雪の会津と松平容保の悲劇

幕末、治安が悪化する京都の守護職に任命された松平容保。

会津藩が選ばれたのは藩主の能力と藩自体の力が優秀だったからだが、他の藩の武士の多くが役人と化しており、力の無い藩が大多数の中、戦国の気風を残していた会津藩は強かった。
実際、幕末の京都で会津藩預かりとして活躍した新撰組の近藤勇・土方歳三達は幕府天領である多摩の百姓出身者であり、戦国の世であれば先鋒を我こそはと争いあっていた三河武士の末裔の腰は完全に抜けており、最終的にもほとんど役に立たないまま戦争は終結した。

ちなみに、土方歳三は、京都~江戸~会津~函館まで転戦している。

【美しい雪の会津】
★東山温泉の雪舞台
日本の逸品 和風の美の素晴らしさ-ライトアップ
★会津鶴ヶ城天守閣
日本の逸品 和風の美の素晴らしさ-天守閣
★天守閣からの街並み
日本の逸品 和風の美の素晴らしさ-街並み
信楽焼 たぬき【日本の逸品】

日本の陶器の中でも日本六古窯の一つに数えられる信楽焼
京都に近く、良い土が取れることから古くから陶磁器作りの町として栄えています。
みなさんも商店の店先や店内に可愛い狸が鎮座しているのをご覧になる機会は多いと思います。

信楽焼及び古伊賀焼、中には、名品「破袋」(古伊賀水指)のような破天荒なものもあり、
私は、この水指のデザインには驚きました!スペインのダリやピカソなどに通じる感があります。
漫画「へうげもの」で名を知られるようになった古田織部が絶賛した品です。

破袋の説明

【侘び寂びの意味】
「美しいものは美しい。」しかし、
醜いものに美しさを見出す。甲乙の甲より乙な方が味わい深く飽きがこない。
完成された美(円・黄金比率)は、人に緊張感を強い、一つ一つ違う多様性がない。
美人も完ぺきな美人より少し欠点があった方が愛嬌があって良いと言いますしね。

手捏ねの微妙な狂い、竹の節のゆがみ、などこそ自然的な美であり人の心を和ませる
といった感覚なのかなと思っています。

その観点でも見るとこの水指のゆがんだ形や釉薬のかかり、破れている底などを見て、
乙なものですなあと言いたくなる気持ちが分かるような気がします。

さて、信楽焼で有名な品が狸の置物
信楽焼「狸庵」初代の藤原銕造氏(明治9年生れ、昭和41年没)が狸の置物を信楽で作り始めたのが、元になっています。
元々、狸は他を抜くと言われることや少し間抜けなところに愛着を持たれ、「とらぬ狸の皮算用」など、親しみの湧くことわざですよね。

藤原銕造氏は、ある月の夜に狸が集まって腹鼓で踊っている光景を見て狸の置物を作り始めたと言われ、「狸庵」の店先には世界一大きい「狸」が飾ってありました。
また、昭和26年11月に昭和天皇が信楽に行幸された時には、沿道に狸が並んで迎えたことを気に入られて、「をさなどき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば」と詠まれた歌が報道され、
信楽狸が全国的に大流行することになりました。

縁起ものとして、店先や自宅に飾られ、その愛嬌ある姿を見せている狸
信楽狸八相縁喜という下記のような八個の意味が込められています。

「笠」思わざるは悪事災難避けるため 用心常に身をまもる笠

「目」何事も前後左右に気を配り 正しく見つむることを忘れめ

「顔」世は広く互いに愛想よく暮し 道を以って務めはげまん

「徳利」恵まれし飲食のみにことを足利て 徳はひそかに我につけん

「通」世渡りは先ず信用が第一ぞ 活動常に四通八達

「腹」もの事は常に落つときさりながら 決断力の大胆をもて

「金袋」金銭の宝は自由自在なる 通用をなせ運用をなせ

「尾」なに事も終りは大きくしっかりと 身を立てるこそ真の幸福


また、狸の置物は昔は野性味あふれる風情でしたが、世の中の風情に従い、
形が可愛く変わってきています。世相を表す年代の違いによる姿の移り変わりは楽しいものです


★昔の狸(30年程前)
日本の逸品 和風の美の素晴らしさ-昔の狸

★今の狸(全体に丸く可愛さが増しています。
$日本の逸品 和風の美の素晴らしさ
鶴ヶ城(会津若松城)

