遠い夏に想いを -96ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 どうゆう訳か、花の名前が覚えられない。せいぜいバラ、キク、チューリップ、コスモス、サクラ、ウメの類かな(ちょっと大袈裟ですね)。


 名前が判らないと、後輩の奥様に写真添付でメールを送って訊くのですが、彼女は体調を崩して静養中。

「どうしてそんなに花の種類を覚えているの?

 雑草の花までも」
「子供の頃、父が詳しくて、色々と教えてくれたのよ」

「うちの家族は花より団子の方だったからね」
と大笑い。


 仕方がないので、語呂合わせで覚えるようにしたけれど上手くいかない。例えば、サルビア(女の子の名前から思い出す)、ゼラニューム(食品から)、シクラメン(麺類から)など、だけど結局直ぐには思い出せない。


 <近所の医院の陽の当たらない玄関前に咲いているゼラニューム>
ゼラニューム
 濃い赤のゼラニュームが大好きで、8月の上旬に成城学園前駅前の花屋さんに寄ってみた。
「この前、最後の鉢が売れちゃったよ、暑いから、また秋にならないとね」

きょうちくとう

さるすべり白

さるすべり赤
 夏の花って結構あるらしいのですが、実際に咲いているのを見かけない。家の近くで咲いているのは、キョウチクトウ、サルスベリくらである。


ふよう
 だが、今年も美しいフヨウが咲いていました。満開で豪華です。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 先日テレビを見ていたら、インドの鉄道事情を放映しいました。一車両に600人以上乗っており、通路に寝てりる人がいたり、天井の網棚に登って横たわっている人がいたり、汽車の屋根に乗ったり、サンフランシスコのケーブルカー並みに車両にぶら下っている人たちの映像が映し出されていました。


 また昔の話になって申し訳ないのですが、かっての日本の鉄道事情を見てるようでした。


 1960年代以前は日本の幹線で電化されているのは東海道本線くらいで、他は蒸気機関車(SL)かディーゼル車が走ってました。私の大学生時代、故郷の札幌から東京まで走っていたのは真っ黒いC62の蒸気機関車だったと思います。正月と夏休みは札幌に帰っていたので、どうしても汽車に乗る必要がありました。

                 <写真はウィキペディアより>
C62

  <サンフランシスコに旅行した際に撮ったケーブルカー>

SF
 結構、当時の汽車は混むのです。ある時、夏休みが終わるぎりぎりになって、汽車に乗りました。一等車に乗る分際でもないので、二等車でしたが、座席指定も取れずに乗ってしまいました。


 津軽海峡は青函連絡船で、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」のように哀愁がある訳でもないし、4時間も乗り換えに掛かり、札幌~東京間は急行で24時もかかったのです。


 夏は窓を開けっぱなしにするので、トンネルに入ると煙が車内に充満し、札幌を発つ時に着ていた白いワイシャツが東京に付く頃には煤で灰色になっていました。SLなんてとんでもない代物と呪ったのもです。ですから私にとっては世界中のSLブームなんて単なるアナクロニズムの何物でもないのです。


 終戦後は乗客が窓から乗り降りしたり、網棚に寝る者などいました。私は座席指定もなく24時間立っていなければならず、深夜になって車内が寝静まった頃に、固い通路に新聞紙を敷いて横になり寝た記憶があります。まさにインドの車内風景そのもので、懐かしくなりました。


 今は新幹線が走り、世の中の進歩は物凄いスピードで進んでいますよね。


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 古い写真を整理していました。古い古いセピア調に色褪せた写真が出てきました。


写真01  この写真は多分写真館で撮ってもらったものでしょう。写っているのは随分前に亡くなった母の妹と小さな私です。叔母は独身だった頃、色々な処へ私を連れて行ったらしく、大人になってからその話を聞かされました。どうも兄妹の中でも末っ子の私を連れて歩いていたようです。


 当時、亡くなった父が札幌で菓子屋を営んでいました。工場があり、叔母はその二階に住んでいて、店を手伝っていました。


 写真02 休みは盆と正月くらでしたから、この写真もそんな時に写真館で撮ってもらったのでしょう。但し、二歳か三歳でしょうから、私にはこの記憶が全くありません。でも私の大切な宝物です。父も母も可愛がってくれましたが、小さい時に父母と一緒に撮った写真はないのですから。


