ケイト・ウィンスレット その3 | Free Way

ケイト・ウィンスレット その3

■「乙女の祈り」(原題「Hevenly Creater」) ピーター・ジャクソン監督(1994) 
この映画は1954年にニュージーランドで実際に起こった殺人事件を題材に作られた物語です。

 

■あらすじ

ポウリーンはニュージーランドの女子高生ですが、窮屈な学生生活にややうんざりしています。そんなある日、名門カンタベリー大学の新学長の娘ジュリエットが転校してきます。二人は周囲の普通の女子高生からは浮いたところがあり、また互いの共通点から、すぐに意気投合して親しくなります。

 

二人の共通点とは、1つはお互いに大きな病気を患った経験があることです。ポウリーンは幼い頃に脚の病気で長期間入院しており、今も脚に大きな傷跡が残っていますし、少し脚が不自由なところがあります。一方、ジュリエットも幼い頃に肺の病気で長期間入院しています。ジュリエットはこの入院中に両親と離ればなれになってしまって、かなり寂しい想いをしたようで、今でもそれが少しトラウマになっています。

 

もう1つの共通点は、二人はオペラ歌手のマリオ・ランザやハリウッドスターたちなど特定の音楽や美術をこよなく愛している点です。もしかしたら、ポウリーンはジュリエットに感化されたのがきっかけで、それらの趣味に走ったのかもしれませんが、いずれにしても、それらが好きであったことに違いはありません。彼女たちの趣味への憧れは、どんどん膨らんでいって、自分たちの好きな音楽や美術だけで作られた”第4の世界”を想像する至ります。彼女たちはキリスト教の天国よりもこの”第4の世界”に憧れるほどになります。

 

さらに、彼女たちは”ボロヴィニア王国”という中世風の架空の王国を創作して想像で楽しむようになります。王国の住人の像を作ったり、数世代に渡る王族の物語を創作したりします。そして、自分たちもその世界で王や王妃のような貴人となって自由気ままに振舞うこと-気に入らなければ領民を殺しまくったり、王家の夫婦生活を赤裸々らに描くなど-を想像して楽しみます。ジュリエットはデボラ、ポウリーンはジーナというようにボロヴィニア王国の登場人物の名前で互いを呼び合ったりするようにまでなります。そんな彼女たちの将来の夢は作家になって、ハリウッドに行くことでした。

 

ところで、ジュリエットは父は学者で地元の名門大の学長、母は結婚カウンセラーなど知的でアクティブな仕事をしており、お金持ちのエリート家族です。一方、ポウリーンは父は魚問屋のマネージャーで母は自宅の下宿を切り盛りしており、一般家庭です。家庭環境が大きく違う二人ですが、お互いに気が合うので仲良くなります。

 

そんなとき、ポウリーンとジュリエットは、ジュリエットの家族と一緒にバカンスに出かけます。ポウリーンも家族同然に仲良く遊んでいたのですが、ジュリエットの両親が学会で英国に行くため、当分、ジュリエットは一人ぼっちにされることが判明します。ジュリエットは幼い日のトラウマが甦ったのか、悲しみのあまり野山で一人泣き崩れてしまいます。心配したポウリーンが追いかけてきますが、ジュリエットの様子がいつもと違って変です。どうやら悲しみのあまり錯乱したジュリエットは幻覚を見ているようなのです。そして、不思議なことに、それが伝染したようにポウリーンにも同じ幻覚が見えるようになります。ついに二人は、二人だけの幻覚を共有するに至り、二人の親密度はさらに高まるのでした。

 

さらに、ある日、ジュリエットが肺病に倒れてしまいます。ジュリエットは結核に犯されており、療養所に長期入院することになります。その間、ジュリエットの両親は旅行で見舞いに行きませんでした。ポウリーンだけが手紙や見舞いなどジュリエットの心の支えになります。また、ポウリーンはこの間に下宿生と恋仲になりますが、下宿生とセックスしても全然気持ち良くはなく、むしろ、ジュリエットの面影が脳裏にちらつきます。ポウリーンにとってもジュリエットはかけがいのない存在であることが意識されます。そして、ジュリエットが退院するときには、ジュリエットは両親よりもポウリーンがかけがいのない存在になり、ポウリーンもジュリエットがかけがいのない存在になって、二人は互いに強く結びつきます。

 

