Live with Max. -26ページ目

Live with Max.

世の中のあらゆることは、人間関係に行きつく。
そんな視点でいろんなことを考えながら書いています。

館内には掲示していますが、もうすぐ秋本君が異動。色々あって予定より遅くなってしまっているけど、しかしその前に秋田のお客様の前でレッスンできる時間があって良かったなぁ。僕はそれが嬉しい。

この前の土曜日は合格を決めたモジュールから戻ってきたその日にさっそくレッスン。タムさんと一緒にパンプ。

↓余裕の表情
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一応僕も?
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初々しくて良かったなぁ。でも外からみてたけど、結構堂々としている感じ。

あともうちょっとだね。

正座に腕組みでコリオチェックするタムさん。
この姿を見て僕も思わず背筋が伸びました!
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 昨日は、スタッフの歓送迎会を焼肉屋で。お酒が入っての会話は、やぱり楽しいものだ。皆が楽しいそうにしているのを見ているのも、また楽しい。

 そういう場で、力を抜いて周囲を観察していると改めて『みんな、いいなぁ』と思う。日頃は何かを指摘したり、叱ったり、気を遣わせあったり、喜んだり、感謝したり、スタッフ一人一人に対して、毎日のように色んなことを考える。

 色んな感情や見方がありながらも、やっぱり大事なのは人の入れ替わりや何か困難なことが起ころうと、『今いるメンバーがベストだ』、いつでもそう信じることが大切だなぁと。誰に何の不満もあるまい、仲間だ。皆の笑顔をみながらそんな気持ちにさせれるものだ。

 そんなことを考えながら、ふと思い出した。以前の僕は、実は飲み会が苦手だった。酔って楽しくなるのはいいが、逆に不平不満や他者批判を周囲へぶちまけたり、言動が荒くなるような人がいると、すぐに帰りたくなる。20代の頃に、そういう嫌な思いをさせれる場を何度も経験したり、自分も巻き沿いを散々食って本当にそういうのに嫌気がさしていたから。

 人を不快な思いにさせて、巻き込んだりして、『酔った勢いで』を理由に使うのは腹がたってしょうがなかった。まるで、本人ではなく『お酒が悪いんです』と言っているようなものじゃないか、と。以前の僕は『それで済ませる気か?』というような感じだったんですね。無礼講とかいうのも、あまりいいものではないと。皆が集まるお酒は楽しく飲もうよう!って感じ。

 でも、ある時、購読していたメルマガで論語のこんな言葉を知り、なんとなく今までと考え方が変わってきた。


『子曰く、人の過(あやま)つや、おのおのその党においてす、過ちを観(み)ればここに仁を知る』(意味:誰にしろ、いかにもその人らしい失敗をやる。失敗を観察していれば、その人の人間性がわかる。)
 

 お酒を飲んで言動があらくなったり、場の空気を悪くするようなことを何も気にせず言ってしまうような人は、別に悪気があるわけではないだろう。でも、この言葉通りに考えるのであれば、それを繰り返す人は、それがその人の本当の人間性だということになる。

 でも、お酒が入って、普段はしっかり保っていた理性が緩み、ついそういう本音部分がでたからといって、『それがあなたの本性だ』と言ってしまっては相手の立場を悪くさせてしまうだろうし、自分も『あの人の本音はどうせ違うだろう』とか疑ったりしてしまうだろう。
 
 それでは人間関係がギクシャクしたものにもなりやすくなってしまう。だから相手の酔った勢いでの言動や姿が本性を表していて、相手があとから後悔するようなことならば敢えて目をつむっておく。なかったことにしてもいいじゃないか。

 メルマガで論語のその言葉を知ってから、そんなふうに考え方がかわりはじめた。お酒の入った状態での言葉や行動ならば、人間関係を良好に保つために目をつむろう。その相手をどう見るか、僕は今までと何も変わらない。
 お酒で酔ったせいだからしょうがないではなく、それが理性の緩んだその人の真実であり、それによって相手に後悔や気まずい思いを味あわせないようにしてあげようということだ。

 そのメルマガに書かれていたことを深く考えてみると、確かにそう思えたら、僕自身も嫌な気持ちにならないし、相手もそのことを気にしなくて済むなぁ、あぁそれもいいなぁって思えた。

