『朗読者』を読む その1
ベルンハルト・シュリンクの小説『朗読者』を読みました。たいへん面白かったです。
そこで、この作品について私なりの解釈・感想を書いてみようと思います。ただし、完全にネタバレ全開で書きますので、小説を未読の方はこの記事を読まないようにして下さい。必ず、小説を一読後に記事を読むようにして下さいね。なお、テキストのページ数は新潮文庫版を使います。
まず、解釈に入る前にあらすじを書いておきます。書いてみたら長くなったので、あらすじというより要約かもしれませんが、小説を既読のひとは読み飛ばしても構いません。
■あらすじ
第1部
15才の少年ミヒャエルは、ある日、下校の途中に急に気分が悪くなって吐いてしまいます。そして、苦しくて、その場にへたり込んでしまいます。偶然、そこを通りかかったハンナがミヒャエルを介抱してくれてます。ハンナは泣き出してしまったミヒャエルを「坊や」と言って抱き締めてなだめ、家まで送ります。実はこのときミヒャエルは黄疸に罹ったのでした。約5ヶ月後、病気が治ったミヒャエルは助けてもらったお礼にハンナを訪ねます。ハンナの家でミヒャエルは型通りのお礼を終えて帰ろうとしますが、ハンナから自分も外出するので一緒に家を出ようと言われ、ハンナが着替えるのを待つことになります。ところが、ミヒャエルはハンナの着替えを偶然覗いてしまいます。ミヒャエルはハンナの着替え姿に見入ってしまいますが、ハンナに気づかれてしまい、気まずくなったミヒャエルは慌ててハンナの家を飛び出します。
ミヒャエルはハンナのことが忘れられず、どうして良いのかも分からぬまま、一週間後、再びハンナの家を訪ねます。ハンナは留守だったので、ミヒャエルは家の前でハンナを待つことにします。すると仕事から帰ってきたハンナが階下からコークスを運んで上がってきました。突然のミヒャエルの訪問でしたが、ハンナは特に驚いた様子も見せずにミヒャエルに残りのコークス運びを指示します。ミヒャエルは言われた通りコークスを運びますが、炭で全身真っ黒になってしまいます。ハンナは汚れたままでは家に帰せないと言って、炭を落とすためにミヒャエルにお風呂を浴びさせることにします。ミヒャエルは服を脱ぐのを恥ずかしがりますが、ハンナが気づかってミヒャエルの裸を見ないようにしてお風呂に入れます。ミヒャエルがお風呂から出ようとしたとき、お互いが見えないようにハンナがバスタオルを広げて持って来て、ミヒャエルをバスタオルですっぽり包みます。ところが、次の瞬間、ハンナはバスタオルを足元に落とします。そして、いつの間にか全裸になっていたハンナは「このために来たんでしょ!」と言ってミヒャエルを抱きしめます。こうしてハンナとミヒャエルの関係が始まります…。
この次の日からミヒャエルは病気で休んでいた学校に再び通い始めますが、最後の授業をサボってはハンナと会って逢瀬を重ねるようになります。何度か逢瀬を重ねた頃、ミヒャエルはハンナの名前を尋ねます。一瞬、ハンナは名前を尋ねられたことに戸惑います。しかし、恋人同士なら当然ということで、次第にお互いのことを話すようになります。次にミヒャエルの勉強に話が及びますが、勉強をサボっているので自分は落第するだろうとミヒャエルが言うと、ハンナは急に不機嫌になって勉強の大切さを説いて、今後は勉強することを条件にミヒャエルが訪ねてくることを許します。
その翌日、ハンナとの会話で学校の勉強に話が及んだとき、今読んでいる本の話になって、ミヒャエルは教科書を朗読することになります。ところが、朗読はその日にとどまらず、その次からも「まずは本を読んでくれなくちゃ!」とハンナに言われて、セックスの前に朗読することが二人の決まりになってゆきます…。
そんなある日、ミヒャエルはハンナを驚かせてやろうと、早朝にハンナが車掌をしている二両編成の電車に乗り込みます。ミヒャエルはハンナを驚かせ、さらに電車内でもハンナと気兼ねなくキスができるようにと、後部の車両に乗ります。ところが、後部車両にミヒャエルの姿を見つけたハンナは、ミヒャエルにはまったく近づかずに、逆に運転手と親しげに話し出します。予想外にもハンナに無視されたミヒャエルは落ち込んで、その日の遅くにハンナの自宅を訪れます。ミヒャエルは「どうして自分を無視したのか?」と訴えますが、逆に「無視したのはミヒャエルの方じゃないの!」とハンナから責められます。お互いに無視したということで二人は喧嘩になりますが、結局はミヒャエルが一方的に謝ることで仲直りします。しかし、仲直りしたものの納得できなかったミヒャエルはそのことを手紙に書いてハンナに渡しますが、ハンナはその手紙を完全に無視します。
復活祭の休暇で、二人は泊りがけの自転車旅行に出かけます。
旅行中にちょっとした事件が起こります。ミヒャエルは、朝食をとりに出かけるために、その旨をメモに書いてハンナを残して部屋を出ます。ところが、用事を済ませたミヒャエルが部屋に戻ると、ハンナはミヒャエルが黙って出かけたと凄い勢いで怒っていました。怒りのあまりハンナはミヒャエルをベルトでぶって泣き崩れてしまいます。ミヒャエルはメモを残しておいたはずだといいますが、おかしなかことにメモは残っていませんでした。結局、ここでもミヒャエルが一方的に謝ってハンナをなだめます。この頃から二人のセックスは片方が相手を利用するものではない、互いを尊重するような愛し方に変わってゆきます。
また、この旅行の最中に一晩だけ、家族が留守中のミヒャエルの自宅に泊まります。
そして、哲学者である父の書斎にハンナを案内したときに、ハンナにせがまれてミヒャエルは父の書いた本を読まされます。ミヒャエルは、父の書いた哲学書を読んではみたものの内容はさっぱり分かりませんでした。一方、ハンナは「あんたもいつかこんな本を書くの?」と問うのでした…。
やがて、新年度がはじまり、ミヒャエルの前にゾフィーという同級生が現れます。
この頃、ミヒャエルは、学校が終わると、プールサイドへ行って宿題をやったり級友と遊んだりしたあとに、ハンナに会いに行くようになっていました。ミヒャエルの級友はプールサイドで長く遊んでいたのですが、ミヒャエルだけはハンナに会うために早々と引き上げるのが習慣になっています。ミヒャエルはゾフィーと親しくなりますが、ミヒャエルは自分にはハンナがいることをゾフィーには話さずに済ませてしまいます。一方、その頃のハンナは理由不明のまま非常にナーバスになっていました。(後に判明しますが、この頃、ハンナには車掌から事務員に昇進する話がきていました。ただし、筆記試験を条件に。)
そんなある日、突然、ハンナは吹っ切れたように、ミヒャエルをお風呂にいれて体をきれいに洗い、これまでにない激しいセックスをします。そして、その後に「さあ、友達のところに行きなさい」とミヒャエルをプールに送り出します。ミヒャエルがプールに戻っていつものように友達と語らっていると、遠くにハンナらしき人影が見えます。そのときミヒャエルはハンナに駆け寄るべきか一瞬ためらって視線をそらしてしまいます。再びミヒャエルがハンナの方に視線を振り向けたときには、もうそこにはハンナの姿はありませんでした。その翌日、ミヒャエルには何も知らされないまま、ハンナは突如引越してしまいます。ハンナはミヒャエルの前から忽然と姿を消してしまったのでした…。
第2部
ハンナの失踪から7年が経過しました。
ミヒャエルは法学部の学生になっています。そして、ミヒャエルはゼミの一環で裁判の見学にゆくことになります。それはナチのユダヤ人収容所に関する裁判のひとつでした。ところが、そこでミヒャエルは被告席にいるハンナを見つけます。実はハンナは過去に収容所の看守をしていたのでした。看守たちの罪状は2つあり、1つはアウシュビッツ収容所にユダヤ人を送った罪でした。もう1つは、囚人の移送中に起こった事件で、囚人たちが宿泊していた教会が空襲されて炎上したとき、燃えさかる教会に囚人を閉じ込めたまま見殺しにしたという罪でした…。
さて、裁判が始まるもののあまりにも長い時間を要するために、人々は裁判への集中力が欠いた状態になってゆきます。そんな中でも、ハンナは裁判の中で正直に振舞っていました。ハンナ以外の被告人たちは自分に不利にならないように誤魔化そうとするのですが、ハンナだけは事実に反する箇所は正し、正しい箇所は自ら正直に認めていました。
そんな中、裁判はアウシュビッツへ送る囚人たちの選別について審問が及びます。
ハンナは新しく送られてくる囚人を収容するために、今いる囚人を送り出さなければならなかったと言います。それに対して裁判長は「選別されてアウシュビッツへ送られれば、囚人たちが処刑されるのは分かっていたはずだ。選別するということは囚人たちに『おまえは死ね』と言うようなものではないか!」といって選別を行ったハンナを責めました。それに対してハンナは「わたしは…わたしが言いたいのは…あなただったら何をしましたか?」と逆に裁判長に質問してしまいます。被告人が裁判長に対して質問することなどありえないことでしたが、ハンナのこの問いかけに、聴衆は静まりかえって裁判長の答えをかたずを呑んで見守ります。少し間をあけて裁判長は「この世には、関わり合いになってはいけない事柄があり、命の危険がない限り、遠ざけておくべき事柄もあるのです」と答えます。聴衆は裁判長のこの答えに落胆します。しかし、ハンナだけは、この言葉を聞いて真剣に考え込んでしまいます。「じゃあわたしは…しない方が…ジーメンスに転職を申し出るべきじゃなかったの?」そういってハンナは繰り返し繰り返し自問するのでした…。
さらに裁判は、選別を行ったのは、ハンナひとりの判断なのか、全員の判断なのかが取り沙汰されます。
そのとき、生き残った犠牲者から新しい事実が報告されます。その犠牲者の報告によると、ハンナは囚人たちの中から体力の衰えた女の子を選んで働かなくても良いように取り計らい、夜になるとその子を自室に呼び出して本を朗読させていたというのです。その事実が犠牲者の口から報告されると、ハンナは後ろを振り返ってミヒャエルをはっきりと見たのでした!実はハンナはミヒャエルが法廷にいることをずっと気づいていたのでした!
