ぎ続ける。

 終盤では、協力してくれていたはずの同僚の裏切りとも言える行為にあうも、『俺一人でやらなきゃいけいないことに、お前を巻き込んでしまったんだ。お前の立場だったら、俺も同じことをしていたと思うよ』と許すどころか、裏切られたと感じるような素振りすらもみせない。


 そんな半沢直樹を観ていて思うこと。

 相手の言動に感情的な反応を示してしまうのをゼロにすることは難しい。相当な修行がいるだろう。その場でその気持ちを思わずあらわにしてしまったり、逆に陰で人のことを悪くいったり、見下したりするようなことをしてしまうことがあるかもしれない。
 
 そんな自分に気づいた時は、悪感情はいったんわきへ寄せて

『相手の言動が事実である』

そう考えてみるくらいはしてもいいのではないだろうか。これが半沢直樹の『助けようとする相手の受け止め方』に思えた。
 現実ではドラマのようにそこから良好な関係へと発展するとは限らないけど、そんなことに期待せずとも、自分から悪感情を持って他人のことを陰でグチグチ言うようになることに比べれば、よっぽど心穏やかにいられる。

 そんなことを少しずつ積み重ねていけば、相手の言動を事実と考え、感情的にならずに受け止める姿勢もみについていくかも知れない。不快な感情で自分を苦しめることもない。

 半沢直樹のいくつかのシーンを思い出しながら、そんなことを考えていた。

 
 相手に冷たい態度をとられた時に、その出来事一点ではなく、
『あの人はそんな人じゃないよな。タイミングが悪かったんだろうか。自分がそう受け止めてしまっただけで、むこうはそんなつもりはなかったのかも知れない。』
と、全体像を考えてみる。

 身に覚えのないことや、明らかに相手の勘違いで責められたりしても、
『そう思ってしまったのは、あの人だからこその理由があったのでは』
と、相手の感情的な部分まで落ち着いて思いをめぐらせてみる。

 仕事でいえば、部下を叱ろうとする時に、その行為の背景に
『間違っているけど、悪いことではない。』『もしかしたら、本人は良かれと思ってしていることなのかも知れない』
と、考えてみると注意の仕方にも気を遣わすことができる。

 僕らの日常によくあることではないだろうか。


一見、不快と思える言動をする人がいても
それは何か理由があってのことなのかもしれない


 それを受け止めようとするのか、しないのか。この差は大きい。どんなに相手に冷たい態度をとられても、常に『誰かのために』という思いで、行動し、正義を貫く半沢直樹。
 受け止めるようにしているつもりで、実は相手の言動次第で判断しているだけになってはいないだろうかと考えさせられた。

 そしてもう1つ。相手に煙たがれているように見えても、助けるべき相手を決して見放したりしない姿勢。僕が折にふれて読み返すようにしているケント・M・キースの『逆説の10ヶ条』の1つ。

 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差しのべると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

 この言葉を思い出した。理由など関係ない。助けることが正しいと自分が信じること。それだけが唯一の判断基準。

『いやいや、確かにその人が困っていて助けを必要としていても、それを相手が望んでいないのに、助けようとしても相手の役に立てないだろう。』

 そう考える人もいるだろう。たしかにお節介となり、実際にそうなる時もあるかも知れない。善意のつもりが、逆に不快感を与えてしまったり、困らせてしまったり、余計なことしないでくれと言われたり、何か利己的な理由でもあるのでは?と疑われたり、無視されてしまったり、重荷に感じられてしまったり。

 
『そうなることを避けるために、相手の状況を観察しながら助ける必要があるかどうかを判断するのか?』

『そうなるかも知れない。それでもなお、人を助けようとするのか?』

 どっちが正しいというわけでもないし、その時々で変わってしまうものなのかも知れない。

 ただ、自分が生きる意味を真剣に考えた時、あるいは求めようとした時、半沢直樹のように自然と後者を選んでいるものなのではないだろうか。


 半沢直樹は、かつて自分の両親を追い込んだ相手に報いを受けさせようとするその過程で、自分や周囲に降りかかった災難を解決し、悪事を働く人間を懲らしめていく。そこが痛快ではあるが、その中に垣間見る『誰かのために』、半沢直樹のそんな姿が僕には一番印象的だった。

