今崎順生個展
とてもクールな作品でした。車窓から見た雨のアスファルトのようなヴィジョンでした。高速でもスローでもない日常的なスピードから見た景色のように感じられました。雨や風の線がどこか現代社会の生を象徴しているように感じられました。ただ、出口の無い深刻ぶった暗さでもなく、かと言ってあっけらかんとした明るさでもない、しっかりとした大人びた力強い視線を感じました。現代社会を浮き足立った高速で駆け抜けるのでもなく、殺伐とした現実に弱く停止してしまうのでもない、大人のしっかりした足取りを感じました。例えば、同じモノクロでも水墨画と比べると、エッジの立った線、静謐さよりは悲愴さ、流麗さよりは透徹さを感じました。どこか知的なユダヤ的なモノクロを連想します。
そんな想像に浸るとき、ひとりのユダヤ人哲学者のことを思い出します。ジャック・デリダ です…。
彼もハイデガー に引き続いて神が死んだ後の哲学を模索しました。しかし、彼もまた言語による完全な形而上学の構築は不可能だと考えていたようです。
哲学は昨日死んだのだ。
ヘーゲルとかマルクス、あるいはニーチェとかハイデッガー以来息絶えているのだ。
そして現になおも、哲学はその死滅にむかってさ迷っているにちがいあるまい。
……
哲学はある日、歴史のなかで絶命したのだ。
(デリダ「暴力と形而上学」より抜粋)
このような認識から彼は、死を隠蔽してきたロゴス中心主義を批判して、解体 (=再構築・誤読)という戦略を実践します。解体は創造と破壊が表裏一体となった戦略でした。テキストを解体(=再構築)することで新しい可能性を創造すると同時に硬直した読解を揺さぶり、解体しました。結果、言葉の微分マシンのようなデリダは、形而上学を悉く砂粒まで解体することになりました。時々は砂粒が種子となって瓦礫となった哲学の土くれから新しい芽が芽吹く可能性(散種 )もあったかもしれません…。彼はまるで現代哲学のモーゼ でした。ロゴス中心主義からエクソダス(出エジプト)して、エルサレム(=完全形而上学)を目指して砂漠に人々を導いて行くような行為でした。ただ、ちょっと違うのは、約束の地エルサレムは見えることなく、ひたすら不毛な砂漠を突き進む解体ばかりでした。そんな、世界が砂に埋もれてもなおエジプトを捨て砂漠を突き進む悲愴なエクソダスを想像するとき、まるでデリダ自身の述懐であるかのような、次のような詩の一節を思い出します。
何に 向かって 彼は突進しないのか?
世界は消えうせている、私はおまえを担わなければならない。
(デリダ「雄羊」から パウル・ツェラン 「大きな、赤熱した穹窿」より抜粋)
一方、もう一人のユダヤ人哲学者レヴィナス を想起します。彼は根底に無限を持ち込もうとしたようです。主著「全体性と無限」や「存在の彼方へ」を著しますが、難しいことはよく分かりませんが、同心円を描いて中心や外周に無限や無を据えたエーン・ソーフをモデルにしているように感じてしまいます。彼は、まるで幾重にも円周を重ねて無限のスパイラルを描くように、ひたすら思想や倫理を持続して説いてゆきます。レヴィナスは完全な形而上学を構築するというよりは、「砂嵐のような文体」でユダヤ教的思想を無限の回廊を歩むように実践・展開・持続することに意味を見出したように思います。次のような言葉を思い出します。
思考の円環を完成できると確信していたヘーゲルのごとき総合の天才なら、
このような楽観論に身を委ねることもできよう。
……
つまり哲学的言説が閉鎖しうる可能性についても考えてみなければならないのではなかろうか。
中断、それが哲学的言説にとって可能な唯一の終末ではなかろうか。
……
ヘーゲルの企てさえ、"現実"を囲い込むことができると思い上がっている無思慮を免れてはいない。
(レヴィナス「存在の彼方へ」便概より抜粋)
そんなレヴィナスに対して、デリダは最終的な問いを投げかけます。
「われわれは、ギリシャ人か?ユダヤ人か?」
(デリダ「暴力と形而上学」より抜粋)
それにしても、この2人の人間離れした無限運動のような、でも決して単調ではない、根気強い哲学的アプローチには驚嘆してしまいます。そして、デリダの解体戦略は多くの種子を砂漠に撒き散らしましたし、レヴィナスの不断の哲学道的歩みも渦巻くように伝播しました。彼らの撒いた種子が、本人たちの想像を遥かに超えて、まったく新しい可能性として、いつか芽吹く日が来るのかもしれません。種子たちは、今はただ、その時が来るのを殻の中で息をひそめて待っているのかもしれません…。
