最近の文科省の政策は、一時の「(悪)平等主義」からは脱却したものの、相変わらずのスプロール飛行です。特に「知力の国際比較」で日本の順位が落ち、「ゆとり教育は間違いだった」とのマスコミの論調におろおろうろたえているように見えます。そこで、「総合的な学習」の縮小と言う訳です。
でも、何度も言いますが、教育は要するに教える側の「能力」の問題と、教わる側の「興味の持ち方」の問題なんです。
さわやか福祉財団の理事長で弁護士の堀田力さんは、こう言ってます。
「総合的学習について教師の評判が一部芳しくない、と言う理由は、知識詰め込み型の方が教えるのが簡単で、総合的学習の方はセンスが必要だから教える能力の無い教師には難しい、ということでしょう。でも、やる気のある教師は総合的学習で素晴らしい成果を上げています。子供達は面白がり、父母や教師は子供の成長する力に感服している。まだごく少数ですが、学習指導要領で教師を縛り、教育の中身を考えさせてこなかったのだから仕方ない。多くの教師に力を付けさせるのは、まだまだ時間がかかるんです。そんな、これからという時期に又縮小とは・・・。」
教える側の教師にも、文科省の縛りが影響していたようです。画一的な「学習指導要領」。ここからはみ出したら「×」。教わる生徒の方も、基準からはみ出したら「×」。皆~んな文科省の偏差値エリートが作った小さな小さな枠の中で、はみ出さないようにはみ出さないように・・・・。
そりゃ、真の「個性」が育つわけがない。
ところで私は学習塾に行った経験が一度も無く、その存在自体に意義を感じていなかったんですが、結局市場のニーズがあったというのは今の塾産業の隆盛を見れば明白です。変な話ですが、これだけ文科省が個性の伸長を犠牲にして追求してきた「偏差値追求型教育」も、これまた塾にはかなわなかった。・・・ということは、いったい文科省は何の存在意義があるんでしょうか?
私は文科省の解体的再生こそが、日本の教育改革の第一歩だと思います。
現場にいちいち口出さずに、市場ニーズに任せる。市場は、アツキココロの教師達に最大限の評価を与える。そして、教わる側は個性の伸長でそれに応える。そのためには、市場を形作るわれわれ自身が考え方を180度変えていく必要がある。そう思います。
東大に何人合格させただとか、医学部に何人行っただとか。そんな価値観だけで見るのは、もうそろそろ止めにしませんか?
そんなことよりも「○○(趣味でもゲテモノでもなんでもいい)の事なら、△△さんに聞けばすぐ分かる」だとか「○○の細工は誰にも真似できない」なんていう才能を評価する。もちろん、従来型の知識追求の勉学が「好き」な子はそのままその道を進ませる。でも、評価は同じ。「好きなことを追求する姿勢」とその「成果」は分野が違っても同等に扱う。これなら、「悪」平等ではなく「善」平等になる。
教える側も、人にものを教えるのが「好き」なことが大前提。教えるのが下手なら、上手になるまで訓練する。好きなら苦にならないはずです。そして、教わる側の「好き」探しのお手伝いをする。見つけたら、それを最大限バックアップする。好きなことを見つけ、その能力の伸長を手伝うんだから、教師のやりがいも又飛躍的に伸びる。
かつて吉田松陰は、アメリカに密航しようとして捕まった牢獄の中で、他の罪人や牢役人と共に学び合い、こう言ったそうです。「真の教育とは、自らの知識欲さえあれば誰とでもどこででもできる」と。そして「私はここで、身分や立場に関係のない仲間から得がたい知識を得させてもらった」と。その延長線が松下村塾だったそうです。自らそれを望むなら、会う人みな師、という訳ですね。
大人はこれでいきましょう。でもまだ物事の分別がつかない子供達には、そうは言っても「自ら何を望んでいいのか」が分からない。だから、優れた教育体制が必要なんです。
前述の堀田さんはこう言ってます。
「教科学習の成績が優れた人が上だという間違った前提は否定しなくてはならない。中卒で好きな道に進み活躍する人は、勉強が好きでもないのに形だけ大学に行った人よりずっと偉い。自分に一番合ったことをして幸せに生き、社会に役立てたら最高。学歴は関係ない。社会の価値観を変えないと教育は変わりません。」
私は昔から学歴より、「何をしたいか」という人生目標を明確に持って行動している人をリスペクトします。学歴より「好きなこと」を持ち、それにまい進している人をリスペクトしています。
私の子供にもそうなって欲しい。いつもそう願っています。
でも、なぜかその考えが教育現場と合わないことが多いんですよね~。