Free Way

「直接的なもの、それこそが私の必要としたものだ」(イヴ・クライン in "Saut dans le vide")

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萱草

   萱草(わすれぐさ)


                                 倉臼ヒロ


 


      茅鎌子 使いもせず 萱草


      (ぼうけんす)        (わすれぐさ)





      蹲踞した 蝦蟇が降魔する 我は修羅


      (そんきょ)  (がま)  (がま)         


 


      黒猫の 銀髪寒に いだかれる


               (かん)


 


 


      萱草  … [わすれぐさ] かんぞう。ユリ科ヘメロカリス属(ワスレグサ属)の多年草の総称。


            葉は刀身状。夏、黄や橙色のユリに似た大きい花を数個開き、1日でしぼむ。


            「萱」と「茅」、どちらも和語で〈かや〉ということで対応しています。


      茅鎌子 … [ぼうけんす] 安い鎌を指す。


      蹲踞  … [そんきょ] うずくまること。


      蝦蟇  … [がま] ひきがえる。


      降魔  … [ごうま] 悪魔を退治して降伏させること。[がま]と転化して発声されることもある。


             降魔の剣を持つ不動明王の怖い顔から、降魔(がま)を恐ろしい様の意味で使う表現もある。


             例:降魔(がま)の相。


      修羅  … [しゅら] 阿修羅のこと。人類に危害を加え不幸を招来する魔神。悪鬼・魔族の総称。


 


      (「倉臼ヒロ句集 萱草」より抜粋。)

 

ゆらめく夕陽のように

私的魔女論を書いていたら、欧州の森たちに出会いました。

ドイツなど欧州では、あちこちに森を残しているようです。

日本も昔は万葉集に詠われたような豊かな自然があったと思いますが、

今は開発されたり植林されたりして、潜在植生といわれる昔のままの森はほとんど無くなってしまいました。

ですので、昔の姿のままで残っている欧州の森を羨ましく思います。

 

ほとんどは荒地のようですが、英国の湖水地方にもわずかに美しい自然が残っているようです。

その湖水地方の著名人には、桂冠詩人ワーズワースやピーターラビットのピアトリクス・ポターがいます。

また、私的魔女論を書いていたら、「夏の名残りの薔薇」など自然とケルト音楽を聴くようになりました。

ケルト音楽はどこか懐かしく、また、物悲しくもあり、失われた過去を懐かしむノスタルジックな気持ちになります。

そんな不思議な郷愁を誘うケルトの歌を聴くと、私はワーズワースの次の詩を思い出してしまいます。

 
     ごらん、あの麦畑にただ独り

     麦を刈り、歌うたう かなたの

     寂しいハイランドの 乙女を。

     留まるか、 さもなくば 静かに通り過ぎよ

     

     乙女はただ独り、麦を刈り束ね

     悲しい歌を うたっている。

     ああ聞け、 この深い谷間に

     その歌声が こだましている。

     

     アラビアの砂漠の 木陰に

     休らう 疲れた旅人たちにも

     これほど 快い調べで

     小夜啼鳥も うたいはしなかった。

     

     これほど 心に響く歌声は

     あの遥かな ヘブリディーズの海の

     静寂を破って啼く 春の

     かっこう鳥からも 聞かれなかった。

 

     乙女の歌が どんな歌か誰にわかろう。

     たぶん その悲しい歌は、

     昔の哀れな、遥か昔の唱か、

     それとも 遠い昔のいくさの歌か。

 

     あるいは もっと鄙びた民謡か、

     今日この頃の 聞き慣れた歌か、

     どこにでもある、 またあり得る

     この世の悲しみ、別離、また苦しみか。

 

     それがどんな歌にせよ、乙女はまるで、

     終わりなき歌のようにうたっている。

     わたしは その乙女が手を休めず

     鎌に身をかがめて うたうのを眺め

     動かずに じっと耳を傾けた。

     それから 丘に登ると、

     その歌は 聞こえなくなっても、

     ずっとあとまで その歌声はわたしの心に残った。

 

     (ウィリアム・ワーズワース「麦を刈る乙女」より)

 

 

さて、人間は死ぬと、ほんの少しの間だけ魂がこの世界にとどまると言います。

そのほんの少しの間、魂は自分の好きな場所、お気に入りの思い出の場所に瞬時に飛んで行けるそうです。

そして、その場所でゆらめく夕陽のように、魂は最後の景色を眺めながら、溶けるように消えてゆくそうです。

私も最期は故郷の山の木々が生い茂るあの場所で、この世界の最後の景色を眺めたいものだと思います。

アイリス・マードック その2 

■アイリス・マードックの思想

かつてインタビューした盲目の歴史学者ヴェド・メータはマードックを次のように評したそうです。

 

     分析的というより、はるかに直観的な人である。

 

彼が言うように、マードックは言葉に縛られた哲学者ではなく、直観から言葉を紡ぎ出してくる哲学者だったと思います。彼女のエッセイを読んでも、あからさまな二元論的展開が見られ、これは彼女自身が二元論に縛られているのではなく、むしろ、言語が二元論に縛られていることをマードックはクールに見抜いていたからだと思います。ですから、彼女にとって言語はあくまで”思考の道具”に過ぎなかったのだと思います。

 

さらに、マードックは夫のジョン・ベイリーとの会話の中で「アイデンティティの問題がよく分からない」とも言っています。これは根本的にマードック自身が自己の中にアイデンティティというものをまったく規定していないからだと思います。アイデンティティは自己を何らかの枠組みの中に位置づけるときに発生する言語機能的なカテゴライズですが、マードックはそもそもそういった言語の拘束力から自由だったのだと思います。

 

マードックは哲学や小説など言葉に巧みで非常に優れた言語能力を持っています。しかし、彼女自身は言語に縛られていません。言葉を生業にしているにも関わらず、彼女は言葉からは自由な人だったと思います。

 

■アイリス・マードックの仏教

そんなアイリス・マードックは仏教徒でした。ただし、特に決まった宗派に属するというわけではなく、仏教に共感して、自らも実践する一人の仏教の実践者だったのだと思います。禅に興味を持っていて、来日したときには禅寺で参禅したりしたそうですし、また、宗教家のジッドゥ・クリシュナムルティにもインタビューしたりしたようです。おそらく、仏教の教えに心の深いレベルで共感していたのだと思います。

 

■アイリス・マードックの自然思想

それから、彼女の思想の特徴づけるもうひとつのものとして、アニミズムがあります。彼女は自然の喜びをよく知っていたのだと思います。例えば、彼女は全裸で川で泳ぐのが大好きでした。視覚や聴覚だけでなく、全身で自然の喜びを感じ取っていたのではないでしょうか。また、彼女は落ちている石をよく持ち帰ったそうです。石もただ眺めるだけでなく、握ったり、その重みを感じたりして、その存在を身体で感じられるからだと思います。

 

さらに興味深いエピソードで、旅行中に往路で野原に目印に置いておいた2つの空き瓶が復路で見つからなくなったことがありました。そのとき、その空き瓶を擬人化して、「紛失された空き瓶同士が互いに相手を見つけ出して幸せに結ばれるように」と願ったりしたそうです。彼女を知る他人はマードックのこのようなアニミスティックな態度を愚かな憐憫と捉えたようです。確かにアニミズムは幼い子供によく見られる幼稚なアニミズムと捉えられやすいですが、彼女の場合はどこかアメリカ先住民の精霊信仰に近いものに感じられます。あるいは、折口信夫のいう相手の気持ちに同化=共感できる類化性能の感覚かもしれません。

 

ともかく、マードックは哲学と小説が同居するクールでプラグマティックなリアリズムを持っているにもかかわらず、さらに、スピリチュアルなアニミズムも持つという相反する2つを持ち合わせる非常に珍しい感覚と才能を持った人物でした。

  

■魔女の目的

前回の記事で示したように、マードックは「人間の人生に目的は無い」と喝破しました。マードックの哲学的な感性や論理が導き出した人間に対する一般的で普遍的見解だと思います。ですが、マードック自身は言語に縛られない自由な思考の人であり、さらに非-言語的な直感の人でもありました。マードックのそういった面はどこか魔女に似ています。では、普通の人とは違う特殊な人である魔女たちの人生の目的は何だったのでしょうか?

 

そもそも魔女の飛翔の目的は何だったのでしょうか?普通、脱魂は危険を伴う行為です。飛翔は決して快楽を誘うようなものではなく、むしろ、バッドトリップを誘発するかもしれない危険な行為です。なのに、そんな危険を冒してまで飛翔した理由は何だったのでしょうか?さらに言えば、そもそも魔女の人生の目的とは何だったのでしょうか?彼女たちは何も残していませんから、その問いは永遠に謎のままです。ですが、魔女の素養を持った直観の哲学者マードックが作品の中でそっと語るものと実は同じだったのではないかと私には思えます。マードックは彼女の哲学書の中で脇道にそれる余談のように次のように書いています。

 

     どんなにみじめであってもなお我々の自覚的意識は無限の価値を持っている。

     次のように語るのはべリアルであって悪魔ではない。

 

          いくら苦痛に満ちているとはいえ、この知性豊かな存在を、

          その思いが永遠をさまよう存在を、誰が棄て去ることを望むであろうか。

     

     (アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

 

マードックには哲学では語りえない、何らかの知見があったのではないでしょうか。

 

その片鱗をマードックの小説に見ます。

マードックは小説「海よ、海」の中でチャールズに次のように語らせています。

  
     「ひとり残らず地獄(バルドー)へ行くのかい?」
     「さあー、ねえ。死の瞬間にチャンスがあるっていう話だ」
     「チャンス?」
     「自由になるチャンスだ。

      死の瞬間には、一切の実在にかかわる想念総体が与えられ、閃光のごとく人に訪れるという。
      たいていのものにとっては、

      これは―なんていうか―原子爆弾みたいな、ただの強烈な閃光にすぎんのだ、
      戦慄すべき、目もくらむ、不可解な事象にすぎんのだ。

      しかし、それが会得できて、捉えられたとき、人は自由になる」
     「すると、瀕死の瞬間を知っていることが重要だね。君の言う自由になるっていうのはなにかとくに―?」
     「いや、ただの自由だ―涅槃の境というか―運命の車輪からの解脱なのさ」
     「霊魂再生の車輪じゃないの?」
     「そうだな、執着、渇望、強欲などわれわれを仮想の世界にしばりつけている運命の車輪さ」
     「執着だって?というと―愛もか?」
     「世間一般でいう愛はな」
     「そのとき、われわれの存在はどこか別の世界へ移転するのかな?」
     「そういうのはイメージの問題で、今まさに現世こそがニルヴァーナだという人もいる。
     イメージを説明するためのイメージであり、図像を説明するための図像なんだ」
     「真理はそのかなたにあるってわけか!」
     

     (アイリス・マードック「海よ、海」より抜粋)

 

つまり、魔女の目的は無限の旅人になることだったのではないかと私は思います。

 

また、マードックの最後の小説「ジャクソンのジレンマ」にも次のように描かれています。

 

ところで、この小説の主人公ジャクソンはとても奇妙な人物です。マードックがアルツハイマー病に侵されて苦しみながら書いた最後の小説であるため、一部の読者からは曖昧な記述を病気の所為とネガティブに評価される向きもあると思います。しかし、私にはそうは思えません。私にはこの目立たないジャクソンなる隠された人物こそが、言わば”則天去私”を具現化した人物に感じられるのです。別の言い方にすれば、「善の至高性」で示された善に限りなく近づきつつある完成された人格に思えるのです。

 

さて、そんなジャクソンも、やはり、最後に死の可能性について言及します。

  

     しかし私にはまだ力が残っている、いつだって自分を始末することができる。

     死、すぐそこにある。
     私はやはり、私を探し出そうとしている者を恐れているのだろうか?
     いやその人びとのことは覚えていないし、探している人間もいない。
     昔、刑務所にいたのだろうか?思い出せない。
     これからなすべきことをしなければいけないのに、もうどこへも身動きがとれないところへ来てしまった。
     こんな思いを振り捨てて立ち上がろうとしたとき、何か不思議な感じがした。
     蜘蛛が彼の手を見つけて、その上を歩いていたのだ。
     優しく手を貸して、その生き物を巣のほうに戻してやった。
     彼は川のほうに歩いてゆき、橋を渡った。

     しだいにペンディーンが近づいてくると、彼は微笑みを浮かべた。
 

     (アイリス・マードック「ジャクソンのジレンマ」より抜粋)
  

おそらく、その死の先には、永遠の一瞬、限りなく無に等しい無限、完全な自由があるのだと思います。

  

以上で「私的魔女論」を終わります。

 

■参考文献

アイリス・マードック「海よ、海」

アイリス・マードック「ジャクソンのジレンマ」

アイリス・マードック「善の至高性」

ジョン・ベイリー「作家が過去を失うとき アイリスとの別れ1」

アイリス・マードック その1

■はじめに

アイリス・マードックについて書いてみようと思います。

アイリス・マードックは英国の作家で哲学者です。生涯に26編の小説と5冊の哲学書を出しています。

プラトンやサルトルなどの西洋哲学やシェイクスピアやドストエフスキーなどの文学に詳しく、

さらに、仏教や日本文学など東洋思想にも造詣が深いです。また、彼女はバイセクシャルでした。(*1)

  

■アイリス・マードックの略歴

1919年にアイルランドの首都ダブリンで生まれ、翌年、ロンドンに移住します。

1938年にオックスフォード大学サマーヴィル・カレッジの古典文学科で古典文学・哲学・古代史を学びます。

1942年に首席で卒業して、戦時文官として大蔵省に勤務します。

1944年に国連救済復興機関に入り、戦後のベルギー、オーストリアで難民の救援活動に従事します。

    ブリュッセル滞在中にサルトルの講演を聴き、哲学の道に進む決意をします。

1947年にケンブリッジ大学で哲学奨学生となり、哲学を本格的に学び始めます。

1948年にオックスフォード大学で哲学講師となります。以後、1963年まで務めます。

1954年に処女作「網のなか」を出版します。

1956年に文芸評論家のジョン・ベイリーと結婚します。

1970年に「善の至高性」を出版します。

1978年に「海よ、海」でブッカー賞を受賞します。

1995年に最後の著作「ジャクソンのジレンマ」を出版します。

1997年にアルツハイマー病と診断されます。

1999年にその生涯を閉じます。

  

■アイリス・マードックの小説

マードックは「小説は分析の芸術であるよりはイメージの芸術である」と言っています。これは「戦争と平和」の著者トルストイの歴史に対する考え方に近いと思います。トルストイの歴史観について歴史学者の山内昌之は次のように言っています。

 

     空間と時間における具体的な事件の総和だけが真理を含んでいる。

     現実の男や女の相互関係、三次元的あるいは経験的に知りうる環境との関係における

     現実の経験の総和こそ、真理を内包している。

 

     (山内昌之「歴史学の名著30」より抜粋)

 

文字列を一本の線で繋ぐような単線的な論理ではなく、複雑に絡み合った複線的で混沌とした総和が、歴史=現実の本当の姿だと考えたのではないでしょうか。その混沌とした総体がマードックのいうイメージという漠然とした形象なのだと思います。また、マードックが「自分には意識の流れなどない」といったのは、単線的で連続な論理に支配されているのではなく、そういった人間が勝手に作り出す偏った幻想からは自由に現実を捉えていると言っていると思います。

 

また、映画「アイリス」の中のマードックのセリフですが、「人間の愚かさを描くのは作家の特権だ」と言っているように、小説には”人間の愚かさ”が描かれています。同じように、人間の愚かさを描く英国の作家にジェーン・オースティンやシェイクスピアがいます。同じ人間の愚かさを描くといっても、二人は対照的でジェーン・オースティンは非常にモラリスティックで「お金で結婚を選んではいけない。人柄で選ぶべきだ」という道徳が作品に盛り込まれています。一方、シェイクスピアは人間の営為のすべて、愛や友情までも含めたすべてを、人間の愚かさとして、冷淡に哂っています。マードックはこの他にも数多くの作家の影響を受けているらしいですが、人間の愚かさを描く点において、この二人の作風のいずれをも含んでいるのではないかと思います。ただし、自由な性のため誤解されやすいですが、マードック自身は「より善き存在になろう」という道徳を重んじた人だと思います。

  

■アイリス・マードックの哲学

簡単に振り返ると、ニーチェが「神は死んだ」と言ったときには、人々の心から神のリアリティが無くなったのだと思います。それは神学も哲学も道徳も依拠していた土台を失ったことを意味します。それに対してサルトルが実存主義で乗り越えようとしましたが、レヴィ=ストロースの構造主義であっさりと否定されてしまいました。当時、マードックはサルトルの実存主義に影響を受けて哲学を始めましたが、時代が進むにつれて実存主義は構造主義によって乗り越えられてゆきます。しかし、マードックは構造主義には乗らなかったようです。マードックはあくまで人間の存在意義や生き方(=道徳哲学)といった哲学の根本的な問題から逃げなかったのだと思います。そして、マードックは著書「善の至高性」でその問題に一定の哲学的な解答を提示したのだと思います。以下、「善の至高性」に基づいてマードックの哲学を考えてみます。

 

■人生の目的

アイリス・マードックは人間について、そして、人生について、次のように語っています。

 

     人間は本性上利己的であるということ、

     そして人間の生はいかなる外的な目的も持ってはいない、というものである。

     ……

     つまり、人生は自己充足的で無目的なものである

 

     (アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

 

とてもシンプルに人間の性質と人間の目的について語っています。

すなわち、

 

     人間の性質 = ”人間は利己的である”

     人間の目的 = ”人生に目的は無い”

 

ということです。

  

■神は存在しない

さらに、先の「人間の生に目的は無い」ということから、神についても言及します。
 

     我々は、まさに見かけどおり、必然と偶然に左右され、束の間だけを生きる存在である。

     これはつまり、私の見解では、伝統的な意味における「神」というものが存在しないということであり、

     この伝統的な意味がおそらくただ一つの意味なのである。

     ……

     同様に、神に代わるさまざまな形而上学的代替物-理性、科学、歴史-は偽りの神々である。

     我々の運命を吟味することは可能であるが、運命を正当化したり、完全に説明したりはできない。

     我々はただここに存在している。

 

     (アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

 

ここでも、とてもシンプルに「神は存在しない」と小気味良く言っています。さらに、理性や科学や歴史に対して、その優位性を認めていません。

 

しかし、それでもマードックは言います。

 

     いかにして我々は自らをより善きものにすることができるのか

 

     (アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

 

確かに「より善きものになろうとする意思はどこから来るのか?」の説明はありませんが、「人間の愚かさを笑う」作家マードックにとっては自明だったのだと思います。(悪党ぶる若者には善に根拠が無いという理由で、本気で善きものになろうとする意思を持とうとしないものがいますが、では逆に、その悪への意思が強い意思となるかどうかは疑問です。すなわち、問題は意思の弱さにあるのではないでしょうか。)

 

■善とは何か?

では、より善きものになろうとするのは良いとして、善とは何でしょうか?

マードックは善について次のように言っています。
 

     善の構造の一番上にあるのは、完全に空虚な状態である。

     つまり、善は、上にいくほど中身のない構造になっているのだ。

     人間は、しばしば善が拡大していく様を夢見てきた。

     彼らがそこにあるものとして当たり前のように考えてきた、慈しみを内包するような善を夢見てきた。

     しかし、それはまさしく夢に過ぎず、その点でまったく空虚なものだ。

     人間の本性が善を絶対的に排除しているというのは正しくない。

     広い意味では、善そのものが一貫した概念でさえないし、善とは人間には想像できないものなのだ、

     ちょうど、物理学のある概念のように。

     ただし、物理学の概念と違っているのは、善にはどこにそれが存在するか、

     その存在する場所を指し示す方法さえないということなのだ。
     なぜなら、善とは、初めから存在していないものなのだから。

 

     (アイリス・マードック「かなり名誉ある敗北」より抜粋)

 

一体、これはどういう意味でしょうか?少なくとも、マードックのいう善は一般的な善悪の善とは違うようです。ここでいう善は、プラトンの善のイデアに近いものだと思います。プラトンの太陽の比喩でいうところの太陽です。

 

■善に近づく方法

マードックは人間がより善きものになるための方法を次のように言っています。

まず、善に近いづきやすいという理由から美を取り上げ、その具体的な方法として、芸術の経験、自然の享受、知的な訓練(=テクネー)を挙げています。

 

例えば、芸術については、次のように述べています。

  

     芸術の無目的性はゲームの無目的性とは異なる。

     それは人生そのものが無目的だということであり、芸術における形式は、

     まさに自己充足的で無目的な宇宙のシミュレーションなのである。

     善き芸術は、我々がいつもあまりに利己的であり臆病であるために認識することができないもの、

     つまり、微細で絶対的に偶然的な世界の詳細を明らかにする。

     しかも、統一性や形式をもってそれを示すのである。

 

     (アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

 

ここでいう芸術の無目的とは、目的がどこか1点に向かうベクトルであるのに対して、無目的はベクトルがどこか1点に向かうのではなく、太陽のように全方向に照射されるあまねく光と考えれば分かりやすいのではないでしょうか。それに対して、遊びとしてのゲームの無目的は本当に目的が無いこと、ベクトルが無いことを言っているのだと思います。人間の営みにおける不純な目的やゲームにおけるきまぐれな有って無きがごとき目的よりは、芸術のように純粋に無目的であることはそこに宇宙の秘密が開示されてくるのではないでしょうか。
Free Way-図3-1.芸術の無目的性
 

■善に至る道

そして、マードックは完全な善に至る道として、プラトンの洞窟の比喩における太陽によって説明しています。以下、「善の至高性」から一部抜粋しますが、省略することはできませんので、本来はテキストをあまさず読むのが最適かと思います。 

 

     第一に世界は巨大で無目的で偶然的だからであり、

     第二に人間は利己心によって目を遮られているからである。

 

     他の事物の場合とは異なり、太陽を注視するのは困難なことである。

 

     もろもろの線は太陽に収斂しているのである。

     そこには磁石のように引き寄せる中心があるが、しかし、中心そのものを見つめるよりも、

     収斂する周縁部を見る方が容易である。

     その中心がどのようなものであるか我々は知っておらず概念化もしていないし、

     またおそらくそうすることは不可能であろう。

 

     愛の存在は、我々が卓越性に魅了され、善へと向かう霊的存在者であることの紛れもないしるしである。

     それは、太陽のぬくもりと光の反映なのである。

 

     謙虚な人は、自己を無と見なすが故に、他の事物をあるがままに見ることができるのであり、

     かれは、徳の無目的性とその独特の価値、そしてその要求の限りない拡がりを見るのである。

 