そんな親密すぎる二人を見たジュリエットの父は、二人の同性愛を懸念してポウリーンの母親に働きかけて、ポウリーンを診察させます。診察の結果、ポウリーンに同性愛の傾向が見られるということで、ポウリーンの母親はポウリーンがジュリエットに会わないように厳しくします。ジュリエットが大好きなポウリーンは、次第に二人の仲を邪魔する母親が疎ましくなってゆきます。

 

そんなとき、ジュリエットの母親の不倫が発覚します。ジュリエットは深い悲しみに沈みますが、追い打ちをかけるように、両親の離婚が決まり、ジュリエットはひとり南アフリカの伯母の元に送られることが決まります。そのことを知ったポウリーンは自分もジュリエットについて行くと言い出しますが、母親が猛反対して許しませんでした。そのため、ジュリエットもポウリーンも互いに離れたくないばかりに激しく落ち込みます。二人のあまりの落ち込みようを心配した両親たちが二人で2週間ほど一緒に過ごせるようにします。二人はこの間に深く愛し合うようになり、ついには同性愛の関係まで結ぶようになります。そして、もう離れられないと感じたポウリーンは邪魔をする母親を殺すことを提案します。二人は母親を殺すことを決意して、殺害計画を立てます。

 

二人は計画通りにポウリーンの母親を誘って、ジュリエットとポウリーンの三人でハイキングに出かけます。そして、山中で二人は協力して、ポウリーンの母親をレンガで殴り殺したのでした…。

 

■悪の物語(*1)

この映画は”悪”を描いた物語です。”悪”と言っても、単なる”善悪の悪”ではありません。”制御できない力”、”枠には収まらずにはみ出してしまう荒ぶる過剰なエネルギー”としての悪を描いています。

 

通常、思春期の過剰なエネルギーは反抗期となって現れ、人それぞれに違った様々な人格形成に影響を及ぼしながら、最終的には、性にそのエネルギーを開放するようになると思います。

 

ところが、この二人の場合は、二人の強力な個性をもった乙女が偶然結びついたことで通常とは違ってきます。この二人はそのエネルギーのはけ口として妄想の世界を見つけ、ついには二人だけの世界を幻覚するに至ります。この二人だけの世界は二人だけに都合の良い世界なので、誰からも束縛を受けません。彼女たちはそこで自由に自分たちの欲求を開放します。その結果、大人たちの社会的な世界よりも自分たちの特殊な世界を正当なものと考え、母親殺しという突飛な暴走に至ったのだと思います。

 

■幻覚の世界と妄想の世界

興味深いのがジュリエットが幻覚を見る場面です。両親の学会旅行を知ったジュリエットは精神的な錯乱と過呼吸によって幻覚を見ます。過呼吸による幻覚は多くの事例があると思います。さらに面白いのは、ポウリーンまでがジュリエットに牽引されるように幻覚体験をするこです。人類学の調査報告によれば、夢見や幻覚を共有する事例は意外と多くあるようです。不思議なことに、シャーマンたちは、同じ場所で同時に眠ると、どちらかに引っ張られるように同じ風景・同じ場所の夢を見ることが多いらしいです。また、一般に体験的に知られている事例では、通常の覚醒した意識状態ですが、「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というように同じ対象に対して一人だけでなく複数の人が同じような幽霊の姿を見るように、同時にゲシュタルト崩壊を起こすのに似ています。

 

それから、上記した幻覚の世界とは別に彼女たちは妄想の世界を持っています。ボロヴィニア王国や第4の世界です。映画では、幻覚と妄想の区別が曖昧になってゆきますが、厳密には、幻覚と妄想は微妙に違うと思います。ですが、二人の「結びつきたい」という願望が強かったのでしょう、彼女たちの強い願望が妄想をよりリアルなもの、幻覚に近いものにまで高めたのだと思います。

 

まあ、とはいえ、これらの場面は映画で作られた話でしょうから、実際の彼女たちがこのような体験をしたかどうかは疑問です。ですが、よくできた話だと私は思います。

 

■同性愛への疑問

ところで、彼女たちを同性愛者と見る見方があるかもしれませんが、私はそれは少し違うと思います。彼女たちは最終的には同性愛関係に至りますが、いわゆるレズビアンかというと、そうではないんじゃないかと思います。なぜなら、彼女たちは、元々は理想の男性に恋焦がれていたからです。それが、周囲の反対が逆効果となって二人を強く結びつけ、ついには性への好奇心から同性愛関係に至ります。ですから、どちらかというと、レズビアンというよりは、互いを愛する表現として、最終的にセックスを選んだのだと思います。ですから、元々は、同性に性的欲求を感じるというものから発したのではなく、愛情表現のひとつとして、そのような関係になったと思います。なので、彼女たちの間に芽生えた愛は同性愛というよりは友愛に近いものだと思います。ただ、普通の友愛と違うのは、二人だけの幻覚と妄想の世界を共有した点です。二人だけの特別な世界を共有したことが、普通の友愛以上に強固な相愛へ二人を結びつけたのだと思います。(ただし、実在の二人は同性愛だったようです。)