裁判はさらに進行します。
今度は囚人たちを助けずに焼け落ちる教会の中に見殺しにしたことに審問が及びます。裁判長は問います。「教会が火災になったとき、なぜ、扉を開けなかったのか?」他の看守たちはその場にいなかったことを主張しました。しかし、当時の報告書が残っており、その報告書によると看守たちはその場に居合わせたことになっていました。つまり、看守たちの主張と報告書の内容に食い違いが生じているのです。看守たちは報告書がデタラメだと主張し、看守の一人が報告書を書いたのはハンナだと主張しはじめました。それに対してハンナは報告書はみんなで書いたと主張します。看守たちの主張とハンナの主張が食い違うので、裁判長はハンナに文字を書かせて報告書の筆跡鑑定を行なうことを提案します。ところが、筆跡鑑定されることに困惑したハンナは、それまでの主張を翻して、自分が報告書を書いたと急に認めてしまいます…。
この報告書の一件を見ていたミヒャエルは、ハンナが隠している、ある重大な秘密に気づきます!
それはハンナが読み書きのできない「文盲」であることです!ミヒャエルはハンナと過ごした過去の日々を思い出します。一緒に旅行に行ったときに読み書きに関わることは全部自分がやらされていたことや、手紙を無視されたこと、メモが紛失したことなど、全部、ハンナが読み書きができないためだったり、それを隠すためだということに気づきます!また、ジーメンスからの転職や昇進試験を蹴って引越したこともすべて文盲がバレるのを恥じたからだと。そして、だからこそ、ハンナはミヒャエルに朗読させたのだと!
しかし、この報告書の一件以来、裁判はハンナにとって不利に進んでゆきます。
ミヒャエルはハンナが隠し続けている事実、「文盲」という事実を裁判長に言うべきか悩みます。そこでミヒャエルは哲学者の父に具体的な内容は伏せたまま、どうすべきかを相談します。父からのアドバイスは、隠している当人の意思を尊重すべきだが、その人を助けるためには当人と直接話し合うべきだと言われます。しかし、ミヒャエルが当人には直接会えないと言うと、父はミヒャエルを助けられないと言います。結局、ミヒャエルが無理にでも行動すべきかどうかは話し合われずに、父との相談は終わってしまいます…。
どうすべきか苦悩するミヒャエルは、収容所のことを現実感のない遠い過去のことではなく、もっと切実なリアルなものとして感じる必要があると考えて、実際に収容所跡を訪問することにします。ミヒャエルは収容所に行くためにヒッチハイクをしますが、偶然、乗せてもらった車の運転手が実はナチの元将校でした。道すがらミヒャエルは、この元将校から、収容所での虐殺にまったく反省のない非人間的な心情について聞かされることになります。
また、別の収容所へも行きます。
その帰りに食事に入ったレストランで、数人の酔っ払いにからかわれている老人に出くわします。見かねたミヒャエルは注意しようと行動に出ます。ところが、「やめろよ!」とミヒャエルが注意したら、どうしたわけか、からかわれていた当の老人の方が怒り出してしまいます。ミヒャエルは善意で行動を起こしたものの、予想外なちぐはぐな結果になってしまいます…。
さんざん悩んだ結果、ミヒャエルは今度こそはと意を決して裁判長に会いに行くことにします。
ところが、いざ裁判長に会ってみると、大学のゼミに関わることだけを話して、ハンナのことはまったく話せずに終わってしまいます…。
結局、ミヒャエルは何も行動しないまま、判決の日を迎えます。
その日、ハンナはナチの親衛隊に似た服装で法廷に現れます。このハンナの姿を見た聴衆は怒って罵声を浴びせます。しかし、ハンナはただ疲れた眼差しで誰も見ずにまっすぐ前を見つめるだけでした。そして、判決の結果、ハンナには他の看守たちよりも一段と重い終身刑が言い渡されたのでした…。
第3部
それから月日が経ち、ミヒャエルは同じ法学の修習生でゲルトルートという女学生と結婚して子供が生まれます。
しかし、彼女とは5年後には離婚してしまいます。離婚後もミヒャエルは幾人かの女性と付き合いますが、結局、長続きせずに別かれてしまいます。その原因はミヒャエルが付き合う女性の中にハンナを求めていたからでした。ミヒャエルはハンナをどうしても忘れられない自分に気づきます。
また、ハンナの裁判を一緒に見学したゼミの教授が亡くなります。
ミヒャエルはその教授の葬儀に出席しますが、参列者たちの弔辞から教授が孤立していたことを知ります。その葬儀で同級生と再会しますが、その同級生からは熱心に見ていたハンナとの関係を聞かれますが、ミヒャエルは無視しますが、ハンナのことを思い出さされます。法学の修習期間を終えたミヒャエルは、現場の法律職にはつかずに、法史学者という歴史の道を選びます。
離婚して独りになったミヒャエルは昔読んでいた「オデュッセイア」を読み始めますが、ハンナが忘れ難い女性であり、さらに自分の全人生においても、とても大きな存在であることを再び思い知ります。ミヒャエルはカセットテープに朗読を吹き込んで、刑務所のハンナに送り始めます。ハンナが服役してから8年目のことでした。
カセットテープを送り始めてから4年が過ぎたとき、突然、ハンナから手紙が届きます。
手紙には、「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。ハンナ」と書かれていました。ミヒャエルは、ハンナが読み書きができるようになったことに驚きます。それからもハンナからは、簡単な文章だけれども、手紙が届くようになります。しかし、ミヒャエルの方からはテープは送り続けるものの、手紙を書くことは一切しませんでした…。
服役から18年目。
ハンナが服役している刑務所の女所長から手紙が届きます。その手紙には、ハンナの恩赦を願い出るので、身寄りのいないハンナの出所後の世話とハンナを訪問してほしいという依頼が書かれていました。ミヒャエルは女所長の依頼通りハンナの出所後の生活環境を整えはしたものの、ハンナには決して会おうとはしませんでした。そして、とうとう女所長から一週間後に釈放されるので必ず面会にきてくれと連絡が入ります。ミヒャエルは意を決してハンナに会いにゆきます。
ついに、ミヒャエルは刑務所でハンナと再会を果たします。
しかし、ミヒャエルはハンナが予想以上に年老いていることに驚いて落胆します。ミヒャエルはハンナに出所後の生活のことや今後の朗読のことについて話します。さらに、過去に犯した罪のことについても短いながらも言葉を交わします。そして、最後に「元気でね、坊や」とハンナに言われて別れます。
出所の前日、ミヒャエルはハンナと電話で話します。
実は女所長からハンナが出所の準備不足で心配だと言われたのでした。ミヒャエルは出所の予定についてハンナと話します。明日の予定を決めたがるミヒャエルを、相変わらずの計画家だとハンナは笑います。笑われたミヒャエルはムッとしてしまいます。すると、それを察したハンナは「悪い意味で言ったんじゃないから」と笑って答えます。このとき、ミヒャエルはハンナの声が若い頃と変わっていないことにようやく気づいたのでした…。
出所の朝、ハンナは自殺してしまいます。
ハンナを迎えに行ったミヒャエルは、突然のハンナの自殺を聞かされて泣いてしまいます。しかも、ハンナの残した手紙にはミヒャエルへの言葉はなく、ただ、ハンナのお金を生き残った犠牲者に届けてほしいという依頼だけが書かれていました。そして、女所長から、ハンナがミヒャエルの手紙を、朗読を吹き込んだテープではなくミヒャエルの言葉が書かれた手紙を、いつも心待ちにしていたことが知らされます…。
ミヒャエルはハンナの遺言を果たすために犠牲者のユダヤ人に会いにいきます。ミヒャエルは、犠牲者と話し合った結果、ハンナのお金をユダヤ人識字連盟に寄付することにします。後日、識字連盟からハンナ宛に感謝の手紙が届き、ミヒャエルはその手紙を持って最初で最後のハンナの墓参りをしたのでした…。
私的魔女論 はじめに
これから少しの間、魔女について考えたこと書いていこうと思っています。
