ケイト・ウィンスレット その2
この映画は、英国の著名な作家で哲学者のアイリス・マードックの半生を描いた物語です。映画は若き日のアイリスをケイト・ウィンスレットが演じ、年老いてアルツハイマー病に冒されてゆくアイリスをジュディ・デンチが演じています。原作は、文芸評論家で夫のジョン・ベイリーの回想録が元になっています。
■あらすじ
この映画は2つのパートに分かれています。1つは恋愛に自由奔放な若き日のアイリスを描いています。もう1つは年老いてアルツハイマー病を患って自分がどんどん失われてゆく晩年のアイリスが交互に描かれています。アイリスの夫ジョン・ベイリーは、若いときはアイリスの自由奔放さに振り回され、年老いてからはアルツハイマー病によって振り回されます。ジョンは翻弄されているように見えますが、それでもジョンはアイリスを強く愛し続けるという話です。
若い頃のアイリスは数多くの恋愛遍歴を持ち、ベイリーと付き合いはじめても、他に恋人がいるくらいでした。そんな恋人のひとりにモーリスがいました。モーリスもアイリスの恋人の多さに辟易しており、ベイリーを交えた食事会の席でも、そのことでアイリスを責めたりしました。モーリスによれば、アイリスがたくさんの恋人を作るのは小説を書くために経験豊富な男達を知るためだというものでした。そこで、アイリスとモーリスの間でちょっとした口論になるのですが、ベイリーはアイリスをかばいます。アイリスはベイリーの優しさに心を動かされて深い関係になります。しかし、それでもアイリスには多くの男友達がいて、ベイリーは友人のジャネットからも忠告を受けたりします。けれども、ベイリーはそれでもなおアイリスを愛し続けます。しかし、あまりの男友達の多さに嫉妬したベイリーはアイリスの世界に自分を入れてくれないことを寂しくアイリスに訴えます。アイリスはベイリーと世界を共有するために自身の男性遍歴についてベイリーに告白します。ここは驚くと共にちょっと面白かったのですが、次から次へとアイリスの男性遍歴が明かされてゆきます。「えっ!そんなにたくさんいたの?!」というくらい(笑)。すべての男性遍歴を聞き終わって、アイリスとベイリーは抱き合って深い愛を誓うのでした。
一方、年老いたアイリスはアルツハイマー病に冒されて痴呆に悩まされますが、なんとか最後の小説「ジャクソンのジレンマ」を書き終えます。しかし、その後はどんどん病気が進行して、言葉だけでなく、アイリスの人格さえも失われてゆきます。いつの間にか街を徘徊したりしてベイリーを心配させたりします。友人のジャネットの葬儀の帰り道では興奮して、走っている状態の自動車から飛び降りさえしてしまいます。ベイリーはそんなアイリスに手を焼きながらも自宅で面倒を見続けますが、ついにアイリスの症状も酷くなり、ベイリーも限界に達したとき、アイリスを介護施設に入れることにします。そして、それからまもなくしてアイリスは静に息を引き取ったのでした。
■アイリスの両性愛
ここでは、普通とはちょっと違ったこの映画の見方を提示します。普通はこの映画は若い時はアイリスの自由奔放な恋愛遍歴に、年老いてからはアイリスのアルツハイマー病に振り回されながらも、夫ジョン・ベイリーがアイリスとの苦労しながらも愛し合った二人の愛を描いた物語として受け取られると思います。しかし、ここではそれとはちょっと違う見方を提示しようと思います。
映画の中のアイリスはよく「真実は私の胸の内にだけある」と言っています。アイリスは自分の心のうちを人に知られるのを好みません。小説も最初は誰にも読ませんでした。アイリスには、ちょっと秘密主義なところがあります。ですので、本当は秘密でもないのに秘密っぽくして「さあ、どうかしら?」(ニヤリ)といった感じでジョンをからかうようなところがあると思っていました。例えば、それは映画の中でカフェでアイリスとジョンが落ち合う場面で、先にカフェで待っていたアイリスが女友達と別れのキスをしていました。ジョンはそれを色々と勘ぐって「君はレズなの?」と言って尋ねます。アイリスはニンマリと微笑んでその質問に答えませんでした。私はてっきり「真実は私の胸の内にある」という信条でジョンをからかっているのかと思っていました。
ところが、アイリスの経歴を見てみると、実はアイリスにはなんと女性の恋人がいました!相手は彼女が勤めていた大学の同僚だったようです。1963年、44歳のときにアイリスは大学を辞めていますが、どうやらアイリスとその女性との同性愛がばれたのが原因でジョンとの間に夫婦の危機があり、その女性の恋人への執着を断つためにアイリスは大学を辞めたようなのです。この点を踏まえると、ジョンに「レズなの?」と訊かれた時にアイリスが答えなかったのは、ジョンをからかっていたわけではなかったと思います。さらに、アイリスの男性遍歴を全部告白していた場面をそれを踏まえて考えると、たしかにアイリスが男関係を洗いざらい喋ったことに嘘はないのですが、それは男関係だけであって、まさかアイリスが女性とも関係しているとはジョンは夢にも思っていなかったのではないでしょうか(笑)。なかなかお茶目なアイリスです(笑)。
ともかく、アイリスは女性も男性も両方いけるバイセクシャルだったようです。ジョンから見れば、なんだか裏切られたような気もしないではないですが、私が思うに、アイリスにとっては男性の恋人と女性の恋人では次元が違ったのではないかと思います。アイリスにとっては、どちらも同じように愛していたのではないでしょうか。特にアイリスには子供がいませんでしたから、恋愛に対しては、比較的、自由な感覚があったのかもしれません。ただし、一方のジョンも、実はアイリスと死別してから、わりと早くに再婚しています。まあ、でも、それでいいんだと思います。本人の自由意志だと思います。他人がとやかく言うことではないのでしょう。いやはや、とにもかくにも人間というのは、なかなか複雑な生き物のようです。
ところで、面白いのですが、アイリスは1993年に過去の自分の日記(1945年~1954年頃)を見返してみたところ、自分があまりにも多くの人に恋してきたことを知って、自分で自分に驚いています。「何を今さら!」とちょっと笑ってしまいます(笑)。しかも、1985年にアイリスは批評の中で複数の人間と関係している作家を厳しく非難さえしています。いやはや、なんともお茶目なアイリスです(笑)。
アイリスの性は、まあ、ノーマルに考えれば自分勝手と映ると思いますが、半面、とても自由です。アイリスは異性にとどまらず、同性までも性愛の対象になっています。どちらか一方ではなくて両方というところがアイリスらしいと思います。このアイリスの自由な姿勢が彼女の哲学や思想にも反映されていると思います。彼女は常識や既成概念に囚われることなく、物事の本質に迫っていきます。そういった彼女の自由な精神が哲学よりもさらに深い、彼女の小説に表現されているような精神の深みへ彼女を到達させたのだと思います。
■演技について
この映画でのウィンスレットの演技は、一見何の変哲もないように見えます。しかし、実はよく見ると、ウィンスレットの様子が他の出演作とはどこか違っています。何か変です。普段の彼女とは違った違和感を感じます。よくよく見てみると、目が何だか変です。そこで若い頃のアイリス・マードック本人の写真や映像を見てみました。そうしたら、この映画でウィンスレットがやろうとした演技の意味がよく分かりました。
実はアイリス本人の目は、普通の人とは違う、ちょっとした特徴がありました。一番の特徴は、左目がわずかに外斜視になっていることです。次に、右目が利き目になっており、右目の眼光がひと際輝いていることです。また、目の動きにも特徴があって、普通の人とは違って、目がとてもよく動きます。インタビューで話しているときの映像を見ると、時々、目が少し飛び出て、カッと力強く見開いたような目になったりしますし、逆にうっすらと見開いて集中したりすることもあります。そして、テキパキと本当によく動く目で、しかも眼球の可動範囲が広く、動き方も上下左右だけでない多様な角度で動きます。まるで眼窩にはめ込まれた球体がコロコロ、コロコロと動くような感じです。そして、何よりも、グッと集中したときの目、カッと見開いたときの目の眼光が極めて力強いです。変な言い方ですが、眼にグリップ力があって、グリッと紙に折り目を付けるように目で押さえられる感じです。おそらく、アイリスは自分の心の深いところへも、意志の力が強いので、比較的簡単にダイブできているように感じられます。例えば、普通の人は思い出すときに眉間に皺を寄せて「えーと」と暗闇を手探りするように頭の中に自分の意志を届かせようとするものです。しかし、アイリスの場合はほんのちょっとだけ意志を集中させるだけで、自分の心の深いところまで比較的簡単に手が届いているように感じられます。もちろん、普通の人と同じように「えーと」と思い出す行為もやってはいます。ただ、普通の人と比べれば、容易に深いところへ入っていっていると思います。ともかく、アイリスは目に特徴のある人物です。
さて、そんな目に特徴のあるアイリスですが、それを演じるウィンスレットも特徴のある目つきになっています。まず、アイリス本人のように外斜視に見えるように、ウィンスレットは目の見開き方を左右で若干異なるようにしています。具体的には、右目を大きく見開き、左目はそれよりは小さく見開いています。そして、カメラと顔の角度を正対させずに若干角度をつけることで、左目の白目の部分をひきたたせて、左目が外斜視であるように見せています。同時に右目は大きく見開かれ、右目が利き目となって視線のリードとして力強い目になっています。さらに、眼球も通常の位置よりは少し前に飛び出しています。そして、目が飛び出しているため、眼光も通常よりは強くなっています。しかも、ウィンスレットはこれらの状態を、静止状態ではなく、自然な動きの中で行っています。ウィンスレットの顔のアップがある場面にそれがよく表れています。驚いたことにウィンスレットは、静止した瞬間的にこれらの特徴を現出させるのではなく、連続した動きの中で動きに合わせて自然に連動させて行っています。歌いながらや昂ぶった感情が連続する中で自然に連動させて演技しています。(参考動画参照)。
参考写真:上段左端がアイリス・マードック本人。上段右端が演じていないときのウィンスレット本人。
それ以外はアイリスを演じているウィンスレット。
参考動画 ①「Iris -A Lark in the Clear Air- 」 ②「Iris -Kate Winslet as Iris Murdoch- 」 ③「Iris Murdoch 」
なお、これらの特徴は、この映画「アイリス」でのウィンスレットの目と他の出演作でのウィンスレットの目を見比べてみるとはっきりすると思います。例えば、他の出演作で言えば「ネバーランド」と見比べてみるとはっきりすると思います。「ネバーランド」でのウィンスレットの目は、元々、目がまっすぐなのですが、コルセットの衣装を着て姿勢がとても良いためか、とてもまっすぐな目になっています。それに比べて、アイリスを演じているウィンスレットの目は左右が非対称です。ともかく、このアイリスを演じているときのウィンスレットは他の出演作とは様子が少し違っています。
しかし、ウィンスレットがどのような技術でそれらを実現しているのかは分かりません。俳優自身の技量によるものなのか、メイキャップによる演出によるものなのか、あるいは、撮影時のカメラワークや撮影後の画像処理によるものなのかは分かりません。例えば、「タイタニック」の船尾から飛び降りようとした場面の撮影では、何度も撮り直して涙が乾いてしまうので、ウィンスレットは目の中に氷の粒を入れて撮影したそうです。もしかしたら、アイリスの撮影では眼球の裏側に綿でも詰めて、眼球を飛び出させでもしたのでしょうか?でも、それはちょっと痛いんじゃないでしょうか?そうじゃなくて、やはり、気合いで目に力を入れて演じたのでしょうか?もしそうだとすると、目にかかる負担が大きくて、後々大変だと思います。ともかく、実際はどうやって演じたのかは分かりませんが、ちょっと不思議です。ともかく、映画史上、斜視を演じた俳優は他にいないのではないでしょうか。
■その他の演技
その他の演技についても、驚かされました。最も驚かされたのは、川の中を全裸で泳ぐ場面です。確かにウィンスレットの演技はいつも大胆なのですが、この全裸での水泳はいつになく大胆でした。ただし、これは夫ジョン・ベイリーの原作「アイリスとの別れ1 作家が過去を失うとき」に忠実で原作に書かれているエピソードそのままです。驚いたことに、アイリス本人は実際に全裸で戸外の川で泳ぐのが大好きで、近所の川で全裸でよく泳いでいたそうです。他にも、例えば、イタリア旅行で行った川でもアイリスたちは全裸で泳いで、人だかりができる騒ぎになって警官が駆けつけたそうです。ですから、映画でセンセーショナルになるように勝手に脚色して大胆に描いたというよりは、原作を忠実に再現したら、結果的に大胆になってしまったというのが本当のところだと思います。それにしても、ウィンスレットは魚のような動きでキレイでした。川の緑と女性の裸体はラファエル前派の絵を彷彿とさせて、自然の緑と女性の白い滑らかな裸体のコントラストが美しかったです。それから、ジョンとのベッドシーン(?)も大胆でした。戸惑うジョンに対して、彼のズボンのポケットにアイリスが手を突っ込んでひねり上げる場面には驚きました。ここでは、実物が映っているわけではありませんが、そのしぐさ(=演技)に少々衝撃を受けるのではないかと思います。
■アイリスを演じたウィンスレットの演技に関する注意点
さて、ここまでアイリスを演じたウィンスレットの演技について幾つか語ってきましたが、ここで注意しておきたいことがあります。私はウィンスレットがアイリスの目の特徴、つまり、「左目が斜視、右目が利き目」をうまく演じたことを言いました。しかし、勘違いしやすいのですが、私はウィンスレットがアイリスの斜視を真似した理由は、形態模写のように、ただアイリスの外見だけを真似することを目的としたわけではないと考えています。どういうことかと言うと、外見をアイリスらしく見せるために斜視を真似したのではなく、アイリスの本質を表現するのに、この場合には、アイリスの斜視を真似したんだと考えています。「目は口ほどにものを言う」という諺がありますが、アイリスの人格の特徴は目に際立って顕れていたと思います。アイリスの心の有り様がアイリスの目によく表れていると思います。なので、ウィンスレットはアイリスの目を真似したんだと思います。単に形態模写を目的としたわけではないと思います。実際のアイリス本人の斜視とウィンスレットの真似した斜視では、まったく同じというわけではなくて、違いがあります。しかし、アイリスの心の有り様やアイリスの本質はウィンスレットの真似した目によって上手く演じられていると思います。
これは、このアイリスの演技に限らずに、他の出演作にも言えることだと思います。ウィンスレットの演技は演じるキャラクターの本質を捉えて演じることに特徴があると思います。もちろん、キャラクターの本質とは言っても、それはウィンスレットが捉えた、ウィンスレットが個人的に考えているキャラクターの本質に過ぎません。ですから、ウィンスレットが捉えた本質が正しいのかどうかという問題は常にあります。ただ、それは認識の問題で、どの俳優のどの演技にも生じる問題ではあります。そんなことよりも問題なのは、例えば、アイリスの本質がウィンスレットに移植されて、アイリスを演じたウィンスレットとなって顕現したとき、それはアイリス本人とは、また違った人物であるように人々には映る可能性があります。しかし、それでもなお、アイリスの本質を捉えた演技になっていると感じられるのです。それが、演じるキャラクターがアイリスのような実在の人物ではなく、架空の人物であった場合でも、そのキャラクターの本質がウィンスレットという生身の人間の中で”生きた本質”となって顕現していると思います。(*1)
さて、なんだかよく分からない話になってしまいました。今、言ったような話は、演技においてよくある話のようであり、あるいは、ちょっと変わった話のようでもあります。とりあえず、ここでは、ウィンスレットの演技は、外見や形態模写などの表象からではなく、内面や本質から、演じるキャラクターに迫っているのではないかということだけを頭の片隅に置いておいて下さい。「アイリス」では斜視という外見を似せるという演技をやっていると思われるかもしれませんが、実はウィンスレットは内面から迫るという演技をやっているのだということを頭の片隅に置いておいて下さい。
■まとめ
この映画で描かれているアイリス・マードックは夫ジョン・ベイリーから見たアイリスであって、アイリスのほんの一面に過ぎません。アイリスの哲学や小説に触れるとそこにはまた別のアイリスを発見することになると思います。しかし、アイリスの何ものにもとらわれない自由な思想や哲学は、この映画で表れている彼女の自由奔放さに繋がっていると思います。アイリスという人間全体を理解しようとするときに、この映画はアイリスの貴重な一面を私たちに教えてくれると思います。また、アイリスほどの知性の持ち主が最後にはアルツハイマー病に斃れたことは、私たちに人生の悲痛さと儚さを教えてくれていると思います。人生は本当に短いのだと思います。
なお、アイリス・マードックの哲学や思想については、この私的魔女論シリーズの最後に考える予定です。
■注釈
(*1)この成功例が「愛を読むひと」だと思います。「愛を読むひと」では監督のスティーヴン・ダルドリーは原作で描かれているハンナ・シュミッツの本質を見誤っていると思います。それに対して、ウィンスレットは見事にハンナの本質を捉えていると思います。ダルドリー監督は「朗読者」の主人公を誤ってミヒャエルに据えてしまって「愛を読むひと」を構築してしまいました。しかし、ウィンスレットがハンナを正しく演じたことで、この映画は救われていると思います。監督が最重要の主人公をマイケルに、二番目に重要な登場人物をハンナにしたことで、ウィンスレットが捉えたハンナ像でウィンスレットが演じられる余地が運良く生じたのだと思います。ダルドリー監督のハンナ像では、ハンナは強制収容所の元看守という過去を持つ文盲の女性で、無知ゆえに罪を犯し、恥を克服できなかったために刑務所で生涯を閉じた頑固な女性という貧しい女性像で終わってしまったと思います。ところが、ウィンスレットが正しくハンナを捉えたおかげで、ハンナが深みのある女性像に仕上がったと思います。結果的には、それが功を奏して、この映画にダルドリー監督の構想にはなかった深みを与えることができたのではないかと思います。女優が映画監督を超えて映画に生命を吹き込むことに成功した極めて珍しい事例だと私は思っています。
■参考文献
ジョン・ベイリー「作家が過去を失うとき -アイリスとの別れ(1)」
ジョン・ベイリー「愛がためされるとき -アイリスとの別れ(2)」
ケイト・ウィンスレット その1
■はじめに
女優ケイト・ウィンスレットの人と作品について、書いてみようと思います。
なお、作品については完全ネタバレで書きますので、ご注意・ご了承下さい。
■「ケイト・ウィンスレット 人と作品」シリーズの全体構成について
はじめに、「ケイト・ウィンスレット 人と作品」シリーズの全体構成を話しておきます。このシリーズは「その1」から「その8」までの8つの記事で構成するつもりです。
まず、「その1」では①ウィンスレットの女優として優れた点(=問題提起)と②ウィンスレット本人の人となりについて書きます。次に「その2」から「その7」まではウィンスレットが出演した映画の作品論を書きます。そして、最後の「その8」では、「その1」で述べたウィンスレットの優れた点の背後にあるウィンスレットの特徴について、「その2」から「その7」までを踏まえて私なりの考えを書こうと思っています。
ただし、「その2」から「その7」までを踏まえるとは言うものの、それは作品そのものを踏まえるのであって、「その2」から「その7」までの作品論の記事を踏まえるという意味ではありません。つまり、各作品論から論理的に「その8」が導かれるという工程にはならないと思います。「その2」から「その7」までは、どちらかと言えば、個別の作品論にとどまると思います。では、なぜ、「その2」から「その7」までが必要なのかと問われるかもしれません。これはなんて言いえばいいか、作品を身体で喩えると、極端に言えば、作品論は骨で、作品論で取り上げられなかった作品の部分は肉になります。作品論で骨格を浮かび上がらせることによって、逆に肉の部分も明確に浮かび上がってくると思います。そして、肉の部分が浮かび上がってくると、そこには骨にはない肉の部分のみが持つ生きた熱気が伝わってくると思います。私はこの熱気をこそ「その8」でつかみ出したいと思っています。ですので、とにもかくにも、映画そのものを鑑賞して下さい。映画を鑑賞せずに作品論だけを読んだだけでは、肉の部分は分からないと思います。そして、肉の部分が分からなければ、熱気について書いた「その8」もまったく意味不明になってしまいます。確かに、今となってはこのシリーズで取り上げた作品は「タイタニック」を除いては鑑賞するのが難しいかもしれませんが、読者の皆様には、とりもなおさず、まず映画を鑑賞して下さいますようお願いします。
■問題提起 -変身の秘密-
では、私が考えているウィンスレットの女優として優れた点を挙げます。それは主に次の3点だと考えています。1つ目は、言うまでもなく、(1)「演技力」です。2つ目は(2)「意味の把握力」です。3つ目は(3)「衝撃的な演出力」です。次にそれぞれについて簡単に説明しておきます。
(1)の「演技力」はさらに次の3つに分解できると思います。1つ目は演じる人物の感情などを正確に表現できることです。2つ目は「深い悲しみ」など心の位置を深く遠くまで動かせることです。つまり、深い表現ができています。3つ目は演じる人物になりきることです。人物になりきるといってもコピーではなく、その人物が生きた人物、リアリティのある人間として動き出させることができます。つまり、人物を人間全体として表現できていると思います。
次に、2つ目の優れた点の(2)「意味の把握力」ですが、ウィンスレットは自分の演じる人物がどういった心理でそのような行動や感情になるのかをよく把握しています。これは(1)の正確に演じることに通じます。演じる人物の気持ちを正確に把握しているからこそ、その人物を正確に演じられるのです。また、この「意味の把握力」が、彼女が出演しようとする作品の選択にも生かされていると思います。脚本を読んで作品の意味を見抜く力があるから、良い作品を選べるのだと思います。ただし、意味の把握力と把握したことを細かく言葉で説明できることとは少し違うと思います。あくまで把握であって説明ではないと思います。
それから、3つ目の優れた点「衝撃的な演出力」ですが、これはウィンスレット自身によるものなのか、それとも映画監督・演出家によるものなのかが不明確なので、ちょっとウィンスレットの優れている点に含めて良いものか迷っています。しかし、彼女の一連の出演作品を見ていると、監督は違えども非常に衝撃的な演出が多いです。ウィンスレットがあえてそういった衝撃的な演出・表現がある映画を引き受けているのかもしれませんが、これだけ多いとウィンスレット自身による演出表現の可能性が高いと思います。
以上をまとめておくと、私の考えるウィンスレットの優れた点は下記のような感じです。
(1)演技力 ①表現の正確さ ②深い表現ができる ③人物全体が表現できる
(2)意味の把握力
(3)衝撃的な演出力
これを読むと「なんだ?俳優にとって当たり前のことじゃないか?」と思われるかもしれません。俳優にとっては身につけていて当然の基本的な事柄かもしれませが、実はこれがウィンスレットが特異なまでに優れている点だと私は思っています。これについてはウィンスレットの作品を鑑賞していただくのが一番良いと思います。彼女の作品を見れば、上記したようなことを彼女が如何に見事にやってのけているかを理解していただけると思います。映画を鑑賞して、その物語の意味するところがつかめたら、そこから逆算的にウィンスレットの優れた点が浮かび上がってくると思います。物語の意味をつかむのが大変かもしれませんが、私の作品論が多少なりともその補助になれば幸いです。
そして、ここからが問題です。このようなウィンスレットの優れた点は何に起因するのでしょうか?彼女はどうやってこのような演技が生み出しているのでしょうか?これからこのシリーズを読むにあたって、読者の皆様にはこういった疑問(=問題意識)を少しでいいので持っていただけたらと思います。このような問題意識をほんの少し頭の片隅において、このシリーズを読んでいただけたらと思います。この疑問については、このシリーズの最後にまとめようと思います。そして、そこでウィンスレットの”変身の秘密”に迫ってみたいと思います。
とはいえ、そんなに堅苦しい話は抜きにして気楽に映画を見てください。私の記事もどちらかというと、ウィンスレットの一ファンとして、単に彼女の映画が好きだということを自分の言い方で言いたいだけなのです(笑)。まあ、何事も大げさにしてしまうサガなんでしょう。
それでは、ウィンスレットの人と作品について書いてゆこうと思います。今回の記事では、ウィンスレットのおおよその人となりを書きます。次回以降の記事では、ウィンスレットが出演している作品の作品解説を書いてゆきます。
■ケイト・ウィンスレットの略歴
ケイト・ウィンスレットは、英国のイングランド南部のバークシャー州はレディングという街の出身です。
祖父母・父母・姉妹も俳優の演劇一家で育ちます。両親は俳優学校を経営しています。
1975年生まれで、8歳の頃に女優を志し、11歳から16歳までレッドルーフ演劇学校で学びます。
1991年にTVドラマ「ダーク・シーズン」でデビューし、「ゲットバック」などにも出演します。
1994年にピーター・ジャクソン監督の「乙女の祈り」で映画デビューします。
1997年に公開された「タイタニック」で一躍に有名になります。
1998年に助監督のジム・スレアプレトンと結婚し、2000年に長女を出産しますが、2001年に離婚します。
2003年にサム・メンデス監督と再婚して、同年、長男を出産します。
2009年に「愛を読むひと」でアカデミー賞主演女優賞を獲得します。
■ウィンスレットの人種について
英国は古くはケルト人、ローマ支配下の時代にはローマ人が、中世にはサクソン人(=ゲルマン人)が流入しています。また、部分的に北欧のデーン人の支配下にあった時代もあったそうです。英国は極西にあって大陸から様々な民族が入り混じったので、何人なのかを特定することは難しいのでしょう。そういった点では、極東にある日本と似ています。ちなみに、ウィンスレットは、髪はブロンドで、虹彩は綺麗なアイスグレーです。普通に考えれば、ウィンスレットはアングロ・サクソン人じゃないかなあと思います。ただ、映画『ホーリー・スモーク』でウィンスレットの全裸を見たとき、私はなぜだか「古代ケルト人だ!」と思ってしまいました。私は古代ケルト人なるものを知っているわけではないのですが、なぜかそう思ってしまいました。
■ウィンスレットの家族について
父母は舞台俳優で、姉・妹・弟の4人姉妹で、姉も妹も女優です。また、レディングの地元新聞の調べですが、土地台帳によればウィンスレットの祖先はパブリカン(=パブの亭主)だったそうです。また、ウィンスレットがアカデミー賞を欲しいと考えた理由のひとつに両親が俳優学校を経営していることもあるのではと私は思っています。
■初めて女優を目指した場所
ウィンスレットによると、8歳の頃、テレビドラマを見た後のトイレの中で母親のことを考えていたときに、自分が女優になりたいということに気づいたそうです。「お母さんが女優になればどんなに素晴らしい女優になるだろう」と考えたとき、はたと「自分は女優になりたいんだ!」と気づいたそうです。また、ウィンスレットにとって、トイレはとても重要な空間だそうで、今までも閃きや決断などトイレが重要な役割を果たしてきたそうです(笑)。まるで、どこかの国の中小企業の社長さんみたいですし、”おばさんぽい”と言われるのも分かるような気がしますが、変な話ですが、同時にハリウッドやセレブに象徴される虚栄心に満ちた虚飾の世界に流されない彼女のリアリズムもそこにあるのでしょう。それに、彼女の演技は真にリアルな人間を描くことがテーマのひとつになっているのではないかと思います。ちなみに、彼女のオスカー像もトイレの中に飾ってあるんだそうです。
■ウィンスレットの家庭
ウィンスレットによると、彼女の家庭は裕福ではなかったそうで、服は姉のお下がりで、お小遣いもとても少なかったそうです。ただし、お小遣いの件は父親のコメントによると「うん?それが普通だよ」とのことです(笑)。どこの国でもお小遣い事情は似たような話みたいですね。夏には、家族でオンボロの中古車に乗って、よく海水浴に行ったそうです。父親は俳優の仕事がないときはトラックの運転手やクリスマスツリーの配達人などの様々な仕事をしてきたそうですが、船で事故に遭い、18時間に及ぶ手術をし、足に障害が残ったらしいです(?)。ウィンスレットはその時の障害者子弟の奨学金で演劇学校に通ったそうです。ただ、父親はアカデミー賞のレッドカーペットを家族と一緒に歩いていたので、そう重度の障害ではないんじゃないかなと思います。(←この件はちょっと不正確かもしれません。)
■発音の苦い思い出
ウィンスレットによると、演劇学校で先生との間でちょっとした事件があったそうです。ウィンスレットの英語の発音に出身の訛りがなく、きれいな発音だったそうなのですが、先生はそれをウィンスレットが出身を偽っており、そんな嘘をつくような不誠実な者には役は与えないと言ったそうです。これは当時のウィンスレットにはショックだったようです。ところで、英国の階級と英語の発音の関係など、どうも私にはよく分かりません。また、英国の教育制度も勉強不足で、いまひとつ分かりません。ウィンスレットは16歳で演劇学校を卒業しているようですが、日本の教育制度と比べると、物足りない気がします。あ、それから、ウィンスレットの英語の発音はかなり良いんじゃないでしょうか?英語のことなので私には正しく評価できませんが、聞いていてスカッとする気持ち良さがあると思います。また、私には違いが分かりませんが、また役者なら当たり前なのかもしれませんが、役によって、英語の訛りも簡単に変えるそうです。個人的な推測ですが、英国人はみなそれなりに言葉に対して思い入れはあるとは思いますが、ウィンスレットはそういうのとはまた少し違う意味で言葉に対する思い入れがあるような気がします。
■演劇学校時代のあだ名