しかし、神も哲学も失くしてしまい、ニーチェ の提示した問題が残ってしまいました。現代に至っては、ニヒリズム やルサンチマン などが、私たちの精神を奥深くまで侵食しているかもしれません…。でも、西洋哲学の死を見つめ続けてきたデリダは言います。
この、哲学の死とか死の運命の彼方で、
あるいはたぶんまさにその死とか死の運命のおかげで、
思考には未来があるのだ。
(デリダ「暴力と形而上学」より抜粋)
もしかしたら、これらの作品で描かれている道の先のように、未来があるのかもしれない。
そんな想像をしながら、この作品を見つめていました…。
倉岡一誠展 ROCKET
白い丸いタイルをテクスチャに赤紫っぽい色で所々を染めた作品でした。何かの痕跡のように感じました。霊的な何かが通った痕跡、あるいは、まったく逆に、バスルームを連想するタイルで何かが殺された血痕のようにも感じました。そんなことを想像していたら、”神の死”について朦朧と妄想していました…。
近代の始まりにニーチェ は「神は死んだ」と宣言しました。それは、産業革命によって列車で通勤して工場で働くといった近代社会が始まって、当時の人たちも今の私たちと同じように神を信じなくなったり、必要としなくなったりしたからだと思います。(これは日本に当てはめると「自然は死んだ」と言うのと等しいかもしれません。)人々の心から神(=自然)への畏敬の念が消えてしまったことで、この時代の人たちのメンタリティが過去の人たちと比べて大きく変わったようにニーチェには感じられたのかもしれません。そんなとき、次のような詩を想起します。
氷の心を持つ偽善者ら、神々を利用してその名を口に乗せるな!
君らは悟性は持つだろう、だが太陽神の存在を信じることはない、
雷神も、ましてや海の神にいたっては。
大地が死ぬとき、誰が死の大地に感謝しよう?
心安んじあれ 神々よ! あなたがたはそれでも歌を飾ってくれる、
たとえあなたがたの名前から 魂が姿を消してしまったときですら、
さらに偉大な言葉が必要と言うのなら、
母なる自然よ! あたなを想い見るだけでよいのだ。
(ヘルダーリン 「偽善の詩人たち」より抜粋)
神々と歌ったりして汎神論 云々と論じてみたくなるかもしれません。でも、ヘルダーリンを好んだ哲学者ハイデガー は彼の詩を宗教や哲学で解釈することを拒みます。解釈するのではなく、心で感じることを重視したようです。(どこか本居宣長が漢籍や仏典の知識で解釈することを戒める「もののあわれ」を説くのに似ています。)ハイデガーは人々からこういった詩を心の奥深くで感じて理解する心が失われてしまうのではないか、人々が表面上は敬虔であっても内面は「氷の心を持つ偽善者」になってしまうと考えたのかもしれません。だから、解釈してうわべの説明に安んずるよりも感じることを重んじたのかもしれません。
しかし一方で、ハイデガーは神が死んだ後の哲学を考えたようです。当時の哲学はほとんど神を土台に据えていたので、これからは神無しで哲学を再構築しなければならないと考えたのでしょうね。なので、まったく神が登場しない哲学を再構築しようとしたのだと思います。そこで、まず、根本的な事柄、”存在”を再度考え直そうとしたのでしょう。それまでは、「存在=神」でしたが、神が死んでしまった今、存在を再定義しなければならなくなったようです。そして、「存在と時間 」を考えましたが、神無しでの哲学の再構築はうまく行かなかったようで、主著「存在と時間」は未完に終わります。ハイデガーは存在について考えているうちに、次第に形而上学に対して微妙な不信を抱いていったように思います。「言葉は存在の家である」と言うほどにハイデガーは言葉を信じ愛していたのですが、言葉で形而上学を完全には構築できないのではないかと感じていったのではないでしょうか。「ある=存在する」という言い回しが複雑にしていますが、語りえぬことを語る詩を愛したハイデガーの次のような言葉が思い出されます。
展示されている芸術作品とはいったい何であるのかという、