 



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■実験内容
デスクワークをしている肥満気味の男性被検者を18名ずつの2グループにわけ、それぞれ30分間と60分間の有酸素運動に相当する運動を13週間行った。その運動による1日あたりの消費カロリーはそれぞれ300kcalと600kcal。

■実験結果
それぞれのグループの脂肪減少量の平均は
30分グループが4.0kg
60分グループが3.8kg

これは結構衝撃的な結果ではないでしょうか?

運動に対する反応の個人差や、この実験では特に食事制限はしていなかったことを差し引いて考えても、時間も消費カロリーも2倍の運動を13週間続けたにも関わらず、その半分の運動グループと脂肪減少量はほぼ同じです。運動の効果が頭打ちになったか、あるいは食欲を増進させてしまったのか。

論文タイトルが
Body fat loss and compensatory mechanisms in response to different doses of aerobic exercise.
というのですが、『有酸素運動量の違いによる体脂肪減少と代償メカニズム』といった意味になるでしょうか。
有酸素運動の代償とは?やればやるほど良いというわけでなくて、寧ろその効果も減少していくということを研究者は言いたかったのだと思われます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これはだいぶ以前にになりますが、メルマガでご紹介した有酸素運動に関する内容。


 先日、ランニング好きの女性から、『冬になって走れなくなってきたのに、なんだか体重が落ちてきたんですけど、これってやっぱり運動が減ったから筋肉が落ちてきているんですか?』とご相談をいただいた。
 しかしその女性はまず朝起きて毎日60分ほどのランニング、朝食後に午前中からスポーツクラブでまたラニングやスタジオのレッスン。フリーウェイトを中心にした筋トレも行っている。
 朝から夕方まで、殆ど運動。昼ごはんは軽く済ませるか、自宅へ帰るまで食べないこともある。これだけ活動量が多かったのが、冬になって早朝のランニングを断念するようになり、運動の頻度も週5回だったのが3~4回に減ってきた。
 それでも一般的には十分過ぎる運動量だ。食事はお昼ごはんを自宅で食べることも増えた。筋肉が減って体重が落ちたとはとても考えられない。そして特にウェストが細くなったのが着ている服から実感していると言う。

 運動量が減少したことで、カラダが本来あるべき基礎代謝量を取り戻したことによって、食事を減らしたわけでもないのに、いつのまにかカラダが絞れてきたのでは。そうお伝えすると、かなり驚かれた様子だが、それをもっとも実感しているのは本人なのだから納得するのも早い。
 
 無理もないはず。摂取カロリーは少ない状態だけど、ガンガン運動して消費カロリーは多い。それが長期間続けばカラダはそれに抵抗して当然。疲労を回復させなくてはいけないが、摂取エネルギーは少ない。となれば基礎代謝を低下させ、できるだけエネルギーを使わないようにコントロールする。そしてその抵抗ぶりは、信じられないほどの頑固ださだ。生存を優先するためなのだから当然かも知れない。

『ダイエット中は運動の強度は維持して、ボリュームは減らす』

 上記のような例や、僕自身も何度も自分のカラダでそれが効果的であることを実感してきている。頻度は増やしてもよいけど、カラダに疲れをためなよう、短時間にとどめる。ダイエット中は、いかに疲労をためないかというのも重要。


 しかし、そう言っている僕も悩む時がある。お客様の摂取カロリーと消費カロリーを計算して、どう考えても痩せないのがおかしいと感じることが。
 とにかくランニングやスタジオレッスンといった有酸素運動の量もかなり多いんだけど、お客様は痩せるためではなく、それが大好きだという理由で続けていることが分かっている時。そこが悩みどころ。お客様の心理状態や日々の生活の質を損なわずにするためには、別な方法を模索する。