 そう思いつつ30代になっても、僕もお酒で気が緩み失敗して、あとから申し訳なく思って猛省したり、なかったことにしたいと思ったことはあった。だからそう思うと同時に、自分の理性が緩んだ時の態度には気をつけなくてはいけないと思えた。お酒が入って例え隠れていた本性がでようと、それが自分の真実だと素直に認めるつもりで言葉や行動を選ぶ。
 お酒で気が緩むのは事実でも、それが自分の真実であることを自ら曲げることはしない。しかし相手のことには目をつもろう。相手に対して僕は何も変わらない。そんな態度でありつづけたい。

 考えてみると、20代の頃にそういう経験もあったからこそ、今になってそう思えるのかな。二次会を終え、帰り道をキックボードで漕ぎながら、そんなことを考えていた。

飲み会では必ずGCSとファットブロック常備のタムさんは、この日ももちろん!
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【今日のモモ】


近所の公園。
誰もいなかったからロングリードで、のびのび動いたよ。


今日はレッスン前にスタジオ前にある自販機で、珍しくヴァームウォーターを買おうと思って150円を持って行ったら160円だったため買えず。知らなかった。。。ガーン

ラウンジに戻り、今度はポカリのイオンウォーターを買おうと思ったら、間違ってただの水を押してしまった瞬間のガッカリ感ダウン

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そして今日はスタジオに入ってiPhoneをつないだら、なぜか59番が何曲か消えている(@_@;)

4月はマスタークラス3回しかないから、今日も59の予定だったのに。急遽ミックスに。

そして少なめの参加者数。なんと女子は3名!


なんか今月はトラブルとかアブノーマルが続くというか、おかしいなぁ。ぜったいこういう時って、続くんだよなぁ。何事にも最新の注意を。気をつけよう!


『点と点がいつか何らかのかたちでつながると信じなければならない。 自分の根性、運命、人生、カルマ、何でもいいから、とにかく信じるのです。歩む道のどこかで点と点がつながると信じれば、自信を持って思うままに生きることができます。』

 スティーブ・ジョブズ伝説のスピーチと言われている一部分。僕はこの言葉に衝撃とかなり影響を受けてきた。そしてたまに動画や全文を読んだりしては、その時の気持ちを思い出す。


 今、自分がしていることが興味のないことであったり、もっと極端に言えば自分の夢や人生の計画とは無縁のものだとしたら退屈かもしれないし、時間の無駄と感じたりしてしまうかもしれない。それでもそれに意味があったとあとになって気づく日がくる。それを信じて今を生きる。
 そう解釈して自分を鼓舞させたりをしていたが、それとは微妙に異なることを最近考えるようになってきた。意味は変わらないが、違う解釈を。

 確かに今の僕が人生を振り返ってみると、『点と点が線になっている』と感じることは驚くほどにある。だけど、どう考えても過去の僕がそれを知ったところで、ジョブズのその言葉通り信じて生きる決意をすることはできなかったと思う。
 そういうつもりで、その時できる事に集中してきたという感じはまったくない。信じていたわけではないけど、ただ黙々とやってきたかなぁという感じなのです。

 どんなに夢や希望、未来の計画を描こうと、自分が生きることができるのは過去でも未来でもなく『いま』でしかない。ということの方が受け入れやすい。

 目的地があるわけではなくて、信じようが信じまいが、『いま』を充実させた結果、どこかに到達している。そして振り返ると、点が繋がって線のように見えると考えた方が、まだ少し呑み込める。 もしそうならば、そのためには、やはりゴールというものは考えなくてもいいというか、存在する必要すらないものなのかも知れない。

 例えば、オリンピックで金メダルをとることを夢見て、子供の頃から毎日厳しい練習を積み重ねるアスリートがいたとする。そしてもし本当に金メダルをとることができたなら、ゴールに向かって歩んできたように見えるのかも知れない。
 でもそこいたるには毎日の鍛錬がある。そしてその日々というのは『金メダルをとろうとする過程』であるわけで、その日やるべきこと、目の前の一瞬に集中できるかどうかにかかっている。『いま、ここ』においていえば、それがもっとも大事なことであり、金メダルをとれるかどうかは関係ないと言いかえることができる。