講演で提起した問いは、まだ全面的に納得できるほど明らかでないように思えます。
この問いの背後には、そもそも芸術作品はあるのか、という問いが潜んでいないでしょうか。
それとも、芸術は、形而上学ともども崩れてゆくのでしょうか。
(ハイデガー 弟子ペツェット宛手紙より抜粋)
ちなみに、禅 では「言無展事」といって、言葉は存在をあるがままにすべてを表現することはできないと言い切っています。不立文字というように言語に対する力強い不信がそこにはあります…。
さて、ニーチェのいう神が死んでしまったのは何となく納得できます。でも、私たち日本人にとって、現代においてもなお自然は死んでいません。ただ、ここでいう自然は神と似たようなカテゴリにある言葉のようにも思います。今なお生き続けている自然と日本人の無意識はとても深いところで繋がっているようです。というのも、たとえ、存在が謎に包まれていても、自然と切り離されて文明社会で生きていても、経済活動に思考も行動も束縛されていても、今なお自然が語りかける声を聞くことができるからです。それは、得体の知れない何かに対して私たちの心が開かれているからだと思うのです。コンピュータのようなロゴス中心主義的な二元思考だけではない、非論理的な思考ならざる思考回路が開かれている、そんな気がします。
東島毅展
「東島毅展
」(岡山県立美術館)を鑑賞しました。
深い紺青の宇宙空間に光が走ります。この光は生命の光、粘りのある光のように感じられます。この光には意志の力を感じます。これはインド哲学でいうところのプラーナ
なのかもしれません。ジェームズ・タレル
や島村敏明
などの光の探求者を思い出します。
この光からは、この宇宙に生み落とされた光が外へ外へと伸びゆこうとしているように感じられます。まるで生命の光にも似ているように感じられます。個体の遺伝情報を背負った生殖細胞は、性行為によって受胎して爆発的な細胞分裂を展開して、新たな個体へと成長してゆきます。そこでは物質に閉じ込められた光が物質を所狭しと外へ外へと伸び開こうとしているように感じられます。そのとき、光は物質を巻き込みながら組織化して個体として成長してゆく、そんな風に感じたりします。そんな想像をするとき、ここに描かれた光には物質性を離れた生命本来の純粋清浄な光のように感じます。
あるいは、夢の中で見る心や存在の本質の光のようにも感じます。それは、どこかで外宇宙へと繋がっているかもしれない内宇宙の闇の中に浮かぶ光陰のようにも感じます。
さらに、紺青の闇の中から光の文字が浮かび上がってくるヴィジョンからは、次のような空海
の真言哲学
の言葉を思い出します。
五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり
(空海「声字実相義」より抜粋)
存在の無底の底から顕現する法身説法や「存在はコトバである」という果分可説な真言の深秘を想像してしまいます…。
また一方で、存在の根底の場であるような紺青の宇宙空間からカバラ
の存在停止の闇を想起したりもします。
神は闇をもて己れの隠処となし給う。
まわりを取り巻くは、深き水の暗さと大空の密雲のみ。
(「旧約聖書 詩篇18篇11節」より)
カバラでは、この存在停止の闇は”光り輝く暗黒”という内的光に充ちているといいます。そして、この目眩む闇である内的光エーン・ソーフの中から一滴の光の雫、原初の一点を滴らせてセフィーロート
が展開してゆくといいます…。どこか次のようなボルヘス
の言葉を思い出したりします。
あるペルシア人は神性を表すために、ある意味で全ての鳥である一羽の鳥について語っている。
リールのアランは、中心がいたるところにあって円周がどこにもない球体について語り、
エゼキエルは、同時に東西南北を向いている四つの顔を持つ天使について語っている。
……
その途方もなく大きな瞬間において、私は心楽しい、
あるいはぞっとするほどの恐ろしい何百万という行為を目にした。
しかし、何よりも驚いたのは、すべてが重なり合うことも、透明になることもなく
ひとつの点に収まっているということであった。私はすべてを同時に見た。
言語は継起的なものなので、私がここに書き写すものもそうならざるをえないが、
それでも多少はとらえることができるだろう。
……