また、生徒時代は”Blubber”(=脂肪)とあだ名されてイジメられて、よく泣いていたそうです。ただし、学校側はイジメは無かったとコメントしています。ウィンスレット自身も当時はとても太っていたと述懐しています。「顔はともかく体型がねぇ」とよく言われたそうです。ただ、ウィンスレット自身は自分の顔を美人だと思ったことは一度もないそうです。ドラマ「ダーク・シーズン」を見ると、確かに横に安定感のある将棋の駒のような体型です。今と比べると着ぐるみを着ているんじゃないかというくらい身体が大きいです。縦と横の長さの比が今と全然違います。まさにウィンスレットにとってこの頃は”ダーク・シーズン”だったのでしょう。とはいえ、今現在が痩せすぎで、本来はこの頃くらいの体型が彼女にとっての健康的な体型じゃないかと思います。ただ、体型については、この後も長い間に渡ってウィンスレットに付きまとう問題になってゆきます。ウィンスレットのあだ名は普通は”イングリッシュ・ローズ”ですが、別のあだ名があって、それは、”コンバット・ケイト”というあだ名です。それというのも、ウィンスレットは体型のことでマスコミなど周囲と闘ってきたからです。ウィンスレットと体型については改めて別記します。
参考動画: ”Dark Season ep1-3 ”
■ドラマ「ダークシーズン」の頃
ところで、TVドラマ「ダーク・シーズン」ですが、ウィンスレットはまだまだ10代の子供といった感じです。体型も大きなお尻で、ちょっとしたお相撲さんといった感じです。ウィンスレットが演じている少女レートはヨーヨーを愛好していて、ドラマの中でも度々ヨーヨーで遊んでいるのですが、けっこう失敗しています。「そんなに失敗ばかりしていたら、NGじゃないの?」と思うくらいに。もしかしたら、ヨーヨーが下手というキャラ設定なのでしょうか?ケイトはヨーヨーはあまり上手ではなさそうです。ともかく、この頃のウィンスレットはどこにでもいる普通の子供と特に変わった様子はないと思います。ちなみに、サングラスのお兄さんがトレンドレだと思います。
■恋人トレンドレのこと
ウィンスレットはドラマ「ダーク・シーズン」で共演した俳優で脚本家のステファン・トレンドレと恋人関係になります。ステファン・トレンドレは1963年生れでウィンスレットより12歳年上で1990年から1995年頃まで付き合っていたそうです。ネットによるとウィンスレットは15歳くらいから彼と同棲していたようです。しかし、その後二人は破局しますが、ちょうどその頃、彼は癌を発病します。ウィンスレットは破局後も彼の看病をしていましたが、「タイタニック」の出演が決まり、彼が看病よりも「タイタニック」の出演を優先しろということで、ウィンスレットは「タイタニック」の撮影に行きます。しかし、トレンドレの病気は悪化して1997年12月に34歳という若さで他界してしまいます。そのとき、ウィンスレットには「タイタニック」のL.Aプレミアがあったのですが、そちらは欠席してトレンドレの葬儀に参列しています。後にウィンスレットも当時はあまりのショックで頭の中が混乱していたと述懐しています。そして、あのとき、トレンドレが「タイタニックに行くな」と言ってくれれば、十分に付き添って、彼を満足に送ってあげられたのにと悔やむ気持ちがあり、今でもそのことを想うと胸が痛むそうです。
■恋愛遍歴
ウィンスレットは「ハムレット」で共演したルーファス・シーウェルとも1995年から1996年の間、付き合っていたようです。彼とは「ホリデイ」(2006年)で再び共演しますが、そのときの彼の役どころは、二股をかけてウィンスレットを振り回す上司役でした。映画の中で最後に彼はウィンスレットに思いっきり振られてしまいます。元恋人同士で恋人役を共演するのって、どんな気持ちなんでしょうね(笑)。ところで、生徒時代のウィンスレットは、「ゴースト/ニューヨークの幻」で有名なパトリック・スウェイジの大ファンだったそうです。また、「タイタニック」の次の出演作品「グッバイ・モロッコ」(原題「Hideous Kinky」1998年公開)で出会った助監督ジム・スレアプレトンと意気投合して結婚します。その後、スレアプレトンとは2001年に破局しますが、2003年にサム・メンデス監督と再婚します。こうやって見てみると、15歳からほぼ途切れることなく、ウィンスレットは誰かしらと何らかの恋愛関係にあったと思います。ただ、彼女は恋多き女性という感じではなく、パートナーがいるということが生活の一部だったんじゃないだろうかと個人的には思います。
■タイタニックの実感
ウィンスレットによると、「「タイタニック」が世界中の人々に見られたんだな」と自分で実感したのは、ヒマラヤ付近を旅行中に地元の老人から「あんた、タイタニックに出てた人じゃろ」と言われたときだそうです。ちなみに、ヒマラヤ旅行って「ホーリー・スモーク」のインド・ロケのときかもしれませんね。ともかく、「タイタニック」によって生活は一変したそうで、パパラッチされるようになったそうです。
■離婚について
スレプレトンとの離婚については、夫と妻の経済的な不釣合いが原因ではないかと言われていますが、本当のところは分かりません。ウィンスレット自身は「タイタニック」の大ヒットにも関わらず、特に姿勢は変わらなかったのではないかと思います。彼女のその後の出演作や映画に取り組む姿勢から「タイタニック」で彼女は変わらなかったと私は思います。むしろ、スレプレトンが変わったのかもしれません。当時のウィンスレットが述べた離婚理由は、確か「理に合わぬことをされたから」だったと思いますが、ちょっとこの記憶は確かではありません。今でもスレプレトンは娘さんと会うので、ウィンスレットとも互いに交流はあるようですし、サム・メンデスとも仲良くやっているようです。ちなみに、トレンドレと別れたときは「お互い、いろいろな面で若過ぎた」と言っていたように思います。
■夫サム・メンデス監督のひと言
サム・メンデス監督は元々は舞台演出家ですが、「アメリカン・ビューティ」でアカデミー賞監督賞を受賞した映画監督でもあります。彼は知的で良識のあるタイプの映画監督というイメージが私にはあります。良識があることが映画監督にとって適切かどうかは微妙だと思いますが、映画人としては優れた発言が多いと思います。ところで、彼は以前は女優のレイチェル・ワイズとも付き合っていたそうです。ウィンスレットと結婚後、あるとき、テレビに出ているレイチェル・ワイズを見て、「彼女は痩せて綺麗になったね」と言ったんだそうです。それを聞いたウィンスレットが「あまり深い意味はないとは思うんだけど…」と前置きしたうえで、「夫が昔の恋人のことを誉めるのは気になる」んだそうで、それがきっかけで痩せることを決意したそうです。ただし、痩せようと思った理由はそれだけではなくて、太いのが理由で役が自分に来ないことも、痩せようと思った理由のひとつではあるそうです。
■母親と妻
ちなみに、ウィンスレットは子煩悩な母親で、子供の送り迎えや家事などの育児と女優業を両立させる優等生ママだったそうですが、さすがにいつ終わるともしれない撮影と家事の両立は無理らしく、近年は家政婦を雇うことにしたそうです。ただ、以前から言っていましたが、子供たちが家庭の味を母親の料理ではなく家政婦の料理になってしまうのはなんとか避けたいそうです。また、映画「リトル・チルドレン」のインタビューの中で、ウィンスレット扮する主人公サラが児童への性犯罪歴を持つ男性に対して最後には優しく接したのですが、記者から「自分の子供が被害に会うようなことがあっても?」と聞かれたとき、ウィンスレットは「喜んで殺してあげるわ」と答えたそうです。ウィンスレットの場合は迷わず本当に実行すると思います。そのくらい、ウィンスレットの子供に対する愛情は強いと思います。
そんな子煩悩のウィンスレットですが、「子供達との食事も楽しいのだけれど…」と前置きした上で夫のサム・メンデスとウィンスレットの二人きりでの食事にたまには行くそうです。で、実際に出掛けても、おしゃべりに夢中で、結局、どこにも立ち寄らずにドライブだけして帰ってきたこともあったそうです。どちらも同じ映画業界で働いているので話しやすいのかもしれませんね。
また、現在は英国と米国に家を持って、行ったり来たりしてるそうですが、いずれは年老いた両親の面倒を見るために英国に帰る予定だそうです。ちなみに、ウィンスレットが以前に住んでいた家はグイネス・パルトロウが買い取ったそうで、最近は隣の家も買い足して豪邸にリフォームしているそうです。また、スレプレトンと結婚していたときはテムズ川の中にある島に家があったそうで、何年か前の大雨のとき島に閉じ込められたこともあったそうです。
ともかく、彼女は開けっぴろげな性格というわけではないのですが、他の俳優たちと比べて家族の話が多く、彼女の関心事の中で家族が占める割合がとても高いように思います。もちろん、映画に対する情熱も人一倍強く、まるで男のように映画に対する情熱を語ったりします。ウィンスレットにとって大事なものは、家族と映画なんだろうと思います。ウィンスレットは、子供たち、夫、両親、姉妹などの家族愛と映画への情熱の両方がとても強い女性だと思います。
■映画が好きな理由のひとつ
ウィンスレットによると、映画の仕事が好きな理由のひとつに撮影現場の雰囲気が好きなことが挙げられています。映画の撮影現場というのは戦争状態の軍隊に似ていると思います。そこでは集団がひとつの目的に向かって、それぞれの役割を精一杯に果たそうと努めます。映画の場合は良い作品を作るという目的のためです。そして、自己犠牲を厭わずに、皆がその場での最善を尽くします。そういった雰囲気が好きなのではないでしょうか。あの非常事態での一体感は緊張感と胸躍る楽しさがあるのでしょう。ウィンスレット自身、「愛を読むひと」の撮影現場について、次のように語っています。
面白いことに、映画作りって、毎日軍隊の訓練キャンプにいるようなものなの。
大変になることはわかっている。でもそれをすり抜けなくてはならないの。
ライフルを置いて座り込み、あきらめることはできない。前進しなくてはならない。
だからある意味、超人的になる必要があるわ。撮影はそういうものなの。前進あるのみ。
もちろん、疲れるわよ。わたしだけじゃなくて、みんな疲れている。
でも全員に一体感があるから、みんなが世話し合い、相手を気遣う。この映画にはそれがあった。
だからこそわたしにとって特別な映画なの。全員が常に互いを気遣い合っていたから。
女神モリガンは戦争の女神といわれていますが、戦争にはこのような高揚感があるからではないでしょうか。ただ、好戦的なのかどうかは分かりません。ともかく、戦いに臨んで意気高揚する感覚が好きなんだろうと思います。もっとも、ウィンスレットもいざ戦いと判断したならば、炎のように燃え上がって獅子の咆哮の如き雄叫びを上げるようにも思います(笑)。他に実在の女性で女神モリガンのような闘いの女性としては、私は英国の古代ケルト人のイケニ族の女王ブーディカを連想してしまいます。
■体型の悩み
さて、ウィンスレットの一番の悩みは体型だったと思います。今では彼女の自宅には”ファッション雑誌は置いてはならぬもの”だそうです。なぜかというと、ファッション雑誌で賞賛されている細い体型は不自然極まりない体型であって自分はそのことで随分余計な無駄な悩みを抱えてしまったので、娘にはそういった無駄な悩みはしてほしくないとのことで、家には一切ファッション雑誌は置いていないそうです。
ところで、ウィンスレットは太い女優というイメージあるそうですが、私個人は太っているわけではなくて、体型が構造的に太くみえる体型じゃないだろうかと思います。確かに「ダーク・シーズン」の頃は自分でも認めているように太っていたと思います。しかし、それ以降痩せた後でも彼女が太いと言われてしまうのは、彼女の場合は構造的に太ってみえる体型だからだと思います。映画で彼女の体型を見ると、胴部がとても短いです。おそらく、胴が短い分、内臓が収まるスペースが狭いので、脂肪の有無に関係なく、ウェストが他の女性のようにくびれないのだと思います。確かに服を着ていると、一見、ウェストが少しはくびれているように見えますが、実はお尻から腰にかけて肉付きが良いため、腰と比較すると、腰の下からお尻にかけて太くなって、見た目、ウェストがくびれているように見えるのだと思います。実際にウィンスレットは他の女性ほどにウェストがくびれていないのではないかと思います。映画「ホーリー・スモーク」で全裸シーンがありますので、それを見るとそうじゃないかと思います。
ともかく、若い頃、ウィンスレットは体型でずいぶん悩んだそうです。やはり、女優としてやってゆくのにも体型は気になる問題だったのだと思います。そういったウィークポイントを挽回する意味で演技派女優として演技に磨きをかけたのかもしれません。初期の頃、おそらく、日本未公開ですが、映画2作目の「A Kid in King Arthur's Court」だと思いますが、彼女はかなり過激なダイエットをしたという話を聞いたことがあります。写真を見ると、首とかかなり細っそりしています。「ダーク・シーズン」と比べると、やはり激痩せしたと思います。ですが、その後の出演作からは比較的健康的な体型に戻っていったと思います。推測ですが、あまりに危険なダイエットは無理だと考えたのではないでしょうか?彼女は、その後、チャレンジングな役柄に続けて挑戦してゆきます。そして、モデルやハリウッド女優のような細い体型が標準的な美しい体型ともてはやされることは間違っているという結論に達したのだと思います。ハリウッドでもてはやされる体型に公然と否と言ったわけです。そこからウィンスレットの闘いが始まります。
ウィンスレットは自分の体型について、ゴシップ誌から不当な中傷をされると訴訟を起こしています。ちなみに起こした訴訟はすべて勝っており、慰謝料などは寄付に使われています。そのため、”コンバット・ケイト”というあだ名となったようです。ウィンスレットによると、30歳を越えたくらいから、体型に限らず何事にも、周囲の意見に惑わされなくなったそうです。たかが体型のことかもしれませんが、駆け出しの頃のウィンスレットはかなり深刻に悩んだのだと思います。そして、いつしか自分が正しいと思う普遍的な揺るぎない判断基準を自分の中に見つけたのだと思います。
体型のことに限らずに、ウィンスレットは「タイタニック」で得た名声に縛られたり惑わされたりすることなく、一個人の信念のようなもので自分が正しいと信じた道を歩んでいると思います。アカデミー賞を受賞した後の「愛を読むひと」の日本向けインタビューの中で「アカデミー賞は嬉しいことだけど、自分の中の個人の目標はまた別で、それは人から認めてもらう類のものではない。そういった個人的に達成したいことがまだまだある」と言っています。一見、人によっては格好をつけていると思われるかもしれませんが、虚栄心のないウィンスレットの性格からすると、おそらく、正直な気持ちなのだと思います。彼女の中には、お金や名誉ではない、何らかの手ごたえのある、生きた価値基準があるのだと思います。
■ウィンスレットのモチベーション
さて、ウィンスレットの演じることや映画に対するモチベーションの高さ、映画への情熱はどこから来るのでしょうか?正直なところ、彼女のモチベーションの源泉が何なのかは分かりません。彼女は比較的若い頃から俳優の仕事をしており、とにかく目の前の仕事をこなしてきただけなのかもしれません。そういった現場の中で自然と培われたのかもしれません。また、両親も祖父母も姉妹も俳優という俳優一家で育っているので、家庭環境から自然と俳優であることに対するモチベーションが高くなったのかもしれません。あるいは、経済的な理由かもしれません。彼女はインタビューの中でも自分の家庭が裕福ではなかったことや自分のことを労働者階級だと言ったりしています。あるいは、ウィンスレットは「自分には舞台や映画などで演じるときの恐怖感・緊張感が必要だ」とも言っています。舞台俳優によく見られる現象で、舞台の緊張感に生の充実を実感できることをいっているのだと思います。そういった役者の本能的な感覚もウィンスレットが映画に打ち込むモチベーションのひとつかもしません。とはいえ、何が彼女にとって演じることの最大のモチベーションなのかは分かりません。
■ウィンスレットのウソ
ウィンスレットはあまりウソをつかない女性です。反語的な事例ですが、ゴシップ誌で「ウィンスレットもついにハリウッドのウソにまみれた世界の住人になってしまったか?!」という記事が出たことがあります。これは逆に言うと、ウィンスレットはそれまではウソをつかない女優だっということの証明でもあると思います。もっともウィンスレットがまったくウソをつかない女性かというと、そうではなくて、「いつか晴れた日に」を監督したアン・リー監督は当時ウィンスレットはマリアンヌ役を取るために本当は19歳なのに21歳と偽っていたと証言しています。姉のエレノア役がエマ・トンプソンだったので、あまり年齢が離れすぎると良くないと思ったのでしょう。まあ、若い俳優がなんとしても役を取るために罪の無いウソをつく面白い事例だと思います。それよりもウィンスレットがウソをつかいないというのは自分の虚栄心を満足させるためにウソをつくといった意味でのウソで、そういうウソをウィンスレットはつきません。体型に関する事柄もそのひとつです。ウィンスレットは自分が正しいと思ったことは、たとえ誰がなんと言おうと、たとえ自分ひとりであっても、自分が正しいと確信しているのであれば自分を曲げてしまうことはない女性なのだと思います。
■まとめ
ウィンスレットの人となりについて、簡単にまとめてみます。
まず、ウィンスレットは家族愛が強い女性です。子供たち、夫、両親、姉妹をとても大切にしています。次に、映画への情熱も強いです。顔が綺麗なだけの飾りとしての女優ではなく、自分の考えを持ってしっかりと俳優業に取り組んでいると思います。(そのため、母親と俳優業の両立が大変そうです。まあ、世の働く母親は、皆、同様なのだと思います。ウィンスレットはどちらも手抜きしたくないのでしょうけど、とはいえ、現実はなかなか難しいのではないでしょうか。)
それから、恋愛遍歴も豊富です。15歳くらいから、ほとんど途切れることなく、何らかの恋愛状態にあったのではないでしょうか。ウィンスレットは一度に多数の恋人がいるというような恋多き女性というわけではありませんが、ともかく、若い頃は常に誰かひとりは恋人が不可欠だったのかもしれません。また、スレプレトンと離婚を経験していますが、それについても、ウィンスレットはインタビューで「人生でいろいろな経験をしてきた。結婚も経験したし、離婚も経験した」と臆することなく語っています。ウィンスレットは離婚を他人からは触れられたくない人生の傷と考えて、離婚の話題に触れられるのを恐れたり、離婚を隠したりするといったようなことはしていません。はじめからそうだったかどうかは分かりませんが、今現在は、彼女は結婚の失敗や離婚の苦痛を克服しているのだろうと思います。
人生の中でウィンスレットを最も悩ませた問題は体型問題だと思います。これについては、学校でいじめられたり、自分でもコンプレックスだったようで、若い頃は過激なダイエットもしたようです。しかし、いつからかは分かりませんが、細い体型を女性の体型の理想像とする考えに否定の立場をウィンスレットは取り始めます。実際にゴシップ誌と訴訟を起こしているので、ウィンスレットは自分が正しいというかなり強い確信を持っているのだと思います。とはいえ、女優の仕事を取るため、ダイエットするということもやっていますので、自身の理想と世間の現実の間で微妙な妥協をしています。ともかく、一見、体型の悩みなんてどうということはないように感じますが、ウィンスレットにとっては人生の中でも極めて大きな悩みだったのではないかと思います。そして、ウィンスレットはその悩みに対して自分の結論を出して、世間が何と言おうと、自身の信念に従って行動していると思います。(←微妙な妥協はありますが。)体型問題のことを言っているのかどうか分かりませんが、ウィンスレットは30歳を過ぎたくらいから、世間や他人の言うことに惑わされなくなったと言っています。何が言いたいかといいますと、ウィンスレットは自分の考えを持つ女性で、自分が納得したことでなければ、世間がどう言おうと流されないのだと思います。その一方で、仕事のためにダイエットするなど、ある程度、リアリストの面もあると思います。ともかく、ウィンスレットにとって体型問題が最大の悩みであり、それに対して自分の考えを見出して克服したのだと思います。
実はウィンスレットのこの姿勢は仕事に対する姿勢でも同じだと思います。彼女は自分の演じる役の意味を自分で理解して納得した上で演じているのだと思います。いや、まあ、俳優は、皆、そうだと言えばそうなんだと思いますが、特にウィンスレットは自分の中のリアリティと突き合せて、演じる役の心情を深く理解しようと努めているのではないかと思います。そして、自分で納得できないキャラクターの心情は演技しないんじゃないかと思います。まあ、俳優を使う監督の側からすれば、ウィンスレットは少々面倒くさい役者、扱いづらい役者かもしれません。でも、結果的には、ウィンスレットの出演作を見れば、ウィンスレットの演技は十二分に印象深い優れた演技になっていると思います。
さて、最後にウィンスレットの性格の特徴についてまとめます。ウィンスレットの性格の特徴ですが、ひと言で言えば、シンプルだと思います。言い換えれば、心に複雑なところや糸が絡まったような複合体(=コンプレックス)のようなものが少ないと思います。心を部屋で喩えると、ウィンスレットの心の部屋は、ゴチャゴチャと物を置いてあるような部屋ではなくて、物があまり置かれていないスッキリとした部屋だと思います。また、コンプレックスだけでなく、自分をよく見せようとするナルシズムや虚栄心などの飾りっ気もない部屋だと思います。彼女の心の部屋を覗いても、物が転がっていたり、物が散乱しているという感じではないと思います。当然、たまった汚れ物を整理せずに積み上げてあるといったこともないと思います。下手をすると、物が少ないのに小奇麗に整理されてあるので、殺風景なくらいかもしれません。また、その部屋で働く力、すなわち、彼女の望みもシンプルだと思います。極端に言えば、家族愛と映画愛という2つの力が働いているだけだと思います。(もちろん、望みではなく欲としては、食欲や性欲はあるとは思います。物欲は比較的少ないんじゃないだろうかと思います。)仮に心理学的に彼女の心を分析してみても、シンプル過ぎて、あまり引っ掛からないんじゃないかと思います。ある意味、癖のない性格といえるかもしれません。でも、シンプルなだけに反応も早いと思います。例えば、彼女を侮辱すれば、人一倍、素早く激しい怒りとなって返ってくるのではないかと思います。また、彼女はあけ透けな性格ではありませんが、他人に見られても困るようなものが彼女の心の部屋には少ないと思います。なので、ウソをつく必要性が少ないので、ウソも自然とつかず、正直だろうと思います。ごくたまに、あけ透けな人の中には自分の醜さや弱さに居直って、普通なら見られて困るものも平気で人目にさらす場合がありますが、ウィンスレットの場合はそれとは違うと思います。見られて困るものが少ないだけで、まったく無いわけではないと思います。何が言いたいかというと、デリカシーはあるだろうということです。デリカシーなどの感覚が無いのではなく、人一倍感覚は強く敏感だろうに、心の部屋が整理されているので、心をオープンにできるのだと思います。感覚が強いので正しさに対する信念や美意識のようなものが彼女にはあるのですが、心をオープンにできるので、それらを外にさらすことで、それらをさらに強く自然に鍛え上げているのだと思います。ですので、私はこの心のシンプルさがウィンスレットの人間としての強さの基底になっており、女優としての優秀さに繋がっていると思っています。
■追記
実は「序論」を書きあぐねています。いえ、半ば放棄しつつあります。「序論」は以前に誤操作で一時的に公開状態にしてしまったのでご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、ややまとまりに欠けてしまっています。本編で書き漏らしていることを「序論」で補おうとしているためもあります。例えば、女神モリガンの話も「序論」で補足するつもりでいます。ですので、「序論」は最後に書き加えることにします。本当は「序論」なので本編の見通しができていれば最初に書けなければいけないんですけど…。
映画『愛を読むひと』について
小説『朗読者』を映画化したスティーヴン・ダルドリー監督の映画『愛を読むひと』について少し書いておきます。この記事では、監督のスティーヴン・ダルドリーとハンナを演じた女優ケイト・ウィンスレットでは、この物語の解釈が異なっていることについてお話ししようと思います。
■ダルドリー監督とケイト・ウィンスレットの物語の見方の相違
驚いたことに、この映画では、ダルドリー監督とケイト・ウィンスレットでは、物語の解釈、特にハンナの人物像が違っています。二人の違いは、簡単に言ってしまえば、マイケルを中心に物語を見る見方とハンナを中心に物語を見る見方の違いだと思います。ダルドリー監督は前者であり、主題を愛と罪と恥と捉えていると思います。そのなかでも、特に恥の部分を大きなポイントに据えていると思います。一方、ウィンスレットは後者に近く、ハンナという特異な人物をとても深いところで理解したうえで、この物語を愛と罪のラヴストーリーだと捉えていると思います。
ウィンスレットはインタビューの中で次のように述べています。
最初のころに気付いたことは、ハンナを理解することが不可欠だということだった。
必ずしも彼女を好きになる必要も、共感する必要もないと思ったわ。(*1)
でも、彼女を理解しなくてはならなかった。
それにとても強く感じたのは、わたしが思う彼女を、ほかの誰とも共有したくないということだったの。
みんながハンナ・シュミッツに対する意見を持っている。彼女は意見を呼び起こすキャラクターだわ。
小説の読者も、この映画のスタッフも、脚本家も、監督も、全員がハンナに対して違う意見を持っている。
でもわたしの意見は、人と食い違うことが多かったの。だから胸の内に収めておく必要があった。
いつもとは違う体験だったわ。普段は話し合って、みんなと共有し、協力し合う方が好きなの。
だから彼女を演じるのは、ある意味孤独な作業だった。人と距離を置かなくてはならなかったから。
ポイントは後半の発言なのですが、ウィンスレットにしては極めて珍しいのですが、自分の演じるキャラクターの人物像を監督や他のスタッフたちと共有していません(*2)。こういうのは下手をすると映画が失敗作になりかねません。そんなことはベテラン女優であるウィンスレットは百も承知で十分すぎるほど分かっていたはずだと思います。ですが、それにも関わらず、彼女はそうはしなかった。なぜでしょうか?おそらく、ウィンスレットは自分の考えるハンナ像にゆるぎない確信があったのだと思います。
それでは、ダルドリー監督とケイト・ウィンスレットの物語の見方をそれぞれ順番に見てゆきましょう。
■スティーヴン・ダルドリー監督の見方
ダルドリー監督は、この物語の三大要素を愛と罪と恥と捉え、特に、恥を主眼にこの物語を捉えていると思います。ダルドリー監督は、まず、ハンナという女性を、自分が文盲であることを恥ずかしさゆえに明かせず、結局、文盲によってモラルなどへの理解不足を招き、無知ゆえの罪を犯してしまい、ひいては彼女を不幸な人生に追いやったと考えていると思います。つまり、逆に言えば、恥を克服さえしていれば、文盲も克服できたであろうし、不幸な人生を送ることもなかったのではないかと考えていると思います。次の監督の発言はそれを裏付けていると思います。
興味深いのは、ハンナが、アウシュビッツで自分がした行為よりも
非識字者であることを恥じている点だと思う。
つまり、2つのレベルの非識字があるわけだ。
1つは文字通り字が読めないこと、もう1つはモラルへの理解だ。
この2つは、この映画の全編を通してのテーマとも言えるね。
ハンナは文字が読めないために、単に文字が読めないというだけでなく、モラルへの理解も欠けてしまった。そのため、本来ならハンナはアウシュビッツで犯した罪を一番に恥じるべきなのに、そうではなくて、文字が読めないことを一番に恥じるという間違いを犯しているというのです。
一方、マイケルも、ハンナとの男女関係を羞恥心から他人に明かすことができず、結局、ハンナの文盲を裁判で知らしめることができなかった。また、ナチに加担した罪びとを愛してしまったということも、恥じると同時に愛しているというアンビバレンツな精神状態に陥り、彼のトラウマになってしまったと考えているのかもしれません。次の監督の発言はそれを裏付けていると思います。
戦後育ちのドイツ人の世代は、ある時点までは何も知らされなかったのに、成長してから、
両親や先生、医師や牧師たちまでもが虐殺に関わっていたという現実に直面する。
その時に、その人たちへの愛をどうするかということ。それがこの映画のテーマなんだ。
……
マイケルの場合も、一生がある程度まで台無しになってしまう。
自分が愛した相手が、何かの犯罪にかかわっていたと知ったとき、
その相手に対する愛の価値は損なわれるのか。
だからこれは、本質的にはハンナの物語ではなく、マイケルの物語なのです。
ゆえに、この映画では”恥の克服”が大きなテーマになっていると思います。映画のラストシーンにそれが一番よく表れていると思います。映画の一番最後でマイケルは、意を決して自分の娘にハンナとの男女関係を含めた過去を話しはじめます。自分の過去の女性関係を自分の娘に話すという極めて特異な行為で締めくくっているのです。ラストシーンで車から降りたときのレイフ・ファインズ演じるマイケルの緊張した真剣な表情から、恥を克服しようとする決死の覚悟が窺えます。つまり、原作にはない、この映画のラストシーンの監督の意図は、羞恥心の克服だと思います。
結局、ダルドリー監督はマイケルを主眼にして、この物語を見ています。マイケルはハンナとの関係を恥じてか、あるいは、ハンナが文盲を隠していることを尊重してかの理由で、裁判でハンナが文盲であることを言えなかった。そして、結果的にそれがハンナを終身刑にしてしまい、さらに、ナチの罪びとをを愛してしまった葛藤にもなり、彼はトラウマを負ってしまう。結局、ハンナは恥を克服できなかったけれども、マイケルはハンナと関係したという恥を克服して、彼は自分の娘にハンナとの関係を告白して、恥を克服して映画は終わるのだと思います。(告白を重視するのはキリスト教的かもしれません。)
しかし、それではあまりにもハンナという人物を軽視した見方ではないでしょうか?