 誤解のないように。もう一度。『いま、ここ』におていは金メダルをとれるかどうかではなく、今なすべきこと、そこに全力を投じたかどうか。それが結果であるということ。つまり、『過程』そのものが目的であり、到達点になるということ。

 もし、本当に真剣に『いま、ここ』だけに全力を投じることができるのならば、過去や未来を考える余地もないし、見ようとすることもない。それをなし続けていたら、『なってしまった』と振り返る時が来る。

 『いま、ここ』に全力を投じれば今しか見えないはず。それができないから過去が気になる、未来が予測できるような気がしてしまう。理想と現実のギャップ、過去の出来事など、『いま、ここ』に全力を尽くせているのならば、考える問題ではないはず。

 
 テストで100点をとるというゴールがあるのではなく、毎日一生懸命勉強し続けることに集中していたら100点がとれていた。

 会社や上司からの評価され、地位を得たり、満足するだけの給料をもらうというゴールがあるのではなく、ただ目の前の仕事に集中しつづけるうちに評価や金銭的報酬を得ていた。

 自分を過去や未来と比較するのではなく、今どう生きるのか、今の自分ができることに集中していたら、自分のやりたいことができていた、それに出会っていた。


 なし続けていたことが、気づいたら『なされた』になるということ。


 これが『点と点がいつかなんらかの形でつながる』ということではないだろうか。であれば過去も未来もない、存在しない。未来のゴール、目標や夢がなかろうと構わない。

 それがあったとしても、『いま』を生きることに光をあてなくては、その夢も目標も、ただ先延ばしにしている毎日が続いていることになり、それこそ自分を騙しているのと同じでだという気がしないでもない。決心をしない限り、いつまでたっても準備期間。
 だけど決心をすればもうその時点で、その時から、『本番』に変わる。そして『気が付いたら、ここまできてたんだなぁ』と思うようになる、点が繋がっているかのように見える。


 ジョブズのスピーチを時間を経て観返し、そんなことを思った。今日は文中の各所に、言い切るような表現が多いが、僕の頭の中で、考えを整理しているためなので、あまり気になさらないでくれたらと思います。読み返してみると、厳しい話のように感じつつも、それ以上にシンプルなことでもあるように感じる。

 しかし、そうは言っても夢や目標があるからこそ、目的地を見ようとするからこそ『いま』に全力を注げるんじゃないのか?そんなことを考えてしまうだろう。そもそもそんな夢や目標がなくてもいいという考え方自体が信じられないと思われるかもしれない。

 じゃぁ例えば、自分がやりたいことがあるけど、今はそれができていない状態だとしたならばどうだろう。それでも今やっていること、あるいはやらなくてはいけないことをやり続ければ、それがいつか『線に見える日が来ると信じて』本当に全力で打ち込めるだろうか。
 
 もちろんそれができる人もいるけど、そうじゃないならどうすればいいのか。ジョブズのスピーチ通りに信じられなくても、それでも『いま、ここに』集中できるようになるためにはどうすればいいのか。自分をそう導いてくれる、決して揺らぐことのない『何か』が必要なはず。
 そしてそれが何であるか、僕は自分の今までを振り返ってみると、それを見つけていたような気がするのです。

 実は、今日はそのことを書くつもりだったのですが、気づいたら前置きが長くなってしまいました。未来も過去も関係ない、目標や夢という目的地ではなく、その過程こそが結果である。そのことにご共感いただける、あるいはそんな話に興味がわく方は、メッセージなどいただけたら嬉しく思います(今日の続きを書くかどうかは未定)。

 今していること、やるべことが、本当にやりたいことでなくても、やりたいことが分からなくても、自分に自信がなくても、それでも人は幸せになることはできると僕は思うのです。

 自分がこんなことを考えるようになるとは、想像することなどなかった。自分の人生について、その在り方を考え続けてきた結果、気づいたらこんなことを考えるようになっていた。


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タイヤ交換をようやく今日やったよ!
そしてここ数年、この時期になる度に買おうと思っていたインパクトとフロアジャッキをついに購入チョキ


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10分ちょいでタイヤ交換終了。
やっぱり道具がいいと違うなぁ、素晴らしいスピードにひひ


そしてその横では、モモが木と格闘。
必死にかじって、かじって、木こりになってた(笑)