エル・アレフの直径は2、3センチメートルだったと思うが、
その中に宇宙空間がそのままの大きさですっぽり収まっていた。
一つ一つの事物が(いわば鏡面のように)無限になっていた。
というのも、私は宇宙のあらゆる視点からそれをはっきり見ていたからだった。
私は大勢の人でごった返している海を見た、夜明けと黄昏を見た、
アメリカの群集を見た、黒いピラミッドの中心にある銀色のクモの巣を見た、
壊れた迷宮を見た、鏡を覗き込むように私の様子を窺っている無数の目を間近に見た、
地球上のすべての鏡を見たが、そのどれにも私は映っていなかった、
……
あらゆる角度からエル・アレフを見た、エル・アレフの中の地球を、
ふたたび地球の中のエル・アレフを、エル・アレフの中に地球を見た、
自分の顔と内臓を見た、君の顔を見た、私はめまいを覚え、泣いた、
というのも私の目は人間によってその名を不当にも奪われはしたが、
誰一人実際に見た人のいない秘められた推測上の物体、
すなわち想像もつかない宇宙を見たのだ。
私は限りない崇拝の念、限りない哀れみを感じた。
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「エル・アレフ」より抜粋)
また、これらの紺青は、岡野玲子の「陰陽師 第11巻白虎」やイブ・クラインらの青にも通じるような気がします。
さてさて、このように「東島毅展」からは、言葉を覚える以前の遠い昔に忘れてしまった存在の根源の場に出会える、そんな貴重な体験を感じさせてくれる展覧会でした。
第12回大朗読
「第12回大朗読」 を鑑賞しました。
加藤 健次
詩の朗読会でこれほどまで充実した朗読会は今までにないのではないでしょうか。詩の朗読というのは、けっこう聴く側も疲れるものですが、この朗読会では疲れることがありませんでした。こんなことはとても珍しいと思います。それは言葉の力で、ありありとした新しい世界を現出させたからだと思うのです。
以下、感想です。
郡さんの詩は殺伐とした現代の文明社会での生活(その象徴としてのサラリーマン)と森の奥深くというメタなリアリズムを感じました。一瞬、ハードボイルドかもと思ったりしましたが、そうではなくて、自分自身もクリティックする、究極の批判精神を目指しているように感じました。私小説のように正面から飽くなき内面への探求を目指した日本の自然主義にも似た、自分自身にも向けられる例外なき批判精神がなせる言葉のように感じられました。
ユキオさんの詩はエロティックでした。性を自然な営みなどとして礼賛するのでもなく、また、逆に否定するわけでもなく、現代の性を有り様のままに受け入れて表現しているように感じられました。(ちょっとフェミニズムが入っていましたが。)資本主義社会では、基本的に欲望を抑圧するものはなく、お金さえあれば、人々の多様な欲望に応えられるようにシステムが構築されようとしています。むしろ、宣伝広告などで欲望を煽ってどんどん拡大させようとさえしています。社会システムはどんどんシステム強化されて、人間は家畜化されていっているように感じられます。そこでは、性はエンジョイされる娯楽になっているやもしれません。ユキオさんの詩からは、娯楽や退廃に至る前の抑圧時代の、あるいは、抑圧すら娯楽化した、抑圧された性の快楽が感じられました。抑圧された性を解放する時代では、過激な性表現は称揚されたとは思います。でも、今は欲望を拡大する資本主義社会の時代…。時代には合っているのかもしれません…。(対照的にイスラム社会はとても禁欲的です。)個人的には、世の中、禁欲的であってほしいです。
加藤さんの詩は言葉へのフェティッシュを感じました。3人でパートを分けて朗読されました。言葉の断片たちがそれぞれ生命を持っているかのように感じられました。詩人の言葉への高感度な感受性がなせる詩なのだろうなあと思いました。
東井さんの詩は「クソ!」の詩でした。ビル・エヴァンス を知らなかったのですが、圧巻でした!今年、聞いた朗読の中で最高の詩のひとつでした!現実と本質!フィクショナルな言葉たちによって、日常が剥ぎ取られて、そして、むき出しのリアルや本質が見えたように感じられました!こういう作品を創作して表現できるというのは、驚愕で絶句しました!圧倒されました!