     シモーヌ・ヴェイユは我々にこう告げている。

     魂を神にさらすことは、魂の利己的な部分の受難ではなくその死刑宣告である、と。

     謙虚な人は受難と死との距離に気づく。

 

     (アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

 

ここでは、プラトンの太陽に近づいてゆき、窮極的には太陽と自己とが重なり合わさることを目標としています。そして、驚いたことに、実はそのプロセスは仏教の「大乗起信論」が説くところの浄法熏習と同じメカニズムを言っています。実際には「大乗起信論」の熏習の方がより精緻にそのメカニズムを解き明かしていますが、原理的には同じことを言っていると思います。むしろ、マードックのいう方が直感的に分かり易いかもしれません。なぜなら、熏習(=移り香)よりは、光のぬくもりや明るさの方が私たちには実感しやすいのではないでしょうか。ともかく、これによって、プラトンの太陽、すなわち、”善のイデア”と「大乗起信論」でいうところの”真如”、さらには、”アラヤ識”がここに至って同一のものとして繋がったわけです。さらに、真如であることから、インド哲学でいうところの梵我一如もある意味同じだと思います。また、イスラムの哲学者スフラワルディーが「光の形而上学」で説いたという”光の光”もこの太陽と同じものではなかったかと思います。
Free Way-図3-2.大乗起信論の熏習メカニズム Free Way-図3-3.プラトンの太陽
 

マードックによってプラトン哲学を起源とする近代哲学は、言語的・哲学的・倫理学的な意味において、あるいは、意識のソフトウェア的なレベルにおいて、倫理学的な悟り、自性清浄心が覚醒する修道に至ったのだと思います。

 
■注釈

(*1)道徳哲学が彼女の主要な哲学の基底になっています。また、仏教徒でもあります。源氏物語や三島由紀夫を読んでいます。俳句も読んだようです。

 

■参考文献

アイリス・マードック「善の至高性」

アイリス・マードック「アイリス・マードック随筆・対談集」

ジョン・ベイリー「作家が過去を失うとき -アイリスとの別れ(1)」

ジョン・ベイリー「愛がためされるとき -アイリスとの別れ(2)」

平井杏子「アイリス・マードック」(彩流社)

日本アイリス・マードック学会「アイリス・マードックを読む 全作品ガイド」

宇井伯寿・高崎直道「大乗起信論」

井筒俊彦「意識の形而上学 大乗起信論の哲学」 

ケイト・ウィンスレット その8

■総まとめ

ここからは、「ウィンスレット 人と作品」全体の”まとめ”に入ってゆきたいと思います。

 

ここまで、その1からその7までウィンスレットの人となりと作品について語ってきましたが、ここからのまとめにはそれらとは直接的な関係、論理的な関係はありません(笑)。ここからのまとめには、その1からその7までを俯瞰したときに見えてくるもの、透かしたときにその向こう側に見えてくるものについて語りたいと思います。

 

言い方を変えて、例え話ですが、その2からその7までを1のウィンスレット本人という円周上の任意の点だと考えて下さい。6個の点を白紙の上に書いたとき、そこに円が浮かび上がってきます。円周が浮かび上がってきたら、円の中心が浮かび上がってくると思います。例えば、半径rの円周は関数x^2+y^2=r^2という点の集合で表されます。しかし、円の中心はこの集合には含まれず、点として表出してきません。円周上のすべての点から等距離にある円の中心なのに、目に見える点としては表れてこないのです。喩えるなら、円周上の点の1個1個を各々の論理のまとまりだとすると、論理のまとまりを集めてレンガのように論理的に順番に積み上げていっても、円の中心が最終的な結論の場合は最後に積み上げたところに結論がくるわけではありません。結論は表出しないのです。ですが、私たちはたとえ実在の点として表れてこなくても、円の中心の存在を想像力で知覚することは可能です。私がここで試みたいのは、そのような見えざる中心点を指し示すことをしたいと思います。これらの論理は雪の結晶における水と核(=水ではないモノ。塵)の関係に似ていると思います。ただし、この喩え話はあくまで論理のイメージであって厳密には論理的ではありません。
Free Way-図2-4.円の論理 Free Way-図2-5.雪結晶の論理  

長い前置きをしておいてなんですが(笑)、ここでウィンスレットと比較する、あるいは、浮かび上がらせる補助線として、別の女性たちについて手短に取り上げてみたいと思います。

 

■もうひとりのケイト

まず、ウィンスレットと並んで、演技派女優として名高いケイト・ブランシェットについて考えてみます。ブランシェットはウィンスレットとは対照的に繊細で細やかで器用な演技をします。いや、まあ、ウィンスレットも本当はそうなんですが、ウィンスレットの場合、圧倒的に力強さや破壊力が目立つので、繊細さという面は見落とされがちです。で、ブランシェットはキャラクターによってまったくの別人に扮しているように見えます。その変身ぶりはとても見事です。一方、ウィンスレットも演じるキャラクターによってまったくの別人に変身しています。しかし、この二人の変身を見比べたとき、どうも変身の仕方に根本的な相違があるように思えます。確かに、演じるキャラクターが違うので、一概に二人を比較するのは困難です。しかし、やはり、どうも二人は変身の原理が根本的に違うと思います。一体、何が違うのでしょうか?

Free Way-ケイト・ブランシェット003

 

まず、ウィンスレットですが、彼女の変身は、一見すると、何の変哲もない変身に見えます。黙って座っている場合などは、下手をすると、変身しているのかさえよく分からない、ごく自然体に見えるかもしれません。しかし、映画を見始めて、彼女の演じているのを映画の進行と共に見続けていると、彼女が別人であることに気がつきます。彼女の感情の動きを反映した反応から、彼女がどう感じどう考えどう反応しているかが分かります。そして、彼女の中身が変身によってまったく別人であることがはっきりと分かります。喩えるなら、同じ筐体なのに中のOSはまったく別のOSに変わっていたような感じです。もう少し具体的に言えば、人格が別の人格に書き換わっています。しかし、同時にその一方で、はじめにも書いたようにウィンスレットらしさのようなものは感じられます。同じ人なのだから、ウィンスレットらしく感じられるのは当然と思うかもしれません。あるいは、彼女の演じるキャラクターがどの作品も何がしか共通点があるのかもしれないと考えるかもしれません。確かに彼女の演じるキャラクターは気の強い女性が多いかもしれません。ともかく、ウィンスレットの変身はまったくの別人になっているという感覚と同じウィンスレットらしさがあるという感覚の2つの感覚があると思います。

 

一方、ブランシェットですが、彼女の変身は、一見して、すぐに変身していると分かります。彼女は演じているキャラクターの特徴をよく掴んで表現しているからです。形態模写や先鋭化、あるいは、ある種のデフォルメと言っていいかもしれません。彼女はキャラクターの持つ表象を実に見事に体現してしまいます。恐ろしいまでの器用さと言うべきでしょうか。彼女の力を最大限生かせば、例えば、演じるキャラクターが実在の人物だった場合、ブランシェットがその人物を演じれば、本人よりも本人らしくなるかもしれません(笑)。笑い話のようですが、実はそこにこそ、ブランシェットの変身の原理の秘密があると思います。

Free Way-ケイト・ブランシェット001 Free Way-ケイト・ブランシェット002 Free Way-ケイト・ブランシェット004
 

ウィンスレットとブランシェットの変身の原理の違いは何でしょうか?一挙に答えに行きます。その違いは内側からの変身と外側からの変身の違いです。ウィンスレットは内側からの変身であり、ブランシェットは外側からの変身です。ウィンスレットは内側(=核)からキャラクターに同化するため、その表象が内側から外側に表出してきます。一方、ブランシェットは外側(=表象)からキャラクターに同化するため、外側からキャラクターの内側(=心奥)に浸透してゆきます。そのためにブランシェットは表象が際立って本人よりも本人らしくなり、ウィンスレットは別人なのにバランスを保って自律的に運動可能な全体性を獲得しているのです。ウィンスレットの場合、喩えるならば、別のOSなのに生きて動くOSとして全体としてなんら損傷なく、ウィンスレットの中で機能し動いているのです。

 

■二人のバレリーナ

次に、女優とはまた違った別の世界の例として、二人のバレリーナについて手短に考えてみます。

 

一人はグルジア出身でボリショイバレエ団のプリマ・バレリーナだったニーナ・アナニアシヴィリです。もう一人はフランス出身のバレエ・ダンサー、”現代バレエの女王”と言われるシルヴィ・ギエムです。二人は共に天才的なバレリーナですが、そのバレエのスタイルはまったく対照的です。喩えるならば、アナニアシヴィリが太陽ならば、ギエムは月です。あるいは、アナニアシヴィリが炎なら、ギエムは氷です。彼女たちは時代を代表するダンサーでしたが、共にそのスタイルは正反対と言っていいくらい全く異なるものでした。次に二人のバレエについてそれぞれ考えてみます。

 

まず、アナニアシヴィリです。彼女の代表作は「ドン・キホーテ」です。アナニアシヴィリ演じるキトリは実に見事でした。バレエ史にもその名は永遠に刻まれることでしょう。いえ、おそらく、彼女のキトリを凌駕するバレリーナは、今後も現れないでしょう。一体、彼女の何がこれほどまでに見る者を魅了させるのでしょうか?専門家は言います。グラン・フェッテの連続回転が高速なのに全然ぶれない、安定している。しっかりした基礎の上にある華麗な跳躍や回転をほめたたえる。あるいは、その華麗さとは対照的な繊細な演技力を誉めたりもする。しかし、私に言わせるとそれはちょっと違うのです。そうじゃないのです。例えば、日本人のバレリーナは人一倍練習熱心で正確に踊るんじゃないでしょうか。しかし、アナニアシヴィリと彼女たちのバレエを比べてみれば、何かが大きく違う。確かに欧米と日本の体格の違いや物理的な動き・物理的運動の違いがあると言うかもしれません。科学的・技術的に捉えれば、そういった違いとなって表れてくるのかもしれません。しかし、そうじゃないんです。そういったことを追究しても、なぞっても感動するダンスにはならないと思うのです。私たちを魅了するのは何も機械的に正確な軌道やうわべだけの表現力ではありません。では、一体、何が私たちを魅了するのでしょうか?

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例えば、まず、アナニアシヴィリの緩やかで正確な動きを見たとき、一見、何の変哲もないダンスに見えます。しかし、その何気ない簡単なはずである動き、にも関わらず、私の心には深い残像が残ります。ここでいう残像は視覚の残像ではありません。これは心の残像、記憶の残像というべきものです。喩えるならば、私の記憶媒体を樹脂状の長方体だとすれば、バレリーナが空間に描いた優美な曲線が、レコード針がレコードの溝を彫るように、その長方体に痕跡として彫り刻まれるような感じのです。そして、その痕跡の彫りの深さや繊細さや優美さが何ものにも勝っているのが、アナニアシヴィリのバレエなのです。喩えるならば、他のバレリーナの描く曲線が平面的ならば、アナニアシヴィリの描く曲線は立体的なのです。しかも、その彫られた曲線は硬く、かつ、しなやかで、滑らかで、かつ、強靭なのです。優美でありながら力強く、伸びやかでありながら、その彫りは深く重厚でしかも繊細なのです。そういった曲線が私の記憶の樹脂に彫り刻まれれば彫り刻まれるほど、私は心地良さ・気持ち良さを感じるのです。一体、何が他のダンサーたちとは違うのでしょうか?それはひと言でいえば、その彫られた痕跡は”生きた曲線”なのです。
Free Way-ananiashvili003
 

では、”生きた曲線”とは何でしょうか?日本人にとって”生きた曲線”を理解することは、ある意味、簡単かもしれません。なぜなら、最良のテキストがあるからです。それは何かと言うと、空海の書です。私は空海の書に同じような”生きた曲線”を感じます。空海の書は機械のように正確というわけではありません。なのに私たちはそこに何か感じています。一体、何を感じているのでしょうか?私たちが感じているもの、それは生命です。書から空海の生命力を感じ取っているのです。空海の書からは、筆の先の先、毛先の一本一本、その一本一本の毛の先の先まで空海の神経が行き届いているのが感じられるのです。空海の充満してあふれ出さんばかりの生命力が筆の先まで行き届いて、墨にまで生命が乗り移って紙の上で文字となって踊っているのです。しかも、その生命力はただ元気の良い若者のような一本調子の元気さとはまさに次元が違うのです。例えば、万華鏡を思い浮かべてみて下さい。若者の元気さは確かに生命力に溢れています。しかし、それは万華鏡で喩えれば、1つの鏡像に過ぎません。ところが、空海の元気さは万華鏡のようにいくつもの鏡像となって花開くように多様多彩な多次元なのです。一本調子ではなく、生命が自由自在・自由闊達にあふれ出すように多彩に踊っているのです。すなわち、若者の元気さのような底の浅いものではなくて、空海の元気さには人間としての深みや豊かさがあるのです。私は空海の書を見るとき、私の中では、私のいるこっちの世界と空海のいるあっちの世界で向かい合わせになって、掌と掌を合わせるようにして空海の生命力の暖かさが伝わってきます。そして、腹の底からこみ上げてくる笑いのように喜々とした生命の喜びを感じます。そのとき、私の頭上では万華鏡が展開するように曼荼羅が華麗に花開くような喜びを感じるのです。話が大きく脱線してしまいました。私たちを感動させるもの、それは生命力なのです。(*1)
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話をアナニアシヴィリに戻します。アナニアシヴィリのバレエには、何気ない簡単にしぐさにさえ、本当にシンプルな痕跡にさえ、私たちを感動させるものがあります。そして、その根源にあるのは彼女の生命力があるから感動するのです。心の樹脂に刻まれた簡単な彫りにも関わらず、その彫りには印象深い深みや重みを感じるのはそういった生命力があるからなのです。(*2)

 

さて、あとは簡単です。彼女の華麗な跳躍や回転に感動するのはなぜか?それもまったくそのままです。生命力の爆発、生命エネルギーの炎が燃え上がっているからなのです。私たちは彼女の激しい生命の火柱に酔いしれて喜びの歓声を上げるのです。また、彼女の存在そのものが太陽なのは偶然ではありません。彼女は無意識かもしれませんが、生命力を外部へ向かって爆発・発散・放射しているからこそ、彼女の存在が太陽のように感じられるのです。つまり、アナニアシヴィリは自分の中で燃えるこの生命の炎を自分でしっかりと掴み、それをバレエとして昇華=シンクロさせているからこそ、彼女のバレエは世界中の人々を最高に感動させるのです。
Free Way-ananiashvili004 Free Way-ananiashivili001 Free Way-若冲老松白鳳図
 

一方、対照的なのが、シルヴィ・ギエムです。アナニアシヴィリを太陽とするならば、ギエムは月といえます。ギエムの特徴はその可動域の広い柔軟な関節です。簡単にいえば、開脚で古典では大きく広げ過ぎては品がないという範囲を、その可動域の広い特性を生かして、はるかに超えて大きく広げることで、今までにない新しい境地をバレエに切り開きました。しかも、その動きはとても細やかで蜘蛛の足のように複雑な動きを変幻自在にこなします。古典バレエから現代バレエへの変革でした。その動きから詩的な宇宙的なイメージあるいは月のような冷たさを感じると思います。また、ギエムのしなやかだが筋肉質な肉体は、解剖されるのを待つ冷たい筋肉を感じさせます。現代人には古典バレエは退屈に感じられ、ギエムのバレエは詩的で知的に感じられると思います。アナニアシヴィリが自然の大地から立ち上がる生命の炎だとしたら、ギエムは無生物の凍った月面に降り立った銀色のボディと真白い肌をした女神といったところでしょうか。あるいは、アナニアシヴィリが燃焼・炎なら、ギエムは氷結・無機質といったところでしょうか。その名の通り、現代では現代バレエが主流となっているんじゃないでしょうか。(ギエムも激しい炎のようなバレエだと感じる見方もあると思います。実際、非常に激しく動いています。ただ、それは表面的には激しいのですが、赤い炎ではなく、青い炎に感じられます。あるいは、デフォルメされた記号的激しさであって、生命の炎そのものの激しさとは違うと思います。伝統を重んじる古いタイプの振付師たちがギエムを軽視した理由もそこにあると思います。)
Free Way-Guillem001
 

ここでちょっと時代に逆行した話をします。なぜ、現代バレエがバレエの主流になるのか?古典が退屈に感じられるのか?それは舞踊のアウラが人々の心から失われつつあるからです。本来はバレエとて舞踊のひとつです。そもそも舞踊の何が楽しいのか?舞踊を踊るとき、私たちの魂は”魂振り”の喜びを感じるのです。舞踊によって魂をゆすぶって身体は奥底から喜びに笑うのです。他人が踊っているのを見て楽しいのは、自分の中の魂がくすぐられ、くすぶってくるから楽しいのです。そして、仕舞には自分も踊りたくなって踊りだしてしまうのが、本来の舞踊だったのです。舞踊のアウラの記憶とは、このような踊りだしたくなる魂の共振・連鎖反応です。ところが、現代人はそのアウラを忘れてしまいました。生れ落ちたときから知りません。自然の大地からも引き剥がされて、コンクリートの無機質な都会で暮らしています。大地を蹴って飛び上がり、汗を飛ばして身体を躍動させて、喜びに笑う楽しさを知りません。だから、土や汗の匂いのしない、そういった生命を排除する現代バレエが主流になってしまうのです。「ギエムのバレエを初めて見たとき、今までのバレエは何だったのか」という人がいますが、それは今までのバレエをちゃんと見ていなかったからです。そういう人は少女趣味でバレエを見ていたのでしょうか?バレエに表れる生命の曲線をちゃんと見ていなかったのではないでしょうか。ともあれ、現代バレエというアプローチを否定するものではないけれど、本来の舞踊の本質を失くしてしまってはいけません。実はこの現象はバレエだけでなく、サーカスでも同じです。土くさいロシアの伝統的なサーカスは廃れて、カナダのアート・サーカスが世界を席巻しています。これは古典バレエや伝統的なサーカスを現代人が感覚的に理解できなくなってしまったがために起こっているのだと思います。そして、その失われた感覚とは、実は地球上からどんどん失われている緑の自然と同じものなのです。古いもの、新しいものといった違いではなくて、そこには大切なものがあるのです。自然の森はアナニアシヴィリや空海の生命の海と実はとても深い深いところで繋がっているのです。今、その繋がりがどんどんと切れていっているのです。そんな大切なものを人間は失いつつあります。だから、なんとか繋ぎとめられたらと思います。(*3)

 

話をギエムに戻します。ギエムの世界は詩的で死的です。ギエムの世界が究極に辿り着くところ、それは身体という、本来は汗をかき、息をあえぎ、有機的で生々しい肉体であった身体を、どんどんとそういった要素を切り捨てていって、無機質で冷たい無生物な状態に近づけることによって、具体から抽象へと向かわせることに狙いがあります。その結果、そこに残ったもの、表れるものは、何でしょうか?それこそが、生命の純粋イデアなのです。例えば、花という具体的・物理的な存在から、その花の本質=イデアだけを取り出したとき、初めて、花そのものの真の美しさに到達できるのではないかという試みです。花が物理的存在として持つ、花びらや、雄しべや雌しべ、茎などのすべての具象をぬぐい去ったとき捨て去ったときに、はじめて立ち表れる”美”こそ、花本来が持つ純粋な美、花の純粋イデアそのものではないか!というのです。あるいは、身体から身体性をどんどんと剥ぎ取っていったとき、どうなるか?しかも、その剥ぎ取り方は研究所のラボで科学者が硬質でメタリックなメスによって身体から肉を切り取って解体するような剥ぎ取り方です。身体から肉も骨も無機質なメスで切り取られ、切り刻まれて分解され尽くしたあとに残ったのは、1本の試験管の中でホタルのように弱々しく光る、小さな小さな魂かもしれません。しかし、そんな自虐的・自己言及的・自己破壊的な行為に及んでも、生命の純粋イデアに触れたいという人間の切なる想いがある、といえるかもしれません。ですから、ギエムのバレエは、一見、生命の讃歌に逆行しているようですが、その実、限りない遠回りをしつつ、無限遠点にあるその最終目標は”生命の純粋イデアに辿り着く”というものであり、ギエムのバレエはその決死の試みなのだと思います。

Free Way-月の世界 Free Way-Guillem002
 

まとめます。ギエムのバレエは生命のイデアの探求です。身体性を限りなく剥ぎ取ったその果てに、純粋な生命である生命のイデアに辿り着くための死的試みです。微分=差異化の科学的分析手法に似た一種のミニマリズムと言えるかもしれません。詩でいえば、マラルメです。マラルメは”意識の極北”の場で”完全に死んだ”とき、”冷たくきらめく純粋な星たちの国、万物が無生命性の中に凍てつき結晶した氷の世界、あらゆる生あるものが消滅した死の世界”に辿り着き、死と絶滅以外の何ものでもありえない戦慄のその世界で、”永遠のイデアである絶対美を見出した”のです。

 

一方、アナニアシヴィリのバレエは自らを燃え上がらせる生命エネルギーの燃焼です。その燦然と燃え上がる生命の炎は人々を魅了してやみません。ギエムもアナニアシヴィリも共に二人は生命への異なったアプローチなのです。ギエムは差異化によって生命を客体化=異化して自分を切り刻むようにして生命のイデアを見出そうとします。一方、アナニアシヴィリは生命エネルギーと同化(=シンクロ)して自分を燃え上がらせて生命エネルギーの燃焼に喜びを見出します。二人の違いは、極端に言えば、生命エネルギーの異化と同化の違いと言えるかもしれません。
Free Way-太陽001 Free Way-Blue Moon
 

■まとめ

最後なので、妄想をツインターボで全開させます(狂笑)。

 

これまで、このシリーズを通してウィンスレットの作品の意味を見てきました。そして、ウィンスレットがその意味を正確に理解した上で実に見事にその役柄を演じてきたことが分かると思います。そして、作品の意味を理解するのにも役柄を演じるのにもそれらを助けているのは、「その7」で述べたようにウィンスレットが性や意味についてエネルギーのレベルで作品や人物の意味をエネルギー的に把握しているからだと思います。また、この「その8」で述べたように、ケイト・ブランシェットと比較すると、ブランシェットが外側からの変身であるのに対して、ウィンスレットが内側からの変身であることが分かると思います。また、アナニアシヴィリとギエムを比較すると、ギエムが生命力を限りなく消滅することによって生命のイデアを浮き上がらせているのに対して、アナニアシヴィリは逆に生命の炎と一緒になって燃え上がっているのが分かると思います。つまり、彼女のエネルギーと彼女のバレエがシンクロしているのが分かると思います。そこで、これらを総合的かつ直感的に判断して、ウィンスレットの変身で起こっているエネルギーの流れについて、妄想を最大限に発揮して以下のように想像力を働かせてみたいと思います。

