最近ネットで“はてな”や“Wikipedia”に行き着くことがある。解らない言葉をgoogle検索して、そんなページにたどり着くのだ。大抵は個人のページであったりして、間違った説明に出くわすことも多いけれど、それもまた一つの楽しみ。

この調べ方で便利なのは、調べたい対象の周辺情報を得やすいということ。リンクのリンクのリンクなんてしていくと時間があっという間に過ぎる。もちろん辞書もよく使うけれど、それとは違った楽しさもある。

そこで今日はこんなページに出会った。

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株式会社バンダイより発売されている、ガンダムシリーズのプラモデルのランクの1つで「ハイグレード」の略

他にはMG(マスターグレード)、PG(パーフェクトグレード)などがある

基本的に1/144スケール

大まかな色分けと間接の全可動が特徴

ちなみにハードゲイとは読まない




http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a3%c8%a3%c7

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ちなみにHGが知りたかったのではない。

数年前にライター見習いをやっていた頃、価値がある文章とはどういうものであるかということを、知ることとなった。その雑誌の編集部にいて、という限定が現実になるものか、僕の慰めになるものか、未だに判じかねる。

その頃、編集長に散々と言われていたのは、


書く文章に価値があるのではない。書く価値のある人間が文章を書くのだ


ということだった。彼は、たとえ話として、沢木耕太郎を挙げて、こう言った。

彼の「深夜特急」という本は彼が書いた文章の内容だけが評価されたのではない。内容も素晴らしいことに違いはないけれど、彼があの旅に出る頃にはライターとして評価されており、彼の書いた文章だからこそ多くの人間に感動を与えることができたのだ。

その編集部にいてと言う限定は、二種類の作用をもたらせた。一方では―当たり前のことながら―僕がどんな物を書こうとも一回の新卒ライター見習いにしか過ぎないのだということを目の当たりに突きつけられたが、他方では僕の書きたいものが必要とされないのはこの場所だからだと自慰することも可能であった。

彼の言葉は依然として、心に深く突き刺さっている。おそらくは今後ずっと抱え続けるだろう。そして、この日記群にはそのくらいの価値しかない。認めないわけにはいかない。


沢木 耕太郎
深夜特急〈1〉香港・マカオ
犬に慰めてもらうことがよくある。話しかければ、不思議そうにこちらを見つめているだけだが、こちらがナーバスになっている時などには見透かしたようにそばに来て体を擦り付けながら横になる。僕の気持ちを汲み取ってくれているのだろうかと、犬を顔を覗き込むと、得意そうな顔をして主人の顔を見上げている。

僕は―イングマルやすみれがライカ犬を想ったように―想う。この犬には僕とその家族しかいない。他には会いたくなる相手さえいないのだ。犬は、寂寥を味わずにすむのならば、それなりに幸せといえるのかもしれない。犬は寂寥を感じないために足ることを識ったのかもしれない。

この犬がうちに来たときには、随分と世話を焼いたものだった。子犬ながらに気性が荒く、我が家で飼ってきた犬に比べても躾けるに手がかかった。今でもやんちゃをすることはたまにあるけれど随分と大人しくなったものだ。それでも、人の輪からはみ出していると感じると甘えた声をしきりに出しているけれど。



時は流れ、あいつは「マテ」ができるようになった。

昔好きだった人と会って、お茶を飲んだ。彼女は人妻になっていて、時の流れとそれに伴う人の変化、を感じた。自分は何も変わってやしない気がする。

彼女はこの夏に結婚したばかりだった。身近な人の新婚生活の話なんて聞いていると、結婚というものも他人事ではないのだと気づかされた。僕は今の彼女と結婚するんだろうか。

今もこの文章を書きながら、彼女に結婚したいかどうかなんて聞いている。逆に聞き返されて、やぶへび、だった。彼女と結婚の話をしながら、その結婚相手を明言しないのが可笑しい。お互いに避けているみたいだ。その理由がふらふらしている僕にあるのだから、なんとも決まりが悪い。

今週末に、友達の式に行く。そこで彼らをうらやましく思うんだろうか。そう思うなら、そこには何があるんだろう。

自分が持つ竿の先には、
か細い糸が繋がっていて、
その糸を水面に垂らし、
アタリを待つ。

釣り上げるものはなんだろうか。


最近の僕は、水面に釣り糸を垂らすことさえしていない。陸(おか)の上から水中には魚がいるのかどうかと訝しげに覗き込んでいるだけだ。さらに問題なのは、釣り糸を垂らすという行為自体が、どういったものなのかが解らないことだ。