秋山先生の詩は輪廻や祖霊や金に関する詩のように感じられました。六条御息所 は好きなので、そのくだりは良かったです。語彙がとても豊富でした。
岩本さんの詩は戦艦大和を題材にした詩でした。プロジェクターの映像をバックにした朗読でした。弟が兄亡き後、兄の嫁と結婚するくだりが、リアルを感じました。
飛び入り朗読も皆さんレベルが高く、驚きました。以前は飛び入りは素人参加に感じましたが、何だか皆さん玄人に見えました。中には素人ならではのエネルギッシュな表現もありました。修行時代の素晴らしさです!
全体として、冒頭にも書きましたが、全然飽きさせない、あっという間の2時間でした。このクオリティの高さは驚きです。若者の朗読詩人たちよりも斬新だったりしますし、技巧は円熟していて聴く者に見事な効果を感じさせます。他県の朗読会を知らないのでわかりませんが、全国的にもかなりトップレベルな朗読会ではないかと思います。
mimucus 2006.12
「mimucus 2006.12 」を鑑賞しました。
ホムラさんはCDによるBGM付きで地獄系朗読詩を詠まれました。BGMがあると効果が倍加されます。この日はホムラさんファンの女性2名が来られていましたが、容赦なく地獄系朗読詩を3連発でした。空太郎君は即興詩で各々の観客からキーワードを1個ずつ貰って、それを元に即興をされました。ゴビ砂漠でインド人教師が赤ペン先生するようなイメージでした。岩本さんは生命史の詩でした。へい太さんは蝶の詩でした。郡さんの詩では処女性という言葉が印象に残りました。忍冬三和さんは「さざんか讃歌」を朗読されました。どこか岸田今日子に似た耳に心地よい柔らかな朗読でした。倉臼さんは俳句「萱草」 と「詩人会議」に掲載されている教育基本法改悪を歌った詩を朗読されました。教育基本法の詩は辛辣でしたが、まんざらでもないように感じられました。倉臼さんの背後に座っておられたへい太さんが印象的でした。
朗読会後、倉臼さんに無理を言って、倉臼ヒロ句集「萱草」
を貰いました。B6サイズで1頁1句の全部で10句の潔い冊子でした。植物や動物や生き物ではない物などの自然が、独人の心の弦を弾いて奏でられる音色のような言の葉たちでした。全然気取ったところがない、読み手の自我を感じない、自然(じねん)のような言葉でした。
さて、mimucusですが、とりあえず、次回はあるようです。ただし、場所が禁酒会館から変わるようです。それに、次回はあるけど、その次はどうなるか分からないようです。ただ、原点回帰や2部構成案など大幅に模様替えするようです。何かが起こるかもしれない期待と不安で楽しみです。
それにしても、禁酒会館とは今回でお別れです。
振り返れば、いろいろな出会いや思い出がある禁酒会館でした。
始まりがあるものには終わりがある、のかもしれませんね・・・。
多くの若き表現者を生み出した禁酒会館時代が静かに幕を下ろしたようです。
ラヂオスター
ラヂオスター は、思い出の地、青春の場所です。
多くの若いアーティストやクリエイターたちがこの場所を通過していきました。そして、この店のカウンターで一晩の停泊を得て、心の会話、魂の対話が交わされたりしました。
H.Tもまたそのひとりでした。みんなで楽しく語り合ったカウンター…。彼はここの泡盛が大好きでした。船津さんをリスペクトしていました。あの夜は、スギさんのパンの詩が流れていました。あの時の僕たちは、本当に何ひとつ持っていませんでした。ただ、この暗い夜道の先に未来だけが待っていると思っていました・・・。深夜、僕たちは、吐く息も白い中で約束を交わして、それぞれの道に向かって別れていきました。最後に振り返ると、彼の後姿が夜の闇の中に消えていくのが見えました・・・。
H.Tのような舞台の表現者は、どこかツァラトゥストラ を想起します。圧倒的な孤独の中で、”竿頭を一歩前進”と断崖絶壁からダイブするような、絶体絶命の、危険な集中力で生命を燃やし尽くすような表現です。
そんなことを思い出すとき、次のようなニーチェ の詩を想起します。
あのように死のう
かつてわたしが見た彼の死にざまのように
