遠い夏に想いを -97ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 結婚してウン十年、誕生日や結婚記念日にはレストランなどへ行って祝うことがありましたが、ケーキを買って祝ったことは記憶にありません。そこで今年は台風も来るので外出も出来ないし、ケーキで祝うことにして、ケーキを買いにFLOに行ってきました。


Cat
 道を歩いていたら、古い家の庭に茶色の身体の重そうなニャンコがうずくまっていました。いつもの白黒のニャンコみたいに愛相はよくなく、そのうちゆったりと立ち去って行きました。


 FLOの女店員は「何かのお祝いですか?」って訊くので、「ええ、妻の誕生日なんです」と答えたら、「小さなプレートにメッセージを書いては如何ですか」と言う。申し込み用紙に書いて、暫くすると「簡単ですが、無料です」。余り色気もないプレートだが、無いよりはましだろう。


ケーキ
 昔、パリから進出してきたレストランという触れ込みで、原宿の表参道から少し入ったところにFLOの店がオープンした。今は店はないが、その頃一度入ったことがあった。もともとパリでもブラッスリーだから庶民的なレストランである。


 「ローソクは如何ですか?」との問いに、「いや、結構です」と答えた。何十本もローソクがいるからなぁ、とは言わないが、シンプル・イズ・ベストなりだ。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ

ン 前回で名前の方が覚えやすいと言いましたが、それでは、どんな状態のときの名前が覚えやすいのでしょうか。


 例えば、世界中の人物で何かを成し遂げた人は、どうしてその名前を歴史に残したのでしょう?


 ガガーリンでも、テレシコワでも、アームストロングでも、ヒラリーでも誰でもいいんです。


ガガーリン  世界で初めて何かを成し遂げた人達ですね。冷戦時代のソ連で初めてスプートニク(衛星)のボストーク号で宇宙を飛んだ男、ガガーリン。初めて宇宙を飛んだ女性、テレシコワ。ソ連に対抗した宇宙計画で初めて月に足跡を残した男、アームストロング。エヴェレストに初めて登頂した男、ヒラリー、等々。二番手以降の人達の記憶は殆どないでしょう。


 この「初めて」が人々の記憶に残るキーワードになります。かって、ある日本の政治家が「二番手では駄目ですか?」と言ったとか言わないとか。歴史に名を残すには二番手とかフォロワーでは駄目なのです。


 科学の世界では余りに「最初に何々を発見した」ということが多すぎて、初めての発見者の名前を覚えきれません。最初に思い出すのがマリ・キュリーでしょうか。世界で初めて放射性元素という言葉を使った人です。子供の頃見たキュリー夫人の伝記映画でグリア・ガースン演じるマリーの手に青白く光るラジウム鉱石が印象的でした。歴史上彼らの名前は輝いていますね。


 それから、初めてでも歴史的に認識されていないと駄目です。例えば、ヨーロッパからアメリカ大陸に初めて到達した男と言えばジェノバのコロンブスですね。歴史ではそう認識されています。


 ところが別の男がコロンブスの到着の500年も前にヨーロッパからアメリカ大陸に到達していたとしたらどうしますか。北大西洋の真ん中にあるアイスランドからカナダの東海岸に到達しているのです。これは北欧のサガ(叙事)にレイヴ・エリクソンという男が船団を率いて大陸に到達したと記録があるそうです。


 アメリカの中西部のミネソタ州のアレキサンドリアという町に古代ノールウェー人達(ゴート人)が残したルーン語で書かれた石碑があります。カナダ東海岸から五大湖を抜けてミネソタまで探検してきたのでしょうか。しかし一般に知られることもなくコロンブスに軍パイが上がってしまいました。


 大航海時代のスペインが強力だったのと、コロンブス以後のスペインによる現地の略奪が物凄かったからでしょうか。アメリカ大陸には既に1万年以上も前の氷河期にアジアから原住民が氷ついたベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に到達して住んでいました。だからコロンブスが大陸を発見した訳ではありません。昔の話ですが、一人のアメリカ・インデアンがヨーロッパにやって来て、インデアン装束で「我、ヨーロッパ大陸を発見せり」と皮肉を込めて叫んだそうです。


 かって世界はヨーロッパ中心でしたから、日本で初めて何かを和算で解いたって言っても、世界に認知されないのです。これから時代がグローバル化し情報が瞬時に世界を駆け巡り、世界中に認知されるのが速くなるでしょう。それでも、ナンバーワンでなけりゃ駄目です。皆さん、自分で何かの世界ナンバーワン人間を探してみては。


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 8月になると台風シーズン到来ですね。今も大きな二つの台風が日本を狙ってます。


 またまた、昔、昔の話をしましょう。話は長くなりますが、昔は台風に女性の名前が付けられていました。時代は戦後。1952年のサンフランシスコ平和条約で形だけ戦後が終了するまでのお話です。所謂、占領下の時代ですね。


 当時の気象観測は日本と米軍によって行われていました。日本側は番号で呼びましたが、アメリカではハリケーンに女性の名前を付ける習慣があり、台風にも女性の名前を付けました。10年前のハリケーン・カトリーナは記憶に新しいしいですね。


台風イラスト  それらはキャサリン台風、キティ台風、ジェーン台風などです。勿論知らない方が殆どでしょう。日本側では現在のように番号で呼んでました。


 しかし、皆さん番号と名称では、どちらが記憶に残ると思いますか?そりゃ名称ですよね。室戸台風とか狩野川台風とか伊勢湾台風とか洞爺丸台風など記憶に残ってますが、号数で言われてもチンプンカンプンですよね。国際的には日本の台風にも女性の名前が付けられているそうです。