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【お詫び】
 お陰様でこのブログをご覧下さっている人も増え続けてきて、とても嬉しいのですが、アクセス数の増加により、アフィリエイターや誘導目的のメッセージやコメントがガンガンくるので、ここしばらく目を通せていない状況です。
 そのような事情で本当の読者様へのご返信ができておりません、この場をかりてお詫び申し上げます。一応確認して、一目で通常のコメントやメッセージだと分かるものについては、なるべくお返事を差し上げたいとは思っております。


 
 さて、今日は最近いただいた男女関係の相談事(?)について考えたことを、唐突ですが書いてみたい。おそらく対人関係全てにおいても通じることのような気がする内容だと思いましたので。



 付き合っている彼氏が、いつもちょっとしたことでイライラしてキレることが悩み。できるだけ我慢して、余計な口論は避けるようにしている。でもそうやって我慢している態度が表にでてしまうと、今度はさらにそれに対してもキレられる。
 彼は決して彼女を嫌っているわけではなく、常に自分に対して注目してもらいたくて、彼女の愛情を独占したくて、ついついそんな態度になってしまう部分もあるのかも知れない。
 
 彼女は友達に相談してみると『それだけ愛されているってことじゃない?』『思い切って逆ギレしてみたら?』『そんな時は、相手にしないでそっとしておいてあげるか、自分がその場から離れるかしたら?』『長く付き合ってれば、そのくらいのことは合って普通だよ』などと言われる。でもそんな言葉は彼女にとって勇気にも励ましにもならないだろうと僕は思った。

 『もう別れるしかないですか?』
 
 確かに男女の関係には、別れるという選択肢はある。しかしそんなことは僕に決められない。ただ、言えるのは、彼が変わってくることを期待して自分が我慢しようという生き方はお勧めできない。そんなことを言う周囲の声にも納得してはいけないと思う。
 そうやって『相手が変わってくれること』を信じて、それに縛られている限り幸せではないだろうから。それは相手の期待を満たすために生きているようなものだ。

 こんなことを言うと、相手に変わってもらいたいと思って自分が努力することの何がいけないの?相手の期待を満たしてあげようとする生き方だっていいじゃない?と思う人もいるだろう。

 そこは否定しない。でもそれに縛られたら苦しいという話。相手が変わるかどうか?喜んでくれるかどうか?それが行動の基準になるからいつまでも苦しむ。『こっちはこんなに我慢しているのに』とか、相手に見返りを求める結果になる。相手に条件をだすことになる。

 相手がどうであれ、周囲が何を言おうと、あなたが良いと思うことを信じてするだけだ、そこで完結させればいい。シンプルだ。別に相手が変わる必要などない。


 いやいや、それは確かにそうだけど、理想論過ぎない?そんな達観は普通できないよ、感情ってものがあるんだからさ。

 そう思う人もいるだろう。


 確かにその通りかも知れない。僕の話は、現実的ではないと言われてしまうかも知れない。だがもし、本当にそれができたら良いと思うなら、それが理想だと思うのなら、誰かがそれを行わなくてはいけない。たとえ誰からも理解や協力を得られなくても。誰かがそれを始めなくては。

 そしてそれはあなたなのかも知れない。良い人間関係を築きたいと思うのならば、それもまた真実なのではないだろうか。もしそこまで考える必要がないと思うのならば、関係を切ってしまうというのもやむ得ない。

 
 幸せについて考える時、『幸せとは何か?』について考える人は多いだろう。でも『どのようにして幸せになるか?』についてはどうだろうか?そのことを真剣に深く考えてみると、今よりも少しは幸せになろうとする勇気がでてくるのではないでしょうか。僕はそんな気がするのです。

 
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 最近、ちょっとバタバタしていてトレーニングから遠ざかってしまったが、昨日から軽めだけど再開してみた。しかも久々に出勤前の朝一にやってみたら、やっぱり気分は爽快だった。
 音楽を聞きながら、あるいは周囲の人と会話をしながらとか、環境や人の好みはあるだろうけど、シーンとした中で黙々とやる方が僕は好きだ。

 当然ながらトレーニングを休みがちになってきた時は、できていない自分に焦りを感じてしまった時もあった。『今、思い切り頑張れば、必ず後から楽になってくる』と思いつつも、『こういう自分でありたい』という像とズレていくと、ちょっとストレスを感じてしまう。