 

ケイト・ウィンスレットの演技には、ウィンスレット本人とは全く異なる別人に変身している部分と、そうではなくて、何某かのウィンスレットらしさを残している本人が残っている部分の2つがあるように思います。なぜ、そう感じるのでしょうか?その理由は、実はエネルギーは2つの流れから構成されているからだと思います。1つはエネルギーの渦巻きです。もう1つは周囲に向けて放射される光源です。(下図参照)
Free Way-図2-6.渦巻き状エネルギー流 Free Way-図2-7.光源型エネルギー流
 

そして、全く異なる別人に感じる部分はこの渦巻き状のエネルギー流が変形しているからだと思います。一方、ウィンスレットらしさに感じる部分はこの光源の中心であるエネルギー源から独特のパターンと波長で放射されるエネルギー波を私たちが当人と認識するからだと思います。

 

すなわち、エネルギーは渦巻きと光点の2つのエネルギー流で構成されていると思います。そして、この2つのエネルギー流は実に奇妙な重なり合わせになっているように思います。というのは、2つは同じ場で重なっているからです。同じ場にありながら、この2つは全く別の次元に存在しており、表層より奥の深層では、2つは混じり合うことなく、それぞれが独自の流れを延々と続けているように感じられるからです。実に不思議で奇妙なエネルギー構造です。

Free Way-図2-8.エネルギー形態001
 

さらに、ウィンスレットの変身で行われているのは、この渦巻き状のエネルギー流の変形だと思います。

 

ここでちょっと、補助線を引きます。稚拙な例かもしれませんが、寺沢武一の描いたSF漫画で「コブラ」という作品があります。この漫画の主人公コブラは左手がサイコガンというレーザー銃になっています。サイコガンとは、自分の精神エネルギーをビームのエネルギーに変換して撃つレーザー銃という設定になっています。このサイコガンの特徴は通常のレーザービームは直進しかできないのですが、サイコガンはエネルギー源が精神エネルギーであることから、コブラの意志に従って自分が曲げたいように自由自在にビームを曲げられることです。ですから、サイコガンには、たとえ敵が物陰に隠れていても、ビームを曲げることで敵にビームを命中させられるという利点があるわけです。

 

さて、話をウィンスレットの変身に戻します。ウィンスレットの変身も、実はこのサイコガンのように、この渦巻き状のエネルギー流を自分の意志で変形しているのだと思います。例えば、生命エネルギーのまっすぐな火柱を自分の意志でグニャリと曲げるような感じです。ただし、ウィンスレットが行っている変身はトータルな変形ですので、エネルギーを部分的に曲げるといったようなものではなくて、渦巻き全体の変形だと思います。例えば、渦巻きの輪が広くなったり狭くなったりやエネルギー流の回転が速くなったり遅くなったりです。さらに、もっと全体的に立体的に渦巻きが変形したりもします。渦巻きの形状が壺型になったり、円柱型になったり、あるいは、もっと極端な場合は、渦巻きが細い筋のような3つの渦巻きに分裂したり、緩やかな流れのガス状のカオスになったりです。まったくの別人に変身するとは、この渦巻きの全体の形状がまったく別のパターンに変形することです。(*4)
Free Way-図2-9.渦巻きⅠ Free Way-図2-10.渦巻きⅡ Free Way-図2-11.渦巻きⅢ Free Way-図2-12.渦巻きⅣ
 

ウィンスレットの変身した人物が人格としてトータルな全体性をなぜ保ち得るのかの理由がここにあります。以下、理由を述べます。おそらく、ウィンスレットの変身はまず人物の主な特徴を捉えることから始まっていると思います。ウィンスレットは自分との共通点から変身するキャラクターの特徴を手探ることが多いと思います。それは建物で喩えれば建物を支える主な支柱を建てることから始めます。あるいは、人格をOSで喩えれば、基本となるコード群です。そして、その次がウィンスレットの独特の特徴なのですが、ウィンスレットはエネルギー流を感覚的に全体のバランスが取れるようにそれに合わせて変形しているのです。支柱を杭と見立てると、杭にまとわりつくエネルギー流といった感じです。普通の人においては、本当はエネルギー流が先か杭が先か、どちらが先に形成されたかは分かりません。生まれたときはエネルギー流が先にあって、杭が後から形成されますが、次第に人格が形成されると、新たな杭が古い杭を支点にして打ち込まれ、その杭に合わせてエネルギー流も流れを変えてしまうからです。エネルギー流は自律して運動していますから、新たな杭にまとわりついたエネルギー流は渦巻き全体として新たに独自の形状を形成してゆきます。したがって、その結果、ウィンスレットが変身した人物はそのキャラクター独特の個性を備えた”生きた人間”として生まれ出てくるのです。その人物の特徴を兼ね備えながら、エネルギー流は全体性を保ってトータルな人間として現れてくるわけです。うわべだけコピーされた人形ではなく、生身の”生きた人間”としてそのキャラクターが動き出すわけです。

 

ところで、杭が多ければ多いほど、人間は複雑なエネルギー流になります。例えば、杭をコンプレックスやこだわりと捉えると分かりやすいと思います。もちろん、杭はそういうものばかりではなく、モラルのような人間として大切なコードもあります。ともかく、余計なコードが多いと流れは複雑になってしまいます。余計なこだわりがあったら、変身が困難になります。ですから、変身のためには、余分な杭は不必要です。ウィンスレットの精神構造を考えると、比較的、シンプルな精神構造になっているのではないかと思います。彼女はよく整理して余計な杭を捨てたでしょうし、人物に変身することを積み重ねることで、どんどんそぎ落としていったように思います。ですから、ウィンスレットのエネルギー体はとてもシンプルで円柱のようにスッキリしており、さらに、その流れは余分な遮るものがないために力強い流れを作っていると思います。それが彼女の精神の強さになっているのだと思います。また、変身においてエネルギー流を曲げられる余分なエネルギーや意志の強さになっているのだと思います。
Free Way-図2-9.渦巻きⅠ
 

■補論 「エネルギー体仮説」

最後に、ここまでのどうしようもない妄想に「エネルギー体仮説」という名前を付けてまとめてみます。そういえば、数学者のカントールが「連続体仮説」という仮説を残していましたね。ただ、カントールは晩年には精神を病んでそのまま療養所で亡くなったそうです。私もヤバイかもしれません(冷汗)。

 

エネルギー体仮説。アラヤ識モデルにおける非-言語領域の奥には、エネルギー体が存在するのではないか。そして、そのエネルギー体は渦巻きと光源の2つの潮流があり、重なっているのに重なっていないという不思議なエネルギー構造をしているのではないか。また、2つが重なったときはエネルギー体は太陽の構造に感じられる。また、エネルギー体は意味や人格の生成に深く関わっているのではないか。さらに、エネルギー体はアラヤ識だけでなく、魂といわれるような生命のエネルギー体としても存在するのではないか。

Free Way-図2-8.エネルギー形態001
 

ただし、エネルギー体の形状から、意味や人格を直接導き出すことは間違いだと思います。エネルギー体がどのように意識に反映されるかはこちら側からは分からないと思います。言語的知性で考えても自己言及ループに陥るのではないかと思います。それに、エネルギー体を知るためにはもっと直接的な知覚が必要なのではないかと思います。ですから、ここまでの話はまったく意味のない無意味な話かもしれません(爆)。あるいは、また改めて、この話の続き、意味のある話をするかもしれません。ですが、ただ、とりあえず、今はエネルギーの存在を感じられたらと思います。

 

さて、ここまで「私的魔女論」では、第1の女性ハンナ・シュミッツで”直感”を取り上げ、第2の女性ケイト・ウィンスレットでは”エネルギー”を取り上げました。次回はいよいよ最終回です。第3の女性アイリス・マードックについて取り上げます。マードックについては書き出してみたら短くなりましたので、2つの記事で終わる予定です。取り上げるテーマは”目的”です。

 

■注釈

(*1)デリダのいうエクリチュール性もまたこの生命力を言いたかったのではないでしょうか。

 

(*2)ウィンスレットの演技にも同様のことが言えます。ウィンスレットの演技やスピーキングがその感情に実にピッタリとした感触を与えるのは、この生命力の痕跡からくるものだと思います。その精確さや彫りの深さはウィンスレットの生命力がその端々にまで行き届いているからだと思います。
 

(*3)気がつけばバレエを見なくなって久しく、私の現状認識は古くて間違っているかもしれません。私がバレエを見ていた頃は、まだ、アナニアシヴィリもギエムもまだまだ若くて華やかなりし頃でした。私自身も(笑)。

 

(*4)ただし、深い悲しみや怯えなど感情表現として心の位置をグンと遠く離れた位置にまで押し出したりするような演技の場合には、シンプルなエネルギーの曲げは行われていると思います。そして、ウィンスレットは強い意志力を持っているだけに計り知れない深さ、恐るべき位置にまで到達していると思います。

ケイト・ウィンスレット その7

■「Romance & Cigarettes」(日本未公開) ジョン・タトゥーロ監督(2005)(*1)
この映画は、ブルーカラーの男性ニックが長年連れ添った妻や娘たちがいるのに浮気をしてしまうのですが、ある出来事(=悲劇?)をきっかけに誰が自分を大切に想っていてくれたかに気づく物語だそうです。ただし、日本未公開作品です。また、性を主題としたミュージカルコメディで、登場人物たちがひと言では言い表せない、えもいわれぬ感情が芽生えたときに、突然、歌い出して、その感情を表現するという”お約束”があります。

 
■あらすじ

残念ながら、日本未公開のためにあらすじは不明です。推測ですが、あらすじは浮気した男が妻の元へ帰る話だと思います。ウィンスレットは浮気相手のピンク色の女性トゥーラを演じています。YouTubeで映画の一部が見られます。ミュージカルコメディなので、この作品はストーリー性よりもコメディ性が高いのではないかと思います。

 

キャストは浮気する夫がジェームズ・ギャンドルフィーニ、その妻がスーザン・サランドン、叔父(?)がクリストファー・ウォーケン、そして、夫の浮気相手がケイト・ウィンスレットです。この映画はともかくはっちゃけています。エロといっても視覚的にエロティックではなく、下ネタ満載といった感じでしょうか。YouTubeでウィンスレットの出演している場面だけを見たのですが、もう、可笑しくて可笑しくて笑いころげました。

 

■演技について

ウィンスレットの演技が抜群に面白いです。

  
①セックスの場面

いやぁ~もうバカ笑いするしかありません(笑)。セリフも声質も超面白いです。体位を入れ替えるときの声質も喉の奥でスナップを効かせたような声で笑えました。そのときの話の内容(笑)。そして、トゥーラが上になって激しく動いているときの顔の表情、その一連の流れも世界最高に面白かったです(超笑)。本当にこれ以上にない可笑しさでした!!!それにそんなに激しくすると折れちゃいますって(笑)。あ、でも、お父さんが奇声を発して動物みたいでしたが、幸せだったかもしれません(笑)。私も含めて男って本当にバカですね(笑)。最後のフィニッシュのセリフもFワードっていろいろな意味があるんだって分かりました(笑)。自分も含めた、人間の愚かさって言っていいのかな、人間の滑稽さって言うのかな(笑)。うまく言えませんが、なんとも楽しい気分になれます。

 

②フライドチキンを食べるピロートークの場面

次にするセックスの体位について話しているみたいなんですが、内容がよく分かりません(笑)。なんて言っているんでしょうか?誰か教えて下さい(笑)。なんて言うか、凄すぎます(笑)。しかも、フライドチキンを食べる場面がなんとも面白い。ウィンスレットがはしたなく指で歯をシーシーするのには本当に腹を抱えて笑いました(笑)。アングロ・サクソンの人たち、しかも女性が歯をシーシーするのを見て、私は世界観が大きく変わりました(笑)。まあ、最後に、トゥーラが歌い出すはめになったのは、お父さんの元気の問題が生じたんでしょうね(笑)。

 

③その後の歌の場面

この歌っているときのトゥーラの振り付けを考えた人は間違いなく天才だと思いました(笑)。トゥーラはパンツを履く場面(笑)。鉄格子の間で演歌っぽく歌っているときのトゥーラの顔がたまりません(笑)。しかも、歌っている最中に何度もパンツがチラチラ見えるし(笑)。パンツをチラっと見せながら、ベッドに飛び上がって吠えるように「ラ~ブ・ミ~♪」って、なんかもう最高でした(笑)!胸もプルルン、プルルンさせるし(笑)。パ~ン、パ~ンってお尻を手でたたくし(笑)。なんて言うかチープって言えばいいのか、滑稽って言えばいいのかな(笑)。とにかく、見ていて可笑しくて可笑しくて(笑)。いやあ、「ホンマ、このひと、天才や~!!!」と思いました。

 

④池の畔での別れ話の場面

”何がロック・ハードやねん!どこでナニすんねん?!”(笑)って感じで笑いました。ウィンスレットはこの映画以外にも今まで水中シーンが多い女優でした。「タイタニック」で溺れそうになってますし、「ハムレット」や「クイルズ」では溺れ死んでいます。「グッバイ・モロッコ」や「アイリス」では全裸で泳いでいます。そして、ついに、この映画では、水中で歌を歌います(笑)。もう、”水の女優世界一”はあなたです(笑)。しかも、この水中の場面、歌詞に合わせて魚を泳がせたり、ヒトデを出したりでなかなか凝ってます。けれども、スタッフの時計をはめた腕が映ったりするチョンボもそのまま映っています(爆)。それにしても、ここまで、やったら、ウィンスレットもさぞ楽しいでしょう。いや、もう、本当にお見事というしかありません(笑)。

 

⑤火事場のダンスの場面

バカはどこの国にもいるなあって素直に笑いました(笑)。いろいろと象徴的にエッチな意味を入れてましたね(笑)。性ってカーニバルなんだろうなあ、本当に楽しそうでした。

 

他にも、ベンチでの卑猥な会話の場面、電話での卑猥な会話、下着ショップでの乱闘シーンなど面白いです。

  

■参考動画

(1)参考までにYouTubeにあった「Romance&Cigarettes」の動画を貼っておきます。

 

     低画質だけど、含まれている場面が多いです。  →動画①動画②

 

     高画質だけど、含まれている場面が少ないです。 →動画③動画④

   

     ユーザーが作ったMADです。             →動画⑤  

 

(2)それから、ついでに英国のコメディドラマ「エキストラ!スターに近づけ」の動画も貼っておきます。

 

     低画質 動画①  動画②  動画③  

 
■性エネルギーの知覚

さて、ここからは、ウィンスレットと性について考えてみます。

 

ウィンスレットは映画の中の演技においても、あるいは、インタビューにおける発言においても、性的表現が多いと思います。それに対して「ウィンスレットは性欲旺盛で淫乱な女性なのではないか?」といった邪推をするひとがいるかもしれません。ここではそういう話ではなくて、もっと深い話をしようと思います。

 

まず、映画において性的表現が多いのは、女優であるウィンスレットではなく、監督に采配が委ねられています。ですので、映画において性的表現が多いからといってウィンスレットの性癖を云々するのは正確ではないと思います。しかし、その一方で、出演作品を見てみると、性的に衝撃的な表現が強い作品が多いのも事実です。しかも、その内容は多種多様でバラエティに富んでいます。つまり、様々タイプの性に対して、ウィンスレットはその意味を理解を示していると思います。確かに、たまたま偶然に性的表現の多い映画に出演してしまったという可能性も否定はできませんが、ウィンスレット本人がそういう作品を選んでいる可能性も否定することはできません。ウィンスレットには性に関する独自の考え方があるのかもしれません。つまり、性を人間の人生の営みの中で重視するといった感覚が彼女には強くあるのかもしれません。

 

また、ウィンスレットはインタビューの中での発言において性的表現が多いです。(1つのインタビューに限らず、いくつかのインタビューで見かけた記憶があります。)例えば、『愛を読むひと』のインタビューの1つでも次のような発言があります。

 

     仕事の選び方について聞かれた際、彼女は”ballsy”という言葉を使うことが多い。その意味は?

          

          睾丸”ball”から来た俗語で、女なのに度胸があるという意味なの。

          (両手で玉をぎゅっと握り締める振り付きで)

          ”ballsy”よ!

          この挑戦的な性格は、多分舞台俳優の父親譲りだと思うわ

 

ウィンスレットのこの発言は、直接、性に関する話ではありません。「度胸があって挑戦的な性格」を表現するのに”Ballsy”という形容をしているだけです。しかし、別の見方をすると、ウィンスレットは「度胸があって挑戦的な性格」を”Ballsy”と表現するのが「自分にとってしっくりくる」「自分にとってリアルである」とも言えると思います。何が言いたいのかといいますと、ウィンスレットは性に対して確かな”手ごたえ”を持っているのではないか、ということです。この1つの発言だけをとって、そういうのは少し言い過ぎではないかと思われるかもしれませんが、実際、彼女のこれ以外の数多くのインタビューを見てみても、”Ballsy”という言葉だけではなく、様々な性的な言葉を使って表現するケースが多いのです。

 

さて、では、「性に対して確かな”手ごたえ”を持っている」とはどういうことでしょうか?ここでは、分かり易くするために、あえて、もう少し意味を狭めて考えてみます。性を性欲に限定して、「性欲に対して確かな”手ごたえ”を持っている」とします。では、「性欲に対して確かな”手ごたえ”を持っている」とは何でしょうか?ちょっと恥ずかしい表現になってしまうのですが、男性の立場に置き換えて考えてみると、ひとつは「ペニスが勃起しているとき、性欲に対して確かな”手ごたえ”を持っている」と言えると思います。まあ、本当は欲情して勃起に至るまでにプロセスがありますが、ここではあえて省略します。卑猥な表現になってしまいますが、「ビンビンに勃起したペニスを感じるとき、性に対する欲動が激しく脈打っている」と感じるのではないでしょうか。まあ、男性の欲動はそう単純ではない面もあるとは思いますが、逆に、このようにバカなほど単純な面もあると思います。ともかく、「性欲に対して確かな”手ごたえ”を持っている」ということに対する簡単なイメージができたと思います。

 

さて、話をウィンスレットに戻します。では、ウィンスレットにとって「性欲に対して確かな”手ごたえ”を持っている」とはどういうことでしょうか?「男性のペニスに相当する女性の身体の部位が興奮して勃起している」などとバカなことは考えないで下さい。それは浅はかな考えです。実はもっと抽象的なものを彼女はつかんでいるのではないかと私は思うのです。それは「性的に興奮して欲動がその人を突き動かす」というときの”欲動”にあたる部分です。性的に興奮して欲動に突き動かされるとき、私たちの心も身体もダイナミックな変化を起こします。その激しく脈打つようなダイナミックな動きを起こしている、おおもとにあるのが”欲動”です。性的に興奮してくると、心臓が激しく脈打ったり、ペニスが勃起したり、身体の各部位が興奮したりします。身体の内側から押し出されるように変化します。喩えるなら、川の上流から川の下流へ押し出されるような感じです。何かが押し出されるような感じです。川で喩えれば、欲動は川の水源です。性的に興奮すると川の水源でポンプが動き出して、どんどんと川下へ押し出すような感じです。ですから、勃起したペニスは川下で大きく波打つ波のようなもので、あくまで下流という結果に過ぎません。この大波を起こしているおおもとは水源たる欲動にあります。その欲動をウィンスレットは手づかみでつかむようにして”つかんでいる”のではないかと思うのです。

 

では、「欲動を手づかみでつかむ」とはどういった感じでしょうか?これまた卑猥な表現で申し訳ないのですが、男性の場合は感じとしては、文字通り「勃起したペニスをつかむ」といった感じかもしれません。(これはあくまで感じを理解するための説明であって、その行為が「欲望を手づかみする」ことそのものというわけではありませんのでご注意下さい。)では、ウィンスレットの場合はどうでしょうか?もちろん、欲動のある場所はそういった身体の特定の部位といった身体的なものではないでしょう。それは心の中にあるのか身体の中にあるのか、あるいは、その中間にあるのか分かりません。特定の場所にそれがあると言い切るのはなかなか難しいと思います。あえて、言うなら、「自分の中にある」としかいえないと思います。

 

さらに、それはどのようなものでしょうか?喩えなのですが、映画「スターウォーズ」に出てきた武器で「ライトセイバー」を想像してみて下さい。これはちょっと大きすぎるので、これをもっと短剣くらいの短さに小さくしたもの、稚拙な例ですが、アニメ「海のトリトン」でトリトンが持っていた光る短剣「オリハルコンの短剣」くらいがピッタリな感じかもしれません。ともかく、何か、そういった手で握るのにちょうど良いくらいの大きさの、光る、そして、暖かいものを想像してみて下さい。そして、「自分の胸に手を当てて考えてみる」や「ペンダントを握って祈る」といったような心の奥深くへダイブするような感じでそれを”つかんでみる”ところを想像してみて下さい。おそらく、ウィンスレットはこのような感じで”欲動を手づかみ”しているのではないかと思います。実はこれは別に特別なことではなくて、私たちも同じようなことをしているとは思うのですが、ウィンスレットの場合は私たちよりは遥かに、”かなりハッキリと”、あるいは、”ありありと”、”明白に”、”くっきりとした自分の中の光る光の柱を”、”しっかりとしたつかんでいるという手ごたえ”を持って、それを”つかんでいる”のだと思います。

 

さて、これをつかんでしまうと、そこには”手ごたえ”が生じます。ありありとしたリアリティを感じます。ウィンスレットのインタビューなどの発言に性的表現が多いのはこのためだと思います。つまり、ウィンスレットにとって性は心のダイナミズムにとって遥かにリアリティがあるからです。また、様々な映画の性的な演技に対応できる理解力もこの手づかみによる”手ごたえ”の感覚(=リアリティ)があるからだと思います。

 

(ただ、性に対して「センシティブ(=敏感)であること」のと「淫乱であること」は違います。念のために言っておきますが、ウィンスレットは性に対する理解は深いと思いますが、彼女本人の行動は淫乱なところは一切なく、いたってノーマルじゃないだろうかと思います。むしろ、自身の欲動が明確な分、かえって「禁忌と侵犯」的なエロスの感覚は弱いのではないかと思います。)

 

ここまでを整理すると、ウィンスレットは性的欲動の根源までさかのぼって、ダイナミックに胎動している欲動を”つかんでいる”という感覚を持っているのではないかと思います。さらに、拡張して考えると、性的に興奮したときの欲動に限らず、普段は静かに眠っている欲動も含めた欲動の全体、性の全体、つまり、性的エネルギーを彼女は”つかんでいる”のではないかと思うのです。それは身体的とも抽象的とも違って、エネルギー的レベルにおいて、性的エネルギーを知覚=実感しているのではないかと思います。