■ウィンスレットの見方
一方、ウィンスレットは、インタビューで、ハンナという難しい役柄をどうのように演じたのかと聞かれて、次のように前置きしました。
ハンナを演じるのはとても複雑だった。
常に、ほかの人が彼女をどう思っているのか、考えていなくてはならなかったから。
それに彼らの意見と私の意見はしょっちゅう食い違う。
ハンナのような繊細なバランスを必要とする女性を演じるには、
直感に問いかけるというとても危険な賭けが必要になる。(*3)
自分が思う人物像から離れないことが大事なの。
だからスティーヴン・ダルドリー監督とさえ、意見が食い違うことがあったわ。
これは傑作ドイツ文学だから、誰もがハンナ・シュミッツについて違う意見をもっている。
しかも読者の意見はすでに確立しているの。
だから私は自分の耳を閉じておかなくてはいけなかったの。
そして、インタビュアーから「ウィンスレット演じるハンナが冷淡に見えた」と言われたのですが、そのことに答えて、ウィンスレットは次のように語っています。
まず、インタビュアーの意見に対して、
面白い見方ね。冷淡さは考えなかったわ。あったとしても私の中での優先順位は最後ね。
と前置きして、そして、ハンナを演じるために、ウィンスレットが重視した点を次のように話します。
計り知れない空虚さを身に着けなくてはならない。
空虚と冷淡とは違うの。
空虚でも誰かを愛することはできる。
ウィンスレットのこの発言に私は、正直、驚きました。これはとても興味深い発言だと私は思いました。つまり、ウィンスレットにとって、ハンナは心に空虚さを抱えた女性なのです。空虚さといっても、虚しさや寂しさではないと思います。それは言葉にならない空(くう)の空間というべきでしょうか。私は以前の記事で書いた下図を思い出しました。
ここでいう空虚さとは、この図の非-言語領域にあたるのだと思います。言葉で形成される言語領域の人格ではなく、言葉では構成されていない、白い透明な空っぽの無の空間です。すなわち、非-言語的な空虚な空間です。
ウィンスレットが周囲からよく質問されることで「役選びはどのような観点で選んでいるのですか?」という質問があります。それに対して、ウィンスレットは、「直感で選ぶ」と答えるケースがとても多いです。もちろん、役を選んだ理由を色々と述べることもありますが、最終的には「直感で選んだ」と答えることが多いです。ウィンスレット自身、非常に直感的な女性だと思います。ですので、ウィンスレットのハンナの理解は、まさにウィンスレットの直感が直感して直感ならしめたのだと思います。ハンナの心の真空にウィンスレットの心の真空が共鳴したのだと思います。(*4)
ウィンスレットが実際にハンナをどのような人物だと捉えていたかを言葉で説明するのは難しいと思います。ウィンスレットはハンナについて次のようにコメントしています。
確かアメリカで、11月か12月頃だったと思うのだけど、
大きな丸テーブルを囲んでインタビューに答えていたら、誰かが、とても重い質問をしてきたわ。
そのとき、インタビューの最中なのに、私は突然、感情的になってしまったの。最悪だったわ。
でもそういうことが、続けて起こったの。それは、ハンナが私の奥深くにまだ生きているからだと思った。
実際、彼女を自分の中に感じることもあるわ。猛烈に彼女がかわいそうになるの。
彼女を許したり、いつも好きだったりするわけじゃない。でも本当に、彼女がかわいそうになる。
でも、その理由を説明するのは難しいの。私が彼女を身近に感じて演じてきた経験は、
ほかの人たちとは共有できない。とても個人的な経験なの。
ウィンスレットはこれまで他の映画でのインタビューでは自分が演じてきたキャラクターを割と客観的に語ってきていたと思います。もっと荒っぽくいえば、自分とはまったく違う赤の他人として、演じたキャラクターを突き放して語っていたと思います。自分との共通点や相違点を客観的に分析できていて話せていたと思います。演じた人物の良い点や悪い点を客観的に掴めていたと思います。(*5)ところが、ハンナに関しては少し事情が違うのではないかと思います。
確かに、多くの映画女優は、毎回、自分の出演した最新作は特別だと言って宣伝します。ですが、ウィンスレットは、その意味では、今まで比較的正直に答えています。毎回、「この役は最高に特別だった!この映画は私の最高傑作よ!」というような言い方はしていないと思います。確かに、この「愛を読むひと」はアカデミー賞作であるので、ウィンスレットにとって他の作品よりも特別な意味合いが強いのは確かです。ですが、それでも、ウィンスレットの場合は、アカデミー賞作だからという理由だけで、作品を特別扱いはしないだろうと思います。
前置きが長くなりましたが、そして、かなり穿った見方ではあるのですが、ウィンスレットの奥深くで、まだ、ハンナと同調する部分があるのではないかと思うのです。それこそまさに、非-言語領域の空間ではないかと思うのです。ウィンスレットとハンナは同じ階調・同じ周波数の非-言語領域の真空空間を共有しているんじゃないかと思うのです。ウィンスレットの中にハンナへの共鳴があると思うのです。しかし、それは言葉にはならない共鳴です。心に同じ類の空っぽの真空を抱えているといった感じだと思うのです。特にハンナの場合はかなり孤独な魂の持ち主です。ウィンスレットもハンナを演じるにあたっては、内面を同調させるために、かなり奥深くまでダイブしなければならなかったと思います。そして、だからこそ、ウィンスレットはハンナの行動の意味を言葉よりももっと深いところで理解して、ウィンスレットは心のとてもとても深いところでハンナに共感するのだと思います。
■私の見方
さて、私の見方ですが、前回までの記事「『朗読者』を読む」シリーズでおおよそ分かると思います。ですので、ダルドリー監督よりはウィンスレットの方に近いです。ただし、細かい点ではウィンスレットともずいぶん解釈が違ってくるとは思います。とはいえ、原作と映画は、それぞれ違った物語になるのはしかたがないことです。違った物語になっても、それはそれで豊かな内容の作品になれば良いだけのことです。
ただ、この映画で私が最も違和感を感じるのが、ハンナの自殺のシーンです。映画では、ハンナはマイケルの愛を失ったことに絶望して自殺したように描かれています。しかも、本を踏み台にしています。ハンナは決して本を軽んじる人ではないと思います。むしろ、文字が読めるようになったことを誇りにさえ思っているはずですから、本がまるで無駄だったかのように本を踏み台にするのはいくらなんでも違うのではないかと思います。まあ、監督なりの皮肉を描いているのかもしれませんが…。ともかく、私には、ハンナが失意のうちに死んだとは、どうしても思えないのです。ハンナはもっと毅然とした態度ですべてと決別したんだと思うのです…。
けれども、この映画のおかれた立場を考えると、ダルドリー監督があのようなラストシーンにせざるをえなかったのも理解できます。なぜなら、ハンナに達観して自殺されても困るからです。元ナチの看守に胸を張って死なれてはナチを肯定するように受け取られてしまいかねない、それはマズイと思うからです。ですから、元ナチのハンナにはみじめな気持ちで死んでもらわなければならなかったのだと思います。ですが、それは作品の趣旨に反すると私には思えるのです。それでは反ナチという別の全体主義が作品の解釈を歪めていると思うのです。とはいえ、ナチ問題を客観的に判断するには、社会はまだ時間が必要なんだと思います。そう、まだ、傷が癒えるには時間が必要なんだと思います。ただし、全体主義の危険性はいつの時代も人間につきまとうでしょうから、客観的に判断できる日がくるのかどうかは分かりませんが…。
最後に付け加えると、私はこの映画が原作の趣旨と違っていることを言ってきましたが、それは必ずしも、この映画がつまらない作品だと言っているわけではありません。ここまで述べてきたように、ハンナを演じたウィンスレットは実に深いレベルでハンナを見事に演じています。ウィンスレットのその演技を見るためだけでも、この映画を見る価値はあると思います。特に、原作にはない、この映画だけのオリジナルシーンは素晴らしい出来栄えだと思います。それは、ハンナとミヒャエルが自転車旅行のときに立ち寄る教会での場面です。ハンナが教会で讃美歌を聴いているとき、子供たちの清らかな歌声によってハンナの心は鎧を脱いで無防備な状態になります。そのとき、かつて燃え上がる教会に囚人たちを見殺しにしてしまったという罪の意識が無防備になった彼女の純粋な心に洪水のように押し寄せてきます。一方、マイケルはそんなこととは知らずに感極まっているハンナを見て最初は驚きますが、ハンナは単に清らかな讃美歌に感動しているのだと勘違いして、ハンナの聖母のような美しさに感激します。しかし、実際には、ハンナの心は逃げ場のない恐ろしいまでの罪悪感に苛まれて悲鳴を上げていたのでした。そのときのハンナの苦しみと怯えがウィンスレットの迫真の演技から痛切に伝わってきます。このときのウィンスレットの眼球や瞳孔が縮み上がったような目を見たとき、本当に心が押し潰されるギリギリの状態じゃないかという演技でした。こんなギリギリの心の位置にまで内面から迫れるウィンスレットの演技に本当に驚きました。芥川龍之介の小説「地獄変」で絵師良秀の渾身の屏風絵を見た横川の僧都が思わず膝を打って「出かしおった!」と感嘆の声を上げたように、私もウィンスレットの演技に圧倒されて、思わず声にならない声を漏らして、唸ってしまいました。ですので、是非、映画も観てみることをお奨めします。
というわけで、次回から「ケイト・ウィンスレット 人と作品」シリーズを掲載してゆこうと思います。
■ウィンスレットの出演作品を鑑賞するときの注意点
それから、ウィンスレットが出演している映画を鑑賞するときに次の2点を注意しなければならないと私は考えています。1つはウィンスレットの出演作品は一度見ただけでは理解するのが難しい作品が多いです。(←ただし、「タイタニック」や最近の出演作品は分かりやすいです。)もう1つは、衝撃的な演技や性的な表現も多いです。そのためか、一度見ただけでは作品の意味が分からないため評価が低かったり、衝撃的な性的表現に観客が嫌悪感を持ってしまい、それだけが強い印象となって頭に残るために作品を正しく吟味できずに評価が低くなったりすることが多いと思います。例えば、この『愛を読むひと』でもセックスシーンが多いので辟易してしまう観客が多かったのではないかと思います。(「言語」と対照的な愛情を確かめる非-言語的なコミュニケーションとして、「セックス」は重要な要素なのでセックスシーンは外せない場面だと私は思います。)
しかし、一度見ただけで分からないからといって諦めずに、作品が何を意味しているのかを何度か繰り返し見て考えてみることをお勧めします。そして、衝撃的な場面に目を背けない強靭なハートと、衝撃的な場面が出てきてもそれを受け止める事前の覚悟を持って映画を鑑賞して下さい。かなり大げさな言い方になってしまいました(笑)。念のためにお断りしておきますが、ホラー映画やサスペンスのような恐さではなくて、文芸映画的な衝撃ですので安心して下さい。
確かに映画の良さのひとつに分かりやすさがありますが、一度見ただけで分かってしまう映画は内容が浅薄になりがちです。内容の深い作品ほど一度見ただけでは分かりにくい映画になるのではないでしょうか。それは難解な本を時間をかけて読んだり、何年か後になって読み返したときにはじめて内容が理解できるようになったりするような読書の面白さに通じると思います。逆説的な言い方ですが、分からないものほど面白いのではないでしょうか。そんなわけでウィンスレットの映画は何回も観て楽しめると思います。
ウィンスレット映画に慣れるための入門編としては「日陰のふたり」が良いかもしれません。原作は英国の文豪ハーディの名作「日陰者ジュード」ですし、ウィンスレットが、丁度、うら若い乙女と大人の女性の両方の綺麗さを兼ね備えていた年齢の作品です。主人公はジュードという学者を志す石工の青年です。ウィンスレットが演じたのは彼の恋人のスー・ブライトヘッドという難しい性格の女性ですが、見事に演じています。というのもスーは両親の影響で結婚に対して複雑な感情を持っていて、恋愛に対して素直になれない、ちょっとねじれた性格の女性なのです。ですので、鑑賞後はスー(=ウィンスレット)に対して批判的なネガティブな感想を持つかもしれません。また、映画の中でキスシーンが何度か出てきますが、シチュエーションによってキスの意味が違うのですが、いずれの場面にもその情感が演技によく表れていて良い感じでした。物置の中での泣きながらのキスシーンはじーんと胸に沁みましたし、他のキスシーンでもかなり切なくなりました。また、出てくる子役の女の子が天使のようにとても可愛らしいです。私はこの子の笑顔を今でも覚えているくらいです。また、この映画の原題は「JUDE」で、俳優ジュード・ロウの名前の由来のひとつでもあります。ジュードのお母さんがこの小説に感銘を受けて、息子にジュードと名付けたそうです。なかなかお茶目なお母さんです。ちなみに、私自身、この作品のDVDを持っているので、時々、見返したりしています。音楽も耳に残る良い音楽ですし、映像の色合いも落ち着いた色合いで何回見てもドライアイになるようなことのない良い映画です。ただ、ウィンスレットの大胆なベッドシーンとかがあるので子供は見ない方が良いと思います。また、この作品はスーの性格さえつかんでいれば、他は特に難解さはなく、分かりやすいと思います。あ、それと当時の風潮で正式に結婚していない内縁のカップルは仕事がもらえないなど世間から冷たい目で見られるということも踏まえておけば大丈夫です。(それから、一応、物語の舞台は英国ですが、出てくる都市名は架空で、例えば、クライストミンスターはオックスフォードのことだと思います。)
一般に、ウィンスレットは「タイタニック」のイメージが強いですが、彼女の出演作を見比べてみると「タイタニック」が例外的な大作であって、それ以外の出演作はどちらかというとインディーズ的な映画、文芸作品が多いです。(最近は「ホリデイ」などポピュラーな軽い作品にも出演してますが…。「ホリデイ」は作品内容にハリウッドへのリスペクトがあったから出演したのではないかと私は思っています。)また、よく言われることですが、そういった個性的な映画が多いことから、彼女は出演作の選択が良いとよく言われます。うまく説明できませんが、普通は映画監督がバリエーション豊かな個性的な作品を作って一連の作品群になるのですが、ウィンスレットは女優でありながら、彼女の出演作のラインナップはとてもユニークなのものになっていると思います。もちろん、他の女優も自分のキャリアを考えて出演作を選択しているのですが、ウィンスレットの場合は映画の本来の面白さをよく分かっているんじゃないかという気がします。(←もちろん、出演作の全部が全部良い作品というわけではありませんが。)ともかく、女優としては、ちょっとユニークな存在だと思います。女優というよりは映画人といった方が良いかもしれません。ただ、映画監督の適正があるかどうかは微妙な気もしますが、やってやれなくはない人だとは思います。映画に対する情熱は女優の中でも飛び抜けていると思います。
■注釈
(*1)「ハンナに共感したり、好きになったりすることができない」というのは、ナチ時代にハンナが犯した罪があるからです。この点はこの映画を語るときに頻繁に出てくる問題です。つまり、ハンナに共感したり好感を持ってしまうことは、ハンナを許してしまうことになり、ひいてはナチの罪を軽くしてしまうことに繋がりかねないという懸念です。実際にハンナがどのような人物であったとしても、彼女の罪は許されるものではないでしょう。ここに、愛する人が許されない罪びとであったときの、どうすることもできない苦悶があります。これがミヒャエルが抱えた問題であり、観客がハンナを考えるときの難しさでもあります。ですので、この点はしつこいくらいに付きまとってくる問題ですが、かといってナチ問題に関わる大切な問題なので蔑ろにはできないという難しさがあります。そのため、この作品の関係者は発言を神経質なまでに慎重にしなければならないので大変です。
(*2)例えば、前作の「レボリューショナリー・ロード」では夫でもあるサム・メンデス監督とウィンスレット演じるエイプリルという人物像の設定で二人はちょっとしたもめごとをしています。監督と役者が集まって、それぞれ自分の演じる人物の人物像について固めてゆく話し合いの場で、ウィンスレットだけは自分の役の話し合いを飛ばされそうになったそうです。メンデス監督としては「ウィンスレットは妻だから特別に話さなくてもいいや」って思ったのでしょうね。そうしたら、ウィンスレットがそれに噛みついたそうで「自分にもちゃんとしてよ!」って声を荒げてプチ怒ったそうです(笑)。もっとも、撮影に入ってからは、撮影が終わって二人が自宅に帰ってからも、エイプリルの人物像についてずいぶん話し合われたそうです、ウルサイくらいに(笑)。本当はこの映画の仕事が始まる前に、二人は「家庭には仕事を持ち込まないようにしようね」と約束していたそうなのですが、ウィンスレットは夢中になって忘れないうちにと、自宅に帰るとすぐに「この場面の意味はどうなの?あの場面はこうすればどう?」と熱中して話し始めたらしいです。一方、メンデス監督は「まあまあ、落ち着いて。とりあえず、二人のお茶を淹れさせてくれ」って、仕事と家庭を完全に切り替えていたそうです。また、映画の中でサングラスをしたまま不機嫌なエイプリルを演じるシーンがあるのですが、「サングラスを取らせて!目で演じられるから!」ってウィンスレットが何度か頼んだらしいですが、メンデス監督からは「ダメ!絶対、ダ~メ!」ときつく断られたんだとか(笑)。まあ、映画は監督のものですからね。(そういう意味では私自身の映画選びは監督によって判断するのが普通だったのですが、唯一の例外として女優で映画を選ぶものとしてウィンスレットの出演作品があります。ウィンスレットを知るまでは女優を軽視していたのですが、大いに反省させられました。)
他にも映画初出演作「乙女の祈り」でも自分の演じる人物の残酷な行動がウィンスレットには理解できなくて、泣きながらピーター・ジャクソン監督に理由を聞いたんだとか、まあ、まだウィンスレットが10代の頃の可愛らしい話ですね。(とはいえ、この頃からすでにウィンスレットはプライベートで手巻きタバコをプカプカと吸ってたようです。この頃のウィンスレットは日本ではまだ未成年の年齢なのですが、当時の英国では16歳から吸って良かったらしい。)
ともかく、与えられた役をただ言われたままに演じるのではなく、役柄を自分で理解して、それを監督と共有した上で、ウィンスレットは演じています。彼女はインタビューの中で、
私も、大学を出ているわけではないし、古典文学もそんなに読んでいるわけではない。
だから、インテリ的な映画や芝居、文学には萎縮してしまいがちなの。
でもあえて、ちょっと待って。それってどういう意味?わからないわ、って聞くことにしているの。
馬鹿に聞こえるんじゃないかってリスクを承知でね。
と答えて、
馬鹿に見えることも、裸になることも恥ずべきことではない。
俳優として恥ずかしいのは、役を演じきれないときだ。
と語っているそうでうす。
ところで、面白いのは、ウィンスレットは脚本に惚れ込むと監督に直接自分で電話して出演させて欲しいとオファーするそうです。「ライフ・オブ・デビット・ゲイル」でも何度も電話で自分の出演をオファーしたらしく、出演が決まるまで枕元に脚本をおいて「出たい、出たい」と思い続けたらしいです。もっとも、この映画自体はどちらかといえば不評だったのですが(笑)。ちなみに「タイタニック」も自分でジェームズ・キャメロン監督にオファーしたそうです。普通はエージェントがやることで女優が直接やることではありませんが、ウィンスレットは自分で出演依頼したいらしく、たとえ断られても、
What do you have to Lose?(ダメでもともとでしょ?)
と考えるんだとか。ただ、映画の製作が始まる前に脚本が女優に手元に来ること自体がまだまだ少ないらしいです。ウィンスレットの場合は「タイタニック」でネームバリューを得た女優だからこそ自分で役を選べるポジションにいられる面もあるので、彼女は特別なケースかもしれません。ともかく、映画女優にしては珍しく、彼女は本当の意味で脚本を重視する女優だと思います。
ちなみに、ウィンスレットの役選びについて話しているときに、夫のメンデス監督が面白いことを言っていて、監督いわく、「彼女は非常に複雑なキャラクターや映画を選びたがる傾向がある。実生活は何でもシンプルであることを好むのにね」と言っています。う~ん、それって家事などの日常生活が大ざっぱってことじゃあないのかしら(笑)。ただ、演じると決まった役については、ウィンスレットは徹底的なリサーチをするらしいです。
(*3)ウィンスレットもインタビューの中でたびたび直感という言葉を使います。彼女もまたハンナと同様に直感を重視する女性だと思います。ウィンスレットの直感については、次回以降の記事で触れるかもしれません。
(*4)ここで、かなり脱線して謎めいたことを言ってしまいますが、生命の進化の秘密も同様ではないかと思えるのです。生命が進化を意図することによって生命は実際に進化したのではないか。そして、意図はこの直感と深く関わっているように思えるのです。直感が直感ならしめるように、生命が進化を意図して進化ならしめるのです。とはいえ、そんなことを証明しようがありませんが…。
(*5)例えば、前作「レボリューショナリー・ロード」で演じたエイプリルなどはウィンスレットはけっこうクールに分析しています。インタビュアーが「エイプリルは女優になれたと思いますか?」という質問に対して、きっぱりと「無理ね。彼女には女優になる覚悟が欠けていた」とバッサリと断言しています。
(*6)余談ですが、ウィンスレットは「エキストラ!」という英国のコメディドラマに、自分自身の役で、つまり、女優ケイト・ウィンスレットという役でゲスト出演しているのですが、このドラマの中で「自分は4回もアカデミー賞にノミネートされてるのに、まだアカデミー賞を取れない!ナチ映画に出るのはアカデミー賞のためよ。障害者の映画に出るのもアカデミー賞を取るにはいい手ね!」というようなことを「シンドラーのリスト」や「マイ・レフト・フット」を引き合いに出して言っています(笑)。もちろん、本気でそう思っているわけではなくて、このドラマ自体が俳優のイメージを壊そうという趣旨なので、(ウィンスレットの場合は「タイタニック」のローズというイメージ)、イメージをぶち壊すような無茶苦茶な発言をさせられます。まあ、このドラマでは、それ以外の部分の、あまりに滑稽で卑猥な表現が驚きのメインになっています。(卑猥や下品がダメな方はこの作品は見ない方が良いと思います。)もう、バカ笑いするしかないというか、ウィンスレットによる、イメージの破壊があまりにも衝撃的過ぎて正直ビックリしました。「えっ!テレビでそんなことを言ってもいいの?」「ケイト、その手のしぐさは何?!」「ケイト、その顔だけはお願いだから止めて…」「夫メンデス監督のオスカー像をアレに喩えるなんて…」みたいな。ちなみに、ウィンスレットはこのドラマでエミー賞コメディ部門のゲスト女優賞にノミネートされました(笑)。しかし、それにしても、「普通、できないでしょう、あんなことは!」って感じです。もちろん、ここでは裸を露出するというわけではなくて、セリフや演技の面のことなんですけどね。でも、実のところ、このドラマを見て、私は「ケイトのファンを辞めようかな…」と少し悩んでしまいました(笑)。同じようなエロティックなコメディ映画「Romance&Cigarette」では、ベッドシーンなどのケイトのブロックバスターな演技に腹がよじれるほど笑い転げて、むしろ、ケイトの人間や役者としての奥行きの深さを感じたのですが、この「エキストラ!」のアホ面は、正直、私はショックでした(笑)。ウィンスレットの映画にはそれまでも何度も衝撃を受けて慣れていたつもりでしたが、なかなかどうして、やはり、彼女は侮れない女優、安心させてくれない女優で、彼女のファンであり続けるのは、なかなかタフであることを要求されます。
ところで、これとは違って、真面目なインタビューの中で、彼女は本当にアカデミー賞が欲しいということも言っているそうです。ノミネートされても受賞できなかったときには、ずいぶん、くやし涙を流したらしいです。先のコメディドラマなどこのような経緯があるので、この「愛を読むひと」でアカデミー賞にノミネートされたときには、特に評論家から厳しくナチ問題にも発言が求められたんじゃないかと思います。「もし、ナチ問題を軽視するようなことがあらば!」という厳しい目で。なので、この作品でのアカデミー賞ノミネートはけっこうプレッシャーがあったと思います。実際にアカデミー賞決定前のこの作品のお披露目のパーティでは、招待したユダヤ系作家が土壇場で欠席したそうです。ですので、アカデミー賞は少々波乱含みの要素もあったかもしれません。そんな状況でアカデミー賞主演女優賞を受賞できたのは本当に良かったです。
『朗読者』を読む その8
■補足
この記事では、小説『朗読者』および映画『愛を読むひと』について、気が付いたことを忘れないうちに幾つか補足として書き足してゆきます。ある程度にまとまったら、本文に加筆修正するかもしれませんし、あるいは、「やはり、そうではない」と思い直して削除するかもしれません。とにかく、これまでの読解では小説を最初から最後まで物語の流れに沿って順番に読み解いて行きましたが、ここでは全体を通して総合的に振り返ってみたときに浮かび上がってくる疑問や気付いたことや感想について書いておこうと思います。
■小説編
(1)疑問1「ハンナは看守だった素性を隠そうとしていたのでしょうか?」
ウィンスレットはインタビューの中でハンナを演じるにあたって、「無意識に素性を隠そうとしているから、街中を歩いているときでも自然とうつむき加減になる」と言っています。ウィンスレットはハンナが素性を隠していたと解釈したようです。しかし、果たして本当にそうでしょうか?私もこの小説を読み始めた当初は「ハンナは素性を隠しているのではないか?」と疑ったのですが、読み進むうちに「どうもそうじゃないんじゃないか?」と考えが変わってきました。以下、この疑問について考えてみます。
名前を聞かれたとき驚いたり、非番の日のハンナの行動をミヒャエルに話したがらなかったのは、看守の過去を知られたくないために素性を隠そうとしたハンナの行動の顕れでしょうか?
名前を聞かれて驚いたのは、素性を隠そうとしたからではないと思います。繰り返しになりますが、114ページの弁護士の証言通り、警察に引越の度に届出を出しているので素性を隠そうとしたわけではないと思います。では、なぜ名前を聞かれて驚いたのかというと、「その1」で述べたように真名の習慣のためだと思います。
また、非番の日に何をしていたかは分からない点が多いですが、ひとつは一人で映画を見に行っていた可能性があります。そのことをミヒャエルに話したがらないのが素性を隠していた理由になるでしょうか?ちょっと微妙ではないでしょうか。そもそも素性を隠したいのなら、不用意に人目の多い場所に外出はしないのではないでしょうか?それに考えてみれば、車掌という仕事は不特定多数の人々に見られるので、素性を隠すのには無理があるように思えます。(ただ、映画ではウィンスレット演じるハンナは、なるほど、伏せ目がちに目立たぬように車掌を務めてはいます。しかし、小説での市電事件のとき、運転手と快活に会話していたハンナを考えると、通常業務時にハンナが目立たぬように控えめな雰囲気で車掌を務めていたと考えるのは少し違和感を感じます。やはり、テキパキ、ハキハキと仕事をこなしていたんじゃないでしょうか。その方がハンナのはっきりした性格にも合致すると思いますし、だからこそ、ハンナの仕事に対する上司の評価も高くなって昇進の話もでてきたのではないでしょうか。また、看守時代もおそらく仕事に対しては几帳面に忠実にこなしていたのではないでしょうか。ただ、囚人たちを強制収容所に送るという内容に問題がありますが…。)
それから、ミヒャエルの話し振りからすると自転車旅行も、おそらくハンナは最初は行きたがらなかったようです。これも素性を隠すためでしょうか?(p63)これは、おそらく、ハンナが自転車旅行に行く前に落ち着きがなくなったのは、半分は旅行で文盲がばれるのを恐れたためだと思います。もう半分は旅行を楽しみにしたからだと思います。ですので、これも素性を隠すためではなく、文盲を隠すためではないでしょうか。
別の観点から考えると、そもそも裁判で告訴されるまでハンナに看守時代の罪について罪悪感はあったでしょうか?私が思うに、ハンナに罪悪感がまったく無かったわけではないが、裁判までは、罪悪感が芽生えてもはねのけていたと思います(p224)。元々、ハンナの性格は間違ったことは嫌いで何事も堂々としていたと思います。ただし、ハンナにとっては文盲だけがネックであり弱点であり、それだけは隠していたと思います。ともかく、ナチの看守だったことは社会生活を送る上でハンナは特に隠そうと努めなかったと思います。また逆に、看守だったことを努めて明かそうともしなかったと思います。ハンナが過去をミヒャエルに話したとき、軍隊にいたことをさらりと打ち明けています。もし隠そうとするなら軍隊にいたこと自体を隠すのではないでしょうか。また進んで明かそうとするなら、そのとき看守だったことも話すでしょう。確かにハンナにとっては看守の仕事は不本意だったとは思いますから、進んで話したい過去ではなかったでしょうし、実際、戦争犯罪で取り締まられるナチスの人間もいたでしょうけれど、逆に隠さなければならないほどハンナにとっては重要でもなく、また、自分に非があるとも当時のハンナは考えていなかったのではないでしょうか?