彼はわたしの暗い青春に神々しくも
稲妻とまなざしを投げた友だった。
気ままで深く
戦闘のなかでは舞踏者
戦士のあいだにあっては最も心の軽い者
勝利者のあいだにあっては最も心の重い者
自分の運命の上にひとつの運命として立ち
きびしく、深く過去を考え、あらかじめ未来を考え
自分が勝ったということにおののき
死をもって勝利を得たことに歓呼し
死にのぞんで命令し
その命令は絶滅すべしということだった・・・・・・
あのように死のう
かつてわたしが見た彼の死にざまのように
歌いながら、絶滅しながら・・・・・・
(ニーチェ詩集「ディオニソス頌歌」から 「最後の意志」より)
今日のような夜は、店の外がひっそりと静まりかえり、吐く息も白かった、あの夜を思い出します…。
宵の明星がそっと出て大草原にきらめく光を落としているにちがいない。
宵の明星が輝くのは、大地を祝福し、あらゆる川を闇で包み、
峰々を覆って最後に海岸を覆う完全な夜の到来のちょっと前なのだ。
そして、誰もが、みすぼらしく年をとるということのほかに誰に何が起こるか分からないのだ。
そして、ぼくはディーン・モリアーティのことを考えるのだ。
(ジャック・ケルアック 「路上 - On the Road - 」より)
地中美術館 in 直島
「地中美術館」 in 直島 を鑑賞しました。また、家プロジェクトやベネッセハウスも鑑賞しました。
地中美術館は、地下核シェルター型神殿のような美術館でした。内容は、クロード・モネ 、ウォルター・デ・マリア、そして、ジェームズ・タレル の作品たちでした。また、美術館そのものは、安藤忠雄 の設計でした。また、家プロジェクトでは、宮島達男 (角屋)、杉本博司(護王神社)、ジェームズ・タレル(南寺)、さらに、STANDARD2では、大竹伸朗 (はいしゃ)、千住博 (石橋)、須田悦弘(碁会所)を鑑賞しました。ただ、残念ながら、内藤礼 (きんざ)は要予約のため、鑑賞できませんでした。最後に草間彌生 の灯台に展示されている黄色いカボチャ「南瓜 1994-2005」を鑑賞しました。
いずれも傑作ぞろいのアートたちでした。特にジェームズ・タレルの不思議な光の体験「南寺」「バックサイド・オブ・ザ・ムーン」、ウォルター・デ・マリアの現代の神殿「タイム/タイムレス/ノー・タイム」は圧巻でした。モネの「睡蓮の池」も素晴らしい体験でした。千住博の滝も息を飲む素晴らしさでした。杉本博司の護王神社では、子供の頃、よく遊んだ神社の感覚が思い出されました。奥の院を恐る恐るのぞき見るような、秘められたものを見るような感じでした。宮島達男の角屋では、夜空の星のように、水の中での数字の瞬きでした。
そんな数を想像するとき、数学者カントール の無限への挑戦を想起してしまいます。カントールは無限にも種類があることを発見したようです。自然数の無限と実数の無限では、ともに個数は無限にあるけれど、濃度 が異なるようです。例えば、1から10までの中で自然数は10個ありますが、実数は10個以上のもっと多くの実数が存在します。このように無限にも種類があるようです。
そして、カントールは無限を捉えようとして、連続体仮説 に辿り着きます。
しかし、マトリックスのようなべき集合 で構成されたこの仮説の真偽はわかりませんでした。カントールの挑戦は前進を許されず、次第に疲弊して精神を蝕んでいったようです・・・。そんな苦闘に喘いでいながらも、カントールはいいます。
数学の本質は、その自由性にある。
禁忌とされた無限に果敢に挑んだカントール。彼は無限の彼方にどのような数学を見ていたのでしょうか・・・。
そして、カントールの対角線論法を用いて、ゲーデル が不完全性定理 という、数学や知性を根底から覆した、恐ろしく革命的な結論を導き出します・・・。
数学が無矛盾である限り、数学は自己の無矛盾性を自分では証明できない。
(不完全性定理より)
「”クレタ人は嘘つきだ”とクレタ人が言った」というような自己言及型パラドックス
が容易に導かれます。そして、晩年、ゲーデルは、神の存在証明を完成させながら、餓死してゆきます…。