 

■意味エネルギーの知覚

そして、ウィンスレットは”性”だけでなく、実は”意味”についても”性”と同じように”つかんでいる”のではなないかと思います。
 

”意味”を”性”のように”つかむ”とはどういうことでしょうか?ここで言葉と意味の関係について考えてみます。言葉には名前と意味があります。シニフィアンとシニフィエです。モノに名前(=言葉)が付けられるとき、言葉と意味は下図のAのような箱と中身のような関係になるのではないでしょうか。そして、中身は箱に閉じ込められた火の玉のような感じではないでしょうか。逆に考えれば、意味は、本来、下図のBのような言葉の箱に制約されない自由なエネルギーを持ったものだったのではないでしょうか。しかし、名前(=箱)を与えられることによって、意味はその名前に縛られて閉じ込められてしまうのではないでしょうか。
Free Way-図2-1.言葉と意味エネルギー

もし、ウィンスレットが性と同じように意味をつかんでいるとするならば、この意味が閉じ込められた箱ではなく、本来の意味であった制約される以前の意味エネルギーをつかんでいるのではないかと思います。意味エネルギーは言葉に制約される以前の意味の元の姿ですので、言葉で制約された意味よりも正確で、原初的かつ本質的な意味だと思います。
 

あるいは、別の見方をすると、単にひとつの言葉に限らずに、複数の言葉を含んでいる対象(←テキストや主義や思想など)の”意味全体”をつかんでいるのではないかと思います。例えば、主義と思想と意味空間の関係を下図のように考えてみると分かり易いと思います。主義は条文のようなコード化された平面とすると、思想は平面的な条文を多次元的な現実に合うように有機的なシステムとして立体化したものだと思います。しかし、それでも思想は現実には完全には整合しないと思います。ところで、逆に考えれば、主義にしろ、思想にしろ、意味の情報空間の中から、ある一定の意味があるものという条件の下に抽出したものだと思います。しかし、主義にしろ、思想にしろ、言葉に射影した瞬間に意味は制約されます。なぜなら、一つ一つの意味が言葉の箱に押し込められているからです。言葉から主義や思想の意味を知覚するのではなく、意味エネルギーをつかむようにして、それらの意味を知覚するというのが、全体性の知覚だと思います。それは意味空間で包摂することで意味エネルギーを損なうことなく、正しく知覚することになるのだと思います。
Free Way-図2-2.意味エネルギーの全体性知覚

認識されたモノが言葉に分節する以前の意味の原形、意味エネルギー。それは言葉という容器に捕らわれる前の意味本来の姿です。もし、その意味エネルギーを手づかみできれば、それは様々な言葉に変容する前のものだと思います。それは形が定かではありませんから、人は曖昧にしか感じられないかもしれません。形を明確にしようと言葉にしたとき、本来の意味は歪められたり、削られたりします。しかし、もし、それを意味エネルギーの状態のまま、明確に感じられるとしたらどうでしょう?常に玉虫色に変容しつづける人魂のような意味エネルギーの全体的感触を直接つかんでいるとしたらどうでしょうか?もし、そうなら、その直接的感触から、物事の意味を本当に正しく意味をつかみとることが可能なのではないでしょうか?もし、ウィンスレットが無意識にそれを成し遂げているとしたら!?確かに、彼女が実際にそれを成し遂げているかどうかは私たちには分かりません。しかし、彼女の演技は言葉よりも意味が正確ではないかと思います。(*4) 

 

ところで、性と意味の関係について深く考えてきた学問に精神分析学があります。精神分析学は性にダイナミズムを感じ取ってはいたものの、それをエネルギーの原理として確立することはできませんでした。それは科学としてはもっともな態度だと思います。そのため、精神分析学は、エネルギーに向かわずに、人格形成に関わる個人的経験の積み重ねに着目して、子供の頃の人間関係、つまり、父母との親子関係にその大きな根拠を求めるようになりました。しかし、それはエネルギーが本来持つダイナミズムに、直接、核心に触れるというものではなくて、そのダイナミズムによってもたらされたスタティックな結果を事後的にトレースしたものに過ぎないと思います。精神分析学が性に着目したのは正しいかったと思いますが、最も重要なエネルギーではなく、副次的な家族関係に向かったのは、誤りとまでは言いませんが、ちょっと直接的ではない迂遠な取り組み方だったと思います。(もちろん、そういった精神分析学から得られた成果は多かったとは思います。しかし、同時に誤りや弊害も多かったとも思います。)

 

さて、ここで、ウィンスレットに話を戻します。ウィンスレットの場合は性や意味についてエネルギーのレベルで、その確かな手ごたえをつかんでいると思います。それは精神分析学が踏み込むことができなかった領域だと思います。精神分析学が目指して果たしえなかった領域だと思います。確かに、エネルギーレベルでの性や意味は、明確な形を持ちませんので、つかんだモノを言葉として表現することは難しいでしょう。しかし、言葉にできなくとも、性エネルギーや意味エネルギーを知覚していることができれば、それは心や物事を深いレベルで知覚していることに他ならないと思います。彼女の発言で性的表現が多いのは性が意味に影響を与えるのをエネルギーレベルではっきりと知覚しているからだと思います。そういった意味ではウィンスレットの知覚は精神分析学を超えていると思います。(しかも、ウィンスレットはエネルギーを知覚するだけにとどまっていないと思います。これについては次回の記事で言及します。)

  

■もうひとつのオルガスムス

ところで、脱線ですが、性の話に関連して、「グッバイ・モロッコ」や「ホーリー・スモーク」で出てきたオルガスムス体験について少し言及してみようと思います。「グッバイ・モロッコ」では女友達のエヴァが音楽に合わせて踊っているときに一種のトランス状態に入ってオルガスムスに達します。また、「ホーリー・スモーク」ではルースが儀式の最中に導師ババに額を押されてオルガスムスに達します。この2つの作品で出てきたオルガスムス体験は通常のセックスにおけるエクスタシーとは本質的に異なると思います。

 

通常のセックスにおけるオルガスムスは、オルガスムスに達するまでのプロセスはともかく、最終的には、こみ上げてきたものが脳の一点から弾けるように快楽が拡散してゆくのではないかと思います。いわゆる、「イク」ときは脳の一点が爆発するように、爆発した瞬間に一気に快楽がもたらされて、それが徐々に脳全体に拡散してゆくような感じではないかと思います。絶頂=エクスタシーはこの爆発した瞬間に頂点に達する感覚ではないかと思います。絶頂に達した後の拡散の加減に多少の男女差はありますが、基本的な快感原理は男女でも同じではないかと思います。

 

ところが、これらの映画でのオルガスムスは通常のエクスタシーとは異なると思います。快感の大きさから言えば、通常のエクスタシーが絶頂=頂点であるとするならば、これらのオルガスムスは頂点に達する手前くらいの快感、プラトー状態=高原というべき快感の大きさに過ぎないと思います。ただし、エクスタシーとの大きな違いはその持続時間と快感の範囲だと思います。エクスタシーは時間的には短いですが、プラトー状態は、場合によって異なりますが、比較的長い持続時間があると思います。また、エクスタシーが脳の一点から拡散する快感なのに対して、プラトー状態は脳の広い範囲に渡っての快感だと思います。うまくプラトー状態に達することができれば、運動で長時間ぐるぐる回転して目が回ったときのように、勝手に脳内で回転が生じます。喩えて言うと、脳がクリームシチューやチーズフォンデュのようなトロトロととろけた状態になり、それが自動的に回転するので、棒でゆっくりとシチュー=脳がかき混ぜられているような感じになります。そして、そのかき混ぜられているときに、まるで肩コリのように脳にコリがあるのが感じられます。クリームシチューで喩えれば、ジャガイモのような具が脳内にゴロっところがっている感じです。そして、回転でかき混ぜられて、そのコリに触れたとき、そのコリがほぐされて溶かされていってトロトロになるような快感があります。さらに、それは精神的にもほぐされてトロトロになるような感覚をもたらすので、「どうにでも好きにしていい」みたいな気持ちにさせます(笑)。とはいえ、「命やお金を差し出せ!」と言われて、差し出すほどまでになるかどうかは疑問です。そして、この回転は放置しておくといずれは止まりそうになりますが、自分で漕ぎ足すように、うまく自分の意志で刺激を与えてやれば、回転をけっこう持続することが可能です。ですので、これを長時間続ければ、エクスタシーほどの快感の深さではなくとも、どんどんと身も心もトロけた状態になってゆくので、比較的大きな快感、緩みきったリラックスを得ることが可能なのではないかと思います。(ただし、個人差があるかもしれませんが、脳のコリに当たったとき、人によっては、若干、痛いと感じるかもしれませんし、翌日は頭痛になるかもしれません。)ただ、このオルガスムスの難点はこの状態に達するまでのプロセスが面倒なことと、プロセスそのものが日によって反応が異なるのでコントロールが難しいことだと思います。もしかしたら、訓練を積めば、比較的容易にプラトー状態に入ることが可能になるかもしれませんが。なお、映画の中で頭を前後にゆすったり、体を左右に振ったりするのは、この回転を意図的に引っ張り出そうとしているからだと思います。(*5)

 

しかし、このプラトー状態に大きな意味があるかどうかは疑問です。「ホーリー・スモーク」のルースのように、このオルガスムスを導師ババの愛と受け取ってしまうのは明白な間違いでしょう。また、プラトー状態は希少な体験かもしれませんが、実はけっこう通常のセックスでもそうと走らずに同様の快感を少なからず感じていると思います。ただ、自律的に回転が始まるところまで達しないだけで、実際には同種の快感を少ないながらも多くの人は感じ取っているのではないかと思います。また、通常のエクスタシーと比べれば、快感の範囲はプラトー状態の方が広いかもしれませんが、それもせいぜい脳内の限られた僅かな範囲に過ぎません。喩えるなら、自分の内部のごく限られた一部を攪拌しているに過ぎません。ともかく、「ホーリー・スモーク」でも指摘しているように、間違いやすいのですが、エクスタシー体験を至上のものと考えるのは大きな間違いだと思います。エクスタシー体験やセックスに高い価値を与えてきたのが、過去から現在に至るまでジャンキーなどの多くの探求者たちの間で繰り返されてきた大きな間違いであり、大きな落とし穴だったと思います。

 

■超現実的な体験

さらに、脱線ですが、半端なジャンキーたちにエクスタシー体験と混同されてきたものに、超現実的な体験があると思います。超現実的体験とは何でしょうか?超現実とは、言うなれば現実よりも現実的なことです。現実よりも現実的(=リアル)とはどういうことでしょうか?喩えて言えば、物体を手袋ごしに掴むことと素手で掴むこととの違いです。手袋ごしに物体を掴むよりは素手で掴んだ方がリアルでしょう。それと同じように、超現実的とは、現実よりも直接的な知覚があるのだと思います。実は私たちは身体という手袋を間に挟んで世界を感じているのだと思います。しかし、それがいったん身体という手袋が取り払われて、”むき出しの神経”で直に世界を感じることが可能になれば、その方がより鮮烈にリアルに世界を感じ取れるのだと思います。しかも、”むき出しの神経”と書きましたが、実際には神経よりも、もっと自分そのものの感覚です。ひと言で言えば、その自分そのものとは魂のことです。魂でダイレクトに世界を感じることができたとき、現実よりも現実的に世界を知覚していると実感できるのだと思います。そして、それは気持ちの良いものなのだと思います。もちろん、それはエクスタシー的な気持ち良さではありません。それは今まで以上に風を感じたり、音を感じたり、光を感じたりすることができるのだと思います。その鮮烈な感覚が私たちに歓喜を呼び起こすのだと思います。また、さらに、自分の意識がより鮮明になるようにも感じるのだと思います。実は、普段の意識はぼんやりした、半分、寝ぼけた意識状態なのです。本当は、意識はもっと鮮明になれるのだと思います。意識は光です。喩えて言えば、物質に宿った魂(=意識)は生物となって展開しますが、いったん、その物質(=身体)から解放されたとき、魂は本来の輝きを取り戻して十全に光り輝くのだと思います。意識が物質に束縛されているとき、その光はボヤけてしまうのだと思います。

 

さて、ずいぶん突拍子もない超現実的?非現実的?なお話で暴走してしまいました(笑)。本当にそんな超現実はあるのでしょうか?超現実的な体験はおしゃべりして理解するものではないと思います。実際に体験して理解するものだと思います。ですので、超現実の話はこの辺で止めておきます。

  

■まとめ

さて、映画「Romance&Cigarettes」については特に言うことはありません。見て楽しめば良いと思います。ただ、この中での、ウィンスレットの笑える演技の中に彼女の体現している何かを感じ取れればと思います。彼女はこの映画の中で比較的自分の自由に演技しているのではないかと思います。いえ、実際にはそうではなくて、細かく監督に決められた演技かもしれません。しかし、たとえそうであっても、彼女は見事にそれを演じていると思います。とりあえず、それを記憶に焼き付けて、その奥深くにある理由に、いつか思いを馳せられたら良いと思います。ついつい笑って忘れ去ってしまいそうな映画ですが、実はウィンスレットのある本質を感覚的に知るのに良い映画だと私は思います。

 

それから、性的エネルギーと意味エネルギーの話をしましたが、ウィンスレットは性や意味をエネルギーレベルでまるで手でつかむように知覚しているのではないかと思います。また、ウィンスレットにとって性のエネルギーと魂のエネルギーはとても近い関係にあるのだと思います。

  
■注釈

(*1)性をコミカルに描いた名作に「キャンディ」や「女性上位時代」などがあります。ともにキュートな女性が様々な性の遍歴を旅する物語です。おそらく、「Romance & Cigarettes」もこの部類に属する映画であり、なかなか名作なのではないかと思います。特に、卑猥な言葉の面白おかしい表現としては、この映画はこの中でも群を抜いていると思います(笑)。実際、映画関係者からは映画のセリフが卑猥すぎると評判(?)になったそうです。ちなみに、ウソか本当かは分かりませんが、監督によると、ケイトのアドリブがいやらしすぎたので、これでもまだいやらしいセリフをカットした方らしいです(笑)。

 

     「Romance & Cigarettes」は淫猥なセリフが多い事で話題になっているが、

     同作のジョン・タトゥーロ監督はベネチア映画祭でこう語っている。

 

        この問題に関してはケイト・ウィンスレットにも責任の一端はある。

        なぜならケイトがこの映画で喋っている言葉には彼女のアドリブもあるからだ。

        ケイトが発したアドリブにはカットしなければならなかったものも幾つかある。

        この映画で使うにはあまりにもいやらし過ぎたから。

 

まあ、どこまで本当か嘘かは分かりませんが、どんだけなんだ!面白すぎます(笑)。
  

(*3)ジョルジュ・バタイユの遊蕩は有名です。友人ジャン・ピエルは売春宿に出入りするバタイユの遊蕩をたしなめますが、それに対してバタイユは次のように答えています。

 

     なあジャン、こう言ったら君にも分かってもらえると思うけれど、

     二人の間での性交と何人もの間での性交とでは、

     風呂に浸かるのと海水浴ほどの違いがあるんだ。

 

(*4)アラヤ識の非言語と言語の境界領域で言葉が浮上してくる瞬間を捉えようとしたものに、クリステヴァの記号の生成過程があると思います。そこは存在が曖昧な空間で天使や霊のように言葉が現れては消えてゆく生成消滅を繰り返す量子的な不可思議空間(=コーラ)になっていると思います(下図参照)。しかし、意味エネルギーは、この空間、このアラヤ識よりも、さらに下の、さらに奥の、もっと非言語の地下奥深くに下降したところにある、マントルにあるマグマ状のものだと思います。

Free Way-図2-3.記号の生成過程

ところで、この記号生成過程では、記号Aが生まれた瞬間に記号非Aも生まれています。しかし、記号非Aは顕在化せずに、その存在を無視=殺害されます。
 

(*5)ちなみにMDMAの効用を読むとこれに似ているように思います。もちろん、私はMDMAをやったことはありませんが、MDMAはこの快感をもっと弱くしたような、さらに助走が長くプロセスをより困難にしているように思えます。MDMAは当然非合法であり、また、不純物が多いらしく事故も多い危険な薬物ですので絶対にやってはいけません。また、もし、MDMAがプラトー状態と同じ種類の快感であるならば、原理的に薬物でこの状態に引き上げても、その快感の度合いは低いのではないかと思います。それに、そもそも快感のためにドラッグに手を出すのは、もっとも愚かなことです。60年代のサイケデリック革命と現代のドラッグ汚染の大きな違いです。60年代のサイケデリック・ドラッグはどちらかというと快感ではなく、むしろ不快感をもたらすものでした。多くのひとは気持ちが悪くなって嘔吐しましたし、恐ろしさのあまり病院に駆け込んだりしました。フラッシュバックに悩まされる者も少なからずいたと思います。それでも当時の人々は精神を拡張するためにサイケデリック体験に飛び込んで行きました。一方、現代では精神に対する興味はほとんどなくなり、単に快感だけを求めるようになってしまいました。たいへんな堕落です。現代に至っては、サイケデリック・ドラッグに対する多くの誤解や間違った先入観を人々は持ってしまっています。もちろん、ドラッグは安易に行うものではありませんし、不真面目な気持ちではその人に害を為すと思います。安易な考えでは「マトリックス」のサイファーのように赤いピルを飲んだことを後悔するようになるでしょう。しかし、心と魂の探求のために、未知なる精神の領域を探索する旅のために、完全な自由に至るために、真面目にドラッグを試みることは、危険は伴いますが、決して間違った行為ではないと思います。

ケイト・ウィンスレット その6

■「グッバイ・モロッコ」(原題「Hideous Kinky」) ギリーズ・マッキノン監督(1998)
この映画は、二人の子供を持つシングルマザーがモロッコで自分探しをする旅の物語です。原作はエスター・フロイドの「郷愁のモロッコ」ですが、映画は原作とは違った独自の物語展開になっています。(*1)

 

■あらすじ

ジュリアは不倫の苦悩からモロッコへ自分探しのためにやってきます。ジュリアにはビーとルーシーの二人の子供がいます。ビーはよく気のつく利発なお姉さんでルーシーは自作の物語を語れる感性豊かな女の子です。ジュリアはモロッコでのヒッピー生活を楽しんでいますが、二人の娘は不便さに不満を募らせています。そんな頃、大道芸人のビラルと出会います。ジュリアはすぐにビラルと恋仲になります。ジュリア親子とビラルは楽しく家族づきあいをするのですが、ジュリアへの仕送りが止まってしまい、ジュリアはお金が無くなって困ってしまいます。その頃、ビラルも仕事を失ってしまいます。

 

そこでジュリア親子とビラルはビラルの故郷に行くことにします。ところが、いざビラルの故郷に着いてみると、ビラルの妻が帰ってきていました。実はビラルは既婚でした。ビラルは故郷にいずらくなって逃げ出すようにジュリア親子と故郷をあとにします。湖畔でキャンプしますが、すぐに食料もなくなってしまいます。ビラルが苦心して食料を手に入れるのですが、食料が腐っていて子供たちは酷い目にあってしまいます。また、この旅行でジュリアとビラルの間には考え方や文化の違いによるすれ違いが見えてきます。ジュリア親子はビラルと別れてモロッコに帰ることにします。

 

モロッコについてジュリア親子はお金が無くて途方にくれるのですが、偶然、出会ったジャン・ルイ・サントーニという紳士に助けられます。ジャンの好意で宿泊場所を得たジュリアたちでしたが、ジャンの連れと気が合いませんでした。ジュリアはお金が届いたので、スーフィーに会いにアルジェに行くことにします。しかし、ビーは学校に行って勉強したいのでここに残ることにします。

 

ジュリアとルーシーだけでヒッチハイクでアルジェに向かいます。なんとかヒッチハイクでアルジェに着いたジュリアたちはスーフィーの高僧に会えることになります。ただし、最も偉大な高僧はすでに他界しており、後継者の高僧に会います。ジュリアが悟りの道を尋ねたので、高僧は修行に入れるかどうか、ジュリアの置かれている状況の質問をジュリアにしてゆきます。そこでジュリアはその高僧に涙ながらに本当の自分の境遇、自分は正妻ではなく不倫していることを打ち明けます。その夜、ジュリアはビーの夢を見ます。ジュリアはビーのことが心配になり、モロッコに帰ることにします。

 

ところが、帰ってみると、ビーが行方不明になっていました。慌ててあちこちを捜して、キリスト教の施設にいることを突き止めて、ビーを迎えに行きます。ところが、施設に着いてみると、ビーの様子がいつも変わっています。どうやら施設の寮母の影響で人が変わってしまったらしいのです。ジュリアはその施設に逗留しますが、そこで寮母とジュリアは些細なことで喧嘩になります。しかし、ジュリアは激しい怒りを表わして寮母から再び以前のビーを取り戻して、モロッコのアパートに帰ります。

 

その頃、アパートに観光の仕事に就いて民族衣装で正装したビラルが訪ねてきます。皆で再会を喜びますが、喜びも束の間、ビーが急病で倒れてしまいます。診察してもらった医者によると病気が重いので、すぐに英国に帰るように勧められます。しかし、帰れるだけのお金も無く、ビーの容態もどんどん悪くなってジュリアは困り果ててしまいます。それを見かねたビラルが観光用の正装を勝手に売ってロンドン行きのチケットを用意します。しかし、モロッコでは泥棒は重罪なので、ビラルはモロッコから姿をくらまします。ジュリア親子はビラルの好意に感謝しながら、モロッコをあとにしたのでした。

 
■ヒッピー母さん”ジュリア”

この映画は英国人女性ジュリアのヒッピーの物語です。ジュリアには2つの悩みがあります。1つは不倫の悩みです。子供たち二人は気付いていませんが、ジュリアは正式な妻ではなく、不倫相手です。もう1つの悩みは自我の悩みです。ただ、具体的にどういった自我の悩みかは映画からは分かりませんが、ともかく悟りを開くためにモロッコのスーフィーに会いにゆくと決めたのは確かです。時代設定が1972年ですので、ジュリアは60年代の米国から始まるヒッピームーヴメントの欧州版といったところでしょうか。映画でもジュリアたち以外に欧州各国からモロッコに来たヒッピーたちが描かれていました。当時のヒッピーたちは東洋思想にかぶれて、仏教やヨガやスーフィーなど様々な修行を試みていたようです。ジュリアも原作ではヨガにこっていたり、易経を携えてモロッコに来たりしています。原作で面白かったのは、ジュリアは最初はスーフィーに興味はなく、モロッコに来てからつい最近になってスーフィーに興味を持ったことでした。なんともミーハーな関心の持ち方です(笑)。ともかく、ジュリアをはじめ当時のヒッピーは物質文明に批判的で、かわりに内面を重視する精神世界に憧れていました。ですので、ジュリアの悟りを求める旅もヒッピーの常道だったと思います。(*2)