以上のように考えると、結論としては、ハンナが素性を隠そうとしたとは考えにくいのではないでしょうか。
ところで、ちょっと脱線ですが、ちなみに、当時の人々がナチスドイツに加担したことについて「当時はみんながそうだったから、当時は悪いことではなく、自分はみんなに従っただけで悪くはないんだ。まったく罪悪感がゼロということはないけれど、一人で責任を負わなければならないほど重い罪ではない」と考えることに対して、私たちはどう考えたら良いでしょうか。①酷いと考えるでしょうか?それとも、②当時の、戦時中の社会にあっては、それは仕方のなかったことだと考えるでしょうか?私の考えでは、まず①についてですが、単純に酷いと考えるのは欺瞞に思えます。それは現在の観点からのみの考えだと思います。極端に言えば、現在の社会がヒューマニズムに傾いているから、まるで全体主義のように個人も社会全体に迎合して考えた結果、ハンナを断罪する、という一種の全体主義的な思考による非難に思えます。当時の社会状況を無視して、現在の社会全体を覆っている価値観に合わせるだけなのであれば、当時の社会においてユダヤ人虐殺に全体主義的に加担したのと同じではないでしょうか。では、次に②についてですが、①とは逆に仕方なかったで済ませて良いのでしょうか?それもまた人間は全体に従うものだという考え、全体主義を受け入れる考えと同じだと私は思います。それでは全体主義はいつまで経っても容認されることになって同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。
ここが難しいのですが、当時は仕方なかったことかもしれませんが、それを看過するわけにはいかず、そういった過去を断罪しなければならないという複雑な思考過程を必要とすると私は思います。もし、今は裁く立場にある私たちも、今度、ハンナと同じ立場に立たされたならば、そして、同じように全体に加担するようなことになれば、私たちもまた同様に断罪される立場に立たされることを記憶にしっかりと刻まねばなりません。そういう覚悟を持った上で私たちはハンナを裁かなければならないと思います。そして、ハンナを裁くことは、ナチスのような全体主義に対して、たとえ一人であっても闘う覚悟を持つという決意になるのだと思います。
■映画編
(1)疑問1「市電事件で喧嘩したとき、浴槽の中でのハンナの表情は何を意味しているのでしょうか?」
マイケルが「ぼくを愛してる?」とハンナに訊いたとき、浴槽の中のハンナの表情は何を意味しているでしょうか?極めて微妙なのですが、おそらく、このハンナの表情は「ハンナが何かに気づいたこと」と「気づいたことの内容に対して戸惑いのような感情」を表しているのだと思います。では、ハンナは何に気づいたのでしょうか?このハンナの”気づき”から”戸惑い”へ至る思考のプロセスについて、次の2つが考えられると思います。
①元々、この段階でのハンナは、ミヒャエルへの愛が不確かなものだったからかもしれません。つまり、ハンナにとって、ミヒャエルとのセックスは性愛であって恋愛ではなかったからかもしれません。ところが、それに対してミヒャエルはハンナに本気の強い愛を抱いているとこの喧嘩でハンナは気づいたのかもしれません。あるいは、ハンナは愛という概念があまりよく理解できていなかったのかもしれませんが、その可能性も否定はできませんが、無視されたことで怒ることから考え合わせると、ハンナにとってミヒャエルの存在は大きかったはずで、愛についても理解があったと思います。ただ、この頃のセックスを見てみると、互いに相手を利用するセックスだったので性愛の割合が確かに高かったかもしれません。しかし、無視したことに腹を立てる点からすると、性愛と恋愛の割合があるとすると、ハンナにとって恋愛の比重も大きかったのではないでしょうか。ともかく、このハンナの表情の意味は、ハンナはそうでもなかったけれど、ミヒャエルは本気で自分を愛してくれていることに気づいた瞬間の表情(=驚きと戸惑いの表情、そして、それをミヒャエルに悟られまいとする平静を装った表情)と捉えることができると思います。
②もう1つのハンナの思考過程としては、ちょっと長い説明になりますが、まず、マイケルが「ぼくを愛してる?」と問うのは、マイケルがハンナの愛を疑っているからであり、その原因はハンナが電車でのマイケルの意図に気づかなかったことにあります。そして、ハンナはマイケルの意図に気づかなかった原因を自分が文盲であることに思い至り、文盲が暗黙の内に相手の意図を汲み取る”心の通じ”が弱いことを悟った瞬間だったのではないでしょうか。
もう少し詳しくハンナの思考プロセスを追ってみます。まず、マイケルから「ぼくを愛してる?」と訊かれます。ハンナの思考は「自分はマイケルを愛しているのに、なぜ、そんなことをマイケルは訊くのだろうか?」→「おそらく、マイケルはハンナのマイケルへの愛情を疑っているから訊くのだろう」→「では、なぜ、疑うのか?」→「市電の中でマイケルの意図をハンナが気づけなかったから」→「なぜ、それが愛を疑う理由になるのだろう?」→「もし、愛しているのなら、相手の意図を汲み取ることができるはずだとマイケルは考えているに違いない」→「でも、自分(=ハンナ)はマイケルの意図に気づけなかった」→「なぜ、気づけなかったのだろう?」→「それは自分が文盲だから」→「どうやら文盲は相手の意図を汲み取る力が弱いのではないか?つまり、”心の通じ”が悪いのではないか?」→「それは愛する能力の欠如ではないのか?」→「なぜ?」→「なぜなら、マイケルが、今、こうやってハンナに「ぼくを愛してる?」と訊くように、ハンナの愛を疑っているではないか!」
つまり、このハンナの表情は、「自分は文盲であるがゆえに心の通じが悪いこと、ひいては愛情の欠如に受け取られてしまうこと」に気づいた瞬間ではないでしょうか。「マイケルはそんな風に考えるのか…」と気づいたのだと思います。「そんな風」とは「心の通じが悪い→すなわち、愛情の欠如」という論理です。そして、ここからは、後にハンナがこの気づきから考えたであろう、さらに一歩押し進めた思考なのですが、「マイケルはそんな風に考えるのか…」→「でも、困ったな。自分の文盲は直せない」→「もし、文盲だとマイケルにバレてしまえばどうなるだろうか?」→「文盲イコールハンナの愛する能力の欠如、すなわち、ハンナの愛は本物ではないと解釈されてしまわないだろうか?」→「もし、そう解釈されたら、マイケルとの恋愛も終わってしまう」→「終わらせないためには、どうすれば良いのだろう?」→「文盲を隠すしかない!」という結論に至ったのではないでしょうか。そして、これが裁判でハンナが文盲を隠す理由に繋がっていったのだと思います。(←この解釈の仕方は、「その7」での「裁判でハンナが文盲を隠した理由」という私の解釈と同じになっています。)
そう考えると、ホテルでのメモ紛失事件で、激しくハンナが怒った理由が深みを帯びてきます。単に文盲を隠すための懸命な演技だけではなく、この市電事件での経験があるのではないでしょうか?つまり、このときすでにハンナは文盲が愛する能力の欠如だと捉えられるのを恐れていたのではないでしょうか。だから、愛を守るために文盲を必死で隠さざるをえず、その悔しさや惨めさがハンナの心を苛んだのではないでしょうか?このときのハンナの心の痛みを思うと胸が痛みます。
以上、このハンナの表情には上記のような2つの解釈が成り立つと思います。そして、私としては②が正しい解釈だと思っています。ところで、この浴槽での場面は小説では淡々と描写されているだけなので、このようにハンナの表情からハンナの考えを深く読み取ることはできません。ですので、この場面はこの映画の優れて良い点だと思います。
ただ、現段階では、まだ、この映画のDVDが発売されておらず、映画を見た記憶と予告編の1カットだけを頼りに考えているので、この解釈は間違っているかもしれません。DVDが発売されて、もう一度、一連の流れを通して映画を見直したら、解釈が変わるかもしれませんことをお断りしておきます。
さて、ここからは余談ですが、ウィンスレット自身はこの場面をどう解釈して演じたのかは微妙なのです。というのも、その手前の市電事件でハンナが怒った理由をウィンスレットはどうも「無視されたから」ではなく「働く姿を勝手に見ていたから」と考えているみたいなのです。そうなると上記の私の解釈もあまり意味を為さなくなってしまいます(笑)。
(いえ、本当は俳優がどう思って演じようと関係なく、観客がどう受け止めるか、どう解釈するかが真実であって、観客の出した解釈が正しいと言って良いと思います。もちろん、監督がこういう意図でこういう演技をやらせたんだという監督の意図が本当は解釈の本筋なんですが、それも観客が監督の思ったように解釈する場合に限るのであって、監督の意図がうまく観客に伝わらず、別の解釈を生み出したのなら、その別の解釈こそが正しい解釈だと言えると思います。まあ、いずれにしろ、これは製作者たちの意図と観客の解釈にズレが生じるという演出を失敗した場合の話ですが。)
ただ、一般的にいって、これには文学と異なる映画の解釈の難しさがあります。文学は言葉から、是か非か、あるいは、判断不能まで含めて、おおよそ分析可能です。ところが、映画の場合は監督の意図の他にこの映画のように俳優の意図も加わったりします。というのも、映画は、小説のように一人で全部作るのではなくて、大勢の総合力で作り上げるものですから、どうしてもバラバラになりやすく、しかも、映像という現実から判断しなければならないので、言葉を腑分けするような論理的で明晰な分析ができにくくなります。文芸批評に比べて映画批評がアカデミックになりにくいのは、そういった不分明さがあるからだと思います。では、確証がないからといって私のような解釈を書かない方が良いのかというと私はそうは思いません。私のような解釈も条件付きや範囲が限定されたりはありますが、可能だと思います。そういった解釈を施すことで『朗読者』の世界が豊かになる、『朗読者』から得られるものが多くなると思います。喩えるなら、種から芽が1個しか芽吹かないのではなくて、ジャガイモのようにたくさんの芽がいろいろな箇所から芽吹く方が映画の解釈には良いと思います。解釈の可能性が多様なほど良いのではないでしょうか。どれか一つが正しいと捉えたがる人もいますが、言葉なら分析で限定してゆくこともある程度可能ですが、映像の場合は現実の解釈により近いので、ある程度、多様性も大切だと思います。(とはいえ、自分の解釈が正しいと私は主張しているわけですから、言っていることとやっていることが矛盾しています(笑)。)
■言い訳
思いついたままに書き足し書き足ししているので、どうにもゴチャゴチャと分かりにくい文章になってしまいました。それに同じ言説の繰り返しも多いし…。いつになるか分かりませんが、いつかは文章を整理したいと思っています。…まあ、でも、現実も多層的だと思いますので、単線的・短絡的にたった1つの論理で「こういう理由だからこういう結論になる」というのもいかがなものかと思いますので、ある程度、ゴチャゴチャするのも良いかなと思います。(←もちろん、1つの論理で表せるものもあります、というか、一般的にはその方が多いです。)でも、本当ならそれを腑分けして分解・分析・分類・整理するのが良い文章だとは思います。単に私の頭の中でまだまだ整理できていないのが原因だと思います。いえ、そうではなくて、元から私の文章はゴチャゴチャしているのかもしれません。(←ああ、また、ゴチャゴチャ書き足してしまった!)
『朗読者』を読む その7
■総評
■解釈について
この物語には、私がここで示した解釈以外に、他の解釈も成り立つと思います。もっと具体的に言えば、ハンナの直感などは存在せず、ハンナは「恥ずかしい」という理由で文盲を隠したという解釈です。例えば、この小説を映画化した映画監督のスティーヴン・ダルドリーがそうでしょう。しかし、そういった解釈では、ハンナという女性が「取るに足りないつまらない事を恥じる」というとても陳腐な人物になってしまうと思うのです。それは、ひいては、この素晴らしい物語さえも陳腐な物語にしてしまうと思うのです。読者は「物語から如何に豊かなものを引き出せるか」が物語の解釈には大切なことだと思います。もちろん、根拠や妥当性のない解釈ではいけませんが、この物語のように、テキストにこれといった確かな根拠が示されず、そして、何よりも直感という極めて不思議な力が働いている場合には、解釈の正否は読者の感性に委ねるしかないと思います。
ともかく、私はこのハンナという女性のある種の気高さを陳腐なものに貶めたくありませんでした。確かに彼女はナチに加担した罪びとです。しかし、だからといって、彼女の気高さまで踏みにじりたくはなかったのです。ネット上にある幾つかの感想を読んで、ハンナを悪くいう感想に私は耐えられなかったのです。ですから、この感想を書かずにはいられなかったです。私がこの記事を書いた動機はハンナを貶める誤解から救いたいというハンナに対する鎮魂の願いからでした。ちなみに、私はハンナには実在のモデルがいると、根拠はありませんが、確信しています。作者のベルンハルト・シュリンクも自分の体験を元にした半自伝的小説と言っているように、実在のモデルがいるのではないでしょうか。もっとも、たとえ実在のモデルがいたとしても、そのままというわけではなく、いくらかは脚色されていると思いますから、そのモデルと作中のハンナでは、それはそれで違った人物だろうと思います。ともかく、この私の解釈は架空の人物に対する想いというよりは、実在したであろう人物へのレクイエムなのです。
■ハンナ・シュミッツについて
(1)ハンナの生涯
振り返ってみれば、ハンナの人生はなんと孤独だったのだろうと思います。ハンナは自分の生い立ちを次のように語っています。
彼女は約束によって生きていたのではなく、現実の状況に基づき、自分自身だけを頼りに生きていた。
彼女の生い立ちを尋ねたことがある。それはまるで、
ほこりをかぶった長持ちから答えを探し出してくるような具合だった。
彼女はジーベンビュルゲン
(現在はルーマニアになっている地方)で育ち、
17歳のときベルリンに出てきて、
ジーメンスという会社の労働者になり、21歳で軍隊に勤めたという。
戦争が終わってからは、さまざまな仕事をして生計を立ててきた。
……
家族はいない。年は36。
そんなことを、彼女はそれがあたかも自分の人生ではなく、
あまりよく知らない、自分と関係のない人の人生であるかのように話して聞かせた。
(p48)
また、裁判では、次のように答えています。
わたしは1922年10月21日、ヘルマンシュタット で生まれました。
いまは43歳です。はい、ベルリンのジーメンスで働きました。
そして、1943年の秋に親衛隊に入りました。
(p112)
ハンナは17歳でベルリンで働きはじめ、文盲ゆえに21歳でナチスの看守になり、23歳の頃、囚人を見殺しにするという罪を背負い、戦後は職を転々としながら36歳でミヒャエルとの年の離れた恋愛関係になり、それも束の間で終わりを告げ、あげく43歳で裁判で自由を奪われ、ミヒャエルへの愛だけが世界との残された繋がりだったのに、最後には61歳でミヒャエルのその愛も尽きていたことを知ることになる…。なんと孤独な人生だったのでしょうか。ハンナが孤独になった原因は文盲であり、文盲を隠すことでより一層ハンナを孤独にしたと思います。ただ、文盲ばかりがハンナの孤独の原因ではないようにも思います。というのも、裁判でのハンナの嘘偽りのない答弁はハンナの実直な性格を物語っており、ハンナには普通の人にはない、ある種の気高さがあったのではないかと思います。その気高さが人を寄せ付けなかったのではないかと思います。もちろん、ミヒャエルが言うように「ちょっぴり自分を偽っていた」というようにハンナもまったく嘘偽りがないわけではありませんが、その多くは文盲に関わる事柄が多かったのではないかと思います。いずれにせよ、この世界でひとり孤独だったハンナはそれでも恨み言をいうわけでもなく、後悔や後ろ髪を引かれるでもなく、最期には、決然とこの世界との関係を断ったのだと思います。
それにしても、ハンナは一体何者だったのでしょうか?ハンナの特徴は「文盲を隠していること」や「ナチの看守だった過去」が挙げられます。しかし、それだけでハンナの特徴を捉えられるかというとそれでは不十分だと思います。なぜなら、直感という大きな要素があるからです。確かに、文盲であることが、彼女の直感力に大きく影響していると思います。しかし、文盲の人たち全員が直感に優れているわけではありません。ハンナの直感は文盲の中でも特別な能力で、ハンナには文盲だけではない何かがあると思えます。ハンナのこの特殊な能力はどこから来るのでしょうか?
(2)ハンナの正体
テキストからハンナについてプロファイリングしてみます。まず、ハンナの性格ですが、ミヒャエルとの出会いでの乱暴な介抱から、ハンナはぶっきらぼうで短気ですが親切な所もあると思います。 また、市電事件ではミヒャエルが無視したと判断した瞬間にハンナはミヒャエルを無視した挙句、運転手と仲の良いところを見せつけたりするなど咄嗟の機転で反撃する頭の良さもあります。また、ミヒャエルの再訪でいきなり裸で抱きついたり、メモ紛失事件でベルトでミヒャエルを殴るなど、何かと直接的なところがあります。さらに、ミヒャエルが朗読した本に対するハンナの反応から、ハンナには小狡いところはなく、正々堂々とした実直な性格がうかがえます。ただし、文盲を隠す点だけは例外で、嘘をついたり、狡さを発揮したりします。逆に言えば、嘘が嫌いで実直な性格のハンナからすれば、文盲を隠すために嘘をつかなければならなかったことはストレスだっただろうと推測できます。また、失踪する前のミヒャエルとの口論からは、ハンナは自分のことは打ち明けず、ミヒャエルがいくら追究しても決して口を割らない強情さや愛想の無さがあったと思います。けれども、仕事に関しては昇進の話が出るほど上司からの評価は高く、きっちりと仕事をこなしていたと思われます。また、異常なまでに清潔好きでミヒャエルの身体を平気で洗ったりします。セックスに関しても、いわゆるバタイユの言う「禁止と侵犯」のようなエロティシズムではなく、肌の接触でもたらされる快感を感じる身体感覚を基本としたセックスだったのではないかと思います。以上のようなことから、おおよそのハンナの人物像が浮かび上がってくると思います。
ところで、第1部終盤のミヒャエルのすき間の話(第1部第16章p91-p93)で、ハンナが仕事がない日の過ごし方について、ハンナは自分には話してくれないとミヒャエルは不満げに語っています。しかし、ハンナにはミヒャエル以上の親しい知り合いはいなかったと思いますので、ハンナは仕事のない日はおそらく独りで過ごしていたと思います。非番の日は掃除や料理など家事をしたり、映画を見に行ったりしていたのでしょうか?それとも何か他の事をしていたのでしょうか?家事や映画なら別にミヒャエルに話しても良さそうに思います。しかし、ミヒャエルに話さないところをみると、それ以外のことをしていたのでしょうか?それとも単に自分のことを話したがらないだけでしょうか?ハンナが何もないのに思わせぶりに隠し事をするのも不自然な気もします。あるいは、ミヒャエルに嫉妬させるためかもしれませんが、それにしてはずっと話すのを拒み続けています。あるいは、ハンナが文盲ゆえの頭の中の整理の無さからくる、漠然とした過去の回想ゆえなのかもしれません。しかし、もしかしたら、ハンナにはまだ何か私たちの知らない秘密があったのかもしれません。ですが、テキストからはこれ以上は判断しようがありません。ただ、他にも些細なことで確証はありませんが、裁判所でミヒャエルが初めてハンナを見つけたとき、「結び目ができるように頭の周りにぐるぐる巻きつけた珍しい髪型」(p112)とあるように、ハンナには他のドイツ人とは違ったどこか独特の民俗的な習俗があったのではないだろうかと思います。しかし、いずれにしても、ハンナは17歳でベルリンで働き始めているので、ハンナが何らかの異教の伝統、つまり、魔女の伝統を継承しているとは時間的に考えにくいと思います。
以上のように、ハンナには「文盲であること」や「ナチの看守だったこと」以外にも私たちの知らない秘密が何かあった可能性があります。しかし、それはミヒャエル(=作者シュリンク)にも分かっていないことなので、テキストからは推測しようがありません。けれども、その秘密がハンナの直感力と何らかの関連があるのではないかと思わずにはいられません。そして、ハンナのプロファイリングから、ハンナはある特定の人たちに気質が似ているのではないかと私は思っています。それは中世の魔女裁判に残された数少ない本物の魔女たちの証言記録から窺える魔女たちの気質です。すなわち、魔女の気質とハンナの気質が非常に似通っていると私は思っています。とはいえ、気質が似ているからといって、ハンナを魔女と断定することはできませんから、あくまで、推測の域を出ません。しかし、ハンナの直感力を考えるとき、単にハンナの個人的な特殊能力であるだけでなく、さらにその奥には魔女の伝統に基づいた根深い伝承があるように私には思えて仕方ありません。
■ハンナの心理について
さて、最後にハンナの心理について整理しておきます。「なぜ、ハンナは文盲を隠したのか?」や「なぜ、ハンナは自殺したのか?」といった疑問について整理しておきます。ただし、ここで述べる理由はあくまで私個人の推測であって、この理由が正しいと断定できる根拠はテキストからは得られていないことを断っておきます。それから、最後に私のハンナについての感想も書いておきます。
(1)ハンナが文盲を隠した理由
まず、ハンナがこれまでの人生で文盲を隠した理由は、ハンナと周囲の間にある文字を読めないことからくる隔絶が露呈してしまうのを恐れたからだと思います。周囲は文字が読めるのにハンナは文字を読めないということから、周囲はハンナと分かり合っていたと思っていたのに実はそうではなかったと気付かれてしまうことを恐れたのだと思います。周囲がハンナとの隔絶に気付いてしまうことで、ハンナは孤独になってしまうことを恐れたのだと思います。
また、裁判でハンナが文盲を隠した理由は、ミヒャエルの愛を失うのを恐れたからです。ハンナは裁判の最初からミヒャエルが法廷にいることに気づいていました。ハンナはミヒャエルに自分が文盲であることを知られたくなかったのです。ハンナは文盲であることは文字が読める人よりも相手の心と通じ合える能力が劣ると考えたのだと思います。ひいては、心が通じ合えないのだから、文盲は人を愛する能力も劣ると考えたのだと思います。つまり、文盲であるハンナの愛は本当の愛ではないと捉えられてしまうと恐れたのだと思います。もし、ミヒャエルにハンナが文盲であるとバレてしまったら、ミヒャエルにハンナの愛がニセモノだと思われてしまうと恐れたのだと思います。ハンナには自分の愛が本当だとミヒャエルに訴える術はなく、文盲を隠すしか方法がなかったのだと思います。
(2)ハンナが自殺した理由
ハンナが自殺した理由は2つあります。1つは、ハンナにとってただ一つの心残りであったミヒャエルの愛が、刑務所で再会したときにすでに失われていたと分かったからだと思います。ハンナにとってミヒャエルとの愛だけがこの世界での唯一の心残りでしたが、それが失われた以上、この世界には、最早、何の未練も無かったのだと思います。もう1つの理由は看守時代の罪を償うためだと思います。看守時代に犯した罪悪に対する罪の意識から、ハンナはいずれ自分の死をもって罪を償うことを覚悟していたと思います。自分の犯した罪は「刑務所で過ごしたから、刑期を終えたから」といって償えるものではなく、自分の死によって清算するしかないとハンナは考えたのだと思います。ただし、文字を覚えたハンナは強制収容所関連の書物を読んだことで、強制収容所の犠牲者たちの魂に触れることが可能になったと思います。そして、毎晩、死者との対話を繰り返した結果、ハンナの魂は途轍もない精神の高みへと高められ、単に罪を償うために死ぬだけではなく、ハンナの魂の全体性を持って死の世界へと旅立っていったのだと思います。
(3)ハンナへの私の想い
こうやってハンナの人生を見渡してみると、ハンナはこの世界の中でずっと孤独であり、ナチの看守となって罪を背負い、裁判で罪を問われて生活の自由を失って、挙句の果てにミヒャエルの愛を喪失してしまうという、とても悲しみに満ちた人生に思えます。ハンナの罪にしても、あの時代に生きていれば多くの人がハンナと同じように罪を犯したであろうと思います。それにハンナが文盲でなければ罪を犯す立場に立たされることも無かったと思います。元々、ハンナは根は決して悪い人間ではありませんから。むしろ、善い人間です。しかし、純粋で善い人間ほど重い罪を背負わされてしまうという悲劇が裁判では起こりました。裁判に限らず人の世とはそういった傾向があるのかもしれません。せめて、ミヒャエルの愛だけでも届けばと思っていましたが、それさえも最後には残酷にも失われてしまいます。ですから、そんなハンナのことを考えると、とても可哀想に思ってしまいます。ですが、半面、ハンナは文字を覚え、死者の魂に触れることでハンナ自身の魂もこれ以上になく高めることができたので、苦難に満ちた人生だったけれど、苦しんだ分報われたようにも思います。ですから、私は、ハンナの最期は苦しみや悲しみなど人間の営みの向こう側(=彼岸)に達して超然とした気持ちで死の世界に入っていったのだと思います。ですので、ハンナについて想うとき、彼女の人生に哀しみを覚えると同時に、その死に深い静寂を私は感じます。
■ミヒャエル・ベルクについて
ミヒャエルはハンナによって人生を大きく変えられてしまいました。ミヒャエルはハンナと付き合ったことで女性のあしらい方が上手になった反面、人格形成において自分の人生に無関心・無感動な醒めた冷たい人間になってしまいました。また、ハンナが忘れられず、他の女性と付き合っても長続きしませんでした。もっとも、長続きしなかった原因はミヒャエルの人間的な冷たさもあったと思います。それに、裁判の欺瞞を見抜くような、言葉の作り出す幻想に縛られない冷徹な視点をミヒャエルは得ることができたとも思います。しかし、他人と比べて比較的客観的な視点を持っているであろうミヒャエルでさえも、最後までハンナの真意を理解することはできませんでした。なぜなら、文盲を隠した理由を恥と捉えたり、ハンナの遺産の寄付を罪の軽減をハンナが望んだと考えたりしたからです。結局、言葉のひとミヒャエルは最後まで直感のひとハンナを正しく理解することはできませんでした。
さらに、ミヒャエルの失敗から得られる教訓は行動だと思います。裁判のとき、ミヒャエルが裁判長にハンナの文盲を話していれば、もっと違った結果になっていたかもしれません。たしかに、文盲をバラすことは、ミヒャエルの父の言うようにハンナを傷つけてしまうかもしれません。また、実際に行動しても、うまく行ったかどうかも分かりません。ですが、私の個人的な人生経験からの見解ですが、やはり、行動すべきだったと強く思います。
■直感と言語
この物語は具象的なレベルではハンナとミヒャエルの愛を描いた物語ですが、抽象的なレベルでは、この物語は言語と非-言語の相克の物語でした。簡単にいえば、言葉と直感の相克です。言葉の側からは、言葉の人として、言葉を職業とする人たちが3人登場します。哲学者であるミヒャエルの父と法律家であるミヒャエルの先生と法制史を専門とする歴史学者であるミヒャエル自身です。一方、直感の側からは、直感の人としては、ハンナが登場します。しかし、この3人の言葉の人はいずれも現実や直感の人ハンナを正しく捉えることはできませんでした。
まず、哲学者であるミヒャエルの父はミヒャエルに理路整然とした理(ことわり)を教えて正しい道を説きますが、ミヒャエルに実際に行動を起こさせることができずにミヒャエルの失敗をみすみす見過ごしてしまいます。また、法律家のミヒャエルの先生はその葬儀でも見られたように、社会との軋轢から孤高の人生を歩み、偏屈な人格に陥ってしまったようです。この先生は強制収容所の裁判を通して、法に疑義を抱き、法を現実に即したものに正そうとした態度だったのですが、結局、現実と法の狭間で擦り切れてしまったのだと思います。そして、ミヒャエルは裁判を”グロテスクな単純化”と嫌悪して、現実を言葉で捉える最後の道である歴史学に進んだのですが、そんなミヒャエルでさえも、ハンナが文盲を隠す理由にも、手紙の返信を待つハンナの愛にも気づかず、死後のハンナの気持ちさえも誤解するといった有様で、結局、ハンナを正しく理解できていませんでした。つまり、極端に言えば、現実に対して3人が異なった言葉のアプローチをしたのですが、言葉は現実の前にあえなく敗北したのです。
一方、ハンナはどうだったでしょうか?ハンナの直感は的確にミヒャエルの真意や本質を見抜いていました。もちろん、ハンナの直感も完璧ではありません。例えば、市電の事件では、ハンナはミヒャエルの意図を見抜けませんでした。おそらく、「2両目で人目を忍んでイチャイチャしたい」というミヒャエルの浮ついた気持ちや下心が、ある意味、よこしまな心・邪心としてハンナの直感に映り、ハンナは「ミヒャエルがハンナを無視した」というネガティブな意味に受け取ってしまったのかもしれません。いずれにしろ、ハンナの直感も百パーセント完璧なものではありませんでした。しかし、より本質的なこと大切なことに対しては、ハンナの直感は比較的正確に反応したのではないでしょうか。つまり、極端に言えば、すべての局面でというわけではありませんが、多くの局面において、直感が現実を把握する能力は言葉よりも優れていると思います。いえ、そこまで極端に考えなくても、少なくとも、言葉による現実の把握を補うだけの力を直感は有していると思います。(脱線ですが、もっと言えば、言葉だけでなく、直感によっても現実の把握を補うことができれば、この世界をバランス良く捉えることが可能になり、ひいては世界そのものの全体性を回復することができるのかもしれません。)
言い換えれば、現実を断面的に捉える言語よりも、現実を全体的に捉える非-言語(=直感)の優位性です。さらに、言葉は現実ばかりか、ハンナという直感の人を理解できませんでした。つまり、ミヒャエルがハンナを理解できなかったように、言葉は精神の全体性を捉えることはできないのではないでしょうか。その結果、言葉は現実や精神をある断面的な捉え方に押し込めて誤解してしまい、ひいてはこの物語のような悲劇が起こってしまったのではないでしょうか。
■死の可能性
最後に、私はこの作品に1つだけ不満があります。それはハンナの死についてです。私は「ハンナは清々しい気持ちで決然として死んだ」と考えていますが、作品ではハンナの死がどのようなものであったかがまったく描かれていません。ですから、ハンナの死が実際はどうだったかは正確には分かりません。ハンナの死をどのように考えるかは、読者の想像に大きく任されています。
では、ハンナの死をどのように捉えればよいのでしょうか?例えば、ハンナはミヒャエルの愛が失われたという失望のあまり死を選んだのでしょうか?ミヒャエルの愛が失われたからといって、死ぬことはないのではないでしょうか?この世界と決別するために決然とした気持ちで死んだとしても、やはり、普通に考えれば、死ぬこと自体に、死ぬことの先に希望などないのではないでしょうか?それとも本当に絶望して死んだというのでしょうか?ハンナの性格から絶望のあまり、悲しみのあまり死を選ぶというのは考えにくいと私は思います。もう生きる必要がないと思ったのだとしても、逆に死ぬ必要もないのではないでしょうか?では、ハンナはどのような気持ちや考えで死んでいったのでしょうか?私たちと違って、ハンナには死になんらかのポジティブな意味があるとでもいうのでしょうか?ハンナの死に大きな謎があるように思います。
しかし、ここでは、これ以上、ハンナの死の謎について答えることはできません。けれども、私には、この謎の答えは魔女の死生観の中にあるように思えてなりません。いえ、正確には魔女も死生観について具体的なことは何も残していないと思います。ですが、魔女に似た女性で、哲学者であり作家でもあるアイリス・マードックがそれに近い死生観を有しているのではないかと私は思っています。この「死の可能性」については、この私的魔女論で最後に取り上げる第3の女性アイリス・マードックで詳しく書いてみようと思っています。
ですが、その前に女神モリガンに表れたような強力な女性性、すなわち、女性の持つ強力なエネルギーについて、先に詳しく見てみたいと思います。というのも、「私的魔女論」の第一論考である、この”『朗読者』を読む”では、ハンナ・シュミッツを通して”直感”の話をしました。私的魔女論では、魔女を”女のシャーマン”として捉え、特にその”女”という部分に焦点を当てて魔女の本質を掘り下げてゆこうと思っています。そして、”直感”の次に外せない魔女の本質として、”エネルギー”があると私は考えています。ですので、次回からは、”エネルギー”に注目して、第2の女性、女優ケイト・ウィンスレットについて考えてみようと思っています。
『朗読者』を読む その6
■第3部第8章(p219-p225)
この章では、出所前のミヒャエルとハンナの再会が描かれています。
この章はこの小説の最大の山場です。ここでのポイントは2つあります。
1つは下記のようなハンナの反応です。
ぼくは彼女の顔に浮かんだ期待と、ぼくを認めたときにその期待が喜びに変わって輝くのを見た。
近づいていくと彼女はぼくの顔を撫でるように見つめた。
彼女の目は、求め、尋ね、落ちつかないまま傷ついたようにこちらを見、顔からは生気が消えていった。
ぼくがそばに立つと、彼女は親しげな、どこか疲れたようなほほえみを浮かべた。
……
ぼくはもっと彼女のそばに寄った。
さっき近づいてくるときに彼女をがっかりさせてしまったらしいと気づいていたので、
今度はもっとうまく、埋め合わせをしようと思った。
(p220-p222)
最初、ハンナはミヒャエルと再会して喜んだものの、すぐに直感でミヒャエルがハンナをもう愛していないことに気づいて落胆したのではないでしょうか?さらに今後の朗読に話が及びます。
「本はたくさん読むの?」
「まあまあね。朗読してもらう方がいいわ」
彼女はぼくを見つめた。
「それももう終わりになっちゃうのね?」
「どうして終わりにする必要がある?」
そう言ったものの、ぼくは彼女にこれからもカセットを送るとか、
会って朗読するとかいう相談はしなかった。
(p222)
ハンナはミヒャエルの愛が終わっていることの最終確認のために朗読の終わりを尋ねます。そして、ミヒャエルは朗読を続けるような素振りを見せますが、今後の朗読の計画を立てませんでした。”計画家”のミヒャエルなのに、です。おそらく、ハンナはミヒャエルがもう朗読しないだろうことを見抜いたと思います。(次章の電話でより鮮明になります。)ともかく、ここでも、ハンナの直感が働いたと思います。
2つめのポイントは、ナチ時代のハンナの罪の問題です。ミヒャエルが次のように問います。
「裁判で話題になったようなことを、裁判前に考えたことはなかったの? 」(p223)
それに対して、彼女は次のように言います。
わたしはずっと、どっちみち誰にも理解してもらえないし、
私が何者で、どうしてこうなってしまったかということも、
誰も知らないんだという気がしていたの。(p223)
ハンナは何を言いたいのでしょうか?