悲劇の名城。会津若松城は、美しくも悲しい城です。
雪国会津若松市にある鶴ヶ城に雪が降り積もると、一面の雪景色にけぶるとうに立つ天守閣が儚げな姿を見せてくれます。
桜の時期には、満開の桜が花びらをひらひらと堀に落とし、それがこの悲劇の城に彩りを添え、
明治という新しい時代を作るための礎いや生贄となった人々にどうしても思いを馳せることとなります。
【鶴ヶ城の歴史】

◆葦名氏~伊達氏の時代
会津の長年支配していた葦名氏の七代目蘆名直盛が築き、代々蘆名市の居城として栄える。
戦国時代には葦名氏が会津を中心として周囲に力を示したが、奥羽の独眼竜伊達政宗と激戦を繰り広げた結果、葦名氏は滅ぼされ伊達氏の支配下にはいった。
しかし、当時は既に豊臣秀吉の元で天下は治まりつつあり、政宗は大名同士の私闘を禁じた秀吉の怒りに触れ、有名な秀吉の小田原攻めに参陣した後、臣従を許され命は助けられたものの会津周辺の土地を取り上げられた。

◆蒲生氏~上杉氏の時代
代わって会津へは信長の娘婿として将来を嘱望されていた蒲生氏郷が入り、関東の徳川家康と奥州の伊達正宗の両者に
睨みを利かせることになった。
次代のホープとして期待されていた氏郷だが、1556年に40歳の若さで没してしまう。
その後を嫡男の蒲生秀行が継ぐが若年ということもあり、枢要の地会津は取り上げられ、
上杉景勝が120万石の太守として入城。
秀吉としては最大のライバル家康を北の会津から牽制してくれる実力を持った大名を置きたかったと言われている。
一説では、氏郷が死去した時に秀行に継がせたくなかったものの甥の秀次が認めてしまったため認めざるを得ず、秀次の戦略眼の無さに失望したとの話も伝わっている。

◆関ヶ原~江戸時代
その後、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことで当地を支配する上杉家は米沢に転封され、会津は蒲生秀行~加藤嘉明と移り変わる。
そして1643年に家光の弟である保科正之が入ることで、明治維新まで松平氏が支配することになる。
この保科正之が藩祖となったことで会津松平藩の方向性が定まることになった。
正之は朱子学を信じるとともに家光に固く信頼されたことで、徳川家への恩義や忠義、武士としての理想の生き方を藩の方針とし、幕末に至るまで戦国~江戸時代初期の侍としての精神を持ち続けた精強な会津藩を作り上げた。

★会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。そのほかに有名な会津の訓示として「ならぬものはなりませぬ」も含蓄(笑)のある言葉です。
http://bakumatu.727.net/aidu/aidu-kiso-kyoiku-ju.htm

◆幕末~明治
幕末には戦国最強の一角を占め旗本八万騎と称された三河武士も侍魂を失い、戦闘員として役に立たなくなっていた時代に、黒船から始まる戦乱に会津松平藩が登場してきたのも藩祖の強烈な方針が生きていたからです。

しかし、斜陽の徳川将軍家に忠義を尽くし京都守護職として攘夷志士達と戦い続けた会津藩はその忠誠心を天皇・将軍に称されながら、薩族会奸と並列に並べられ長州系浪士と相いれなかったはずの薩摩藩が坂本竜馬・中岡慎太郎の尽力により薩長同盟が成立したとたん、会津藩が最大の敵とされ、京都~大阪~江戸~会津と戦線が展開される中で、最後まで抵抗を続けることになったのです。

最終的に新政府軍と会津を中心とした奥州越列藩同盟の戦いは、会津鶴ヶ城の攻防戦が最大の激戦となり、白虎隊の悲劇、土方歳三の奮戦、西郷頼母の件など悲劇を幾つも生み出し落城しました。

会津若松城の美しき姿を見る時には過去の歴史を振り返りながら見ると、また違った観点で見ることができます。

日本の逸品 和風の美の素晴らしさ-城の堀
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