それにしても、いったい、有限な数直線0から1の間に実数はどのように無限個存在するのでしょうか。そんな想像をするとき、存在論としてのキリスト教の三位一体論 を想像してしまいます。三位一体は父と子と聖霊で構成されていますが、数の存在も同様なモデルな気がします。それは、0と1と間の3つで構成されているような気がします。数の存在には、0と1だけでなく、間(はざま)を必要とすると感じられます。間とは、存在を意識して初めて浮上してくるような中間的・霊的な存在です。しかし、間は顕在化した途端、例えば、0と1の中間値0.5として存在した瞬間消え去ってしまい、今度は0と0.5の間(あるいは0.5と1の間)になってしまうように思います。間は表立って顕れてくることのない、まるで聖霊や天使として表現されるような、隠されたモノ、秘められたモノ、秘数として存在しているようなモノ、そんな感じがします。(龍樹 の中観哲学 にも同様な構造を感じます。)
また、これは認識に関わる言語活動だけでなく、生命活動にも関わっているように感じます。生命体は自己と外部を分け隔てています。生命体は食物を取り込み、自身の一部として構成したり、エネルギーとして消費したり、不要な外部として排出したりするなど、まるで内と外を区別する二元論的・言語的知性のような働きを動物も植物も細胞も営んでいるように思います。言語活動も生命活動も本質的には同じ活動に感じられます。このように、言語にとどまらず、私たち生命の存在そのものにも、このモデルは深く関わっているように思えます・・・。そして、間を介して無限を自らに内包し、無限に触れているようにも思うのです・・・。
さて、無限は今のところ数学的知性ではダイレクトには捉えられないのかもしれません。あるいは、喩えていえば、ソラリスのような、人間には遠く及ばない超知性でなければ捉えることができないのかもしれません。しかし、詩的言語によって直感的に捉えることが可能なのかもしれない、そんな可能性をこの展覧会から、かいま見たような気がしました。
(未来では、人間ではなく、コンピュータ=人工知能が無限の鍵を握っているかもしれませんが・・・。)
デジタルミュージアム
「岡山市デジタルミュージアム 」を鑑賞しました。
岡山市の地図型情報マトリックスや文化財・自然物などをリアルとヴァーチャルに展示したミュージアムでした。また、香りを発生する装置や情報を編集できるメディアラボなど、コンピュータの優れた設備が用意されてありました。
3Dと音響震動を体感できる装置が楽しめました。3D映像などは、古来の密教行者の観想もあのようなものだったかもしれないと想像しました。また、草間彌生
の無限に展開する万華鏡を思い出したりしました。
そんな無限展開を想像するとき、プラトン の後継者プロティノス の次のような言葉を想起します。
あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮るものは何一つない。
あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。
ひとつ一つのものが、どれも己れの内部に一切のものを包蔵しており、
同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る。
だから、至るところに一切があり、一切が一切であり、
ひとつ一つのものが、即、一切なのであって、
燦然たるその光輝は際涯を知らぬ。
ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。
太陽がそのまますべての星々であり、ひとつ一つの星、それぞれが太陽。
ものは各々自分の特異によって判然と他から区別されておりながら、
しかもすべてが互いに他のなかに映現している。
(プロティノス「エンネアデス」より抜粋)
千峰万峰を足下に見渡すような、華厳哲学
の海印三昧のようです。(また、”即”な様は、障礙のない融通無礙な事事無礙のようです。ガロア
の群論
にも通じるように感じられます。)