確かに、ハンナは文盲ゆえに自分の人生の履歴を客観的に整理できていないのかもしれません。しかし一方で、おそらく彼女はこの世界で、ある意味、生まれてからずっとたった独りだったのではないでしょうか?家族も身内もなく、心を開ける親しい者など誰ひとりいない、圧倒的なまでに孤独なひとだったのではないでしょうか?そして、さらに文盲であることがより一層彼女を孤独にしたのではないでしょうか。文盲であることは、言葉からの隔絶と他者からの隔絶の2つの孤独があると思います。彼女の魂は、まるで真闇の宇宙の中でポツンとひとつだけ輝く小さな星のような孤独な存在だったのではないでしょうか。
先のミヒャエルの質問に彼女は続けて言います。
誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。
裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。
ただ、死者にはそれができるのよ。死者は理解してくれる。
その場に居合わす必要はないけれど、もしそこにいたのだったら、とりわけよく理解してくれる。
刑務所では死者たちがたくさんわたしのところにいたのよ。
わたしが望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。
(p224)
これは一体どういう意味でしょうか?
まず「本を読む」ことについてもう一度考えてみます。「本を読む」とはどういうことかというと、それは読み手と書き手との対話です。しかもただの対話ではありません。日常会話のようなうわべだけの言葉のやり取りではありません。読み手と書き手が真正面から向き合って、互いに対等の立場で真剣に話し合う心の対話、真の対話を意味します。特に、ハンナの場合はミヒャエルと本について話し合うことができたので、より豊かな対話になったと思います。しかし、それさえも、言葉であることに変わりはありません。現実と言語の関係にあるように、言葉は現実の一面に過ぎないのです。では、現実を一面ではなく全体で捉えることは可能でしょうか?言い換えれば、現実の全体性を得ることは可能でしょうか?
ここでいう全体性とは何でしょうか?ひと言で言えば、それはイデアのようなものです。では、イデアとは何か。例えば、”花”という物理的存在を”花たらしめている本質”を花の純粋イデアと言います。幾種類もある種類の異なる花たちや同じ種類でも一面に咲く花々のように現実に存在する数多くの花たちの、それらに共通する”花であること”の本質を花のイデアと言います。では、全体性とは何か?イデアは花のイデアのように物が対象だったりしますが、全体性は、物だけでなく全て、すなわち、現実を対象としています。現実には、物や人だけでなく、事も関係もすべてが含まれています。それらすべてをひっくるめた総体が現実であり、言うなればその現実のイデアが現実の全体性というものだと思います。ただし、花の場合は、野に咲く花があったとして、その花の具体的な名前は知らなくても、花のイデアが知覚されて花であるという認識が働き、それを単に”花”と名指しできます。しかし、現実は極めて複雑な複合体であり、花のように特定の名前で名指しすることはできません。しかし、名指しできなくても全体性は存在すると思います。
たしかに、全体性はイデアのように輪郭の明確なものではなく、輪郭である境界線は曖昧なぼやけたものである場合もあるでしょう。いえ、もっと言えば、どこからどこまでが全体なのかその全体像がまったく掴めない場合だってあるでしょう。しかし、それでも現実の全体性が存在すると考えられる理由は、この世界の物事には必ず因果関係が存在するからです。ただ、人間にはすべての因果関係を把握することはできません。けれども、全知全能の神を想定すれば、言い換えれば、全知全能の神だけが現実の全体性を把握することが可能だといえると思います。では、全体性は人間には手の届かないものでしょうか?いいえ、そうではないと思います。たとえ、神のような完全な全体性を把握することはできなくても、不完全ではあっても人間にも把握できる全体性もあると思います。なぜなら、すべての事象が人間の把握できない因果関係を含んでいるとは限らないからです。言い換えれば、人間に把握できる因果関係だけで動く事象もあると思います。ですから、人間にも把握できる全体性があると思います。
さて、ここで話をハンナの言葉に戻します。ここでのハンナの話は全体性の次元の話です。イデア界の次元の話です(下図参照)。ここでの現実とはナチ時代の囚人の選別や見殺しの事件を指していますが、全体性の次元に当てはめると、事件の全体性とは事件の真実や真相です。さらに、死者にも当てはめると、死者とは死んでいった人間たちの全体性、すなわち、俗世によって見る目が曇らされた生前の状態ではなく、死ぬことによって目の覆いが取り去れた客観的な視点を持った魂のことです。全体性の次元では、死者は言葉を介さずに事件の真実を理解してくれるのだと思います。また、ハンナは、強制収容所の本を読んだことから、その言葉を通してその言葉の背後に存在した犠牲者たち、その本に書かれていた犠牲者たちの魂にまで到達した、あるいは、彼らの魂を招き寄せたのだと思います。それが、すなわち、「死者たちが毎晩やってきた」ということだと思います。ここでのハンナと死者との対話は、先に説明した言葉を介した対話ではなく、言葉を介さない、直接的で真に真実の、魂と魂が触れ合う対話なのだと思います。ここでは言葉という不純物や夾雑物のない深いレベルの直接の理解があるのだと思います。そして、「毎晩やってきた」というのはハンナの罪の意識が死者の魂を招きよせる原動力にもなっていると思います。さらに、あるいは本当に死者の魂とハンナは触れ合ったのかもしれません。ともかく、ここでは、言葉の世界よりもさらに上昇した抽象的な次元、イデア界的な次元、霊的な次元での、真に真実の対話、超直接的な理解が描かれているのだと思います。そして、ハンナの直感もこの次元の世界からやってくると言えるのではないでしょうか。
そして、当然、そこでは欺瞞やウソは通用しません。いいえ、そこにはウソなど存在しようがないでしょうし、仮にウソをつこうものなら、それは自分自身の苦悩や責苦となって返ってくるでしょう。そういった死者たちとの真の対話によって、次第にハンナの魂は精錬されて、絶対的な孤独の宇宙の中でも慄然とした輝きを放つようになったのだと思います。後に判明する刑務所内でのハンナの変化(p235参照)はこの死者との対話による精錬から生じたのだと思います。しかし、そんなハンナにも、たったひとつだけ、この世界との絆があったと思います。それはミヒャエルとの愛の絆です。しかし、それもミヒャエルに会うまででしたが…。
それにしても、ナチスを選んだ世代のドイツ人がハンナを裁けるのでしょうか?いいえ、そうではないと思います。ハンナの言う通り、唯一、死者だけがハンナを裁けるのだと思います。しかし、既にこの世にいない死者は手を下すことはできません。死んでしまって、もうこの世にはいないのですから。だから、死者に代わって、生き残った者が裁かねばならない。でも、それはあくまで代理であって、その人自身には裁く資格はないのではないでしょうか。(*1)
この章で一箇所だけ分からない点があります。それは次のハンナの言葉です。
裁判の前には、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに
(p224)
裁判以降は、ハンナの罪が白日の下にさらされたので逃れようがなくなったのかもしれませんが、では、裁判の前まではどうやって彼らを追い払っていたのでしょうか?ハンナはとても実直な性格だと思いますから、何某かの意味があると思うのですが、それがどういった意味なのか、いまひとつ自分を納得させられる考えが見つからないでいます。なんとなく思うのは、ハンナが文字を覚える前はモヤモヤした混沌で曖昧な心象であり、記憶さえも未整理だったために、自分の罪に率直に繋がらずに強い気持ちで死者たちを追い払っていたのかもしれません。また、ホロコースト関係の書物も読んでいなかったので、死者たちの境遇も知らなかったので追い払いやすかったのかもしれません。しかし、文字を覚えた後では、すべてが鮮明になってハンナは死者たちから逃れられなくなったのではないでしょうか。
■第3部第9章(p225-p228)
この章では、出所前日のミヒャエルとハンナとの電話での会話が描かれています。ここでのポイントは、ミヒャエルの計画好きとハンナの電話の声です。
ミヒャエルは出所日のハンナの予定を計画したがります。これは本来ならハンナへの朗読にも当てはまるはずです。しかし、ミヒャエルはハンナに朗読する計画を立てませんでした。すなわち、ミヒャエルはもうハンナに朗読する気がないことの表れだったのです。そして、そのことにハンナも気付いたということなのでしょう。
さらにミヒャエルはハンナの電話の声が昔のままだったことに気づきます。
刑務所で再会したハンナは、ベンチの上の老人になっていた。
彼女は老人のような外見で、老人のような匂いがした。
あのときのぼくは、ぜんぜん彼女の声に注意していなかった。
彼女の声は、まったく若いときのままだったのだ。
(p228)
すなわち、外見は変わってもハンナの気性は昔も今も変わらないことを表していると思います。
■第3部第10章(p228-p237)
この章では、ハンナの死とそれを悲しむミヒャエルが描かれています。ここでのポイントはハンナの気持ちです。
おそらく、ハンナはもう生きる必要はないと考えたのだと思います。ミヒャエルとの愛情も終わったと直感したのだと思います。愛のないミヒャエルとの今後の生活など無意味で虚しいものでしかありません。ハンナのミヒャエルへの愛は変わっていませんでした。それはハンナがミヒャエルのギムナジウム卒業の姿が写っている新聞の切り抜きを持っていたことやミヒャエルからの手紙を待っていたことからも分かります。しかし、ミヒャエルのハンナへの愛は失われてしまった。ミヒャエルが愛したのは過去のハンナという幻想になってしまった。ハンナからすれば、出所したら、ハンナは愛しているにもかかわらず、今はもう愛してくれなくなったミヒャエルの世話にならなければならない。それはどんなにか辛いことだったでしょう。孤独だったハンナが唯一この世界と繋がりのあるミヒャエルだったのに、今はその繋がりが断たれてしまった。しかも、その断たれたミヒャエルに世話にならなければならない。ただでさえ孤独だったのに、さらに孤独感がいや増すのではないでしょうか。だから、愛のない生活で過去の愛を汚すよりも死を選ぶ方が愛を完成させられると考えたのかもしれません。この世界との最後の繋がりである愛が無くなってしまったのだから、もうこの世界にとどまる必要はないと感じたのでしょう。残された遺書にミヒャエルへの用件以外の言葉が書かれていなかったのも、愛のなくなったミヒャエルに対しては何を言っても意味を為さないから書かなかったのだと思います。むしろ、何も残さぬ方がミヒャエルの迷いにならずに済む、ミヒャエルのため、とまで考えたのかもしれません。彼女はきっぱりと旅立っていったのです。
ただし、ここで注意しておきたい点が1つあります。それは何かというと、ハンナは孤独を嫌がったり恐れたりして自殺したのでしょうか?私はそうではないと思います。刑務所長の話では、ハンナの刑務所内での暮らしは途中で変化して、刑務所内でもさらに孤独を求める姿勢に変わったと言っています。ですから、孤独を恐れたようには思えません。しかし、私の以前の解釈では、文盲を隠した理由のひとつは「世界や人々と隔絶していることを隠すため、文盲が万一バレれば恐ろしい孤独感が襲うと恐れたため」だったと第2部読解で書きました。確かに以前のハンナは隔絶や孤独を恐れたのかもしれません。市電事件でミヒャエルに無視されたと勘違いして激しく怒ったのも、孤独への恐れの裏返しもあったといえるかもしれません。ですが、ハンナは刑務所内で途中で変わってしまった。その原因は第8章で書いた死者との対話です。毎晩やってくる死者との対話を通して、ハンナの心は精錬されていったのだと思います。その結果、どうなってしまったのか?おそらく、まず、リアリティの違いに至ったのだと思います。死者の魂と生者の魂のリアリティの違いです。考えてもみてください。死者の魂との対話には迂遠な言葉を必要としません。ダイレクトな心と心の対話であり、そこには欺瞞や嘘は存在しません。極めてリアリティの高い真実の対話です。それに対して、生者との対話はどうでしょうか?裁判での看守たちや裁判長は人を裏切ったり、欺いたりと欺瞞に満ちていました。ミヒャエルにしてもハンナの愛を分かっていません。生者の魂は身体こそ生身の人間として生きていますが、心は恐怖(≒保身)や幻想に囚われて、世界の真実の姿を見ようとしないではありませんか。極端に言えば、心が死んでしまっている。心が死んでいる人間は機械と一緒、いや機械よりタチが悪いかもしれません。いずれにしろ、心が死んだ魂と触れ合っても、そこにリアリティはありません。ですから、ハンナにとって死者との対話はリアリティのあるものでしたが、生者との対話はすでに触っても手応えや手触りのない幽霊のようなリアリティのないものとの接触に過ぎなくなってしまったのではないでしょうか。そして、さらに変わったのは、以前は孤独を恐れていたのが、死者との対話でハンナ自身が精錬されてからは、孤独を”良し”としたのではないでしょうか。なんて言えばいいか、ハンナは魂の完全性や独立性を得たのではないでしょうか。自己の魂の全体性を獲得したのではないでしょうか。喩えて言えば、深遠な宇宙の中でたったひとり孤独に輝く星となることに”足るを知る”如く充足したのではないでしょうか。うまく説明できませんが、その結果、ハンナは孤独を恐れなくなったどころか、孤独を好むようにすらなったのだと思います。ですから、生者の世界はハンナにとってはほとんど意味のない世界になってしまったのだと思います。そして、ミヒャエルまでも心のない生者の部類に入ってしまっている。だから、ハンナは生者の中で喜びを分かち合える者がいなくなってしまったという孤独はあるでしょうが、それはハンナの置かれた状態であって、ハンナはそれを恐れてはいないと思います。
ですから、ハンナは悲しみの内に自殺したのではなく、清々しい気持ちでこの世界に別れを告げたのだと思います。もちろん、この世界を否定するものではありません。彼女は自然の詩や絵を残しているように自然を愛でていたのだから、この世界の美しさも十分に分かっていたと思います。ただ、時(≒タイミング)が来たのだと思います。生物の老いは残酷で徐々に身も心も蝕んでゆきます。彼女は老いさらばえて醜く朽ちるのを自然にまかせるよりも、自らの意思で潔くきっぱりと別れを告げたのだと思います。
それから、次の点をどう解釈すべきかで迷っています。それはハンナがミヒャエルから送られてきたカセットを元に読み書きを覚える話を刑務所の所長が話しているところです。
彼女はあなたと一緒に字を学んだんですよ。
あなたがカセットに吹き込んで下さった本を図書室から借りてきて、
一語一語、一文一文、自分の聞いたところをたどっていったんです。
あまり何度もカセットを停めたり回したり、早送りしたり巻き戻したりしたので、
レコーダーがそれに耐えられなくて、何度も壊れてしまい、修理が必要になったんです。
修理には許可が必要なので、わたしもとうとう、彼女のやっていることを聞きつけたというわけです。
彼女は最初、自分のしていることを言いたがらなかったのですが、
字を書き始めて、自分で本の題名を書いてわたしに頼むようになってからは、
もうあまり隠そうとはしませんでした。
彼女は読み書きができるようになったことをほんとうに誇りに思っていて、
その喜びを誰かに伝えたかったんでしょうね
(p232-p233)
主旨としては「あなたと一緒に字を学んだ」という点に重点があって、ハンナがミヒャエルに感謝の念を持っているだろうこと、愛を感じた、愛を持ったであろうことを言っているのだと思います。ですが、それとは別の話なのですが、これをハンナが文盲を隠した理由である”恥じている証拠”と考えるべきか否かで私は迷っています。いえ、正確に言うと、私は「ハンナが文盲を隠した理由は恥ではない」と今までずっと訴えてきましたので、私はこれを否定したいのです。しかし、とはいえ、「自分のしていることを言いたがらなかった」となっているので、やはり、自分のやっていることがバレて、さらに自分が文盲であることがバレるのが恥ずかしかったのは恥ずかしかったのだろうと思います。では、やはり、ハンナが裁判で文盲を隠したのも、恥ずかしかったからでしょうか?実はそれがちょっと釈然としないのです。なぜなら、裁判という重要な場面で恥ずかしいからという理由で罪が重くなろうとも文盲を隠すというような頑なな性格と、たとえ所長に文盲がバレてもレコーダーを修理してもらって読み書きを学ぶという勉強熱心な姿勢が結びつかないのです。絶対にバレたくない人なら、レコーダーを修理せずに読み書きの勉強を投げ出してでも文盲を隠したのではないでしょうか?いや、しかし、読み書きを学べる絶好のチャンスゆえに、あれほど隠した文盲がバレることも厭わなかったのかもしれません。また、裁判という重要な場面で文盲を隠すという極めて強い動機として”恥”があるのだとしたら、その証拠として、この所長の話は動機としては少し弱いのではないかと思います。実際、所長には文盲がバレているわけですし…。しかし、それもハンナが文盲ゆえの無知のために裁判の重大性が分からずに、裁判でも意地を通した、とも考えられなくもないです。しかし、恥が理由だとした場合、「なぜ、そこまで恥じるようになったのか?」という、その強力な根拠が示されれば良いのですが、テキストには見当たりません。いえ、しかし、それも恥などというものは、自分が勝手に重大に思っているだけで、そもそも強力な根拠などありはしないものなのかもしれません。あるいは、恥と考えているかどうかはともかく、「文盲を隠している」のだから、恥に関係なく、「言いたがらない」のも当然と言えば当然かもしれません。ともかく、これを恥の証拠というには、いまひとつ、納得いかない思いが私にはあります。いずれにしろ、読み書きができるようになったハンナは第8章でミヒャエルから「読み書きができるようになって嬉しい」といわれても、特に動じる様子も描かれていませんから、恥という感覚は読み書きができるようになって以降はなかったのだと思いますし、読み書きができるようになって文字に対する畏怖の念や神秘性を克服して、今までハンナに欠けていた部分が埋められた結果、第8章の「死者との対話」という言語を超越するような高みへと達しているので恥などというちっぽけなものに囚われる小さな精神性ではなくなっていると思います。逆にさかのぼって考えれば、そういう人が恥に囚われていたのかというとそれは違うんじゃないだろうかと疑問に思えるのです。しかし、私の主張も明確な根拠はテキストでは示せません。ですので、この件、「文盲を隠す理由は恥なのか?」という疑問に関しては、はっきりとこうだとは断定できない、あくまで推測の域をでない、釈然としない感じなのです。(もっと言えば、ここは読者がどう考えるかの選択の問題と言えるかもしれません。読者を試すかのような…。ですが、私などはハンナへの思い入れが強くなったために客観性を欠いているだろうし、すでに恥かどうかなんてそういうレベルの問題でもないと感じていたりもします。)
■第3部第11章(p237-p244)
この章では、ハンナの遺言で生き残ったユダヤ人にハンナの遺産を渡しに行く話が描かれています。
ここでのポイントは2つあります。1つはミヒャエルが見たハンナです。ミヒャエルはハンナの刑務所での強制収容所の勉強を下記のように罪の償いと許しと捉えました。
「それでシュミッツさんを許してやれとおっしゃるの?」
ぼくは最初、そんなことはないと言おうとした。
しかし、ハンナは実際、多くのことを求めていたのだ。
服役した歳月は、他者から課された償いの日々というだけではなかった。
ハンナ自身がそれらの日々に意味を与え、
意味を与えることで他者からも認められることを望んでいたのだ。
(p240)
このミヒャエルの解釈は大きな間違いだと私は思います。ハンナは確かに本を読んで勉強しましたが、それは死者との対話そのものではなく、死者との対話のきっかけに過ぎないと思います。そして、死者だけはハンナに弁明を求めることができるとハンナは言っています。ハンナの罪を追及することが死者にはできるのです。翻って言えば、ハンナの犯した罪は決して許されることではないのです。それをハンナも認めているのです。さらに、ハンナは死者はハンナのことを理解してくれると言っています。偏った恣意的な裁判ではなく、真実に基づいて、そして、ハンナという人間丸ごとを捉えた全体性をもってハンナを理解してくれると考えていると思います。(p223-p224参照)ともかく、ミヒャエルは最後までハンナを理解することができなかったのだと思います。
もう1つのポイントは、ユダヤらしさとこの問題の困難さです。生き残ったユダヤ人女性は下記のように言って、ハンナを許しません。
このお金をホロコーストの犠牲者のために使ったりすれば、
ほんとに彼女に許しを与えることになってしまいそうだけど、
わたしはそんなことはできないし、したくないの
(p243)
このことには2つのことがいえると思います。1つはこのホロコースト問題が決して許される類の罪ではないということです。これは裁判で罪を償ったからといって許してしまえるような罪ではないと思います。この点が、罪深さであり、この問題の困難さのひとつです。もう1つは決して許さない妥協しないというユダヤ性です。ここからは推測ですが、ユダヤ人以外であれば、ハンナのケースを個人的には許す者がいるかもしれません。しかし、ユダヤ人の場合はこれを決して妥協せずに許さない民族性があると思います。そういったユダヤ性が透けて見えるように思います。それがユダヤ人が反感を買う理由のひとつかもしれません。ですが、先に書いたように、この問題の困難さが示すように、正しさはユダヤ人の側にあると思います。その情の無さがよりユダヤ人を私たちから引き離す原因になっていると思います。これはあくまでまったく根拠のない推測であり、私自身、ユダヤ人を差別するつもりはまったくないのですが…。
■第3部第12章(p245-p247)
この章では、この物語へのミヒャエル自身の評価と墓参りが描かれています。
ここでのポイントは2つです。ひとつは言葉の一面性です。作者はこの小説は物語のひとつのバージョンに過ぎないと言っています。たくさんのバージョンの物語を書いたけれど、この物語が最も本当らしいと言っています。しかし、裏を返せば、この物語もやはり物語のひとつであって、真実の一面に過ぎないとも言えるのです。
いつも少しずつ違う物語が、新しいイメージや、ストーリーで、思考を伴って書かれた。
ぼくが書いたこのバージョンの他にも、たくさんのバージョンがある。
ここに書いたバージョンが正しいという保証はぼくがそれを書き、
他のストーリーは書かなかったということで与えられる。
書かれたバージョンは書かれることを欲しており、
他の多くのバージョンは書かれることを望まなかったのだ。
(p245-p246)
そして、最後のポイントは、ミヒャエルが一度しかハンナの墓参りをしなかったことです。
その手紙をポケットに入れて、ぼくはハンナの墓へ行った。
それが初めての、そしてただ一度の墓参りになった。
(p247)
もし、ミヒャエルがハンナへの愛情がもっと深いものなら一度だけの墓参りで済むでしょうか?いいえ、そんなはずはありません。ハンナを忘れられずに何度も墓参りに行ったのではないでしょうか?しかし、実際には、たった一度の墓参りで終わっています。結局、ミヒャエルのハンナへの愛はもう随分前に終わっていたのではないでしょうか。つまり、ハンナの直感は正しかったのです。ミヒャエルのハンナへの愛はすでに尽きていたです。ハンナが最後にミヒャエルに会ったときに、ハンナの直感は見事にそれを見抜いたのだと思います。この最後の一文がハンナの直感の正しさを証明していると思います。
刑務所でミヒャエルからの手紙を待ち続けたハンナでしたが、実際に会ってみれば、ミヒャエルの愛は終わっていたのです。ハンナはそのことを再会して瞬時に見抜き、そして、この世界との最後の絆も失われたと感じたのだと思います。最後の絆が失われた以上、ハンナはもうこれ以上この世界に未練はなく、とどまる必要性が無くなったのでしょう。それに出所後に愛のないミヒャエルに面倒を見てもらうことはハンナにとってはこれ以上にない苦痛に満ちた経験になるかもしれません。それよりはきっぱりとすべてと決別することを選んだのだと思います。この最後の一文は、そういったハンナの直感の正しさの証明になっており、さらに、この物語を貫くハンナの直感すべての証明にもなっていると思います。この最後の一文は、推理作家らしいQ.E.D.(証明終わり)であり、この物語の謎、すなわちハンナの直感の有無や正否を解く最後のピースになっていると思います。(*2)
■第3部まとめ
第3部はおおまかに2つのパートに分けられます。朗読を再開した前半(第1章~第6章)とハンナの死を描いた後半(第7章~第12章)の2つです。前半はミヒャエルの裁判以後の様子からハンナに朗読テープを送りはじめて、ハンナが読み書きができるようになるまでの様子が描かれています。後半は出所のためのハンナとの再会からハンナの死後の事後処理までが描かれています。
第3部の問題点は2つあります。1つは「なぜ、ハンナは死を選んだのか?」です。これはミヒャエルの愛が失われたのが原因だと思います。ハンナにとって、この世界への執着・未練はミヒャエルの愛しかなかったのだと思います。そして、そのミヒャエルの愛が失われたいま、ハンナはこの世界にこれ以上とどまる必要性を見出せなかったのだと思います。それに愛のないミヒャエルに面倒を見てもらうことはハンナにとって反って辛いことだったとも思います。ですから、もう、ハンナはこの世界に未練は一切なく、きっぱりと決然とした気持ちでこの世界に別れを告げたのだと思います。
そして、もう1つの問題点は、ハンナの直感の真偽の問題です。これについては、再会でのハンナの失意とその後の自殺、そして、一番最後の一文がすべてを物語っていると思います。もし、愛しているなら、たった一度の墓参りで済むはずがありません。しかし、「ただ一度の墓参り」とあるようにミヒャエルのハンナへの愛は終わっていたのです。再会でハンナの直感が捉えたように!この最後の一文でこれまでのハンナの直感がすべて本物であることが証明されたと思います。
さて、それにしても、ハンナは一体何者なのでしょうか?恐るべき直感力の持ち主であることは間違いありませんが、しかし、それ以上にハンナはどのような人間なのか、今までどのように生きてきて、どのような考えを持って最後に死を選んだのでしょうか?次回の総評では、物語全体の主題やハンナの人物像に迫ってみたいと思います。
■注釈
(*1)ここで全体主義の問題を考えてみます。
①ナチの問題
ネット上の感想文の中には、ハンナの行いを非人間的で酷い行為だと非難する感想がけっこうありました。でも、国家が全体主義化してしまった社会ではほとんどの国民は国家権力に逆らえずにハンナと同じような行動を取るのではないでしょうか。そうでなければ、そもそもホロコーストなど起こりようがありません。善良な市民であっても、次の日には処刑執行人になってしまう。それが全体主義の恐ろしさだと思います。私たち人間は自分の死を顧みずに正義を貫けるほど強い人たちばかりではないでしょう。また、強くとも多勢に無勢で駆逐されてしまうかもしれません。ほとんどの人間は当時のナチスドイツのような状況下におかれれば、やはり同じような行動を取ったのではないでしょうか。(もちろん、中にはユダヤ人を救った偉大な人たちもいます。ですが、それは限られたごく少数の人たちです。)そして、ここが難しいのですが、だからと言って、ハンナたちの犯した罪が許されるわけではありません。誰かがハンナたちを裁かねばならないのです。誰かがハンナたちの犯した罪を問わねばならないのです。しかし、ナチスドイツの国民だった戦後のドイツ市民に裁く資格があるでしょうか。そもそもナチスドイツを国家権力の中枢に据えたのは選挙でナチスを選んだ一人ひとりのドイツ国民だからです。そういう意味では、ドイツ国民もハンナと同罪だと思います。
では、誰がハンナを裁くことができるでしょうか?生き残ったユダヤ人なら裁くことが可能なのでしょうか?これには、半分は肯き、半分は首を横に振ります。彼らは生命の危険にさらされましたが、なんとか生き残ることができた人たちです。被害者ではあるけれど、一番の被害者ではないと思えるのです。(そして、厄介なのがユダヤ人らしさの問題がありますが、ここでは省略します…。)では、誰が一番の被害者なのでしょうか。それは殺された死者たちだと思います。そう、ハンナを裁くことができるのは、唯一、殺された死者たちだけだと思うのです。しかし、死者たちはもうこの世にいませんから、直接、死者たちが裁きの剣を振り下ろすことはできません。誰かが代わりに裁くしかないのです。しかし、それはあくまで死者の代理であって死者本人ではないのです。代理人はそのことをしっかりと意識しなければなりません。代理人たるドイツ人たちもやはり同じ罪びとなのだと思うのです。
この小説や映画をホロコーストを軽視するものだという批判があります。そういった批判する意見が幾つか出てくることは健全だと思います。しかし、その批判が増大して、全体の総意となって、作品そのものを抹殺するものとなってはいけないと思います。それではホロコーストと同じで全体主義が社会を抑圧することになってしまいます。ナチスという全体主義を抑えるために反ナチスという別の全体主義で社会を抑圧しては元も子もないと思います。真実の声を抹殺してはいけないと思います。全体主義を別の全体主義で裁いてならないと思います。地道な作業ですが、全体主義に流されないためには、全体の制度で防ぐのではなく、一人ひとりの個人が全体主義に抗う精神を培わなければならないのだと思います。
②全体主義の問題
ナチの問題はドイツの問題だけでなく、人類全体が抱えている問題だと思います。SF作家のフィリップ・K・ディックは次のように言っています。
二十世紀最大の脅威は全体主義だ。
(「フィリップ・K・ディック・リポート」のインタビューより抜粋)
私も同じように思います。そして、全体主義の問題は二十世紀に限らずに人類社会に常につきまとう問題だと思います。私たち人間は自分の中に悪を抱えて生きていると思います。その悪によって人間は誰しもナチのようなものを生み出す可能性を持っていると思います。ナチ的な要素を自分とはまったく無縁のものとして排除してしまうことは不可能だと思います。むしろ、そう思ってしまうことこそが、自分の悪に無自覚になり、いつしかその悪に自分自身が呑み込まれてしまう危険があると思うのです。人間は自分の中に悪が眠っていることを忘れてはならないと思います。ナチのような全体主義は私たちの心に内在しているものだと思います。そして、それを意識して行動することで、人間は悪を退けることができるのだと思うのです。
ナチ問題から学んだ教訓で全体主義に陥らないために、いくつか気をつけなければならないことがあります。
1つは有名なマルティン・ニーメラー牧師の次のような詩があります。
ナチ党が共産主義を攻撃したとき、
私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。
私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。
私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。
私は牧師だったから行動した。
しかし、それは遅すぎた。
(マルティン・ニーメラー牧師「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」より)
他人事だと見てみぬふりをして見過ごしていれば、いつか自分たちに危険が迫ってきても、すでに手遅れとなっているかもしれません。
もう1つは、ナチは正当な手続きに則って選挙で民主的に選らばれた政党だということです。