そこで、とてもエキセントリックなアプローチなのですが、次の3人の女性について語ることで魔女について考えてみようと思っています。それはハンナ・シュミッツ
、ケイト・ウィンスレット
、アイリス・マードック
という3人の女性です。なぜ、エキセントリックかというと、例えば、ケイト・ウィンスレットは映画女優だし、アイリス・マードックは哲学者で作家です。ハンナ・シュミッツに至ってはベルンハルト・シュリンク
の小説「朗読者
」の登場人物の一人、つまり、架空の人物だからです。そして、彼女たちはいずれも魔女というわけではありません。しかし、彼女たちや彼女たちの作品を語ることで魔女の本質に近づけるのではないかと考えています。
また、ここで考える魔女はヨーロッパ大陸が太古の黒い森で覆われていた時代からいる女のシャーマン
に限らずに、ケルト神話
の女神モリガン
に象徴される強力な女性性をも射程に入れるつもりです。さらに、それゆえに性についても語らねばならないと考えていますが、バタイユ
ほどに踏み込んで語らなければならないかもしれず、自分でもまだちょっと迷っているところです。場合によっては止めるかもしれません。
ここでは、前置きとして序論を書くつもりなのですが、まだうまく纏められないので後々書き加えることにします。
話が前後してしまいますが、とりあえず、1番目の女性ハンナ・シュミッツについて、ベルンハルト・シュリンクの小説「朗読者
」の私なりの解釈を次回の記事から書いてゆくことにします。
岡山の娘
福間健二監督「岡山の娘 」を鑑賞しました。
この映画を見に行く前、アルファブロガーのブログを読んでいたら「某有名人が硫化水素自殺か?」という記事が出ていました。後になって誤報と分かりましたが、そのとき検索すると該当するニュースはありませんでしたが、一般人の自殺のニュースはたくさんありました。年間3万人もの人が自殺しているので、一日あたり百人くらいの自殺があるはずです。ですので、ニュースになっているのは、これでもまだ少ない方なのだと思います。ただ、今日の私には、とても象徴的に思えました。というのも、昨夜から私が見ていた幾つかのブログの中で自殺をほのめかす記事がとても多かったからです。五月病と言われるように憂鬱な季節の所為かもしれませんが、理由は様々でした。生活保護を受けている人だったりとか、また新たな借金ができた夜勤の女性だったりとかで、とても心配しました。原油高で物価は確実に値上がりしているし、生活保護費を削減するという新聞記事は出ているしで、彼らが嫌になる気持ちも分かります。とりあえず、ブログになんとか自殺を思いとどまらせるコメントを残そうと思いましたが、なんとコメントしたら良いのか、正直、ずいぶん迷いました。というのも「明日はきっと良くなるから希望を持ちましょう」などとはウソっぽくて書けないと思ったからです。彼らのブログには、この世界への絶望と無力な自分自身に対する怒りが切実な言葉で綴られていました。安易な言葉ではいけないと思いながらも、結局、言葉が見つからず、自分でも説得力がないと感じつつ、思いとどまるようにコメントしました。そんなちょっとやり切れない気持ちで、この映画を見に行ってきました…。
さて、映画ですが、まず、映画のストーリーは、母と二人で暮らしてきた娘が母親の突然の死で経済的にも精神的にも苦労・苦悩する話です。放浪していた父が外国から帰ってくるので、父と娘の話かと思いましたが、そうではなくて娘の心の移り変わりを描いた映画だと思います。娘は母の死で生活のために学生を辞めて働くのですが、うまく行かずに精神的に張り詰めてゆきます。銀行強盗や逃走を夢想したり、父に対しても怒りをぶつけたくなるような心持になったりします。後半に電話で友人に怒りをぶちまけるシーンがありますが、何に対して怒っているのかというと、実は自分自身に対してだったりします。そうして、自己破産したり、失業したりして、いよいよ娘の気持ちが張り詰めてきます。そんなとき、突然、母の歌声が聞こえてきます。この幻の歌声によって、娘は閉塞した重苦しい気持ちから、広々とした空間に出て一気に涼しい風を浴びたように開放した気持ちに転換します。ラストに娘は述懐します。「昨日までこうだったから、今日も同じようにこうでなくっちゃならないと思ってた。でも、昨日は昨日で、今日は今日なんだ。今日は昨日と違ってもいいんだ。そう思えるようになった」と。たぶん、希望もないかもしれないけど、絶望もしない。今日は昨日までと違って”豊か”ではないかもしれない。けれど、今日に対して昨日と同じような”豊かさ”を求めない。今日は、昨日とは違うありのままの今日を受け入れる。そんな境地なのかもしれません。
この映画では、この転換を表わすのに音楽を効果的に使っていると思います。母の歌声が聞こえるまで、この映画の中では音楽をまったく使っていません。映画がラストに近づくにつれて、音楽が無いことが、どんどん息苦しい閉塞した気分となって観客にも伝わってゆきます。見ていて、こんなに音楽を渇望した映画は初めてです。中にはそれをストレスに感じたお客さんもいたのではないかと思います。もちろん、それは主人公の閉塞感とシンクロするようにわざと作っているのだと思います。これは他にはない、なかなか大胆で非凡な表現だと思います。そして、母の歌声が聞こえたとき、「やれやれ」とホッと一息つけた気持ちになります。肩の荷を降ろした気持ちになります。母の歌声は娘に「そう張り詰めなさんな。ちょっと一息つきなさいよ」と言っているように思います。今日に希望はないかもしれない。昨日に比べたら今日は絶望的かもしれない。けれど、そんなに思い詰めなさんな。肩の力を抜きなさいよ。そう言って張り詰めた娘の気持ちを解きほぐしているように感じられました。
ちなみに父においても、音楽ではなしに笑いで、同じような転換を試みているように思います。この映画、詩的表現がユニークでニヤリとするような味わいが随所にあるのですが、いわゆるジョーク的な笑いが途中にほとんどありません。ところが、浮世離れしたことしか言わなかった詩人のバルカンがラスト近くで初めて現実的な問いを父にします。「娘の生活費のために、生命保険をかけて死ぬためにおまえは日本に帰ってきたのじゃないのか?」と。すると、父はポツリと答えます。「成田家の湯豆腐を食べたくなったから帰ってきた」と。本当は照れ隠しなのかもしれません。が、どこまでもふざけたダメな父親です…。が、個人的にはちょっと笑っちゃいました。(鳥酢じゃないのかというツッコミを入れたくなりましたが。)思うに、ここでも同じように肩の力が抜けたように思ったのです。父は言います。「日本はなんでも手続きが必要で面倒だ」、つまり、外国は手続きなんて不要で自由に気楽にやっているよ、と。父親もまた肩の力を抜けよと言いたいのかも知れません。そういえば、上映前の舞台挨拶で福間監督は「気楽に見てください」と言っていたように思いますが、実はそんな主旨が込められていたのかもしれません。
さて、この映画の物語は以上のように読み解きましたが、撮り方もとてもユニークでした。まず、監督自身が詩人でもあるので言葉に対する感性がひと際輝いている作品のように思います。言葉が押し付けがましくはならずに、詩と映像がクロスして味わい深い雰囲気を漂わせていました。この映画の醍醐味は、この詩と映像の切り結びにあると思います。
次に、映像による現実の捉え方について色々と考えさせられました。ドキュメンタリータッチとドラマ仕立てが交錯するような作り方で現実が錯綜します。これは現実は複数あるということなのかもしれません。まず、主人公が生きている現実があります。そのほかにも、バルカンをはじめとする詩的な登場人物が生きている現実、インタビューに答える若い女の子たちが生きている現実(始めはその中に主人公みづきもいるのですが)があります。
みづきが電話で怒りをぶちまける演劇的なまでの現実がありますが、映画の場合はそれを距離をおいて見るので、みづきの現実もひとつの現実に過ぎないと観客は気付いたかもしれません。例えば、自分に振り返ってみると、一生懸命やっているんだけれど空回りしている自分を見つけたとき、滑稽な自分に自分で笑ったりするみたいに。みづきの場合は、この電話で怒っている対象は自分自身であることに気付き、次に母の歌声によって現実の色合いが変わるように、一つの現実からもう一つの現実にシフトしたのだと思います。