 

それにしても、女の子同士でのハグやキスのスキンシップはキレイで良いなあって思いました。スキンシップをすることで相手の暖かみや存在を実感して愛情を確認しているようで、本当にいい感じです。

 

■演技について

この映画でジュリエット役を演じたケイト・ウィンスレットの演技が私はとても大好きです。

本当にこの映画の中のどの演技も味わい深くて好きなのですが、好きな場面をいくつか例として上げておきます。

 

①ジュリエットがポウリーンの足の傷を見る場面

ジュリエットが舐めるようにポウリーンの傷痕を見回して、大きな傷跡に背筋に寒気を感じながらも、興奮して目を細め、鼻を膨らませるのがとても良い感じです。


     ”Can I have another look? . . .That's so impressive!

      Can I touch it?  Woo. . . I've got scars . . . they're on my lungs.”

  

      見せてくれる?…すごい傷跡!

      触ってもいい? うう、凄い、…私にも傷があるのよ、肺にね。

 

ウィンスレットは元々こういう膨らんだ鼻なのですが、こういう場面では一層引き立ちます。

 

②ジュリエットがポウリーンの母親に悪態をつく場面

ポウリーンの母親が両親が旅行でいないジュリエットを気遣って「両親はあなたのためを思って入院させたんだから…」というのですが、ジュリエットは腹立てて、目を剥き、舌を突き出して悪態をつきます。

 

     They sent me off to the Bahamas "for the good of my health."

     They sent me to the Bay of bloody Islands "for the good of my health."

      バハマ諸島へ行かされたわ!体のためと言ってね!

      くそニュージランドのホークス湾へも行かされたわ!体のためと言ってね!
 

ジュリエットの怒りに歪んだ醜さがたまりません。

  

③仕返しのいたずらをして草むらで笑う場面

ジュリエットの豪邸でパーティが催されている場面。ポウリーンを同性愛と診察した医師が婦人を伴って庭の池にやってきます。そこへジュリエットたちが大きな石を投げ込んで大きな水しぶきを上げます。その水しぶきが医師のズボンを濡らしてしまいます。それを見て、野原の陰で歓喜するジュリエットとポウリーンの会話が最高です。
 

    ジュリエット”Direct hit! Gave his trousers a good soaking!

            (命中!ズボンが見事にずぶ濡れ!)

 

    ポウリーン”Everyone will think he's peed himself!”

            (みんな、彼がお漏らししたと思うでしょうね!)

 

    ジュリエット”HaーHaーー!!”
            (ハッハーーッ!)

  

ジュリエットが草むらの間で歯を剥き出しにして笑うのがたまりません。乙女というより、ただの悪ガキです(笑)。

 

④バスルームでポウリーンの悩みを笑い飛ばす場面

浴槽の中で向き合って座っている場面で、ポウリーンが悲しそうな表情で自分の置かれた窮状を訴えます。

 

    ポウリーン ”I think I'm going crazy”

            (私、頭が変になっちゃいそう…)

 

それに対して、ジュリエットが不敵な表情で余裕で次のように笑い飛ばします。

 

    ジュリエット”No, you're not, Gina, it's everybody else who is bonkers!”

            (そうじゃないわ、ジーナ。狂ってるのは連中よ!)

 

最後に、「フンッ!」と笑って吐き捨てるジュリエットの鼻息が最高です!!!

 

⑤母親をレンガで殴り殺す場面

ジュリエットがポウリーンからレンガを受け取って、ポウリーンの母親にレンガを打ちおろします。

そのときのジュリエットの悪魔的な醜さが何ともいえません。

 

他にも、ジュリエットとポウリーンが下着で森の中を歌い踊っていたら仕事中のおじさんに見つかる場面やジュリエットが弟に「あんたのオモチャを全部壊してやるから!」と言って舌と鼻を突き出す場面も好きです。他にも良い場面がたくさんあります。私的には、この映画全般のケイトの鼻がとても良い感じに思います。

 