 今ではハリケーンには女性だけでなく、男性の名前も付けられています。女性差別反対ってことかな。年毎にA,B,C・・・順で名前を付けられます。日本でなら差し詰め「あゆみ台風」「いくよ台風」なんてなるかも。


 ジェーン台風ですが、1950年8月30日に四国に上陸し、日本海に抜け、その後北海道へ再上陸してオホーツク海に抜けて行きました。当時、札幌で中学生でしたが、昼から休校になり、強風で飛ばされそうになりながら帰宅したのを覚えています。北海道では余り大きな被害はなかったのですが、ジェーン台風という名前でよく記憶に残っているのでしょう。


 それから台風の記憶とし残っているのは1958年9月21日に来た狩野川台風です。当時、大学の3年生でした。大学のオーケストラ仲間と中国・九州など西の地方へ演奏旅行に行きました。終わってから仲間と別れて長崎、熊本、阿蘇山、別府など一人で旅をしました。九州を汽車で発つ時、台風で急行は動かず、仕方なく鈍行で乗換・乗換で凄く長い時間を掛けて東京に戻って来ました。狩野川台風が襲った直後で、鈍行でも汽車が動いていてくれたのは運がよかったです。


 当時、旅行でお金を使い果たして、ポケットには数百円しかありません。お腹をすかして、東京駅からは中央線で終電に乗りました。おまけに荻窪までしか行きません。西荻窪で降りて、当時住んでいた井の頭線の久我山まで、真っ暗な夜道をヴァイオリンと旅行カバンを持って30分くらい歩きました。家に付いたのは2時半を過ぎていたと思います。疲労困憊して玄関のベルを押して、やや暫くして出てきた家人が「あら、どうしたの今頃、ゆうれいみたいだよ」って笑われたのを覚えています。


 台風の思い出で話ですが、この狩野川台風は伊豆半島に大きな被害を及ぼしました。この台風にも女性の名前のIdaという国際名が付いているそうです。


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 あなたの地域では月見草を見かけますか?最近は滅多に見かけなくなった気がします。花の好みも近年どんどん変わって行くみたいですね。


  絵画教室が開かれている市役所に毎週水曜日に行ってますが、途中に月見草の花が玄関に咲いている家があります。この花を見ると子供の頃を思い出すのです。


月見草


 何かの花を見たら誰かを思い出すことってありますよね。私の場合は月見草、そして思い出すのは私が9歳の時に亡くなった姉です。


 昔、昔の話ですが。亡くなった姉は長女で20歳、婚約したばかりです。ある朝、家族皆で朝食をとりました。小学校へ行った私は学校に着くなり、家のものが慌てふためいて呼びに来ました。急いで家に帰ると、姉は既に亡くなっていました。父や母の悲しみははかり知れないものでした。


 アレルギーという言葉も、いわんやアナフラキ―・ショックなどという言葉もない時代でした。医者の診断は食中毒でした。朝は全員同じものを食べていたのです。姉だけがショックを起こしたのです。ですから9歳から現在まで私にとって、姉の面影は常に若々しい20歳の乙女のままです。


 姉は月見草が大好きでした。この当時月見草は街の至る所に咲いていました。月明かりでほんのりと闇夜に浮かぶ月見草。ですからこの花を見ると亡くなった姉を思い出すのです。


 それから姉はよく本を読んでました。針仕事をする時は「庭の千草」を口ずさんでいましたよ。


<19世紀中頃のヴァイオリンの名手、エルンストによる変奏曲。演奏は五嶋みどりさん>


 最近新しい発見がありました。黄色の花を付けるものは月見草ではなくオオマツヨイクサ(大待宵草)らしいことです。


 そして「庭の千草」の千草は特定の花ではなく雑草の花の総称らしことです。もともとアイルランド民謡で明治の頃に小学唱歌として日本語の無難な詩を付けたらしいのです。原題は「The last rose of Summer」(夏の名残りのバラ)で、今は亡き愛する女性を淋しく咲く名残のバラにたとえた悲しい歌です




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 昨日は気温が36度になり、無茶苦茶暑い一日でした。色々な都合で暫くお休みしていた音合わせを我が家で再開しました。


 いつもの後輩の彼女が来るというので、私は朝から昼食の準備にかかります。作ったのはスパゲッティとカプレーゼと添え物のサラダ。


 スパゲッティに使った材料は、

ニンニク
パンチェッタ(生ベーコン)
バジル
シメジ
ズッキーニ
グリーンピーズ

トマトソース

粉チーズ(パルミジャーノ・レッジャーノ)
ムール貝(チリ産)
白ワイン


<盛りつけは悪いが、美味しかったです。95点位かな>
パスタ
 等ですが、ムール貝は近くのスーパーで購入。24個入りで、加熱加工して冷凍してあります。チリ産ですが280円と手軽です。 パンチェッタ(イタリアでは豚バラの意味)は国産です。


 カプレーゼはイタリア産のモッツァレッラチーズを使いました。モッツァレッラは本来水牛の乳から作ります。現在は牛の乳でも作られますが、味は国産のものよりも美味しいです。


 サラダはセロリ、レタス、キュウリ、トマトなどのグリーンサラダです。


 お昼前に来て、昼食でワイワイと盛り上がってしまいました。


 音楽は?音合わせは?
「もうお腹いっぱいだから、ここまま帰ろうかしら」と笑いながらふと時計を見たらもう3時にならんとしています。


 「暑いなかヴァイオリンを持って駅から歩いて来たんだから、ちょっと音を出してみようよ」

という訳で、モーツアルトの曲を妻のチェロと3人で合わせました。


 大変に楽しい一日で、「車で送るよ」との申し出に、彼女は歩いて駅まで帰ると言って去って行きました。


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