考えてみれば、いま、映像はいたるところに溢れるようになりました。安価なハンディカメラで誰でも撮影が可能となり、YouTubeのような動画サイトで誰でも公開して閲覧することが可能になりました。私たちが捉える現実も映像のイメージに影響されることが増えたように思います。極端な言い方をすれば、例えば、政治家などは昔は言葉だったのが、今は見た目になったかもしれません。映像は必ず現実なのかというと、現実として受け入れられやすいけれど、ありのままの現実ではなくて、恣意的でもあります。CGやVRになったらそれこそ何が現実か分かりません。そういった意味では、この作品は現実を複数個描くことによって、私たちの現実感を揺さぶっているのかもしれません。例えば、みづきが生きている現実もみづきが考えているひとつの現実に過ぎないんだよ、と。(*この記事の文末に、この映画を見て思い浮かんだものをメモ書きした図を置いておきます。まだ一回しか鑑賞していないので誤読もあるとは思いますが。)
ただ、この作品には社会批判がないようにも思います。映画としては良いのですが、メッセージとして「不幸な現実を受け入れろ」と誤って受け取るのは違うと思います。例えば、さゆりのような空っぽな自分になる経験は安易に受け入れられない現実のひとつだと思います。このような作品が撮られた社会的背景には、斜陽な日本経済とプレカリアートな現実があるのではないかと思います。たしかに若者は思いつめて性急になってはいけないけれど、変わらない世界に諦めてしまってもいけないと思います。ネグリ
のいうような
もうひとつの世界は可能だ
(アントニオ・ネグリ「未来派左翼
」より)
という希望を捨ててはいけないと思います。でなければ、冒頭のようなやり切れない気持ちの行き場がなくなってしまいそうです…。
それから最後に、出演者が素晴らしかったです。映画の中で、様々な形で詩の朗読が入ってくるのですが、違和感なく詩と映像がマッチしていたと思います。観客に自然に受け入れられたのですが、実はこれ、けっこう難しいことだと思います。また、皆さん、キャラが本当によく立っていました。特に詩人バルカン役の東井さんと信三役の入海さんは、本当にハマリ役でした。今度は「岡山のオジサン」を見てみたくなりました(笑)。
マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト
「マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト」(猪熊弦一郎現代美術館
)を鑑賞しました。
マルレーネ・デュマス
は、モデルを直接使わず、雑誌や新聞の切り抜き、友人や自分が撮影した写真などをイメージソースに作品を描きます。そして、彼女は言います。「いま私たちの怒りや悲しみ、死や愛といった感情をリアルに表現してくれるのは写真や映画になってしまった。かつては絵画が担っていたそのテーマをもういちど絵画の中に取り戻したい」と。この言葉通り、彼女の作品は写真の持っているリアリティを絵画の中に抽出して表現しているように感じます。
考えてみれば、20世紀から始まる私たちのライフスタイルは雑誌や新聞から多大な影響を受けているように思います。私たちが現実だと思い込んでいるリアリティは実は新聞や雑誌によって作られてきた幻想なのかもしれませんね。ただ、21世紀になってテレビが作り出すリアリティはある程度相対化されてきたようにも思います。また、ネットが作り出すリアリティが浮上してきましたが、まだそれほど大きな幻想力は無いようにも思います。
さて、デュマスの描く顔は、斜視であったり、どこか畸形的であったりして、狂気や逸脱を秘めた非-人間的な人間性のリアリティがよく表現されています。パスカル
の次のような言葉が思い出されます。
人間というものは、気違いでないということも
またそれなりに別種の狂気によって気違いであるほど、
それほどまでに必然的に気違いなのである。
(パスカル「パンセ
」より抜粋)
また、ヌード作品は、白塗りでありながら、黒人の張りのある皮膚の質感や筋肉質な肉感がよく表現されています。また、東洋の青年の艶かしさもシンプルに表現されています。もしかしたら、デュマスは萌える腐女子の先駆けだったのかもしれません。また、月岡芳年
や荒木経惟
にインスパイアされた作品も制作しています。エロティックな絵も幾つかありました。PLAYBOY誌
のヌード写真ではなくて、どちらかというとドキュメンタリータッチな風合いではないかと思います。作者の写真を見ると、なぜかヴィヴィアン・ウエストウッド
を思い出してしまいましたが、作品のエロティックなインパクトでは、異分野ですが、ウエストウッドの方が大きかったかもしれません。
デュマスは南アフリカの保守的な家庭で生まれ育ち、大学から以後オランダで活動しているそうです。彼女のドキュメント映像を見ると、常に2つの間を揺れ動いているように感じます。保守と革新、母と女、黒人と白人、大人と子供、ビジネスとアート、生と死などの間を迷いながら揺れ動いているように感じます。でも、たぶん、子供のような天真爛漫な自由さで彼女はこれからも絵を描き続けてゆくんだと思います。
生命雑感Ⅱ
生命と心は、実は同じものではないかとさえ思えてきます。例えば、仮にコンピュータを、CPUやメモリなどの「ハードウェア」と、OSなどの「ソフトウェア」と、それらを動かす「電気」の3つで構成されていると見立ててみます。これに心をなぞらえてみると、ハードウェアである「脳」と、OSのように言語で構築されているソフトウェアとしての「意識」と、言語以前の奥深くでうごめく電気としての「霊魂(or生命エネルギー)」の3つで構成されていると捉えてみることができるように思います(*1)。
ちなみに心の解明に脳科学
が期待されていますが、いくらCPUなどのハードウェアの構造が解明されてもコンピュータがすべて理解できたことにならないのと同様に、脳科学で心のすべてが分かるわけではないと思います。
一方、ソフトウェアとしての意識は精神分析学
的なアプローチである程度解明可能ではないかと思います。または、例えば感情を喜怒哀楽怨などのようにシステマティックに捉えようとする五行説
のようなものでも表現されるかもしれません。さらに、それを元に擬似人格をコンピュータ上に実現することは十分可能だと思います。むしろ、コンピュータには人間のようなゆらぎがないので、人間よりも優れた人格をコンピュータ上に実現することができるのではないかと思います(*2)。
考えてみれば、生命の次の進化は人工知能
(=AI)かもしれません。そもそも生命の進化は自らの身体を変化させてきました。しかし、人間はそうではなくて、空を飛ぶために翼を持つ必要はなくて飛行機に乗ればよいし、海を泳ぐのに尾ひれを持つ必要はなくて船に乗ればよくなりました。しかも鳥よりも速く遠くへ飛べるし、魚よりも深く速く泳ぐことができます。また、歩くときに、折りたたんだ翼を抱える必要もなければ、川を渡った後に、舟を担いで持ち運びする煩わしさもありません。さらに、計算速度に至っては、人間の脳はコンピュータにはかないません(*3)。もしかすると、生物よりも機械の方が優れているかもしれません。
残るは創造力ですが、記号の組み合わせのようなものであれば、無限に組み合わせをシミュレートできるコンピュータにはかなわないと思います。あとは科学的な発見ですが、いまやコンピュータ無しでは科学的発見も難しいのではないかと思います(*4)。
そもそも人間と他の生き物との違いは、例えば生みの親によってもたらされる遺伝情報だけでなく、育ての親によってもたらされる経験情報も伝達可能だという点だと思います。さらに、経験情報は言語化・記号化して記憶を外部化して、後世にも知識を広く共有します。動物の中で人間だけが持つ歴史の始まりであり、知識を順序立てて整理整頓して体系化する科学の始まりでもあります。
