生きとし生けるもの
前回、チュッチュの死を経て
これまで俺が感じている動物との関係について
まとめておこうと思い至った。
ペットと暮らした、暮らしている人なら
感覚的に理解していると思うが。
人と動物との間には種族を超えて理解しあえる
信頼感が存在している事を、
またその感覚が共有できた瞬間の幸福感の素晴しさを。
愛を差しだし、それを受けてのペット達の満ち足りた
表情は感動的ですらある。

そういう感情は何もペット達に限られている訳ではないだろう!
2年ほど前か?ふとしたキッカケでそう思い始めたのだ。
口蹄疫、狂牛病、鳥インフルエンザ・・・・
殺処分を無念と畜産家の人は説いていたが、
果たしてそうなのだろうか?
「丹精こめて育てました」なぞと和牛をピ―アールするが、
大事に育てられた和牛たちの人に寄せていたであろう
信頼感は「時期がきたから」と一方的に裏切られ食肉化される訳で、
彼らの失望感はどれほどのものなのだろうかと考えたのだ。

鳥だろうが豚だろうが牛だろうが
彼らの罪なき瞳を見て「おまえは喰われるために生まれたのだ」
とは俺には言えないな。
熊が人里に出没しました、とか鹿が増えすぎたとか
猿が人を襲ったとか・・・彼らの生息地を脅かしているのは
いつも人間だし無理にコントロールしようとしてるのも人間だ。
「何を生ぬるい事言ってんだ」と言われるかも知れないが
どうしても俺にはペットと彼らを別とは思えなくなったのだ。
以前、俺の職場にいた若い奴が彼がその前いた建設屋さんの
社長の話をしていた。
その社長さんの趣味は闘犬で土佐犬を何頭も飼っていたらしいが
試合に出して負けてしまうと「びびってもう使い物にならない」からと
従業員に命じて撲殺しその生肉を肴にみんなで酒を飲むらしい。
話しを聞いた当初は「何という事を・・・」と眉をひそめたが
考えてみればその社長は首尾一貫していてペットだろうが家畜だろうが
動物なんて喰われて当たり前で、
アマゾンの住人やエスキモーの人達同様ある意味達観していたのかも知れない。

ちょっと前の日本人だって何かの時は裏庭の鶏を絞めたり
マタギの人が居たりした訳だが(今だっていらっしゃるのか)、
それらの人達と現代人との圧倒的違いは家畜たちとの
距離感というか、狩れない時や育たなければ喰えない訳で
毎日何も考えず当たり前に食す事はないのである。
そこにはやはり自然や生き物に対する畏敬の念があるのだと想う。
牛丼がまた値下げとかナゲットがどうとか、
そこに介在するのはキロいくらで取引され利益追従という方程式で
そこには畏敬の念の微塵も介在しないのだ!
相も変わらず山菜を採りに行き熊に襲われたとか
鹿が増えすぎて農地を荒らすとか、
別にイイ子ちゃんのコメントするつもりもないから言うけど
常に大自然に背を向け冒涜し続けるのは人間である。
同情する気にはなれないし、むしろ熊や鹿などが心配である。
ペットにも家畜にも感情や愛情を感じる能力はある
違いは悲しみに満ちた神聖な別れと踏みにじられた失望の殺害だ。
いつしかスーパーの食肉コーナーを彼らの
切り刻まれた失望の肉片を避ける自分を見つけた。
最後まで見なくていいし無理してイイね!なんてしなくていいよ。
あくまで言いたいのは動物は皆、感情的だし優しい。
裏切り続けるのはあくまで人間だ!
イサヲ