ナチは政権を取るまでは比較的まともな政策を主張していたそうですし、実際に政権を取った後も経済政策では優れた実績を残しています。アウトバーンの建設など公共事業による需要を喚起するケインズ的な政策や直接税である所得税を導入して貧しい労働者に優しい政策を打ち出しました。ドイツの失業問題は大きく改善し、ドイツは第1大戦後の大きな賠償による行き詰まりから奇跡的な復興を遂げたそうです。また、そもそもナチが政権を取るまでの間、国内のナチの対抗勢力を暴力で黙らせたのが、ナチス党とは別組織の突撃隊(=SA)であり、その突撃隊もヒトラーの独裁体制が確立されると”狡兎死して良狗煮らる”の如く「長いナイフの夜」と呼ばれるヒトラーらの粛清によって一斉に逮捕・処刑されました。SAの最高幹部レームは「わが総統よ…」と言って自害したそうです。一方、ドイツ国民は評判の悪いSAが粛清されたことに喜んだそうです。しかし、ナチス・ドイツはそれからどんどんと危険になって行ったそうです。何が言いたいかというと、ナチスが最初から悪の権化なら見分けもついたでしょうが、実際にはそうではなくて、最初は比較的まともな政党だったということです。ナチスを悪の権化として悪魔的な政党という幻想を作って排除することで安心しているだけでは、第二第三のナチが台頭してしまう危険性があると思います。ですから、全体主義に対しては、よくよく”意識”して気をつけなければならないと思うのです。しかも、全体主義を封じるのに別の全体主義で封じたのでは元も子もないので、個人的に気をつけなければならないだろうと思うのです。
③南京事件
ここまで、ナチスドイツや全体主義の一般論を書いてきましたが、日本も、明治以降、戦争を続けてきたわけで、特に南京大虐殺などの戦争犯罪を犯しているのでドイツ人と立場は似ていると思います。ところが、「南京大虐殺は無かった」という意見がマスコミを賑わしたことがあったと思います。アカデミズムはそれを批判せずに無視したのですが、その結果、意外にも多くの若者が南京大虐殺は無かったと考えるようになったのではないかと思います。それはあまりにも目に余り、まったく無視してこのまま看過することは危険と考えて、私は、一時、ささやかながら、南京大虐殺についてネット右翼と議論したことがありました。ですが、最近はさすがに疲れたので、たまたま見つけた南京事件FAQ を引用するようにしています。このサイトの主張を支持して済ませるようにしています。いずれにしても、ドイツは他人事ではなく、ドイツにナチ問題があるように、日本も南京事件などの戦争の問題を抱えているのです。
ところで、脱線ですが、ネット右翼と言葉を交わすうちに、彼ら若者たちの気質の変化に気づきました。ネットで探したら、「なるほど!」と思えるまとめを書いてあるサイトがありました。iwatamさんの「ネット世代の心の闇を探る
」です。どうやらネット世代といわれる若者たちの現実認識が変化しているようなのです。実際に私も彼らと話したとき「変だな?」と実感しました。少し記憶に止めておきたいと思います。
④戦争の悲惨さを知るドイツと日本
第二次世界大戦の敗戦によって日本はドイツと似たような経験をしました。戦争に対してこれだけの反省をした国は世界でもドイツと日本をおいて他にはないと思います。私たちが積み重ねてきた戦争そのものに対する反省は決して間違ったものではないし、世界の中で先行した考え方でさえあると私は思います。他国も実際に同じような敗戦経験をしなければ、なかなか受け入れられない考え方なのかもしれません。ですが、戦争の悲劇が起こってからでは遅いのです。再び多くの血が流されてしまいます。だから、戦争の悲惨さを知っている私たちは容易に理解は得られなくとも、挫けずに戦争の悲惨さを人々に伝えていかなければならないのだと思います。
(*2)私が初めてこの物語を読み終えたときの読後感は、漠然とした印象でした。そのときは、まだハンナの直感に思い至っていませんでした。ただ、いろいろな問題が含まれており、モヤモヤとした感じでした。ただし、この最後の一文だけは、妙に心に引っ掛かって仕方ありませんでした。「なぜ、ミヒャエルはたった一度しか墓参りをしなかったのだろう?なぜ、何度も墓参りしなかったんだろう?」とぼんやりと不思議に感じていました。しかし、物語を頭の中でよく整理してみて、どうやらハンナの直感なるものがあることに気づき、この最後の一文と結び合わさったとき、すべての謎が解けました!すなわち、「ミヒャエルの愛は終わっていたのだ、最後にハンナが直感した通りに!」ということに気付いたのです。まるで、ドミノ倒しのように、物語のすべての謎が一挙に解けるおもいでした!それまでは「なぜ、ハンナは文盲を隠したのだろう?」や「なぜ、ハンナは自殺したんだろう?」という疑問はありましたが、この最後の一文に対する引っ掛かりがこの物語の鍵であるハンナの直感を確信させ、この読解を生み出すきっかけとなったのです。もちろん、「一度だけの墓参り」の意味が「愛が終わっていた」ことを意味しないと解釈することも可能だと思います。ですが、「一度だけの墓参り→愛が終わっていた」と解釈すれば、ハンナの直感という縦糸で物語に一本の筋が通り、物語全体が非常に首尾一貫したものになると思います。そして、ハンナの、謎めいた死者との対話もこの直感の延長線上にあるので見事に繋がると思いました。本当にこの最後の一文は、世界文学史上でも他に類を見ない見事な”鍵”になっていると思います。
余談ですが、もし、この小説が作者のベルンハルト・シュリンクにとって実話に近いものであった場合、もし、シュリンクが本当は何度も墓参りに行っていたとしたら、この小説は彼の贖罪を意味しているのかもしれないとも思いました。でも、そうだとしたら、ハンナの死の意味も少し違ってくるかもしれませんし、遅すぎたのかもしれませんが、シュリンクの本当の気持ちがどうであったかも、考えれば胸が痛むようで、深く考えさせられてしまいます。人の気持ちというのは本当のところは誰にも分からないものなのかもしれません。
『朗読者』を読む その5
■第3部読解
■第3部第1章(p191-p196)
この章では、ハンナに終身刑の判決が下された後の、ミヒャエルの心境の変化が描かれています。裁判が終わった後のミヒャエルはハンナを忘れるために勉強に専念しますが、偶然、スキーに行ったときに、寒さの感覚が麻痺したままスキーを続けてしまい、その結果、高熱で倒れてしまいます。そして、回復したときには、ミヒャエルは変わってしまっていました。その後、大学を卒業して司法修習生になっていたときには、アンビバレンツな苦悩の中にいることにミヒャエルは心地良ささえ見出していたのではないでしょうか。
ぼくはほんとうならハンナを指ささなければいけないのだった。
しかし、ハンナを告発すれば、それは自分に戻ってきた。
ぼくは彼女を愛したのだ。愛しただけでなく、選んだのだ。
(p195)
ハンナを愛することによる苦しみが、ある程度ぼくの世代の運命でもあり、ドイツの運命を象徴し、
そしてぼくの場合はそこから抜け出たり乗り越えたりするのが他人よりもむずかしいのだ、
と言われても、それが何の慰めになったろう。
それにもかかわらず、自分がこの世代に属しているという感覚は、
当時のぼくには心地よいものだったのだ。
(p196)
ここでのポイントは、第2部の冒頭でミヒャエルはハンナを失ったことがトラウマとなって親しい人間関係が築けなくなっていたのが、この第3部の冒頭では、さらに悪化して、罪びとであるハンナを愛することの苦しみによって、どこか感覚の麻痺した複雑な人間になってしまったことです。
■第3部第2章(p196-p199)
この章では、ミヒャエルの結婚と離婚と娘ユリアのことが描かれています。それから、離婚後の女性関係についても描かれています。ここでのポイントは、ミヒャエルが女性に求めたものはハンナであり、ミヒャエルはハンナを決して忘れられない点です。
ゲルトルートと抱き合っているときも、何かが違う、彼女ではない、
彼女のさわり方、感じ方、匂い、味、すべてが間違っていると思わずにいられなかった。
ぼくはハンナから解放されたかった。しかし、何かが違うという思いは、けっして消えることがなかった。
(p196)
ちなみに、関係した女性たちにミヒャエルがハンナのことを話しても、彼女たちは聞きたがらなかったり、トンチンカンな分析をしたり、すぐに忘れたりします。言葉に対する思い入れが男女で違うのかもしれません…。さらに、ミヒャエルは言葉よりも行動の真実性についても少し触れています。
話の真実の中身は、ぼくの行動の中に含まれているのだから、話はやめてしまってもいいのだった。
(p199)
言葉と本質、言葉とその言葉の意味するところ、つまり、シニフィアンとシニフィエ、ここではシニフィエは話の真実の中身ですが、ミヒャエルは、それは行動の中にあるというわけです。
■第3部第3章(p199-p204)
この章では、ミヒャエルのゼミの教授の葬儀に参列した様子が描かれています。まるで運命の糸に引かれるようにハンナの裁判という過去に遭遇します。ここでのポイントは2つあります。1つは亡くなった教授の人となりです。
教授の人生と業績についての弔辞からは、教授自身が社会の圧力から身を引き、社会との接点を
失っていって、孤高の道を歩むと同時にいささか偏屈になっていった、ということがうかがえた。
(p201)
やや思い切った推測になってしまいますが、この教授は現実と法の摩擦から厭世的になってしまったのではないでしょうか?ここでいう法とは、現実を仕切ってゆく言葉のことです。現実の前に(真摯な)言葉のひとの無残な末路のようにも捉えられないでしょうか?おそらく、教授は現実を真摯な言葉=法学で切ってゆこうとしたのではないでしょうか?ナチ時代の裁判に興味を持ったのも、裁判のあり方に疑問を持ったのが理由であるはずです。しかし、それは虚しく現実の前に敗れ去ったのではないでしょうか?そこまで推量で言ってはいけないのかもしれませんが…。(逆に言えば、他の法関係者は現実と言葉に適当なところで折り合いを付けていると言えるかもしれません。)
さて、もう1つのポイントはハンナとの関係を詮索した同窓生の話です。ミヒャエルは、結局、この同窓生の話を無視して電車に駆け込んで去ってしまいます。これは1つはミヒャエルがハンナのことをまだ人に話せるようには整理できていないことを表していると思います。もう1つは過去との出会いを表していると思います。
■第3部第4章(p204-p207)
この章では、ミヒャエルの仕事の選択について描かれています。
ミヒャエルは弁護士や検察官や裁判官など、実際に現実を裁く仕事には就きたくありませんでした。理由は裁くという行為が”グロテスクな単純化”に思えたからでした。結局、ミヒャエルは法史学の道に進むことを選びました。でも、それは逃避でした。その反面、歴史を学ぶことは、過去に閉じこもるわけではなく、現在に対してアクチュアリティのあるものでもありました。
歴史を学ぶことの意義の難しさがここにはあります。例えば、歴史は繰り返すというけれども、現実という複雑な複合体はまったく同じ条件などなかなかありません。仮に条件が異なってしまえば、まったく違った結果になることはよくあることです。ですから、歴史から単純化された規則性を見出すのは極めて困難でもあり、たとえ規則性を見つけても、現実は実験室ではありませんから、条件は一定ではなく、どんどん変わってしまい、結局、得られた法則は実用性に乏しい無駄なものになってしまうことが多いでしょう。ならば、歴史を学んでもあまり意味はないということになります。ですが、私たちはそれでも歴史を学ぶことに何らかの意義があるのではないかとあてのない期待を胸に歴史から学ぼうとします。
ぼくは当時『オデュッセイア』を再読していた。
初めて読んだのはギムナジウムの生徒のときだったが、帰郷の物語としてずっと記憶にとどめていた。
しかし、それは帰郷の話などではなかった。
同じ流れに二度身を任せることができないと知っていたギリシャ人にとって、
帰郷など信じられないことだった。
オデュッセウスはとどまるためではなく、またあらためて出発するために戻ってくる。
『オデュッセイア』はある運動の物語にほかならない。
その運動には目的があると同時に無目的であり、成功すると同時に無駄でもある。
法律の歴史だってそれと大差ないのだ!
(p207)
今までのミヒャエルの人生の中では、哲学や法学による言葉のアプローチは現実の前に虚しさを曝け出してきました。そして、今度は、歴史という言葉で過去の現実を切り出してゆく道、歴史という新たな言葉のアプローチをミヒャエルは選んだのでした。ミヒャエルは哲学や法学では得られなかった知見や教訓を歴史からは学ぶことができるでしょうか?
■第3部第5章(p207-p211)
この章では、朗読の再開が描かれています。
ミヒャエルは離婚して不眠症になります。ミヒャエルは自分の人生を整理するために眠れない時間を読書にあてます。そして、ミヒャエルの人生で中心的な存在はハンナであることに気づきます。ミヒャエルは熟睡するために睡眠にメリハリをつけるために声を出して朗読を始めますが、その朗読の仕方はハンナのための朗読でした。そこでミヒャエルは朗読をカセットに吹き込んでハンナに送ることにします。ここでのポイントは、ミヒャエルはハンナのことを一番に思って朗読を始めたわけではないことです。カセットを送ることは確かにハンナのためでした。しかし、それは自分のためでもあったのです。
カセットには個人的なコメントは入れなかった。
ハンナに問いかけることも、ぼく自身について報告することもしなかった。
作品のタイトルを言い、著者の名前を言うだけで、あとはテクストの朗読をした。
(p211)
■第3部第6章(p211-p215)
この章では、ハンナから手紙がやってくる話が描かれています。
ここでのポイントは、ハンナから手紙を受け取っていながら、ミヒャエルからはハンナに手紙を送らなかったことです。これはミヒャエルがいかに心を触れ合わせる対話をしなかったのかが表れています。そして、このことがハンナを大いに失望させたと後になって判明します。
この章では他にも、ハンナの人となりが分かるようなエピソードが出てきます。たとえば、ハンナは草花や小鳥や天気のことに注意深かったことが窺われます。また、文学に対しても鋭い感性を持っていることが分かります。また、筆跡からハンナの努力や進歩が分かり、さらに筆跡からハンナの精神性が読み取れたりします。
流れるような筆跡になることはなかった。
しかし、生涯にそれほど多くの字を書かなかった年配者たちの筆跡にふさわしい、
ある種の厳しい美しさがその筆跡にはあった。
(p215)
ハンナの精神は決して硬直したり偏ったりしたような曲がった心の持ち主ではないと思います。むしろ、普通の人よりも、まっすぐな心の持ち主なのではないでしょうか。
また、ここでは文盲のひとの苦労についても書かれています。
それまでの何年にもわたって、ぼくは文盲についての記事を探しては、目を通してきた。
文盲の人々が日常生活を送る際の寄る辺のなさや、道や住所を見つける際の困難、
レストランで料理を選ぶときの大変さ。
与えられた模範や確立されたルーティンに従う際の不安や、
読み書きができないことを隠すために、本来の生活とは関係のないところで費やされるエネルギー。
(p212)
■第3部第7章(p215-p219)
この章では、ハンナの出所が近い知らせが刑務所の女所長から知らされる話が描かれています。
ここでのポイントは、ミヒャエルがハンナに会いに行かなかったことです。ここでもミヒャエルの気持ちは複雑なものでした。出所後のハンナの生活環境を準備しているにも関わらず、ハンナには会おうとはしません。ミヒャエルが心の底からハンナを愛しているというわけではないのが見て取れると思います。ミヒャエルという人物の複雑さがあります。
ハンナとはまさに自由な関係で、
お互い近くて遠い存在だったからこそ、ぼくは彼女を訪問したくなかった。
実際に距離をおいた状態でのみ、彼女と通じていられるのだという気がしていた。
……
ぼくたちのあいだにあったことを蒸し返さないまま、
顔を合わせることがどうやってできるのだろうか。
(p218)
もしかしたら、ミヒャエルが愛したハンナとは、現在のハンナではなく、過去の幻のことなのでしょうか?
(その6へつづく)
『朗読者』を読む その4
■第2部読解
■第2部第1章(p103-p106)
この章では、ハンナが去った後のミヒャエルの変化が描かれています。時間的には法学部の学生になった頃までを描いています。ここでのポイントは、ハンナに去られた後のミヒャエルが人間的にまっすぐに成長したわけではなく、むしろ、ハンナが居なくなったことによる穴が大きいかったために、ミヒャエルの成長が人間的に順調ではない方向に変わってしまったことです。
ギムナジウムでの最後の日々、そして大学で学び始めたころのことは、
幸せな歳月としてぼくの記憶に残っている。
と同時に、そのころのことについてほどんど語れるような思い出がない。
……
友情も、恋愛も、別れも、何もかもが簡単だった。
すべてが簡単に思え、すべてが軽かった。
……
そもそも幸福な思い出というのがあたってるのかどうか、ぼくは自問する。
(p104)
ぼくがハンナとの思い出に別れを告げたものの、
けっしてそれを清算したわけではないこともわかる。
ハンナとのことがあったあとでは、もう誰からも屈辱的な目に遭わせられたり、遭わせたり、
誰かに罪を押しつけたり、罪の意識に苦しんだり、
その人を失うことが痛みとなるほどまでに人を愛したりはしなくなった。
(p104)
ぼくは高慢で優越的な態度を身につけ、自分が何物にも動かされず、揺るがされず、
混乱させられない人間であるかのように振る舞った。
(p105)
ゾフィーのことも思い出す。
……
彼女はぼくがほんとうは彼女を求めていないことに気づき、涙ながらに言ったものだ。
「あなたはどうなってしまったの?」
(p105)
ミヒャエルはハンナとの別れを自分の中で気持ちを整理して清算できずに、一種のトラウマとして抱えています。そして、それが原因でミヒャエルは他人との親しい人間関係・距離の近い間柄を築けなくなってしまっています。そのため、生活もどこか虚ろな充実感の欠いた生活になっています。
■第2部第2章(p106-p110)
この章では、ゼミでナチ時代を裁く裁判を傍聴することになり、ゼミの教授や学生たち、ミヒャエルの状況や心境が描かれています。ここでのポイントは、学生たちやミヒャエルの当時の心境です。学生たちは、ナチ時代に犯した過ちをもって彼らの親世代を断罪することに正義感を見出し、熱狂してゆくことです。一方、ミヒャエルは前章で示されたように何事にも熱狂せずに距離感を持っていたのが、このゼミでは次第に学生たちに同調してゆきます。(ただし、それは実際の裁判の傍聴が始まる前の話、冬の間のことです。)
再検討!過去の再検討!
そのゼミの学生であったぼくたちは、自分たちを再検討のパイオニアとみなしていた。
……
彼らを追放しようと思えばできたのにそれもしなかった世代そのものが裁かれているのだった。
そして、ぼくたちは再検討と啓蒙作業の中で、その世代を恥辱の刑に処したのだった。
……
ぼくたちはみな両親を断罪したが、
その罪状は1945年以降も犯罪者たちを自分たちのもとにとどめていおいた、ということだった。
(p108-p109)
■第2部第3章(p110-p116)
この章では、法廷でのハンナとの再会が描かれています。ここでのポイントは3つあります。1つは裁判長や弁護士の特徴が描かれています。裁判長はやや恣意的であること、一方、若い弁護士は性急であり、他の老弁護士は長広舌で、どちらの弁護士も裁判には不利であったことです。いずれにしても、それぞれ人間的特徴を備えていることです。
2つ目のポイントはハンナの経歴が裁判に不利だったことです。1つは、ハンナはジーメンスで昇進の話があったのに、ジーメンスを辞めてナチの親衛隊に入っています。ただし、ハンナも「親衛隊がジーメンスや他の企業で、看守の仕事をする女性たちを募集した際に自分も応募し、看守として採用された」と供述しているように、親衛隊に入るのが目的ではなく、看守の仕事の紹介が先にあって仕事に就くために親衛隊に入っています。つまり、就職が目的であってナチのシンパというわけではありません。もう1つは、まるで逃亡しているかのように頻繁に住む場所を変えていることです。しかし、これも弁護士が証言しているように、引っ越すたびに、警察への届け出を行っており、逃亡や隠蔽を目的としたものではないことを裏付けています。しかし、それにも関わらず、裁判の印象としてはハンナにとって不利になってゆきます。
3つ目のポイントはミハンナの釈放要求がなされたときのヒャエルの心理です。ミヒャエルは、もしハンナが釈放されたら、彼女に会うか会わないかを決めなければならない、それよりは自分の手の届かないところにいて欲しい、彼女との問題と向き合うことを避けたい、そう考えたことです。
ぼくは彼女がぼくから遠く、届かないところにいてくれることを望んだ。
そうすれば彼女は、この何年かのあいだそうであったように、単なる思い出であり続けるだろう。
もし弁護人の釈放要求が通るなら、ぼくはハンナに会う覚悟をしなければならないし、
彼女に会いたいのか、会うべきか、という問題を、きちんとさせなければならない。
(p115)
ミヒャエルは、今でもハンナのことをはっきりと強く愛しているのかというと、実はそうではなくて、ハンナのことを遠い過去の事柄に押しやってしまった結果、いまいちど、自分がハンナを愛しているかどうかに向き合わなければならないと考えたのだと思います。さらに、過去の気持ちと対面して整理しなければならないことを厄介に感じているのだと思います。
■第2部第4章(p116-p122)
この章では、裁判の参加者全員の、裁判に対する心の麻痺が描かれています。ここでのポイントは2つあります。1つはミヒャエルの心の麻痺です。ミヒャエルは、ハンナのことを最も愛した近しい対象ではなく、自分とは関係の薄い遠い対象として眺めています。さらに、ハンナだけでなく、その他のあらゆるものも、自分すらも遠くへ押しやって眺めてしまいます。
ぼくは、まるで彼女を愛し求めたのは自分ではなく、ぼくのよく知っている誰かだった、
という気持ちでハンナを見ていることができたが、麻酔の作用はそれだけにとどまらなかった。
ほかのあらゆることに関しても、ぼくは自分の傍らに立って、もう一人の自分を眺めていた。
……
ぼくの心は、その場で起こっていることに参加していないのだった。
(p118-p119)
さらに、もう1つのポイントは、ミヒャエルだけでなく、裁判に参加している全員が心の麻痺状態に次第に陥ってゆくことです。ミヒャエルはさらに敷衍して、裁判で問うことと問わないことの両方の意義に疑問を投げかけます。問わないまま、驚愕と恥と罪の中で沈黙すれば良いというのか、だが、逆に問うことでも、結果的には驚愕と恥と罪の中で沈黙してしまうのではないか。裁判で裁くことの難しさが描かれています。
■第2部第5章(p122-p125)
この章では、裁判での2つの罪状が描かれています。1つはアウシュビッツに送る囚人の選別についてです。もう1つの罪状は空襲されて火災になった教会に囚人が閉じ込められたとき、教会の扉を開けずに、焼け死ぬままに見殺しにした罪でした。
■第2部第5章~6章(p122-p131)
この章では、殺されると分かっていながらも、アウシュビッツへ送る囚人を選別した罪について、ハンナや看守達への追及が描かれています。ここでのポイントは、次の裁判長とハンナのやり取りです。アウシュビッツで処刑されると分かっていたにもかかわらず、アウシュビッツに送る囚人を選別したことを咎めた裁判長に対して、ハンナは逆に次のように裁判長に問いかけます。
「わたしは……わたしが言いたいのは……あなただったら何をしましたか?」
(p129)
それに対して裁判長は、
「この世には、関わり合いになってはいけない事柄があり、
命の危険がない限り、遠ざけておくべき事柄もあるのです」
(p130)
と答えます。これはハンナの質問から言い逃れするための裁判長の明らかな欺瞞です。ハンナが聞きたいのはそんなことではないのです。看守という立場で囚人を選別しなければならない状況におかれたときに、どうしたら良いのかを尋ねているのです。そこには「命の危険がない限り、遠ざけておく」ことなどできないのです。だから、裁判長のこの言葉に聴衆は落胆します。ところが、ひとりハンナだけは次のように呟きながら真剣に考え込むのです。
「じゃあわたしは…しない方が…ジーメンスに転職を申し出るべきじゃなかったの?」
(p131)
このやり取りにおけるハンナを文盲ゆえの整理されていない混乱した思考と捉えるべきでしょうか?確かにハンナは裁判長の不完全な答えが言い逃れのためだということには気付きませんでした。そういった意味ではハンナは頭が悪いと受け取られるかもしれない。しかし、ハンナは正々堂々と意見を交わしているのであって、裁判で駆け引きをしているわけではないのです。ハンナの考えには駆け引きなど最初から無いのです。私はハンナは決して頭の悪い女性ではないと思います。では、このハンナの自問は一体何を意味しているのでしょうか?そう、これこそ、ハンナが直感を巡らせている最中なのではないでしょうか。このハンナの自問自答は、ハンナが自分の中で直感による因果関係を結び付けようとシミュレーションしているように私には思えます。通常ではありえないナンセンスな因果関係の結びつきを探そうかとするような、まるで糸をたぐり寄せるような感覚がこの場面のハンナにはあります。直感知とは何か。少し詳しく考えてみましょう。
まず、先に言語知を考えてみると、言語知は物事を整理して論理的に順序立てて並べ替えて考えることです。下左図のように一枚のカードにはひとつの因果関係があるとして、それらのカードを順序立てて前後に論理的に繋がりがあるように並べ替えることです。そうすることで、1枚目のカードと最後のカードに因果関係をうち立てることができます。では、直感はどうでしょうか。直感をイメージすると、直感は順序立てて並べ替えることなどはせずに、ホログラフィックの嵐のようにカードが本人の周囲を渦巻きのように飛び交っているようにイメージします。そして、その混沌とした中を稲妻のような閃光が突如因果関係を見い出すのではないでしょうか。あるいは、本来は長い紙のような論理の繋がりをロール紙のように丸めて渦巻状にして、渦巻きを貫くように因果関係を直接的に最初の原因と最後の結果を結びつけるのではないでしょうか。
もちろん、これは、あくまでイメージであって、実際の直感とは違うでしょうけれど…。ただ、ここでのハンナは、裁判長の言葉から「収容所での選別を避ける」ために、「ジーメンスに転職を申し出るべきではなかった」ということをあらかじめ予見できなかったかを、自分の頭で”直感”をシミュレーションしているのではないかと思えます。やはり、ハンナという女性は極めて直感を働かせる女性なのではないかと私には思えるのです。
■第2部第7章(p131-p137)
この章では、選別がハンナ個人によるものか看守達全員によるものかが争いが描かれています。おそらく、看守達全員の意思での選別なのですが、罪が問われるのを避けるために、他の看守達がハンナに罪を押し付けようと画策したのだと思います。さて、ここでのポイントはハンナが看守時代に朗読させていたことが判明したときに、裁判でハンナがとった行動です。
ハンナは振り返ってぼくを見た。彼女のまなざしはすぐにぼくの姿を見つけだした。
それでぼくには、彼女がずっとぼくの存在に気づいていたことがわかった。
彼女はぼくをただ見つめていた。何かを乞うたり、求めたり、確認したり約束する表情ではなかった。
顔だけがそこにあった。
(p136)
ここでハンナがミヒャエル以外にも朗読させていたことがわかりました。では、ミヒャエルも単にハンナに利用されただけでしょうか?ミヒャエルの場合、ハンナとミヒャエルが愛し合った後に朗読が始まりましたので、朗読させるのが目的だったわけではないのかもしれません。が、しかし、それもミヒャエルに朗読させるためのハンナの策略だったのかもしれません。ミヒャエルとの朗読の場合、ハンナはミヒャエルと朗読された物語の内容について話し合いました。そこでは二人の心の空間を築いたのではないでしょうか。そこには二人の間に確かな結びつきがあり、愛があったと思います。確かに朗読のためにミヒャエルを利用したことを否定できない面もあるかもしれません。でも、収容所での朗読と違って、ミヒャエルとの朗読は、内面についてお互いに語ることでハンナの心の奥深くまで二人一緒にダイブしたのだと思います。形はどうあれ、それは二人だけの特別な絆だったと思います。
なので、ここで、ハンナがミヒャエルを振り返って確認したかったのは、ミヒャエルとの朗読と看守時代との朗読を、ミヒャエルは同じに捉えているのか、それとも、それとは別の二人だけの愛の絆として捉えているのかを確認したかったのではないでしょうか?もし、前者であれば、ミヒャエルはハンナに利用されたと考え、あの愛の日々もウソだったと思うかもしれません。そうなれば、ミヒャエルのハンナへの愛は瓦解してしまいます。ハンナはそれを恐れたのではないでしょうか?ミヒャエルの愛が失われることを。だから、ミヒャエルがハンナの過去の朗読をどう受け取ったかをハンナは振り返って確認したかったのだと思います。「違うの!看守時代の朗読と違って、あなたとの朗読には愛があったの!」本当はハンナは懇願するようにそう叫びたかったのではないでしょうか?でも、「顔だけがそこにあった」というように、そんな素振りを微塵も見せないところが、ハンナの性格なんだと思います。自分が正しいのであれば、誰に懇願する必要もない、ハンナはそう考えたのではないでしょうか。
■第2部第8章~9章(p137-p150)
この章では、燃える教会に囚人たちが閉じ込めらて見殺しされた話の回想と、見殺しにした責任者は誰かを追及する話です。閉じ込められた囚人で助かった母娘は助かろうとしたわけではなく、燃えさかる炎に近いにもかかわらず、ただパニックの集団から離れたかったがためだけに二階に逃げただけだでした。皮肉にも、そのおかげで母娘は助かったのでした。私にはどこか歴史の皮肉を感じさせられます。
さて、ここでのポイントは2つです。1つはハンナとハンナ以外の看守たちの違いです。裁判長の「どうして扉を開けてやらなかったんですか?」という質問に対して看守たちは、自分は負傷していたとかショック状態だったとか言って、自分たちに不利にならないように責任逃れをしていることです。それに対して、ハンナだけはそのときの状況を正直に説明して、もし、仮に扉を開けていたら、囚人たちが逃亡するだろうし、自分たち看守も見逃すわけにいかないので、互いに危険な状況に置かれてしまう。それでなくても、囚人たちは日を追うごとに死んでいっている。だから、ここで看守と囚人の双方が危険になるよりは…と自分たちの判断を正直に説明しています。確かにハンナたちの行いが倫理的に許されることではないのでしょうけど、しかし、裁判では正直な態度でなければ正しくは裁けないのではないでしょうか。
もう1つは、筆跡鑑定です。看守たちは報告書はハンナが書いたとウソをついて、責任をハンナに押し付けます。もちろん、ハンナは報告書はみんなで考えて書いたと本当のことを言います。意見が食い違うので、とうとう裁判長はハンナの筆跡鑑定をさせることにします。それを聞いたハンナは「自分が書いた」と認めてしまいます。もちろん、これは自分が文盲であることがバレるのを避けるためについたウソです。
さて、1つ目のポイントから、ハンナは非常に実直な性格であることが分かると思います。自分が助かりたいために自分が有利になるようにウソをつく、なんてことはしません。たとえ、自分に不利であっても、正直に自分の行いについて話します。ところが、2つ目のポイントでは、それがまったく違ってきます。1つ目のポイントで分かるようにハンナはウソが嫌いなはずです。しかも、文盲を隠すウソは自分にとって不利になるのに、です。つまり、そこまでしても、ウソをついてまでもハンナが守りたかったのが文盲という秘密です。しかし、文盲が「恥ずかしい」という浅はかな気持ちでウソをつくような女性ではハンナはないと思うのです。もっと大切なものを守るためにハンナは命がけでウソをついたのではないでしょうか?そして、ハンナが守ろうとしたものこそ、ハンナのミヒャエルへの愛なのではないでしょうか?
