ティータイム心和むクラシック音楽を聴きませんか -4ページ目

学ぶ楽しさ

この三連休は大宮でフォルテピアノのレッスンを聴講していて、今日が最終日。初日は9人の皆さんのレッスンを連続して聴いて私自身の体力が限界に達して途中退場。昨日は少しタイムスケジュールに慣れてきたけど、帰宅後は疲労困憊で朝まで倒れて今朝は最初は行く気力がなかったけどやっと気持ちを盛り上げて大宮に来ました。
で、受講生の皆さんは三日間毎日レッスンを受けていられて、真剣な眼差しで真摯に講師に質問する姿を見るにつけて聴講している私自身、負けていられないみたいな改めて自分も振り出しに戻って一歩から始めようと思います。
テレビで下らない口喧嘩を見て下らない理屈で他人を言い負かして喜ぶことはむしろ自己肯定感を広げず劣等感が積もるだけと思います。スマホを睨み付けて一日過ごすより自分よりも優れた人から学ぶことの楽しさ、一歩一歩近づき追い付き認めてもらう嬉しさ、今朝のNHKの落語家さんのインタビューでも話されていたことは特別な人のことではなく皆さん全員が体験できることと思います。勇気を出して一歩踏み出してはいかがでしょうか。私もまだまだ初心者ですが楽しいですよ☺️

カトリックとプロテスタント

私はキリスト教徒ではないので、正確なことは言えませんが、バッハのシンフォニアを聴いていてふと感じたことを備忘として呟きます。

カトリック信者はキリスト、いや神の意を汲む代弁者としての教会に懺悔し従う人間で、プロテスタントではルターは神の意志が自己に降りて来て神に従う人間で、エラスムスは人間が自己の納得する、多分親和する神を選ぶとしています。更にカルヴァンは自己の意志が神の意志と同化し、神の軍隊の下士官でありながら自らの意志が神と同一であるとの一線を越えた自己絶対化の道を切り開いたと私個人的に感じています。つまりカルヴァン派の人達は自ら神の僕でありながら神の意志を体現し実行する存在と認識していつしか神と同一化し、同じキリストであるはずのキリスト教信者同士の認識する神が相互に正統性を争う事態に直面し、更に信仰と世俗が相互浸透したことが経済学的な考えをもたらし人間の相対化が神も相対化し、社会の正義がそれぞれがキリストを頂く一人一人の人生が世俗的に成功者と失敗者に分離し、世俗の背景に信仰が浸透し無意識に世俗と神が絡み合い溶け合ったことが、かえって社会の貧富の差と幸せと不幸の調整、魂の救いが世俗面からしかできなくなり、富者の失敗した他人に対するリスペクトは吹き飛び、それが更に失敗者の誇りや生きるための矜持みたいな心の支えさえも奪うようになったのではないかなどと感じます。資本主義はウェーバーの意図は分かりませんが、個々のキリストの争いで誰かのキリストが勝ち誰かのキリストが負けるみたいなことが貨幣的な蓄積に置き換えて混乱から来る憎悪や慢心と絶望をそれなりに緩和して社会に広げたのではないかなどと感じます。

自分で書いていてまだまだかなり違和感がありますが、思考のデッサン?くらいの状態です。

北条泰時の治世

北条泰時は貞永式目の制定を始め政治家として理想視されていると思いますが、改めて当時の年号を見ていて、1225年の嘉禄からほとんど毎年のように改元されていて、異様なまでに社会は不安定だったと感じます。深刻な飢饉もあり、鎌倉新仏教が群生したことは社会不安を納める政治力が朝廷にも鎌倉にもなかったことが反映されているように感じます。
改めて記載するのも野暮ですが、改元はこんな感じです。
安貞1227年、寛喜1229年、貞永1232年、天福1233年、文暦1234年、嘉禎1235年、暦仁1238年、延応1239年、仁治1240年、寛元1243年…
ちなみに北条泰時は仁治3年に亡くなりました。北条泰時の治世17年程度で年号が11もある政治が本当に理想的だったのか再度見直す必要があると思いますがいかがでしょうか?