あるいは、数式でイメージすると、何となく次式①のような展開される無限級数(あるいは超越数や循環小数)を感じます。
(展開式:
) (参考
)
このように1(あるいは、自然数)には、2つの表現があるように感じられます。また、①式から②式が導かれ、零もまた2つの表現があるように感じられます。それは、無や空と2つに表現されたように、働きのある無と働きのない無のような2つをイメージしたりします。(また、”色即是空、空即是色”などもこれに近いような気もします。)
また、老子 の次のような言葉を想起します。
常無欲、以て其の妙を観、
常有欲、以てその徼を見る
(「老子」より抜粋)
何というか、複眼の士・老子が見るような、一切皆空・廓然無聖の後に性起する真空妙有のようです…。
また、こんなデジタルな数の想像をするとき、超意味言語ザーウミを提唱した詩人フレーブニコフ の次のような言葉が思い出されたりします。
すると不意にわかった、時間はない、と。
鷲の如く翼の上に持ち上げられ、僕はたちまちにして見た。
かつて何があり、やがて何が起こるか、を。
世界の鉄の剥製のなかに
2と3のバネを見たのだ。
数たちのはずむ会話を。
(フレーブニコフ「運命の板」より)
さてさて、そんなデジタルミュージアムは、古代の直感とデジタルな感性が結びつく、未来的かつ古代的な素敵な空間です。
すりこぎ
「すりこぎ」
ひいばあさまが嫁いできた時から
我が家にある
すりこぎ
私の腕ほどの太さの
すりこぎ
ほどよくしなって
先へ行くほど徐々に太くなって
力が入る
すりばちは すりこぎに見合った大きさで
我が家でごま味噌を作るときは
台所の板の間に座布団を敷き
そこに座って両の足ですりばちをしっかりかかえ
全身に力を込めて挑むのである
ずりずりずりずり
ぷちぷちぷちぷち
ずりずりずりずり
ぷちぷちぷちぷち
味噌を入れる
にょりにょりにょりにょり
ずりずりずりずり
にょりにょりにょりにょり
ずりずりずりずり・・・・・・ず
すりこぎのはじっこについた
できかけのごま味噌 味見
「味噌、もうちょっと」
にゅりにゅりにゅりにゅり
にゅりにゅりにゅりにゅり
にゅりにゅりにゅりにゅり
にゅりにゅりにゅりにゅり
できあがったごま味噌を
香ばしいごま味噌を
ゴムベラでこそげ落とす
すりばちの上の方に付いてしまった
ごま味噌をこそげ落とす
すりこぎに付いた
ごま味噌をこそげ落とす
と、すりこぎが新しい顔を見せる
ひいばあさま
ばあさま
かあさま
わたし
四代分すり減った
すりこぎ
そのすり減った分だけ
すりこぎは
私の身体の一部になっているのだ
すられ
洗われ
日干しにされ
またすられ続けて短くなって
そのたびに新しい
すりこぎ
ひいばあさまの
ばあさまの
かあさまの
わたしの
人生
トモコさん
トモコさんは富山在住の詩人です。
しかしながら岡山での活動も多く、Okayama poetry night、mimucusなどの朗読イベントへの参加、自主制作映画への詩の提供など、幅広く活躍されています。
彼女のブログ「花を摘みながら歩こう」
は、ぐいぐい読める優れたエッセイ集です。
トモコさんの詩はいつも平明な言葉で語りかけてきます。私が彼女の詩から感じるのは、力強さと切実さ。
触れようにも触れられない
形のない魂を抱きたい
もしもそれが叶うなら
君の胸にメスを入れたい
君も僕のこの胸を切り開いてくれないか
魂で抱き合いたいんだ
(合同詩集「デスペラード3」より「今夜すべての魂が」)
寺山修司 は見るためにまぶたを裂こうと詠ったのでした。剃刀の刃には地平が映った。心の中でかまえたメスには何が映るのか。この詩には風景は一切描かれていません。もっと言えば、行為以前の願望だけが書かれている。語り手の彼には「君」以外を見る余裕などないのです。彼はひたすら、君・君・君と「君」への思いをたたみかける。トモコさんの詩の中にはときどき、世界のもどかしさに歯ぎしりする十代の少年が住んでいます。
詩集に友人と共同発行した詩集「デスペラード」があります。
このブログでは、詩作品「すりこぎ」 を掲載しています。