 それで結果をだせればいいのだけど、かなりハードルは高い。

 食事も気をつけて、運動量がかなりあるにも関わらず、まったく痩せないという人は、一度完全に疲労を抜く期間を作ったり、運動の量をぐっと抑えてみる期間をつくるだけで、気づいたら痩せていた、ということが起こる可能性はありますよ。これに思い当たる人で、シェイプアップが一番の目的ならば、勇気をもって運動量を減らすことを試してみるのも価値の大きい選択肢かもしれません。





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 先日、自分のトレーニングをしている時に、新しくご入会された女性のお客様が、僕から少し離れたところでずっと立っているのが目につき、どうしたものかと声をかけてみると、マシンが空くのを待っているところだった。

 でも、僕が気づいて多分3~4分は時間が立っているから、『ずっとあのお客様が使っているんですか?』と、そのマシンを利用中のお客様へ顔を向けて尋ねてみた。
 『いえ、今使っている人の前の人が終わった時に、使おうとしたんですけど。』と恥ずかしそうに笑いながら答える。そのマシンから少し離れたところで待っていたため、別な人に先に使われてしまい、またその場で待つことになってしまったとのこと。

 トレーニングカードを見せてもらうと、まだやっていない種目があるので、空いているところから先にやってみることを勧めてみると、『え?この順番通りでなくてもいいんですか?』と驚いたように言う。そんなところから、色々トレーニングに関する話をしていると、

 『スタッフの皆さんも、やっぱりここでいつもトレーニングをしてるんですか?』

お客様が僕の方へ両手の平を向け、円を描くように動かしながら聞いてくる。
『そうですね、全員というわけではないんですけど、まぁだいたいみんなやっていますよ。』と僕が答えると、『へ~やっぱりスゴイですねぇ、みんさん鍛えてらっしゃってるんですねぇ。』とお客様。

 たまにだけど同じようなことを聞かれることがある。はじめてスポーツクラブに来るお客様のイメージみたいなものだろうか。お客様が僕らのことをそう思っているのは普通だろう。

 お客様との会話を終え、そんなことを考えていると、以前に有名なフィットネスクラブコンサルタントの研修ででた話を思い出した。
 研修の冒頭で、自己紹介をしながら『この中でトレーンングが好きなひと手を挙げてみて下さい』と言う。スポーツクラブで働いているんだから、そんな当たり前だろと思いながら上げると、当然周囲の人も1名を除いてパッと手が挙がる。

 するとそのコンサルタントは『昨日もゴールドジムでトレーニングしてきましたけど、私は実はあまり好きじゃないんですよ。』と言う。
 何を言いだすんだこの人は?そんなわけないだろうと思っていると、挙手しなかった1名に向かって『仕事だからしょうがないからやっているんですよ、そうじゃないですか?』と質問すると、その参加者は、まぁそうですけど、みたいな雰囲気でうなずいている。
 その時の僕は全く理解できなかった。トレーニングが嫌いなら、トレーニングしないなら、お客様の運動をサポートする場での仕事なんかやめればいいのに。

 まぁスポーツクラブでの仕事は指導だけではないので、やめろは極端だったかも知れないが、トレーニングを嫌々やっているというのは全く納得できなかったのかも知れない。それがその当時感じたこと。

 でも、お客様が『スタッフの皆さんもトレーニングしている』と思っていることを直接お客様から言われた時、嫌いでも、仕事だから、という理由でも、トレーニングを続けている方がよっぽどいいのかも知れない、そんな気がした。自分に教えてくれている目の前の相手が、トレーニングを全く実践していない人だと知ったらお客様はどう思うだろうか。

 仕事だから、つまりトレーニングをすることは仕事ではなくても責任として考え、行っている。それでもいいのではないか。

 しかし、僕はそのコンサルタントがどのような人なのかを少しは知っているし、本気で『私はトレーニングが嫌いだ』なんて思っているわけがないと思っていた。あえてそう言ったのにそのコンサルタントなりの理由があってのことなのでは。
 