■千変万化の変化

この映画の中で、ウィンスレットは千変万化の変化(へんげ)を見せます。野蛮人からお姫様まで多種多様な顔を変幻自在に見せる、まさに、変身です。そんな生き生きとした彼女の中に熱い生命の炎を感じます。特に、人が悪に燃えるとき、生命の炎は妖しく激しく煌めきます。

 

■まとめ

この事件をどう捉えるかは難しい問題です。おそらく、当時の彼女たちには罪の意識は希薄だったのではないかと思います。彼女たちから見れば、愛し合う二人の邪魔をする母親を単に排除したかったというのが理由だからです。当時の社会は同性愛は悪だったかもしれませんが、現代では特に同性愛そのものが悪というわけではないでしょう。二人からすれば、二人の愛を邪魔する者こそ悪だったに違いないでしょう。もっとも、殺されたポウリーンの母親が先頭に立って二人の邪魔をしていたわけでないので、誤解・妄想に基づく殺人であって、母親からすれば、迷惑千万な話です。ともかく、どんな理由であれ殺人は悪であるので、二人に重大な罪があることに変わりありません。ただ、悪意に基づく殺人ではなく、二人が強く愛し合うがゆえに起こった事件だけに、第三者から見れば、どこか煮え切らない割り切れない思いが残ります。

 

ただ、この映画自体は、特殊なケースではあるけれども、思春期の女の子の制御できないエネルギーの問題を扱っていると思います。彼女たちは幻覚と妄想を共有して、さらに、同性愛にまで目覚めます。他と違って彼女たちが特殊なところは、妄想の共有や同性愛だけでなく、幻覚まで共有できる点にあると思います。幻覚を共有できるのは、女性ゆえの強力なエネルギーがなせる業だと思います。

 

■注釈

(*1)この作品の他に悪を描いた映画には「時計じかけのオレンジ」があります。これは青年の暴力と性の暴走を描いた作品です。物語のベース自体は近未来の管理社会になっているのですが、表現の主体は暴力と性が描かれています。この映画での悪は青年の悪であり、それは性欲や暴力衝動という比較的シンプルな悪を描いています。一方、「乙女の祈り」では、幻視という女性の強力な精神力がもたらす精神的な暴走を描いているので、「時計じかけのオレンジ」のシンプルな暴力世界よりも、より豊かな悪の世界になっていると思います。もっとも、シンプルではあるけれども、恐ろしさという点では「時計じかけのオレンジ」に優る映画はないと思います。

 

また、近年では悪を描いた映画に「ダークナイト」(=バットマン)のジョーカーがあります。ジョーカーは秩序の純粋な破壊者足らんとしています。どういうことかというと、例えば「バットマン」に登場する怪人たちはいずれも心にトラウマを抱えています。怪人たちは、そのトラウマが元で心の歯車が狂って、反社会的な怪人となってしまっています。一方、怪人を取り締まるバットマン自身も実は様々なトラウマを心に抱えています。ただ、バットマンの場合は怪人たちと違って、トラウマから生じた反動を社会正義のために使っています。ですが、心にトラウマを抱えている点ではバットマンも怪人も同じです。(米国のアニメ版では、バットマンは相棒のロビンから人間味に欠けると指摘されて落ち込んでいました。実はバットマンは人間的に完全無欠な英雄でなくて、むしろ、人間として問題を多く抱えた人物なのです。)なので、バットマンも怪人も奇妙なコスチュームに身を包んでいるのだと思います。ところが、ジョーカーの場合は怪人たちやバットマンとは違っています。確かにジョーカーも醜い姿になったことがきっかけで怪人になってはいます。しかし、ジョーカーと他の怪人たちでは決定的な違いがあると思います。それは何かと言うと、まず、怪人たちの悪を別の言葉で言い換えると、怪人たちの悪は実は自分たちの別の正義に基づいていると言えると思います。つまり、バットマンの正義と怪人たちの別の正義のぶつかり合いが物語になっています。しかし、ジョーカーは違います。ジョーカーには別の正義はありません。というのも、怪人たちの悪である別の正義も実は普通の正義と同じく秩序のある世界だからです。正義の種類は異なっているけれど、どちらも彼らの正義=規則に基づいた秩序ある世界なのです。つまり、怪人たちは別の正義に基づいた秩序ある世界に生きています。しかし、ジョーカーは秩序そのものを破壊しようとします。ジョーカーには正義はもちろん、別の正義もありません。ジョーカーにあるのは、ただ秩序を破壊することだけです。ジョーカーの目指すものはカオスです。彼は秩序ある世界の純粋な破壊者たらんとしているのです。彼の名前の如く、トランプのジョーカーのように彼だけはバットマンや他の怪人たちとは次元を異にする別格になっています。自然世界にエントロピーの法則があるように、カオスに向かってゆくのが自然の摂理なのかもしれません。ジョーカーはそれを体現した存在なのかもしれません。ということは、社会秩序に収まるように心を抑制する私たちの方があるいは不自然なのかもしれません。ジョーカーのような破壊への衝動は本当は人間に自然に備わっていたものなのかもしれないのです。私たちの子供の頃がそうであったように、あるいは、詩人ランボーのように。確かに愉快犯は否定されねばなりませんが、その心を自分たちにはまったく無いものとして無理解に拒絶するとき、実は心が病んでいるのはジョーカーの側ではなく、私たち自身の心が自分でも気づかないうちに病んでしまっていることになるのかもしれません。ですから、悪は拒絶されねばなりませんが、悪を理解する心を失ってはいけないと思います。(これは人類学では道化論に近いと思います。ただ、悪の制御は容易ならざるものがあって、上記のように悪を秩序の枠組みに組み込むことなど不可能だとは思います。なお、世界最強の破壊者は道化です。)ちなみに、私はバットマンシリーズの中ではティム・バートン監督の「バットマン・リターンズ」が好きです。この作品では怪人の悪よりも人間の悪の方がよっぽど悪辣で厄介なものであることが描かれていますし、キャットウーマンの女性的な狂気や生命力が表現されていて好きです。バットマン自身も自分の二重性(=異常人格)に苦しんでいます。それにしても、そもそも、まったく狂気のないまともな人間というのはいるのでしょうか?むしろ、人間は狂気を抱えている存在なのではないでしょうか?人が胸を張って自分はまともだと主張するとき、実はバットマンに登場する怪人たちのように自分の正義を他人に押し付けるようなものなのかもしれません。