ハンナは以下のように考えたのではないでしょうか。「もし、自分が文盲だとバレてしまえば、ミヒャエルはハンナと心が通じていたと思っていたのが、実はそうではなかったと思われてしまう」とハンナは考えたのではないでしょうか。どういうことかというと、市電の事件(第1部第10章)を思い出して下さい。ミヒャエルはハンナとイチャつくためにわざと二両目の車両に乗りました。しかし、ハンナはミヒャエルのその意図にはまったく思い至りませんでした。逆にミヒャエルが無視したとハンナは勘違いしたくらいです。後になってミヒャエルから教えられて初めてハンナはミヒャエルの意図に気付いたくらいでした。つまり、ミヒャエルが思っているほど、「自分がミヒャエルの心に通じていない」とハンナは思ったのではないでしょうか。そして、それは「自分が文盲であることに原因がある」とハンナは考えたのではないでしょうか。すなわち、「文盲であることは同じ人間でも心の通じる度合いが違う。普通の人よりも文盲は心の通じが悪い」とハンナは思ったのではないでしょうか。文字が読める私たちからすれば、「そんなバカな!」と思うでしょう。文字が読めようが読めまいが、人間の心の通じる度合いに違いはないと分かると思います。しかし、悲しいことに、文盲であるハンナにはそれが分からなかったのではないでしょうか…。
さらに、第1部第12章で父の哲学書をミヒャエルが読んだとき、ハンナはチンプンカンプンでまったく意味が分かりませんでした。しかし、本を読んだミヒャエルはきっと意味が分かったに違いないとハンナは一層勘違いしたのではないでしょうか。いえ、そこまで行かなくても、一般論として、ハンナには分からないが、ミヒャエルには分かる心の領域があると、ハンナはミヒャエルと自分の違いを考えたのではないでしょうか。つまり、極端に言えば、「同じ人間でも、文盲である人は文字が読める人の心が理解できない」と勘違いしたのではないでしょうか。しかも、それは人を愛することでも違ってくると考えたのではないでしょうか。ハンナがいくらミヒャエルを深く愛しているつもりでも、ミヒャエルから見れば、「ハンナは文盲なので、ミヒャエルがハンナを愛するのと同じ程度には、ハンナはミヒャエルを愛することはできない」、そうミヒャエルが考えるのではないかとハンナは恐れたのではないでしょうか。そこまで極端に考えないかもしれませんが、少なくともハンナの愛をミヒャエルに疑れるかもしれないと考えたのかもしれません。「愛しているのに、その人から自分の愛が疑われるかもしれない」、あるいは、「もしかしたら本当に文盲の自分の愛は大して深くないのかもしれない」としたら、どんなに悲しいことでしょう。しかし、だからといって、文字を読めないハンナには、実際にどんなに深くミヒャエルを愛していたとしても、その愛する想いをミヒャエルに伝える方法は自分にはないと考えたのではないでしょうか。なぜなら、ハンナはずっと文盲をミヒャエルに偽ってきたわけですし、言葉で想いを伝えようにもハンナは言葉が上手ではありません。あるいは、若いときならセックスで自分の愛の深さを伝えたかもしれませんが、今となっては年齢も重ねて年老いており、しかも二人の距離も被告席と傍聴席で遠く離れています。もし、ここでミヒャエルの愛を失ってしまったとしたら、ハンナは永久にミヒャエルの愛を取り戻す方法はないと考えたと思います。そして、ハンナが一番恐れたのは、昔の愛までもすべて偽りの愛として、ミヒャエルの心で否定されてしまうと考えたのではないでしょうか。
さて、まとめると、「文盲は他人と心が通じる度合いが低く、文盲がバレることは、ミヒャエルヘの自分の愛が疑われることであり、しかも疑いを晴らすことが自分にはできない」とハンナは考えた。しかし、そうならないようにするためには、結局、「文盲であることを隠すしか他に方法はない」と考えて、ハンナは裁判でずっと文盲を隠し続けた。したがって、裁判でハンナが文盲を隠した理由は、ミヒャエルに愛を疑われないようにするためであり、ミヒャエルとの愛を守るためだったと思います。ここには文字が読めないことに起因するハンナの悲しい思い違いがあると思います。(ただし、後に刑務所で文字を覚えたハンナはその思い違いの呪縛から解放されたのだと思います。)
■第2部第10章(p150-p155)
この章では、ミヒャエルがハンナの文盲に気付く話です。ハンナの文盲に気付くことで、今までミヒャエルが理解できなかった一連の謎が氷解してゆきます。しかし、同時に、「なぜ、ハンナは文盲を隠すのか?」という新たな疑問が浮上してきます。そして、ミヒャエルはその理由を”恥”だと考えました。
ハンナの動機が秘密がばれることに対する恐れだったとしたら
どうして、文盲であるという罪のない告白の代わりに、
犯罪者であるという恐ろしい自白をしてしまったのだろうか?
……
彼女は単に愚かなのだろうか?
そして、露顕するのを避けるために犯罪者になるほど、見栄っ張りで性悪なのだろうか?
(p153-p154)
彼女には計算や策略はなかった。
自分が裁きを受けることには同意していたが、
ただそのうえ文盲のことまで露顕するのは望んでいなかったのだ。
彼女は自分の利益を追求したのではなく、自分にとっての真実と正義のために闘ったのだ。
彼女はいつもちょっぴり自分を偽っていたし、完全に率直でもなく、自分を出そうともしなかったから、
それはみすぼらしい真実であり、みすぼらしい正義ではあるのだが、
それでも彼女自身の真実と正義であり、その闘いは彼女の闘いだった。
(p154)
この章でのミヒャエルの分析は非常に的確で理路整然としています。確かに、市電の事件では、彼女は自分を偽っていました。「ミヒャエルに無視されても平気だ。ミヒャエルなどは自分にとって取るに足りない人間に過ぎないのだ」とミヒャエルに思わせようと平気な自分を装っていました。あるいは、市電事件後の手紙もホテルのメモも文盲を隠すために偽っていました。ですから、「彼女はいつもちょっぴり自分を偽っていたし、完全に率直でもなく、自分を出そうともしなかった」という部分は確かにあったと思います。
しかし、ミヒャエルの見解がすべて正しいわけではないと思います。例えば、第1部第16章のプールサイドでのハンナとの邂逅です。あのプールサイドでの出会いはミヒャエルの見た幻だったのでしょうか?それとも確かにハンナはプールサイドには来たけれども、単に理由もなく去っていっただけなのでしょうか?ミヒャエルはハンナの失踪を振り返って次のように考えます。
ぼくは、自分が彼女を欺くような行動をとったので、彼女を追い出すことになってしまったのだ、
と確信していたが、実際は彼女はただ市電の会社で文盲がばれるのを避けただけなのだ。
もちろんぼくが彼女を追いだしたわけでないとわかっても、
彼女を欺いた事実がそれで変わるわけではなかった。つまりぼくは有罪のままだった。
(p155)
ミヒャエルは「たとえハンナにバレなくても、自分がハンナを欺いた事実に変わりはないので、自分には罪がある」と男らしく考えます。しかし、本当にハンナが失踪した原因はミヒャエルの行動と無関係だったのでしょうか?
それに、そもそも、今まで彼女が文盲を隠したのは、本当に「恥ずかしかった」のが理由でしょうか?
前章で書いたように、ハンナが裁判で文盲を隠した理由は、ミヒャエルの愛を失いたくなかったからだと思います。ですが、それ以前に、文盲がバレそうになると彼女はそれを隠すために転職していますし、ミヒャエルにもたびたびウソをついています。しかし、それは恥ずかしかったためではないように思えてなりません。生きるために働くためにハンナはウソをついてきたのかもしれませんが、それだけではなく、もっと根源的な問題で、ハンナにとって文盲がバレることは、世界との繋がりが断たれると感じられたのではないでしょうか?ミヒャエルに出会う前からハンナは文盲を隠してきましたが、その理由は以下のようなものではないでしょうか。
文盲を隠す彼女はとても孤独な人です。なぜなら、表面的には職場で人との繋がりを得ていますが、実際には彼女は他者としっかりとした関係を構築していないと感じていたのではないでしょうか?どういうことかというと、普通の人の場合は、文字が読めることで文章の意味を理解し社会の中で暗黙の了解を互いが共有するということが可能ですが、文盲のハンナにはそれが出来ていなかったと思います。それゆえに人の輪の中にあっても「偽りの信頼関係である」と自分では考えていたのではないでしょうか?彼女自身は文盲であるがゆえにそのことを自覚しています。しかし、彼女と関わりのある他者は彼女が文盲であることを知りません。文盲を知られた瞬間にハンナが暗黙知を共有していない他者として隔絶していることが露呈してしまいます。そうなったときの孤独感に対する恐怖や不安をハンナは抱えていたのではないでしょうか。つまり、天涯孤独なハンナにとって文盲がバレるということは、この世界との絆が完全に断たれてしまって本当に世界で一人ぼっちになってしまうという恐怖心があったのではないでしょうか。
まとめると、ハンナはこれまでの人生で孤独だったのですが、もし、文盲がバレてしまうと、さらに輪をかけて孤独になってしまうと彼女は恐れたのではないでしょうか。これ以上、世界から隔絶する孤独感に耐えられないと考えたから、ハンナは文盲を隠したのではないでしょうか。
■第2部第11章(p155-p160)
この章では、ハンナが「報告書は自分が書いた」と認めたことで、裁判がハンナにとって見事なまでに不利に動き出し、はじめこそハンナはそれに抵抗していたものの、仕舞には諦めて裁判に対しておざなりになってしまったことが描かれています。ハンナだけでなく、裁判に関わる人がうんざりしはじめます。ただし、ハンナの文盲に気付いたミヒャエルだけは違います。ミヒャエルの闘いはここから始まります。そして、この闘いは現実と言葉の闘いでもあり、行動するか、行動しないかの闘いでもあります。
ここでのポイントはミヒャエルの葛藤です。まず、ミヒャエルはハンナのために自分が何をしなければならないのかを次のように明確に気付いています。
何か行動するとすれば――可能性はただ一つだった。
裁判長のところへ行き、ハンナが文盲であることを話す。
他の被告人たちがでっち上げようとしているような主犯ではなかった、ということ。
裁判のときの彼女の態度は特別な非常識さや洞察のなさ、厚かましさなどを示すものではなくて、
起訴状や翻訳原稿を前もって読むことができなかったからだし、
戦略・戦術を立てるセンスがないことに起因しているのだ、ということ。
彼女が弁護に関してきわめて不利な扱いを受けていること。
彼女は有罪かもしれないが、見かけほど重罪ではないということ。
(p158)
実に完結にミヒャエルは自分が何をすべきかを理解しています。ところが、問題はハンナ本人が望んでいないこと、すなわち、文盲がバレるということを、ミヒャエルがバラして良いものかどうかでミヒャエルは悩みはじめます。ミヒャエルには、たとえ罪が重くなっても文盲を隠す理由が理解できません。そして、その理由を恥だと考えます。文盲がバレるのが恥ずかしいから、ハンナは文盲を隠すのだと、ミヒャエルは決めつけます。そして、それに対して、どう対処したらよいのか、ミヒャエルは悩みます…。
考えてごらん、被告が恥ずかしがっているということが問題なんだ。
(p160)
確かに、裁判では「ハンナが文盲であるかどうか」が問題になるでしょう。しかし、ミヒャエルにとって問題は「ハンナが恥じている」ということが問題なのです。本人が命にかえても隠したいと思っている恥に対して、ミヒャエルはどう対処したらよいかが問題なのです。
■第2部第12章(p160-p167)
この章では、ハンナが文盲であることを裁判長に話すべき話さないべきかを、ミヒャエルが父に相談したときの対話が描かれています。ここでのポイントは、哲学者であり、父親でもある、ミヒャエルの父のとった行動です。父は、個人の自由と尊厳を尊重して、ハンナが恥じて隠していることを、ハンナを尊重してミヒャエル自身は暴露せずそのままにしておき、同時に、ハンナの目を開かせるためにハンナに会って話さなければならないと説きます。それに対して、ミヒャエルが、
「もしその人と話せないとしたらどうなの?」(p166)
と尋ねたとき、父は、
「わたしには君を助けられない」(p166)
と答えます。
たしかに、ミヒャエルの父が言うことは筋が通っていると思います。しかし、ここでは、言葉だけで行動には出ていません。つまり、「その人と話せない」のはなぜなのか?いや、無理にでもその人と話すようにミヒャエルに行動するように仕向けるべきではないのかと思います。哲学者は言葉で正しく考えることができるかもしれませんが、言葉以上に行動することが大切なのではないでしょうか。行動こそが現実を変えるのではないでしょうか。父はミヒャエルに行動することを促しませんでした。父はここで何も行動しないという選択をしたのでした。言葉のひとである哲学者の限界が象徴的に示されているように感じられます。
■第2部第13章(p167-p171)
この章では、事情聴取に裁判官が出張したため、裁判が2週間休廷したときの間のミヒャエルの様子が描かれています。ミヒャエルはこの間にハンナのことを想像します。ハンナが強制収容所で囚人たちを監視している様子を想像したり、あるいは、過去の二人の逢瀬の様子などを思い出したりします。ミヒャエルは次第にこの2つの光景が交錯して、精神的に混乱してゆきます。
一番ひどいのは夢の中で、厳しく支配的で残酷なハンナがぼくを興奮させるときだった。
目覚めたぼくはあこがれと恥と憤りにかられ、自分が何者なのかと不安になった。
(p169)
そして、ミヒャエルは強制収容所の光景がどれも本や映画のイメージであって、現実のものではないことに気づいてゆきます。ミヒャエルは実際に強制収容所を訪問することを決意します。ここでのポイントは、ミヒャエルが罪を犯したハンナを愛したことに苦悩することです。また、どうしても結びつかないハンナのイメージの矛盾にも苦しんでいることです。
■第2部第14章~16章(p171-p175)
この章では、強制収容所を訪れるために、ヒッチハイクするミヒャエルが描かれています。そして、ヒッチハイクで乗せてもらった車が実は強制収容所でユダヤ人を殺していた元ナチの将校でした。ここでのポイントは、彼のような裁かれない元ナチ将校がたくさんいるであろうことが1つ、もう1つは、実際に処刑に携わった人たちのたわいなさです。憎しみで殺したわけでなく、単に忠実に仕事をこなすという理由でユダヤ人を処刑し続けていたのでした。
君の言うとおり、戦争や憎しみの理由なんてなかった。
……
ユダヤ人は裸で長い列をつくって並ばされ、そのうちの何人かは溝の端に立っていて、
後ろに銃を持った兵隊が立ち、彼らの首を狙って撃っていた。
……
彼はちょっと不機嫌そうに様子を見ている。彼には処刑のテンポが遅すぎるのかもしれない。
しかし、彼の表情には、満足げな、それどころか楽しげなところも見て取れるんだ。
とにもかくにも一日分の仕事をなし終え、もうすぐ勤務明けになるからだろうか。
彼はユダヤ人を憎んじゃいない。
(p173-p175)
(このエピソードは、ハンナ・アーレントの「アイヒマン」の悪の陳腐さをモチーフにしているのかもしれません。)
■第2部第15章(p176-p181)
この章では、再び、強制収容所へ訪問したエピソードが描かれています。ここでのポイントは3つあります。1つは強制収容所はすでに過去のものとなり、当時の面影、強制収容所のリアリティを訪問によって見つけることができなかったことです。
2つ目は、ヒッチハイクの途中で食事に立ち寄ったレストランでの出来事です。ミヒャエルは酔っ払いにからかわれている老人を救うために行動に出ます。しかし、行動の結果、予想外のトンチンカンな展開になります。このエピソードは行動には予測不可能なところがあることを表しているのだと思います。
3つ目はミヒャエルの気持ちの変化です。ミヒャエルはハンナを理解したいと同時に裁きたいと思います。しかし、そのどちらもうまく行かない自分にも気づきます。
ぼくはハンナの犯罪を理解すると同時に裁きたいと思った。
……
世間がやるようにそれを裁こうとすると、彼女を理解する余地は残っていなかった。
でもぼくはハンナを理解したいと思ったのだ。
彼女を理解しなければ再び裏切ることになるのだった。
ぼくは両方を自分に課そうとした。理解と裁きと。
でも、両方ともうまくいかなかった。
(p180-p181)
ミヒャエルは裁判では表れないプライベートのハンナを知っています。ミヒャエルは、かつて愛したハンナが元ナチの罪びとであるという事実にどうしても結びつかなかったのだと思います。
■第2部第16章(p181-p184)
この章では、葛藤を抱えたまま、ミヒャエルが大学のゼミにかこつけて裁判長に会う場面が描かれています。もちろん、本当の目的はハンナの文盲を裁判長に話すためです。 しかし、ミヒャエルはどうしたわけか、怖気づいたのかもしれませんが、結局、ハンナの文盲の話をせずに、裁判長との面会を終えてしまいます。ここでは、「何もしなかった」という行動の前後の際立った変化が描かれています。裁判長に面会する前は、
ぼくは彼女に関わらないわけにはいかなかった、何らかの影響を与えずにいられなかった、
直接にでなければ、間接的にでも。
(p182)
と考えていましたが、何もせずに面会を終えた後は、
ぼくはもう彼女に関わる必要も感じなかった。
……
それを喜んだというのは言い過ぎだろう。でも、それでよかったんだ、と感じた。
そうすることで、ぼくはまた日常生活に戻っていける、これからも生きていける、と思った。
(p184)
とミヒャエルの心境は180度変化してしまいました。
ミヒャエルの心境は分からなくもないのですが、そういうことでは良くないと思います。ミヒャエルのように「何も行動しない」ことは、取り返しのつかない不幸を招くものだと思います。
■第2部第17章(p185-p187)
この章では、ハンナの判決が描かれています。
ここでのポイントは2つあります。1つはハンナの服装です。判決の日、ハンナは親衛隊の制服に似た服装で法廷に現れました。その意味することは何でしょうか?ハンナの気持ちとしては、①罪を背負おうとして、あえてそのような親衛隊に似た服を着たのかもしれませんし、あるいは、②親衛隊の服装に似ているとは気付かずに、単に厳粛な裁判に気持ちを引き締めるためにそのような引き締まったフォーマルな服を着たのかもしれません。あるいは、③単なる偶然だったのかもしれません。そして、怒る傍聴人たちが考えるように④法廷も判決も判決を聞きにきた人たちのすべてを、裁判のすべてを侮辱するためだったのかもしれません。私自身は④の可能性はなく、②もしくは①ではないかと思います。いずれにしろ、テキストに示されている文章だけでは判断できないと思います。それこそ読者の印象によっていずれにも捉えられることだと思います。そして、この裁判の傍聴人としては④と捉えるのがごく自然な捉え方なのかもしれません。しかし、ハンナの気性を知っている者なら、そうではないと考えるのではないでしょうか。ハンナには裁判に対する不満はあったとは思いますが、そのような服装による意思表示はしないと思うからです。
さて、もう1つのポイントはハンナの表情です。
彼女はまっすぐ前を向き、何もかも突き抜けるような目をしていた。
高慢な、傷ついた、敗北し、限りなく疲れたまなざし。
それは、誰も何も見ようとしない目だった。
(p187)
彼女は敗北者なのでしょうか。それとも孤高のひとなのでしょうか。これだけでは、いずれかであるか、あるいは、その両方であるのか、分からないと思います。ただ、ハンナは泣き崩れるような人ではありませんでした。
■第2部まとめ
第2部はおおまかに前半と後半の2つのパートに分けられます。前半はハンナの裁判の様子が描かれています。ハンナの2つの罪状が明らかとなり、ハンナは実直に答えるのですが、かえって他の看守たちの反発を招きます。加えて、ハンナが文盲を隠したがために、ハンナの罪が重くなるという皮肉な結果になっています。後半はミヒャエルの葛藤の様子が描かれています。ミヒャエルはハンナが文盲であることに気付き、裁判長にそれを話すべきか話さないでおくべきか迷います。ミヒャエルは父に相談したり、収容所を訪問したりしますが、結局は裁判長に話すことができずに終わってしまいます。
第2部の問題点は2つあります。1つは「なぜ、このようなズレが生じたのか?」という問題です。ズレとは、事件の真相と裁判での認識のズレであり、後半のミヒャエルの葛藤に見られる現実と言葉が作り出す認識のズレです。確かにハンナが文盲を隠したことが大きく影響してはいます。しかし、それだけがこのズレの原因ではないと思います。このズレが生じた原因は、抽象的に言えば、鍵概念でも述べた現実と言語の関係に起因する問題です。言葉は現実を一面的にしか捉えられないために実際の現実とズレが生じてしまうのです。さらに、付け加えていうと、現実を変えるのは言葉ではなく、行動こそが現実を変える手段であったのですが、ミヒャエルは行動を起こすことができませんでした。
次に、もう1つの問題ですが、「なぜ、ハンナは文盲を隠したのか?」という問題です。確かに、これまでずっとハンナが文盲を隠してきたのは事実です。しかし、これまで、再三、見てきたように「恥ずかしい」という理由で隠したというには根拠が乏しいと思います。ミヒャエルは「恥ずかしいから」というのを隠した理由だと考えましたが、それは間違いだと思います。ハンナは恥なんかよりももっと大切なものを守るために隠したのだと私は思います。つまり、世界との絆を失いたくないために、そして、ミヒャエルの愛を失いたくないために、ミヒャエルへのハンナの愛を疑われたくないために、ハンナは文盲を隠したのだと思います。
さて、この第2部でも、ハンナの直感の片鱗は見えたものの、ハンナの直感が果たして本当なのかどうなのかを確認することはできませんでした。第2部第6章だけでは、直感だとまだ断定できないと思います。ハンナの直感の真偽については第3部に続きます。
『朗読者』を読む その3
■第1部読解
■第1部第1章~第7章(p7-p37)
これらの章では、ミヒャエルとハンナの出会いから恋人の関係になる馴れ初めが描かれています。
さて、ここでのポイントは、裸のミヒャエルをうしろから抱きしめたハンナの次の言葉です。
「このために来たんでしょ!」(p30)
作品を初めて読んだとき、全裸になってミヒャエルを抱き締めるというハンナのこの行動は、エロティックに物語を展開するために作者が仕組んだ不自然なご都合主義かと思いました(笑)。ところが、作品を一度通読したあとに、もう一度、ここを読み返してみると、「これは単なるご都合主義ではないのではないか?」と思えてくるのです。どういうことかというと、これこそまさに鍵概念で示したハンナの直感ではないかと思えるのです。つまり、ハンナはミヒャエルがハンナに性的な妄想を抱いていることに早い段階で既に気づいていたのではないかと思います。もちろん、ハンナがミヒャエルを受け入れるか否かの選択の問題はあります。しかし、以前に会った時かあるいはそのとき瞬時に判断してミヒャエルを受け入れる結論を出したのではないかと思います。初読のときは、読者がこの段階でハンナの直感に思い至ることはもちろんありませんが…。しかし、次第に読み進んでハンナの直感が見えてくると、すでにこの段階でハンナの直感が働いていたのではないかと思えてくるのです。
そもそも、ここに至るまでの間にどれほどのコミュニケーションが二人の間にあったでしょうか。振り返ってみると、初めての出会いはミヒャエルが道で吐いたときです。このとき、ミヒャエルは泣いてしまい、ハンナに子供のように抱き締められています。しかも、家まで送ってもらっているが、ミヒャエルはしっかりしたお礼の挨拶も出来ていない感じがします。つまり、初めての出会いは男女というよりは大人と子供の出会いです。ただ、抱き締められるという触れ合いはありますが…。二度目の出会いは母に促されたミヒャエルがお礼の挨拶にハンナを訪問したときです。このときはハンナの着替えを見てしまい、ミヒャエルは恥ずかしくなって家を飛び出します。このあと、ミヒャエルは悶々と一週間悩んだ後、再び、ミヒャエルは何をどうしようというあてもなく、ハンナの部屋を訪れます。ハンナはまだ帰宅しておらず、ミヒャエルは部屋の前でハンナを待ちます。ほどなくハンナが帰ってきてミヒャエルと鉢合わせします。ところが、ハンナは驚いたり怪訝なそぶりを見せることなく、即座にミヒャエルにコークス運びの用事を言いつけます。ここはとても不自然です。何の脈絡もない再会なのに眉ひとつ動かさずにハンナはミヒャエルに用事を言いつけるのです。さて、このあと、コークス運びで真っ黒になったミヒャエルをお風呂に入れることになるのですが、このときにはもうハンナはほとんど遠慮せずにミヒャエルの裸を見ます。とても危険な雰囲気です(笑)以上が二人が事にいたるまでのコミュニケーションですが、ほとんど意思の疎通がありません(笑)。ミヒャエルはやや曖昧ながら性的な妄想を膨らませていたので彼の心理は分かります。一方のハンナは、ミヒャエルの視点なので、当然、心象風景がまったく描かれていませんが、普段通り仕事をしていただけなので、ミヒャエルとは対照的にそのような性的妄想は微塵もなかったのではないかと思います。むしろ、ハンナは、瞬間瞬間の瞬時の判断で動いているように思えます。テキストからはどの段階でハンナが判断したかは断定できませんが、もしかしたら着替えのときに目が合った瞬間に、こうなることは薄々予感していたかもしれません。いや、深読みによっては着替えすらもハンナの誘惑だったかもしれませんが…。もちろん、断定はできませんが。ともかく、こうして二人の関係が築かれたのでした。
■第1部第8章(p37-p45)
この章では、出会ってまだ間もない頃の二人の様子が描かれています。
この章のポイントは3つあります。1つ目はこの頃のセックスがまだ自分だけの欲求、自己本位の欲求を満足させるものだけだったことです。
愛し合うときにも、彼女は当然のようにぼくの体をほしいままにした。
……
ぼくは彼女が感じるためだけにそこにいるに過ぎなかった。
彼女が優しくなかったとか、ぼくに感じさせなかったとかいう意味ではない。
でも、彼女は自分の遊び心を満足させるためにそんなふうにしていた。
ぼく自身が、彼女の体を自由に扱う術を心得るまでは。
(p38)
後にはホテルの事件をきっかけに、相手を利用するだけというものではない、互いを尊重するような愛のあるセックスに変わりますが、この段階では、まだ相手への愛情よりは単に自己の欲求を満たすものでした。
2つ目はハンナの名前を聞いたとき、ハンナが異常に驚いたことです。
彼女は飛び起きた。
「何だって?」
「君の名前だよ!」
「どうしてそんなことを知りたいの?」
彼女は不審そうにぼくを見つめた。
(p40)
一見すると、ナチの親衛隊で収容所の看守をしていたことをハンナは隠しており、それで名前を聞かれて驚いたのかと思いましたが、114ページの弁護士の証言にあるように、ハンナは引越の度に警察にきっちりと届け出を行っているので、彼女がナチの看守だったことを隠そうとしたことはないのではないでしょうか。では、なぜ驚いたのでしょうか?実は私もそれほど強い確信というわけではないのですが、ただ、ひとつ思い当たることがあります。それは真名というものです。
魔法の昔話では、本当の名前(=真名)を相手に知られてしまうと、その相手に魔法をかけられるというものです。例えば、夢枕獏の「陰陽師」で物の怪に名前を聞かれた源博雅が正直に名前を教えたばかりに金縛りの魔法にかけられたりしています。また、同じく「陰陽師 第9巻」で女性は結婚相手つまり夫以外には周囲の人たちにも真名を教えなかったともあります。そもそも女性の名前は表立って出てこないことが多いです。「藤原道綱の母」とか、あるいは、系図に表れる女性の名前は抜けていたり、女性はみんな同じ名前を使用したりと、名前の役割を無効化して、まるで、女性の真の名前は安易に他人には知られてはいけないもの、隠されて秘められたものという扱いが多いのではないでしょうか。しかも、この習慣は極めて古く、世界各地で見られると思います。ことによるとこの習慣は宗教よりも古い可能性があるのではないでしょうか?ともかく、ハンナもそういった風習・習慣があったのではないか、そして、安易に名前を知られることは呪われることだと、あくまで推測ですが、そう考えたのではないかと思ってしまいます。
なお、ハンナの出身はジーベンビュルゲンという所です。ジーベンビュルゲンは旧ドイツ領で現在のルーマニアにあるトランシルヴァニア地方辺りのことです。そうトランシルヴァニアといえば、ブラム・ストーカーの小説で有名な吸血鬼ドラキュラ伯爵の出身地ですね。この辺りはヨーロッパでも辺境にあたるのだと思います。カルパチア山脈という鬱蒼とした山々に囲まれた高原には異教の古い慣習が残っていると思います。ちなみに、ロシア側のカルパチア地方の民俗研究にボガトィリョーフの「呪術・儀礼・俗信」という本があります。キリスト教以前の土着の民間信仰についての報告でとても興味深いものがあります。
また、この章では、ハンナが教科書に書かれたミヒャエルの名札の文字を読めていないことが文盲の伏線として張られています。
彼女のところでそうしたものを台所のテーブルに置くと、
ノートや教科書に書いてあるぼくの名前が見えたのだ。
(p41)
ミヒャエルの名札が見えているだろうにも関わらず、ハンナはミヒャエルの名前を尋ねます。
さて、3つ目のポイントはミヒャエルの勉強のことです。ハンナはミヒャエルに勉強の大切さを自身の車掌の仕事を引き合いに出して教えます。
「わたしのベッドから出てって。そして、勉強しないんだったら、もう来ないで。
勉強がバカみたいだって?バカ?
あんた、切符を売ったり穴をあけたりすることがどんなことかわかってるの」
彼女は立ち上がり、裸のまま台所で車掌をやってみせた。
……
「バカだって?バカってのがどういうことだか、わかってないのね」
(p42-p43)
ここでハンナは自分のことをバカだと言っています。もちろん、ハンナ自身は決して頭の悪い人間ではないと思います。しかし、推測ですが、教育を受ける機会が無かったためでしょうけど、ハンナは文盲です。これが彼女の仕事選びに大きく影響しており、さらに日常生活でも文盲ゆえの様々なストレスを感じていたに違いないと思います。文字が読めないということは、看板や掲示板の文字が読めないし、新聞や書類の文字が読めないので、文字が読める人からハンナも読めるものと思って話しかけられたとしても、ハンナは正確には答えられなかったはずだと思います。そういった不便や疎外感や不安が人々が大勢いる社会の中にいながら感じていたのではないでしょうか。
ここで考えなければならないのは、後にハンナが法廷で証言を偽ってまで、自分が文盲であることを隠したことです。もし、文盲であることを「恥」だと考えていて、それを知られるのが嫌で証言を偽ったのなら、ハンナがここでこうも簡単に自分がバカだと認めたのは少し不思議に思えます。それとも親しい間柄であるミヒャエルだからこそ、ハンナは心を開いたのでしょうか?でも、まだ付き合い始めた初期段階ではないでしょうか?ハンナは本当に文盲を「恥ずかしいこと」と考えて隠したのでしょうか?文盲を「恥じる」というよりは、もう少し違った意味でハンナは文盲を隠したのではないでしょうか?