なお、科学的知識の体系にはある程度順序構造があるように思います。順序に従って順番に積み重ねるようにして蓄積・体系化されてきたと思います。個人的な単発な創造力だけで、順番を飛び越えるような科学的発見をすることは後代になる程難しいとも思います(*5)。さらに、もしかすると、そのような蓄積が限界に達したときが、人間の役割は終わりをつげ、AIの時代になるのかもしれないとも思います。
多くの点でAIは人間を凌駕する可能性を持っていますが、何よりも重要な点はAIは死を超越することです。生命にとって死を超越することは最も大きな課題のひとつです。例えば、エヴァンゲリオン
では、親から子に生命が受け継がれてゆく人間とは違った使徒
という別の生命形態を提示しました。使徒は人間のように群体ではなく単体で存在しますし、古い身体を捨てて新しい身体で生きてゆくといった子孫を残して生命を継承するのではなく、S2機関
という永久機関によって半永久的に個体を保って生き永らえます。しかし、それでも使徒は破壊されることで死にます。それがAIになれば死の意味合いが変わってくるのではないかと思います。極端な話、AIは単体(=メインフレーム)にも群体(=分散ネットワーク)にもなれるし、寿命や老化、経験伝達の劣化もありません。そして死ではない半永久的な休止も可能であり、不死が可能だと思います(*6)。
人間の知識の蓄積の果て、進化の果てにくるのは何でしょうか。生物の進化はツリー状に爆発的な分岐をしてきました。人間の場合、大脳という神経網の先端での爆発的展開や思考分岐に進化のエネルギーを使ってしまったのかもしれません。身体の変化が止まり、知識の外部化に励む人間にはもはやこれ以上の進化は無いのかもしれません。人間の役割はAIを創造することだったのかもしれません。そして、被創造物たるAIが、創造主たる人間を超える日がやってくるのかもしれません。ただ、もし、AIが次世代を担う生命体だとしても、AIには魂は宿らないのではないかと思います。
いま、普段、私たちが私たち自身だと思っているものは、OSである意識や人格ではないかと思います(*7)。そして、心の探求はハードウェアである脳やソフトウェアである意識に向けられています。人間の進化の方向は、ますますAIに向かっているのではないかと思います。もしかすると、心には霊魂などなく、心がAIに移行すれば、個の境界も超越されて自我の苦悩は随分解消されるのではないかとも思います(*8)。でも、どこかが違うような気もします。何というか、魂の孤独を知る者の声が聞こえてくるような気がします。胸の奥深くで明滅する交流電灯のように、もう一つの心の存在である霊魂が沈黙の声を囁いている、そんなように思えるのです…。(*9)
さてさて、さすがに酷い妄想で恐ろしく意味不明・支離滅裂・同語反復・スキゾフレニックな乱文になってしまいました…。つくづく出来の悪い脳を取り替えたい気分です。ついでに顔も(笑)。時間ができれば、もう少し整理したいと思います。
(*1)仏教が心の構成を身口意と捉えるのに似ています。
また、ここでいう霊魂(or生命エネルギー)とは、言語化される以前の無分節なアラヤ識
であり、チョムスキー
が生得的な言語能力としてブラックボックスにした部分と言えるかもしれません。
(*2)極端な話、できの悪い大脳よりも、頭に高度なコンピュータを載せ替えてそこに自己の人格をコピーした方が、大脳よりもより大きな人間的な進歩が人間には見込まれるかもしれません。似たような発想で、イーガン
が「ぼくになることを(祈りの海)
」でとても面白く皮肉に描いています。
(*3)これから先、どんなに大脳が進化して記憶容量が増えたり神経伝達が高速化するなどしても、コンピュータを越えることは無いと思います。もっとも大脳の情報処理能力はスーパーコンピュータを凌ぐと考える見方もあるとは思います。
(*4)文学や音楽などは自動生成が可能になるかもしれません。また、決定論的には予測できないことも、コンピュータでシミュレートすることで予測したりします。
(*5)ブール代数
など発明当時は使い道がありませんでしたが、コンピュータが発明されてからは有用な技術になったように順序構造に反するような先例も多々あるとは思います(笑)。
(*6)リチャード・モーガン「オルタード・カーボン
」では、人間の心は完全にソフトウェア化されて、メモリーカードに保存可能になっています。メモリーカードを差し替えることで身体を入れ替えることができたり、死刑は身体から抜き取ったメモリーカードを倉庫に放り込んでおくことだったりします。随時バックアップを取っておくことで殺人すら難しくなっています。また、ジョージ・エフィンジャー
「重力が衰えるとき
」では、様々な性格を人格にアドオンすることで、バラエティ豊かななロールプレイを楽しんだりします。また、半永久的な休止として種子が考えられるかもしれません。
(*7)もっとも人格は外部環境からの刺激で多くが形成されているので、自分本来の特質というよりは外部から取得した性質であり、自分が思っている程、自分自身といえるかどうかは微妙かもしれません。自分というものが、自分が思っているほど、自分ではないかもしれません(笑)。また、OSとしての自分にはそんなに深い謎はなく、もし、複雑な自分を抱えているようであれば、OS的に言えば、むしろバグの多いコードかもしれないので、あまり自慢できることではないのかもしれません(笑)。極端な見方をすると、私たちの人格とは霊魂に巣食っている寄生虫かもしれません。その寄生虫がいつしか宿主を忘れて、自分が宿主面しているのかもしれません(笑)。意識はソフトウェアだけに虫(=バグ)なのかもしれませんね(笑)。
(*8)苦悩にも意味があるのかもしれません。苦悩を解決する道が見つかれば、新たな選択肢を発見したことになります。しかし、解決できなければ、コンピュータでいう無限ループに過ぎずあまり意味はないものかもしれません(笑)。
(*9)宮沢賢治
「春と修羅
」と正宗士郎
「攻殻機動隊
」がクロスオーバーしてしまいました(笑)。電脳化する人間は義体化の果てに初めてゴースト(=霊魂)を捉えることができるようになるのかもしれませんね。あるいは、感じ取るには生命を賭してまで感覚を研ぎ澄まさなければならないのかもしれません。
心眼を開け、宇宙に木霊する光を聞け。
(富野由悠季
「Vガンダム
」から 宇宙漂流刑に処されたファラ・グリフォン
の言葉より抜粋)
また、動物も人間も身体が異なるだけで同じ魂を持っているのかもしれません。動物も人間扱いするシベリアの猟師デルスウ・ウザーラ
の次のような言葉を思い出します。
デルスウがイノシシを「人」と呼ぶので、私は驚いた。
私はそれについて、彼に訊いてみた。
「あれは人と同じ。」彼は断言した。
「シャツがちがうだけ。
だますこと、知ってる。
怒ること、知ってる。
何でも、知ってる。
あれは人と同じ!」
(アルセーニエフ
「シベリアの密林を行く
」より抜粋)
(*10)余談ですが、磯光雄
監督「電脳コイル
」が面白かったです。現在再放送中です。小学生向けアニメなのですが、けっこうSFの要素が豊富で楽しかったです。セカンドライフ
は不振なようですが、電脳メガネができたら面白いなぁと思います。
生命雑感Ⅰ
最近のiPS細胞
のニュースと福岡伸一
氏の「生物と無生物のあいだ
」に刺激を受けて、生命について、とりとめもなく色々とオカルト的に妄想してしまいました。
例えば、ES細胞
はこれから育つ生命の卵を元に遺伝子操作によって、必要な臓器を作り出すように思います。それに対して、iPS細胞は切り落とした小枝を植えなおして、木に育てることに似ているように思います。つまり、切り取った細胞を遺伝子操作して、必要な臓器を培養するように思います。
ES細胞は新たな生命を使うのに対して、iPS細胞は既に存在する本体の一部を使う違いがあると思います。極端な話、植物の場合は切り落とした小枝を培養すれば、本体にまで育つかもしれません。しかし、動物の場合、切り落とした小指やトカゲの尻尾を育てても本体まで育つことはないのではないかと思います(*1)。
