COLD TURKEY( 依存症からの脱却)

18歳くらいのとび職時代から約32年、自慢じゃないが
酒を飲まずに一日を終えたのはおそらく片手に数えるほどじゃないだろうか!?
最近じゃ3年ほど前、腸内カメラを呑んだのが最後だろう。
そうやって考えてみると「一体、どれだけのアルコールを欠かさずせっせと
体内に取り入れてきたのだろう?」こんだけ続けられる事も珍しい。
毎日、日が傾けば当たり前に酒を飲み
気分が高揚し、感覚が麻痺しだし、そして眠気を憶える・・の繰り返し。
頭にできたイボに気付いた時の様に、ふと疑問が頭を擡げた。
「酒を断ってみようか?」
煙草を止めるときも肉を止める時も似たようなもんだった。
何となく飽きたというか、もういいんじゃないか?
というのが感覚的には近い感じだ。
無論、そこに至るにはそれぞれ色んな具体的要因はあるとして。
言うは易しいが行うは難しで
煙草の時は苦労した、ひと月できっぱり止めようとしたが
結局、2か月かかった。
何がキツかったかと言うと、食後や緊張から解放された時などに
来るべき至福の一服の時間を持て余す事だった。
が、今回はきっぱり酒を断とうという訳ではない。
自分の意思で夜が来てもアルコールを摂らないで
一日を終えようという事だ。
だけど、飲まない人には解らんだろうが俺には簡単な事じゃないんだ。
そこにあるのは崇高かつ堅固な自己制御力の確認作業だし
目前にあるのは目もくらむ高さの走り高跳びのバーのなのだ。
ゴタクは兎も角、今週実践してみた。
週二日はいわゆる休肝日にするという事で
日曜と水曜日をそれを当てたが、
やはりかなり物足りない感があったし
誰かが言う寝酒の効果は無いというのが嘘だと思えた。
布団に入っても目は覚めてて、寝付くまで時間はかかるし
眠りも浅く、何より期待した目覚めもすっきりしないものだった。
まぁしばらくは実践してみようとは思っているが・・・・
イサヲ
生きとし生けるもの
前回、チュッチュの死を経て
これまで俺が感じている動物との関係について
まとめておこうと思い至った。
ペットと暮らした、暮らしている人なら
感覚的に理解していると思うが。
人と動物との間には種族を超えて理解しあえる
信頼感が存在している事を、
またその感覚が共有できた瞬間の幸福感の素晴しさを。
愛を差しだし、それを受けてのペット達の満ち足りた
表情は感動的ですらある。

そういう感情は何もペット達に限られている訳ではないだろう!
2年ほど前か?ふとしたキッカケでそう思い始めたのだ。
口蹄疫、狂牛病、鳥インフルエンザ・・・・
殺処分を無念と畜産家の人は説いていたが、
果たしてそうなのだろうか?
「丹精こめて育てました」なぞと和牛をピ―アールするが、
大事に育てられた和牛たちの人に寄せていたであろう
信頼感は「時期がきたから」と一方的に裏切られ食肉化される訳で、
彼らの失望感はどれほどのものなのだろうかと考えたのだ。

鳥だろうが豚だろうが牛だろうが
彼らの罪なき瞳を見て「おまえは喰われるために生まれたのだ」
とは俺には言えないな。
熊が人里に出没しました、とか鹿が増えすぎたとか
猿が人を襲ったとか・・・彼らの生息地を脅かしているのは
いつも人間だし無理にコントロールしようとしてるのも人間だ。
「何を生ぬるい事言ってんだ」と言われるかも知れないが
どうしても俺にはペットと彼らを別とは思えなくなったのだ。
以前、俺の職場にいた若い奴が彼がその前いた建設屋さんの
社長の話をしていた。
その社長さんの趣味は闘犬で土佐犬を何頭も飼っていたらしいが
試合に出して負けてしまうと「びびってもう使い物にならない」からと
従業員に命じて撲殺しその生肉を肴にみんなで酒を飲むらしい。
話しを聞いた当初は「何という事を・・・」と眉をひそめたが
考えてみればその社長は首尾一貫していてペットだろうが家畜だろうが
動物なんて喰われて当たり前で、
アマゾンの住人やエスキモーの人達同様ある意味達観していたのかも知れない。

ちょっと前の日本人だって何かの時は裏庭の鶏を絞めたり
マタギの人が居たりした訳だが(今だっていらっしゃるのか)、
それらの人達と現代人との圧倒的違いは家畜たちとの
距離感というか、狩れない時や育たなければ喰えない訳で
毎日何も考えず当たり前に食す事はないのである。
そこにはやはり自然や生き物に対する畏敬の念があるのだと想う。
牛丼がまた値下げとかナゲットがどうとか、
そこに介在するのはキロいくらで取引され利益追従という方程式で
そこには畏敬の念の微塵も介在しないのだ!
相も変わらず山菜を採りに行き熊に襲われたとか
鹿が増えすぎて農地を荒らすとか、
別にイイ子ちゃんのコメントするつもりもないから言うけど
常に大自然に背を向け冒涜し続けるのは人間である。
同情する気にはなれないし、むしろ熊や鹿などが心配である。
ペットにも家畜にも感情や愛情を感じる能力はある
違いは悲しみに満ちた神聖な別れと踏みにじられた失望の殺害だ。
いつしかスーパーの食肉コーナーを彼らの
切り刻まれた失望の肉片を避ける自分を見つけた。
最後まで見なくていいし無理してイイね!なんてしなくていいよ。
あくまで言いたいのは動物は皆、感情的だし優しい。
裏切り続けるのはあくまで人間だ!
イサヲ
ちゅっちゅ ナインティーン

8月23日午後、チュッチュは逝った。
19年と13日の命だった。
今も、そこかしこにチュッチュは居て
それはお腹が減った時に座るキッチンの前や
お気に入りの椅子の上や、
暑いときにゴロっとなる竹の敷物のところや
俺が寝る時に先回りしてゴロゴロ言って待っている
俺の枕の横の定位置(目覚ましをかけ忘れた朝に起こしてくれた)
・・・・・・

数日を経た今想うのは
小さな体で苦しみを一人受け止め
真摯に苦痛に立ち向かう姿を
為すすべなくオロオロと見ている時が一番つらかった事。
水さえ口にしなくなって2日目
妻が出かけようとすると必死に立ち上がろうとしたり、
俺が話しかけ頭を撫でると声にならない鳴き声をあげようとしたり・・・・
ずっと動物というのは最期は一人になりたいもんだと
決めつけてきたんだけど、
チュッチュは違うようだった。
約20年も自分たちの子供の様に(実際は子供が居ないから解らないが)
接してきたのでチュッチュもそう思っていたのかも知れない。

そして、強く感じるのは人生の虚無感だ。
諸行無常と言うけれど
何やら空しさを感じて仕方ないのだが、
ブッダが説いた無常感は無情感ではなく
物事のすべてはとどまる事なく変化し続ける
という森羅万象の事実を現実的に説いたもので、
老いて死にゆくのは間違いないが
それに係わらず修業はし続けなさい
という事らしい。
いつまでも俤をさがして沈んでいても仕方ないのだな。
兎に角、ありがとう!愛するチュッチュ!!
イサヲ