■第1部第9章(p45-p53)
この章では、いよいよ朗読が始まります。
ここでのポイントは、ハンナが注意深い聴き手だったことです。ハンナにとって朗読はただ単にお話を聴くことにとどまりません。
そんなことがあっていいはずないわ!(p53)
ハンナは注意深い聴き手であり、物語が紡ぎだす世界をハンナの内面世界に展開しているのがよく分かります。これは図1-4のような文盲であるハンナの心的空間において、ミヒャエルの解説などの手助けによって言語知の領域が広がっているだろうと推測されます。
それはハンナにとってはとても大切なことだったのだと思います。以前は未整理でカオス的だった心的言語空間が朗読の言葉によって整理・拡張されることは、この世界を理解するための新たな接点を増やすことであり、新たな自分が豊かに開かれてゆく思いだったのではないでしょうか?しかもミヒャエルと議論したりして構築した心の世界なので、ハンナの心に開かれたこの新たな世界は愛によって築かれた空間でもあったのではないでしょうか。極端に考えると、自分の心が花が開くように開かれてゆく気持ち良さがあったのではないかと思います。心の空間が開拓されて拓かれてゆく心地良さ、目が開かれてゆく心地良さ、心の見晴らしが開かれて行く心地良さがあったのではないかと思います。ハンナは新たな自分を発見する、それもミヒャエルの愛のある手助けによって。ハンナにとってミヒャエルの朗読は心と心が触れ合う最も大事な、ある意味、聖なる行為だったのではないでしょうか。
■第1部第10章(p54-p61)
この章では、市電での事件が描かれます。
ここでのポイントはハンナがミヒャエルに無視されたと勘違いしたことです。これには文盲ゆえの悲しい誤解が表われています。おそらく、文盲であるハンナにとって話し言葉だけが言葉のコミュニケーション手段であって、”直接話しかけることをしない”ということは”積極的な無視”と同じだったのだと思います。ミヒャエルのように先回りして思考を巡らせることはハンナの頭には無かったのだと思います。
例を出して考えてみましょう。時代劇でよくあるシーンで立て板に書かれている落書を群衆の中の町人と武士が読んでいる場面を想像してみて下さい。
町人「旦那、何て書いてあるんですかい?」
武士「ふむ。”白川の清きに魚も住みかねて、元の濁りの田沼恋しき”と書いてある」
町人「へえ?なんだ、魚の話ですかい?旦那、それはいったいどういう意味でやしょう?」
武士「それはじゃな、つまり、白川とは白河藩出身の老中・松平定信公のことじゃ。
田沼とは前の老中・田沼意次公のことじゃな。
つまり、清廉潔白で倹約を旨とする松平定信公の窮屈な世の中よりも、
賄賂で腐敗した政治だと言われても重商政策で自由に暮らせた田沼意次公の方が良かったと、
清らかな川と濁った沼に喩えて、清らか過ぎても住みにくいと言っておるのじゃな」
町人「あっ!なるほど~!魚の話かと思ったら政治の話!なるほど、そういうことですかい!」
文面だけではなしに、文章の背後に隠されている意図や意味をくみ取ることが文字を読める人には可能ですが、
文字を読めない人は文章の背後に隠されている意味や行間を読むといったことまでも不得手なのです。ここでは町人は文面の魚の話は理解できたのですが、背後に隠されている政治の話には思い至らなかったというわけです。(この例では予備知識を必要とするので、あまり良い例ではないです。良い例が見つかれば差し替えます。)
ここでのハンナの場合、ミヒャエルの行動の背後に隠されている意味、後の車両で二人だけで会いたいという意図がくみ取れなかったのです。ゆえに近寄ってこなかったミヒャエルにハンナは無視されたと誤解したのだと思います。さらにハンナは自分がミヒャエルから無視され軽く扱われたように感じたので、その仕返しにミヒャエルの存在を逆に軽々しいものとしてミヒャエルに思い知らせてやるために、わざと運転手と仲良くしてみせたのだと思います。「あんたなんかいなくたって平気だよ!あんたなんか私の中ではちっぽけな存在なんだよ!」と言わんばかりに。あるいは運転手と仲が良いというのを見せつけて、ミヒャエルを嫉妬させてやろうというものだったかもしれません。次のようなハンナの行動や言動がそれを表していると思います。
でも彼女は運転手のそばにいて、しゃべったりふざけたりしているのが、ぼくのいる席から見えた。
(p54)
どうやら、だって?どうやらあんたがあたしを侮辱したみたいだって言うの?
侮辱されてたまるもんですか、あんたなんかに。
(p59)
そう、ちょっと傷ついちゃったのよ、と彼女が打ち明けてくれたとき、ぼくはまた幸せな気分になった。
(p59)
この誤解は、あとで一方的にミヒャエルが謝ることで収まります。ただ、納得のいかなかったミヒャエルは手紙を書きますが、その手紙はハンナには無視されます。なぜならハンナは文盲であるために手紙が読めなかったからなのですが…。
それにしても、ハンナは本当に孤独な生涯を送ってきたのではないでしょうか。私たちも他者とのコミュニケーションにおいて、相手の言っていることが分からないけれども、その場の雰囲気で相槌を打ったりします。それがたまにならそんなに苦でもないでしょうし、尋ねることで後からその意味を知ることも可能でしょう。ですが、ハンナの場合はどうだったでしょうか。相手の言っていることを理解できないにも関わらず、それでも理解したように振舞うことが多かったのではないでしょうか。相手の言っていることが分からないという不確かさ・手ごたえの無さの中で彼女はずっと過ごしてきたのだとしたら、彼女はどんなに孤独だったでしょうか。たとえ、職場で仲間の中にいたとしても、どこか一人ポツンと孤島に取り残されたような孤絶感・孤独感・不安感があったのではないでしょうか。それゆえに他人から無視されることはハンナにとって最も耐え難い苦痛だったのではないでしょうか。だから、信頼していたミヒャエルに無視されたと勘違いしたハンナはミヒャエルに逆にあのようなしっぺ返しをし、ひと際激しく怒ったのではないでしょうか。
■第1部第11章(p61-p71)
この章では、ホテルでのメモ紛失事件が描かれています。
ここのポイントはメモの事件です。この事件は明らかにメモが読めないことを隠すために、ハンナがメモを隠したのでしょう。そして、ひとつはそれを悟られないように泣き喚いたのでしょうし、もうひとつはそうやってウソをついてまでミヒャエルをぶってまで隠そうとする自分に対する情けなさ・悔しさの涙であり、自分を愛してくれているミヒャエルに対する申し訳なさや、さらには、それでも優しくしてくれるミヒャエルの自分に対する寛容な愛情に心打たれるものまでもあったのだろうと思います。この事件以降、ハンナもミヒャエルに対して優しさを見せるようになり、セックスもただ相手を利用するだけのような愛し方ではなくなったのでしょう。
ぼくたちの愛し方も前とは変わった。
長いことぼくと彼女は彼女のリードに任せ、ぼくの体を彼女のほしいままにさせていた。
それからぼくは、彼女の体をほしいままにすることを覚えた。
でも、ぼくたちの旅行中、そしてそれ以降は、
互いに相手をただ好きなように利用する愛し方ではなくなった。
(p70)
この事件以降に書かれたであろうミヒャエルの詩(p70-p71)にも情欲から愛へと昇華した心が描かれていると思います。この事件はハンナが文盲であることの伏線ですが、同時に互いの愛が深まった事件でもあったのだと思います。
■第1部第12章(p71-p77)
この章では、ミヒャエルの自宅にハンナが泊まった夜の出来事が描かれています。
ここのポイントは哲学者である父の本を朗読したことです。カントとヘーゲルの本ですが、普通の人でもドイツ観念論哲学をいきなり聞かされても何のことだかチンプンカンプンだと思います。父の本を朗読したミヒャエル自身も本の内容を理解できませんが、当然、ハンナも理解できていません。しかし、ハンナはいずれミヒャエルも彼の父と同じように、そう遠くない未来にハンナにはもう理解の及ばない言語知の世界にいるのだろうと寂しく思ったのではないでしょうか。ハンナにとって文字を読めるということは魔法を知っているかの如くに感じられたのではないでしょうか。
あんたもいつかこんな本を書くの?(p76)
自分には理解を超えたことが言葉の世界にはあり、それは畏怖を覚えることでもあり、同時に愛するひとの心において自分の手には届かない共有できない部分があるという寂しさでもあると思います。ミヒャエルの朗読によって言語知領域の心的空間を広げてきたハンナでしたが、それでも文盲ゆえに朗読程度ではもうハンナでは遠く及ばずに、ミヒャエルが遠いところへ行ってしまうことの寂しさがあったと思います。もしかしたら、ハンナはそれゆえに自分が文盲であることを罪が重くなるのを顧みずに隠したのかもしれません。なぜなら、ハンナにしてみれば、ミヒャエルは朗読を通して言語知の領域において自分と心を共有していると思っているに違いない。しかし、実際には、ハンナ自身は、自分が文盲であり、そのことを偽っているのを知っている。もし、自分が文盲であるとミヒャエルに知られてしまったら、二人で構築して二人が共有していたと思っていた心的空間が偽りになってしまう。愛の空間が偽りのものになってしまう。ハンナにとってミヒャエルに文盲であることがバレることは、すなわち、今までの築いてきた愛の空間が壊れることを意味したのではないでしょうか。それゆえにハンナはウソの証言までして秘密を守ったのではないでしょうか。
ただ、後に刑務所で文字を覚えたハンナは、文字を知っていることの神秘性を剥がすことに成功したと思います。ここで感じたであろう高度な言語世界への不安や畏怖の念を払拭できたのではないかと推測します。
■第1部第13章~17章(p77-p99)
さて、これらの章では、いよいよハンナの失踪に至る経緯が描かれます。
ここでのポイントは3つです。1つめは馬のエピソードです。
「馬?」
彼女はぼくから離れ、体を起こすとぎょっとしたように、ぼくを見つめた。
(p84)
この馬のエピソードは、後に収容所にいた若い女看守がハンナではないかという話に繋がります。
2つめは、穴やプラムの実や映画についてのエピソードです。
「あんたの知りたがることときたら、坊や!」
あるいは、彼女はぼくの手を取って自分の腹に押し当てた。
「ここに穴が開いてもいいの?」
(p92)
「洗濯して、アイロンかけて、掃き掃除して、床を拭いて、買い物して、料理して、
プラムの木を揺すって、実を拾って、家に持って帰ってすぐに煮てしまわないと。
でないとおチビさんが」
彼女は左手の小指を右手の親指と人差し指のあいだに突っ込んだ。
「そうしないと虫さんが全部一人で食べちゃうからね」
(p92)
彼女にぱったり出くわすこともなかった。道でも、店でも、映画館でも。
……
彼女は奇妙なほど選り好みせずに何でも見ていた。
(p93)
これらは一体何を表しているのでしょうか?プラムの実の話は、もしかしたら、ちょっとエロティックなことを言っているのかもしれませんが…。あるいは、魔女の薬草採集と関係あるかもしれませんが、単に木の実の採集だけかもしれません。また、なぜ知りたがるとお腹に穴があくといいたかったのでしょうか?ストレスで胃に穴は開いても好奇心で穴があくというのはちょっと不自然です。また、映画館や街中に神出鬼没する話も不思議という他ありません。ただし、ここでミヒャエルの言いたいことは、ハンナの人生のすき間にミヒャエルを入れているだけで、ハンナの人生のメインにミヒャエルを据えていないことを表現しているとは思います。しかし、ただそれだけを表現するにしては、不自然で不思議な話だと私には思えます…。
ただ、以下は私が個人的に聞いた話なのですが、この話には思い当たることが少しだけあります。私の母から聞いた話ですが、その昔、私の故郷には本物の女性のシャーマンがいたそうです。戦後10年と経っていない頃のことでしょうか、母がまだ乙女の頃(笑)に実際にその女シャーマンに腹痛の治療を受けたことがあるそうです。そのときの女シャーマンのエピソードとここのハンナの話には実は少し通じるものがあるように思うのです。もしかしたら、魔女共通の何らかの伝統があるのかもしれません。ただ、その後、故郷の女シャーマンの系譜は途絶えてしまったらしく、その意味するところは謎になってしまいましたが…。いずれにしても、ちょっと不思議な話ですが、それゆえに私にはハンナが魔女っぽく思えるのです…。
さて、3つめのポイントは、第1部で最も重要なポイントです。ハンナが失踪する要因は2つあります。1つはミヒャエルの裏切りです。もう1つは運転手への昇進の問題です。ハンナが失踪を決意した理由はこの2つの理由から失踪したと考えられます。
後にミヒャエルは運転手の昇進で文盲がバレるのを避けるためにハンナは姿を消したのだと考えます。彼女が失踪したときに、ミヒャエルがハンナの職場を訪ねたときに人事課の担当者に次のように教えてもらいます。
わたしは彼女に、運転手の資格を取らせてあげよう、と提案したんだが、
彼女は何もかも放り出してしまった
(p98)
しかし、本当にそれだけでしょうか?たしかに運転手の昇進でハンナが悩んでいたのは事実でしょう。失踪する前の数日間に、次のようなプレッシャーを感じていたのは、この昇進の問題が持ち上がったからだと思います。
ハンナは何日も前から妙な雰囲気で、気まぐれで威圧的なだけでなく、
こちらにもわかるほどプレッシャーを受けていて、非常に苦しみ、敏感で傷つきやすくなっていた。
プレッシャーのもとで爆発してしまわないように、自分の意識を集中させ、
自制しなければいけないというように。
なんで苦しんでいるの、というぼくの質問に、彼女はそっけない態度で答えた。
(p93-p94)
しかし、それだけでハンナがミヒャエルと別れるのは少し違うのではないかと思います。失踪直後にミヒャエルが考えていたように、ハンナがミヒャエルの裏切り(=同級生へ淡い恋心を持ち、ハンナの存在をその同級生には言わずに隠したこと)に気づいたのではないでしょうか?もちろん、確証があるわけではありません。なぜなら、そもそもミヒャエルの裏切りといっても何ら表面化しているものではないからです。ミヒャエルの裏切りはあくまで、まだ彼の内面にしか沸き起こっていないことなのですから。
(少し穿った見方なのですが、ミヒャエルはプール帰りにハンナの家に通ったいたので、ハンナはミヒャエルの様子が変わったこと(=同級生に心が浮ついたため)に気づいて、それで落ち着かなかった可能性もあります。可能性としては極めて少ないと思いますが。)
しかし、あの日、ハンナの直感力がそれを見抜いたのではないでしょうか。あの日、プールサイドに現れたハンナは、ほんの一瞬ではあるけれど、視線を逸らせたミヒャエルに、彼の裏切りを敏感に感じ取ったのではないでしょうか。
彼女は20メートルか30メートル先に立っていた。
短パンをはき、胸の開いた、ウエストで紐を結ぶタイプのブラウスを着て、ぼくの方を眺めていた。
ぼくも彼女を見つめ返した。離れていて顔の表情は読めなかった。
飛び上がって彼女のところに駆けていくことはしなかった。
さまざまな疑念が頭をよぎった。
どうしてプールに来たんだろう。ぼくに見てほしいのか、ぼくと一緒のところを見られたいのか。
ぼくは彼女といるところを見られたいだろうか。まだ一度も偶然に出くわしたことはかったのに。
ぼくはどうしたらいいんだろう。
それからぼくは立ち上がった。
でも、ぼくが視線をそらしたほんのちょっとのあいだに、彼女は行ってしまっていた。
(p96)
ほんのわずかな一瞬です。しかも、ハンナの表情が見えないような距離で、後になってミヒャエルがこの日のことを思い出しても、”あれはもしかしたらハンナではなかったんじゃないか?”と疑ってしまうような、まるで印象派の絵のような輪郭のはっきりしない光景です。しかし、ハンナには、ミヒャエルのほんの一瞬の態度や行動で、瞬時にすべてを見抜いてしまったのではないでしょうか…。ミヒャエルの裏切りを。
さて、この結果、ハンナはその日のうちに引っ越してしまいます。原因はミヒャエルの裏切りと昇進の話の2つが考えられます。ミヒャエルの裏切りに対するハンナの気持ちは、「怒り」なのか「身を引く」といったものなのかは分かりません。ただ、別れることが最も良い選択だとハンナは思っただけなのかもしれません…。いずれにしろ、この2つの問題に対して、引越しという1つの行動、1つの結論をハンナは導き出したのだと思います。
■第1部まとめ
第1部では、ミヒャエルとハンナの出会いから別れまでの様子が描かれています。二人の恋愛は出会った当初は性愛から始まったのですが、逢瀬を重ねるうちに互いに深く愛し合う関係になります。しかし、ミヒャエルの裏切りやハンナの昇進の話などの要因が重なって二人は別れてしまいます。別れといってもハンナの一方的な失踪であり、ミヒャエルは一人取り残されます。その後、ハンナを失ったミヒャエルは自らを責めて心に深く傷を負うことになります。
この第1部では、ハンナという謎の女性の特徴が随所に散りばめられています。文盲であることやナチの看守であったことの伏線があちこちに散りばめられています。さらに、ハンナの個性的な性格やミヒャエルとハンナの力関係も描かれています。ちなみに、この二人の力関係はハンナが文盲を隠したがために、かえってミヒャエルが抑圧されるというものです。この抑圧がハンナ失踪後のミヒャエルの人格形成に少なからずネガティブに影響したのかもしれません。
さて、この第1部では問題点が2つあります。
1つは「なぜ、ハンナは失踪したのか?」という問題です。昇進の話によって文盲がバレてしまうのを恐れたからというのが唯一の理由かもしれません。しかし、もし、ミヒャエルの裏切りが原因のひとつであるとするならば、「ミヒャエルの裏切りを見抜く直感がハンナにはあるのではないか?」という疑問が浮かび上がってきます。
さらに、もう1つの問題点は「ハンナとは一体何者なのか?」という疑問です。この疑問の裏には「ハンナが文盲である」ことと「ナチの看守であった」ことという2つの事実が隠されています。しかし、それらよりももっと奥深くにハンナという人物の本当の謎が隠されているのではないかと思います。なぜなら、文盲や看守であるというだけでは説明がつかないと思うからです。文盲と看守という2つの秘密以上に「ハンナとは一体何者なのか?」という大きな謎があると私は思います…。
しかし、それにしても、いくらなんでも本当にハンナはそんなほんの一瞬ですべてを見抜くような直感を働かせたのでしょうか?いえ、それだけではありません。最初の二人の馴れ初めもハンナは直感でミヒャエルの本心を見抜いていたのでしょうか?この第1部だけで、ハンナに直感があると確信するのはやや早計な気がします。このハンナの直感に対する疑問は第2部以降に続きます。
『朗読者』を読む その2
■私的解釈
ネット上でこの小説に関するいくつかの感想文を読んだのですが、この小説をホロコースト
をテーマとした物語として捉える解釈が数多くありました。確かに、この小説においてホロコーストは重要なポイントですが、一番重要なポイントではないと私は思います。また、文盲を隠したハンナの頑ななプライドを一番のポイントに考える解釈もありましたが、それも違うのではないかと思います。では、何が一番重要なポイントなのでしょうか?私には、この小説は直感と言葉の物語に思えるのです。直感の女ハンナと言葉の男ミヒャエルの物語に思えるのです。つまり、この小説を読み解く最大のポイントは、ハンナの直感にあるのだと思うのです。
そこで、ハンナの直感を主眼に据えて、この小説を読み解いてみようと思います。このポイントから解釈することによって、次の2つの疑問について答えることができると思うのです。その疑問とは、ハンナはなぜ裁判で文盲を隠したのか?そして、ハンナはなぜ自殺したのか?という疑問です。
■鍵概念
ここでは、実際の読解に入る前に、解釈のための2つの鍵概念について書いておきます。
それは①直感と②現実と言語の関係です。
■直感とは何か
謎の女性ハンナ。私にはこのハンナという女性が、とてもとても強い直感力を持った女性に思えてしかたありません。なぜかというと、ミヒャエルとの最初のなれそめの時、引越の前日にプールサイドで会った時、ミヒャエルと刑務所で最後に会った時など、すべてハンナの直感が働いているように感じられるからです。そして、もっと言えば、まるで魔女のような女性に思えてなりません。
そこでまず、直感とは何でしょうか。
直感とは対照的な能力である言語能力と比較して考えてみるとイメージしやすいかもしれません。言語能力とは何かというと、「AはBである」という置き換えが言語能力です。例えば、「君はぼくの太陽だ」というとき、君を太陽に置き換えているわけです。では、直感はというと、「AはAである」ことをそのまま直接知るというのが直感です。「君は何ものにも例え難い君である」ことを知ることです。君の本質や実存などすべてを掴むことです。君の全体性を知るとでもいうのでしょうか…。しかも、どちらかというと瞬時に、です。説明が難しいですが…。(あとで再度説明します。)
また、直感は非-論理的かというと必ずしも非-論理的ではないと思います。むしろ、超-論理的というべきでしょうか。通常、論理的とは、原因と結果の因果関係を明確に言葉で表現できることを言いますが、原因と結果の間に何らかの因果関係や複雑に絡み合った因果関係が働いているのだけれど、それを明瞭な言葉で表現できはしないけれども、確かに原因と結果の間には何らかの因果関係があると確信できるのが直感ではないでしょうか。ですから、直感は非-論理的なのではなく、むしろ、超-論理的なんだと思います。
■直感知と言語知
直感について、少し切り口を変えて、男女差を加えて考えてみます。
まず、生物としての人間の基本型は女性だと思います。なぜなら子を産む機能があるからです。比べて男性は女性から変形的に派生した派生型に思えます。よって、「本来的・先天的・中心的な能力」と「派生的・後天的・周縁的な能力」を比べた場合、前者は女性が優れ、後者は男性が優れているように思えます。
具体的に言えば、生まれてからの学習を必要としない直感力は、先天的・中心的な能力であって、女性が優れていると思います。逆に、生まれてから後の学習を必要とする言語力は、男性が得意な場合が多いと思います。そもそも人間は言語を覚えて生まれてくるわけではなく、生まれた後に言語を習得します。つまり、言語という”道具”の使い方を学ぶわけです。(男性自体もどこか道具のようなもので、種の母体である女性を保存するために使い捨てられる運命にあるように感じます(笑))
ともかく、知には直感知と言語知があると極端に考えると、図1-1のようになります。補足ですが、唯識的に考えれば、通常は図1-2のように「非言語領域→言語領域」(=言語アラヤ識)から「言語知」が立ち上がってくると思いますが、直感知は、図1-1のように、直接、非言語領域からもたらされる知だと思います。
■触覚と視覚
ところで、直感と言語以外にも男女差があるものに、触覚と視覚があります。
触覚と視覚を比較した場合、生物にとって視覚はカンブリア紀
以降に備わった知覚であって、それまでは触覚が生物が世界を感じ取る基本的な知覚でした。生物は、長い間、視覚を持たないで、暗い闇の世界としてこの世界を知覚しており、「直接触れることで知る」という触覚を通して外部=世界を知覚していました。つまり、生物にとって基本的な知覚は、まず触覚であって、その後に付随して備わったものが視覚だと考えられます。そして、この2つを比較した場合、基本的知覚である触覚は女性が優れており、派生的知覚である視覚は男性が優れていると思います。
その違いが端的に表われているのがセックスの違いではないかと思います。
一般的に言って、接触という側面では、セックスをよく知っていて上手なのは女性の方ではないかと思います。セックスにおいて男女が触れ合うとき、女性の方が、触覚からより多くの情報を得て情報処理して、より多くの快感を導き出せるのではないでしょうか。女性の方が繊細かつ微細に接触して、相手に快感をもたらしたり、自ら快感を感じたりできるのではないでしょうか。少なくとも触覚による感受力・情報処理能力は女性の方が高いのではないでしょうか。
ただし、視覚については、色彩の知覚は女性が優れているから一概に男性が視覚優位とは言えないのですが、空間認識は男性が優れていると思います。
ですので、この小説でミヒャエルとハンナが深くコミュニケーションを取る方法が、セックスと朗読なのは偶然ではないと思います。直感の女性ハンナと言葉の男性ミヒャエルによる象徴的なコミュニケーション方法だと思います。男女差を極端にまとめると図1-3のようなイメージになります。
■シャーマンとは何か
それから余談ですが、魔女とは何かというと、女性のシャーマンのことです。では、シャーマンとは何かというと、ある特殊な能力を持つ人たちです。シャーマンの特殊能力は、おおまかにいうと脱魂と憑依の2つがあります。脱魂とは文字通り魂が身体から脱け出して飛び回ることです。また、憑依とは特殊な知覚が起こっている状態のことです。通常の知覚よりも、もっと直接的な知覚が起こっているらしいです。おそらく、憑依は直感に近いものがあるのではないかと思いますが、ただ、ここでいう直感よりももっと深いもの(=直観)のようです。なお、多くのシャーマンは召命(=巫病)によって選ばれてシャーマンになるそうです。(*1)
ちなみに、これらはそれぞれ種類の違うサイケデリックなドラッグによって体験可能なようです。ホウキに乗って空を飛ぶ魔女のイメージも特殊な軟膏をヘラで身体に塗るところから来たそうです。(*2)
さらに、特に欧州では、男性ではなく女性のシャーマン、すなわち魔女がシャーマニズムの基盤になっていたのではないかと思います。ただし、欧州に限らず世界的に見ても、女性は誰もがシャーマンの素養があり、女性はみんな魔女になれる可能性があるようです。
■ハンナの特徴
さて、ここまでずいぶん怪しげな仮定をものしてきましたが(笑)、これらの仮定をハンナに当てはめてみます。なお、ハンナは文盲であるため、通常の言語知よりも狭い言語知にならざるをえないのだと思います。しかし、その反面、不十分な言語知を補うために普通の人以上に直感知を働かせる必要に迫られ、通常よりも直感力が発達したと思えます。これを図にすると、図1-4のようなイメージになります。よって、ハンナの特徴としては、通常よりも直感知が広範である点と言語知が狭量である点が出発点になっているのではないかと思います。
■現実と言語の関係
次に、もうひとつの鍵概念について考えます。それは現実と言語の関係です。
端的に言えば、図1-5のようになります。
現実という球体を表現するために、言語という切断面(=平面)で表現しても、それは現実を一面的にしか捉えたことになりません。CTスキャンのように多くの切断面を積み重ねて捉えれば現実を捉え切れるかというと、やはり切断面と切断面の隙間からこぼれ落ちる現実があると思います。それに、一定方向からのスライスではなくて、あらゆる角度からのスライスが必要となると思います。さらに、この図では現実を3次元体で表現しましたが、実際の現実は物理的な意味(=次元)だけでなく、人間的な意味(=次元)も持つので3次元以上の多次元体だと思いますから、切断面をいくら積み重ねても現実を完全には捉え切れないと思います。現実と言葉の関係上、無限に言葉を積み重ねて現実を埋め尽くそうとしても、結局、言語で現実を完全に表現し尽すということはないのだと思います。現実を言語で記述しても必ず隙間があって、その隙間から現実がこぼれ落ちてしまうのではないでしょうか。
もちろん、だからといって言語を否定しているわけではありません。
私たちはたとえ不完全でも言語に頼らざるを得ないからです。ただ、不完全であることを自覚しておく必要はあると思います。そして、この小説では、ホロコーストという過去の現実を実際に裁くことの困難さが、現実と言語のこの関係から浮かび上がってきます。
さらに、現実を変えるためには言葉より行動が大切だということもこの小説を通して知ることができると思います。
この小説には「現実を言葉で仕切ってゆく」職業が3つ登場します。それは、哲学者(=父)と法律家(=裁判官)と歴史家(=法史学者としてのミヒャエル)です。彼らが裁判という現実を通して、どうなって行くのかも、この小説の見所です。そして、何よりもハンナの秘密を知るミヒャエルに深く関わっています。
■全体主義の問題
これまで、再三、この物語の最重要ポイントはホロコーストではないと言ってきました。しかし、やはり、ホロコーストの問題、すなわちナチの問題=全体主義の問題は重要なテーマであることには変わりはありませんので、この問題についても解釈の中で折に触れて考えてみようと思います。ここでは、ひと言だけいっておくと、ナチの問題、すなわち、全体主義の問題はドイツ人だけの問題ではなく、全人類の問題だということです。人間誰もの中に内在する問題であり、誰もが陥るかもしれない危険な問題だということです。
■物語の問題構成
この物語は、図1-6のように、ハンナの心理、ミヒャエルの心理、ナチ問題、ミヒャエルを取り巻く周囲の人々で問題が構成されています。
ハンナ以外の人物は比較的簡単に理解することができると思います。なぜなら、言葉で記述されている通りを理詰めで読み解けばいいからです。また、ナチ問題は全体主義の抱える問題として、ある程度一般化して考えることが可能だと思います。しかし、ハンナだけは、彼女を理解するために彼女の行動やわずかな言動から推量しなければなりません。すなわち、ハンナを理解することがこの小説の最大のポイントであり、読解を最も困難にさせている点でもあります。そして、その鍵がハンナの直感だと思います。
■読解するときの注意点
最後にこの作品を読解するときの注意点を書いておきます。この物語はミヒャエルの独白で語られています。つまり、ミヒャエルの視点で書かれています。したがって、ミヒャエルがそう思って書いただけで、それが真実かどうかは分からないものがあります。例えば、ミヒャエルは裁判でハンナが文盲を隠した理由を「恥ずかしいから」と決めつけていますが、果たして本当にそうだったのでしょうか?つまり、ミヒャエルの断定を読者がそのまま肯定してしまうことは誤読になる可能性があります。実際、結末まで読むとミヒャエルがハンナを理解していなかったがために、ハンナを誤解していたばかりに、最後のような結末になったともいえます。ですから、読者は読解の際にはミヒャエルの考えをそのまま受け入れずに、いったん突き放して客観的に考えなければなりません。
それでは、おおよその下準備もできましたので、実際に作品の解釈に入ってゆこうと思います。
(*1)佐々木宏幹「シャーマニズムの世界」参照
(*2)西村佑子「魔女の薬草箱」参照