 当時、カメラは裕福な家庭にしかありませんでした。私の家にもありませんでした。但し、向いには写真機や感光材の卸店があり、そこの店員と皆仲良しだったので、彼が撮ってくれたスナップショットが何枚か残っています。


 初めて写真機を買ったのが、私が中学の三年生の時でした。6X4.5のブローニー判(セミ判)フィルムでツアイス社製の蛇腹方式のカメラでした。折畳むと今のコンパクトデジタルカメラくらいになります。当然、向かいの卸店から買いました。


 当時は白黒しかなく、カラーが一般的になったのは1960年以降です。テレビやブログに子供の頃の白黒写真を出していれば年代が判りますね。


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 昨年の9月の末に散歩で立ち寄った代々木公園の情景です。ツバ広の帽子を被ってベンチで噴水を眺めて動かない男、木の実を拾う親子、ひそひそと話ながら通り過ぎるカップル。水彩画です。


代々木公園
 代々木公園は昔の練兵場から始まり、戦後米軍のワシントン・ハイツとなり、その後東京オリンピックの選手村になりました。54万平米もある広い公園です。樹木は植林で人工的に植えたものですが、みな立派な木に育って、森のようになっています。


 秋になったら、ぶらりと散歩に行くにはもってこいの場所です。山手線の原宿駅と千代田線の代々木公園前駅からが便利です。


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 先日、物置き場と化していた半地下の部屋を整理していたら古いワインが出てきました。1975年~1990年位の間ワインに凝ってボルドーを中心に集めていたことがあります。常時80本位あったのすが、殆どは赤ワインで、白とかロゼなどは数本でした。ボルドーと言ってもブルジョワ級がグラン・クリュの2級から5級位までです。酒飲みではないので本数は減らなかったのでしょうか。


 この半地下は真夏の一番暑い時には25度以上になるのでワインの貯蔵場所としては不向きでしたから、自然と本数が減って行き、数年前に、フランスの友人が学会に参加するために東京に来た時に土産に持ってきたボルドー地区の甘口白ワイン、サント・クロワ・デュ・モンを発見、10年位経っていましたが、リキュールのように甘くて濃厚なワインになっていました。これで全部無くなったと思っていました。


TAVEL  ところが整理の最中に出てきたのがロゼワインが一本、TAVEL ROSEでした。ヴィンテージが1990年とあるので、24年も前になります。TAVELが24年も保存出来るワインかどうかは知りません。おまけに場所の環境も悪いし。しかし澱もなく、赤に近い綺麗なロゼの澄んだ色が美しい。封を切るのが楽しみです。


 TAVELはローヌ川のアヴィニィヨンの近くにある地区でロゼではフランスでも有名です。高い酒ではなく当時でも2千5百円から3千円くらいでした。


 ワインは古い方が高いという訳ではありません。ボルドーの77年と80年では80年の方が高い。77年は不作の年でしたから、価格も安い。74年は大凶作の年で高級な銘柄は軒並み値を下げました。だから豊作の当り年を覚えておくとワインを買うときには便利ですよ。


 ボルドーはイギリス人が育てたって本当なの?昔、昔のその昔、ボルドーの辺りはアキテーヌ公の領地でした。その娘がフランス皇太子と結婚し、直ぐに離婚されてしまう。次に彼女はイギリス皇太子アンリと結婚、後に彼はヘンリー2世となり、アキテーヌは英国領になった。このアリエノール姫は英仏間の百年戦争の原因を作っちゃった訳だ。元々イギリス皇室はフランスのノルマンディー地方から1066年にやって来てイギリスを征服したフランス人なのです。高校生の皆さん、歴史の勉強は面白いと思うんだけどな。


 以前妻の友達のイギリス人で証券マンの男性が友達数人と夕食会にやって来ました。この時もワイン談議になり、「ワインはブルゴーニュの方がピノ・ノワールだけしか使ってないから年の当り・不当りが判り易いよ」と言う。ボルドーのワインは3種類のブドウの混合だから、不作の時はブドウの混合比を変えてワインにする。だけどブルゴーニュも結構高いので、つい敬遠してしてしまう。


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