 もし、これがコンテスト前とかなら、多分どうにかしてやりくりしていただろうと思う。僕はありがたいことに、仕事の時間以外なら早朝だろうが夜中だろうがトレーニングをできる環境に恵まれているから。

 そういう今までの自分と、恵まれた環境があるから、一生懸命やらなきゃという気持ちだったけど、久々にトレーニングをして、思った以上に情けない内容だったにも関わらず、何となく別にそれでいいんだよなって思えた。

 僕は欲張り過ぎていたんじゃないかなと。

 自分が望んだ通りに、こう在りたい、と思ったり努力したりするのは、成長するために、人生をよりよくするために必要なことだから良いと思う。でも、最近の僕は、それが実現できていないことに焦りを感じていた。


 トレーニングを再開するまでは、他に優先すべきことがあるとか、無理して体調を崩してはいけないからとか、原因を挙げて

 『現状に対する原因と、望む姿と異なる自分』

このことばかりに気を取られていたように感じる。


 しかし人生初であろうと思うほどの期間、トレーニングから離れてみて強く感じたのは、それに対して自分でOKを出してあげなくては、今度は仕事をするのが苦しくなってくるのではないか?ということ。

 強く望むこと、そのために努力する。でもその結果が『望んだ通りに実現できていない現状』、『自分ではこう在りたいけど、どうもそれができない』それでももいいんじゃないかな。

 自分だけが分かるそういう誤差や矛盾に対して、自分がOKを出してあげなくちゃ。そこに拘り、仕事に対しても無気力になってしまってはいけない。そういう苦しみを自ら手放さなくては幸せにもなれない。結果は自分の理想とは異なっていても、やれるだけ精一杯頑張っているならば、もう結果にはこだわらない時があってもいい。

 努力すれば、必ず理想や夢を実現できると信じて、結果にも拘る生き方。努力はしつつも、思い通りにならない現状にOKを出し結果には悩まない生き方。

 どちらが良い人生を送れるだろうか?

 両方を、自分の現状に合わせて使い分ければいい。僕はそんな気がした。『なんかそれって適当じゃない?』『いや、それは甘いだろ』そんな声も聞こえてきそうだが。それで押し通せる人ならばそれでも別に構わない。
 
 でもですね、あぁそういう生き方もあるなぁと考えてみたら、僕はなんだか今までのストレスがス~っと消えて、気持ちがすごく楽になり、前向きになれた気がした。今までは、自分の現状に対する『原因・理由』ばかりに気をとられていたけど、それじゃどんどん苦しくなるなぁと。

 理想や結果にこだわり努力し続けることも必要だし、努力はするけど拘らないことも必要。そこを行き来しながら、少しずつ成長してこともできるんじゃないだろうか(努力するのは大前提)。

 『こう在りたいんだけど、そうなれずにいる自分』にストレスを感じたりして、気力までも低下してしまっているような時があるならば、そんな苦しみは早く手放し、心を癒して、その次の可能性に気持ちを向けられるようにした方が良い。現状や結果はどうであろうと、自分が望むものや方向性がブレさえしなければ。

 予想以上に重く感じてしまった重量のバーベルを見ながら、そんなことを考えていた。



ついに念願のダイソンを買ったよ!
もうすぐモモの毛の生え変わりの季節だけど、これさえあれば。でもスイッチを入れて、音がなるとモモは逃げ回る。

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でも、本当に快適だなぁ
ダイソン最高o(^▽^)o

 先週のブログでアドラー心理学について『人は変われるという前提』として説明をしたところ、それに対して『内海さんは、本当に自分が変わったと感じるのようなことはあるのか?』という意味のご質問を2名のかたからいただきました。

 人って根本的には変われないんじゃない?と考えてしまう部分もあるかも知れませんね。そこで改めて僕の人生は、僕の性格はどんなふうに変わってきただろうかと。そんなことを考えてみた。

 やっぱり一番変化してきたのは、仕事上で『管理する側の役割』につくようになってからだろう。

 それ以前の僕は絵に書いたような『先輩や上司の足を引っ張る部下』だった。自分は仕事ができる、かなり一生懸命頑張っている方だと自惚れ、何か言われれば、気に食わない態度を出す。責任を追わない立場から、言いたいことを言い、陰で人を批判し。