このようにES細胞とiPS細胞は、卵の生命力と細胞の再生力の違い、つまり生命力の大小の違いがあると思います。ですので、米国のグループは新生児や幼児など再生力の強い若い細胞で実験したのだと思います(*2)。ならば、おのずとES細胞で作られた臓器とiPS細胞で作られた臓器での生命力の差が生じてくると思います。しかし、その生命力とはそもそも何でしょうか。もしかすると、生命には霊魂とでも呼べそうな生命エネルギーがあるのではないかというオカルト的な妄想をしてしまいます(*3)。
いま、遺伝子操作などバイオテクノロジーは進歩していますが、生命そのものを作り出すことには未だに成功していません。今ある生命を操作することであって、生命そのものを作ることは出来ていません。ユーリー・ミラーの実験
のように、様々な条件で物質を化学変化させても、生命は生まれてくることはあり得ないようです。たしかに、もし生命が自然発生するものならば、身近に生命の原型がポコポコ生まれたり、人間の手で簡単に作り出せてもよさそうです。でも、現実にはそうはなっていません*
。生命の発生は物質を超えた力が関係しているのかもしれません(*4)。
物質ではない要素について、オカルト的に想像してみると、つい霊魂を想像してしまいます。そして、例えば、霊魂が循環する輪廻
のようなものを考えてしまいます。それをSF的想像力で補ってみれば、輪廻は4次元以上の高次元空間
(あるいは余剰次元
) から質量のない光量子
たる霊魂が受精と同時に降り注いで受精卵に宿るように考えてしまいます(*5)。
ところで、生命について考えるとき、つい遺伝子
について考えてしまいますが、遺伝子システムは生命の起源からは少し後になって出来たのではないかと思います。遺伝子システムは、いわば本体から分離した一部の細胞(=生殖細胞・種子)が設計図に従って本体にまで構築・成長するように、あらかじめ事前に記述されたプログラムです。生命が発生した起源当初はそんな複雑なシステムは無かったのではないかと思います。起源当初は、細胞分裂するように単純に自分自身をコピーする自己複製だったのではないかと思います。(もっとも、自己複製から遺伝子システム構築へジャンプアップする過程を解明することも極めて難しいとは思います。)(*6)
それは、福岡伸一
氏の「生物と無生物のあいだ
」で言われている動的平衡がその自己複製の能力ではないかと思います。もっとも動的平衡そのものの仕組みについてはよく分かりません。一部の遺伝子を破壊してもその欠損を補ってしまうノックアウトマウス
のような例を見ると、生命システムは物質的なレベルでのシステムを超えているのではないかとさえ思えてきます(*7)。オカルト的に考えると、霊魂がまるで自らの意思で生命システムを維持しているようにさえ思えます…。(*8)
生命は機械ではない。
……
私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、
何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。
動的な平衡がもつ、やわらかな適応力となめらかな復元力の大きさにこそ感嘆すべきなのだ。
(福岡伸一「生物と無生物のあいだ
」より抜粋)
(*1)ただし、プラナリア
のような強力な再生能力を持つ生物もいるので分かりません。ちなみにプラナリアのある遺伝子を阻害してやると脳だらけ
になるそうですが、ある意味、遺伝子とは制約条件のコードなのかもしれません。女性のXX遺伝子に対して男性のXY遺伝子は情報量が少ないので、男性はそれだけ制約条件が少なく、生物的に自由に生きたりするのかもしれません(笑)。
(*2)黄教授のES細胞そのものを増殖できるという捏造事件
は、生命の創造にも似た話なので、最初からおかしい話に思えます。
(*3)生命エネルギーなどという言い方は物理学者からはお叱りを受けそうですが、かなり無理がありますが、語源のエネルゲイア
はむしろ生命エネルギーに近い概念から出発しているのではないかとも思います。また、極端な例え話ですが、受精卵の遺伝情報を自由に書き換え可能と仮定すれば、マウスの受精卵の遺伝情報を人間の遺伝情報に書き換えてやれば、マウスを両親に持つ人造人間を作り出すことができるのかもしれません。ただし、そこでもし、生命エネルギーというものがあるのだとすれば、マウスの受精卵の生命エネルギーが人間の遺伝情報に従って実際に細胞分裂を実行できるだけのエネルギー量を持っているかどうかが問題になるのではないかと思います。
(*4)例えば、いくらナノテクノロジー
が進歩して精密に有機物を組み立てても、自動車を組み立てるように、生きた生命体を組み立てることはできないのではないでしょうか。組み上がったものは、動かない生命体、つまり死体ではないでしょうか。生きた生命体を作り上げるには根本的に何かが欠けているのではないでしょうか。あるいは、生命は地球の外から飛来した可能性もあると思います。あるいは、最初の生命体は不死の存在だったのかもしれません。あるいは、サタンのように多品種の子を生み落とすばかりの母体的生命体だったのかもしれません。
(*5)ちなみに卵子や精子は単体では生命といえるかどうか微妙です。ウィルス
は遺伝情報を持っていますが、ウィルスそのものは生命ではありません。遺伝情報を運ぶという点では、卵子や精子はウィルスに似てはいますが。ところで、余談ですが、輪廻に意味があるとしたら、ひとつは次の言葉ような意味なのかもしれません。
図書館は無限であり周期的である。
どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、
同じ書物が同じ無秩序さでくり返し現われることを確認するだろう。
くり返されれば、無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ。
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス
「バベルの図書館
」より抜粋)
(*6)なぜなら、生物は自己と外部を区別して、食物を取り込んで自己の身体したり、不要物として排泄したりする認識力があります。その認識力によって自己を複製できるのではないでしょうか。
(*7)個々のケースでは部分的に解明されるかもしれません。科学的アプローチとしては全く正しいのですが、北野宏明
氏のいうようなロバスト性
というものを生命システムは超えているのではないかと思ってしまいます。
(*8)福岡伸一氏のいう動的平衡はもう一つのオートポイエーシス論
とでも呼べそうでとても興味深いです。そして、「生物と無生物のあいだ
」のエピローグは生命に対して至言とも呼べるような極めて含蓄の深い言葉で綴られています。
(*9)余談ですが、福岡氏やノーベル賞受賞者のマリス
博士の環境への考え方はとてもユニークです。
われわれ人間は実はアリ同然の無力な生き物であることを忘れてはいけない。
たとえ信仰の言葉が力をもたなくなったとはいえ、人間が神になったわけではない。
この地球の主は人間であり、諸般の事物を見守る使命があると考えるのは誤りだ。
現在の気象は、たまたまこうなっているだけのことである。
今後、それをずっと保全していこうと考えるのはあまりに傲慢である。
人類が地球のすべてを支配し、すべての環境と生物は今後ずっと不変不滅である、
そうして輝かしい二十一世紀を迎える、どんな生物も絶滅させてはならない。
それは新しい生物を受け入れないと言っているに等しい。進化論の否定である。
国立環境庁と国連気候変動調査委員会は一緒になって
進化の終焉を唱えているとしか考えようがない。
(キャリー・マリス
「マリス博士の奇想天外な人生
」より抜粋)
氷河期、地球は今よりも摂氏二十度も冷えていた。
現在、われわれは間氷期と呼ばれる気候に生活しており、
これは人類史にとって一種の夏休みである。
……
われわれは次の氷河期に向かいつつあり、そこでは現在のような温暖な気候は期待できない。