 

■ジュリアの旅

それで、このジュリアなのですが、二人の娘の母親なんですが、ヒッピーをやっていて、母親としては非常にいいかげんな感じなのです(笑)。ジュリアよりは娘のビーの方が常識人です。ですから、観客はあまりジュリアに共感しないかもしれません。どちらかというと、ビーに同情してしまいます。ですが、このジュリア、肝っ玉母さんというほどのドッシリ感はないのですが、何というか、それなりに、懸命に、賢明に?、自由に生きていくんですね。見てゆくうちにジュリアの不思議な力強さに惹きつけられてゆきます。ジュリアは特別な人間ではなく普通の人間なので、ときに不安や恐怖にかられますし、お金が無くなって住むところを失くしてしまって、子供たちの前で泣いてしまい、逆に子供たちに慰められたりするというダメっぷりも見せたりします。ですが、人間の心として大事な所は、このジュリアは折れないんですよ。説明が難しいですが、普通なら苦難によって心が曲がっちゃうんじゃないかと心配になるんですが、このジュリアはどんなに苦境にあっても心の大事なところは曲がらないのです。いや、ダメなところはダメなところで一杯持っているんですけどね。例えば、映画も終盤になって、せっかくビラルが用意してくれたロンドン行きのチケットを貰ったのに、ジュリアは娘たちに「これでロンドンに帰れるけれど、どうする?あなたたちが帰りたければ帰るわよ?」なんて、自分ではまだ踏ん切りがつかずにいます(笑)。どう考えても、この状況ではロンドンに帰って然るべきだろうに(笑)!子供たちもやや呆れ顔です。ですが、不完全なところもたくさんありながら、このジュリアがちょっと憎めないですね。案外、こういう生き方も良いんじゃないかって、最後にはユルく思えてきます。

 

ただ、女友達のエヴァから「あなたの旅は終わったのよ」と言われたときは、さすがにずしんと重いものがありました。子供を持っているジュリアはいつまでも旅を続けられないという苦々しさが伝わってきます。そして、ロンドンに帰る列車の中でモロッコを見つめるジュリアの目はどこか厳しい真剣な目をしています。そして、スーフィーの高僧から言われた言葉が回想されます。「たとえ、道が閉ざされていようとも、秘密の道が開かれる」と。ロンドンに帰って普通の生活に戻ってしまっても、生活に明け暮れる暮らしになっても、悟りの道は開かれるかもしれないという意味だと思います。ジュリアの旅は終わった。でも、子供たちの犠牲になって自分の自由は諦めるのではなく、子供たちを育てながらでも、ジュリアの自由への道は開かれる可能性はあるのだとジュリアの曲がらない心は希望を捨てないのだと思います。それは健全な心なのではないでしょうか。「大人になる」ということで、自由を諦めてしまっては人間の心は萎んでしまうのではないでしょうか。きっとジュリアの心はいつまでもその生き生きとした輝きを失わないのだと思います。

 
■ヒッピーという生き方

ここでヒッピーという生き方について考えてみます。とはいえ、ヒッピーと言っても様々なタイプがあるので一概にこうだとは決め付けられません。ここでは、あくまで私個人の私見に基づいたヒッピーという概念についての話であることを最初に断っておきます。

 

さて、「ヒッピーとは何か?」というと、私の考えでは、大きく2つの要素があると思います。1つは社会からドロップアウトすること、もう1つは悟りを開くために修行することだと思います。それぞれについて説明してゆきます。

 

■ドロップアウトの道

なぜ、社会からドロップアウトする必要があるのでしょうか?それは社会の中で生きることに心の束縛を感じるからだと思います。そして、そのまま社会の中で生き続けることは、いずれは心が死んでしまうと恐れるからだと思います。そのため、そこからいったん抜け出すためにドロップアウトするのだと思います。

 

では、ドロップアウトした後はどうすれば良いのでしょうか。主に次の3通りがあるのではないでしょうか。①コミューンという彼らの家族的・部族的な小さな共同体を作る、②宗教団体のような導師を中心として共同体を形成する、③雲水やイスラム僧のように、あるいは、ジャック・ケルアックのように個人(or家族)で放浪の旅をする、の3つがあると思います。次にそれぞれについて考えてみます。

 

はじめに、①のコミューンは自給自足であったりビジネスを始めたりしてやりくりしようとします。しかし、その多くはあまり長く続かなかったと思います。次に、②の宗教団体は葬式などの儀式によってお金を稼いだり、信者の寄付によって成り立っています。教団内ではそれなりに厳しい戒律で暮らしているのかもしれません。しかし、人が集まって共同生活を送れば、それなりに内部ではストレスが生じると思います。また、カルト化して暴走する団体もあるでしょう。最後に③の放浪は先々での仕事や物乞いや托鉢で生計を立てると思います。ほとんど浮浪者と変わらなくなってしまいます。以上の他に貯蓄を取り崩して生計を賄う方法がありますが、貯蓄が続く間だけ可能なので、無限定に持続可能というわけではありません。(*3)

 

以上のように、現代では、社会の外部に出るドロップアウトは永続的に持続するのが困難です。ですから、多くの人々は社会の外部に出るよりは一生の間、ずっと社会の内部にとどまることを選択していると思います。でも、本当にそれで良いのでしょうか?

 

ドロップアウトについて直接書かれたものではありませんが、ユニークなライフスタイルで、1930年代に書かれた英国のSF作家ステープルドンのSF小説「最後にして最初の人類」に描かれたものがあります。この小説自体は人類が死滅するまでの未来の歴史を描いたものなのですが、その中の未来のある時代では、社会の内と外の2つの世界を往来する未来社会が描かれています。描かれているのは人類が成熟した遠い未来の話で、人間は進化と遺伝子操作によって寿命がなんと3千年にまで延びているという設定の話です。この時代の人間たちは一度は絶滅した自然の生き物が生息する”野生大陸”なるものを作り、一時的に文明生活を離れて、この”野生大陸”で文明の利器を一切使わずに、野生のままの自然な生活を楽しむというものです。

 

     この野生大陸へと、あらゆる年齢層の個人が、何年間も文明の助けをまったく借りずに

     原始人の生活を送るために出かけていった。

     高邁な人類たるもの、芸術と科学に一身を捧げるにしても、

     原始のものと絶えず接触するための格別の処置を講じなくてはならぬと理解されていたからである。

     かくして野生大陸には、火打ち石や骨、あるいは一致協力して苦労の末に大地から獲得した鉄で

     身を固めた野蛮人が、常に点々と暮らしていたのである。

     これら志願原始人たちは狩猟や単純な農耕に精を出していた。

     わずかな余暇は、芸術と瞑想、そして原始の人間としての醍醐味を満喫することに費やされた。

     実際これら知的な人びとは、定期的に苦難と危険を自らに課したのだった。

     そしてもちろん、それに強い興味を抱いてはいたが、

     その苦難を恐れたり、生還できないのではないかと怯えることも多々あった。

     危険はまさに本物だったからである。

     ……

     (野生大陸の)これらの生き物には、原始的な武器だけでは人間も恐れて当然の

     獰猛きわまりない肉食獣も含まれていた。

     したがって、野生大陸での死亡率は高かった。痛ましくも数多くの有望な命が奪われた。

     とはいえ、人類的な観点からはこの犠牲には価値があると了解されていた。

     定期的な野生生活を慣例化すると現実に精神的な効果が得られたからである。

     三千年の寿命をもつ存在たちは、高邁な探求にほぼ全身全霊を傾けていたが、

     野生で十年暮らすことにより大いに活力と啓示を与えられたのだった。

 

     (オラフ・ステープルドン「最後にして最初の人類」より抜粋)

 

この野生大陸では、文明に一切頼らない完全な野生生活なので、命を落とすこともしばしばですが、それをも厭わないという姿勢です。この文明と野生を往来するというライフスタイルを私は実に興味深いと思っています。(*4)

 

■お金の束縛と心の自由

さて、現代のドロップアウトに話を戻します。人々がドロップアウトできないのは、文明社会の人々は「お金が無くては生きていけない」ということに心が縛られているからです。これが、本来は自由で美しいものであった人々の精神を卑屈で醜悪なものにしてしまっていると思います。お金の無かった大昔はそうではありませんでした。しかし、現代人はこう言うでしょう。「じゃあ、お金無しに生きてみればいい!できるものなら、やってみろ!どうだ?できまい!できもしないことを偉そうに言うな!」と。こうあからさまに言わなくても、例えば、実感しやすいものに、現代人に最も恐れられているもののひとつに失業があります。会社がどんなに理不尽で嫌で辞めてたくても、失業を恐れて辞められません。失業してお金が無くなれば生きていけないと恐れてしまいます。そのため、たとえ奴隷のように不当に働かされて、どんなに嫌な思いをしても、死ぬよりはマシだと考えて我慢して働き続けます。そして、私たちは「お金が無くては生きていけない」という恐怖心に縛られて、自由でしなやかな心を失い、いつしか心までお金の奴隷に成り下がってしまいます。これはお金持ちも同様で、お金に心が縛られており、同じく奴隷に成り下がってしまいます。

 

しかし、文明社会以前、人がこの大地に生れ落ちたときは、人は人としてあるだけで尊厳ある生き物だったのではないでしょうか。文明社会では何か人よりも秀でていることによって、尊敬を集めたり、価値があると見做されたりします。あるいは、極端な場合はお金さえ持っていれば、人から羨ましがられ、価値がある人間だと思われたりします。しかし、文明社会以前は、そんなものは何も必要なくて、ただ、人は人としてあるだけで尊厳が守られていたのではないでしょうか。かつて引用したアボリジニの次の言葉を思い出します。

 
       白人たちが、アボリジニのことをあしざまに言うのは、
       アボリジニが農民でも、建築屋でも、商人でも、兵士でもないからなのさ。
       アボリジニってのは、それとは別者なんだ。
       踊り手で、狩人で、放浪者で、神秘家なのさ。
       だから白人は、わたしらのことを無知だとか怠け者だとか言うんだよ。
       ブライアンや、おまえにもそのうちきっと、
       わしらアボリジニの美しさと力が分かるじゃろうよ。
 
       (ロバート・ローラー「アボリジニの世界 」より抜粋)

 

「お金が無いと人は生きていけない」という心の束縛から、人は解放されなければならないと思います。もちろん、お金持ちになってお金の心配をしなくて良いようになることを言っているのではありません。お金が有っても無くても、お金に関係なく、自由な心を持てるようになることを言っています。本来はもっと自由であった心、もっと美しいものであった心、もっと力強いものであった心を取り戻すべきだと思います。私はアボリジニやアメリカ先住民の昔の古老たちの写真を見ると、そのごつい岩石のような顔の向こう側に、その遠くを見つめる瞳の内側に、広大で深遠な美しい宇宙を見ることがあります。そして、私は自問します。「彼らのような心こそが人間本来の心であったのではないのか?彼らの心は美しく力強い。そして、何か神秘的な深ささえ持っている。果たして、私の心も彼らのような広大無辺の心に到達できるだろうか?文明社会の中で小賢しく生きることにあくせくするうちに、彼らのような心の広さ・静けさを忘れてしまっていないだろうか?それとも、もはや私は手遅れなのだろうか?」心の美しさに比べれば、文明社会のことなどすべて虚しいまやかしに過ぎないと思います。(*5)

   

■「悟りを開く」とは?

次に、「悟りを開く」とは何でしょうか?「悟りを開く」といっても、様々に異なる悟りのイメージがあります。また、仏教に限らず、スーフィズムや老荘などにも「悟りを開く」はあります。「悟りを開く」とは一体どういうことなのか、人や宗教によって異なるのではないでしょうか。禅の十牛図のような数段階からスーフィズムのような数十段階もの段階を経る修行体系もあれば、突然、一挙に悟りを開く頓悟や脱然貫通もあります。ですので、そもそも「悟りを開く」といっても、一概に言えず、具体的にはどういうものなのかも定まっていないのではないでしょうか。

  

ちなみに、日本人の「悟りを開く」というイメージは、「心の平安」や「余裕のある心構え」でしょうか。日本人の悟りに対するイメージは、すべてをお見通しの神様にでもなるような敷居の高いイメージがあるのではないでしょうか?逆にその一方で、突然、「悟った!」みたいな人もいるかもしれません。そういう人に言わせると「悟り」はかなり「物事を割り切る」ことが多いように思います。何が言いたいかというと、日本人は悟りを自分には手の届かないものと考える一方で、非常に簡単な卑近なものと考えたりして、結局、「悟りとは何か?」を真剣に考えなくなってしまったのではないかと思います。

 

また、中には「悟りとは何か?」と一生問い続けることだという人がいるかもしれません。でも、答えを求めて無意味な堂々巡りを続けていないでしょうか?仏教の教説でも、前半は哲学的な分析ですが、後半は瞑想の実践が説かれています。問い続けることはあくまで前半の哲学であって、本来は後半の実践が重要なのではないでしょうか。そもそも、悟りとは、哲学や思想などのような言葉の理解ではなく、実践だと思います。

  

一方、60年代の米国では、かなり大真面目に「悟りとは何か?」を探求していたと思います。文化的な基盤がないので簡単な間違いをすることもありますが、先入観念に囚われないという利点もあったと思います。やけっぱちのムチャクチャで安易な答えに飛びつくものも数多くあったと思いますが、それでも中には、東洋では見られない深い掘り下げもあったと思います。そんな中でサイケデリック・ドラッグの活用は大きな成果だったと思います。一見、ドラッグの使用は矛盾するように感じられますが、世界各地にあるシャーマニズムの伝承からはドラッグの活用はごく自然なことだと思います。空を飛ぶ欧州の魔女も軟膏タイプのサイケデリック・ドラッグを使用していました。人によっては「難解な書物を100冊読むよりも、サイケデリック・ドラッグを1回やる方が絶対的に良い。悟りを開く唯一の方法だ」という人もいます。確かにジャンキーの情報には誤った情報や虚偽の情報も非常に多いのも事実ですが、ドラッグの使用そのものはまったく的外れというわけではないんじゃないかと思います。ともかく、60年代米国の試み”サイケデリック革命”は「悟りを開く」ことに革命的な進歩をもたらしたと思います。ただ、残念ながら、サイケデリック・ドラッグは現代では非合法化されたので、「悟りを開く」ことは非合法になりました。(*6)

 

さて、「悟りを開く」とは何でしょうか?この映画の中では、「自我の消滅」と言っています。また、仏教では、「輪廻から解脱すること」だと言っています。よく分かりませんが、たぶん、そんなようなものじゃないかと私は思います。もっとも、これも数多くある悟りのイメージのひとつに過ぎません。ただ、多くの人は「悟りを開く」という先入観に縛られているかもしれないと思います。

 

■選択の問題

ところで、現代人にとって「悟りを開く」のは選択の問題なのかもしれません。元々、ブッダは”目覚めた人”という意味だそうですから、「目覚めること」を選択するという問題なのかもしれません。例えば、映画「マトリックス」の中で主人公ネオは奇妙な誘いから車に乗せられて謎の男モーフィアスに会いに行きます。その途中、ネオは不信から車を降りようとします。しかし、車のドアを開けて降りようとしたネオはモーフィアスの使者トリニティから「ドアの向こうに見える世界に何が待っているかあなたは知っている。それでもあなたはその世界に戻りたいの?」と言われます。ネオはその世界に何もないことをうんざりするほど知っていたため、再びモーフィアスに会いにゆくことを決意します。

 

そして、モーフィアスと会見がかない、モーフィアスから赤いピルと青いピルを差し出されます。モーフィアスは言います。「赤いピルを飲めば、世界の真実の姿を知ることができる。一方、青いピルを飲めば、今までのことは忘れて普通の暮らしに戻ることになる。ただし、よくよく言っておくが、見せるのはあくまで真実だ」と言います。赤いピルを飲んで真実を見ても、それを本人が気に入るか、気に入らないかは別の話です。「悟りを開く」のも選択の問題であって、それが気に入るとは限らないのかもしれません。現代では目覚めるよりも眠ったままの方が心地良いのかもしれません。喩えるなら、家畜になった動物が柵の中でのんびり暮らすような感じでしょうか。野生で生きるよりは家畜で生きる方が心地良いと感じるのかもしれません。どちらを選ぶかは、本人の選択次第なのかもしれません。ともかく、現代人は本人も知らず知らずのうちにどちらかを選択しているのかもしれません。(*7)

 

■ジュリアの選択

さて、話を映画に戻します。ジュリアは2つを追い求めています。それは「夫の愛情や子供たちとの暮らし」と「自我の消滅などの悟りの道」です。アルジェに行ったジュリアは高僧に悟りへの道を乞うのですが、スーフィーの高僧からはまず先にジュリアに対して質問がなされます。ジュリアの仕事のことやジュリアの家族のことが質問されます。高僧からの質問で「夫を愛しているか?」と問われたとき、ジュリアは「実は彼は夫ではない。不倫である。けれども、彼を愛している」と告白します。そして、ジュリアは泣き出してしまいますが、「自分はまだまだ未熟だ」と気が付きます。

 

これは、おそらく、悟りの道に入ってゆくためには、この世に執着があっては出来ないのだと思います。夫や子供たちへのジュリアの愛を執着と呼ぶのは気が引けますが、やはり、そういう観点から見れば執着の部類になると思います。それに、妻帯している日本の僧侶は論外ですが、そもそも、通常の修行者は妻帯や性行為を固く禁じられています。仏典の律蔵を見ても固く禁じられています。ところが、ジュリアはすでに母であり、家族形成を選択済みです。これは難しい問題だと思いますが、両方を選ぶことは残念ながら本質的に不可能なのだと思います。そういったものを捨てなければならないのだとしたら、悟りの道も良いものかどうかとは思いますが、しかし、たぶん、どうにもならないもので、どちらか1つしか選べないのではないかと思います。

   

ともかく、ジュリアの気持ちはよく分かります。愛も悟りもどちらも素晴らしいものだと思いますから、どちらか一方ではなく両方手に入れたいと思います。しかし、それは叶いません。そして、ジュリアはビーの夢を見て、モロッコに帰ります。モロッコに帰ってビーを取り戻したジュリアはビーとの間で再び親子の絆が深まります。しかし、それも束の間でビーが病気に罹ります。ビラルが罪を犯してまでしてジュリア親子にロンドン行きのチケットを贈ります。しかし、それでもジュリアは帰るか残るか迷います。ジュリアは子供たちは愛しているけれども、自分を犠牲にして自分の人生を捨ててまで子供たちのために生きようとはしません。ジュリアは子供たちを愛していないわけではなくて、両方をやりたいのです。子供たちも愛する、と同時に自分の人生も生きる、というように。ジュリアは子供たちのために自分の心を殺すことが正しいとは思えなかったのだと思います。しかし、それは現実的に不可能でした。友人のエヴァから「あなたの旅は終わったのよ」と言われ、ジュリアは苦々しく現実を受け止めます。ロンドン行きの列車に乗って車窓の外を見つめるジュリアの目は険しいです。なぜなら、ロンドンに帰ってもジュリアにとって希望はないからです。ジュリアは高僧から言われた言葉を噛みしめるように思い出します。「たとえ、道が閉ざされようとも、悟りの道は開かれる」と。おそらく、ロンドンでの生活はジュリアにとって出口のない試練なのでしょう。それでもジュリアのことだから、高僧の言葉を信じて進んでゆくのだと思います。そんな思いに耽っていると、車窓からビラルが元気な姿で別れの手を振っています。ジュリアはビラルの贈り物に感謝しながらモロッコを去ってゆきます。

 

■まとめ

この映画を見始めたときはジュリアはなんて身勝手な母親なんだとネガティブに感じますが、映画を見てゆくに従って、ジュリアの自由な生き方と自由な精神に触れて、ジュリアのような生き方があっても良いかもしれないと思えてきます。いかに私たちが文明社会の中に縛られて生きているかが分かってきます。もちろん、ジュリアの住んでいたモロッコが良い場所というわけではありません。モロッコにはモロッコの問題があります。ただ、どんな場所でもジュリアは自由に生きてゆくだろうと思えます。本来、私たちの精神は、ジュリアの精神のように自由であったはずだと気が付かされます。

 
■注釈

(*1)原作者のエスター・フロイドは精神分析学者のフロイトの曾孫にあたります。父親は著名な画家で、姉はVIVAのファッションデザイナーです。映画でいえば、妹のルーシーが原作者に、姉のビーが姉にあたります。

 

(*2)そもそもヒッピーは文明社会からドロップアウトすることを唱えています。文明社会の価値観から、いったん、その枠組みの外へ出ることです。ヒッピーはドロップアウトして、そこでコミューンという小さなまとまりを作って自分たちで生活することを目指しました。しかし、彼らの生活は質素でしたが、やはり、生活が苦しくなって次第にコミューンは消滅して行きました。あるいは、「あそこに行けばタダ飯が食えるぞ~」みたいな無料で食料を提供してくれるような団体もあったようですが、そういうところの中には後にカルト団体っぽいものになったりしたところもあるようです。当時のカリフォルニアはそういう悟りを探求するような小さな団体がたくさんあったようです。

 

ところで、このヒッピーの元祖は仏教の開祖シッダルタのサンガ(=共同体)だと私は思います(笑)。シッダルタも当時のマガタ国の文明社会(=身分制度など様々な社会制度)からドロップアウトするものとして、国王から公認を貰ってサンガを作りました。彼らは托鉢をするだけで働かず、あとは修行して質素に暮らしましたから、まったくヒッピーと同じです(笑)。勤勉な日本人から見たら、「けしからん!」と言われそうですが(笑)。ただ、別に仏教に限らずとも、このようにドロップアウトして修行する者は世界中で数多く見られたようです(笑)。西アジアの砂漠や洞窟で粗末なズダ袋みたいな服を着て、一人黙々と修行をしてたようです。今では考えられませんが、思うに当時はお金が無くても、けっこう生きていけたんじゃないでしょうか(笑)。自然から取ったり、そこら辺の人から貰ったりしたんじゃないでしょうか。コンビニのない生活ですから、まあ、生活は助け合いの面が多かったのかもしれません。いや、まあ、実際のところはよく分かりませんが(笑)昔は「戦争が起きたら山に逃げて暮らす」なんて言ってましたし、未開人なんかは自然が豊かだったので、たいして働かず楽して暮らしていたようです。今はもう自然が破壊されて無いので、自然に逃げ込んでも生きていけませんが…。動物でさえそうです。山に食べ物が無くなって熊も猪も減りましたし、雀さえ減っています。ともかく、ヒッピーというのは、意外と人類普遍の現象だと思います。(ヒッピーが許されない日本社会は普通じゃない精神構造かもしれませんね(笑)。)