 トレーニングという言葉抜きで、『好きだからやっている』『仕事に関わることだからやっている』こう考えてみると、自分の職業に対する責任感という意味では後者の方が強く感じる気がする。そう考えるならば何となく気持ちのもやもや少し晴れてきた。

 そうか、トレーニングに限ったことじゃない。『仕事だからやる!』『仕事に関わることだからやる!』それでいいんじゃないか。それが全てじゃなけどアリじゃないか。
 簡単・難しい、好き・嫌い、自分にとって必要・不要を考えたりする前に、言い訳せずに『まずやる!と決める』。それが大切なんじゃないだろうか。

 『嫌いだけど仕事だからやっています』というコンサルタントの言葉を聞いた時は、『はぁ?そんなんでいいのか?』という感じで全く共感できなかった。しかしトレーニングという言葉を抜いて考えてみると、まったく腑に落ちる。嫌いでもやらなきゃいけないことなんてたくさんあるじゃないか。

 嫌いなこと、難しいこと、苦手なこと、興味がわかないこと、そんなことに出くわした時、ついつい後回しにしたり、うやむやにしっぱなしにして言い訳したくなる時がある。それでも仕事だからやる。まずそう『決めること』ができているかできていないか?


 それができないから苦しかったり、不満をもったり、愚痴ったり、逃げたり、そんなことを繰り返していくことになる。自分の意思でその場にいるんだから、まず決めよう。『やるんだ!』と。

 あの時のコンサルタントは単なる自己紹介をしたかったんじゃない。仕事に対する責任感や姿勢についてを、トレーニングを例にとって僕らに説明したかったのではないだろうか。どうしてもその人の発言としては納得できず、別な意味を読み取ろうとするならば、そう考えることができそうだ。

 そして、そこからもう1つ気づいた。それがもともとできている人には、僕の気付きは『何がいいたいの?』って感じだろう。僕がこんなことを考えているということは、言い訳して逃げていることが自分にはあると自覚していながら、まだ『やる!と決めていない』ことがあるからだ。

 お客様との会話を終え、自分のトレー二ングに戻る前にコンサルタントの言葉を思い出し、口を尖らせながらそんなことを考えていた。

 自分の口で言ってみよう。『これはやるんだ!』と。
 


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 僕が個人的なことでよくお世話になっている水野さん(仮名)へ、応援のメールを送った時のこと。

 水野さんは自分の夢を実現するために必要な資格試験を翌日に控えていた。僕は別にこれといった支援をしてきたわけではないが、どのような試験で、そのためにどれだけ頑張ってきたかを少しは知っていたし、何としても合格してほしいと願い続けていた。

 その試験の話を聞いてから3回くらい、それに関するお話をする機会があったが、その度に水野さんから『不安です』という言葉が返ってくる。それだけ難しい試験のようだし、いくら準備を重ねてもそう感じるのは無理もないかも知れない。

 そして、前日に一言、応援したいと思ってメールをしたところ、『不安で仕方ない』という返事がまた返ってきた。不安な気持ちを人に話すことで、少しでも自分を落ち着かせることができるからだろうか、それとも合格できなかったらどうしようという気持ちとプレッシャーで、本当に不安でしょうがないのだろうか。

 またしても『不安』という言葉がでてきた水野さんの心境を思い、メールを読みながら僕も身の置きどころがないような気持ちになった。
 大丈夫なはず。夢に向かって、水野さんはそうとう努力されてきたはずだ。なのにギリギリまでそんな不安な気持ちでい続けなくてはいけないなんて、あんまりじゃないか!僕は知らずのうちに個人的な思い入れにまみれた愚痴を頭の中で呟いていた。