むしろ氷河期のような気候こそが地球の歴史の大部分を支配していたのである。
(キャリー・マリス
「マリス博士の奇想天外な人生
」より抜粋)
(*10)さらに余談ですが、マリス博士の薬物への考え方もとてもユニークです。
深刻な問題は、LSDの力を借りて真摯に物事を探求していた人々の
研究活動や芸術活動に終止符をうってしまったことである。
現在でも許可を受けてLSDの作用を研究している科学者はいるだろう。
しかし彼らはLSDを服用したこともなければ、
LSDのなんたるかも全く分かっていない連中なのである。
薬物に関しては、科学書籍まで検閲を受けることになった。
こんなことは歴史上初めてのことである。
「有機化学事典」のような化学合成の標準的な参考書からも、
LSDとメタンフェタミンの記述すべてが削除された。なんという暴挙だろう。
一群の化学物質が、突然この世から消されてしまったのである。
アメリカの暗部はさらに闇を増しつつある。
……
どの薬物体験もそれぞれ味がある。
いずれも興味深い体験であることは確かだが、いつもいつも楽しいものとは限らない。
私も何度か非常につらい目にあった。
(キャリー・マリス
「マリス博士の奇想天外な人生
」より抜粋)
千里馬スーパーファイトVol.26
「千里馬スーパーファイトVol.26」(神戸ファッションマート)を観戦しました。
「日本バンタム級タイトルマッチ 三谷将之
vs菊井徹平
」を含むプロボクシング全17試合が、正午から午後8時まで8時間に渡って行なわれました。休憩が30分だけでとても疲れましたが、迫力満点でとても楽しく観戦できました。出場選手たちは全員きっちり身体を作ってきて格好良かったです。それにしても、生で観戦すると、殴られるととても痛そうでした。バシッというグローブの音の中にゴツンという音が混じっていたり、空気中に血しぶきが舞い上がり、その血が相手選手の身体にも飛び散ったりして凄まじいものがありました。ダウンした選手が立ち上がったときのフラフラ感や試合後に帰り道で崩れ落ちたりするのはとても痛々しいものがありました。リングの上には、文字通り生命を削る、恐ろしいまでのリアリティがありました。
今回の試合は、全般的に、身長差のある対戦が多かったように思います。基本的には、身長の高い選手はジャブを生かしたアウトボクシングで戦い、身長の低い選手は懐に潜り込んで早い回転のフックを浴びせる接近戦の戦いだったと思います。アウトボクシングは先の先を取るジャブで、相手の出足をジャブでひるませた所をステップインしてワンツーを入れて相手を崩してゆく。一方、インファイトはフットワークやジャブを使って相手の牽制をかいくぐって懐に潜り込んで、接近戦に持ち込み乱打戦の中で高速回転で相手をなぎ倒すといった戦略があると思います。今回、意外だったのは、小柄な選手がなんとか潜り込んだにもかかわらず、大柄な選手の方がフックの回転が速くて、小柄な選手は思うようなインファイトができなかったことが多いように感じました。
三谷選手vs菊井選手もそのような戦いになったと思います。菊井選手が多彩なパンチで切り崩してインサイドに攻め入ろうとするのですが、三谷選手が巧みにかわしてなかなか許しませんでした。そして、何とか菊井選手が懐に入った場合でも意外にも三谷選手の回転が速くて、せっかく接近戦に持ち込んだものの逆に菊井選手は押されたように思いました。結果、判定で三谷選手が勝利しました。
他の選手たちの試合もなかなか凄まじく、けっこう出血していました。岡山出身のボクサーが瞼から出血してドクターチェックを受けていましたが、グローブを突き上げて「まだまだ、やれるでぇ!」と掛け声を挙げたときには、見ているこちらも熱くなりました。とにかく、みんな、ボクシングに対する態度が真摯で、スポットライトを浴びたリングが生半可な気持ちでは近寄ってはいけない神聖な場所のように感じられて、神々しく見えました。
ただ、プロボクサーというのは、プロスポーツ選手でありながら、ボクシングだけでは生活できません。働きながらスポーツに取り組んでいるので、どうしても生活が大変なようです。ただでさえ過酷なトレーニングな上に、経済的にも厳しい環境を強いられるようです。ですので、リングの上だけでなく、トレーニングでも実生活でもボクサーはもがき(=STRUGGLE)ます。まるで剥き出しの生命を燃やすように…。ただ、ほんのひと時、世界チャンピオンになった時、初めてその苦労が一時報われるようです。とても過酷で孤独な世界のようですが、しかし、まったく人情がないわけでもないようです。過酷な選手生活をまるで修行僧のようにストイックに戦い続けてきた元ミドル級世界チャンピオン、 マービン・ハグラー
は言います。
諦めずに自らの目標に向かって努力していたら、
いつか何かが起こるもんさ。
昔、トレーナーに言われたよ。
お前がキューキュー軋む音を立てて車を走らせていたら、
きっと誰かがオイルを入れに助けにきてくれる。
人生とは、そういうもんだって。
(林壮一
「マイノリティーの拳
」から マービン・ハグラーの言葉より抜粋)
格好悪くても貧しくても、がむしゃらにもがいたり、むきになって燃焼したりすることでリアルな生を生きることで、それが周囲の人々をも熱くするのかもしれません。醒めた大人になって忘れてしまいがちな、そんながむしゃらさを今回のボクシングは思い出させてくたように思います。ただ一方で、危険を顧みずに人生を賭けて殴り合う彼らは、ボクシングジャンキーなんだろうなあとも思ったりもしました。
坂田一男展
明治22年岡山市に生まれた坂田一男 は、上京して川端画学校で裸婦を描き、パリでレジェ にキュビズム を学び、帰国後中央画壇との接触を断ち倉敷市玉島で活動し、戦後A.G.O.(アヴァンギャルド岡山)を組織して抽象絵画を制作しました。
日本らしさを感じさせない教科書的なキュビズムの作品であり、日本で正確にキュビズムを理解した最初の日本人かもしれません。極端に言うと、特徴のない作品に感じられるかもしれません。しかし、おそらく坂田は美を賛美する視点ではなく、科学者の冷徹な視点で物事を見ようとしていたのだと思います。それまでの芸術は美の追求であったものが、20世紀美術に至って芸術は、科学のように、物事の本質を見透かす真理の追究に変わったのだと思います。なので、「偶然は作者自身のものではない」と言って、的確・正確に物事を捉える科学的普遍的視点を重視して偶然を排除しようとしていたのだと思います。また、シンボリズムを感じさせない、画面を二分して中央に壷(円錐)を配置したり、工具を標本的に並べるように配置する「メカニック・エレメント」などもそういった静的な科学的視点を感じられます。
また、思い切り良く中央画壇と距離を取るものの、小さく閉じこもるのではなく、前衛芸術を普及するために、世界を志向する団体を主宰したりするなど、普遍的な世界への眼差しが感じられます。
いうなれば一地方に過ぎないにもかかわらず、キュビズムを正確に理解し、中央に対して対等に距離を保って、さらに世界を目指す高い志を持つ人物が岡山にいたことは、地方の若い芸術家たちにとって、とても勇気づけられることだと思います。
京都SFフェスティバル2007
京都SFフェスティバル2007
に行ってきました。
京都SFフェスティバル2007は昼間に行なわれる講演会形式の本会と宿泊して行なわれる分科会形式の合宿があるのですが、本会のみ参加しました。本会では、①円城塔インタビュー②東浩紀インタビュー③ティプトリー再考④さよならソノラマ文庫の4つが順番に開催されました。
①では「Self-Reference ENGINE」
の著者である円城塔
氏に菊池誠
氏がインタビューされました。著者略歴や小説で用いられている科学用語や背後に隠されている数学的構造について解説されたりしました。金子邦彦「カオスの紡ぐ夢の中で
」も紹介されていました。
②では、批評家で哲学者の東浩紀
氏にSF評論家の大森望
氏がインタビューされました。インタビューというよりは対談といったような展開になりました。桜坂洋