 

ただ、ちょっと驚くのは、この当時の米国は東洋思想に対する関心が非常に高く、しかも、マニアックで高度な知識を勉強していたらしいという点です。小さな簡単な誤りもあるにはあるのですが、それよりも、本場の東洋が顔負けするほど深く東洋思想を学んでいたことがこの頃の本を読むと分かります。ともかく、取り組みが真剣で、日本とは本気度が全然違います。もっとも、今となっては、どことも意気消沈してしまっていると思いますが…。

 

余談ですが、偶然かもしれないが、ここでもキリスト教は悪者扱いされています。彼女の出演作を見ていると、他者がイスラム教などを信奉することは否定しないのですが、自分たちヨーロッパ人はキリスト教などの宗教を超克しようとしているように見えます。ヨーロッパ社会は現代になってやっと宗教を自分たちから切り離すことにしたのか、あるいは、キリスト教を引き剥がすことによって、もっと古いヨーロッパの土着的習俗に還ろうとしているのかもしれません。

 

(*3)歴史的に見れば、ドロップアウトの道は失敗ばかりじゃなくて成功例もあると思います。例えば、①はアメリカ先住民の部族社会が成功例だと思います。彼らは国家を作らずに少数単位の部族で共同体を形成しました。かなり個人の意思が尊重されたと思います。中には部族から離れて一家族だけで暮らす者もいたようです。②は釈尊の作ったサンガという共同体です。サンガは托鉢と寄付によって運営していたと思います。初期のサンガは釈尊のそばで一緒に瞑想修行したという感じじゃないでしょうか。托鉢で衣食をまかない、あとは働かずにひたすら修行したんじゃないでしょうか。働かないかわりに豊かさを放棄して質素な暮らしに甘んじるという感じでしょうか。国家や社会がこれを公認したのは、今よりもずっと豊かだった時代の話なのかもしれません。また、それ以外にも、様々な宗教で寺院で真面目に修行していた人たちもいるでしょう。ただ、カルト化したりや内部が腐敗するなどの失敗例も数多くあるとは思います。③はイスラム僧などは一国家を超えて同じイスラム教国というネットワークの中で旅が可能だったと思います。彼らはお金が無くても行く先々でとりあえず生きるだけの最低限の糧だけは得ることができたようです。言うなれば、無一文で世界旅行が可能だったと思います。ですから、ドロップアウトの道は成功もあれば失敗もあると思います。結局、その人次第なのかもしれません。

 

(*4)人類学者レヴィ=ストロースの報告では狩猟を生業とする未開社会の労働時間は1日4時間だったそうです。しかも、そのグループは老人と障害者など働かない人を2人も抱えていたそうです。その他の余った時間は遊びに費やしていたそうです。先史時代でも人口が多くない時代では、豊富な自然の食糧があったので、ほとんど働かない生活をしていたそうです。ですので、実際には、わずかな余暇というよりは、有り余る余暇になるかもしれません。

 

(*5)確かに文明社会においても自由と平等の市民社会を実現しようという努力はありますし、そうすべきだと思います。ただ、現状においてそれが成し遂げられていると胸を張って堂々と言えるでしょうか。年間3万人の自殺者を出すこの日本で「自分の生き、貢献した日本は自由と平等が成し遂げられた社会だった」と言えるでしょうか。後世の歴史家がそれを聞いたら、なんと言うでしょうか。「当時の人々は自分たちの社会に満足していたが、その一方で年間3万人の自殺者を出す格差もあった。つまり、当時の現状に満足していた人々は隣人が自殺してゆくのを見殺しにしたまま、自分の生活だけを守って満足していた。彼らは本当の現実を見ていなかったり、他人のことにはおかまいなしになっていた」と言うのではないでしょうか。私たちが「自分はまともだ。自分は正しい。」と思っているほど、後世の人々は私たちをまともな人間、正しい人間だとは思わないかもしれません。

 

(*6)例えば、仏教の重要なものに華厳思想があります。華厳思想は、空海の「十住心論」でも重視されており、重要度の高い順に言えば「真言」「華厳」「天台」の順に重視しています。また、禅の道元でさえも「華厳」を非常に重視しています。ところが、この華厳思想はとても難解です。華厳思想を理解するだけで一生が終わっちゃいそうです(笑)。しかも、難解なだけに正しく理解できずに、横道にそれた誤った理解になるかもしれません。また、たとえ、正しく理解できても実体験を伴わなければ、戯論と何ら変わることのない言葉遊びになってしまいます。喩えるなら、言葉の上での理解は山頂から見える景色を実際に見もせずに麓からあれこれ言うようなものだと思います。そうではなくて、とりあえず、山頂に登って景色を実際に見てから見えたものについてあれこれ言えば良いと思います。喩えるなら、華厳は登山マニュアルであって、登山マニュアルから思想を引き出すのではなくて、実際に見えた景色から思想が自然と出てくるのだと思います。単なる言葉の上での理解では、仏教的には実質的な意味がないんじゃないかと思います。そういうわけで、華厳は、時間もかかるし、理解も容易ではない。しかも、言葉の上での理解だけでは意味がない。だったら、それよりは、とりあえず、LSDを1回やった方がよっぽど有益じゃないかと思います(笑)。言葉の上での理解なんてどうでも良いんじゃないかと思います。あるいは、理解は後からで良いんじゃないかと思いますし、そのうち言葉になって付いてくるんじゃないかと思います。ともかく、人生の時間は有限で限られており、いつだって人生の残り時間は少ないと思います。あまり悠長にしてられないんじゃないかと思います。以上、あくまで推測ですが…。

  

(*7)現代人にとっては「悟りを開く」は選択の問題かもしれませんが、古代人にとっては選別の問題だったのではないかと思います。シャーマニズムの時代では、古代のシャーマンたちは自らの意思に関係なくスピリットによって否応なしにシャーマンに選別されたようです。ちなみに、多くの宗教はアニミズムが起源だと思いますが、仏教はシャーマニズムが起源ではないかと私は思っています。ただ、シャーマニズムでは重視した脱魂を仏教では軽視しているのはいささか問題ではないかと思います。なぜなら、脱魂はエネルギーと深い関わりがあると思うからです。また、「マトリックス」での赤いピルは極めて象徴的だと思います。というのも、現代人は自然を囲い込んで自然の力を封じ込めてしまいました。同様に現代人自身も文明によって囲い込まれて、心の自由を得る可能性をほとんど失ってしまいました。現代人にとって赤いピル(=サイケデリック・ドラッグ)だけが「悟りを開く」ための唯一の道ではないでしょうか。しかし、それもほとんど非合法になってしまいました。その結果、私たちはまるで家畜のように柵の中に放牧されているだけになってしまいました。そこには屠られるのをただ待つだけの、そして、その恐怖から目を逸らすために無駄な暇潰しに明け暮れる無意味で虚ろな生しかありません。私たちは「マトリックス」につながれた人々のように、本当に、完全に囚われた人々になりつつあります。

  

■参考文献

「路上」 ジャック・ケルアック

「ザ・ダルマ・バムズ」 ジャック・ケルアック

「カリフォルニア・オデッセイ3 めまいの街」 海野弘

「カリフォルニア・オデッセイ4 癒しとカルトの大地」 海野弘

「ジョン・C・リリィ 生涯を語る」 J・リリィ+F・ジェフリー

 

ケイト・ウィンスレット その5

■「ホーリー・スモーク」(原題「Holy Smoke」) ジェーン・カンピオン監督(1999)

この映画は、インドで宗教団体に入信した女性ルースと、カルト教団脱退の専門家PJ.ウォータス(通称PJ)の悪戦苦闘の物語です。
 

■あらすじ

オーストラリア女性ルースは、旅行で訪れたインドで、あるヒンドゥー教の宗教団体に魅せられて入信してしまいます。仕舞には教祖と結婚するとまで言い出します。そのことを知った家族は彼女の洗脳を解こうと米国からカルト教団脱退の専門家PJを呼びます。そして、家族はルースを騙してオーストラリアに連れ戻します。騙されて連れ戻されたルースは激しく怒りながらも、渋々、三日間だけという約束で、PJと二人だけで脱退プログラムを受けることになります。

 

一日目、PJは豊富な知識や紳士的な振る舞いからルースの洗脳を少しずつ解いてゆきます。そして、二日目、カルト教団の実態を見せるビデオを見せて彼女の洗脳を解きます。しかし、ルースは洗脳を解かれたことで心の支えを失います。ルースはカルト教団の欺瞞を見抜きましたが、同時に帰るべき家族にも欺瞞があることを見抜きます。ルースは心の支えを失い、帰るべき場所も失って混乱してしまいます。混乱したルースはPJを誘惑して関係を持ってしまいます。

 

翌日、PJから「君のために関係を持った」と聞かされて、プライドを傷つけられたルースはより激しく無軌道に荒れてしまいます。ルースはさらにPJを振り回して再び関係します。(最初のセックスが男性本位のセックスなら、次のセックスは女性本位のセックスを表していると思います。)

 

次の日の朝、PJの助手で恋人のキャロルが様子を見にやってきます。キャロルは二人の関係を知って怒って帰ります。ルースもPJに恋人がいることを知って怒ります。PJはルースに謝り、満足するまで自分を責めろと言います。ルースはPJをなじりますが効果があまりないため、そこで思案したルースはPJを辱めるために、PJに女装させます。女装したPJを笑い者にした後、今度はルースがPJから攻められる番が回ってきます。そのとき、ルースはPJから「思いやりを持て」と言われてしまいます。「思いやり」、実はルースにとってそれは最大の弱点でした!実は、ルースは自分は「思いやり」のない冷たい人間でみんなから嫌われていると思っていました。「思いやりのない人間ということで、みんなから嫌われてしまう」というのがルースが心の奥深くに秘めていた最も恐れている”おそれ”だったのです。ルースは自分の弱点を突かれてドン底まで落ち込んでしまいます。

 

次の日、これまでの自分も嫌になり、そして、PJを誘惑してからかったことも心から後悔して途方にくれ、自分を完全に見失ったルースは小屋から逃げ出します。しかし、逆にルースに夢中になったPJはルースを引きとめようとして誤ってルースを殴ってしまい、ルースはその場に気絶してしまいます。家族に見つかるのを恐れたPJはルースを隠しますが、結局、家族にも見つかり、ルースにも逃げ出されてしまいます。逃げ出したルースを裸足で追いかけたPJは荒野で意識が朦朧として倒れてしまいます。意識が朦朧とした中でPJは踊るシヴァ神の幻影を見ます。PJの失態を知ったルースの家族は怒り、意識が朦朧としたPJを捕らえてトラックの荷台で運びますが、そんなPJを見たルースはPJに「思いやり」のような”憐れみ”の感情をはじめて抱きます。

 

一年後、ルースはインドに戻りますが、教団には入らずに独自に正道の探求に勤しみます。また、新たな恋人もできます。一方、PJはキャロルと結婚して双子を設けます。ルースとPJは恋人同士ではありませんが、ルースとPJの間には恋愛ではないけれども、深い愛情が芽生えていたのでした。
 

■映画を理解するための注意点

「タイタニック」を見てウィンスレットのファンになった人もいるかもしれませんが、ものの見事にその幻想を打ち砕く作品になっています。見ているこっちの方が「そこまでやっていいのだろうか?」と心配になってしまいました。せっかくファンになった人も「こう過激では恐れをなして逃げてしまうんじゃないか?」と思いました(笑)。タイトルの「ホーリー・スモーク」の意味は、「聖なる煙」という意味ではなくて、「こいつはたまげた!」的な意味らしいですが、確かに、この映画を見ると何度もぶったまげるような場面を目にすることになると思います。その驚きがこの映画の理解を難しくしている原因のひとつになっています。
 

また、3日間という脱退プログラムの中でテンポよくステップを踏むように物語を進行させるという都合のために、物語展開に不自然さや強引さを感じるかもしれません。ただ、逆に言えば、ステップごとに明確な意味があるので、全体を通して見た後に、各ステップ毎にどのような意味があるのかを考えれば良いので、物語の意味が掴みやすいかもしれません。

 
■ルースの属する2つの共同体
ルースの所属する共同体は、元々はオーストラリアの家族でした。それがインド旅行でババに出会って教団の一員になってしまいます。結論から言うと、どちらも欺瞞に満ちた世界でした。家族も、父親は秘書と不倫していますし、兄弟も本当にルースのことを想っているのか怪しいものでした。義理の姉に至ってはPJといちゃついていました。母親は誠実なのですが、ルースを教団から脱退させようという母親が占星術や水晶パワーを信じた話をするのは笑えました。最後にルースが逃げ出したことを聞いたときに、脱退請負人であるキャロルも含めて聖歌を歌い出したのには笑いました。一方、インドの教団も教団内では彼らなりのモラルはあるようなのですが、外部の人間を教団に引き入れるために手段を選ばず騙したりするなど欺瞞に満ちていました。また、インドでは、女性蔑視が強く、ルースはその矛盾に気づいていました。結局、いずれの共同体にもルースが満足できる居場所はありませんでした。

 

■ルースの恋愛観

また、ルースの恋愛は浅薄なものでした。ルースのこれまでの男の恋人たちはなんとも軽薄そうな感じでした。ルースの女友達の恋愛観も、恋人の外見に囚われて、その人の中身を見ようとするものではありませんでした。インドから帰った直後のルースが女友達に「外見ではなくて中身が大切だ」と言ったときには、ルースは今までの恋愛になにかしら物足りなさを感じていたのではないかと思います。

 

ところで、ルースとPJの関係は恋愛かどうかはハッキリしません。そもそも二人が肉体関係を持ったきっかけはルースが拠り所を失ったことによる混乱からでした。それまでは、別にルースもPJも互いを恋慕しているわけではありませんでした。ただ、パブで酔っ払いから救出されたときは、多少、ルースはPJの愛情を感じたかもしれません。しかし、その日の夜も二人は関係を持ちますが、その日の関係はPJへのからかいがきっかけでしたし、何よりも前日のPJ主体のセックスではなく、ルース主体のセックスをするという、恋愛よりはむしろ性愛に重きが置かれていました。さらに、翌日、PJの助手で恋人のキャロルの存在を知ったとき、ルースは嫉妬して怒りますし、その後のセックスもボロボロになったルースが混乱した中でのセックスでした。つまり、短時間の中で二人の心の変遷がめまぐるしく展開します。ですから、この間の二人は恋愛とも性愛ともハッキリとしません。しかし、たぶん、それで良いのだと思います。というのも、恋愛なんて勢いだったり、未熟さだったり、若さだったりが恋愛の条件だからです(笑)。

 

■ルースの人格の問題

元々、教団に魅かれるのは、本人が何らかの問題を抱えている場合が多いのではないでしょうか。この映画のルースは家族の問題や人格の問題を抱えています。確かに、教団の儀式で集団催眠の中でルースはエクスタシー体験を教祖の愛として受け取ってしまい、教団に心酔してしまいます。しかし、それよりも前にルースの抱える諸問題がルースを教団に走らせたのだと思います。

 

ところで、ルースの入った教団はカルト教団なのかどうなのかは実は明確な表現はなかったんじゃないかと思います。教団もカルト教団も実は共同体の構造自体は同じだと思います。では、何が教団とカルト教団では違うのでしょうか。一般的には、反社会的か否かが違いの目安とされるかもしれません。しかし、よく考えてみると、そもそも教団は社会の価値観と教団の価値観は違うというところから出発していると思います。社会の価値観をそのまま受け入れるのなら、何も教団という枠組みを作らなくて良いはずです。つまり、本来は教団の価値観と社会の価値観は相容れない関係にあります。ですから、程度の差はあれ、教団もカルト教団も反社会的となりやすいと思います。つまり、教団とカルト教団の違いを明確にすることは難しいと思います。ただ、いずれにしろ、教団を形成すれば、共同体の問題が浮上してくると思います。悩みのまったく無い、人々が完全に幸福な状態の理想郷のような共同体など存在しないと思います。ですから、教団に入ったからといって問題が解決するわけではないと思います。しかし、理想郷ではなく、一時的な修練の場としての共同体はあると思います。そこは理想郷というよりは、むしろ、理想郷とは正反対の戦場に近いかもしれません(笑)。そういった場では鍛えられるかもしれませんが、人間らしく生きる共同体としては好ましい所ではないでしょう。

 

話を元に戻します。ルースの人格の問題は映画の最後に明らかになったように、「思いやりがない」でした。ルースも強く自覚しており、PJの指摘がきっかけで「思いやりが大切だ」というダライ・ラマの言葉を思い出して、その大切さを思い出します。

 

■グレート・ラヴ

ルースとPJの関係は何でしょうか?恋愛の愛ではなく、もっと大きな愛にルースは辿り着いたのだと思います。まあ、この大きな愛というのは、博愛といえば博愛なのですが、ちょっとニュアンスが違うかもしれません。喩えて言えば、アメリカ先住民がスピリットの中でもその最大の最も大いなるスピリットのことをグレート・スピリットと言いますが、それと同じような感じで、恋愛など数ある愛の中でも最も大いなる愛としてのグレート・ラヴといった感じではないでしょうか。ルースはPJに対して、かつては恋愛感情を抱いていたかもしれませんが、今は恋愛や性愛を抱いていません。今のルースには恋人がいますから。PJに対してあるのは、恋愛や性愛の要素のない、純粋な愛だけです。人は別に恋人や親子でなくても、愛を抱けると思います。ルースにとってPJは恋人でも先生でもありません。単なる一対一の人間同士です。ただそれだけの関係の中での愛なのだと思います。でも、この愛さえつかんでいることができるのであれば、このとても大きな大きな愛に触れているという実感さえあれば、ルースはこれからも正しい道を歩むことができるのだと思います。

 

グレート・ラヴには、例えば、アルセーニエフ描くところの猟師デルスウ・ウザーラの愛があります。彼は、人間だけでなく密林にいる動物や虫など生きとし生ける者すべてに対して愛を注ぎます。探検隊と野営しているときに、残った食べ物を火にくべようとした兵士にデルスウは怒ります。食べ物が焼けて炭になってしまったら、誰も食べられなくなるではないか、と。兵士は誰も食べる者はいないと言いますが、それに対してデルスウは自分たちが立ち去ったあと、イノシシが来て食べるかもしれないし、イノシシが来なくても虫が来て食べるかもしれない。だから、火にくべずに林の中に捨てるのだと言うのです。デルスウは密林に住む生き物すべてのことをいつも心配しているのでした。確かにデルスウは猟師ですから、生きるために動物たちを殺します。しかし、決して無益な殺生はしませんでした。デルスウの愛は死が身近にある恐ろしくも美しいこの自然の世界の中にあって、すべての存在に注がれているのです。限られたごく親しい人たちだけに向けられる愛ではなく、密林に生きるすべての生き物に向けられる広大無辺の愛、グレート・ラヴがそこにはあったのだと思います。デルスウはこの愛と共にあったからこそ、密林の中で生き物たちと調和の取れた正しい暮らしを営んでいけたのだと思います。

  

■俳優の試練

この作品ほど俳優に試練を課した作品はないのではないかと思えます。例えば、PJを演じたハーヴェイ・カイテルは女装させられます。口ひげをはやして男くさい役柄なのに、口紅を塗られ、赤いワンピースを着せられます。あげく荒野で「結婚してくれ~」とかっこ悪くウィンスレットの足にしがみつかされます(笑)。一方、ウィンスレットはアンダーヘアも丸見えの全裸シーンがありますし、さらに立ったままオシッコまでします(*1)。他にもセックスシーンが多いのですが、セックスのクライマックスで「まだ、いかないでぇ」(Don't come!Don't come!)と言わされたり、PJにウィンスレットのパンツを降ろさせて舐めさせるシーンもあります。そして、そこで感じる演技をしたりします。この他にも酔っ払いにパンツをずり下ろされるシーンはあるし、鼻血を出すシーンはあるしで大変です(笑)。また、ジェーン・カンピオン監督がウィンスレットにアドリブ的に仕掛けたのではないかという体型に関する微妙な質問をするシーンもあります。なので、この映画はハーヴェイ・カイテルにもウィンスレットにも、ものすごい重圧、俳優としての試練がかかった映画ではないかと思いました。特にウィンスレットは時期的には「タイタニック」の大ヒットの後に受けた仕事だろうだけに、よくこの仕事を受けたと思います。ちなみに、この映画の海外での公開が1999年なのに対して、日本の公開が2003年になってしまったのも、この過激な内容からなんとなく理解できます(笑)。ウィンスレットは「タイタニック」の影響で変わるどころか、「タイタニック」の自身の成功に対して、より挑戦的・好戦的にこの作品を選んだのではないかとさえ思えてきます。ウィンスレットは決して独りよがりな人間ではないと思いますが、それでも「タイタニック」の成功をものともせずに我が道を行くのは、並々ならぬ彼女の精神力の強さを感じます。

 

■まとめ

インドの教団に入信したルースですが、ルースが元々属していた故郷の共同体(=家族や友人や恋人)にも問題がありました。また、教団やインド社会にも問題がありました。結局、どちらの共同体にも問題があるのでした。また、ルース自身にも問題がありました。ルースの人格の問題です。ルースは自分には思いやりが欠け、周囲からそんな自分は嫌われていると思っていました。(←まあ、程度の差はあれ、誰しも抱えている問題だとは思いますが。)PJの脱退プログラムによってルースの教団への幻想は打ち砕かれますが、同時にルースには帰る場所=拠り所が無くなってしまいます。その混乱からPJとルースの恋愛・性愛が始まりますが、結果、ルースの思いやりに欠けるという人格問題に逢着します。一方、PJはルースを本気で愛してしまいます。滑稽で深刻な状況に二人は追い込まれますが、ルースに慈悲の心が芽生えます。一年後、ルースは教団に属さずに自分ひとりで正道を探求します。と同時に、二人で試練を乗り越えたルースとPJの間には、恋愛ではない大いなる愛が生まれます。

 

■注釈

(*1)この映画でウィンスレットは大胆な全裸のヌードを披露していますが、いろんな意味で勇気のあるヌードだと思います。ウィンスレットのスタイルは一般的なモデルのスタイルと比べると正直なところあまり良くありません。彼女はウェストが太いと言われるかもしれませんが、実際には胴が短いと言った方が正確だと思います。胴が短いのでウェストがクビレようがないのではないかと思います。そのかわり足が長く、腿からお尻にかけて肉がついているので、そこにボリュームあって、対比的にドレスの上からだとウェストがクビレているいるように見えるのではないかと思います。

 