チェコの作家、ミラン・クンデラの作品である。

この作品は以前から知っていて、いつか読もうと思っていた本だった。そのいつかは、僕とって、そのうちの“いつか”ではなく、特別な“いつか”だったのだ。

その本を知ったときに、内容もよく知らないのに、昔の僕はその哲学的で深遠な意味を持ちそうなタイトルに臆してしまった。その本を読む機会をてぐすねをひいて待つのではなく、読むためにはある種の知的体力を必要とするのだと身構えたのだ。その本は読む者に基本的な哲学や知的教養を要請するのである、といった風に。恥ずかしい話である。

機会(単に量販的古本屋で安くで売っていたという陳腐な!)があって、その本を読み始めた。知的劣等感は少なからずとも残っていたが、以前よりは僕の知性(!)も随分マシなものになっているであろうという無根拠な楽観的姿勢から、かのミラン・クンデラが解禁されたことは白状しておこう。

いざ読み始めてみると、恋愛小説であった。現在読中で、結論付けることは避けられなければならないが、いささか肩の力が抜けてしまった。蛇足ながら付け加えておくと、ものすごく面白い作品である。愛についての言及や男性性と女性性の著者の鋭い視線などは特筆すべきものである。もっと、若い頃に読んでおけば僕のバイブルになったであろう。

しかし、「ミラン・クンデラ」と「存在の耐えられない軽さ」は僕にとって何かシンボルのようなものであった。知的教養を身につけないと読みこなせない、現在と異なる位相にある書物であるはずだったのだ。そして、僕の知性は、テレザが田舎町で夢見たように、より高きに登るはずだった。この書はその期待に応えうるであろうか。

もちろん、どんな本もこの思いと遂げることができないことをわかっているつもりだ。ばかげたロマンスなのだろう。だが、ないとは知りながら(知性へと駆り立てるものが僕の知的好奇心によるものだと認識しつつも)、幻想的な夢をかなえる本を追い求めて、僕は本を読み続けるのだろう。

ミラン クンデラ, Milan Kundera, 千野 栄一
存在の耐えられない軽さ

車で帰宅途中に、ふと夜空を見上げたら、そこにはやけに大きく見える月がぽっかりと浮かんでいた。その時、はたと膝を打つように、何かがわかったような気がした。

人は何故星に祈るのか。ぽっかり、と形容される月は何を象徴しているのか。

人が蹉跌するとき、ふと見上げてしまうのは、夜空なのだ、と。

当てのない道を歩みながら、どうにもならない果てしない壁に眼前を塞がれ、進むべき方向にさえ迷ってしまった時にすることといえば、途方にくれて天を仰ぐだけだ。そしてその視線の先にあるものに何かを願わずに入られず、燦々と輝く夜空にぽっかりとあいた穴に、己を見出さずにはいられないのだろう。


そういったとき、星は普段見ているそれよりははるかに煌々と瞬き、月は“狂信的な”まで虚無へと誘うのだ。

星や月は、はるか昔から同じようにそこに在るだけなのに。

僕にはなりたいものがある。それなりにその方向へ進んでいるつもりである。でも、その先に在るものが夢かと問われた時に首を傾げながら、こう言うに違いない。

「たぶん、違う。」と。

自分がなりたいものになれなかったときの為に予防線を張っているわけではない。叶わないのは、努力と才能のどちらかが、もしくは、両方が足りなかっただけのことである。僕は、人が一生の目標とすべきものをこの時点で決定するのに違和感を覚えてしまうのだ。それを夢と呼んでよいものだろうか疑問である。その目標みたいなものを夢と呼んでしまうことは乱暴な気がする。

人によってその目標は違うのであり、また、年齢とともに変化していくものだろう。野球選手を夢見る少年もいれば、マイホーム購入を念願するサラリーマンもいるだろう。十人十色の目指すものを一括りに「夢」とやはり、強引である。

別にその夢みたいなものの尊卑を問いたいのではない。人が願う希望に優劣をつけるなど、おこがましいにもほどがある。そして、人が希望を持つことは誰にも止められない。

一言に「夢」と呼んでしまう弊害がある。それは実現可能性の有無やその大小で、その夢の価値が量られるからだ。実現可能性の低い「大きい夢」を見ることがよしとされている。そして、精神衛生がすこぶる良い人は言う。

“夢があるなら、それに向かって努力しなきゃ!”


別に人は夢を実現するためだけに生きているのではないし、夢に向かって努力しない人も僕は人間臭くて、好きだ。そして、叶わない人がほとんどの中で、叶わなかった世界の中で生きていくことの方が重要だろう?