 しかし、自分の立場が変わってからそれが一変する。どうやったら自分の言っていることを理解してくれるだろうかということをはじめて真剣に考えた時期かも知れない。指摘や注意をしたり、ルールを考えてそれを浸透させたりしなくてはいけないから、できるだけ普段は周囲へも気をつかいながら、態度や口調にも気をつけ、相手の話にも共感し、人間関係を良好にしようとつとめる。

 ところが、それでも『こっちは気をつかって、◯◯というふうにしてんのに、なんであんな態度なんだ?普通は△△だろ!』と、がっかりしたり、やるせない気持ちや、イライラしてストレスを抱え込むことがしょちゅうだったんですね(僕の人間力、器の問題ですが)。

 そんな僕が、自分を大きく変えようと思うきっかけになったのが、当時購読していたあるメルマガで読んだ、

『相手に期待するから苦しむ』

 という言葉だった。そこでようやく気付きはじめた。

 この『期待する』というのは、要するに『見返りを求めている』という意味の期待。自分が気をつかっていることや、相手のためと思ってしてあげたことへの『見返り』。自分がそこに支配されていたからいつもイライラしていたんだ。何かをしてあげているつもりで、与えているつもりで、結局はただ相手に求めているだけ。
 
 与えるということは、与えた時点で終結しなくてはいけない。別に、与える、という行為に限ったことではない。自分がしたことに対して、相手がどう受け止めるかは、自分ではどうにもできない話だ。なのにそこに拘るから苦しくなる。そこに気持ちを支配されてしまうから腹を立てたり、悲しくなったりする。
 もっと言えば、ちょっとした言葉や行動で、気持ちや感情の衝突、すれ違いは起こる。どんなに最善を尽くしたとしても、それは起こりえること。どう受け止めるかは自分ではなく相手が決めること。

 ならば自分にできることは、1つだけ。自分が良いと思ったことを信じて行い、そこで完結させることじゃないだろうか。

 言葉でいうほどこれは簡単ではないけど、でも実際のところそうするしかないように僕は感じる。でもですね、無理に自分をそんなふうに変えようとなんかしなくたっていい。そうやってつい他人に見返りを求めて、感情的になってしまうなんて、いかにも人間らしいじゃないですか。それがダメだなんて僕は思わない。

 無理に変えようとしなくても、ついそんな『見返り』を求めて感情的になったしまった時に、『ああ、また相手を変えようとしてしまたなぁ、見返りを求めてしまったなぁ』と振り返ることぐらいはできる。それだけでもいい。そんなふうに考えるだけで、僕の対人関係における悩みは解消されただけでなく、そういったことに対する愚痴を誰かにポロッとこぼすことも自然と減っていった。
 
 それだけでなく、明らかに相手が失礼であったり、感情的になって自分を傷つけるような言動をとったり攻撃してきたりしても、それを根に持たずに、不思議と普通に許せることも増えていったように感じる。
 
 僕が自分のことを『変わったかなぁ』と思うのはそんなことが始まりだと思う。

 具体的な僕の経験はそんなところです。なんか人生や性格が変わるっていうと、すごい大きな変化を意味しているように感じてしまうかも知れない。でも、本当の変化ってのは、そういうものではないんじゃないかなって思うのです。

 ちょっとずつ、考え方を変えらえるようになっただけでも、それがじわじわと自分の人生を変えていくことにも十分繋がっていく気がする。

 今まで自分の中に続いてきたことが一気に変わることを、そうなれたらいいと、つい考えてしまうこともあるかもれないけど、そんなふうにパッと変われなくたっていい。少しずつ変わっていく、あるいは意識だけでもしていく。

 以前はああだったけど、今はこんなふうに考えることくらいはできるようになったなぁ。変わったとは言えないかもしれないけど、以前に比べるとなんか少し希望がわいてきたなぁ、とか。

 こんなふうになったらいいなぁと『完成形』をイメージして、変われないことに、『克服』できないことに苦しむのではなく、ありたくない自分になってしまった時にそれを振り返ったり、僅かな変化でもそれを自分で認めてあげる。その詰み重ねがきっとあなたを支えてくれると思うのです。

 大きな自信を持つことはできなくても、ささやかな自信を積み重ねていくことはできると。
 
 そして必ず『克服』できると!


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