 しかし試験前に不安な気持ちになるのは決しておかしなことでも、理不尽なことでもない。どんなに準備をしっかりしてきたとしても。

『その努力が結果として報われるまでは』

そんな気持ちになっても不思議ではない。

 と言いたいところなのだが、そこでふとした疑問がわいてきた。何かを成し遂げるには困難がたくさんあるのは分かる。悩み、もがきながら、耐えて、一歩ずつ進んでいかなくてはいけないのも分かる。それが当然だと思っていた。

 でも、極端な思い入れとはいえ、水野さんを応援していた僕には、『いや、それはおかしいじゃないか』と思えてきた。

 『努力が結果として報われるまでは』、不安で苦しまなくてはいけないのはおかしいじゃないか。イヤイヤではく、自らの意思で、他のことの時間を割いて一生懸命勉強し、努力し続けているのに、それが終わるまでは報われずに不安ばかり。努力し続けることも素晴らしいのに、そのこと自体にもっと価値を感じられてもいいはず。
 自分のことだったら『弱音はくな、辛いのは当たり前』と言い聞かせられるだろうが、人のことになると、心配と応援の気持ちが混ざって、そんなことにまで文句を言いたくなってしまう。



 落ち着かない気持ちでそんなことを思っていると、そこからこんなことを考えてはじめた。


 目的を達成すること、ゴールすることは、大切だけど、その時だけが価値のある瞬間じゃなくて、不安や困難が続こうと、一日一日が、一歩一歩、全てに価値がある。そのために未来のゴールを目指すと考えることが出来たならば、その一歩の意味というのは大きく変化するのではないだろうか。

 いや、ゴールすることができなかったとしても、たとえ明日には、そのゴールを目指すことができなくなると知ったとしても、今できることに集中するんだ。おそらくそのことに理由などない。その行為そのものこそ価値がある。だから続けるんだ。

 それはどうかな?と思う人もきっとたくさんいるだろうけど、『誰かを好きになること』にたとえると、少しは僕が感じたことも伝わるかも知れない。
 その気持ちが報われる(相手も自分を好きになってくれる)、あるいは報われる可能性があると分かっていなければ、好きでい続けることは意味がないのだろうか。
 自分の想いを伝えることすら困難なほど遠い存在の人、好きになってはいけない相手や立場ということもある。もしくは架空の人物であったり故人であったり。それは確かに苦しいかもしれない。 
 でも、それは意味がないからといって好きでいることをやめる理由になるだろうか?相手を想い続けること、その行為そのもにも、自分にとっての意味があるからであって、その結果どうなるという理由があるわけではない。僕はそんなふうに思う。

 スティーヴ・ジョブズはあの有名なスピーチで、過去に残してきた数々の点を、未来の自分が振り返った時、それが線で繋がっていることに気づくと言った。『目の前のこと、今に集中する。そうすれば先のことは考えなくても、その積み重ねが自ずと未来へと繋がる。道が拓ける』僕も今までそんふうに考えてきた。
 でも、それだけじゃない。線になるかどうかは分からなくていい。信じられなくてもいい。点を作り続けること、そのことに意味があると感じられるならば、ゴールに向かう過程での不安や苦しみと戦わなくてはいけないとしても、『これを味わうために、ゴールを目指しているんだ』と考えることはできないだろうか。そういう生き方に意味があると。

  水野さんからのメールを読んだあと、そんなことを数日間、考え続けていた。回数は少ないが、試験の話をするたびに、『不安』だと、おそらく無意識に僕に話していた水野さんの努力し続ける『その姿勢こそが尊い』のだと、その日に伝えることができていれば、少しは勇気づけられただろうか。そんな悔しさが頭を過ぎった。

 そして同時に、僕が今までになかった考え方を与えてくれるきっかけを下さったことに感謝の気持ちを抱かずにはいられないのです。


 『目標を達成するために、不安や困難があるのではない。それを味わうために目標を目指す。』

 苦しいときは、そう自分に問いかけてみるのはどうだろうか。

 努力が報われる瞬間だけに価値があるのではなくて、すべてに価値は存在する。そう思うのと思わないのとでは、一日一日、一歩一歩の価値の大きさにも違いがでてくるはず。不安や苦しみを手放し、生きていく勇気が増していくはず。