 

それから、さらに脱線ですが、悪女ではないけれど、ほんの少し悪を見せる映画に黒澤明監督の「わが青春に悔なし」があります。原節子演じる八木原幸枝が男友達に論争でやり込められた腹いせにまったく関係のない別の男友達に、理由もないのにいきなり土下座をさせるシーンがあります。「ねぇ、ねぇ、お願い。何でもいいから土下座して。ねぇったら!」と甘えるように言って男を無理矢理土下座させたときに、ゆらゆらと愉悦に浸る原節子の黒い笑みが浮かび上がってきます。しかし、すぐに我に返って土下座を止めさせます。黒澤監督が見事に描いた悪のゆらめきです。ちなみに、原節子の撮り方は小津安二郎より黒澤明の方が私は好きですし、その方が正しいんじゃないかと思っています。確かに小津安二郎の世界も嫌いではありませんが、原節子のような日本人離れした豪華で派手な美人は黒澤明のような線が太く印象の濃い力強い女性の役のほうが断然良いと思います。逆に小津安二郎の中の原節子はどこか押し込められて窮屈に感じます。下手をすると抑圧された女性になってしまいます。ですので、「わが青春に悔なし」の八木原幸枝や「白痴」のナスターシャ(=那須妙子)の方が原節子の生命力が十分に発揮されていて私は大好きです。今でも「白痴」の激しく燃える炎のような女性ナスターシャにピッタリな日本の女優は原節子を除いていないのではないかと思います。なお、この「白痴」のナスターシャも燃えさかる暖炉の中に10万ルーブリを投げ込んでしまうなど、彼女もまた制御できない悪、荒ぶる魂を抱えた女性なのだと思います。ナスターシャを刺し殺してしまうロゴージンも同様に荒ぶる魂を抱えていますが、ナスターシャとロゴージンの関係を見ても分かるように、ナスターシャの激しさの前ではロゴージンもかすんでしまいます。生命力の激しさでは、女性の方が圧倒的に強いと思います。ちなみに1958年のソ連版「白痴 」も私は大好きです。

 

(*2)余談ですが、私はこの映画を見て、やはりヨーロッパ人の精神文化の基層はキリスト教ではないのではないかと感じました。キリスト教は元々は西アジアで生まれた一神教の一種であって、ローマ帝国によって国教として広められましたが、その実、ヨーロッパ社会の底流にはもっとアニミスティックな宗教観が脈々と受け継がれているのではないかと感じました。映画の所々で見られる非キリスト教的な宗教的な感性があることに、アニミスティックな日本人としてちょっと親近感が持てました。