私は彼女の闇に浮かぶ全裸を見たとき、思わず「古代ケルト人だ!」と思ってしまいました。古代ケルト人がどのような体型なのかは正確に資料が残っているわけではありませんし、当然、私も古代ケルト人がどういった体型なのか知るはずもありません。ですが、なぜか、ウィンスレットを見て古代ケルト人という言葉が頭に浮かんできました。それにしても、ウィンスレットは大胆です。このあとの展開でも、ウィンスレットはPJを誘惑して彼に胸を触らせたり、キスしようとしたりします。さらに、最後にはその場でオシッコまでしてしまいます。このオシッコの意味はいろんな解釈が可能だと思いますが、ともかく、PJもこの常軌を逸したウィンスレットの誘惑行為に、ついに気持ちが揺らいでウィンスレットと肉体関係を持ってしまいます。それにしても、この演技をやらせたカンピオン監督も凄いですが、それを見事に演じきったウィンスレットにも圧巻です。

ケイト・ウィンスレット その4

■「タイタニック」(原題「Titanic」) ジェームズ・キャメロン監督(1997)
3時間以上の長い上映時間にも関わらず、世界最高の興行収入を誇る映画史上最大のメガヒット映画です。この映画で主軸になっている物語はジャックとローズという二人の若者の恋愛物語ですが、物語の主題は絶体絶命の危険にさらされたローズというひとりの女性の生き方が変わることが最大のポイントになっていると思います。

 

■あらすじ

ローズは英国の名門貴族の令嬢なのですが、実際には経済的に行き詰まった貧乏貴族の娘です。そのため経済的な理由から母親の取り決めに従って、大富豪キャルと婚約してしまいます。しかし、ローズはキャルを愛しておらず、また、ローズにとって社交界は自由のない籠の中の鳥の生活でした。ローズはそういった世界に嫌気がさしていますが、お金のため母のためにやむなく我慢しています。そして、いま、アメリカで結婚式を挙げるために豪華客船タイタニック号に乗船します。一方、貧乏な青年画家ジャックは賭けで勝ってタイタニック号の乗船券を手に入れて駆け込みで乗船します。

 

タイタニック号が出港して一等客船では社交が繰り広げられます。しかし、ローズは窮屈な自由のない社交にいよいよ嫌気が差してしまいます。そして、いっそ死んでしまおうとタイタニック号の船尾から飛び降りて自殺しようとします。そこへジャックが現れて、ローズを思いとどまらせて救います。

 

ローズはジャックと打ち解けるうちに、彼の自由な生き方に触れて彼の自由な生き方に憧れます。そして、同時にジャックにも魅かれるようになります。一方、ジャックもローズに魅かれます。ジャックはローズがこのまま社交界にとどまれば、いずれは心が枯れ死してしまうと警告して、ローズに社交界から飛び出すことを勧めます。ローズはその場では飛び出すことを拒みますが、社交界に戻って冷静に自分を見つめ直したとき、このままでは自分は正気では生きていけないことを悟り、社交界を飛び出すことを決意します。

 

ローズはキャルと決別するために、ジャックにヌードの自画像を描いてもらいます。それを見たキャルは怒りに燃えてローズを取り戻すためにジャックに宝石泥棒の濡れ衣を着せます。そして、みんなの前でジャックのコートから宝石が見つかり、そればかりかそのコートも明らかに盗まれたものだと分かったとき、ローズは「ジャックが宝石を盗むために自分を騙したのか?!」と茫然自失になってしまいます。そんな混乱した中でローズはタイタニック号の設計者からタイタニック号が沈没することを知らされます。それを聞いたキャルとローズたちは急いで救命ボートに乗り込もうとします。ところが、乗り込む寸前に、ローズはキャルからジャックが死ぬだろうと聞かされます。それを聞いたローズは宝石の盗難がジャックを陥れるためのキャルの謀略だったことに気づきます。ローズは卑劣なキャルや自分勝手な母親など何もかもすべてを捨ててジャックの元に駆けつける決意をします。

 

キャルを振り払ったローズは浸水が始まって混乱した船内を一人で捜し回って、手錠で動けないジャックを見つけます。なんとか手錠を外した二人は救命ボートに乗るためにデッキへ上がろうとします。デッキへ上がる途中でジャックは仲間と合流して、三等客室を閉じ込めたゲートを破ってデッキへ上がります。しかし、救命ボートの乗船は女性と子供が優先で、ジャックはローズを逃そうとキャルと協力してローズだけを先に救命ボートに乗せます。いったん救命ボートに乗ったローズでしたが、ジャックを船に残してゆくことがどうしてもできずに、再びタイタニック号に飛び移ります。再び一緒になって抱き合うローズとジャックはふたりは分かち難く愛し合っていて、ふたりは離れられないと覚悟を決め、今度はふたり一緒で逃げることにします。それを見たキャルが逆上して二人に向かって拳銃を発砲します。ジャックとローズは再び浸水して混乱する船内を逃げ回ります。

 

浸水した船内から命からがらデッキにたどり着いた二人でしたが、救命ボートも無くなり、いよいよタイタニック号が最期の沈没に向かって傾きが激しくなります。ジャックはできるだけ長く船上にいようとして、二人は浮き上がる船尾へと向かいます。人ごみをかき分けて船尾にたどり着いた二人は手すりにしがみつきます。奇しくも、そこはローズが飛び降りようとしてジャックに助けられた場所でした。そして、ついにタイタニック号が海面から垂直になって完全に海に沈みはじめます。二人は意を決して沈没の渦に巻き込まれないように沈没と同時に船を蹴って飛び出すことにします。一度は死ぬために船尾から飛び出そうとしたローズでしたが、今度は生きるために船尾から飛び出したのでした。ただし、今回は一人ではなく、ジャックと一緒にでした。

 

極寒の海に投げ出された二人でしたが、ジャックが船板を見つけます。船板は一人しか乗れず、ジャックはローズを船板に乗せて、自分は船板にしがみついて救命ボートが来るのを待ちます。しかし、いくら待っても救命ボートは助けに来ず、ローズは寒さと絶望で死を覚悟して、ジャックに別れの言葉を告げようとします。しかし、ジャックはそんなローズの言葉を受け入れず、諦めずにがんばれとローズを励まし、絶対に諦めないことをローズに誓わせます。そして、海が静まりかえった頃、ようやく救命ボートが助けにやってきます。ローズは救命ボートに気づいて、喜んでジャックに知らせます。しかし、いくら呼んでもジャックの反応はありません。ジャックはすでに氷点下の海で凍死していたのでした…。ジャックの死を知ってローズは悲しみに打ちひしがれますが、自分を助けるために命を投げ出したジャックとの誓いを思い出して、必死で救命ボートを呼び戻して救助されたのでした。

 

それから、ひとり助かったローズはキャルとの縁を切り、姓もドーソンと変えて新たな人生を一人で歩んでゆくことを決意します。そして、84年後、年老いたローズはタイタニック号が沈没した場所で当時の回想を次のように言って締めくくり眠りにつきます。「ジャックは沈没から生命を救ってくれただけでなく、あらゆる意味で私を救ってくれた」と。眠りにつくローズの傍らには、タイタニック号沈没後の彼女の半生を写した写真が飾られています。そこには、チャレンジングな充実した人生経験の足跡が刻まれており、社交界から飛び出したローズが苦労しながらも、とても充実した自由な人生を送ったことが分かるのでした。

 

■人生の特異点

タイタニック号沈没事故がローズの人生を変えました。この物語はローズが助かった話ではなく、ローズの生き方が変わった話です。なぜなら、ローズはキャルを選んでもジャックを選んでも、どちらを選んでも沈没事故からは助かっただろうからです。仮に、もし、キャルと一緒にいれば、ローズは助かったはずです。ローズの母親は余裕を持って助かっています。ローズは何度か救命ボートで脱出するチャンスがありながら、それを自ら拒んでいます。ですが、もしキャルを選んでいたなら、たとえ沈没事故からは助かっても、ローズは一生籠の中の鳥であり続けたでしょう。そして、ジャックが言ったように彼女の真っ直ぐな心は籠の中で枯れ死してしまったのではないでしょうか。しかも、キャルは世界恐慌で自殺していますから、同様にローズも行き詰る可能性が高かったと思います。一方、ジャックを選んだ場合はどうなったかは映画の通りで危険にさらされながらも危機一髪で助かっています。ですから、少し興ざめしてしまいますが、極端に言えば、ローズはキャルを選んでもジャックを選んでもどちらでも沈没事故自体からは助かっていたのです。では、ローズはジャックを選んだことで何が変わったのでしょうか?それはローズの生き方が変わったのです。ですから、この物語はローズが沈没事故から助かる話ではなく、実は、ローズの生き方が変わる話なのです。

 

■”竿頭一歩前進”の物語

ローズの生き方を変える象徴的な行為が船尾からのジャンプです。これは禅でいうところの”竿頭一歩前進せよ”に近い精神です。ローズは、最初、死ぬために船尾に立ちます。そのときはジャックに助けられます。翌日、ジャックからは挑発的に皮肉られます。「君は飛べないひとだね」と。ローズはムカッとしてますが、実際、自由な世界への憧れはあるけれど、恐れから飛び出せずにいます。ジャックは、ローズがこのまま社交界の世界に閉じこもってしまえば、ローズのまっすぐな心が死んでしまう、そうならないようにローズに自由な世界へ飛び出すことをけしかけます。ローズはジャックの呼びかけに答えて、飛び出すことを決意します。ところが、その矢先に沈没が始まります。二人は懸命に逃げ惑ううち、船尾にたどり着きます。このとき、決意だけでなく、実際に行動で示すときがきたのです。今度は死ぬためではなく、生きるために船尾からジャンプします、今度は二人一緒に。自由に生きることは決して楽な生き方ではありません。危険が待ち構えていますし、責任も伴います。また、知恵や勇気を必要としますし、ときには代償も必要とされます。ですが、恐れて何もせずに心が死んでしまうよりは、はるかに良い生き方だと思います。

 

結果、ローズは、タイタニック号で旅立つ前とニューヨークに到着した後では、大きく変わっていました。ニューヨークに到着して自由の女神像の前で雨に打たれながら立っているローズは以前のロースではありません。お金の無い不安や自由な世界への恐れから籠の中から飛び出せなかったか弱い娘から、自分の意思と力で世界の荒波に立ち向かってゆく強い決意を持った女性に変わっていました。そういった意味で、この映画はタイタニック号沈没事故の前後における、ローズの”変身”の物語なのではないでしょうか。(*1)

 

■まとめ

この映画は人気俳優レオナルド・ディカプリオの魅力が最もよく輝いているラブストーリーとして捉えられる傾向が強いと思います。ですが、これまで述べてきたように、この物語は恋愛だけではなく、死に直面したひとりの人間、ローズという若い女性の生き方が変わる話だと思います。恋愛と変身が見事にシンクロするという極めて稀有な物語だと思います。だからこそ、これだけ多くの人々に感動を与えるのだと思います。

 

文明社会で生きるということは、人はひとりでは生きられません。人は生きるためにお金を必要とします。しかし、そのとき、人は自分の人生の中で遅かれ早かれローズと同じような選択を迫られます。生きるために心を捨ててお金を選ぶのか、あるいは、死ぬかもしれないがお金を捨てて心のある道を選ぶのかを迫られます。これはとても分かりやすいシンプルな選択問題です。この問題を解くのに頭の良さは必要ありません。必要なのは自分の心だけです。私は人間にとって最も大切なものは心だと考えています。ですので、人間はどんなに危険で恐ろしくても、お金ではなく、心を選ぶべきだと考えています。そして、この選択は必ず自分の心にはね返ってきます。人間の心は間違った選択をして一度死んでしまえば、二度と生き返ることはありません。私はローズは生命を賭して心のある正しい道を選択したのだと思います。そして、死んでしまったけれど、ジャックもまた心のある正しい道を選択したのだと私は思います。確かに、ジャックのように、たとえ正しい道を選択しても死ぬかもしれません。しかし、心が死んでしまって生きるよりは、結果的に死んでしまっても、心のある正しい道を選ぶ方が良いのではないでしょうか。(*2)

 

■注釈

(*1)似たような変身にドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」があります。次のような末弟アリョーシャの変身の場面があります。以下引用です。

  

   静かにきらめく星くずに満ちた穹窿が涯しなく広々と頭上を蔽い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線

   にかけてひろがっていた。静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空

   にくっきり浮かんでいた。……じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのよう

   に地上に身を投げた。何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたても

   たまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することはできなかった。しかし泣きながら彼はかき抱

   いた。大地を涙で沾した。そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。……無限の空間に

   きらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。それはちょうど、これらの無数の神の世界から投

   げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持ちだった。そして彼の魂は『他界との接触』にふるえ

   ていた。彼は一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。しかも、ああ、

   決して自分のためではなく、一切に対して、全ての人のために……。あの穹窿のように確固として揺るぎない

   あるものが彼の魂の中に忍び入った。さっき地上に身を伏せた時は、脆弱い青年にすぎなかったが、立ち上

   がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。

 

   (ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」より抜粋)

 

他にも、生き方が変わる特異点の物語にアラン・ムーア原作の映画「V for Vendetta」があります。公安に捕まった娘イヴィーは公安から正義のテロリストVの居場所を吐けと拷問にかけられます。拷問にかけられて衰弱したイヴィーは「これ以上白状しないようなら、即刻処刑する」と公安に脅されます。しかし、それでもなおイヴィーは白状しませんでした。生命よりも大切なものを守るために処刑も辞さずとイヴィーは死を覚悟したのでした。そして、その次の瞬間、彼女の中で何かが変わります。スピリットの一撃によって魂を覆う殻に穴が穿たれた瞬間でした。イヴィーは錯乱して呼吸困難に陥りますが、Vによって連れ出された雨の中で立ち上がったときにはイヴィーはすでに戦士に生まれ変わっていました。イヴィーとVの会話を一部簡略化して下記に抜粋します。

 

     「放っておいて!」 彼女が叫ぶ。「あんたなんか大嫌いよ!」

     「それなんだ!」 彼は再び立ち止まり、彼女との距離を保った。

     「最初、私も憎しみだけだった。憎しみが私の知る全てであった。

     憎しみが私の世界を形成し、私を閉じ込め、憎しみを食らい、飲み込み、呼吸する術を教えた。

     血管に流れる憎しみだけで死ぬかもしれないと思っていた。

     しかし、何かが起こった。君に起こったのと同じようなことが」

     「うるさい!」 彼女が金切り声を上げた。「あんたの嘘はもう聞きたくないわ!」

     「逃げてはいけない」 彼は続けた。「君はこれまでずっと逃げ続けていたのだ」

     「ああ、いやよ」 彼女は突然あえぐと両膝をついて、胎児の姿勢になった。

     パニックが止めどもない勢いで襲ってきたのだ。「息が・・・できない・・・ぜんそく・・・小さい時に・・・」

     彼女はぜいぜいと呼吸し呻きながら、何とか窒息しないようにした。

     「私の話を聞くのだ、イヴィー」 彼は言った。「今こそ君の人生で最も重要な瞬間だ。立ち向かうのだ。」

     「君は彼らに両親を奪われた。君が好意を抱くようになった男を奪った。

     君を独房に入れ、命以外の全てを奪った。君はそれが全てだと信じていたね?

     君に残されたものは命だけだと。でもそうではなかったね?」

     イヴィーは頷き、熱い涙が頬を伝った。

     「君はそれ以外のものを発見した。あの独房で、君は命よりも重要なものを見つけた。

     なぜなら、求めるものを渡さないのなら命を奪う、殺すと脅された時、

     君はむしろ死んだ方がましだと言ったのだ。君は死と対決したんだ、イヴィー。

     君は落ち着き、平静であった。あの時の感覚を思い出すんだ」

     イヴィーは言われた通りにした・・・再び開放感を味わった。

     「めまいがするわ。空気が欲しい。お願い。外に行きたい」

     「エレベーターがある。屋上に連れていこう」

     ・・・・・・

     彼から離れていないところで、降り注ぐ雨の中、屋上に立ち尽くしたまま、イヴィーはむせび泣き始めた。

     彼女もかつてのVと同じように、自らの存在全てが永劫なるものと融合するのを感じた。

     頭上、踊り狂う稲妻が、再び神々しいばかりの激烈さで夜空を染め上げた。

     神々が常にしてきたように「我こそ!」と絶叫し、光の中に人の姿となって顕現した。

     啓示。

     悟り。

 

     (スティーヴ・ムーア「Vフォー・ヴェンデッタ」より簡略抜粋)

 

ローズも雨のニューヨークに降り立ったとき、固い決意をもった戦士だったのではないでしょうか。

 

(*2)ローズの選択について補足しておきます。沈没事故から助かったローズが他の男性と結婚したことを批判する意見がありますので、そのことについて述べておきます。恋愛の愛と大きな愛の違いがそこにはあって大事だと思いますので。さて、もし、ローズが沈没事故で助かった後、ジャックを一生大切に想って生涯結婚せずに暮らしたとしたら、ジャックは喜んだでしょうか?ジャックの願いは「ローズが幸せになること」です。ローズがジャックだけを想って子供も産まずに生涯を終えることは、ジャックにはそれがローズの幸せだとは考えられなかったと思います。確かにジャックは自分が生きていれば、ローズと一緒になりたかったでしょうが、ジャックは、もう、自分は生きられないことは分かっていたはずです。自分の生命を犠牲にしてもローズを救いたかったのがジャックが選んだ選択でした。だから、ジャックは死んでしまった自分のことを生涯想い続けるよりも、新しい伴侶を得て、家族を作って、ローズが充実した幸せをつかむことを願ったと思います。そこには、ジャックの無償の愛があります。この愛は恋愛の愛というよりも、もっと大きな愛で、ただ、ひたすら、愛するひとの幸せを願う愛です。そして、ローズには、ジャックのその気持ち、ジャックの愛が痛いほど分かっていたのだと思います。でも、ジャックの愛が分かれば分かるほど、それはローズには痛かったと思います。愛するジャックから彼の生命を賭けた愛をローズはもらった。けれども、死んでしまったジャックにはローズからは愛を返すことはできない。それはローズにとって辛く、胸の痛いことだったと思います。愛するひとに自分の愛を届けられないのだから。だから、なおのこと、いい加減な生き方はローズにはできません。ジャックが自分の生命を投げ出してまで救ってくれた生命なのですから、精一杯、生きなければジャックに申し訳が立たないからです。だから、ローズはジャックの愛に応えるためにも、精一杯、充実した人生を生きなければならず、そして約束を果たしたのだと思います。もちろん、ローズは夫を愛したと思いますし、一方でジャックも愛していると思います。これは恋愛の愛ではなくて、もっと大きな愛という意味で。恋愛の愛が至上の愛というわけではないでしょう。恋愛や結婚という形で愛が保証されるわけではなく、愛は善き心のあるところに芽生えるのだと思います。

 

(*3)ところで、ウィンスレットが出演した映画には同じようなシーンが数多く見られます。

 

例えば、水中のシーンが非常に多いです。まず、この「タイタニック」で大西洋に投げ出されて危うく溺れそうになったのは有名です。映画出演第一作目の「乙女の祈り」では水着を着て湖に飛び込みそうで飛び込みませんでした。かわりに浴槽の場面があります。「ハムレット」ではオフィーリア役であっさり溺死しました。「グッバイ・モロッコ」では水中シーンに慣れてきたのか、全裸で湖を大きなストライドで気持ち良く平泳ぎしています。ところが、「クイルズ」では再び洗濯槽で溺死してしまいます。もう、十分、ウィンスレットの水中シーンに慣れたかなと思ったら、「アイリス」では川でかなり大胆に全裸で泳いでいてびっくりしました。草木の緑と女性の白い裸体が綺麗に映えるラファエル前派の絵画を連想させる美しい光景でした。ウィンスレット自身も水中シーンには完全に慣れたのかなと思ったら、「エターナル・サンシャイン」では巨大な台所の流しの中で撮影中に失神してしまったそうです。それでも、やはり水中シーンは止められないらしく、「オールザキングスメン」では夜に海を泳いでいます。さらに「リトルチルドレン」ではプールで泳いでいます。まだまだ続きます。「ホリデイ」で邸宅のプールで豪快にクロールで泳いでいます。「愛を読むひと」では下着姿で川を泳いでいます。もうほとんど水中シーンでやることはやったかなと思ったら、「Romance&Cigarettes」ではとうとう水中で歌まで歌っています(笑)。これだけ水の場面が多い女優さんも珍しいと思います。

 

また、喫煙のシーンも非常に多いです。「日陰のふたり」で何度もタバコを吸っています。「タイタニック」ではキャルに喫煙を注意されてましたね。「グッバイ・モロッコ」ではお金がなくて落ち込んだ時に一服してました。「ホーリースモーク」では手巻きタバコを器用に巻いて一服してます。「アイリス」では、執筆にタバコは欠かせないようでした。唯一、「ライフオブデビッドゲイル」では嫌煙で相棒が吸うことを注意してました。「レボリューショナリーロード」では、夫婦喧嘩の後に気持ちを落ち着かせるために吸っていました。「Romance&Cigarettes」ではセクシーに煙を吹いています。ところで、ウィンスレットは、プライベートでは子供のいる家では吸わないらしく、外出中に吸うらしいです。ちなみに、アカデミー受賞後はタバコは止めるつもりと言ってはいましたが、どうなんでしょうね(笑)。

 

ところで、映画の中で俳優が格好良くタバコを吸うのは、映画のスポンサーにタバコ会社がいて、タバコの宣伝のためにわざわざ吸わせていることが多いんだそうです。というのも、国によっては規制でタバコの宣伝ができないらしいので、替わりに映画の中で宣伝するんだそうです。もしかしたら、ウィンスレットもタバコ会社と契約しているのでしょうか?ただ、内容的にどうなんでしょう。例えば、「グッバイ・モロッコ」ではジュリア(=ウィンスレット)はお金が無くなって困ってしまい、やさぐれてタバコを吸っています(笑)。また、「レボリューショナリー・ロード」では夫婦喧嘩のあとに自宅の裏山で、やはり、やさぐれてタバコを吸ってました(笑)。かなり身体に悪そうな吸い方でした。さらに、「Romance&Cigarettes」では肺ガンの写真を背景に肺ガンを患ってゲホゲホ言いながら踊るダンスを披露していました(笑)。タバコの宣伝としては逆効果なんじゃないでしょうか(笑)。たしかに、ウィンスレットの喫煙はちょっと気になりますが、ただ、彼女に喫煙を注意するのは勇気がいります。以前、映画「タイタニック」の中で喫煙を注意した男性がいましたが、彼がどのような結末を向かえたかは周知の通りです(笑)。
Free Way-タバコ001 Free Way-タバコ002