 
 
 先週のブログはちょっと生物学的な内容も書いたせいか、『トレーニングのこととか、そういうのは何で勉強するんですか?』というご質問をいただきました。これはジムでも会員様からたまに聞かれることなのですが、今はやっぱりネットで十分情報が得られますので、勉強に関してはそれほど苦労しないと思う。

 たくさんのアスリートやトレーナー、研究者などが、ブログやホームページ、動画などで情報を発信しているし、DVDもある。また、英語さえ勉強すれば様々な文献に目を通すことも簡単に出来る。

 でも逆にそれが弊害となってしまうこともあるのかなぁという気がした。新しい情報がどんどん入ってくると、それを試したくなるから、結局一貫したカラダ作りから遠ざかってしまう結果になることもあるんじゃないだろうか。

 ちなみに僕のお勧めは、山本義徳さんが監修している『かっこいいカラダ』シリーズです。トレーニング理論はもちろん、サプリメントや生化学、時には専門用語がバンバンの細胞生物学的な話まで、あらゆる要素が網羅されている。
 ネットで情報収集するよりは、この本を熟読する方が間違いなく近道だと僕は思うし、情報源を1つに絞ってそれをしっかり叩きことも必要だと思う。

 トレーニング自体を楽しむことが目的なら、広く浅くでも構わないけど、筋肉を強くしたり、コンディションを整えたり、ダイエットやリハビリとか、機能改善とか、そういった場合はトレーニングにしても、栄養面にしても『続けること』が重要になってくる。

 そして『かっこいいカラダ』は超実践的な本です。だから、知識だけつけて終わりじゃなくて、それを結果が出るように試行錯誤して、浮気せずに実践を続けることが絶対にお勧めです。それでそうとうな勉強になると思います。

 まず理解することからはじめるのは大事だとは思うけど、それをちょこっと試したくらいじゃ、いつまでたってもそれは『ただの知識』。実践を継続することで、それが自分の中で『理論』へと変わっていくんだと僕は思う。
 例えばパーソナルトレーナーがお客様へご指導させていただく時にも、エクササイズのやり方を知っているだけじゃ(それでお客様からお金を頂戴するなどありえないけど)、もしそれをお客様がうまくできなかったり、目的とした部位へしっかり効いていないと感じていたとしても、その原因を論理的、且つ直感的なスピードで評価・対処できるわけないですよね。知識だけじゃ。

 だから、自分以外の人へ、自分ができることを、いかに速く、よりたくさん覚えてもらえるようにすることができるか?というのが理論なんじゃないだろうかと思うのです。別に自分がトレーナーじゃなくても、周囲から何かを聞かれたりした時に、知っていることを答えるだけなら経験なんて必要ない。サッカー経験のない人が解説を出来るようにはなっても、本当の指導者にはなれない。

 一貫して実践を継続していくことではじめて理論や仮説の幅や精度が上がり、そこから自然と新しい知識が必要になり、学び、それを実践し、ということの繰り返しなんじゃないだろうかと思うのです。

 だから別に『かっこいいカラダ』じゃなくてもいいんだけど、1つのことを『これはもう知っている』と思うとことや、試した、というところで止まらずに、そのやり方で結果を出そうと考えぬいているかどうか?

 何を情報源に勉強していけばいいかということも大切だと思うけど、そんなことを考えながら継続しているか?まずはそんなふうに自分を振り返ってみるくらいはしてみてもいいのではないかと僕は思うのです。

 お勧めしておいて書きづらいですが、『かっこいいカラダ』は多分もう手に入らないバックナンバーが多いかもしれない・・・(^_^;)
 

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どんなに寒くてもけんけーねー!
お顔雪まみれではしゃぎまくり。
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そして、新しいお家がきたよ~
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さっそく気に入ったみたい(=⌒▽⌒=)
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