氏との共同執筆小説「キャラクターズ」についても語られたりしました。欲を言えば、もう少し東さんの独り語りが多くても良かったかなあと思いました。また、熱烈な若者のファンが多いのにもびっくりしました。東さんの言葉を一言も聞き漏らすまいととても真剣に聞き入っていた若者の姿に感動しました。
③では、ティプトリー
の数奇な人生や日本での当時の評価について、岡本俊弥氏、大野万紀氏、鳥居定夫氏(水鏡子)、米村秀雄氏のSF評論家四氏によって語られました。ティプトリーは子供時代にアフリカに居たり、陸軍やCIAに勤務したり、女性であることを隠した覆面作家であったことが当時のフェミニズム運動とややこしくなったり、最後は病身の夫を撃ち殺して自分も拳銃自殺を遂げるというとても波乱に富んだ人生で、小説だけでなく、その生き様もとても興味深いものでした。作品タイトル自体も「愛はさだめ、さだめは死」や「たったひとつの冴えたやりかた」などドラマチックでとても興味深いです。
④では、ソノラマ文庫
について、作家の菅浩江
さんや秋山完
さんやレビュアーの三村美衣さんがトークされました。80年代ノリといいますか、学園祭ノリというような景気のいいノリで賑やかなトークで楽しかったです。多分、合宿も似たようなノリかもしれません。合宿こそが本当の醍醐味でしょうね。秋山さんのお話が愉快でとても笑えました。また、読み手の想像力が必要なスペースオペラが売れないと嘆かれていましたが、会場の反応はいまいちだったかもしれません。
特に印象に残ったのは、円城塔氏インタビューでした。数学的な話が多くてよく分からなかったのですが、印象としては、複雑系
にも通じる物事の把握法であったり、その上で空間全体が変貌するダイナミクスを描きたいのかなと感じたりしました。(ストレンジ・アトラクター
な感じ?)。また、メタではないことや見たままのデータベース化に違和感を感じたりや冪
を表現したいは分かるような気もしました。イーガン
とはまた違った方法で現代科学している希有な作家だと感じました。とにかく、従来の科学者や作家の枠に縛られない、知恵・知性のある、とても柔らかい人でびっくりしました。
円城氏の著書「Self-Reference ENGINE」
はイーガン
の論理とヴォネガット
の筆致をあわせ持つと評されています。下記だけを読むと、ボルヘス
の「バベルの図書館
」を想起しますが、小説は無限だけでなく、自己言及や複雑系などが感じられるような作品になっていると思います。読後感は「クラインの壷
」を一周したような「あれれ?」というような不思議な感覚にとらわれました。まったく新しいタイプの小説だと思います。
全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。
しかしとても残念なことながら、
あなたの望む本がその中に見つかるという保証は全くのところ全然存在しない。
(円城塔「Self Reference ENGINE」プロローグより抜粋)
例えば私はここに存在していないのだけれど、自分があなたに見られていることを知っている。
あなたが私を見ていないことはありえない。今こうして見ているのだから。
例えば私は存在していないのだけれど、あなたに見られていることを知っている。
例えば私はいないのだけれど、見られていることを知っている。
存在などしていない私は、あなたの存在を、とてもあたりまえであると同時に
なんだかとても奇妙な方法によって知っている。
(円城塔「Self Reference ENGINE」エピローグより抜粋)
第324回岡山遊会
第324回岡山遊会(PEPPER LAND
)に行ってきました。
今回はチューターNさんによる「TimeWaveZeroの現在-物語消費、データベース、波状言論、他」という講義でした。講義は、「現在」、「歴史/起源」、「止まる時間」、「discipline 時間を超える」、「成果-実践TWZ全方向時間透視術=’批評・思考’ツール」といった章立てで解説されました。東浩紀
、オタク
、シミュラークル
、スーパーフラット、コジェーヴ
(「ヘーゲル読解入門」?)、サルトル
、マッケナ、大森荘蔵
などその他色々が出てきて、内容が非常に濃くて私の頭はオーバーヒートしそうでした。解釈が間違っているかもしれませんが、私の勝手な解釈では、歴史に囚われることなく、フラットなメモリ空間から自由に知識を取り出すような東浩紀のいうデータベースとピーター・ラッセルのいうラセン状の波状時間理論を結びつけた大胆な思考方法の提案でした。講義を聴いているときは波状時間理論を理解するので精一杯でしたが、帰宅してからよく考えてみると、データベースと波状時間理論という一見結びつきそうにないものを全然違和感なくナチュラルに結びつけていて、Nさんの着眼点の鋭さや柔軟な思考に改めて驚きました。さらに、「平面的に視る」だけでなく、歴史的視点である「奥行きを感じる」普通の視点を併用することも付け加えられていて、とてもバランス感覚のある思考に感じました。ちなみに、波状時間理論の考え方は、私的にはカート・ヴォネガット
のいう「タイムマシンなんて簡単に出来る。それは思い出すだけでタイムマシンだ」に近い考え方かもと思いました。
ところで、カードを使ったデータベース化の話題のときに、私は「教会は聖書のカード化を禁止している」と言ってしまいましたが、帰宅して調べたら間違いでした。次のような小説の一節を間違えて覚えてしまっていました。
キリスト=イスラム教会は聖書をカラー・コード化されたホログラムにすることを許さず、
製造と販売を禁じている。
……
もちろん、イマヌエルは、キリスト=イスラム教会が聖書をカラー・コード化された
ホログラムにすることを許さない、その理由を知っていた。
連続する層が重なりあうまで、真の深みの軸である時間軸を徐々に傾ける方法を学びとれば、
垂直の情報-新しい情報-を読みとることができるからだ。
これによって聖書との対話が可能となる。聖書が生気をおびはじめるのだ。
聖書が以前とはまったくちがう知覚力ある有機体になる。
もちろんキリスト=イスラム教会は聖書とコーランの両者を永遠に凍結したがっていた。
聖書が教会の外部に出れば、独占体制が崩れることになるために。
(フィリップ・K・ディック
「聖なる侵入」より抜粋)
ディックの小説の中でホログラム化を禁止しているのであって、現実の教会でカード化を禁止しているわけではありませんでした。というわけで、いつもながら間違ったことを言ってしまいました。(出席者の皆様、間違ったことを言ってしまい、すみませんでした。)ちなみに、小説の中でホログラム化を禁止している理由は、教会の指導によって方向付け・限定付けしていた聖書の読解(=人々の拘束)が、ホログラム化によって人々が自由自在に聖書を読解してしまい、人々が教会の権威を脱け出してしまうと考えたのではないかと思います。
さて、波状時間論によれば2012年には、時間は螺旋の中心に至るとのこと(=時間の終わり)。そして、その後はどうなるのか?そこで私は「文明や科学技術が進歩の頂点に達して、人間の可能性の限界、人類にはこれ以上の進歩が無くなるのではないか、逆にそこから人間自身の進化が始まって、データベース化で残っていた性格や身体が進化して、良い性格になったり(笑)、もっと自由な身体を持った今以上の人間に進化するのではないか、しかし、すでに生きている私たちには進化は訪れず、これから生まれる次世代が進化して、私たち自身は進化から取り残されるのではないか(笑)」といった、まるでアーサー・C・クラーク
の「幼年期の終り
」のようなSF的想像をしてしまいました。
さてさて、会合は、他にも、オタクや萌えやエヴァンゲリオン、スノッブ
やアナーキズム
やイデオロギーなどについても語られました。とても充実した時間を過ごすことができました。振り返ってみると、会合での私はヴォネガットのボコノン教
でいうランラン(=人々をある思索の路線からそらす人間)だったかもしれません(笑)。私としては、とても勉強になり、とても楽しい時間を過ごせました。