 

さらに、自転車のシーンも多いです。パターンは二人で自転車を並行に走らせることが多いです。「乙女の祈り」、「日陰のふたり」、「アイリス」、「愛を読むひと」など二人で自転車を走らせています。 
 

それから、情感を込めて朗読するシーンもいくつかあります。「いつか晴れた日に」ではシェイクスピアの詩を朗読していますし、「日陰のふたり」では墓碑銘を読んでいます。「グッバイ・モロッコ」では翻訳を頼まれた詩を朗読しています。「Extras!」ではエッチ電話の一例を熱意を込めて読んでいます(笑)。また、歌を歌うシーンもあります。「乙女の祈り」でしっとりと歌っていますし、「いつか晴れた日に」ではピアノを弾きながら歌っています。「アイリス」では「The Lark in the Clear Air」をキレイに歌っています。ウィンスレットの朗読は非常に明確で力強いと思います。普通の会話でも彼女の英語は聞き取りやすいんじゃないでしょうか。 

ケイト・ウィンスレット その3

■「乙女の祈り」(原題「Hevenly Creater」) ピーター・ジャクソン監督(1994) 
この映画は1954年にニュージーランドで実際に起こった殺人事件を題材に作られた物語です。

 

■あらすじ

ポウリーンはニュージーランドの女子高生ですが、窮屈な学生生活にややうんざりしています。そんなある日、名門カンタベリー大学の新学長の娘ジュリエットが転校してきます。二人は周囲の普通の女子高生からは浮いたところがあり、また互いの共通点から、すぐに意気投合して親しくなります。

 

二人の共通点とは、1つはお互いに大きな病気を患った経験があることです。ポウリーンは幼い頃に脚の病気で長期間入院しており、今も脚に大きな傷跡が残っていますし、少し脚が不自由なところがあります。一方、ジュリエットも幼い頃に肺の病気で長期間入院しています。ジュリエットはこの入院中に両親と離ればなれになってしまって、かなり寂しい想いをしたようで、今でもそれが少しトラウマになっています。

 

もう1つの共通点は、二人はオペラ歌手のマリオ・ランザやハリウッドスターたちなど特定の音楽や美術をこよなく愛している点です。もしかしたら、ポウリーンはジュリエットに感化されたのがきっかけで、それらの趣味に走ったのかもしれませんが、いずれにしても、それらが好きであったことに違いはありません。彼女たちの趣味への憧れは、どんどん膨らんでいって、自分たちの好きな音楽や美術だけで作られた”第4の世界”を想像する至ります。彼女たちはキリスト教の天国よりもこの”第4の世界”に憧れるほどになります。

 

さらに、彼女たちは”ボロヴィニア王国”という中世風の架空の王国を創作して想像で楽しむようになります。王国の住人の像を作ったり、数世代に渡る王族の物語を創作したりします。そして、自分たちもその世界で王や王妃のような貴人となって自由気ままに振舞うこと-気に入らなければ領民を殺しまくったり、王家の夫婦生活を赤裸々らに描くなど-を想像して楽しみます。ジュリエットはデボラ、ポウリーンはジーナというようにボロヴィニア王国の登場人物の名前で互いを呼び合ったりするようにまでなります。そんな彼女たちの将来の夢は作家になって、ハリウッドに行くことでした。

 

ところで、ジュリエットは父は学者で地元の名門大の学長、母は結婚カウンセラーなど知的でアクティブな仕事をしており、お金持ちのエリート家族です。一方、ポウリーンは父は魚問屋のマネージャーで母は自宅の下宿を切り盛りしており、一般家庭です。家庭環境が大きく違う二人ですが、お互いに気が合うので仲良くなります。

 

そんなとき、ポウリーンとジュリエットは、ジュリエットの家族と一緒にバカンスに出かけます。ポウリーンも家族同然に仲良く遊んでいたのですが、ジュリエットの両親が学会で英国に行くため、当分、ジュリエットは一人ぼっちにされることが判明します。ジュリエットは幼い日のトラウマが甦ったのか、悲しみのあまり野山で一人泣き崩れてしまいます。心配したポウリーンが追いかけてきますが、ジュリエットの様子がいつもと違って変です。どうやら悲しみのあまり錯乱したジュリエットは幻覚を見ているようなのです。そして、不思議なことに、それが伝染したようにポウリーンにも同じ幻覚が見えるようになります。ついに二人は、二人だけの幻覚を共有するに至り、二人の親密度はさらに高まるのでした。

 

さらに、ある日、ジュリエットが肺病に倒れてしまいます。ジュリエットは結核に犯されており、療養所に長期入院することになります。その間、ジュリエットの両親は旅行で見舞いに行きませんでした。ポウリーンだけが手紙や見舞いなどジュリエットの心の支えになります。また、ポウリーンはこの間に下宿生と恋仲になりますが、下宿生とセックスしても全然気持ち良くはなく、むしろ、ジュリエットの面影が脳裏にちらつきます。ポウリーンにとってもジュリエットはかけがいのない存在であることが意識されます。そして、ジュリエットが退院するときには、ジュリエットは両親よりもポウリーンがかけがいのない存在になり、ポウリーンもジュリエットがかけがいのない存在になって、二人は互いに強く結びつきます。

 

そんな親密すぎる二人を見たジュリエットの父は、二人の同性愛を懸念してポウリーンの母親に働きかけて、ポウリーンを診察させます。診察の結果、ポウリーンに同性愛の傾向が見られるということで、ポウリーンの母親はポウリーンがジュリエットに会わないように厳しくします。ジュリエットが大好きなポウリーンは、次第に二人の仲を邪魔する母親が疎ましくなってゆきます。

 

そんなとき、ジュリエットの母親の不倫が発覚します。ジュリエットは深い悲しみに沈みますが、追い打ちをかけるように、両親の離婚が決まり、ジュリエットはひとり南アフリカの伯母の元に送られることが決まります。そのことを知ったポウリーンは自分もジュリエットについて行くと言い出しますが、母親が猛反対して許しませんでした。そのため、ジュリエットもポウリーンも互いに離れたくないばかりに激しく落ち込みます。二人のあまりの落ち込みようを心配した両親たちが二人で2週間ほど一緒に過ごせるようにします。二人はこの間に深く愛し合うようになり、ついには同性愛の関係まで結ぶようになります。そして、もう離れられないと感じたポウリーンは邪魔をする母親を殺すことを提案します。二人は母親を殺すことを決意して、殺害計画を立てます。

 

二人は計画通りにポウリーンの母親を誘って、ジュリエットとポウリーンの三人でハイキングに出かけます。そして、山中で二人は協力して、ポウリーンの母親をレンガで殴り殺したのでした…。

 

■悪の物語(*1)

この映画は”悪”を描いた物語です。”悪”と言っても、単なる”善悪の悪”ではありません。”制御できない力”、”枠には収まらずにはみ出してしまう荒ぶる過剰なエネルギー”としての悪を描いています。

 

通常、思春期の過剰なエネルギーは反抗期となって現れ、人それぞれに違った様々な人格形成に影響を及ぼしながら、最終的には、性にそのエネルギーを開放するようになると思います。

 

ところが、この二人の場合は、二人の強力な個性をもった乙女が偶然結びついたことで通常とは違ってきます。この二人はそのエネルギーのはけ口として妄想の世界を見つけ、ついには二人だけの世界を幻覚するに至ります。この二人だけの世界は二人だけに都合の良い世界なので、誰からも束縛を受けません。彼女たちはそこで自由に自分たちの欲求を開放します。その結果、大人たちの社会的な世界よりも自分たちの特殊な世界を正当なものと考え、母親殺しという突飛な暴走に至ったのだと思います。

 

■幻覚の世界と妄想の世界

興味深いのがジュリエットが幻覚を見る場面です。両親の学会旅行を知ったジュリエットは精神的な錯乱と過呼吸によって幻覚を見ます。過呼吸による幻覚は多くの事例があると思います。さらに面白いのは、ポウリーンまでがジュリエットに牽引されるように幻覚体験をするこです。人類学の調査報告によれば、夢見や幻覚を共有する事例は意外と多くあるようです。不思議なことに、シャーマンたちは、同じ場所で同時に眠ると、どちらかに引っ張られるように同じ風景・同じ場所の夢を見ることが多いらしいです。また、一般に体験的に知られている事例では、通常の覚醒した意識状態ですが、「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というように同じ対象に対して一人だけでなく複数の人が同じような幽霊の姿を見るように、同時にゲシュタルト崩壊を起こすのに似ています。

 

それから、上記した幻覚の世界とは別に彼女たちは妄想の世界を持っています。ボロヴィニア王国や第4の世界です。映画では、幻覚と妄想の区別が曖昧になってゆきますが、厳密には、幻覚と妄想は微妙に違うと思います。ですが、二人の「結びつきたい」という願望が強かったのでしょう、彼女たちの強い願望が妄想をよりリアルなもの、幻覚に近いものにまで高めたのだと思います。

 

まあ、とはいえ、これらの場面は映画で作られた話でしょうから、実際の彼女たちがこのような体験をしたかどうかは疑問です。ですが、よくできた話だと私は思います。

 

■同性愛への疑問

ところで、彼女たちを同性愛者と見る見方があるかもしれませんが、私はそれは少し違うと思います。彼女たちは最終的には同性愛関係に至りますが、いわゆるレズビアンかというと、そうではないんじゃないかと思います。なぜなら、彼女たちは、元々は理想の男性に恋焦がれていたからです。それが、周囲の反対が逆効果となって二人を強く結びつけ、ついには性への好奇心から同性愛関係に至ります。ですから、どちらかというと、レズビアンというよりは、互いを愛する表現として、最終的にセックスを選んだのだと思います。ですから、元々は、同性に性的欲求を感じるというものから発したのではなく、愛情表現のひとつとして、そのような関係になったと思います。なので、彼女たちの間に芽生えた愛は同性愛というよりは友愛に近いものだと思います。ただ、普通の友愛と違うのは、二人だけの幻覚と妄想の世界を共有した点です。二人だけの特別な世界を共有したことが、普通の友愛以上に強固な相愛へ二人を結びつけたのだと思います。(ただし、実在の二人は同性愛だったようです。)

 

それにしても、女の子同士でのハグやキスのスキンシップはキレイで良いなあって思いました。スキンシップをすることで相手の暖かみや存在を実感して愛情を確認しているようで、本当にいい感じです。

 

■演技について

この映画でジュリエット役を演じたケイト・ウィンスレットの演技が私はとても大好きです。

本当にこの映画の中のどの演技も味わい深くて好きなのですが、好きな場面をいくつか例として上げておきます。

 

①ジュリエットがポウリーンの足の傷を見る場面

ジュリエットが舐めるようにポウリーンの傷痕を見回して、大きな傷跡に背筋に寒気を感じながらも、興奮して目を細め、鼻を膨らませるのがとても良い感じです。


     ”Can I have another look? . . .That's so impressive!

      Can I touch it?  Woo. . . I've got scars . . . they're on my lungs.”

  

      見せてくれる?…すごい傷跡!

      触ってもいい? うう、凄い、…私にも傷があるのよ、肺にね。

 

ウィンスレットは元々こういう膨らんだ鼻なのですが、こういう場面では一層引き立ちます。

 

②ジュリエットがポウリーンの母親に悪態をつく場面

ポウリーンの母親が両親が旅行でいないジュリエットを気遣って「両親はあなたのためを思って入院させたんだから…」というのですが、ジュリエットは腹立てて、目を剥き、舌を突き出して悪態をつきます。

 

     They sent me off to the Bahamas "for the good of my health."

     They sent me to the Bay of bloody Islands "for the good of my health."

      バハマ諸島へ行かされたわ!体のためと言ってね!

      くそニュージランドのホークス湾へも行かされたわ!体のためと言ってね!
 

ジュリエットの怒りに歪んだ醜さがたまりません。

  

③仕返しのいたずらをして草むらで笑う場面

ジュリエットの豪邸でパーティが催されている場面。ポウリーンを同性愛と診察した医師が婦人を伴って庭の池にやってきます。そこへジュリエットたちが大きな石を投げ込んで大きな水しぶきを上げます。その水しぶきが医師のズボンを濡らしてしまいます。それを見て、野原の陰で歓喜するジュリエットとポウリーンの会話が最高です。
 

    ジュリエット”Direct hit! Gave his trousers a good soaking!

            (命中!ズボンが見事にずぶ濡れ!)

 

    ポウリーン”Everyone will think he's peed himself!”

            (みんな、彼がお漏らししたと思うでしょうね!)

 

    ジュリエット”HaーHaーー!!”
            (ハッハーーッ!)

  

ジュリエットが草むらの間で歯を剥き出しにして笑うのがたまりません。乙女というより、ただの悪ガキです(笑)。

 

④バスルームでポウリーンの悩みを笑い飛ばす場面

浴槽の中で向き合って座っている場面で、ポウリーンが悲しそうな表情で自分の置かれた窮状を訴えます。

 

    ポウリーン ”I think I'm going crazy”

            (私、頭が変になっちゃいそう…)

 

それに対して、ジュリエットが不敵な表情で余裕で次のように笑い飛ばします。

 

    ジュリエット”No, you're not, Gina, it's everybody else who is bonkers!”

            (そうじゃないわ、ジーナ。狂ってるのは連中よ!)

 

最後に、「フンッ!」と笑って吐き捨てるジュリエットの鼻息が最高です!!!

 

⑤母親をレンガで殴り殺す場面

ジュリエットがポウリーンからレンガを受け取って、ポウリーンの母親にレンガを打ちおろします。

そのときのジュリエットの悪魔的な醜さが何ともいえません。

 

他にも、ジュリエットとポウリーンが下着で森の中を歌い踊っていたら仕事中のおじさんに見つかる場面やジュリエットが弟に「あんたのオモチャを全部壊してやるから!」と言って舌と鼻を突き出す場面も好きです。他にも良い場面がたくさんあります。私的には、この映画全般のケイトの鼻がとても良い感じに思います。

 

■千変万化の変化

この映画の中で、ウィンスレットは千変万化の変化(へんげ)を見せます。野蛮人からお姫様まで多種多様な顔を変幻自在に見せる、まさに、変身です。そんな生き生きとした彼女の中に熱い生命の炎を感じます。特に、人が悪に燃えるとき、生命の炎は妖しく激しく煌めきます。

 

■まとめ

この事件をどう捉えるかは難しい問題です。おそらく、当時の彼女たちには罪の意識は希薄だったのではないかと思います。彼女たちから見れば、愛し合う二人の邪魔をする母親を単に排除したかったというのが理由だからです。当時の社会は同性愛は悪だったかもしれませんが、現代では特に同性愛そのものが悪というわけではないでしょう。二人からすれば、二人の愛を邪魔する者こそ悪だったに違いないでしょう。もっとも、殺されたポウリーンの母親が先頭に立って二人の邪魔をしていたわけでないので、誤解・妄想に基づく殺人であって、母親からすれば、迷惑千万な話です。ともかく、どんな理由であれ殺人は悪であるので、二人に重大な罪があることに変わりありません。ただ、悪意に基づく殺人ではなく、二人が強く愛し合うがゆえに起こった事件だけに、第三者から見れば、どこか煮え切らない割り切れない思いが残ります。

 

ただ、この映画自体は、特殊なケースではあるけれども、思春期の女の子の制御できないエネルギーの問題を扱っていると思います。彼女たちは幻覚と妄想を共有して、さらに、同性愛にまで目覚めます。他と違って彼女たちが特殊なところは、妄想の共有や同性愛だけでなく、幻覚まで共有できる点にあると思います。幻覚を共有できるのは、女性ゆえの強力なエネルギーがなせる業だと思います。

 

■注釈

(*1)この作品の他に悪を描いた映画には「時計じかけのオレンジ」があります。これは青年の暴力と性の暴走を描いた作品です。物語のベース自体は近未来の管理社会になっているのですが、表現の主体は暴力と性が描かれています。この映画での悪は青年の悪であり、それは性欲や暴力衝動という比較的シンプルな悪を描いています。一方、「乙女の祈り」では、幻視という女性の強力な精神力がもたらす精神的な暴走を描いているので、「時計じかけのオレンジ」のシンプルな暴力世界よりも、より豊かな悪の世界になっていると思います。もっとも、シンプルではあるけれども、恐ろしさという点では「時計じかけのオレンジ」に優る映画はないと思います。

 

また、近年では悪を描いた映画に「ダークナイト」(=バットマン)のジョーカーがあります。ジョーカーは秩序の純粋な破壊者足らんとしています。どういうことかというと、例えば「バットマン」に登場する怪人たちはいずれも心にトラウマを抱えています。怪人たちは、そのトラウマが元で心の歯車が狂って、反社会的な怪人となってしまっています。一方、怪人を取り締まるバットマン自身も実は様々なトラウマを心に抱えています。ただ、バットマンの場合は怪人たちと違って、トラウマから生じた反動を社会正義のために使っています。ですが、心にトラウマを抱えている点ではバットマンも怪人も同じです。(米国のアニメ版では、バットマンは相棒のロビンから人間味に欠けると指摘されて落ち込んでいました。実はバットマンは人間的に完全無欠な英雄でなくて、むしろ、人間として問題を多く抱えた人物なのです。)なので、バットマンも怪人も奇妙なコスチュームに身を包んでいるのだと思います。ところが、ジョーカーの場合は怪人たちやバットマンとは違っています。確かにジョーカーも醜い姿になったことがきっかけで怪人になってはいます。しかし、ジョーカーと他の怪人たちでは決定的な違いがあると思います。それは何かと言うと、まず、怪人たちの悪を別の言葉で言い換えると、怪人たちの悪は実は自分たちの別の正義に基づいていると言えると思います。つまり、バットマンの正義と怪人たちの別の正義のぶつかり合いが物語になっています。しかし、ジョーカーは違います。ジョーカーには別の正義はありません。というのも、怪人たちの悪である別の正義も実は普通の正義と同じく秩序のある世界だからです。正義の種類は異なっているけれど、どちらも彼らの正義=規則に基づいた秩序ある世界なのです。つまり、怪人たちは別の正義に基づいた秩序ある世界に生きています。しかし、ジョーカーは秩序そのものを破壊しようとします。ジョーカーには正義はもちろん、別の正義もありません。ジョーカーにあるのは、ただ秩序を破壊することだけです。ジョーカーの目指すものはカオスです。彼は秩序ある世界の純粋な破壊者たらんとしているのです。彼の名前の如く、トランプのジョーカーのように彼だけはバットマンや他の怪人たちとは次元を異にする別格になっています。自然世界にエントロピーの法則があるように、カオスに向かってゆくのが自然の摂理なのかもしれません。ジョーカーはそれを体現した存在なのかもしれません。ということは、社会秩序に収まるように心を抑制する私たちの方があるいは不自然なのかもしれません。ジョーカーのような破壊への衝動は本当は人間に自然に備わっていたものなのかもしれないのです。私たちの子供の頃がそうであったように、あるいは、詩人ランボーのように。確かに愉快犯は否定されねばなりませんが、その心を自分たちにはまったく無いものとして無理解に拒絶するとき、実は心が病んでいるのはジョーカーの側ではなく、私たち自身の心が自分でも気づかないうちに病んでしまっていることになるのかもしれません。ですから、悪は拒絶されねばなりませんが、悪を理解する心を失ってはいけないと思います。(これは人類学では道化論に近いと思います。ただ、悪の制御は容易ならざるものがあって、上記のように悪を秩序の枠組みに組み込むことなど不可能だとは思います。なお、世界最強の破壊者は道化です。)ちなみに、私はバットマンシリーズの中ではティム・バートン監督の「バットマン・リターンズ」が好きです。この作品では怪人の悪よりも人間の悪の方がよっぽど悪辣で厄介なものであることが描かれていますし、キャットウーマンの女性的な狂気や生命力が表現されていて好きです。バットマン自身も自分の二重性(=異常人格)に苦しんでいます。それにしても、そもそも、まったく狂気のないまともな人間というのはいるのでしょうか?むしろ、人間は狂気を抱えている存在なのではないでしょうか?人が胸を張って自分はまともだと主張するとき、実はバットマンに登場する怪人たちのように自分の正義を他人に押し付けるようなものなのかもしれません。

 

それから、さらに脱線ですが、悪女ではないけれど、ほんの少し悪を見せる映画に黒澤明監督の「わが青春に悔なし」があります。原節子演じる八木原幸枝が男友達に論争でやり込められた腹いせにまったく関係のない別の男友達に、理由もないのにいきなり土下座をさせるシーンがあります。「ねぇ、ねぇ、お願い。何でもいいから土下座して。ねぇったら!」と甘えるように言って男を無理矢理土下座させたときに、ゆらゆらと愉悦に浸る原節子の黒い笑みが浮かび上がってきます。しかし、すぐに我に返って土下座を止めさせます。黒澤監督が見事に描いた悪のゆらめきです。ちなみに、原節子の撮り方は小津安二郎より黒澤明の方が私は好きですし、その方が正しいんじゃないかと思っています。確かに小津安二郎の世界も嫌いではありませんが、原節子のような日本人離れした豪華で派手な美人は黒澤明のような線が太く印象の濃い力強い女性の役のほうが断然良いと思います。逆に小津安二郎の中の原節子はどこか押し込められて窮屈に感じます。下手をすると抑圧された女性になってしまいます。ですので、「わが青春に悔なし」の八木原幸枝や「白痴」のナスターシャ(=那須妙子)の方が原節子の生命力が十分に発揮されていて私は大好きです。今でも「白痴」の激しく燃える炎のような女性ナスターシャにピッタリな日本の女優は原節子を除いていないのではないかと思います。なお、この「白痴」のナスターシャも燃えさかる暖炉の中に10万ルーブリを投げ込んでしまうなど、彼女もまた制御できない悪、荒ぶる魂を抱えた女性なのだと思います。ナスターシャを刺し殺してしまうロゴージンも同様に荒ぶる魂を抱えていますが、ナスターシャとロゴージンの関係を見ても分かるように、ナスターシャの激しさの前ではロゴージンもかすんでしまいます。生命力の激しさでは、女性の方が圧倒的に強いと思います。ちなみに1958年のソ連版「白痴 」も私は大好きです。

 

(*2)余談ですが、私はこの映画を見て、やはりヨーロッパ人の精神文化の基層はキリスト教ではないのではないかと感じました。キリスト教は元々は西アジアで生まれた一神教の一種であって、ローマ帝国によって国教として広められましたが、その実、ヨーロッパ社会の底流にはもっとアニミスティックな宗教観が脈々と受け継がれているのではないかと感じました。映画の所々で見られる非キリスト教的な宗教的な感性があることに、アニミスティックな日本人としてちょっと親近感が持てました。

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